ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義 [無断転載禁止]©2ch.net
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II ハイデガーにおける「神学の由来」と西田哲学に伏在する如来蔵思想
さて、以上のような形而上学的一元論の発想は、新プラトン主義の流出論ときわめて類
似した考えであって、それはヘレニズム化したキリスト教、すなわち東方正教会の淵源と
なったものである。それにひきかえ、ラテン的西方教会は、むしろユダヤ・ヘブライ的二
元論の伝統に立脚し、神はどこまでも「隠れたる神」であって、契約で結ばれた神と人間
との間には深い断絶がある。他方、東方正教会の基本的特質は神の顕現(現前性)の強調
と「人間の神化(テオーシス)」にあり、神と人間とは一つに結びついていて、
これは「一切衆生、悉有仏性」を標榜する大乗仏教と通底している。
ところでハイデガーは、自らの「神学的由来」である「新約的」キリスト教の立場から、
同じ西方でありながら新プラトン主義化したアウグスティヌスのキリスト教を論難し、延
いては西洋の形而上学全体にわたってそれを「存在忘却」に基づく「存在−神−論」とみ
なし、その超克を企図したが、彼のいう「存在−神−論的体制」は、東方正教会にこそそ
の最たるものがあるのであって、ハイデガー自身、存在を問うという極めてギリシア・ヘ
レニズム的な思考を展開させながら、存在そのものがもつ覆蔵性に基づき形而上学を超克
しようとする彼の思索の淵源には、ザラデルが指摘しているように、彼自身それに気付く
ことのなかったユダヤ・ヘブライ的発想が根深くあったように思われる。それは現前性の
底に顕現せざる超越的他者を想定するという、非ギリシア的発想なのである。
一方、『起信論』が説く本覚思想を「現象即実在論」として哲学的に開陳したアカデミー
哲学の本体的一元論の「形而上学」の系譜を引きながら、それを乗り越えるかたちで、同
じくその如来蔵思想に見る「真如」のいわば覆蔵性がもつ〈超越的他者性〉を「逆対応」
という発想によって論理化しようとした点に西田哲学の優れた特質がある。
西田とハイデガーとは、ともに「顕現せざるもの」への着眼によって形而上学を超克する
ところに共通点があるといえよう。
http://heideggerforum.main.jp/data08/inoue_r.pdf >>834
ジュナイドのファナー(消滅)には、更に「ファナーのファナー」、
つまり自我意識を消滅させる意識そのものの消滅という事態が起こる。
仏教の場合は龍樹の「空亦復空(くうやくぶくう)」。
空に達したところで、その空観もまた空ぜられねばならない。
二重の自己否定とでもいったらいいだろうか。
内在的超越の更なる超越。
東洋的二元論という話にもなる。
だから、「解体」や「破壊」という場合にも、
そうした意識の解体・破壊という審級が設けられるべきだろう。 デリダの脱構築の元はハイデガーの解体だし、その前はルター。
デリダの脱構築(déconstruction)→ハイデガーの解体(Destruktion)→ルターの解体(destruere)
ハイデガーやルターの解体とは、自己の歴史の解体であるし、
デリダの脱構築は、ハイデガーの解体がただの破壊ではなく、
解体し構築するものであることを注意深く付け加えた。 デリダについては、訳書や解説書を合わせると100冊以上もの本が出ているのに、
トレードマークである"脱構築"を説明した『プシュケー』が未完訳のままとなっている。
オリジナルは、デリダが井筒に宛てた書簡。
Jacques Derrida, "Lettre à un ami japonais", Psyché:Inventions de l'autre, 1987
(デリダ「日本の友人への手紙」『プシュケー』(未完訳))
邦訳は「〈解体構築〉DÉCONSTRUCTIONとは何か」(丸山圭三郎/訳)の題で、
