お前ら自分が哲学的ゾンビじゃないと言い切れるの? [転載禁止]©2ch.net
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自分の持ってる感情や意識、思考や心なんてものが本当に機械的にインプットされたものじゃないって誰が言い切れるの?
もしかしたら哲学的ゾンビかもしれないのに >>1
だったらおまえもレプティリアンかもしれんねw 孤立した人間が党派的答えだけみえるようになって
あとは内ゲバ視しちゃうのは当然ですね
ってかんじ 自分は哲学的ゾンビじゃないんだよ
それが哲学的ゾンビの定義とほぼ同義なんだから 機械かもしれないしゾンビかもしれない
そうかもしれないが他にも悩みは尽きない >>6
1は哲学的ゾンビの定義を理解できていない
言いたいことは解るんだが・・・ 俺はゾンビじゃない 星飛雄馬が野球ロボっとであったように俺は哲学文学ロボになりたいのだ
そう ひとはロボのように同じ安定ルーティンを繰り返すことで安心するのである
ひとは思考するけどロボをめざしているにちがいない! 哲学的ゾンビ映画 とは?
哲学的ゾンビが襲ってくるのか? 哲学的ゾンビに襲われると
襲われたj人も哲学的ゾンビになる
でもとくに違いが出るわけでは無い 哲学的ゾンビウイルスを扱っている秘密の研究所で事故が起こり
大半の研究員が感染して哲学的ゾンビになってしまった!
そのことを知った新米研究員Aは・・・
一方、自分が感染してしまったことを知った主任研究員Bは・・・ もちろん物理的に普通の人間と哲学的ゾンビは全く区別できない
ただウイルスに感染したという事実があるだけだ
それ以外は何の変化もない
だから主任研究員Bは意識を持っているのと全く同じ行動をとる
「なんだ。ウイルスに感染したとビビってたけど、全然意識があるじゃないか。」
「自分は意識があるし、意識していることを意識できるし、意識はあるよ!」
「ウイルスは不完全だったんだ!実験は失敗だ!だが喜んでいい。
ウイルスは無害なので研究員はみんな家に帰って良いぞ。」 意識はあるんだ助けてくれと懇願する
研究員Cに無慈悲にナタを振り下ろす新米研究員A
「こいつらを研究所の敷地の外に出すわけにはゆかない・・」
哲学的ゾンビが襲われる話になってしまった 自分が実は哲学的ゾンビだったとしても自分は哲学的ゾンビじゃないって主張でき、かつ、それが他者と共有できないところに哲学的ゾンビの問題の核心があるのではないかい? 物理的に区別できないのに人間とゾンビには違いがある
ということは物理以外の何か(魂とかクオリアとか)が存在しなければならない
ゆえに(少なくとも現時点では)哲学的ゾンビは形而上学である こういったニヒリズムは議論するようなお題目ではなく自分で解答を用意して評価しあうようなお題目だろ 意識は受動的な部分が大部分だと解明されてきてるし、人間だって宇宙が作った機械。
クオリアのないコピー世界となんら変わらない。ゾンビの定義というより現実の世界との境目がよく分からん。 ゾンビなんてありえねーから
死体が動くって言い張るなら見せてくれよ
それでもゾンビは実存する ゾンビは自我の無い者の意味があるな。
と言うことは普段俺も一時的にゾンビになってるのか。 いや一般人から見たおまえは
通勤電車で意味不明なうめき声をあげているアスペ 確かに。
お腹は減ってないがチンチンは固くなってるから食欲を性欲に、人間を雌に置き換えてみたら性欲に駆られ女を襲うゾンビだな。
この寒い中JKは生足。なんて格好してやがる。うまそうだ。
カユ…ウマ… かもしれないがそう思いたくはない
自分にだけ関することぐらい都合よく考えても良い 哲学的ゾンビだとも哲学的ゾンビじゃないとも言えない。 哲学的ではないけど、実質的にゾンビと同様なのが権威主義者。
自分が従い、他人に従うことを強制する規範や規則がなんの一貫性もなく
コロコロ変わっても一向に気にしないどころか、気づきもしない。
自分に暴力を振るうことができる権威の意向に沿うことしか
気にかけていないから、言動に人格的な一貫性がまったくなく、
一貫性がないことをまるで気にかけない。 人格を相手にしているかのようにゾンビを相手にしていると精神を破壊される 他人をアスペとレッテル張るアスペは自分がアスペかどうか解らないようだ。 現象意識5分前仮説、というはどうだろうか。
世界が「世界が数百億年前から存在したという証拠とともに、5分前に生まれた」としても我々には気づくことができないように、
(哲学的ゾンビが存在可能であるという前提であれば)現象意識が5分前に生まれたとしても我々はそれに気づくことができない。
