【アクトゥアリテート】永井均 10【レアリテート】 [転載禁止]©2ch.net
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とりあえずスレ立てたが次からテンプレ作った方がいいかもな どうでもいいけど、永井は『寄生獣』の映画・アニメを見たりしてるんだろうか
同じ曲の異なる演奏・歌手が好きなら、漫画の映画・アニメにも興味が
あってもいいような気がする 唐突にしばらく前のツイートについて話を振ってみる。
「だれでもないあなた」について、「信仰」というものは必要なんだろうか。
「私」「あなた」等々の共通の言葉を使っていれば、「だれでもないあなた」
も当然理解として成り立つというか要請されるというか、そういうものかと
思っていた。 注釈って私のメタフィジックスみたいに段落毎に逐一ある方がはるかに読みやすいわ
私の哲学を哲学するとか飛びすぎ 漫画の異なる演奏って言ったら鈴木翁二だな
雑誌、単行本、再単行本と掲載される度に小まめに部分的に描き直す
東京グッドバイの最終稿とか子供が死ぬってテーマにはぴったりだと思うけど そんな人いたのかw
手塚治虫も単行本で描き直してたと聞いたけど(自分で確かめたわけじゃないが)
そういえば哲学界の某ビッグネームも増刷のたびにこっそり書き直してた
とか何とか(内容読まずにそんな知識だけ仕入れても何の意味もないけど) 1.XだけのはずなのにXとYがある
2.XとYがあるはずなのにXだけがあり
1と2の循環 独現論(?)を表立って主張してる人なんているのかな
というか、「いやいや、君のその現実と全く同じように、この現実だって
ちゃんとあるじゃないか」とツッコんでくる人(?)なんて見たことないからなw なんで今までの本で「独これ論」には触れられてないのかな
正真正銘比較対象がないから議論すべきこともないのか…
系列が生まれないっていうか 月姫ってマンガ(エロゲ原作)読んだ時に、「不死者」って〈私〉や存在の
例えだなぁって思ったんだけど、例の合同本で入不二が
4.この私だけが必然的にゾンビであり、他者はゾンビであることは不可能である
って言っててワロタw 私の哲学を哲学するのP134に
「ラカンはこのことをしも「原抑圧」と」
ってあるけど「しも」は誤植かね? 〈私〉の哲学を哲学するの青山用語解説で初めて知ったけど、哲学で様相って
言ったら現実とか可能を云たらする時にでてくる用語っぽいね。
永井の場合の「様相化」はL.W.の「文節化されてない音声」を象徴的な意味で取った
場合に対応している語であって、現実と可能の対比で生まれてきた語じゃない。
だからもう一つ語を追加すべきだと思うな。
可能世界論に対応する「○○化」と、人称化や時制化よりも一段深いところにある
「これ」や「文節化されてない音声」に対応する「△△化」は別物だと思う。
パラレル化と様相化でも良いし、様相化と真様相化でもなんでもいいけど。 >>21
ツイートのどっかに書いてあるだろ…と思ったら、必ずしも明確な分かりやすい
定義のような形で書いてるところは見つからなかった。
まあ例えば外界の存在とか過去の存在とか他人の心の存在といったものについて、
あえて「疑える」「存在しない可能性もあり得る」といった語法を使うことで、
やはり疑えない、存在しない可能性はあり得ない、ということを把握する、
というようにまとめられるんじゃないですかね。
「68+57=5であることもあり得るのではないか」とかいうのは、その一例に
なるのかなあ? さらに根拠のないしょうもない連想が働いてしまったが、「「人を殺してはならない」
を疑うことなどあり得ない。まともな子どもはそんな疑いを持ったりしない。」
とかいうのは、それによってかえって疑う可能性を開いたりするんだろうか? 倫理とは何かの「対比の拡張」のaとb、AとB云々がよくわからない
具体例を代入しておしえてください! 賑やかな呟きでバッハはバッハ、グールドはグールド〜みたいなこと書いてるのどこでしたっけ >>25
147頁?
たまたま見つけたけど、小見出しから探すのはまず無理だなこれw >>26
ありがとうございます!
