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 76年前の米軍による大阪大空襲をめぐり、「空白」とされてきた朝鮮半島出身の犠牲者の実態が研究者グループの調査で明らかになってきた。今月には大阪国際平和センター(ピースおおさか、大阪市)の追悼モニュメントに2人の民族名が刻印された。ただ、施設内には日本人以外が空襲で亡くなったと伝える展示はなく、対応を求めている。

 今月12日、ピースおおさかの中庭「刻(とき)の庭」にある追悼モニュメントに、大阪大空襲の犠牲者の名前を記した銘板が10年ぶりに追加で設置され、遺族らが献花した。

 モニュメントは戦後60年の2005年に完成し、グラフィックデザイナーの故・粟津(あわづ)潔さんがデザイン。1944年12月から終戦前日の45年8月15日まで約50回続いた大阪の空襲で犠牲者になった一人ひとりの名前が記されている。今回の追加は114人分で、ピースおおさかの開館30年事業の一環。銘板に刻印された名前は計9089人になった。

 「劉載吉(ユジェギル)」「金麗濬(キムヨジュン)」

 追加分のうち2人は、当時の日本の植民地支配を背景に大阪で暮らしていた朝鮮半島出身者だ。

 「写真1枚すら残っていない姉の生きた証しが記録され、ありがたい」。劉載吉さんの名前を届け出た在日コリアン2世の劉倫大(ユンデ)さん(77)=京都市西京区=は、体調が悪く式典に参加できなかったが、電話取材にこう語った。

 7歳だった姉は、B29爆撃機409機とP51戦闘機138機による45年6月7日の第3次大阪大空襲で亡くなった。淀川にかかる長柄橋周辺で爆弾の破片が頭を直撃。遺体は河川敷で火葬され、遺骨は箱に入れて流された。大阪府警察局の報告書によると、この日の空襲で約2700人が亡くなった。

 両親は現在の韓国中部の忠清南道出身で、暮らしは貧しかった。空襲時は乳児だった倫大さんは、戦後近所の人から「お姉ちゃんは弾に当たって死んだ」と聞いたが、兄からは「オモニに言うたら泣きはる」と口止めされ、「空襲の話は家族の中でご法度だった」という。

死者・行方不明者が約1万5千人とされる大阪大空襲で、これまで注目されず、「空白」となっていた朝鮮人犠牲者の実態が徐々に明らかになってきています。調査している研究者グループは、大阪の空襲で犠牲になった朝鮮人は1200人以上と推定。慰霊碑に死没者の民族名(本名)を刻印する取り組みも進められています。記事の後半では民族名をめぐる話が続きます。

 転機は、在野の研究者でつく…

以下記事元にて。

朝日新聞デジタル 武田肇2021年9月16日 13時30分
https://www.asahi.com/articles/ASP9H55L4P9BPTIL008.html