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▲日本は真珠湾を45分間空襲した。写真は映画「パールハーバー」の一場面.

「そうしなければならなかったのか?」1945年9月2日、米国戦艦ミズーリ号船上に降参しに来た日本代表団をむかえた米国人らの心情だったろう。ささいな知識はオランダからきたが、日本近代化の本当の後見人は米国だった。ツバメの子のように口を開いて西洋文物を受け入れ、勤勉なうえに清々しかった。この勤勉さを米国は自分たちの清教徒(ピューリタン)精神と理解した。1910年まで米国と日本は師匠と弟子を越えてほとんど親子関係だった。ところが、その子が、ある日突然、自身の首に刀を突きつけ、結局、両親に愛のない原子爆弾のむちで打たれてひざまづいたのだ。もちろん兆候はあった。

現代史をややこしくした三つの勘違いがある。英国総理チェンバレンはただ自分だけがヒトラーを説得できると信じた。フランクリン・ルーズベルトはスターリンと腹を割って話すことができると考えた。このためマッカーサーはルーズベルトを共産主義者と確信して死ぬ時まで軽べつした。これに先立ってセオドア・ルーズベルトは日本の朝鮮併合野心に目をつぶり、露日戦争では審判を自任して日本の手をあげた。

そうではなかった。近代化の優等生で自身の後継者と感じた日本が分かってみれば不良学生に劣等感調節障害患者だったのだ。日本が本格的に事を起こして米国の幻想を破ったのが満州事変である。

米国が露日戦争に割り込まなかったら日本の侵略DNAがそのように楽しく燃え上がりはしなかっただろう。「露日戦争で勝利した日本」という表現を慣習的に使うが、それはロシアの戦争スタイルを知らずに言っている。ナポレオン戦争後、ロシアは敵の兵站線を限りなく伸ばして寒くて空腹にさせた後、すっかり焼き殺すのが基本戦略だ。放っておけば、日本軍は激しい寒風の吹く黒竜江あたりで壊滅しただろう。
(中略:真珠湾攻撃とマイケル・ベイ監督の映画「パールハーバー」)

アジア占領地で日本軍は不良学生の面目を遺憾なく発揮する。女性に対する無断身体接触はほとんど趣味で、ただ、ヨーロッパ女性は例外であり、これに違反すれば苛酷な処罰を受けた。自分たちも文明世界の一員ということを見せたかったからだ。あぁ、この止められない劣等感。

日本本土上陸シミュレーションから出された米軍被害は少なくて50万、多くて100万だった。結局、米国は原子爆弾を選択する。広島に続く第二次標的は本来長崎ではなく小倉だった。当時、肉眼で目標物を確認して投下する水準だった原子爆弾、小倉上空に雲が多く、清明な長崎が青天の霹靂をむかえたので、住民たちは天気が恨めし〜。

降参文書に署名したのは日王でなく陸軍参謀総長と外務大臣だ。「親分」の代わりに下のものなどが署名するこの様なあきれる降参式が世の中にあるのかと思う。代わりにヒロヒト日王は8月15日対国民放送をしたが、これがとんでもなく笑わせる。他国の主権を侵奪し領土拡張を企てたことは自分の意向ではなかった、ととぼけた後、敵は新しく残虐な爆弾を使って頻繁に罪のない民を殺傷しているとし、(オルシグ!(訳注:韓国語のはやし言葉))人々を戸惑わさせる。「敗戦」や「降参」という単語は最初からない。

ただし戦闘が日本に不利で米・英・ソ・中4国に対し、その共同宣言を受諾すると話しているだけだ。そして臣民らには「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶよう要請」といいながら演説終わり!今もたびたび厚かましいことを言う日本が一つも変ではない理由だ。

ナム・ジョンウク作家
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ソース:朝鮮日報(韓国語) [ナム・ジョンウクの映画&歴史]降参を「受諾」あるヒロヒト日王の遺体離脱話法
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2017/10/11/2017101103162.html