なぜならば現象意識が無くても、哲学的ゾンビは「自分はずっと自身の判断によって行動してきた」という情報を脳内に記録し続けて
行動しているわけだし、その哲学的ゾンビに突然現象意識が宿ったとしたら、現象意識はその記録をもとに「この現象意識は過去からずっと存在していた」と判断するからだ。 >>36
2chで荒らしているのはほとんどが精神障害や発達障害ではなく
「人格障害」だ
コテハンを使うのが自己愛性人格障害
IDをころころ変えるのが演技性人格障害 今月末に脳のスキャン画像を撮りにいくことになった。
何が写ってるかな?中身スカスカだったら良いな。 人間も哲学ゾンビも変わらないと思うけどな
外界からの情報をインプットして
行動としてアウトプットするだけでしょ
人間とゾンビの違いは何かね? オカルトで思考する俺は哲学的ゾンビではないが、
論理をベースで思考するお前らは哲学的ゾンビである、
明白だろwwww
論理など生き物の本質から離れている、命あるものは
命という計れない働きから思考するのがベースとなっているわけだ。
哲学的ゾンビになると思考が合理化され非論理を完全否定してくる、
その自慢で変わらないはずの論理が間違いや矛盾があっても現実に
あっている非論理を否定してくる、それが哲学的ゾンビの執着だ 哲学的ゾンビはどこを見ても完全な人間なんだけど人間じゃない存在なんだよ。 どう見ても同じだから違いは見付からない。
だけど人間じゃない存在。
哲学的ゾンビの「ゾンビ」の部分が自我やイデアとかが欠けた存在というバイアスを強めてしまう。 人間にしか見えないけど人間じゃ無い
ってどんなところが人間じゃ無いわけ? 違いはない。って言ったよ。
どんなところも人間だよ。
人間なのか哲学的ゾンビなのか判断する部分はない。
だけど人間じゃない存在なんだよ。
考える必要がない問題なんだよ。 人間じゃない存在なんだから人間じゃないんだよ。
そもそも哲学的ゾンビはいないんだから「人間だよね」じゃない。 お前等自分が万年フリーター以下の
ホームレスじゃないと言い切れるの? >>57
それは水槽の中の脳問題なので哲学的ゾンビとは話が違う このスレVIPでやってた時のほうがはるかに盛り上がってるねwww まず、哲学的ゾンビとは次のような意味ではない。
罪悪感の希薄な人や、冷たい人、等の人間の性格を表す言葉ではない。
精神疾患を意味する精神医学関連の用語ではない。
行動的ゾンビ(Behavioral Zombie)
外面の行動だけ見ていては、普通の人間と区別できないゾンビ。
解剖すれば人間との違いが分かる可能性がある、という含みを持つ。
例として、SF映画に出てくる精巧なアンドロイドは、「機械は内面的な経験など持っていない」という前提で考えれば、行動的ゾンビに当たる。
哲学的ゾンビ(Neurological Zombie)
脳の神経細胞の状態まで含む、すべての観測可能な物理的状態に関して、普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。
哲学的ゾンビという言葉は、心の哲学の分野における純粋な理論的なアイデアであって、単なる議論の道具であり、
「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間」という形で定義された仮想の存在である。
哲学的ゾンビが実際にいる、と信じている人は哲学者の中にもほとんどおらず「哲学的ゾンビは存在可能なのか」「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」などが心の哲学の他の諸問題と絡めて議論される。
仮に“哲学的ゾンビが存在する”として、哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。
それは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。
物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。
もし区別できたならば、それは哲学的ゾンビではなく行動的ゾンビである。
しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものが全くない、という点である。
哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。 将来脳の機能が100パーセント解明されて、「こういう時に意識、クオリアが発生する」と分かった場合、哲学的ゾンビの議論って意味なくならないの?
