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1947年、反発した市民と当局による大規模な衝突「二・二八事件」に発展し、当局による武力鎮圧が行われた。その後49年〜87年の間、戒厳令が敷かれた。

長年に渡り台湾の音楽産業を牽引(けんいん)し、「台湾ロックの父」と呼ばれる倪重華さんは56年、台北市で生まれた。戦後の台湾は米国の軍事、経済的支援を受けていたため音楽を含む文化においても米国の影響を受け、倪さんは「子供のころから西洋音楽を聴くのが好きだった」という。

一方で、主に60年代以降の台湾では「日本の歌が数多く台湾語の歌に翻訳され、その数は500曲を超えていただろう」と話す。

「日本語で育った世代の人の中には日本のメロディーを懐かしいと感じる人たちがいた。ただ政府は、特に72年に日本と台湾が断交してからは日本の音楽や映画を厳しく禁止するようになった。このため、歌の『翻訳』が盛んに行われていた」。

三橋美智也の「赤い夕陽の故郷」、橋幸夫の「雨の中の二人」、千昌夫の「北国の春」などのヒットソングが台湾語の歌となり、今でも台湾を訪れると耳にすることがある。

80年代になると、「台湾新ポップス時代」(倪さん)が訪れた。それは日本のアイドル黄金期の影響を少なからず受けていたといい、

「当時、日本では男性アイドルグループ『少年隊』が人気を集めていましたが、断交後だったのでそのまま台湾に持ち込むことができない。そこで、『少年隊』をイメージした『小虎隊』というグループが台湾で誕生し、人気を集めました」。

倪さん自身は80年から4年間、「大阪写真専門学校」(現ビジュアルアーツ専門学校)へ留学し、映像技術を学んだ。台湾へ戻ると、当時の台湾にとって革新的なバラエティー番組や音楽番組の立ち上げに関わり、レコード会社を設立。伍佰さんや林強さんなど、現在も活躍するアーティストを次々と発掘していった。

台湾では87年、世界最長の戒厳令が解除される。間もなく倪さんのレコード会社から発売された林強さんの曲は、夢を抱いて地方から台北に上京する青年を描いたもので、聴く人に台湾の未来への希望を感じさせた。

台湾語の歌にロックな息吹を吹き込んだものでもあったため、「台湾語の歌の伝統だった哀愁路線を打ち破った」との評価も受けた。今年は、戒厳令が解かれてから30年の節目の年にあたる。

倪さんが留学した当時、台湾で海外留学の主流は米国だった。だが倪さんは、

「『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の時代の日本で、日本や世界のことを多く学べた。私の興味は京都の祇園祭など日本の伝統文化というより、『コム デ ギャルソン』など先端の文化で、私に与えた影響はとても大きい。私の選択は正しかったと、今でも感じている」。

■交流進む現代、音楽への思いを共有し新たな発展へ

今年で4回目の開催となった「台ワンダフル」は、台湾を代表する世界的ロックバンド「CHTHONIC(ソニック)」のボーカル、林昶左(りん・ちょうさ)さんの「台湾の若い音楽と文化をもっと日本の人たちに知ってもらいたい」との思いに、

台湾政府や日本の総合音楽エンタテインメント企業のスペースシャワーネットワークが賛同して始まった。

「カルチャーの部」では台湾グッズやグルメが販売され、「ミュージックの部」では台湾の人気アーティストによるライブなどが行われた。出演したアーティストの陳恵●(=女へんに亭)(ちん・けいてい)さんや鼓鼓(グーグー)さんは曲の合間に日本語を織り交ぜたトークを披露し、日台双方のファンを盛り上げた。

開催に先立って行われた記者会見に出席した、同イベント顧問で「ソニック」リーダーの葉湘怡(よう・しょうい)さんは

「日本の『サマーソニック』や「フジロックフェスティバル」など大型の音楽フェスティバルに出演した台湾アーティストは20組に達し、反響も大きい。日本のアーティストと共演したアルバム製作も行ってきた。今後、日本のドラマや映画とのタイアップなど、範囲を広げていきたい」と述べた。

日本側の動きも活発で、両者の交流が進んでいる。今年6月、台北市内で開催された台湾最大となる音楽の祭典「第28回ゴールデン・メロディー・アワード(金曲奬)」には、日本を代表するロックバンド「GLAY」が招かれ、台湾を代表するロックバンド「Mayday」のギタリストとの共演を披露して会場を沸かせた。

(続く)