朝日新聞で香山リカ氏の「批判との対話 希望の芽」を読んで

8月21日付け朝日新聞オピニオン面に「ネット言論を見つめる」と題して、香山リカ、平野啓一郎、荻上チキの3氏の主張が掲載されていた。
 その中で、香山リカ氏のものは、「批判との対話 希望の芽」と題されて、次のように綴られていた。
 いくつかのウェブメディアで連載を持っている私だが、いちばん力を入れているのはSNSのツイッターにコメントをくれた人たちとのやり取りだ。もちろんすべてに目を通すことはできないが、特に「匿名」での「賛意ではなく批判(罵倒や誹謗中傷もある)」に応じるように心がけている。そういう人たちと直接、やり取りできることこそ、SNSの最大の醍醐味だと思うからだ。調査目的でそうしているわけではないが、連日、そんな対話を続けていて気づいたことがある。

 まず、SNSでは理屈やデータよりも「1枚の写真」、つまり視覚的イメージが説得力を持つことだ。たとえば先日は「沖縄・辺野古での米軍新基地建設への抗議活動をする人の大半は国外・県外の活動家」と主張する人たちとやり取りしたのだが、彼らは繰り返し県外の労働組合の幟旗やハングルの横断幕が写った集会の写真を送ってきた。「時にはそうしたことがあったとしても、日常的に座り込みをしている人の多くは沖縄県民」と資料のリンクなどを添えて返答しても、「写真が何よりの証拠」とゆずらない。

 また、そうやって資料を示すことが、論拠の提示ではなく「ひとの意見に頼ろうとしている」と否定的にとられることが多い。「この分野では権威の学者の論文だから」という説明が、「そんな人は知らない」「どうせサヨクの仲間だろう」と反発を買うことも多い。“知の集積”がいとも簡単に否定され、「ズバリ自分の主張を述べる人」が評価されるのだ。

〔中略〕

 このような言論空間で、いったいどういう文法で彼らと対話し、正しい考え方や知識を身につけてもらえるようにすればよいのか。「目には目を」とばかりに、視覚的イメージを多用したり、論理ではなく感情的で断定的な言い切りで圧倒したりすればよいのか。それではあまりにも不毛だ。
 そして、最近、5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)の閲覧者が、韓国や中国への差別を煽動する動画を管理者へ報告するよう呼びかけ、3か月で50万本近い動画が削除されたという「画期的な」事例を挙げ、
「教えてあげよう」ではなく、自ら気づいて「なんとかしたい」と考える複数の人たちが同時多発的に現れれば、ネット言論の空間は爆発的に変わる可能性を秘めている。
 ネットでの対話だからできることが必ずあるはずだ。匿名掲示板から生まれた反差別の潮流に希望を見いだしながら、今日も私は“どこかの誰か”の罵りやからかいの言葉を受けては返しているのだ。
と結んでいる。

 香山リカ氏と言えば、ツイッターでの自身の不適切発言について、アカウントを乗っ取られたと主張したとか、政治的な反対派を精神障害者呼ばわりしたとは聞いたことがあるが、自身への批判者とネット上で積極的に対話しているとは聞いたことがなかったので、奇異に感じた。

ソース
Blogos 深沢明人 2018年09月02日 12:38
http://blogos.com/article/322211/