>>1のつづき

(写真)
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▲ 東京のパチンコ店

著者は『パチンコ』で身分上昇の欲求を発現した在米同胞とは違い、アイデンティティーだけで社会的・経済的な梯子を外され呻いていた在日同胞の人生を赤裸々に現わそうとした。端的な例が著者が直接聞いた朝鮮人中学生の投身事件を劇化したものである。

作品の背景は1976年の横浜。モジャスの日本人の友人であり警察官のハルキは、朝鮮人中学生の投身自殺事件を引き受ける事になる。この生徒の卒業アルバムにはこのようなメモが書いていた。「死ね、醜い朝鮮人」、「補助費を受けようと思うな」、「屁の臭いがする貧乏人」・・・。話を聞いたモジャスの反応はこうだった。「この国は変わらない。私のような朝鮮人はこの国を去る事もできない。 私たちはどこに行く?(中略)ソウルでは私のような者は日本人の子と呼ぶ。日本ではいくらお金を稼いでも、いくら素敵に着飾っても汚い朝鮮人との声を聞く。一体私たちを見てどうしろと? 北朝鮮に帰った人々は飢え死にするとか恐怖に震えている」

『パチンコ』の登場人物は、それぞれの限界としがらみに閉じ込められて生きて行く。先天的障害と貧困、移民というアイデンティティは、彼らの『人生の選択権』を奪い取る。それでも闘争的に生きてきた一家族の話が一つのドラマとして繰り広げられる。『歴史が私たちを壊したが、それでも構わない』という小説の最初の文章は、この小説のテーマとも同じである。

・・・おしまい☆