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【日本府県略図】「竹島外一島」は鬱陵島 韓国側主張崩す地図発見[05/19]
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0001ガラケー記者 ★垢版2018/05/19(土) 15:42:09.01ID:CAP_USER
 韓国側が竹島(島根県隠岐の島町、韓国名・独島(トクト))の領有権を主張する際の論拠として持ち出す明治政府の文書「太政官(だじょうかん)指令」にある「竹島ほか一島は日本国とは関係がない」とする記述について、「竹島」は実在しない島を、「一島」は鬱陵島(ウルルンド)を指すことを示す地図「日本府県略図」が見つかった。専門家は、指令で日本は現在の竹島の領有権を放棄したとする、韓国側主張の論拠を崩す資料になると指摘する。
 太政官は後の内閣に当たる最高機関で、1877年の指令で「竹島外(ほか)一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事」(竹島ともう一つの島はわが国と関係ない)と内務省に指示した。韓国側は「もう一つの島」が竹島とし、1905年の島根県編入まで日本側に自国領の認識がなかったと主張している。
【詳しくは本紙紙面をご覧ください】
山陰中央新報
2018年5月19日
http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1526694068941/
0198<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん垢版2018/05/20(日) 09:12:19.59ID:NFOTYGF7
2017/02/23
日本外相「竹島は歴史的にも国際法上も日本の固有の領土」
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1487798650/348,351,354,925
/r/news4plus/1487798650/348,351,354,927
https://go o.gl/dMJvE6

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2007/11/28
【竹島】鬱陵島の属島、「小于島」「大于島」が描かれた朝鮮の絵図二枚を確認 「石島は独島」説否定[11/28]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1196238896/

韓国が知らない10の独島の虚偽
第6回
「日本政府は、1905年、竹島を島根県に…再確認しました。」の正当性
http://www1.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/dokutonokyogi/dokutonokyogi10-6.html
【韓国側の批判3】

 欝陵島に二つの属島が存在する事実は、1882年の李奎遠の『欝陵島外図』でも確認がなされている。
李奎遠が属島とするのは、北澤正誠が『竹島考証』で竹島とした欝陵島の東約2キロの竹嶼(竹島)と、欝陵島の東北
観音崎から数十メートルにある島項(写真1)である。
 李奎遠が欝陵島の属島とした竹島と島項は、1883年に欝陵島に赴いた檜垣直枝の「地図」(図3)と1900年の赤塚正助の
「挿図」(図4)にも踏襲され、大韓帝国が隆煕4年(1910年)
に刊行した『韓国水産誌』では、竹嶼と鼠項島とされている。「勅令第41号」を前後し、欝陵島の属島は何れも竹島と島項の二島であった。
中でも赤塚正助の「挿図」は、1900年6月、欝陵島が欝島郡に昇格する契機となった視察官禹用鼎との共同調査の際に描かれ、
赤塚正助の「欝陵島山林概況」では、欝陵島の疆域が「東西凡六里強、南北凡四里強」と明記されている。
赤塚正助の挿図に独島は描かれておらず、「東西凡六里強、南北凡四里強」とした欝陵島の疆域に、独島は含まれていない。
石島は独島ではなかったからである。

 では石島は、李奎遠が属島とした島項なのであろうか。ヒントは、1909年刊の海図(図5)にある。
そこでは島項が鼠項島[SomokuSomu]と表記され、これを伝統的な漢文の発音表記法の反切で読むと、
鼠項島(「Soku=石」島)は石島と読めるからだ(鼠[S(o)]の最初の母音oと、項[(m)oku]の最初の子音mが除かれ、
鼠項の「S(o)(m)oku」は「Soku=石」となって石島となる)。では李奎遠は何故、島項と命名したのだろうか。
それは『欝陵島検察日記』の中で、島項を「形、臥牛のごとし」、「稚竹叢あり」としたことでも明らかだ。
鼠項島[SomokuSomu]は、これを韓国語として読むと「牛の首(項=うなじ)の島」となる。
石島は、鼠項島(島項)を反切で読み、漢音で表記したものと言えるのである。

