◇吉村昭「関東大震災」を読み返す

関東大震災から94年の今年、東京都の小池百合子知事は慣例だった朝鮮人虐殺事件被害者への追悼文送付を取りやめ、事件があったかどうかについて「さまざまな見方がある。歴史家がひもとくもの」と語った。

さっそくネット上では小池氏を支持し、虐殺はなかったとする声も上がる。消されかねない史実に向き合った作家、吉村昭の「関東大震災」を改めて読み返した。【中村かさね】

黄ばんだA4判大学ノートが細かい字で埋まっている。<荷物が道をふさいだ>。作品の一節と思われる表現もある。東京都荒川区の吉村昭記念文学館に展示されている「関東大震災」の取材ノートだ。愛用のブルーブラックの万年筆で証言者の住所や電話番号まで書き込んでいる。

作品は発生50年の1973年刊。小説だが感情を排した冷徹な筆致に貫かれ、生存者の証言や手記、警視庁など膨大な当局の記録に基づいて事態を克明、正確に記述する。菊池寛賞を受けた。

編集者として付き合った作家の森史朗さんは「彼が雑誌の連載テーマに悩んでいた時、関東大震災はどうかと私が提案した。骨の折れるテーマだが『それはいい』と二つ返事で引き受けた」と明かす。森さんは連載を読んで仰天した。「ものすごい取材で事実の迫力に圧倒されました」

吉村は震災に続く「第二の悲劇」として虐殺事件の記述に力を入れ、初版本約240ページの4分の1以上を割いた。

震災翌日に広まった朝鮮人に関する流言を時系列に列挙し、<流言は流言と合流し、さらに恐怖におののく庶民の臆測によって変形し巨大な歯車のように各町々を廻転(かいてん)していった>とする。

「井戸に毒薬を投じた」「婦女を殺した」などのデマが猛烈な勢いで広がって計1145の自警団ができ、人々は日本刀や銃器を手に朝鮮人を見つけると次々に殺害。朝鮮人と間違われた日本人も多数襲われ、夜に月の光を浴びた樹木にも引き金が引かれた。

吉村は、軍や警察などが当初デマを信じたことが事件を拡大させたと分析。テレビやラジオがない時代に唯一の情報源だった新聞が流言を事実と報じたことも、虐殺に手を貸したと静かに糾弾する。そこには毎日新聞の前身「東京日日新聞」も含まれていた。

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実は、保守系とされる育鵬社の歴史教科書も事件に触れている。それをなかったとする言説がいま、ネット空間にあふれている。

在日コリアン差別を追うジャーナリストの安田浩一さんは「朝鮮人虐殺は大規模なヘイトクライムだった。そこに向き合わないと今のヘイトスピーチを許すことになる。実際、虐殺を否定する主張はヘイトに加わる層と重なる」と見る。

小池氏が「朝鮮人殺害」などと一度も口にせず、被害者を震災犠牲者と一緒くたにすることに対し「歴史修正主義の流れに乗ってヘイトにお墨付きを与えるに等しい」と批判する。

吉村昭の妻で作家の津村節子さんは「歴史を都合よく解釈する人もいるが事実は事実。彼は余白を空想で埋めるということをしなかったので、書いた内容を絶対に信用しているのです」と話す。

吉村にはこんな逸話もある。幕末の生麦事件で薩摩藩士が馬上の英国人の脇腹や肩を切りつけたとする通説に疑問を抱き、わずか数行のために剣術家を鹿児島に訪ね実演を見て確かめたという。「特定の歴史観や政治思想を持たず『政治と宗教に関わるな』と嫌っていた」(津村さん)。

記念文学館に吉村の自筆メモが展示されていた。「史実に忠実…私のゆるぎない姿勢」

◇吉村昭(よしむら・あきら)

1927年東京生まれ。幼いころから肺が弱く、死を身近に感じていたといい、初期には生と死を扱った作品が多い。66年「星への旅」で太宰治賞、73年に「戦艦武蔵」「関東大震災」などで菊池寛賞を受賞。代表作に「三陸海岸大津波」「破獄」など。2006年に79歳で死去。

https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20170907k0000m040152000c.html

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