>>1の続き)

「あんなことはもうやめないといけませんよ。自分の娘を使っての自作自演なんです。娘の親は総連で私の隣にいた男です。北で何かあると、その男の娘らの服が切られる。
朝日にしか載らないが、書いている記者も私は知っている。ゆうべ友人に電話しました。『娘さんがかわいそうだ』と。彼は『やめる』と約束しました。会いますか?」

「いや、結構です」と即答した。掲載をめぐって衝突すれば社を辞めることになるのも見えている。動悸(どうき)は続いたが、悲しすぎる素材で、書かないことに対する自分の中での抵抗は幸い薄かった。それから20余年。

その間、日朝の間には拉致という途方もない事件が明るみに出たが、朝鮮学校女生徒の制服が切られるという記事は見ずに済んでいる。

1970年代の後半、月刊誌の「文藝春秋」などで関嘉彦・都立大学(現・首都大学東京)名誉教授と激しい防衛論争を闘わせ話題を呼んだ森嶋通夫ロンドン大学教授には、氏の本音の防衛観を訊いてみるべきだった。

国際状況の変化を説いて、防衛力の増強を唱道する関氏に対し、森嶋氏は「ソ連が攻めてきたら、白旗と赤旗を掲げて降伏したらいい」と、平和の絶対と非武装を頑として譲らなかった。森嶋氏の割切りと舌鋒(ぜっぽう)で、論争は盛り上がり、1979年の「文藝春秋読者賞」に選ばれた。

その森嶋氏が一時帰国の合間に来社し講演した。90年前後だったと思う。森嶋氏はアメリカの好戦性を力説した。必ず中国を侵略するという。「その時は、われわれも、銃を執り、中国人民とともに、闘うのです!」。それは絶叫とも言える咆哮(ほうこう)だった。

200人を超す社員が聴いていたが、私だけでなく、誰からも質問は出なかった。関・森嶋論争に固唾(かたず)を飲んだ読書人のためにも、森嶋氏に「週刊朝日」や「月刊Asahi」への寄稿を願い出るべきだったと今も悔やんでいる。

先輩の好記事に違和感

初任地の富山で、3年生記者の先輩と五箇山に路線バスの開通を取材に行った話は、拙著(『ブンヤ暮らし三十六年 回想の朝日新聞』)に書いた。この先輩との出会いが新聞というものを考えるきっかけになった。

今や世界遺産の秘境・五箇山だが、バス路線の誕生は私が富山に赴いた71年春だった。簡易舗装を終えた山道を縫い、たどりついた平村(当時。今は南砺市の一部)の村舎前広場は1号バスがいつ姿を現わすかと待つ老若男女の村人で沸き立っていた。

が、先輩記者は広場でその名を聞き出した元高校教師の家にすぐ向かった。

元教師は幸い在宅で、先輩は元教師に山道の舗装やバスの開通が何百年と続いた集落の崩壊をもたらさないかと尋ねた。元教師は「まったく同じことを考えていた」と言い、自らの懸念を語った。

翌朝、富山版に載った先輩の記事は異彩を放ち、他紙の記者を悔しがらせた。低開発国援助が住民の自立を妨げているとは時に指摘されることで、先輩の記事は一理あった。

ただ私には、あんなに喜んでいた村人の姿が記事には薄いことに違和感があった。文化大革命で沸き立つ中国で、“声なき声”を拾うのとは違う気がした。

その先輩が数年後退社した。拙著では組合をめぐるごたごたが原因のように書いた。拙著を読んだ先輩から私信があった。退社は別の理由と記され、医学雑誌でその理由を述べた1文が付されていた(彼は医者になった)。

そこには、在社中(朝日新聞綱領の「不偏不党」「公正中正」に制約され)常に物事のアウトサイダーでいなければならなかったことの苦悩が綴られ、生涯を捧げるに値しないとの結論に至った旨、記されていた。

彼の退社理由を初めて知り、私は40数年前に読んだ『新聞亡国論』(自由選書)のなかの1章を突然思い出した。

「週刊朝日」を100万部雑誌にした扇谷正造さんが、或る新聞社の北陸地方の支局で起きた出来事を記すなかで、“若い記者たちが物事の第三者でいることに疑問を持ち始めている、それには理もある”といったことを確かお書きだった。探すと、〈新聞記事以前の問題〉という題で載っていた。

北陸での出来事はこんな話である。或る新聞社の北陸の支局で、1年生記者が「あした代休を取りたい」と支局長に言い、認められた。

その翌日、大学構内でゲバ合戦が起きているとの通報に、支局員が駆けつけると、何と、覆面学生の先頭にいるのが代休で休んだ1年生記者だった。支局員たちは合間を見て後輩を隊列から引き出し、支局に連れ帰った。支局長が「綱領違反だ」と叱ると、新人は答えた。「ああ、あんなのナンセンス」

もしやこの新人が先輩の彼ではないかと思ったのである。思い切って電話した。

(続く)