長州、長府藩士家乃木氏[編集]

山名氏や京極氏などの被官となり、但馬国や畿内などに分散していった一族のうち江戸時代に毛利家に仕えた乃木氏がある。
『乃木大将事跡』ではこの家は畠山政長の家臣で明応の政変(1493年)で討ち死にした源次左衛門清高の妻で当時妊娠していた粟津氏が但馬国乃木谷に逃れて遺児、秋綱を生み、
秋綱が乃木氏を称したとする。その後同家は美濃国の土岐氏、斉藤氏、古田兵部、長門国長府藩祖毛利秀元などを転々とした末に乃木傳庵が長府藩に藩医としてに仕えて以降、代々長府藩士となる。

この家より出た、母の縁で玉木姓に改称した玉木春政を祖先とする玉木家と乃木希和を祖とする乃木家が長州藩に仕官する。

これらの末裔が明治時代の陸軍軍人・乃木希典や玉木文之進が連なる。希典は祖先に対する尊崇の念が強く、全国各地で高綱流の調査・顕彰に努め、殉死前には、
同家の系図を佐々木氏の氏神である沙沙貴神社に奉納している。また、甥にあたる玉木正之も乃木・玉木両家の系図を詳細に整備している。


チョンの珍説は本人も意にかえさずw