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【レトロ】70〜81年代の国産オーディオ大好き part2
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0257名無しさん@お腹いっぱい。2020/09/05(土) 19:14:37.63ID:40pf1748
収納のプロとかよくマスコミが取り上げているけど
うちへ来てこのオーディオの山を整理してみて欲しいな

台所とか服を綺麗に並べてるの見てもなんとも思わない
0258名無しさん@お腹いっぱい。2020/09/05(土) 19:20:04.44ID:CR69MrU2
壁側にレンガのように積むのだ。
0259名無しさん@お腹いっぱい。2020/09/05(土) 19:53:58.00ID:xTM0bvMc
>>257
ああいうのは女性特有、なぜなら女性は掃除や片付ける能力が決定的に
欠落してるから。「できる奥様の整理術」なる本は存在して売れても、
「できるオヤジの整理術」なんて本は需要もないし存在すらしない。

単身でも男性よりも女性の部屋の方が汚い、というか不潔、水回りとか特に。
ソースは長年不動産屋に勤めてた俺が見てきた多数の物件。
0260名無しさん@お腹いっぱい。2020/09/12(土) 11:15:48.25ID:lxijHzLN
回っては機器
0261名無しさん@お腹いっぱい。2020/09/12(土) 11:16:21.28ID:ljVCUdET
>>782

ハードオフやリサイクルショップで500円程度でジャンクのラジカセ買ってきて

こんなのとか
https://goldenyokocho.jp/uploads/content/image/26163/001.jpg
https://base-ec2if.akamaized.net/w=640,a=0,q=90,u=1/images/item/origin/50b77fc6efafb4054ee5968130e2671f.jpg
  
んで、ドンキやダイソーで安っすいBluetoothスピーカー買ってきて

こんなのとか
https://www.hmcircuit.jp/daiso500yenbtsp/img_sr9910_00.jpg
https://shimamura-diary.com/wp-content/uploads/2019/03/2019y03m30d_195023130.jpg

上記ラジカセに、基盤取り出して移植改造して、
懐かしい昭和ラジカセ型Bluetoothスピーカー1000円くらいで作った
0262名無しさん@お腹いっぱい。2020/09/16(水) 23:10:10.15ID:34uMhXV5
あーあ、倉庫片づけでコーラルのスピーカーユニット出てきたんだけど、
一緒に作業してた奴がとにかく早くしろのモラハラ基地外で
俺が引き取るって言ったんだけど、目の前でぶん投げて捨てられた
中古相場2万くらいかな
もったいな…
0265名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/21(日) 22:42:29.71ID:X5eFsxsQ
あけおめ
ハードオフで大型ブックシェルフ買ってたら部屋の一画がテトリスみたいになっちゃった
0267名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/20(土) 12:20:48.96ID:3+59Rfc2
その通り。音楽制作スタジオでジェネレックやADAMなんかのアクティブモニターSP使われてるが
これらは内蔵DSPでTW、WFの帯域分離をデジタル領域で行い、バイアンプ駆動。
パッシブクロスオーバー回路なんて信号劣化が半端なく大きいし、シングルアンプで高音から低音までのスピーカーユニットを駆動しようとするから巨大な電源部が必要にある。
マルチアンプ化すれば大出力電源は低音用だけで済む。もっと言えばD級アンプマルチアンプなら小電力、省スペース。
ネットワーク回路内蔵パッシブスピーカーは猿でも使えるようにした一般家庭用の物で、
ハイエンド領域に踏み込むならDSPで帯域分割、音場補正をデジタル処理で行いマルチアンプ駆動になる。
信号劣化ネットワーク回路内蔵のSPをクソ重くて電力バカ食いA級アンプでシングルアンプ駆動なんてアフォなことに、団塊世代に無駄金を使わせてきたのがオーディオ業界。
0268名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/23(火) 18:28:53.20ID:8PYw3BnE
C-222にE-302のパワー部が殊の外良い。
まるでどこかの試聴室で高級オーディオ聴いてるよう。
あくまでC-222をフォノプリとしてE-302のライン入力で接続するのとE-302をセパレートモードのパワーアンプとして接続するのとどっちが良いのだろう。
自分はプリプリになっちゃうから音の純度、ダイレクトさでみるとパワーアンプとして使うほうが良いかなと。
0269名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/25(木) 17:51:19.02ID:ohBT7opA
いつの間にか798アンプが4台も揃ってしまった。各社、音が違って楽しい。
0270名無しさん@お腹いっぱい。2021/04/26(月) 16:37:20.83ID:kwODXVTR
時々オクに出てくるMARBLE(SANYU CORPORATION)という昭和のスピーカー、全く情報が無いんだけど
ユニットがどう見てもアイデンぽいんだけどやはりそうなのだろうか?

