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 はじめは元馬賊が担い、事件当時はかつて満洲の事実上の支配者だった張学良の下で働いていた軍人たちが「保安隊」のメンバーになります。

保阪 張学良の軍隊は、満洲事変であっさりと日本軍に負けたために弱い軍隊というイメージがありますが、中国の軍隊の中では練度が高く統率も取れていたといわれていますよね。日本は顧問として日本の軍人を送り込むことで、保安隊をコントロールできる形にしていた。

広中 でも、考えてみれば当然ですが、彼らは満洲から自分たちを追い出した日本のことを恨んでいました。日本は反日感情を甘く見ていたのが最初の失敗でした。

 1935年になると通州に冀東防共自治政府が誕生しました。「民衆が国民党政府からの自治を望んだ」のが表向きの理由とされていますが、内実は中国から通州一帯を切り離そうとした日本の謀略。首班となった殷汝耕(いんじょこう)は日本に留学し親日派中国人として知られた人物で、日本人女性を妻にしていました。

保阪 当時の参謀本部内部の資料を読むと殷汝耕を使って、通州周辺部の支配体制を確立しようとする様が実に詳しく描かれています。冀東政権の主要な機関には日本人顧問が配されましたから、満洲国と同様に完全な傀儡政権となったのです。

 そして通州には日本の民間人が次々と入っていく。事件時は多くの日本人が生活していたようですね。

広中 通州市街の人口は5万人ほどで、事件のひと月前の統計によると、日本人151人、日本の植民地だった朝鮮人が181人の合計332人が暮らしていたようです。冀東政権の役人や警官だけでなく新聞記者や一般の会社員、日本人向けの商売をする人とその家族、女性や子供までが住んでいました。

 中にはアヘンの密売にかかわる怪しげな人物もいました。

共産党の工作だった!?

保阪 このような街で、なぜ事件は起きてしまったのか? 私は、通州事件の直前に起こった盧溝橋事件と地続きの関係にあると思っているんですよ。日中両軍が盧溝橋で衝突したのは1937年7月7日。通州事件の20日ほど前のことです。

 ちょうど北京を挟んで盧溝橋の反対側にある通州は後方となります。戦乱がなく、平和が保たれていました。

広中 そうなんです。多くの日本人が戦禍から逃れ、安全な通州にやってきていました。ところが、7月下旬になると通州の雰囲気は一変します。通州郊外にいた500名ほどの国民党軍の部隊が、日本側への寝返りを画策しているとの噂が流れたのです。

 日本側がその部隊の指揮官に真偽を問いただしたのですが、一向に埒が明かなかった。疑心暗鬼になった日本は、7月27日に彼らに空爆をしかけます。ところが、日本軍の飛行機は彼らだけでなく、寝返りとは一切関係がない保安隊幹部訓練所を攻撃、保安隊員10名を死傷させてしまうんです。

保阪 その点なんですが、これまでの通州事件を論じたものによると、この誤爆によってそれまで親日派だった保安隊が、一転して「日本憎し」に傾いたとされています。

広中 確かにこの誤爆によって、保安隊の中から公然と日本への批判が巻き起こりました。しかし、先ほどもお話ししたように、保安隊はそもそも日本を快く思っていなかった。そこに誤爆事件が起こってさらに反日感情に火をつけたというのが、実際のところでしょうね。

保阪 それと同時に保安隊には国民党、共産党を問わず中国側から、日本を裏切るようにとアプローチが繰り返されていたようです。この件に関して、中国側の資料を見つけたそうですね?

広中 通州の東にある唐山地区の共産党の委員会が戦後に発行した内部資料を調べたところ、その辺りの情報が記されていました。

 のちに国家主席になる劉少奇は、工作員を密かに通州に潜入させ保安隊の指導者、張慶余(ちょうけいよ)に接触し「抗日救国の大義を理解させた」と書かれているのです。共産党が公式に反乱を起こさせたことを認めているわけです。

保阪 私も思い出しましたよ。1982年になって張慶余の回顧録「冀東保安隊通県反正始末記」が発表され、日本でも話題になったんです。その中で、張は愛国心から反乱を起こしたと主張しています。

 共産党が自己宣伝のために話を膨らませていることが考えられますから、割引は必要でしょうが、保安隊が「抗日」運動に傾いていたことがわかる証言です。

(続く)