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マニラ戦の無差別虐殺
マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた日米両軍による市街戦である
次のように日米の「マニラ戦」市街地戦に関して、描かれている
この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった
日米両軍の戦闘行為、特に米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、フィリピンにおいてこのマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた日本軍の数多くの残虐行為である
キリスト教の聖職者を含めアメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシア、ドイツ、イタリアなどの市民、
そしてフィリピン市民が組織的意図的に虐殺される事件がマニラ市内の各所で頻発した
男たちだけでなく女性や子ども、老人も対象にされる無差別の殺害であり、
日本軍による占領時期に関してフィリピンで刊行されている文献、回想録では、必ずと言ってよいほど言及されている
こうした歴史的事実とその経験の継承は、フィリピン社会の対日観に大きな影響を及ぼしている
2月7日または8日にフィリピン人を集めて殺害するようにとの命令が、中部隊の海軍第2大隊から出されていた(林博史氏文献より)
「対日観に大きな影響を及ぼしている
旧帝国の皇軍派遣部隊は、負けかかると、どうやら気が狂った作戦に出るようである
いや、これ作戦じゃないですね
軟弱な自暴自棄の山賊でしょうね
「東洋平和」、「大東亜共栄圏」と国の中枢部が平和を掲げて、南方へ押し出したのは、実は、振り返れば殺戮のためだったとしか言いようが無い
相当に、フィリピンや当時在住の諸外国人にご迷惑をおかけしたのだ・・と
●ベィビューホテル事件

ところが、上記の1945年当時の米軍進攻による市街戦のさ中、富裕層居住地域だったエルミタ地区では、400人ものさまざまな国籍の女性たちが連行監禁され、
皇軍兵士により次々と強姦された「ベイビューホテル・集団強姦事件」が起きていた
ベィビューホテルの皇軍兵士によるフィリピン人他の女性に対する大量強姦の直接的な把握を試みているものは、
林さんはこの中で、得られるエビデンスに限りがあると述べている

<参考>マニラ戦とベイビューホテル事件 林 博史
この記述によると、
エルミタ地区周辺では、海軍第2大隊(大隊長稲政博海軍大尉、第4から第6中隊)、後に、第5大隊(大隊長木下進大尉)、エルミタの東側のパコ地区に海軍第1大隊(大隊長清水常吉大尉、第1から第3中隊)が配備されそうです
余りにも多いので、ごく一部を抜き出してみますが、次の記述は、生々しい
(前略)
その妹の15歳のフィリピン人少女も(1-17)、部屋から日本兵に連れ出されそうになったとき抵抗すると何度も蹴り殴られ、 2階上のアルハンブラ通りに面した部屋に連れて行かれた
その日本兵は、彼女を窓のそばにつれていき「川の向こう側にはたくさんのアメリカ兵がいる、われわれはまもなく死ぬので、二人ともかれらを見ることはないだろう」と言って、それからピストルで脅して彼女を強かんした。
その日本兵からは「おまえはアメリカ人の赤ん坊ではなく、日本人の赤ん坊を生むだろう」とも言われたという。
部屋に戻されてからも、さらに3回連行されて同じような目にあった
その中の一人の日本兵は、日の丸を描いたタオルを頭にまいていたという
(後略)