米の伝来は支那南部から日本へ来たものであることを説明したが伊勢神宮にはこれを裏付けるような伝承がある。

「米は斉の御田から天照大神が持ってきた」(斉は現在の中国山東省)というもので、現在の学界では日本の米は支那の山東省付近という説がもっとも有力だ。

また、同地域にも一部部族が日本へ渡ったとする伝承がありこれを裏付けている。


さらに台湾の学者が鵜飼に着目した研究をしているのだが、これも日本への米の伝来が支那からであることを裏付けている。

鵜飼の風習は支那の楚の国(現在の湖南省と湖北省とその周辺)とその稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省など中国南方の地方によく見られる。日本でも普通に見られる。

ところがこの鵜飼は朝鮮半島では古来まったく見られない。

台湾や琉球文化圏でも鵜飼の習慣はない。
このことは最初に米を日本へ持ってきたのが、支那南部の楚に起源を持つ人たちで経由なしで直接日本に伝来させたことを裏付けている。

その人達が伝えた鵜飼が日本に広まったということだ。

なお、日本の品種改良技術は奈良〜鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。

日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、

植物防疫、施肥法の伝授によるものだ。単位収量の増加は挑戦における生活の安定をもたらし、

食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。

栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。

支那も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える。