【韓国側の批判4】

 その後の経緯は明らかではないが、そのほぼ二ヶ月後、1906年7月13付の『皇城新聞』には、
「欝島郡の配置顛末」と題する記事が掲載された。それは統監府が内部に対し、欝島郡の設置の顛末を
問い合わせる記事で、内部からは統監府に対して、「郡庁は霞台洞にあり、該郡所管の島は竹島・石島で、
東西が六十里、南北が四十里。合わせて二百余里」と、回答がなされたとする内容であった。
それも内部からの回答には、依拠した「勅令第41号」にはない記述があった。欝島郡の管轄範囲を
「東西が六十里、南北四十里。合わせて二百余里」とした部分で、伝統的に欝陵島一島の疆域を示す
表記がなされていた。

この内部の回答で、
「該郡所管の島は竹島・石島で、東西が六十里、南北四十里。合わせて二百余里」とされた事実は、
沈興澤が「本郡所属の独島は、外洋百余里の外に在る」とし、独島を欝島郡所属とした報告を全面的に
否定するものであった。欝島郡守の沈興澤が、江原道観察使署理春川郡守の李明来に「本郡所属の独島は、
外洋百余里の外に在る」と報告して2ヵ月後、内部は「勅令第41号」を根拠に、欝島郡の管轄範囲を
「合わせて二百余里」としたからだ。沈興澤が「外洋百余里の外に在る」とした独島は、当然、その中には
含まれておらず、欝島郡の属島でもなかったのである。
0199<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん垢版2018/05/20(日) 09:12:40.28ID:NFOTYGF7
2017.5.12
政府が尖閣諸島、竹島の領有権裏付ける資料30点を新たに公開
http://www.sankei.com/politics/news/170512/plt1705120043-n1.html
 竹島関連は約340点を調査、12点を公表した。
明治38(1905)年7月に読売新聞が掲載した竹島の名称に関する解説記事や、
「(竹島が)鬱陵島の行政区画に編入されたことが明示された公的記録がない」と記述した
韓国外交部の1955(昭和30)年の刊行物などが盛り込まれた。


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石島は独島ではない! 韓国政府は確認ずみ
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/54806192.html
石島はやはり独島ではなかった!
韓国政府の内部文書で判明

 韓国に『外交問題叢書第11号 独島問題概論』という資料があります。1955年に韓国政府の外務部政務局が
独島問題の政府関係者向けの内部資料として作成したものです。1955年と言えば、1952年の李ライン設定による竹島強奪
同年のサンフランシスコ講和条約発効、1953年には第一大邦丸事件、1954年の日本の巡視船に対する韓国側からの砲撃事件
などを経て、韓国の理不尽な態度のために日韓の対立が激化していたころです。

(略

 この中に、何となんと、「独島を鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録は無い」という一文があります。
  韓国側はつねづね「独島は歴史的にも国際法上も韓国の領土である」と主張してきており、
その重要な根拠の一つとして、1900年に制定された勅令第41号にいう「石島」こそ現在の独島を指すものだ、と主張して来ました。
駐日韓国大使館のホームページ「獨島に対する大韓民国政府の基本的立場」にも、
「20世紀に入って大韓帝国は、光武4年(1900年)「勅令第41号」により、石島、即ち獨島を鬱陵郡の管轄下におく行政措置を通じて
この島が我が国の領土であることを明確にした。」( http://www.mofat.go.kr/mofat/popup/2008_dokdo/lang/jpn.pdf
と明言しているのです。(5ページ)

(略

 しかしながら、韓国政府は、1955年時点で既に勅令41号を検討した上で
「独島を鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録は無い」と判断していたわけですから、
勅令第41号は現在の独島/竹島のことを規定したものではないことを確認していたことになります。
  それにも拘わらず韓国政府がこれまで「勅令第41号の石島がすなわち独島である」と主張して来たと言うことは、
すなわちこれは大ウソであり、韓国政府は日本と韓国の両国民を騙して来たことが明らかになりました。
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