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郷里を訪れたことがない在日3世も増え、ましてや日本で生まれ育った2世以降の世代には、親睦会は自らのルーツを認識する場でしかない。

80年代後半に入るとカバンのメーカーは中国に発注するようになり、廃業する会員も増えていった。職業選択の幅が広がったことでカバン製造を継ぐ2、3世も減り、絶対的な「よりどころ」としての認識は薄くなった。

かつて盛んだった運動会も63年を最後に行われていない。成人式や還暦・古希祝いなどの行事も廃れ気味だ。

高内マダン求心力の軸

そこで2世たちが同郷人としての絆を深めようと、18年前からはじめたのが会員とその家族の交流を図る「高内マダン(バーベキュー大会)」だ。

運営隊として「高遊会(高内のみんなで楽しく遊ぶ会)」を発足させ、第1回は渡来人ゆかりの地でもある埼玉県の高麗川の河原で開催した。

以降、三河島地区周辺の公園や学校跡地で行ってきた。今も場所を舎人公園に移して続けており、今年は老若男女あわせて120人が集まり、準備した肉70`などを完食した。

また、会員たちに欠かせないのが焼き肉だけでなく、郷土料理の「ハンチ・ムルフェ(イカ刺しの冷やしスープ)」だ。この日も婦人会が調理した約100人前が瞬く間に完売となった。

10月15日には日暮里駅前のホテルで90周年記念祝賀会を開く。

今年1月に会長に就いた金さんは「重荷を背負ってしまったが、90周年という記念すべき年に経験できるのはとても光栄だし、一生忘れられない1年間になるだろう」と記念行事成功に向け目を輝かせている。

張英敏委員長はじめ、元会長の梁裕和さんや事務局の呉純吉さんら90周年記念行事実行委員の2世たちも「苦労を重ねて1世たちが築いてきた在日高内里人の歴史を次世代にいかに継承していくか。再出発のチャンスにしたい」と張り切っている。

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高内里と三河島

現在、荒川区の在日同胞(韓国・朝鮮籍)は約5500人。東京都内では足立区に次いで有数の在日居住区である。その大半は済州島出身だ。とくに三河島駅周辺に集中しており、多くが高内里出身者だ。

高内里親睦会の資料によると、高内里出身者がはじめて荒川区にやってきたのは100年前の1917年、呉斗萬という男であると記録に残っている。この後、呉さんの後を追うように高内里から続々と荒川区にやってくる。

呉さんは渡日後、軍需関係の仕事に携わったことで日本の当局に顔もきき、故郷、高内里の親族・友人たちに渡航証明書を発行させて呼び寄せたと言われている。

また、呉さんはやってきた高内里の人たちには知りあいになったカバン工場や靴工場の経営者に働き場所を紹介した。

1922年に済州島と大阪間の定期航路「君が代丸」が就航すると、済州島からの渡日はさらに増え続けた。1930年には高内里から大挙、二百数十人が荒川区に渡ってきた。

三河島の地場産業

三河島には1883年、日本家畜市場株式会社・笠原工場が最初に設立されると、翌年には大野製革工場、1890年には現在の尾久変電所付近に屠殺場、関連事業の皮革工場、肥料工場、油脂工場が作られ、のちにカバン製作を中心とした皮革業が地場産業として分散してきた。

また繊維街としても知られる同地域は1910年代、浅草方面で営業していた古繊維、栽落業者が、当時まだ閑散としていた日暮里、三河島周辺に集団移動した関係で布製品や皮革製品製造が盛んになった。

カバン工場には高内里の人、靴工場やゴム製品工場などには別の済州島の人を紹介するうち、技術を身につけ独立、自宅を兼ねた小さな工場を持つようになった。

後にこの町工場で働く同胞は、新たに独立するため当時、価格が安い土地や家屋を求めて西新井橋を渡り、足立区に移住していった。橋を渡った足立区の本木と関原地区に済州島出身同胞が多いのはそんな歴史からだ。

マジソンバブル

カバン製造業を多く営んでいた高内里同胞にとってのバブルは、60〜70年代に全国の中高生を中心に一世を風靡したスポーツバッグ「マジソンバッグ」だ。

カバンメーカーとして知られるエース社が1968年から10年間にわたって製造販売していたバッグで、中・高生たちの「ファッション品」とも言われ、2000万個という驚異的な売り上げを記録した大人気商品だった。

(続く)