この手の本で索引ないのは痛いですよねぇ 口や心についてのツイートは、個人的にはよく分からなんだ。
「心はおのれの発話意図を実現する口がどの口であるか知っている必要があるが」
知っている必要があるんだろうか。
例えば、目の前の鏡に映ってる口と、隣に座ってる口があるとして、鏡に映ってるほうが
この口だと思って発話したら、なぜか隣に座ってるほうが動き出した、というのは
別にあり得る(普通はないけど)という話だったと理解してたんだけど。
「心は「この心」がどの心であるかだけは知らなくてよい。」「というか知りえない」
これは、心というのは実はこの心しか存在しない(他の心というのは概念的構成物
でしかない)という観点からすれば、どの心なのか知るもへったくれもない、
というような意味だとすれば(あるいは、他の心がそれぞれ存在するという観点に
立った上で、それぞれの心がその心自身を認識するとかいう理解が成り立ってしまい、
ただの自明なことを言ってるとみなされてしまう、というような意味だとすれば)
今までの話と同じことだと理解できる。
しかし、そういう話ではないのかなあ。 黄色い本で存在論もエンタメになっちゃう的なこと言ってたが、
個人的に口の話は一気にエンタメ存在論を真性の存在論に引き剥がしてくれて好きだわ
浸れる要素がないんだよね、理屈っぽくて 入不二のウィトゲンシュタイン私を消去できるかって本で、
独我論の参考図書が私今神になってたけど、
自分があとがき書いてるブラックジャックにしときゃいいのに 『〈私〉のメタフィジックス』は小中高の順に並んでて、大は最早興味がないらしいけど、
その後の著作は逆の順になってる気がする、『〈私〉・今・そして神』の最初の方とか一般読者
向けって感じだし、『倫理とは何か』に至っては「騙されたと思って最後まで読んで見て」って
最初に言ったことを最後に無化するみたいなやり方がすごく顕著
大→小の本は俺には相当苦痛だから、たまには小→高の本も書いて欲しいよ
あ、でも青色本の奴と意識のは結構後者だと思う やっぱり直接講座聴いた方がわかりやすいわ・・
ライプニッツってアヴィセンナと関係あったのか
アヴィセンナ→ガンのヘンリクス→ドゥンス・スコトゥス→ライプニッツみたいな感じ?
朝カルでまたやってくれないのかな。。 魂に対する態度のP69最終行の「前者」って「後者」の間違えでは?
前者だとニーチェが社会的・法的観点を否定したことになるように思えるんだけど 永井さんがエゴイズムについて論じた文章ってありますか? 子供が死ぬっていうけど、子供だって去年や昨日の自分と解離感感じたりするじゃん?
それこそ毎秒そう感じてもいいし、なんで「1回しか」死んだらいけないのか理解できない
それに子供が死んで大人になるってのもわからない、子供が死ぬこととその脱け殻が大人に
なることは別の事でしょ なんになったっていいはず ここには永井の主張が隠れてると思う 超越的長い物には巻かれろ主義ってググっても一件も引っかからないくらいマイナーな用語なんだな いがらしみきおが朝日新聞の書評で『私・今・そして神』をとりあげている
いがらしみきおの『I』はタイトルそのまんまに独我論をテーマにした漫画
だったし、最近でた『今日を歩く』のあとがきでも独我論ぽいことを書いてる マンガは哲学するじゃ取り上げられてなかったなその人w
軽くググったが電波臭すごいな 私今神の冒頭の学校の備品がただなくなる話、
具体的にどう哲学的なのかどうかして欲しいな
「なぜ意識」で関係のある話はあったと思うけど
でも中学生の発言っていろんな迷いや混じり気が
あるところが魅力だったりするから、そこを「趣旨」
の一言でまとめちゃうと台無しな気がする 同じとこの音楽の比喩がずーっと意味わかんなかったんだけど、やっとわかった
後半の例えが哲学問題集を上手に解くだから理解できなかった
要するにカントが純粋理性批判を理解してないとか、ウィトゲンシュタインが論考を理解
してないかもしれないって事か
哲学問題集を上手に解ける人も「哲学を自分でやってない」って言われてる人なんだから
このたとえには使えないんじゃないかな たとえって言うかたとえられてる方だけど 私は消去できるかって奴読んでみたけど結構おもしろかったよ
永井がハイデガーをエンタメって言う意味でだけど 入不二は永井がいうところの<魂>に対する態度を
生活の次元における振る舞いとして(も)語ろうとするところに違和感がある 〈魂〉に対する態度ってあの本以降見た覚えがないから撤回したのかと思ってた
永井の本であの本が一番「過渡期、模索期」って感じする 永井自身の語りが神の視点からの語りに読み替えられてしまうことに気づいたのだろう 「〈魂〉」というのは、後の言い方で言えば「「概念化されない私」という概念」
とか「《私》」とか言われてるもので、もう用語としては使われてないんじゃ
ないのかなあ。
むしろ、今と他時点との対比の議論がなされる前の用語であって、下手すると
「記憶の連続性にかかわらず時間を通じて存続する私の本質」とか何とかいう
誤ったイメージを呼び起こしかねないという点では、今となっては避けるべき用語
なんじゃないかという気がする。(適当) 今は道徳問題と存在問題を完全に一致させることに成功して説明もうまくなってると思う
「道徳のせいなのね」 あ、いや、なんでもない 最近の永井の本はすごいこと知ってるなぁって胸を借りるつもりで(勉強するつもりで)読むんだけど、
昔のは子供をあやすように「はいはい、それはわかってますよ、でもね」って感じじゃないと読めない
(私のメタフィジックスは例外)。意識は実在するか辺りで表現の仕方が革命的に進歩してる気がする。 子どものため哲学のP187の最後から次のページにかけて
「概念体系が完全に横領されているというのは、自分[ニーチェ]自身が圧倒的に
道徳的な心性の持ち主であったことからくる錯覚にすぎなかった。」
って書いてるけど、今の永井哲学からすると錯覚じゃなくない?