アイデンのユニットがOEM供給されているメーカーは知っているだけで
クライスラー・OTTO・AIWA・marantz・clarion・EVANS等だけど、
昭和はマーブルのような消えて行って情報もほとんどないガレージメーカーもたくさんあるのかな。
0272名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 16:38:30.91ID:zXNRUCFs
FOSTERも?

古いスピーカー能率が良いからか鳴りっぷりが朗々としているのが多いよね、別に高級機じゃなくでも。
0273名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 23:47:19.06ID:3zLOZyjI
Pioneer SA-910を引っ張り出した
取説はないけど箱完備(使うから戻した)
なにこの名機…!?
0275名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 21:46:27.80ID:bnp1Rhrb
【その1】
「私にとって、飛翔の研究はきっと宿命なのであろう」と言って、幼少の頃、鳶の夢を見た話を彼は手記の中に書いている。
腹這いになった人が両足を揃えて屈伸して翼をはばたかせる絵が有名だが、彼が最後まではばたき飛行機に固執してついに凧型飛行機(現代の飛行機)を思いつかなかった点で彼を責める人がいるが、彼ははばたきの原理自体を理解していなかったようである。
彼のはばたき飛行機は、はばたきによって空気を下へ押さえつけて飛ぼうとするものである。
レオナルドの飛行の原理を図式化すると、落下傘の下へ長い綱を下げて、落下傘の下降速度よりも速い速さでその綱を手操って空へ昇っていこうとするのと同じである。
はばたきによって空気を下に押さえつけるには、翼が下がるときだけ空気を押さえ、翼が上がるときには空気を逃がすようになってなくてはならない。
彼は、小さな弁の集まりのような翼を考えたりしていろいろ工夫しているが、おそらくうまくいかなかったのではないだろうか。
彼はずいぶん鳥を観察しているのだから、鳥は決してそんな飛び方をしてはいないことに気づいてもよかったと思うのだが、彼には翼に働く『揚力』という現象が最後まで掴めなかったようである。
0276名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 21:48:51.77ID:bnp1Rhrb
【その2】
鳥がレオナルドの考えたような飛び方をする機会は一回だけある。
それは着地の瞬間で、鳥は一瞬空中に停止し、水平よりもかなり上向きの姿勢になって、翼を水平面内でぱたぱたと振る。
その時、翼の面はおおよそ垂直であるから、この翼の使い方は、お寿司の御飯をあおぐときの団扇の使い方と同じである。
空気を下へ押さえつけるために翼は水平面内でぱたぱたと振られる。上下にはばたかれるのではない。鳥が翼を上下にはばたきながら、しかもレオナルドの想像したような原理で飛ぶ機会は一度もない。
鳥は前進しながら翼をはばたくのであるから、翼は正弦曲線の軌道に沿う運動をする。
その間、翼は常にこの正弦曲線に接する向きに保たれる。従って、はばたきは前進の為の推力だけを生むのである。

鳥の重量を支える『揚力』は、鳥が空気中を前進すること自身によって自動的に得られる。
飛行機と違って翼は固定されてないから、翼の空気に対する相対的な運動の向きは鳥の前進の方向と同じではないし、また、たえず変化する。
『揚力』はいつでも翼の空気に対する相対運動の向きに垂直に働くから、細かく議論すればかなり複雑な説明が必要になるが、大局的には飛行機が『揚力』を得るメカニズムと同じである。
0277名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 21:51:27.73ID:bnp1Rhrb
【その3】
つまり、鳥と凧型飛行機との間に原理的な相違はない。推力を生む方法だけが異なるのである。
はばたきによって推進を生む方法は全く合理的で、プロペラに比べて少しも劣るものではない。現に、それがきわめて効率の高い推進法であることは、渡り鳥の長大な飛行距離が示すとおりである。
もちろん機械として見れば往復運動よりも回転運動のほうが優れているが、流体力学的な点に関しては、はばたき式推進法に不都合な点は全くない。

