【アクトゥアリテート】永井均 10【レアリテート】 [転載禁止]©2ch.net
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世界に自分ひとりしかいなくても問題は増えも減りもしないって言ってるから関係ないでしょ >>597興味あったらここ読んで見たら
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-29.html
基本的に井筒俊彦氏について論じているところだけど
永井氏の<私>とあと終りの方で三浦雅士氏がカントの『視霊者の夢』について書いているものが引用されてる マンガは哲学する読むといつも思うのが「夢の真相」の章読んで夢の真相を理解する人
はほとんどいないんじゃないかということw いつも期待して読んで結局わからない
「中心化」って主題は一時期重要視してたみたいだけど、今全然言わなくなったな ウィトゲンシュタインの誤診を書く前と後じゃ、永井のW観って結構違うんじゃないかな
子どものための哲学対話のW観とかもう捨ててそう 朝カルで講座聴いてきたわ
ライプニッツ原理の説明
(カント原理によって儚く消え去る・・とか)
が当人から聞けて味わい深かった
もし<私>がトランプだったらとか即興的にやってくれるかと多少期待してたけど
それはやらなかった(変な人とは言ってたかな)
もしトラじゃなくてまじトラだったからかな
時々聴きに行きたいからこれからも講座は続けて欲しいな ライプニッツ原理って今は別の言い方になったんじゃなかったっけ 独特の説明の仕方で当人から直接聞けたからちょっと感動的だったな
ライプニッツ原理
っていうかどちらかと言えばデカルト主義者(?)なんだろうけど デカルトの〈これ〉だけがあると、この〈私〉の存在に関わるライプニッツ原理って
直接は関係ないと思う デカルトの場合人間なんかいらないから ウィトゲンシュタインが独我論の問題を感覚与件や「私」の文法の問題に閉じ込めようとしたのは、
自分が論理学者だと思ってた名残りなのかな。いくらなんでもバカすぎる。 デカルトのコギトは、私ではない。コギトは狂気をも包み込む。私は「自分を南瓜だとおもっている狂人」を排除するだろうが、コギトはこの狂人さえも包摂する。そしてこのコギトこそ〈私〉に他ならない 独在性の私と独我論の私がどう違うのか詳しく書いて欲しい
こういう比較するとき急に独我論を軽く見積もりだすのが永井のダメなとこ
真正の独我論は独今論も含むし、他人と共有できないし、そもそも言語で表現される必要もない 永井氏の著書そんなに読んでないからかわからないのですが永井氏が何処でそんなことしているのですか デカルトのコギトは恐ろしいが、さらに恐ろしいのはこのコギトをコギトたらしめている力ではないだろうか?
この力こそ、自我や主体に先立つ、原初的自然であり、哲学の歴史は、この原初的自然を指し示すための努力の軌跡ともいえる。
どのみちデカルトがコギトの確信のあと、神の要請が必然的だったように、〈私〉には〈神〉が必然だと思われる。
しかしその神は、デリダの言うように、なんら実体的なものではなく、それは未だ果たしえぬ約束であり、「摩擦を確保する」(へーゲル)ために、想定される「説明項X」なのだ。
神をも超える(殺害する)〈私〉…神の死を宣告するニーチェの狂気… 神殺しはへーゲルだろう。あの閉じた円環の哲学に神の入る余地はない。永井も言っているがニーチェは明らかに有神論者。 ニーチェは存在論的な神を考えられるほど哲学的感度がないみたいに言ってない? 永井って岡田淳の児童小説読んでると思う それで自分の方がもっとうまく書けると思ったアイデアが翔太に入ってると思うな
二分間の冒険のもっとも確かなものが自分ってのも翔太にさらに捻りを入れて本質をついた形で入ってる 時代はいずれ永井均のものになるだろう(byニーチェ) https://mobile.twitter.com/hitoshinagai1/status/807237983040520192
永井均 @hitoshinagai1
拙著『改訂版なぜ意識は実在しないのか』のアマゾンのレビューでアマゾン太郎という人が訳知り顔で書いていることは(アマゾンのレビューによくあることですが)全く出鱈目なので注意。現段階で原本を読む理由など全くないです。必ず最初から改訂版を読んでください。その下に書いていることもただの嘘
