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▲ヒロヒト日王(中)が1986年1月、東京の皇居で即位60周年をむかえ手を振っている。

ヒロヒト(裕仁)日王(1901〜1989)が晩年に「戦争責任」について気を遣う姿勢を記録した侍従の日記が発見されたと23日、共同通信が報道した。この日記は1974年から2000年までヒロヒト日王とゴジュン(香淳)王妃の侍従を務めた小林忍が書いたもの。

1987年4月7日付け日記によればヒロヒト日王は「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と話したと記録されている。日記には「昨夕のこと」だとある。

日王がその前日の6日、皇居で当直だった小林に直接話したことを記録したと見られる。当時、皇室の事務を担当した宮内庁は日王の負担軽減対策を検討していた。その年2月には日王の弟の高松宮が死亡した。

日王の言及について小林は「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と言ったと書いた。

この日記には当時、ヒロヒト日王が具体的にいつ誰から戦争責任の指摘を受けたのかについては記録されていない。ただし、その年3月の衆議院予算委員会で共産党の正森成二議員が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と日王の責任を追及し、これを否定する中曽根康弘総理と激烈な論争が広がった。

翌年2月には本島等、長崎市長が「日王の戦争責任はあると考える」と言い波紋を起こすなど日王の晩年まで戦争責任問題は何回も論議になった。

ヒロヒト日王は1987年4月29日、誕生日の祝宴で嘔吐症状を見せて席をはずした。その後、一時回復したが翌年9月また血を吐きながら倒れた後1989年1月7日に死亡した。

共同通信は「今回の日記を通じて日王が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった」と評価した。

東京新聞は「アジア各国を侵略した大日本帝国を率い、太平洋戦争の開戦と敗戦に臨んだ日王の脳裏に刻まれた記憶が、晩年まで頭から離れなかった」と説明した。

しかし、日王のこの様な言及を侵略と加害の歴史に対する反省と謝罪に直ちに結びつけることはできないと見られる。ヒロヒト日王は自身の回顧録で太平洋戦争について「軍部と議会が戦争決定を下し、立憲君主として裁可しただけ」とし、自身の責任を回避しようとする言及をしたことがある。

東京|キム・ジンウ特派員

ソース:京郷新聞(韓国語) 苦悩なのか弁解なのか...ヒロヒト日王「長く生きても...戦争責任聞いて」
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?art_id=201808231151001

関連記事:東京新聞<「長く生きても…戦争責任いわれる」 昭和天皇85歳 大戦苦悩>
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018082302000159.html