したがって、レオナルドがはばたき飛行機に固執したことは、それ自身では少しも間違いではない。彼がはばたきの機能を正しく理解していなかったのが欠点なのである。
しかし、その点でレオナルドを責めるのは酷であろう。現代の自然科学者でも、はたして何パーセントが鳥の飛行の原理を正しく理解しているであろうか。
物事を正しく見るということは、どんな場合にも、大変むずかしいことなのである。
鳥類の生態観察でひとつの学問分野をひらいたニコ・ティンベルヘンでさえ、飛翔のメカニックについてはレオナルドと同じ誤りをおかしているのである。
0278名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 21:54:42.14ID:bnp1Rhrb
【その4】
人間機械論という言葉を、私ども現代人は、人間といえども自然法則の支配下にあるひとつの自然現象にすぎない、というきわめて広い意味に解釈するのが正しい。
もちろん、厳密にいえば、人間を自然現象と見るのはひとつの作業仮説にすぎないが、現実の問題として他に考えようがないのだから、我々はそれを自明のこととして受け取っている。
人間がひとつの自然現象であるというのは、超自然的な影響力の支配下にはないということでもある。いいかえると、物質的な因果関係によって記述し尽くすことができるということにもなる。

物質的な因果関係を追求するためには、まず人体の構造を知らなくてはならない。
生命現象は本質的には化学変化なのであるから、屍体を解剖して内部構造を明らかにするだけでは、試験管の形を見て中の薬品を当てようとするようなもので、生命現象のいちばん大切な部分は解らないわけであるが、まず解剖によって内部構造を明らかにするのがアプローチの第一歩であるのはいうまでもない。

ここからが本題になるのだが、ヨーロッパ人の考え方の大きな特徴のひとつは動物と人間との間に明確な一線を引きたがることである。
ダーウィンの進化論が白人の世界では猛烈な排斥を受けるのだが、日本には殆ど抵抗らしい抵抗を受けること無しに入ってはきている。
それはダーヴィニズムに対抗するはずのカトリシズムが日本にはなかったからだという説明では説明にならない。
ダーヴィニズムを排斥する精神がすなわちカトリシズムを生む精神であり、それが西欧人に特徴的な、人間と動物との間に一線を隔したがる精神なのである。
0279名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 21:57:11.44ID:bnp1Rhrb
【その5】
レオナルドの手がけたいくつかの記念碑的作品は、ほとんどが悲劇的な運命をたどっている。
『晩餐』は完膚なきまでに手を入れられてしまったし、『騎馬像』はついに青銅に鋳られる機会を得ず、粘土の原型のまま土に帰ってしまったし、『アンギアーリの戦い』は形をなす前に彼自身が仕事を投げ出してしまっている。
唯一の例外がウフィツィ美術館の『三王礼拝図』で、未完成ではあるが、完好の保存状態で残っていることを私どもはせめてもの慰めとしなければならない。

厳然として圧倒してくるこの絵の威容をなんと表現したらよいであろうか。
私はこの絵に対比させ得るものは法隆寺金堂の壁画以外にないと思っている。
逆に法隆寺金堂の壁画に対比させえるものもレオナルドの『三王礼拝図』以外にはない。
これらふたつの絵に共通するものは「玲瓏透徹にして翳りなし」とでもいった印象であろうか。
世の中には暗くて不明瞭であることによって神秘感をかもし出しているものがいろいろある。東洋の仏画の神秘感はだいたいそれで、法隆寺金堂の壁画はきわめて顕著な例外ということができよう。
法隆寺金堂の壁画にも『三王礼拝図』にも隠微なところは全くない。
すみずみまで明瞭である。しかも、峻烈きわまる高さがあり、すさまじい威圧がある。
若き天才の緊張した精神そのものの顕現とでもいえよう。
0280名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:00:19.00ID:bnp1Rhrb
【その6】
やや緑を含む鳶色の地塗りの上に濃い紫で下書きの素描をし、ハイライトを白で描き起こしている。鳶色と紫のコントラストがなんともいえず効果的で、絵全体が鳶色に輝いているように見える。
法隆寺金堂の壁画のようだと書いたが、このふたつの絵は線の質に関する限りまるで違う。
法隆寺の壁画の線は太さの変化のない、きわめて図式的、説明的な線である。
『三王礼拝図』の線は筆がかすれるのを物ともせずにぐいぐいと引きまくった実に豪快な線である。妙心寺竜泉庵の長谷川等伯若描きの『枯木猿喉図』、あの線がまさにレオナルドの線である。

