占領期の京都で米軍事故や事件多発 史料調査で判明

「戦争の本質は占領期も合わせて考えるべきです」。1945(昭和20)年夏、日本はポツダム宣言を受諾。その後7年間にわたり米国を中心とした連合国軍の占領下に置かれた。京都文教大元教授の西川祐子さん(79)は、生活史の視点から京都の占領期研究を続け、集大成の新著「古都の占領」を出した。占領期にもあらゆる形で「暴力」が通底した実態を見逃してはならないという。

≪中略≫

■集団暴行で死亡例「氷山の一角」

先の府文書には被害者側の生の声が多く含まれる。祇園一帯では米兵の飲酒事故を訴える証言が多い。幼児が親兄弟の後を追って道に出た途端ひかれた事故もあった。大抵はひき逃げ。犯人の特定は難しかった。西川さんは「無線連絡を受けた白いジープのMP(米軍憲兵)が府警より早く事故現場を片付け、公にならない仕組みができていた。でも、口コミで広がり、祇園の石段にジープが駆け上がったという話が今も語られる」。

府文書によると暴行や傷害事件も頻発した。伏見区深草では45年12月、23歳の男性会社員が帰宅中に多数の刺し傷を受け、3日後死亡した。男性は死の床で「進駐軍」「2人」「つけやがった」と口にしたという。また、現場の畑に極めて大きな靴跡が散乱していたのを男性の兄が目撃。診察医も「見たことのない傷で、外国人の仕業と想像できる」と記す。しかし犯人が捕まることはなかった。相楽郡でも米兵による集団暴行で住民が死亡したという。

占領期は被害者側が占領軍や将兵に賠償を求めることはできなかった。日本政府は終戦処理費から見舞金を支給したが、被害者側が警察の証明などをそろえ申請する必要があった。在日コリアンらは門前払い。壁は高かった。府庁文書に残る被害数(428件)は「氷山の一角にすぎない」(西川さん)。

数百人規模の集団申請もあった。45年秋には日本軍の武装解除のために爆弾を爆破処理中、舞鶴で作業員33人が死亡したり、周囲の民家が破損したりする被害が相次いだ。朝鮮戦争直前には、米軍の演習のため茶園や畑が踏み荒らされたとして城陽の農家団体が訴え出ている。

日常の暮らしの中でも占領軍は諜報(ちょうほう)網を張り巡らせた。朝鮮戦争反対のチラシを電柱に張っただけで後日、英文の逮捕状を持った警官が来たという証言もある。「米兵がガムを配るなどソフトに装っても、占領の本質には暴力や不当な抑圧がある」(西川さん)。52年のサンフランシスコ講和条約発効までは、あくまで休戦期。武力による占領は続いた。

ソース:京都新聞 2017年10月12日 17時00分
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20171012000095
占領軍が起こした交通事故を西川さんが緑の点で書き込んだ。東大路通や烏丸通で事故が多い=「古都の占領」より
http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2017/10/20171012130451map450.jpg