おそらく1900年過ぎ頃まで朝鮮ではリアンクール岩礁(以下竹島)の存在が知られていなかった。
17世紀初頭に日本人が竹島で漁を始めてから300年近くも経っているのに、竹島において日朝両国民が交錯した記録が無いのが(韓国の主張と照らして)おかしい。
その一方で、鬱陵島で両国民が交錯した記録ならある(鬱陵島に日本人が住んだ記録さえある)。
そのようになった理由は、朝鮮で竹島の存在が知られておらず、朝鮮国民が誰も来なかったからに他ならない。

76 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2018/08/26(日) 22:16:44.96 ID:GFRoyXkt [6/6]
1901年に韓国の帝国新聞は、「ヤンコ」と記述しています。
https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57649209.html
この新聞の主筆は、なんと驚くなかれ、若き日の李承晩なのです。
彼は、1901年に日本が近代地理学的に新発見して日本が得たことを自ら
の新聞で韓国人と韓国社会に報道していたのです。
一方、中井養三郎が竹島に小屋を建てたのが1903年です。
中渡瀬仁助氏などは、1904年から1934年の取材時まで毎年連続して竹島に出漁しています。
韓国人は、竹島を訪れたことがなく、日本人に雇われて1904年に初めて竹島を訪れたのです。
それ以前に、日本の鮫漁や鮑漁の船が竹島に出漁しています。
1894年の山陰新聞の記事
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1994-san-in-chou-newspaper-article-on.html
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/new-boats-to-fish-ulleungdo-waters-1894.html
1905年の山陰新聞の記事
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2014/07/1905-may-14-san-in-shimbun-sea-lion.html