陽暦1月1日新正(元旦)を正月に定めて旧暦の正月を祝えないように強要したのは日帝だった。新正と旧正月を同時に祝うことを「二重過歳(年越し)」、「弊風」、「悪習」、「陰暦は迷信」と追い詰めたのも日帝であった。1896年、親日キム・ホンジプ(金弘集)内閣が陰暦を廃止した後、日帝強制占領期間に入って陽暦の使用を促進しようと旧正月抹殺に出たのだ。換言すれば陽暦の正月を祝うことは日帝残滓なわけだ。

旧暦の正月を追い出して陽暦の正月を強制的に祝うようにしようと日帝はいくつかの卑怯な政策を施行した。旧暦の正月を公休日に定めないのはもちろん、旧正月に官庁や学校で早退したり遅く出勤・登校することを禁止した。また、地域別に附逆や清掃活動をさせて旧正月を祝うことを邪魔した(1938年1月29日付東亜日報)。また、一線の公務員や警察を動員して茶礼(陰暦の元旦等に行う祭祀)を行えないように組織的に妨害した。

正月を控えて牛の屠殺を禁止したり餅屋と肉屋の営業をできないようにもした。一例で1940年、旧正月に全北任実郡屯南面村役場の職員らは旧暦正月を控えて各戸を訪れ歩いてモチを作れないようにし、モチを作って入れば奪って洞庁で人々が分け合って食べたという報道がある(1940年2月8日付同新聞)。

旧正月を祝えないようにして陽暦の正月を祝うことを促す政策は光復後も続いた。新生には何日も連休を与えて通行禁止を解除したし、電気も切れることなく提供して徹夜放送もした。正月賞与金は旧正月には与えず新生に与えるように強制したこともあった。しかし、旧正月には日帝強制占期と同様、官庁は正常勤務をさせ、学校も正規授業をした(1960年1月16日付同新聞)。

しかしいくら「旧正月抹殺」政策を実施しても数千年間の伝統をなくすことはできなかった。新生は「日本の正月」という認識もあって国民の抵抗感がさらに強かった。国民は新生には何の関心もなかったし旧正月にはどのようにしてでも正月の晴れ着を着飾って茶礼を行った。駅やバスターミナルは帰省客で混みあった。旧正月を正月と認定し公休日に指定しようという世論は弱くならなかったが政府は決断を下すことができなかった。

旧正月が公休日と指定されたのは陽暦を導入してほとんど100年ぶりの1985年だった。それも二重過歳に反対する政府の体面を守るために正月と堂々と認めず、「民俗の日」という名前を付けた「半分の正月」だった。旧正月が「正月」として完全に復権したのはノ・テウ政権が執権した後の1989年のことだ。

ソン・ソンジン論説主幹

ソース:ソウル新聞(韓国語) [その時の社会面]ごり押し正月、新訂
http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20180101026003