朝鮮の歴史資料を投下する。これで判断すべし。
朝鮮半島のできごと
1875年正月 雲揚号事件
1876年 江華島条約
1881年1月 紳士遊覧団 日本に行って様々な面を学ぶ。
      別技軍(新式の軍隊)をつくった。
1882年7月23日 壬午軍乱
1883年7月17日  済物浦条約
   壬午軍乱首謀者の処刑,賠償金の支払い,公使館警備のための日本軍の駐兵権
1883年8月始め 逃げていた閔妃が清国兵の護衛のもとに王宮に帰ってきた。これ以降,閔妃一派は清国の要求のまま動かざるを得なくなった。
1884年 朴泳孝の邸で開化党の若者達と日本公使館の嶋村書記官が守旧党の勢力追放の相談をしていた。
1884年10月17日  甲申政変 郵政局で?尹泰駿・李祖淵・韓圭稷などの軍事権を持っていた守旧党の大物達が殺された。
1884年10月19日 清国の兵1500人あまりが郵政局?両門より攻め入り,鎮圧。
朝廷は日本に亡命者の返還を要求したが,逆に甲申政変の責任を朝鮮になすりつけて「漢城条約」を結ばせた。
1784年 李承薫が天主教を伝道。
1885年 漢城条約締結。朝鮮は日本人被害者の賠償金と公使館新築費などを支払うことになった。
1885年3月4日 天津条約が結ばれる(清の李鴻章と伊藤博文)
       朝鮮に来ていた清国と日本の軍隊が自国へ戻った。
民心を失った閔妃は守ってくれる外国の軍隊を必要とし,ロシアに求めた。
1885 年 培材学堂設立。
1889年 三南地方は不作に見舞われ、関西地方では洪水が起きた。
   咸鏡道で民乱がはじまった。5年間の間、各地で民乱が起こった。
1894 年 東学農民運動。甲午改革起きる。
1894(明治二七)年,朝鮮で甲午農民戦争が起こり,朝鮮政府のやり方に我慢できなくなった農民達が反乱した。やがて農民軍は朝鮮南部を支配するようになった。
1894(明治二七)年6月 朝鮮政府は農民達を鎮圧するために,清に出兵を求めた。
これに対し,日本の大鳥公使一行は6月10日にソウルに到着,6月12日に日本軍も到着し,そこで日清両国軍がにらみ合うことになった。
日本は清に対し,朝鮮の政治改革を両国共同で行うように提案したが,「朝鮮の改革は朝鮮自身に任せるべきだ」とする清国に拒否された。
1894(明治二七)年7月23日,日本軍は朝鮮王宮をおそい,清国に好意的な朝鮮政府をたおした。大院君を摂政におしたて,日本に好意的な朝鮮政府をつくった。
1894(明治二七)年8月1日,日本は清に宣戦を布告した。日本軍は清に連戦連勝し,旅順,威海衛を占領した。やがて戦争は日本の勝利に終わった。
1895年8月20日 乙巳事変起こる。閔妃が暗殺される。
三浦梧楼はこの蛮行を朝鮮人同士の内紛にすりかえるため閔妃の政敵大院君を担ぎ出し,訓練隊の幹部をそそのかして閔妃さつ害の補助的役割をさせたとされる。
1896 年 独立協会設立。