神代のころ、奥津(おうつ)と呼ばれる地方の川では正体のわからぬ怪物が人々を脅かしていた。
湖にその怪物が現れると水面には不可思議な波が立ち、たちまち舟を流れからはぐれさせ飲み込まんでしまう。
交通の要所であったために、そのような状況でも遠回りするわけにもいかず、この川は渡る人々に
立波舟逸地(たつなみしゅういち)と恐れられた。

この頃、とある神が荒れる地と民を憐れみ大太刀を携えて奥津にやってくると、
人々は「この地には神がおりませぬ、どうかどうかこの地に着きて我々をお守りください」と懇願した。
神は「我は浮世(ふせい)の神であるゆえにこの地に留まることは出来ぬが、お前たちを見捨てるのもしのびなし」と
大太刀を片手に川に舟を漕ぎ出した。
はたして舟はあらぬ方向へと流れてゆき、大きく口を開けた黒い影が姿を現した。
怪物の正体は、この川の急流や増水による氾濫などを恐れる人々の恐れが集まったものであった。
立波舟逸地と名が付けられることで、より大きく強大になってしまったものである。
名を付ければ言葉には魂が宿り、曖昧な存在も強固となってしまう。
すなわちこの怪物を打ち倒すには、この名を断ち切るより他になし。
大太刀をぎらりと抜き放った神は舟より飛び上がり、勇ましく怪物を叩き切った。
悪しき名を断ち八百万の神を生む、すなわち断名万(だんなまん)の儀である。

断名万の儀により微塵に分かたれた「たつなみしゅういち」の名は、奥津の地に散り散りに飛び去り、
あるものは舞台に憑き「しゅう」「ゅうい」と称される神となり、神の居なかった奥津を守り、
あるものは藤の根本に憑き「ゅいち」と呼ばれる小鬼となり奥津にたびたび災いをもたらした。
あるものは生まれたばかりの「太郎」に取り憑き、「いちたろう」と名付けられ人の子に、
またあるものは波に憑き「つなみ」となり悪神として恐れを振りまいた。

この事により奥津には八百万の神が宿り、様々な災いもありつつも大変に栄えたとされる。
『比べるものも居らぬほど恵まれ、守られた国奥津』すなわち比居恵守奥津と後の人々にうたわれた。

三諦温羅院(さんだいおんらいん)所蔵 『比居恵守奥津 断名万記』より抜粋