「(脳科学的に見て)意識を持ってると言えるけど実は意識を持ってない人間」って観念できないよね >>62
無くならない
なぜなら、「解明されることが何であるのか、は意識次第である」という
事情が終わらないからだ
なおかつ、個別的な意識による解明が解明一般となる、その事情が分かりようがない
貴方のレスに即して言うならば
「こういうときに意識が発生する」、その“意識”については観測できないので
相変わらず個人の報告に頼るしかない
科学的手法と心理学的手法の混乱の中でしか話を進められない クオリアがないものが哲学的ゾンビということ?
クオリアって人が持っているものなの? 「意識の有る無しを外から定義することが原理的に無理」と断言まではできなくね?
と一瞬思ったが、被験者に哲学的ゾンビが混じってても騙されずに済む実験手法って意外と思いつかんな その前に人がクオリアを持ってるってのも
証明できないけどな >>66
その通りであるが、それだけではない
実際のところ「自分がクオリアを持っている」ことすら
自分で自分に証明することもできない
なぜなら、「ああ、これがクオリアなんだ」という「後付の印象」が
まさに、印象でしかないものとして、人間一般に普遍的な勘違いとして
これもまた「勘違いでしかないもの」として蔓延しているように見える、と
このような事態が何千年も前から延々と続いているだけだと言えるからだ 簡単に言うならば
「これって青だ。少なくとも俺にとっては」
という、“疑いようもない確信”というのは、実際のところ
それを認知科学的に分析してしまうと、言語や状況に振り回され
確定的な何ものかとしては、ただの一瞬も結実しているとは言えないからだ >>63
>>65だけど、哲学的ゾンビかどうかを見分ける方法思いついた
自分を被験体にして客観的な意識の定義を発見すればいいんじゃね
もちろん発見できたと言っても、他人から見たら自分は哲学的ゾンビかもしれないので、他人に対して証明は出来ない
そこで、他の人にも同じように自分自身を被験体として客観的な意識の定義を発見してもらう(これは自分の定義を相手に教えて確かめて貰えばOK)
そして、その人と自分で、相手に意識があるかどうかを互いに判定する
もしお互いが「相手には意識がある」と判定した場合、二人はお互いに哲学的ゾンビでないことを証明できる
後は世界中の人間に対して同じことを繰り返せば、哲学的ゾンビなんて居ないといつか証明できるはず >>1
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それは難しいかもしれない
なぜなら、貴方にも意識があり、私にも意識がある
仮にそう仮定しよう
そこで、貴方によって内省的に報告される貴方の意識があり
私によって同様に報告される私の意識がある、としても
私によって報告される内容が、『貴方をして確かに私に意識がある』と
納得させられるかような内容であるとは言えないからだ
そこで「いや意識を持っているもの同士なのだから大丈夫なはずだよ」と考えるのは
楽観的すぎると思う
なぜなら、自分の考えている内容が言葉によって相手に伝わる、そのことの困難は
この板の住人なら痛いほど経験していることだから
「独りよがりの言葉」が、勝手に勘違いを蔓延させていく。。。
俺もまた、やってしまったわけだが >>71
ちょっと意味が分からないな
「私」と「貴方」とか書くと俺とお前のレスで逆になったりして混乱するから「A」と「B」とするけど、Aが「Bには意識がある」と信じるのは、Bが言う報告がAにとって納得できるものであるかは関係なく、A自身が発見した意識の判定基準をBが満たしてるからだよ?