・『井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生』 〈KAWADE道の手帖〉 (2014年)
・『思想』1984年4月号
にそれぞれ所収。 二重の解体
めったに見れない高層ビルを建築する大型クレーンが小型クレーンに解体されるシーン
https://www.youtube.com/watch?v=NDwfd2XArqw ポエムというか自問自答をして自己完結してる変態、わざわざここでやる意味が分からない 西洋対東洋
一神教対多神教
二元論対一元論
こういうの見てると二元論から抜け出すのって難しいんだなって思う
むしろ二元論こそが人間の通常の認識方法なんじゃないかと思うくらい 超越論的視点をどこに設定するかという問題で、
どちらもありえると思う。 >>852
「ファナーのファナー」の出典は
井筒俊彦 『超越のことば』 (1991) 文學界2017年12月号 - 2017/11/7
▼松本卓也「健康としての狂気とは何か―ドゥルーズ『批評と臨床』試論」
これは、本格的でよかった。
ドゥルーズが扱った「狂気」が強調されて取り上げられることが多い中、
ドゥルーズ自身は病的でも狂人でもなかったという観点からの解説。
ポスト構造主義的問題系の「深層(profondeur)」と「表面(surface)」、
ラカン派による病跡学的アプローチ。 新たな角度からの回答「デリダ的精神分析」とは 何か、そしてその先へ――
評者:佐藤 嘉幸(筑波大学准教授)
書評『ジャック・デリダと精神分析 耳・秘密・灰そして主権』 守中 高明 (岩波書店)
http://dokushojin.com/article.html?i=1033
それでは、「デリダ的精神分析」とは何か。最も簡潔に述べるなら、それは散種的思考の謂いに他ならない。
ラカン理論とは、特権的シニフィアン(超越論的シニフィアン)である欠如のシニフィアンを中心として構造化された欲望と、
そのような欲望によって組織化された主体、すなわち欠如の主体に関する理論である。
それに対してデリダは、欠如のシニフィアンも特権的シニフィアンも存在せず、
諸々の情動はただ散種と差延の運動に従って絶えざる移行と相互干渉を繰り返すに過ぎないと考える。
そこから、欠如の超越論的シニフィアンによって構造化された象徴界あるいは同一性の主体は解体され、
散種的運動を原理とする多数多様性の主体が形成されるだろう。
守中は、そのようなデリダの散種的思考を幾つかの異なった名前で呼んでいる。
すなわち、ラカン的な同一性の主体に還元されることを絶対的に拒み続ける「秘密」、
ヘーゲル=ラカン的弁証法の同一化の運動には決して還元されない非現前的「痕跡」としての「灰」、
そして国家的/国民的同一性に依拠した主権的支配の構造を壊乱し、解体する「歓待」……。 何でこんな馬鹿みたいな思想取り上げてんの?
何でどうでもいい周辺のコピペ延々貼りつづけてんの?
中味もない思想に粘着して何がしたいの? >>866
検証?
カントや脱構築は根無し草だニヒリズムだと間違い見当外れ
筋違いな因縁吹っ掛けて
真理を確実に構築できるからこれからは実在論だとか言う
三流のトンデモ理論が?
ゴミ、無駄、ウンコじゃん
終わっている
始まってさえいない ポスト・ポスト構造主義の話をしようよ
絶滅の思想なんか馬鹿じゃないかとか
マルクス・ガブリエルは幼稚過ぎて恥ずかしくなるとか
今更あんな中味のない議論して頭おかしいんじゃないのかとか
デリダやドゥルーズから何歩後退してんだお前らはとか
ポスト構造主義に意味があるとしたらただ一つ
新しい実在論とか絶滅の思想とかそんなものを先回りして否定してたことにあるのに 資本主義と分裂症 より 千のプラトー時代の方がよかったと思うよ。
端的に。 資料をコピペする奴も自分の書き込みをコピペするキチガイよりはマシだろう >>871
だってポスト・ポスト構造主義って
相対主義は嫌だから
人間が生まれる前や絶滅した後に行ってみろ!
