シモノセキ[下関]が韓国人に記憶される理由は恐らく下関条約のせいだろう。歴史の本で習ったがどういう内容なのかすら正確に記憶していない人も多いに違いない。下関を訪問することになった時、私が下関条約の締結場所を訪れたのは偶然ではなかった。条約締結場所を訪れた時の感慨は思ったより派手な空間ではなかったということだった。

長い歳月の流れとも関係なくはないだろう。日本の歴史でもしかしたらここが最も誇らしい空間ではないか?しかし、訪問者の多くが中国人と韓国人である点は歴史をもう一度考えさせられた。笑って写真を撮る姿はなぜかぎこちない。人々は何を考えていたのだろうか?とにかくそこで一番最初に私の目についたの日清戦争と日清講和記念館という単語だった。

日清戦争だと。その戦争の勝者は日本だった。それでも私たちはその戦争を清日戦争と記憶している。理由はすぐ見当がついた。日本が嫌いだからだ。他の理由として永く清国と親善関係を持っていたためであろう。考えてみれば露日戦争も私たちはロシアを前に置く。ロシアと長い間の親善があったかと思うといろいろ疑問を感じた。日本に対する感情がそのまま名前の順序になったのだろうという気がした。

下関条約の内容を見ると韓国人の感情を理解できた。条約の最初の内容は朝鮮の独立を保障しろ、ということであったから韓国人が下関条約を嫌う他はないという気がした。朝鮮の独立を保障するのに、どうして気分が悪いのか、誰でも分かるようにこの条約の文句はその後繰り広げられる現実とは全く違った。日本が朝鮮の独立を保障するふりをしながら実際には朝鮮を強制占領したので感情が良いはずがない。日本に下関条約は誇らしい歴史かもしれないが韓国には痛恨の歴史だ。亡国への入り口だった。

条約の他の内容では清国が遼東半島と台湾などを日本に割譲し、当時は途方もない金額の3億円の莫大な賠償金を与えるなど清には屈辱的な歴史の場面であった。条約と交渉には国家間の感情が入るはずだ。だからお互いの感情を察しなければ問題も発生する。中国人には清日戦争ほど恥辱的な戦争はなかったという気がした。とにかく韓国は相変らず清日戦争と呼んで、相変らず中国中心の観点を持つ。複雑な問題だ。

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▲日本、下関にある日清講和記念館.

清日、日清戦争はなぜ起きたのか?そこにはさらにみじめで恥ずかしい韓国の歴史が含まれている。腐敗した貪官汚吏に抵抗する農民が起こした東学革命に驚いた政府が清に援軍を要請し、これに天津条約を根拠に日本軍も参戦することになったのだ。革命勢力は外勢の優勢な火力に倒れて結局は敗退する。その後、韓半島の主導権をめぐり清と日本が戦争を起こす。引き続き、朝鮮の土地で両国は血戦を繰り広げ、ついに日本が勝利する。この戦争の結果が下関条約だ。

自国の歴史に外勢を引き込む場面に韓国人の怒りと哀しみが感じられる。自国の民衆が起こした革命を鎮圧して欲しいと外勢にお願いする為政者を持った悲しい民だ。徹底して官軍と日本軍に抹殺された東学農民らの悲しい怒りが感じられる。そのため、最後の戦闘があった牛禁峙峠の号泣は声がないと描写されたのだろう。

最近、あるテレビ放送で紹介された<歌を探す人々>の<この傘の下には>という歌はその場面を痛く証言している。<牛禁峙峠に流れた声なき号泣続いた>。下関に行ってきてこの歌がずっと口の中をぐるぐる回る。下関は韓国と日本そして中国が互いに違うように眺める歴史の空間だ。

チョ・ヒョンヨン(慶煕大教授、韓国語教育専攻)
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ソース:在外同胞新聞(韓国語) [韓国語で悟る]日清と清日の間
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