午後11:58 · 2016年12月9日
こんなツイートがあった
まあそれはそうなんでしょうね
無内包が明確に打ち出されてるから、最近の本にもつながるし
逆に原版を読むと、私と他人の違いを、いわば内包の違い(本当に感じられる
意識や感覚と、感じられない意識や感覚の、内容の違い)のように理解してしまう
おそれがあるんだろうか
個人的には、今振り返ったら、同じ累進構造図が使われてるんだし同じ議論だろう、
としか思ってなかったけど 大学入試の問題に作者が口出すの嫌ってるけど、自分のときは軍馬のごとくw 〈私〉の哲学を哲学するで無内包概念が外部の無さと現実性に分裂してるとこあったけど、
新版だと後者寄りで旧版だと前者寄りなんだよね
人称時制様相がいかに形成されるかってのが前者の哲学で、〈私〉今そして神の開闢の
哲学だと、それは最初から前提にされてるから裏に回って哲学することができない。
現実性は開闢の哲学の系譜だから永井がどんなふうに混ぜ混ぜで考えてるのか知りたい。 <魂>に対する態度かなんかで全く別のことを受け取ってくれると嬉しいって言ってたのが懐かしい。 無印はアクセル全快で改訂はところどころブレーキ踏んでる感じ
講義自体はもっとガンガン言ってたのかな 哲学書は整理して書かれてない奴の方がおもしろい(俺は別だから!) ウィトゲンシュタインが青色本なんて読む意味ない、哲学的探求だけ読めば良い
青色本読めって奴は何一つ理解してないでたらめだ!って言ったとしても、
既にその両方とその間の変遷を自分の内側から味わい尽くしてる人には何の意味もないわな
作者にそんな権限はない 青色本で言えば独我論、意識で言えば野心的と言われた部分に変化がある
入不二の無内包をある方向に (独在論の側に) 誘導した議論すら他の本にのってて本当に味わい深い
ペットボトルを思い付いたのが意識の思考のトレースでそれが永井本人に否定されるところも含めて
しかもその部分は実は永井は認めた上で一段高い議論をしたともよく読むと読めたり本当におもしろい 旧版含めて全部読んで研究する勢いの人なら、また別論なんじゃないの
問題のレビューは一冊だけ読むなら旧版と指定してる(しかも、研究する種類の人じゃなく
むしろよく知らない人が多いであろうAmazonレビューという場で)ところが問題なんじゃ
あと、人称(や時制)が形成されていく手前の話が詳しくされているという点で
『西田幾多郎』と似ているという指摘は、分かる気がしたけと、そこに『誤診』が
入っていたのはよく分からんかった 自分が見たときにはAmazonレビュー既に消されてた
旧版を薦めていた事は判ったが
>その下に書いていることもただの嘘
何が書かれていたのか凄く気になる ほんとだ、早くも消えてるわw
「その下」という部分は、旧版と通じる内容なのは第一に『誤診』、第二に
『西田幾多郎』、というようなことが書いてあった つーか、解釈とか抜きに単純に見ても改訂版から入ると私の哲学を〜で何を指摘されてるか
わからないと思うんだが、なんでこんなヒステリックになってんだろう
出版社とかの大人の事情か >>627
なるほどありがとう
単なる解釈の違い、勘違い、曲解の範疇だと思うが
これを嘘呼ばわりするのは嘘という概念に反するのでは 私は原本どころか存在と時間(あえて言うならヘーゲルの辺り)も一緒に読まないとダメだと思う
本だけじゃなくて自分でも考え続けないといけないし 吉田戦車を言語ゲーム的に楽しむ感度が云々って言ってるけど、
ウィトゲンシュタインも自分のことを単なる器用な人間と思われたくなくて
背景にある考え方を大事にした上で細部にこだわるって方針だから、
普通の人がいきなり細部が気になるのはむしろウィトゲンシュタイン哲学の才能がないのでは モノラル音源をデジタリリマスターでステレオ化したら味がなくなったって文句言われてたドラマ思い出した() なぜなにかを書いたり書き直したりして良いのかって疑問がある
既に書かれたものの素朴な神聖視というか
これも私界未分の哲学で考察できると思う 世界は元々分節されてないという しかし旧版に価値がある、しかも「読み比べて深く検討する」ではなく「一冊だけなら
旧版を薦める」とまで評価することに同意する人が、そんなに多いの?
無内包と、マイナス内包的な発想との区別って、初心者が一番気を付けるべきこと
じゃないかと個人的には思うので、そこを永井ご本人が強調したくなるのは
もっともなことだと思うんだが
いや、本当にそう思うのなら、ご本人が何と言おうが、旧版のポイントを詳しく説明して
みせればよいのじゃないかと思うけど PsycheRadio @marxindo · 3時間3時間前
エリートが「弱者」に優しくできるのはそれらの人々と一緒に暮らしたり一緒に働いたり資源を取り合ったりする心配がないからラジよね。
昼寝猫 @tcv2catnap · 2時間2時間前
ラジ先生、しかし本邦の「真のエリ−ト」が弱者に優しいの近代史的に見たことないラジw それは当然のことである。なぜなら、私自身も他者に対しては、そのように振る舞うことにしたのだから。 子供が死ぬって言うけど、子供は子供で毎年毎日毎秒死に続けてると思う ガンダムの富野のこのDVDは、買ってはいけません!思い出した 歌手や演奏家に昔の曲聴くなって言われるのはショックではある 複数の訳文と原文読み比べてる人が自分のことだと1つしか認めないのは商売上の都合か 永井が自分の問題と関連付けられた西田幾太郎しか紹介できないと言ってるように、
読者が自分の問題と関連づけられた永井均しか紹介できないのは当たり前のことだと思う
問題は自分の側にあるのだから 上野さんの大文字の他者の話おもしろいと思うけど永井先生は全スルーしててワロタ 意識は実在するかで<私>表記を永井さんがしてなかったのを入不二さんは
重大な点だとみなしてて、いざ永井さんに聞いたらたまたまって言われたらしいけど、
私もここ大事なところだと思ってたからズコってなったな。
正確には<>を使わなくなったのはマンガは哲学するかららしいけど。
(つまりたまたまではない)
<>も最初期に抹消記号で使おうとしたときと、魂に対する態度からは意味が違ってると思う。 『もし興味があれば、何が変わったのか(変えざるをえなかったのか)を、
対比検討していただけるとさらに面白いと思う。』
ほんすご 「これ」を現実性や独在性と見なすか見なさないかの対立だと思う
見なさない場合、原書の方が混同をしていない優れた書物ということになるし、
見なす場合は改訂版の方を買えばすむということになる。
少なくともこの対立は俺には軽視できないもっとも重要な点だな。
見えているものがすなわち世界で俺だという「これ」論に、現実性や独在論は入り込む余地がない。
余地はないがそこから様相などの分節化が始まり、「私・今・そして神」のP40に顕著な
「対比が持ち込まれて、{私}とか{今}とか、いろいろな名づけがなされていく」
という仕方で現実性や独在性概念の誕生をたどることはできる。
そのくだりのあとに「それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、
それを認めてやっていかなければならない。」とあるけど、
俺はそれを諦めて認めたのが独在論や現実性の議論で、
認めてないのがこれ論だと思う。少なくとも認めないのが可能である
(これを身をもって示したすっっごい奴の名を永井均という)という点で、
認めるしかないという解釈はただの倒錯したイデオロギーだと思う。
ただ、リアリティという言葉を使って2つの世界観と解釈するやり方もある。
リアリティって単語で語り出すのは結構すごい画期的発明なんだにゃあ。 >>649
「これ」を独在性や現実性と見なさない? ???
そうであるとすると、「これ」とは何であると理解するの?
恐らく、言語概念で整理される以前のもの、とでもいうようなことだろうけど(例えば
「痛み」でなく「このような感じ」とか?)、つまりマイナス内包のようなことだろうけど
そのような「これ」が考えられるとして、それは他人も他時点の自分も当然持っているの
ではないか、という点については、どう考えるの? 作者が作品を完全にコントロールできると思うのは端的に間違いだと思う
永井さん自身がデカルトの省察等を作者がコントロールできてない部分を題材に何度も取り上げてるんだし なぜ意識は実在しないのかの講義原稿書いてるときは、
他の本とかが全然わからなくなったらしいけど,
それすごいわかる気がする. 文庫版の手直しするときは
そんなことなかったんじゃないかな.
今までとは違う切り口で書いてたのがオリジナルで,
それを既存(〈〉の哲学)のやり口で手直ししたのが文庫版だから. 永井が入不二さん独特の哲学でおもしろいと言って無視した(笑)ところの話がすごいおもしろい
4つくらい箇条書きで意識や無内包の矛盾を含む内分を書いてるところ 風間君の質問の意味はもう一段深い(あっけらかんとした深さ)のを捉え損なってるのではないか 『なぜ意識』における無内包否定派(?)のみなさんは、では例えば、3日目の
志向性についての議論をどう理解してるのだろうか
心の中の表象と外界の対象の関係や、絵と描かれた対象の関係が、「似ているのではなく、
同じでなければならない」というのを、どう理解するんだろう
もしも普通の独我論風(?)に、心の中だけが全てであって外界の対象だの何だのは
存在しない(あるいは存在するかどうかなど分からない)、というふうにのみ考えるんだとすると、
「同じでなければならない」の意味が分からなくならないかね
いや他人事ではなく、俺も正直最初に旧版を読んだ時は何も分かってなかったもんで、
3日目の議論が何を論じていて、2日目までとどうつながっているのかピンと来ず、
難解に思えてたんだが
しかし今振り返れば、ああ無内包のことだったのか、それの認識に関する現れや
偽・否定の問題につながるところだったのか、と考えればすんなり飲み込める、と思う 自分の疑問と哲学を結びつけるのに10年かかったらしいけど、
読者も永井の本と自分の疑問を苦労しながら結びつけて読んでるとは思わないのかな 学生の頃から自分の教授に哲学を教えていて習ったことはないらしいけど、
自分の読者もそうだっていうのは盲点なのかな ヴィトゲンシュタインの感覚与件の話やそれをうけた第一次内包とかの話もそうだけど
なんでそんなこと知ってるんだろうって気分になる
よく知らないことを直感と勇気で補ってるんだろうけど >>658
本気でそこまで自信があるなら、「教え」ればいいんじゃないの
永井本人が何と言おうが、自分の問題を論じてみせればいいんであって、
別に文句言う必要も削除する必要もないと思うけど L.W.の私的言語のテクストが2通りに読めてNが片方の読み方を重視してるみたいに
NのテクストもNの意思に関係なくそんな風に受容されることもあるだろう 筆者の意向も元テキストを補完するテキストにすぎない。
それは特権的な地位にはあっても
元テキストの正しい解釈を保証するものではない。 >>661
イニシャルだけだと断言できかねるがw、NがL.Wの私的言語のテクスト(?)の
片方の読み方(?)のみを重視してるなんて事実は、別にないと思うけど
独我論的な面と、それを否定する治療者的な面との、両方を問題にしている
(とりわけ、治療者的な面では「そんなことは言えない」と言うのだが、しかし、
それも実は独我論的な面が言いたいことは何であるかを知ってはいる上での
発言のはず、というところがポイント)と思うけど 記念アーカイヴ
http://archive.is/MzqoE 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322) >>664
改めて見ると、「詳しくない人向けの読書案内」なんて表題を付けてたのか
あかんやろw
独自の解釈として、実は旧版のほうこそ価値がある、とか主張するならまだしも 『<子ども>のための哲学』は著者と出版社へ末永く利益をもたらすって日銀総裁が言ってた。 http://bookclub.kodansha.co.jp/calendar
講談社学術文庫
2017.02.10
時間の非実在性
マクタガート,ジョン.エリス 永井均
2月になったみたいね 仏教2.0と3.0って
「個体と全体」pictureと「始点と総体」picture
の違いの話にちょっと重なるのかな??と思いました でたらめだと思っていた兎と、絶対至高の真理と思ってた兎が実は一つの兎だった、
というのがこの本のメッセージなのだから 極めてどうでもいい指摘で恐縮ですが、「でんでん現象」って、一部界隈では、
全然違う意味で以前から使用されている(いた?)用語らしいんだよなw
アニメ番組について、放映開始には不特定多数の人が視聴していたが次々脱落していき、
ところが残った少数の人たちの間だけで高評価され、結果として客観的には
全然人気がないのに「90%以上の以上が評価した」などと見えるようになる、
というような意味らしい
いや、ひょっとして関係あるのだろうかw
価値についても同様のことが当てはまるのか
いや、価値についてはそれは変か 四畳半大学 宮国研究室
純粋経験に「私」がないのに、なぜ”あえて「私」と言う”必要があるのか
http://miya.aki.gs/mblog/?p=4140
独特の純粋経験論からの永井均の西田本批判など...