そもそも概念自体が道徳の産物って見なしそうだけど 言語化と道徳のつながりって散々言ってると思ってたけど、俺の勘違いなのか 最近のツイートを見て反省した
素人のくせに勝手なことを放言するのは慎もうw
そういえば、文学界のここ2回の連載は、何だかすごい話が始まった…
ような気がする
(ような気がするとしか言っていない) ムリですw
まあ別にAmazon書評なんか書いたことないし、素人が何とか「ひたりつく」を目指そうとすることと、
「批評」をすることとは別なんだろう、と自己正当化を試みる ウィトゲンシュタインの独我論を言語的独我論って言ってるけど、
これの意味がよくわかりません、おしえてください
それと、いろんな本で最近の考えをまとめる大書を予定中と書いてますが、
実現の目処は立ってるんですかね L.W.の独我論は存在論敵独我論ではあるけれども、
存在論敵独我論は言語的にうまく表現される必要などないのだが、
ウィトゲンシュタインはそこに固執して、言語的に表現しようとした、ってことじゃないかなぁ 今日は無為の日だそうですが、残念ながらあと1時間足らずで終わってしまうようだ
いや、このような、1日が24時間とか、明日との対比とか、そういう発想自体を
捨て去らねばならんのですなw(適当)
いや、ずっと捨て去るとさすがにまずいので、そういう今日とか明日とかいう発想を
今日だけは捨て去ればいいのかな(??) 『天女たちの贈り物』読んだ人いますか
ぷねうま舎の本って中規模店にはまず置いてないのよね おそろしくつまらなそうに見える本だけど、つい買ってしまいそうだ
>語りえぬものを呼びだす天女たちの舞、宇宙崩壊ビッグクランチのシナリオをくつがえす
>想念の跳躍と祈り……形而上学と東方の神秘思想と現代宇宙論とがあやなす救済の物語。
本屋で見てもさけて通るレベルw >>73
初めて見に行ったが、そうみたいだな ワロタ ショーペンハウアーを数ページだけ読んだけど、永井と言ってることほとんど変わらないじゃん
なんでどこでもかませ犬みたいな扱いなんだ >>75
どの本のどのページを読んで
永井の議論のどの部分とどう類似していると判断したのか教えてください ツイッターアカウントが乗っ取られたとかどうとか、そんなことは哲学的には
(あるいは少なくとも永井の議論的には)大した問題ではない
そのような問題は、せいぜい、他人から観察・確認可能な「永井均」という
一人の人間の同一性について何らかの議論になりうるかどうかという程度であって、
<私>の存在そのものの問題とは何の関係もないし、また<私>がそこから声を出す
(文字を書く)唯一の口(手)と、他人から観察・確認可能な「永井均」の口(手)が
なぜかたまたま一致しているという問題についても、それはたまたまに過ぎないから、
それに何らかのずれが生じて他人には理解しがたい状況となることも理解しうる
むしろ、このような議論、このような問題の区別を永井が論じてきて、それが
理解されているからこそ、誰も本気で「あれ永井がおかしくなったのか?」
などとは考え出さず、確信を持って「ちょw永井のアカウント乗っ取られたww」
と笑い飛ばして済ますことができるのであるw(適当)
(※これはちょっと適当すぎてだいぶ不正確だな、たわごととしてご容赦ください) 俺は「あれ永井がおかしくなったのか?」というか
「何かの実験を始めたのか?」「リツイート瞑想か?」と思ったけどね >>76
意志と表象としての世界の2節、「すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、
これが主観である。」のところから 848:名無しさん┃】【┃Dolby:2015/06/11(木) 01:22:25.53 ID:1bEBMowN0
何が匂っていようと、匂っているのは私だ!