レオナルドについては遅筆、逡巡ということがいつも言われるが、実は彼はルネサンスきってのクロッキーの名手であり、形を取ることが素敵にうまい男なのだ。
その頃の画家が大きな絵を描くときには、まず原寸大の完全な下絵を作り、それを板、あるいは壁の上に重ねて、下絵の輪郭に沿って針でちくちく刺していったり、錐の先でぎーっと力を入れてなぞったりして下絵の輪郭を板や壁に移し、後は塗り絵のようにそれぞれの部分をそれぞれの色で塗りつぶして仕上げてゆくのが常法であった。
しかし、レオナルドはごく初期の絵を除いてこの方法を使っていない。彼は原寸大の下絵というものをほとんど作ってないし、『聖アンナ』のように、原寸大の下絵を描いたと思われる場合にも、それを板に移す時にはもういちどフリーハンドで描いている。
『三王礼拝図』の場合は部分の練習はたくさんやってるし、構図の工夫もいろいろしているが、原寸大の下絵はおそらく描かなかったであろうし、描く必要がなかったことは原作を見ればよくわかる。
肖像画では『ジネブラ・ディ・ベンチ』については美しい手の素描が残っているが、『モナ・リザ』については、関係のありそうな素描は一枚も発見されていない。
完全なぶっつけ本番で会ったと私は思う。
0281名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:03:03.91ID:bnp1Rhrb
【その7】
『三王礼拝図』は、同心円形という構図の基本線だけは決まっていたが、細かい点は決めないままで描き始めている。
影の部分を暗く塗っているうちに、混沌の中からあるイメージが形をなしてくる。するとそれを描き込む、とでもいった要領で細部に描き進んでいるように思える。
既に描き上げた部分も、他の部分をひとまわりしてきたあとで、何度も訂正されたであろう。浮動的な部分をまだ多く残した段階にある絵で、下絵として決して完成しているわけではない。
レオナルドの構図に対する要求が非常に高い水準にあったことは、『晩餐』や『聖アンナ』を見ればわかるとおりであるが、『三王礼拝図』のこれだけ多くの登場人物を『晩餐』の程度の完璧な構図にまとめ上げることは、さすがの彼にとっても容易なわざではなかったであろう。
この絵はいつまで見ていても、人物がいくらでも新しく見えてくる不思議な絵であるが、その大ぜいの人物の組み合わせにはまだまだいたるところに混乱がある。
遠景の奔躍する馬や人の群れなどは画家の遊びのようにさえ思える。
0282名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:06:20.34ID:bnp1Rhrb
【その8】
此処で、レオナルドに於ける【完成】について触れなければなるまい。
まず確認しておかなければならないのは、レオナルドにとっては、「絵画は色のある素描ではない」ということだ。
レオナルドがほとんどすべての作品を未完成の状態で残したのは、不幸な偶然の積み重なりと素直に解釈するのが正しく、全体に共通する一貫した意味はないと私は考える。
未完成画のひとつひとつがそれぞれ別の理由で未完成に残されたのである。
言い換えれば、レオナルドの未完成作品は製作の途中で終わっている作品であって、あの段階で終わることを始めから意図して作られた作品ではない。
しかし、ひじょうに良い調子が出ているので、あのままでも芸術品としてじゅうぶん鑑賞に耐えるというにすぎない。『モナ・リザ』とてこの範疇にある絵画であることは忘れてはならない。
幾多の美術批評家たちの戯言は無視するとして、レオナルドに於ける完成の一例として、たとえば『モナ・リザ』の【右手(腕ではない)】を私はあげよう。
ここに私はレオナルドのスフマートの神技を見る。
しかし、このアルティザン的な絶技はそれを駆使する芸術家としての彼の精神があってはじめて生かされるのであって、レオナルドにおける完成は断じて職人仕事ではない。
0283名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:08:55.53ID:bnp1Rhrb
【その9】
ヴェッキオ宮殿の大壁面にはレオナルドの『アンギアーリの戦い』とミケランジェロの『カッシーナの戦い』が対峙するはずであったのは有名な史実である。
もしこの二大壁画が完成していたら、チンクェチェントオ広間はルネサンスの記念碑的大広間となり、空前絶後の壮観を呈する至宝の空間となるはずであった。
そこにはウィンザー城やヴェネツィアのアッカデーミアに現存する素描下絵に片鱗が伺われるような、戦塵を巻き上げて激突する人馬の群れが転々と配置されるはずであった。
ルーベンスの模写に残る軍旗を奪い合う乱闘場面、ブタペスト美術館の怒号する戦士の顔が脳裏に去来する。
これこそ、真にレオナルドの名に値する宇宙的雄作になるはずであった。『アンギアーリの戦い』が完成しなかったことによって、ルネサンスは最大の遺産を失った。まさに人類史な痛恨事と言わなければならない。
『モナ・リザ』の画家レオナルドは東洋的静謐の画家と見なされているが、それは正しくない。疾風・激突・叫喚こそ彼が生涯追及して止まなかったモチーフであった。
前にも述べたように、それまで最も静かな画題であった『晩餐』を彼は激動場面としてとらえている。
スフォルツァの騎馬像も彼は後脚で躍り上がる構図を考えていた。これは技術的な理由で、結局普通の騎馬像型に落ち着くが、彼にしてみれば不本意な妥協であっただろう。
七メートルに余る巨大な騎馬像を後脚だけで支えることがもし構造力学上可能だったならば、彼は当初のままの構図を選んだに違いない(後年、馬の下で腕を伸ばし馬の腹に手をあてる戦士のインスピレーションを得て、この構造力学上の問題は解決する)。
0284名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:18:52.81ID:bnp1Rhrb
【その10】
レオナルドはなぜ『アンギアーリの戦い』の壁画を完成しなかったのであろうか。
乾燥に失敗して絵の具が流れてしまったためとも言われ、下地が不適当であったために絵の具が壁に馴染まず、剥落してしまったためとも言われる。真相は不明である。
が、私は、マドリッド手稿に彼自身が書き残している1505年7月15日の嵐によるカルトーネの冠水という事件を重視する。
冠水によるカルトーネの破壊は、彼の精神にとって、一種の転機をなす事件ではなかったかと想像されてならない。
これは全くの想像にすぎないが、彼には、自分のカルトーネが急にみにくいものに見え始めたのではないだろうか?
大自然の暴威の前に、戦争画というものが、いかにも児戯に類する絵空事に見えてきて、いわば目の前の塵の落ちたような心境だったのではないだろうか。
『アンギアーリの戦い』は、もう精魂を打ち込むに値する対象ではなくなってしまったのであろう。
剥落であれなんであれ、仕事を放擲する口実にさえなればなんでもよい、要するに早く縁を切って次の仕事にかかりたい心境になってしまったのではないかと私は想像する。
0285名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:22:14.73ID:bnp1Rhrb
【その11】
『イザベラ・デステの素描』がルーブルにある。
この素描を眺めながら、額から鼻筋、くちびる、おとがいから喉へと、レオナルドの正確きわまりない描線のあとを静かに眼で追っていくのが私のお気に入りの楽しみのひとつである。
イザベラがあれだけ熱を上げていたのに、レオナルドのほうは彼女を全く無視していたと見る人もいるが、そうではあるまい。
レオナルドほどの芸術家がこれほどの女性に心を動かさないはずがない。イザベラのあまりにも性急な懇望に応じきれなかったというだけで、彼は彼なりのペースで悠々と彼女を反芻咀嚼しながら肖像画の構想を練っていたのである。