つまりAにとっては、「Aには意識がある」、「Bには意識がある」というのは確信できる事実
同様にBにとって「Bには意識がある」、「Aには意識がある」というのも確信できる事実
この4点が揃えば、お互いに哲学的ゾンビじゃないと証明できるんじゃね? >>72
たとえば、貴方が発見した意識の判定基準があるなら
言ってみて欲しい いやそれは仮定の話だから
脳波なり脳内物質なり調べれば何か分かる可能性は有るんじゃないか? ランダムの単語の中から一つを選びオデコに貼る。貼られる人には何の単語かは知られないように。
他の皆が単語を言わせようと振る舞う。
貼られた人は不明な単語を意識していれば不明な単語を予測し言わないように気を付けて喋る。
注、ここで言う意識は「注目」 >>74
その可能性は、ない
なぜなら、脳波や脳内物質は『観測機器によって観測可能な対象』であり、
機械装置によって記録できるものだ
一方で、意識やクオリアは、「個人の主観に対してその瞬間に直接に与えられるもの」
と説明されることで人間一般に理解されると信じられている“ある事態”なのだが、
この事態を観測することはできないのだ 英語の意識と良心は語源が同じ。と言う点からヒントになるかも。
良心からの行動なのか悪心からの行動なのか心理を探るのはムズい。 >>76
ちょっと専門じゃなくてよく分からないんだが、、、
「意識が個人の主観に対して与えられるもの」ってのは何となく分かるし、だからこそ「他人に意識があるかを判定できない」ってのも分かるんだが、それが自分に対しても出来ないと言えるものなの?
例えば自分が赤色を見たというクオリアは自分で認識できるものだし、その時に何かの脳内物質が出てることを観測できたらそれで良いんじゃないの?それを他者に証明はできないけども >>78
うむ、それはね
「自覚的に赤く感じると思える」ときに赤のクオリアが成立している、と考えてしまうのだが
「赤いと感じている」とはどういうことなのか、自分では分からない、ということなのだよ
哲学を齧ると、さらに正確に表現しようとしてどつぼに嵌る
たとえば
「赤いと感じていると、少なくとも自分では信じている、ってことだよ」
などと言えば、少し慎重な印象を与えることができるかも、と思えたりするかもしないが
だがこれがちがう
なぜなら、自分がほんとうにそう信じているかどうか、これが分からないからだ
以上が、貴方の問いに対しての俺なりの哲学的な回答
認知科学的には、たとえば
http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/g/i/f/gifjpg/ogiuo.jpg
AとBは科学的には同じ色、とされるが、クオリアとしてはどうなのか
クオリアとして「同じクオリア」なのか、それとも「違うクオリア」なのか
自分では判断できない、ということにならないだろうか
クオリアは同じだが、別の理由によって違う色であるように判断しているのかもしれない
そう考え出すと、クオリアなどというものは、信用に足るようなものではなくなってしまう 俺の尊敬する飲茶先生によると、「哲学には刃牙要素が足りていない」と言う。
ありとあらゆる格闘技(アーツ)を身に付けた範馬勇次郎の「地上最強」。対して良く比較にあがる
「地上最自由」ミスター・アンチェインことビスケット・オリバ。(負けっぱなしなのに全米最強w)
驚く事に、何かしらの格闘技(アーツ)を収めている様子はない。ただ力任せに殴るだけ。
「地上最強」の哲学者を極めるなら、その過程は哲学本を読み漁る哲学ゾンビの道を歩くことになる。
一方「地上最自由」は経験に学ぶ。
例えば龍書文のハンドポケットを一度は喰らい、自分もブリパンに手を突っ込んでそのマネをする。
つまり、君たちが絶対に信じて疑わない「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」
この真逆を行く「愚者は経験に学ぶ」を地で行く経験主義者だ。
ヘーゲルだかカントが「どこの地上から見ても空が青い事を全て調べる必要は無い」というが、
分らなければ、百聞は一見に如かず、一つ一つ調べて見てくればよろし。
哲学という(アーツ)を極め「地上最強」という確信に至るまではゾンビ感(呪縛)から抜け出せない。
自身が絶対の信頼を置く哲学と言う知恵(アーツ)に依存する限り呪縛のドツボ。
「クオリア」が何たるかを知らない。
…が、しかし、「自分が哲学的ゾンビじゃない」とうことを皆も良く知る共通の話題を使って
でも、哲学を使わずに説明をしてみるテスツ。 >>79
少し分かったような気はするが同時に5倍くらい分からなくなるなって行くなw
自分に意識がある事を確かめようと思っても、それは「意識があると信じている」に過ぎないから証明は出来ないということ?
「意識があると信じているだけで実は意識がない」なんで状況はあり得るのか?「信じている」時点で既に意識あると思うんだが
突き詰めて言えば、「信じている」という主観的な心の働きも一種のクオリアかと思うんだが、その「信じている」というクオリアだけは外部から観測できるんじゃないか? >>81
そうではない
「信じている」というのは、信じているという言葉を、相手あるいは自分に送っただけ、なのだ
「俺は信じている」と言った、その本人が自問している
『俺は本当に信じているのか?』
『信じているとはどういうことなのか、俺に分かっているのか?』
『俺は信じているのではなく、信じていると言いたいだけなんじゃないのか』
貴方も自問してみるといい
自分が述べようとする言葉、やろうとしている行為
それが「自覚する」という表現において、外部に報告される場合
報告される内容は、原理的にか後付けなのかも分からないが、
とにかく実際の言動や行動と辻褄を合わせることができる(たぶん後付けなんだろう)
ところがその奥で『自分が本当は何を欲し、どんな心の動きがなされているのか』について、
自分ではほとんど何も分からないのだ
そうすると、クオリアとか意識というのは、いったい何のことなのか
意識を直接に観測する装置はこの世界には無い
どれだけ装置の精度が向上しようとも、間接的な観測状況から類推することしかできない
いや、そもそも類推することが可能なのか
私が「ある」と信じている、その意識は、貴方の考えている“意識”とは
ぜんぜん違うものとして捉えていることを否定できない
蒟蒻問答のようにさ
とするならば、クオリアなどという幽霊は、ただの宙に浮いた言葉でしかないわけで
クオリアという言葉を巡る勘違いの輪が広がっているだけ、ということになってしまうのだ
そうなると類推を可能とする土台の構築がほとんど不可能であり、科学的な研究の対象とはなり得ないのだよ
まあこれも蒟蒻問答になるわけで
分かっちゃいるんだが。。俺も諦めが悪いというか >>82
自分に意識があることを確かめようと思っても、本当の自分の意識というのは奥底に埋まり過ぎてて、自分ではその存在を確かめられないと。
いやその「存在を確かめようとしてる主体」こそが意識じゃなくて何なんだという疑問は残るが、それを自我と呼ぶか自意識と呼ぶかはともかく、少なくとも哲学者たちが言う「意識(=奥底に埋まった本当の心の動き)」を自分で観測することはできないと。
こういうことかな >>83
自分で「その奥」とか言っておいて無責任な話だが
実際に、奥底という表現に相応しい何かがあるかどうかも分からない
近代の哲学者が言う「意識」は、「現象としての意識」に限られてきたように思う
それはつまり「自覚される意識」ということなのだが、デカルトのコギトもそのようなものだ
認知科学の知見によって、自覚される意識の確実性、信頼性は根底から崩れた >>84
何となく分かった
俺は元々は計算機科学の「どうすれば人工知能が心を持てるか、また持ったことを証明できるか」って問題に興味があってこのスレ見つけたんだが、中々勉強になったわ
哲学的に正しく言うと「人工知能は自覚される意識を獲得できるか、また獲得したことを証明できるか」となると思うんだが最後にお前の見解が何かあれば教えてくれるか? >>85
ジュリオトノーニ「意識はいつ生まれるのか」
おすすめ。
φの値により意識があることを判定できるとしている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています