>『明実録』(永楽7年2月)に記載されている例では、 明の黄儼が勅使として朝鮮へ派遣され、直接美女を選んだとされている。
このことに恐れおののいた朝鮮政府は、あわてて全国で結婚を禁止し、13〜25歳までの処女を各地から数回にわたって集めた。
元宗十五年三月、元使が高麗を訪れて 「南宋襄陽府の軍人が妻を求めているので、
国中で結婚が禁止し、 夫のない婦女を献上するように」 (『高麗史』)
さらに 高麗に駐在する元の役人もまた良家の婦女を求め、美女を選んで強制的に結婚した。
>忠烈王二年閏三月、元使が高麗に至り、 帰附軍のため妻を献上するよう求めた。
高麗王は、何も言わなかった (『高麗史提綱』)。
>忠烈王元年冬(一二七五)十月、 処女を元に献上する時期が近づいていたので、
国中で結婚が禁止された (『高麗史』)。 >永楽帝―中華「世界システム」への夢
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永楽帝は父朱元璋と同様,多くの女性を後宮に集めることに,並々ならぬ熱 意を示した。
特に朝鮮に対しては,永楽六年以来,たびたび美女の献上を 命じており,
朝鮮王朝はそのたびに屈辱的な思いを味わった。
永楽六年な どは,わざわざ婚姻を禁止して選抜を行ったが明側も使者の宦官の意に沿わず 、
あらためて美女の選抜をやりなおしたほどだ。
彼女たちが中国に向かう日,二度と会えぬ子を思う両親や一族の哭き声が,
いつまでも道にあふ れていたという。 >翌年の忠烈王元年、
元は高麗へ南宋の降人部隊「蛮子軍」1400人を派遣し、駐屯させた。
高麗政府は、軍人たちを慰めるため再び 「寡婦処女推考別監」を設け、
各地へ役人を派遣し婦女を推考選別したのだった。 しかし、 中華帝国の朝廷が、朝鮮人の「貢女」選考について
少しでも不信を抱けば、すぐに朝廷から勅使が派遣された。 勅使は、当然のごとく朝鮮の王宮へ乗り込み、
ときには勅使が直接選考をすることさえあったという。