それでも真理は相対的なのかとか
人間の視点によって真理は変わるように見えても僕たちは
新しい実在論だから正しく真理を捉えられますもんて
アホダラ経でしょ?
ぼくちゃん
何か反論ある?
恥ずかしくない?
死ねば? >>800
> >>789、>>793
> 新しい実在論や唯物論から学ぶべきは、
> そういう、感情と衝動に支配された盲目的な相対主義からの脱却なのであって
本当にこいつは馬鹿
は、はずかしい
笑える
脱却するからぼくちゃん人間のいない祖先以前や絶滅以後に行くって
そんなんで相対主義を克服するって
笑える、苦しい、おかしい >>864
ラカンの記号学モデルでは、特権的、超越論的シニフィアン、あるいはその欠如が
欲望によって規定されているし、
デリダモデルは、もっと無意識的、非意識的なもの。
次の華厳的記号学モデルは、その間ぐらいにあって
どちらとも異なる。 一即多、一即一切の華厳的記号学モデル
A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)
[ ]は強調
シニフィアンA/シニフィエaという単純な一対構造ではなく、
シニフィアンがAやBやCである時にもシニフィエは常に(a、b、c、d、e、、、)であるモデル。
Aの時には、相互に浸透し照合されたa、b、c、d、e、、、の中のaが強調される。
参考:井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (1989) 通常意識においては言語によって分けられていた
シニフィエの対象(万物)が、分け隔てなく相互に浸透する中から
限定なき限定がなされる。
華厳の「無礙(とらわれや妨げのない状態)」とは、
デリダの「ロゴス中心主義の解体」による
存在根拠解体のあと(後、跡)。 井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約
http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm
“事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線
ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますがーー
を取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。
それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ…” 311 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/11/23(木) 23:05:20.12 0
モノたちの宇宙ー思弁的実在論とは何かーの解説に今後ハーマンと井筒俊彦の哲学、あらや識の理論や廣松渉の事的世界観の比較が重要になると書いてる こんなの読むのは時間の無駄
論理学の本を1年かけて熟読するほうがよっぽど哲学学べる 価値あるものはない、相対主義で、うまく全てが収まれば良いんだがそんなことになるはずがない
人それぞれで、勝手なことを許容してたら結果的に衝突が生じて戦争になる 多様性を無制限に許容したら結果的に衝突に繋がる、当然だろうよ なんでも政治に結びつけるその気持ち悪い反応をなんとかしろ
多様性を無制限に開放すれば、私がお前を意味なく殴り続けても良いわけだ
個人の自由を制限するためにある法や秩序をアテにするのはマチガイ ウヨクだのサヨクだのとレッテルはる条件反射的な行動が多いやつの知能指数は
かなり低い傾向にあると科学誌に載ってた しかし多様性や多文化共生は世界中の知識人文化人や民衆に支持されて、とどまる事を知らないというのが現実。 知識人や文化人や大衆が支持してるなんてなんの意味もねえぞ
共産主義がいい例だ そう、授業中に暴れても個性だから阻止してはいけない
学級崩壊は個性 学校というのは国家に都合の良い人間を量産する機関。 国家に都合が良いと言うことは国民にとって都合が良いということですね
どのような地域であれ、国家とは例外なく経済的な拡大を至上命題としている
あなたがお金など全くいらないという清廉な人物なら説得力があるが・・・ >>893
反体制や左翼の人たちがみんな892みたいな事
言ってるのでちょっと言ってみた。
良くも悪くも国家というものがそもそも嫌いらしい。
個人を抑圧するものとして。文学やSFでも国家は悪者。 左翼の人たちは、社会契約説を全く知らないからね
人間の本姓から、その欲求や生存本能を消し去らない限りは人が森からでてきた段階で
国家になっていかざるをえないという合理的な社会成立の原理にまともな反論が
できた学者などいない
逆に、アナーキストたちが主張してきたのことは個々人の信頼関係だけで搾取や戦争のない
世界が約束されるなどというリアリティのない理想を掲げるばかりだった 理想主義者が語る「理想」は全ての人にとって理想なのですか?左派や共産主義者など理想を追い求める人の話を読んだり
聴いたりして、「それは私にとっては決して理想じゃないよな」と感じる事もあるのではないですか? 現代は国家性善説が崩壊してるだろ
今時の国家なんて色眼鏡で見るのが基本だよ 変えるんじゃなく悪さしないように厳しく監視するということ >>900
国家とは、特定の集合の利益のために、特定の法制度を設定した大きな集合体のこと。
その特定の利益が他の利益に代われば、国家は変わる。
もちろん、消滅することもある。
EUや、TPP構想などは、その新たな利益によって国家が解体していく過程ともいえる。 人間が利益を追い求める動物であり、
利益を追求するのに集合体を作る習性を持ち、
集合体を維持するのに法制度が不可欠であれば、
国家がなくなることはないんじゃないの >>903
利益を得る集合体は小さく、利益を与える集合体は大きく、というのが資本主義だから、資本主義の究極は国家を解体した小集合による世界の支配。
それを国家と呼ぶのか呼ばないのかは、定義しだいだろう。 >>904
利益を与える集合体 −> その小さな集合体に利益を与える集合体
念のために捕捉。 経済的な事だけじゃなく民族や文化といった要素も
国家には欠かせないでしょ? マックスヴェーバーだったかヘーゲルだったか
国家の中に社会をつくってはならぬと言ったが
日本なんか立派な社会ができちまってるw >>906
民族も文化も、所詮は経済に基づく幻想。
現在、日本文化として喧伝されているものを見ればすぐにわかる。
明治以降のそれまでとは180度変化した文化を日本の文化だと言い張ってる。 「これは伝統だ!」「嫌、伝統なんかじゃない」なんて論争
あちこちでやってるが、そろそろ伝統の定義が必要かも。
あるいは伝統なんて言葉無くしちまえ、と。 >>909
基本的に嫌い。
個人を集団の統制下に置く文化だから。
江戸時代までは、枠組みはあっても、個人が尊重される自由な文化の時代だったといえる。 >>900
なんか国家に代わって数百人とかの超少数の共同体が
無数に存在する世界が良いとかの意見も聞きますが? 文にしてポスト構造主義の批評を開始した段階で既に何かを規定することに繋がって
ポスト構造主義にはならない ポスト構造主義は意味の複製し損いこそが秩序を活性化させるのだからそれらを排除するべきではないいやそもそも排除しえないとした
しかしガンとは遺伝子の複製し損いであり通常は免疫機能により人体から排除されるが排除できなかった場合ガンが進行し最終的に死に至る
我々はガンを放置するべきなのか >>914
社会と人体を関連付けるなんて、つまらない比喩だね。 つまらなく使い古された比喩だという指摘は反論にはならない >>668
人文書院 @jimbunshoin
12月8日
週刊読書人(2017年12月8日)に、グレアム・ハーマン『四方対象』(岡嶋隆佑監訳)の書評が掲載されました。評者:上野俊哉。
http://www.jimbunshoin.co.jp/files/quadrueple%20dokusho.jpg >>916
どういう比喩でも比喩は比喩。
現実の解明には何の役にも立たないw デリダる
・言葉を曖昧、抽象にして反論されにくくすること
・全方位冷笑で私は賢者なのだと訴えること
トーンポリシング(tone policing、態度の取り締まり)
・「あなたの言い方が悪い」「あなたの態度が悪い」と連呼して
問題の提起自体をすべり坂論法的に矮小化すること 精神分析の治療の極意はラカンに言わせれば患者に情報を与えないこと
デリダの戦略もメタレベルの情報を与えずテクストを内在的に批判することにある
例えばハイデガーを批判するのにナチス云々ではなくハイデガーの使った「精神」なる語を
展開する
その意味でデリダは精神分析医だし
ソクラテスの(想起)の伝統に沿う 患者を治療する気なんか無いだろ?哲学や思想界とつるむ医師なんて… >>923
精神病は、治療なんかできないということだろ?
患者が社会と折り合いをつける手段を、習得する手助けができるかどうかぐらいだろ。 精神病は病気ではなく特殊な人格にしかすぎないからな おいおい、幻覚とか幻聴や妄想まで特殊な人格で済ませるのか?
あまりにも雑すぎる >>926
そうはいっても、幻覚や幻聴は、見間違えや空耳の延長線という考え方もあるからな。 >>925
>>927
精神病は特殊な人格にすぎないって言い切るのと、そういう考え方がある、じゃ全然違うわけだが
言ってることがブレブレだよ >>928
メルロポンティなんかは、閾値を設定できるのかどうかを追及し続けていたな。 >>929
いや、別人だからw
僕のは、>>924>>927>>929。 >>931
>>929じゃなくて、>>930。
間違ってごめんね。 そうやって多少、社会に適合できなくても実績を残した人は妥当な評価を受けてもいるんだよな
逆に考えると精神疾患が病であるとされるのは、社会的に役にも立たないやつだと看做されてるから >>930
メルロポンティが
927 考える名無しさん sage 2017/12/18(月) 15:38:50.12 0
>>926
そうはいっても、幻覚や幻聴は、見間違えや空耳の延長線という考え方もあるからな。
という主張をしたと? マッハがマッハ帯(マッハ バンド)を発見したとき
「錯覚といえども存在する以上それは説明されなければいけない」と言ってたような 精神疾患に関してはメルロ=ポンティもマッハもただの素人にすぎないわけだし、そもそも統合失調症についての主張ではないから、まったくの無意味なレスだな 事実が何を意味するのかが定かでない以上、幻聴や幻覚とは言い切れないな
その他大勢が間違った世界を見ている可能性もある 参考:
フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス
『フレーゲ哲学の最新像』)。
数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。
「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、
デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻
第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。
「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数
が等しいと宣言する。」
(岩波文庫人性論1p123)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86
ヒュームは単なる不可知論者ではない。 それは結局、多数者の論理だろ
両方共が頭のおかしなヤツだったら違った公理から矛盾のない定理を導き出す >>935
そうだよ?
言葉の使い方は、少し違うけど。 >>938
精神疾患に関しての専門家なんているの?
まさか、ガタリとか? >>947
アメリカ人の29%が日本を知っていることの方が驚きw 『現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018』
【巻頭インタビュー】 養老孟司
【それぞれの〈思想〉】 柄谷行人/汪暉/中沢新一/大澤真幸/野村泰紀
【討議】 信田さよ子+松本卓也
【導入】 千葉雅也
【新しい実在論/唯物論/存在論】 G・ハーマン/M・ガブリエル/D・ゴルィンコ=ヴォルフソン/星野太
【ポスト思弁的転回のマニフェスト】 N・スルニチェク+A・ウィリアムズ/ラボリア・クーボニクス
【人類学の「静かな革命」】 E・ヴィヴェイロス・デ・カストロ/里見龍樹
【哲学×科学の対話】 R・ハーシュ
【図解】 現代思想の古層と表層のダイアグラム(近藤和敬)
【連載】 磯崎新/佐藤文隆/立岩真也
「現代思想」最前線の見取り図を示す、2018年劈頭の総力特集!
新しい実在論/唯物論/存在論という哲学のハードコアは、
危機の時代を生きる私たちの感性と共振しながら、人類学や社会理論、アートへと派生し、
かつ分析哲学や自然科学との(再)接続を果たしつつある。
こうした新しい思潮の内実はどのようであるのか。各論者の思想=実践とともに総覧する。
現代思想の最新がわかるチャート付き。
目次
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分析哲学とドイツ観念論の間にスペクトラムがあるという視座は正しい レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。