メンドイから隅々まで読んでないけど哲学観からして全然違う感じ >>672
議論の前提がだいぶ違うんじゃないか、という気はするね
正確にどこが違うのかは、熟読しないといかんだろうけど
とりあえずちょっと面白いと思ったのは、「場所なんていらないんじゃないか、
なぜそんなものを想定するのか」という趣旨(と思われる)のところ
確かに、思ったり現れたりというもの以外を本当に全く想定しないのなら、
その「場所」なんてものも想定しなくてよいのかもしれない
逆に永井がそれを想定したり論じたりするのは、やはり別の場所(他者)の存在が
永井にとっての問題だから、だろうか
あるいは素朴に考えても、思ったり現れたりというものも、時間を通じて
出現したり消えたりということが起こるわけで、そうすると(それらも全く
何の関係もなく、その都度現れたり消滅したりするだけだ、などと考えないなら)
同じ場所に時間を通じて現れたり消えたりする、と捉えるのも自然な気がする
するとこれも今と他時点の問題につながるだろうか
ちょっと後者は我ながらだいぶ適当だなw 翔太の培養液SFの話はいきなり「我々」からはじまるからわけわからんわ
我々で夢見るってなんたよ この時点で飛躍しすぎ 後れ馳せながら『時間の非実在性』発売記念age
『誤診』と違って、まず原文(の翻訳)がまとめて載っていて、その後に永井の
注解と論評がまとまってるのは、原文目当ての人への配慮だろうか
というか普通の訳書はそうなってるかw 青色本と違って訳書が今まで出てないからそういう配慮したのかもね 〇次内包は私であるところのその人にだけあるだけで
その点では可能的に私である誰にとっても存在する
無内包はそのような事象内容に依存しない 無内包という内包って
アクトゥエルに存在しているものがレアリテートの水準にどこまでも引き下げられる事であり
端的な事実が複数存在している事であって
これが0次内包に該当するかどうかって事だと思うけど
永井自身はツイッターで
>一次、二次、0次(言葉、物、心)こそが同じ穴の貉(レアリテート)
と言っているし、0次内包は飽くまで内包の中の一ジャンルって認識かな
もっと深い理解が出来そうだけどわからん 無内包という内包(概念としての無内包)は〇次内包とは違うでしょ
この体だけから「実際に」「見え」この体だけが「実際に」「痛く」などという時の「実際に」がだれにでも当てはまってしまう
それゆえに語りうるというのが無内包という内包で
「見え」や「痛く」が〇次内包なのでは 時間…妄想、農耕文化が生み出した?暦の誕生との関連も面白い。大洪水の予測のために?
他者…妄想、定住民族が生み出した?「こんなことしたら罰当たる」ニーチェの道徳論ともつながるかも
時間と他者から様相へ→「こうだったらなあ」可能性、そして「苦」の誕生…仏教とのつながりは?
〈いま・ここ〉からのズレ、大いなる存在の連鎖との乖離、楽園追放?
宗教も哲学も約2500年前に生まれた…言語との関連は?古代人は言葉をリズムに乗せて、つまり歌とともに言葉を使っていたらしいが
永井さん、人類史とか興味ないのかな? >>672
いやあ素晴らしいね
むしろ私と表記してしまうと誤解を生むとさえ言える
自己ってのもそうだけど、もうそれって自己じゃないじゃんっておもう
もう感覚の問題じゃないかなあ、実存といえばいいのか、とにかく「それ」はある
そしてそれは私でもないし、自己でもない 「我思う、ゆえに我あり」
↓
「思う、ゆえに思いあり」
↓
「感じる、ゆえに感じあり」
↓
「…、ゆえに、…あり」
↓
「…あり」
↓
「…」 コギト エラソーな奴。役員ぐらいのレヴェルじゃいの?
悪霊ぐらいでどうのこうの。 ちょっとまだよく読んでないけれど
入不二氏のマイナス内包って
「無内包という内包」のことなのか? 昨年の話題ではありますが、『なぜ意識は実在しないのか』の改訂版が出た今となっては旧版は読まなくてもいいのですかね?
それとも旧版は旧版で読む価値ありますか? >>690
未来技術板にいる者だけど、意識が実在しなきゃ困る。
将来的には肉体や物質から完全に離れた意識だけの生命体に
なるのが人間の目標なんだがね。 >>690
旧版は読まなくていいと思います
永井本人がそう発言されてた(ツイッターで)し、それに新版で加わった箇所は、
俺がざっと確認した限りでは、ほぼ「問題の指摘や説明がさらに増えた」もので、
「旧版の内容が削られた」というのはほとんどないから >>692
ありがとうございます
安心して新版だけ買ってきます >>683
人類の運命みたいな話ならば哲学で扱う課題ではないという考えなのでは
人類どころか地球の運命でも
一社会人としてどうこうという話ではないという前提ですが http://www.shunjusha.co.jp/web_shunju/01_sonzai.html
存在と意味 ―哲学探究2―
ご本人がTwitterで紹介されたものですが、新連載開始記念age
下世話な話だが、これってずっとタダで読めるのかなw
いや単行本になったら買うけどねw 10年くらい書くなんて言ってるけど、永井もWeb文春も自分もそこまで生きてるかどうか
まあ何にせよ楽しみができた 文春じゃなくて春秋だからw
さすがに2を連載出版させてくれるほど
文春は甘くないw 永井の〈私〉とハイデガーの「明け開け(Lichtung)」って同じことを言ってると思うのですが誰か分かる人いませんか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています