1951年1月4日、我軍はソウルを奪還されて後退した。米第8軍司令官マシュー・リッジウェイは我軍の戦力が劣っていないにもかかわらず劣勢になる理由は心理的な問題だと判断して反撃を決心した。当時、米国は非公式ラインを通じて休戦を提案した状況だった。これを共産軍側が受諾して交渉が開始されれいれば、今日の休戦ラインは平沢(ピョンテク)−三陟(サムチョク)の間に形成されていたかもしれない。しかし主導権を握っていた共産軍側はこれを拒否した。 

  問題はそれだけでなかった。もし現位置から50キロ後方の錦江(クムガン)まで後退することになれば、米国は韓半島(朝鮮半島)を放棄して軍を撤収することも考えた。したがって大韓民国が生き残るにはとにかく戦線を北側に押し上げなければならなかった。しかし前年の秋のように大々的な北進はすでにあきらめ、ひとまず漢江(ハンガン)までばん回するのが目標だった。リッジウェイはただ軍事的な観点でソウルを眺めた。 

  未練なく放棄して1.4後退を断行したほどソウルは防御に不利な位置だったため、ひとまず戦線を安定的に維持できるところまで押し戻すことを決心した。そのためには付近にあらかじめ拠点を確保するのがよかった。リッジウェイは前年9月15日の仁川(インチョン)上陸作戦を思い出した。戦線が構築された北緯37度ラインからかなり離れているが、本格的な反撃を開始する以前に仁川港を先に奪還しておけば非常に有利になると判断した。 

  当時の仁川は制海権がなかった共産軍の立場では難しい存在だった。戦線全体で見ると西側に離れたところであり、戦力を分けて配置することも、かといって防御をあきらめることもできなかった。一方、我軍にとって仁川はソウルに向かう最短進撃路として重要な物流拠点だった。1950年秋の第1次仁川上陸作戦があまりにも有名であるため、1951年冬の第2次仁川上陸作戦はあまり知られていないが、歴史的な意義は非常に大きい。 

  第2次仁川上陸作戦の仁川港奪還任務は米極東海軍第95機動部隊に付与された。司令官のアラン・スミス提督は韓国海軍のハム・ドクチャン大尉に偵察命令を出した。その結果、駐留中の共産軍が少数だったため国軍単独で仁川港奪還が可能な状況と確認された。これを受け、徳積島(ドクチョクド)に配置された海兵隊1個中隊が上陸軍に決まり、これを支援するために韓国初の戦闘艦「白頭山(ペクドゥサン)」(PC−701)とYMS−301、302、306掃海艇が近隣に次々と到着した。

国軍は2月10日の満潮時間の午後6時に上陸を敢行することにした。ところが作戦当日に予期せぬ問題が発生した。悪天候で徳積島に駐留していた海兵隊の搭乗が遅れ、満潮に合わせた上陸は不可能だった。急報に接した「白頭山」のノ・ミョンホ艦長は、仁川港に接近した各艦艇から志願者を募集して上陸部隊を編成した。その結果、計37人の志願者で構成された特攻隊が組織された。 

  午前7時に京畿湾に布陣した米第95機動部隊の支援砲撃が始まると、そのスキに特攻隊が造船機械製作所埠頭(現万石埠頭)に上陸した。橋頭堡を確保したキム・ジョンギ少佐はそれぞれの目標を制圧した後、午後9時までに気象台高地(現自由公園)に集合するよう命じた。大部隊が上陸したように欺まんするために「第1大隊突撃前へ、第2大隊突撃前へ」と叫ぶと、共産軍は戦意を喪失して逃走した。 

  ついに午後9時に我軍は仁川港を監視できる気象台高地を確保し、戦闘は幕を下ろした。規模が小さくあまり知られていないが、作戦の意義は大きかった。サンダーボルト作戦と命名された反撃当時、仁川西側の側面を我軍が占領すると、背後の遮断を恐れた共産軍は応戦をあきらめて漢江(ハンガン)を渡って北に退いた。第2次仁川上陸作戦は闇の中の光のような勝利だった。

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[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]2019年03月05日 16時08分

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開戦初期に大韓海峡海戦を勝利に導いた韓国初の戦闘艦「白頭山(ペクドゥサン)」(PC−701)。第2次仁川上陸作戦でも大活躍した。(写真=海軍)