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つづき

朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、
いわゆる疑心暗鬼を生じまして一日夜ごろから朝鮮人が不逞の計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、
中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し
2、3時間後には何れも確証なしと報告しましたが、2日午後2時ごろ富坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告が
ありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え直ちに同署へ赴きました。
当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。
私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が
神奈川県川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は
物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。
(中略)
しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろに至って
その来襲は虚報なることが判明いたしました。この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、
要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のため、
通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。

                        正力松太郎「米騒動や大震災の思い出」読売新聞社1944年2月