【その12】
しかし、レオナルドはついにイザベラの肖像画を描かなかったではないかと言う人があるかもしれないが、そうではない。彼はイザベラを油絵にしているのである。
ルーブルの『聖アンナ』の聖母はまさにイザベラその人ではないか。理想化されているとはいえ、おでこな額、やや上を向いた鼻筋、いたずらっぽい眼つき、抑揚のある薄いくちびる、あごから喉にかけてのおもむきなど、あの聖母こそイザベラである。
一歩ゆずるとしても、イザベラとモナ・リザとの間に生まれた庶子である。
レオナルドといえども、イザベラなしであの聖母を創造し得たとは私には思えない。
0286名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:24:26.12ID:bnp1Rhrb
【その13】
『聖母アンナ』
はじめに、この絵は全く未完成な段階にあるということを確認しておかなければならない。
レオナルドの作品中いちばん完成度が低いのは『三王礼拝図』で、これは全体の布局さえもまだ完全には決まっていない。
登場人物はもっと増えるかもしれないし、減るかもしれない。背景の騎馬戦などはたぶんある段階で消え去るべきモチーフであろう。もちろん彩色は全くない。
『三王礼拝図』よりももう少し先まで描き進んだのが『聖ジロラーモ』である。この絵は、モノクロームの下書きが終わり、背景の一部や聖者の顔(私にはレオナルドが毎夜解剖していた死体の顔に見える)にわずかに彩色を始めたところで終わっている。
それよりもさらに進んでいるのが『聖アンナ』で、画面全体に簡単な彩色をして、色の調子が整ったところで終わっている。聖母の顔はおおよそ完成とか言う人がいるが、そうではない。
聖母の顔には額、あごの先、頬骨の上に白でハイライトまで入れてあるが、それは調子を見るためのもので、最終的なものではない。
この絵が完成からほど遠い状態にあることは、写真や複製でもわかる。キリストの向かって左側の輪郭線が、聖母の右手を境にして、上下で十五センチも食い違っている。たぶん、下半身が古い線であろう。
描き進むにしたがって、キリストの上半身は位置や大きさを修正されて現在のように変わった。修正が下半身まで波及しなかったのは、さすがの彼も、仔羊のできばえに未練があって、その辺はいじりたくなかったかので、あとまわしになったのであろう。
0287名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:27:00.74ID:bnp1Rhrb
【その14】
レオナルドが、完成という言葉でどの程度の状態を考えているかは『モナ・リザ』を見るとよくわかる。
『モナ・リザ』ももちろん完成した絵ではない。著名な識者は「専門家が辛うじて指摘し得る程度の未完成」などと言っているが暴論もはなはだしい。
左手が未完成であることは誰が見ても一目瞭然である。他にも、たとえば左肩から胸にかけてかかっているものが、現状では、たぐまった布よりも、むしろ籠の鉉か何かのように見える。
こんな不得要領なもの(例をあげればきりがない)を含む状態で完成画とはとてもいえない。
しかし、たとえば右手(腕ではない)などは彼自身もほぼ完成と考えていたのではないだろうか。
私は『モナ・リザ』の実物を見て、レオナルドのスフマートの絶技にあらためて舌をまくと同時に、私どもの持っている複製技術、写真とか印刷とかいうものがいかに幼稚な段階にあるかをしみじみ考えさせられた。
現在の複製技術にとって、レオナルドを伝えることは全く力に余る。最近の『モナ・リザ』の複製を見ると、亀裂がひとつひとつ鮮明に映っていて、いかにも本物そっくりでありそうに見えるが、たとえば右手の微妙な凹凸感、透明な肌に透けて見える血管に流れる血液の温もりなどは全部飛んでしまっている。
複製でのっぺらぼうな『モナ・リザ』ばかり見ていると、いつかそれがほんとうの『モナ・リザ』でもあるかのように思えてきてしまうだろう。
それを避けるには、実物の直接鑑賞しかないのであるが、私自身は「8Kカメラで撮影した8K画像」に期待している。
4K画像を遙かに上回る(まさに窓である)現在所有している「パイオニアPDP-5000EX」画像を凌駕するとしたら「8Kカメラで撮影した8K画像」しかないだろうから
0288名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:28:59.15ID:bnp1Rhrb
【その15】
1501年のカルトーネは結局油絵にはならなかった。構想が更に大きく変わり、キリストの受難を象徴する仔羊が洗礼者ヨハネで置き換えられる。この段階を示すのがロンドンのカルトーネである。
結果的には、ロンドンのカルトーネはいわば寄り道となる。
『聖アンナ』は三位一体画とも呼ばれ、祖母と母と子で三位一体を象徴する神学的意味を持つ画題である。単なる聖家族の絵ではない。
したがって、受難を象徴する仔羊があってはじめて神学的な意味における構図が完成されるのである。
しかし、この寄り道をすることによって彼の構想は最終的にふっきれたように思う。ロンドンのカルトーネのキリストの位置まで聖母が前にかがみ、ヨハネの位置までキリストが移動したのがルーブルの絵の構図である。
レオナルドが、幻想の中で、ロンドンのカルトーネの背後にルーブルの絵の構図を認めたのであろうと、私は思う。

ルーブルの『聖アンナ』を彼は死の直前まで手がけていた。彼はこの絵を楽しんでいたように思える。この絵にかかっているときが彼にとっていちばん自分の時間ではなかったかという気さえする。
暇さえあればこの絵に帰ってくるのが彼の最晩年の生活だったように思う。
聖母の足もとの小石がひとつふたつかなり念入りに仕上げてある。小石の変に硬い感じが実に良く描けている。
しかし、この調子で全体を仕上げるとしたら、一体いつでき上がるつもりだったのだろうかと苦笑を禁じ得ない。
時間など完全に超越してしまって、こつこつ仕事をしていたのであろう。ハイゼンベルク教授がいつ完成するともしれない統一場の計算をこつこつと進めていた様に似ている。
0289名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:31:43.85ID:bnp1Rhrb
【その16】
背景の山水にはウフィツィの『聖告』の背景以来の伝統がある。突兀たる奇岩の重畳は『聖ジロラーモ』や『岩窟の聖母』でいちど中景から前景にまで押し出してくる。『晩餐』では室内から窓越しに見えている。『アンギアーリの戦い』もおそらくこのような風景の中で戦われるはずだったであろう。
『モナ・リザ』で再び遠景として扱われる。『聖アンナ』の背景はその到達点であり、完成である。
ドロミーテン・アルプスを連想させる急峻な山々が奥へ奥へと重なりながら、どこまでも深まってゆくおもむきは無類である。これほど画格の高い絵は、『雪舟の山水図』意外には無い。
レオナルドの『聖アンナの背景』には水墨画の山水にはないふしぎな光がある。輝きがある。
この光と輝きというのは、三王礼拝図』以来レオナルドの絵に固有のもので、おそらく色の対比と、それから逆光をじょうずに使うことによって生み出すのであろうが、画中の空間が光を含んでいるような感じがするのである。
彼は大気を輝きとしてとらえ、それを表現することに成功している。
0290名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:34:26.29ID:bnp1Rhrb
【その17】
『聖アンナ』の聖母は、絵画史上にに創造された最高の個性のひとつだろう。
識者はモナリザ以降彼の絵にあらわれる新しい女性類型などと訳のわからぬ解説をするが、とんでもない。
この聖母は、前にも書いた通り、『イザベラの理想形』である。
「何ごとにも動じない、落ち着いた、ものごとを悪戯っぽく眺めている愛想のよい女性」というブルクハルトの言葉は、この聖母にこそぴったりあてはまる。
私の娘に言わせると、「お手玉のじょうずそうな」聖母である。
よく発育したしなやかな体軀は成熟した女性美の典型である。考えぬかれたポーズによって、ピンクの着衣に空色のマントという図象学上の約束が最高の絵画的効果を生んでいる。
この聖母に理知的なアンナを対比させる構想は、ロンドンのカルトーネのものをそのまま踏襲している。
この絵が完成にはほど遠いことは、聖母の右腋下から腰の上部にかけて盛り上がっている衣服のたぐまりも気になるし、この襞は即物的合理性を欠いている。
ぼかしの技術も拙劣である。
この聖母は、母親ディオーネの膝に身を横たえて「神々の安逸」にひたっているアフロディーテの分身である。レオナルドは、アペルレスかポリグノートスでも描きそうな絵を描いて了ったのである。

『聖アンナ』の全体的印象をひと言であらわすとしたら、俳諧がある。
人生の黄昏に臨む大天才の枯れに枯れきった全人格を彷彿させるような絵である。良く費やされた人生は老後に飄々とした一種の境地をもたらすもののようである。
アインシュタインやハイゼンベルクとか、そのいかにも蝉脱した人柄は充実した人生の年輪のようなものを感じる。
『聖アンナ』の印象はまさに彼らの印象に通じるのである。
0291名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:37:30.28ID:bnp1Rhrb
【その18】
レオナルドとほぼ同時代の日本の水墨画家である『雪舟』の
・『紙本墨画秋冬山水図』2幅、各47.7cm ×30.2cm(東京国立博物館)
→特に冬山水図
・『四季山水図巻(山水長巻)』1巻、縦39.7cm×横1592.0cm(毛利博物館、文明18年(1486年))
こそ、レオナルドの『聖アンナ(ルーブル美術館)』『モナ・リザの右手(ルーブル美術館)』『聖ヨハネ(ルーブル美術館)』『アンギアーリの戦い(存在せず)』『完成直後の最後の晩餐(修復され原作は想像するしかない)』に 匹敵する、強靭な精神が描いた人類の至宝である。
0292名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/14(金) 22:48:40.60ID:bnp1Rhrb
以上【その1】〜【その18】
これは1973年前後に、私の思考メモノートに私が書きしたためた文章を、ここに改めて書いてみた。
当時8Kなどというモニターは無かったから若干の補足はある。

この当時使用していたスピーカーシステムは、確か「K.E.F.のconcerto」だったと思うが、トリオの家具調ステレオにカートリッジのみシュアを使用し聞いていたかもしれない。
50年近く昔のことだが、レオナルドに対する考察は当時も現在も全くぶれてない。
0293名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/15(土) 21:52:26.38ID:Mo3duLLb
「ヤマハのNS-690」
もこの時代の製品だったと思う。

御茶ノ水のユニオン最上階の試聴室には
JBLのオリンパスやアルテックのA7が鎮座していた。
0294名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/22(土) 03:50:58.22ID:19mkU/eU
当時は音質に妥協しない純国産の銘機があった。
今では部品が製造終了していて入手困難。
0295名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/24(月) 12:03:12.17ID:maoVhXpo
PMA−60のヘッドホン部と310USBとではやっぱり聴いて明らかな違いがあるのですか?
0296名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/24(月) 22:14:45.26ID:h+OQJyxK
リサイクルショップで発見してやっとレストア完了したこのデッキなんですが
ネットでは全く情報が見つからず困ってます
この東芝MT-3010について詳細ご存じの方いたら教えてほしいです
たぶん70年代の機種だと思うんですが…
https://dotup.org/uploda/dotup.org2705502.jpg.html
0298名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/25(火) 13:41:20.66ID:p6s3hzZ6
>>296
このページの「凝る人のメカニズムが勢ぞろいしました」のページの狭間にある。
タテ形スタイル丸形ダイヤルAM/FMカセットテープステレオ MT-3010
昭和49年の新発売で99.800円
セットのスピーカーがSS-301、18000円
http://plaza.harmonix.ne.jp/~ita/8882/S49CATO.htm
http://plaza.harmonix.ne.jp/~ita/8882/t4903_2.jpg
http://plaza.harmonix.ne.jp/~ita/8882/t4903_3.jpg

ここまでは割とあっさり見つかった
というわけで、このサイトの運営者に聞けばさらになにか情報あるかも。
02992962022/01/25(火) 20:47:23.05ID:3ZIUri4P
>>298
おお確かに載ってますね!当時のカタログは盲点でした
教えてくれてありがとうございます
しかし当時で10万円とはかなり高級機ですね…
0301名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/31(月) 15:18:19.74ID:5CPFS72Z
日本で最初のレコード盤のテレビCMと言えば
布施明のアルバム「シクラメンのかほりから」キングレコード1975年リリース
という事らしいですが、本当でしょうか?
0303名無しさん@お腹いっぱい。2022/02/01(火) 00:10:41.09ID:hHR5dwG0
プリメインは寝室にL-550、E-302
あるところに#1250
どれも素晴らしいしサウンドにキャラクターがある気がする。
ブランドイメージを体現してるというか。
0304名無しさん@お腹いっぱい。2022/02/05(土) 23:52:43.44ID:Y5Ze72XC
>>293
同じヤマハでも、友人宅の「黒光りしたNS-1000M」は酷かった。
ベーム&ウィーンフィルハーモニーのブルックナー交響曲4番(LP)が聞くに耐えない音で鳴った。
0305名無しさん@お腹いっぱい。2022/02/07(月) 10:44:24.80ID:buHBrp68
オーディオは79年製まで。
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