◆10歳で朝鮮人になった男性が忘れない「痛み」

『家族無計画』『りこんのこども』など家族に関する珠玉のエッセイを生み出してきたエッセイストの紫原明子さん。
この連載で綴るのは、紫原さんが見てきたさまざまな家族の風景と、その記憶の中にある食べ物について。
紆余曲折あった、でもどこにでもいる大人たちの過去、現在、そして未来を見つめる物語です。

「10歳のときよ。兄貴と俺が2人、いきなり親に呼ばれてさ。“お前たち、今日から転校するぞ”って。そりゃもうびっくりよ」
呆れたように笑いながら語る友人P。
けれども、10歳のその日から2カ月の間に経験したことは、その後の彼の人生を大きく変えるものとなった。

10歳だったPがその日、兄とともに両親に連れられた転校先。
それは最寄り駅から電車でほんの数駅の場所にありながら、言葉も、文化も、それまで見知ったものとはまるで異なる学校。
この日からPは朝鮮人として、朝鮮学校に通うことになったのだった。

■たった2カ月間の、朝鮮学校での生活

Pは52歳。ひょんなことがきっかけで知り合った、年の離れた友人だ。
IT企業の経営者で、在日コリアン2世。
Pの両親は、Pが生まれる前に韓国から日本にやってきたという。
ところがPは10歳になるまで、そのことをまったく知らずに育った。

日本で生まれ、日本語の名字と名前を持ち、両親や家族とも日本語で会話をしてきた。
当然のように近所の公立小学校に通い、日本人の友達と過ごしてきた。
ところが10歳のその日、Pは両親に「お前は日本人ではなく、朝鮮人だ」と告げられた。

「そう言われてよくよく考えてみるとさ、両親が夫婦喧嘩するときなんかに、知らない言葉を話していたようなこともあった。でも、不思議なことに自分が朝鮮人かもしれないとは思ってもみなかったわけよ」
朝鮮学校では、日本語を使うことは禁じられていた。
そのため朝鮮語を話すことのできないPと兄は、海外からの転校生のように、1日のカリキュラムのうち2時間を朝鮮語習得のための学習に費やすことになった。
クラスメートたちと同じ授業は、それ以外の時間に受けた。

ところが、そんなPの新しい生活も、2カ月で終止符を打つ。
言葉の壁は存外に大きく、Pは次第に同級生からいじめられるようになってしまったのだ。
日に日に顔を曇らせ、沈みがちになるPの様子を心配した両親によって、2カ月ののち再び、以前通っていた日本の公立小学校に戻されることとなった。
「だけどさ、当然ながらそれですべてが元通り、なんてうまくはいかないもんなのよ」

その日Pは、私や私の家族に手料理を振る舞ってくれるといい、わが家の狭い台所に、長身を丸めるようにして立っていた。
調理しながら、昔のことを少しずつ、思い出したように語る。
朝鮮学校から、それまで通っていた学校に戻ると、2カ月いったいどうしていたのかとみんなが口々に尋ねてきた。
大多数の友人には適当なことを言ってごまかしたものの、特に仲の良かった数人には、意を決して本当のことを打ち明けた。

“え、お前、朝鮮人だったの?”
なかには露骨に眉をひそめる友達もいた。けれどもそんな反応と同じくらいPの心に突き刺さったのは、“朝鮮人だからって気にするなよ”という慰めの言葉だった。
見た目も、話す言葉も、生活も、以前と何一つ変わっていないのに、自分に朝鮮人であるという事実が付け加えられただけで、同情され、慰められる。

なぜ慰められなければならないのかわからなかった。
馴染みのある場所に帰ってきたはずなのに、みんなと同じだった自分は消えてしまった。
10歳の少年が突如として背負うには、重い現実だった。

■「やられたら徹底的にやり返せ」

一方Pとは対象的に、一緒に転校した兄のほうはというと、新しい環境にみるみる適応していった。
Pいわく、当時の在日コリアンは、企業への就職や結婚といった、生活におけるさまざまな場面で露骨な差別を受けていた。
大人たちでさえそうなのだから、理性や知性の未熟な子どもたちの世界はなおさらだった。
朝鮮学校の生徒は朝鮮人であるという理由だけで、直接的な暴力の対象となった。

東洋経済オンライン 2018年8月7日 6時0分
http://news.livedoor.com/article/detail/15122398/

※続きます