私は私の独我論をこのように表現する 待ちたまえ諸君っ、なぜ私から離れる?? W誤診のP174の3-4行に「どちらの論点」「後者の論点」とありますが、
この2つの論点がどこを指してるのか国語的にわかりません。
教えてください先生! 「法と政治の対立」は、言語と存在の対立に対応する部分があるのだろうか
もちろん直ちにイコールではないけど W入門にピンセントは戦死って書いてあるが、従軍せずに飛行機事故で死んだんだから間違いじゃね? 鈴木康夫『天女(アプサラ)たちの贈り物(マーヤー)』刊行記念トークショー
永井 均(哲学者)×鈴木 康夫(作家) 宇宙的なわたし
https://www.youtube.com/watch?v=3Jb8N-t4IPI 朝日カルチャーセンターの話を聞いてから文学界の連載を読み直したら、
前より多少は頭に入ってきたような気がした
しかし「端的な動く現在」とは何なのか… >>87
そうですよねこれですよね、決してそのレスの書かれた時点のそれではなく、
今ここにあるこれですよね(やけっぱち) >>88はあまりにやけっぱち過ぎて不正確に過ぎた
どの時点も紛れもなく現在で、いつでも現在なのだ
…?
??? 私や今の議論に現実を加えるのってなんかうさんくさいんだよな
現実って言葉を可能世界云々の哲学的議論との比較で覚えてる人なんて
哲学習ってない人には皆無だろうに
ちょっと話変わるけど、ゲーテが
「自分の親しか知らない子供は、自分の親をも知らない」
って言ったらしいけど、この言葉って永井の議論を強烈に思い出すわ それは例えば、本来は「客観的なもの」と「それに対する認識」という対比で
理解されるべき「認識」について、「全ては認識でしかない」などと理解しようと
すると、結局は「認識」も理解できていないことになる、といったことですか(適当) 認識じゃなくても「これ」でも「私」でも「今」でもなんでも代入できるよね >>93
それらはどれも>>92には代入できないと思うけど
特に「これ」を代入するのは無理があると思うけど
「認識」のところに「これ」を入れるとして、「客観的なもの」のところには
何が入るの? まぁ、「これ」って用語は最終的に「これ」という用語を否定してしまうし…
これ×が分解されて<これ>になったってのはおもしろいw 「アインシュタインを教授にしないのと同じだ」ってウィトゲンシュタイン入門の言葉の意味を、
アインシュタインが教授になってない=アインシュタインくらい頭が良いと教授の職は与えられない
って意味かと思ってたw 「今までウィトゲンシュタインを教授に推さなかったのはそういうわけだよ」と
ググったらアインシュタイン普通に教授だし・・・ アヴィセンニズムってググってもでないんだけど、なんなの? 対戦型スポーツであっても、実は本質は相手に勝つことではなく、例えば
型の洗練みたいなものが本質だということか
そうだとすると、議論の筋道自体は理解できるように思うけど、何か、
うさんくささを感じる
「対戦の結果などどうでもいい、自らの型を極めることこそ大事なのだ」
とかいう人がいたら、それこそまさに価値転倒による陰湿な勝利を目指してる
ことにならないだろうか
もうだいぶ前だけど、アメリカのどっかのじいさんが一人でフリースローを打ち続けて
ギネスブックに載るとかして、それを通常の対戦競技としてのバスケットボールの
中では史上最強の化け物というべき
マイケル・ジョーダンが称賛してた、
とかいうニュースを聞いたことがあった
これなど、うさんくささを禁じ得ないw
(ジョーダンその人というよりは、そんな取材をした人の問題かもしれないが) うーんなかなか難しいな
「双方ともに」根本的な解釈が違うことが本質なのだとすると、実はルサンチマン的
価値転換は、というか少なくともその場でどちらが強いか(例えば腕力で勝っているか)は、
別に本質とは関係ないか
腕力で負けたほうだけが、ではなく、そもそも双方ともに最初から解釈で
戦ってるのが本質なのであれば
さらにひねくれると、むしろ、「喧嘩の理由だの言い分だのどうでもいい、
とにかく腕力で決着をつけろ」というのは、ただそれだけで健全な戦い方だ、
ということになるのだろうか(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています