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▲日帝強制占領期間の仏国寺(プルグクサ)の姿. [国家記録院提供=聯合ニュース資料写真]
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▲「日帝強制占領期、メディアの新羅像歪曲」288ページ.1万6千ウォン.

(ソウル=聯合ニュース)「慶北慶州は三南の有数な花柳郷として晋州に劣らない数のキーセン(妓生)がおり、油頭粉面(油をつけた頭とおしろいをつけた顔)の群れが至る所に散らばっている。」

日帝強制占領期間の1929年10月12日、ある日刊紙に載った記事を見れば慶州は「花柳郷」と描写されている。歴史遺跡が多い新羅の千年首都を料理屋とキーセンが多い土地と規定したのだ。10年後も「北方の平壌(ピョンヤン)と南方の慶州は歴史文化の発祥地として、色郷としても名高いところ」と表現の程度を高めた。

慶州は日帝の国権侵奪後、いつのまにかキーセン観光の中心地になった。韓国学中央研究員が出した「日帝強制占領期間、メディアの新羅像歪曲」はメディアで明らかになったこのような新羅のイメージ操作事例を集めた本だ。

1880年代末から解放前まで朝鮮総督府の官報や新聞、雑誌に掲載された記事を学者6人が分析した。カン・ヒジョン西江(ソガン)大教授は「新羅、慶州の神話歪曲像」という文で日帝が慶州を表現した矛盾した容貌を暴く。彼は日本人たちが慶州を寄生都市にする一方、意欲的に古蹟を強調して慶州を「朝鮮遺産の宝庫」と広報したと指摘する。

当時、新聞と雑誌が観光地を紹介するとき、慶州はを必ず行ってみるべき場所にもれなく挙げた。これに合わせて日帝は道路と鉄道をしいて宿泊施設を整備し、慶州を観光名所に育成した。カン教授は「日帝は新羅の首都、千年の古都・慶州という明白な事実を隠さなかったし、かえって誇張した」として「これは自分たちの政治功績を誇るための意図的操作だった」と批判する。

それと共に「慶州の市街を整備して遺跡を復元することにより、あたかも先進文明国の日本が野蛮の植民地朝鮮に恩恵を与えたように広報した」と強調する。カン教授は日帝の「慶州強調」の裏には、きらびやかな過去とみすぼらしい現実を対応させようとする下心が隠れていると指摘する。

彼は日帝が慶州の遺跡を強調したことについて「現実への自嘲と悔恨を呼び起こすためのもので、過去との格差を認識し、強制的に占領された現実を認め、安住させるための意図であった」と主張する。

日帝は新羅の場所だけでなく、新羅の人物や歴史の歪曲も試みた。キム・トグォン明智(ミョンジ)大学講師は日帝強制占領期間にメディアで「新羅の人物」を分析すると花郎道(ファランド)の戒律中でも「臨戦無退」を強調する傾向が唯一強く現れるが、これは天皇に対する「忠」を実現しようとする意味だったと批判する。

今回の研究の責任者であるキム・チャンギョム韓国学中央研究院首席研究員は「日帝は慶州から多くの文化財を収奪し、慶州駅周辺に日本風の建物を大々的に建設した」として「日帝強制占領期間に新羅の歴史文化が歪曲された過程を具体的に確認するためにはメディアを几帳面に見て回わらなければならない」と話す。

ソース:聯合ニュース(韓国語) 慶州がキーセン観光の都市?…日帝が歪曲した新羅イメージ
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