(続き)

当然、在庫切れが続出。当時、エース社はマジソンバッグの意匠登録をしておらず、そこで他のメーカーもパチ物、バッタ物と呼ばれる類似品の製造販売を始めた。

当時の日本では、偽ブランド品を犯罪視するような商業倫理は製造者にも消費者にも希薄だった。「国産品」なら正規品に引けを取らない品質でもあり、売価が正規品の半額近い800〜1000円ほどのため、中高生が飛びついた。

製造技術に秀でていた荒川同胞のカバン工場は終夜作業でこのマジソンバッグを製造したという。

今もカバン工場を営む秦富澤さんもそのひとだ。

「あのときは、三河島中のミシンがフル稼働していた。近所から騒音のクレームも絶えなかった」と当時をふり返る。

現地より多い在日

1945年8月15日、祖国が解放された当時、荒川区居住の高内里同胞は約1000人いた。祖国解放と前後して郷里に戻った人もいたが、多くが荒川区に留まった。

大阪にも多くの済州道出身が住むが、日本への移住がピークを迎えたのは解放から3年後、48年の「済州島4・3蜂起事件」以降だ。

現在の高内里の人口を見ると548世帯1100人余り。渡日をしなかったとみられる60歳以上はわずか250人に過ぎず、ほとんどが日本に渡ったことがうかがえる。

副産物でホルモン

三河島駅の周辺には多くのホルモン焼き店や焼き肉店が並んでいる。かつて区内に屠殺場があったため、牛、豚、鳥などの肉を卸したあと排出される内臓をはじめ、尻尾や耳などは、当時の日本人にとっては不要物だったが、在日にとっては、思いもかけぬ貴重な食材となった。

これら副産物を部位ごとに上手に味付けして食べる術を知っていたのは在日だけだった。そのため三河島にはつぎつぎとホルモン焼き店や焼肉店が増え続けた。もちろん、この地域の店は肉だけでなく、メニューにはモングッ(ホンダワラのスープ)など済州島郷土料理もある。

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長年にわたる郷里への貢献に感謝して建立された「在日高内人恩恵不忘碑」の除幕式で記念撮影寄贈で完成した高内里の公会堂
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若者との絆を深める場になっているバーベキュー大会で。中央が金哲祥高内里親睦会会長
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高内里から望む高内峰

(おわり)