「歴史的事実を忘れずに伝えることは、無念のうちに犠牲になった524人の朝鮮人に対する日本人の責任です」

8月24日、京都府北部の舞鶴市で開かれた「浮島丸犠牲者追悼行事」に出席した余江勝彦・追悼会長(76)が、震える声で語った。余江さんは40年にわたり、浮島丸沈没事件の朝鮮人犠牲者を追悼する行事を開いている。

敗戦直後の1945年8月21日午後10時、青森の大湊港で、朝鮮人徴用工やその家族など3735人(日本政府発表)が旧海軍の輸送船・浮島丸(4740トン)に乗り込んだ。戦時中の非人間的な生活から抜け出して夢に描いた故郷へ戻る、釜山行きの帰国船だった。

しかし3日後の8月24日午後5時20分、舞鶴沖を航行していた浮島丸で謎の爆発が発生した。船は一瞬で中央部から真っ二つになり、海中へと姿を消した。近くの村の人々が救助作業を行ったにもかかわらず、524人の朝鮮人と25人の日本人乗組員が命を落とした。舞鶴に暮らす82歳の住民は「船から出た油が海を黒く覆い、住民はエンジンもかからない船に乗って、夜更けまで人を助けた」と語った。

余江会長は78年、浮島丸の沈んだ海が見える場所に朝鮮人犠牲者を追悼する銅像を建て、毎年追悼行事を開いている。大学で彫刻を専攻し、舞鶴市で美術教師をしてきた余江さんは「朝鮮人犠牲者を悼む銅像を作ってほしい」という村の人々の頼みを聞き、銅像を作った。

余江さんは「最初は、浮島丸事件については知らなかった。銅像作りのため資料調査をする中で、無念のうちに死んでいった朝鮮人に申し訳ないという気持ちを抱いた」と語った。

余江さんは「戦争でさえなかったなら、植民地支配や強制連行さえなかったなら、こんな悲惨な事件は起きなかっただろう。浮島丸事件がこのまま忘れられてはならないという思いにとらわれた」と語った。

余江会長は「追悼行事は、思想・信条・宗教の違いを乗り越え、人道的観点から犠牲者を悼むために開いている。普段は対立している民団と総連も、この日は心を一つにする」と語った。

15年前に退職してからは、日本の各地を回り、浮島丸沈没事件について講演を行っている。朝鮮人徴用工が日本に連れてこられて直面した苦難や、無念のうちに死んでいったことなどを盛り込んだ小さな絵本も作った。余江会長は「日本の人はもちろん、韓国の人も浮島丸事件についてよく知らない。痛ましい歴史を繰り返さないためには、われわれみんなが歴史の真実を知るべき」と語った。

舞鶴=イ・ドンフィ特派員

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