フッサールについて語ってくれ [無断転載禁止]©2ch.net
フッサ−ルは、“現象学的還元”という思考形式を創出した哲学者であり、
西洋哲学の歴史的な流れの中から必然的に生まれてきたものである。つまり、
デカルトを起点として近代哲学は深化してきたが、第一次大戦を境としてヘ−ゲルの一元論的な唯心論
から、マルクスの一元論的な唯物論が創出し、西洋哲学的には認識論と存在論の合一という本来の方向から
それてきた、その哲学の流れを危惧してフッサ−ルは、「デカルト的考察」という思考形式を基底として現象学を
創出した訳である。フッサ−ルの「デカルト的省察」を読むと分かるが、フッサ−ルは、デカルトの「方法的懐疑」
を基として、その思考過程から「現象学的還元」という思考形式を創出している。 だから、フッサ−ルの「現象学」
は、フッサ−ル自身の脈絡のない発案ではなく、デカルトから始まる近代西洋哲学の本流としてのて歴史的流れの中から
創り出されたものである訳です。 >>4
フッサ−ルが創出した「現象学的還元」という思考形式は、
戦後、ハイデガ−、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナス、デリダ、ガダマ−等々に引き継がれた。
“形式論理思考”と対比する形で、“現象学的思考(現象学的還元)”が、新しい思考形式として現代社会の
各分野に浸透している。 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)
性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 「声と現象」 ジャック・デリダ
133位/294作品。翻訳小説SF以外。
デリダの主著である。フッサールへの反駁として書かれた書物であるが、
フッサールの功績を客観の否定としてとらえているぼくにはデリダは良きフッサールの反駁者ではない。
超難解だが、デリダは、プラトンのイデア論を本気で信じていたようである。
デリダは、イデアの存在を確信し、これを客観的な本質としている。
そして、これはまちがっているだろうが、非常に幻想的な哲学であるが、
デリダは、イデアに対して現実存在が反復することによって歴史がつづき、
その差異によって歴史の現象が異なるとしている。
脱構築という単語は出てきたがデリダ哲学の本質ではない。 空海「秘密曼荼羅十住心論」を読んでいたらカント哲学と同じ個所を見つけました。
誰に報告したらよいのでしょうか。
ちくま学芸文庫で読んでます。読んでる途中です。
問題の箇所は、下巻66ページから67ページにかけてです。
引用します。
「成唯識論」にいう、(中略)
暖などの四つの段階は四尋思と四如実智とによって前と後の位によって立てる。
四尋思とは名称と、ことばと、もの自体の本性と、ものの差別とは、
仮の存在で実際には無であるとする。あるがままにあるこの四つは意識を離れており、
まだ有るのではないと知ることを、あるがままにある智(如実智)と名づく。
空海に「物自体」って単語出てきた。
次の箇所で空海が「物自体は認識できない」と同じことをいってる。
「秘密曼荼羅十住心論」下巻67ページ。
「厚厳経」にいう。「菩薩は瞑想の位において、心に映ずる影はただ心そのものであると観じて、
対象の想はすでに滅して、ただ明らかに自分の識だけのすがたであると観ずる。
このような内面の意識に住して、(意識の)対象は有るのではないと知る。
そしてはたらきもまた無いと知り、後には認識されるものも離れているのである」と。
カント哲学の根幹「物自体は認識できない」は正確にはヒュームが独創したものですが、それと同じ内容を仏典に見つけてしまいました。どうしたらいいでしょうか。 >>4
現象学は、現象学的還元を基底として論理展開をしていくが、
現代の哲学者諸氏は、方法論としての現象学的思考が科学と調和することを
もっと前面に打ち出していく啓蒙が求められている。 >>7
普通に、イデア論あったからプラトンまで戻らね? >>9
発狂じいさん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 >>11
糞スレあげんなジィさん本体、自己紹介しても誰も気にしてくれないから
sageろよ キチガイ フッサールの『幾何学の起源』を読んでいたら、
古代のピラミッド造りだとかへ先祖返りしていきそうなイメージが湧いた。 >>12
発狂じいさん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
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l (∴∴()∴∴)l
l\ ┏-=ニ=-┓/:l 運知饅、いい
ヽ ┃ `ニニ ┃ / 加減にしないか?
人 \┗‐--‐┛/ ノ
┌、. / ヽ ⌒ \.
ヽ.X、- 、 ,ノi ハ
⊂>'">┐ヽノ〃 / ヘ
入 ´// ノ } ,..,.._',.-ァ
/ `ー''"´ ,' c〈〈〈っ<
/ __,,..ノ ,ノヽー'"ノ 発狂さん、上げ荒らしやめましょう。
10年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 >>1
/ ̄ ̄ ̄\
/ノ / ̄ ̄ ̄\
/ノ / / ヽ
| / | __ /| | |__ |
| | LL/ |__LハL |
\L/ (・ヽ /・) V
/(リ ⌒ (●●)⌒)
| 0| __ ノ 発狂さんは50代です!
| \ ヽ_ノ /ノ
ノ /\__ノ |
(( / | V Y V| V
)ノ | |___| | 質問なんだけど、例えばポナンザよりも遙かによく読めて、感覚も鋭く、
将棋についてはもうこの人間より理解できている人間などだれもいないし、
100人だろうと1000人集まろうと、誰もかなわないという、そういう人間がいるとする。
その人間にとって、将棋に関することは、内的な、自己所与的に的中する対象とはいえないのだろうか。
同じように数学に通じる人間とか、物理学のそれとか、考えていくと、
どこまでが現象学で捉えられるのか、範囲がぶれてこないか? まず始めに確認したいのはフッサールは主観しかない、客観なんかないと言った事はないわけです。
まず始めに意識から始めるのも、そこから逆に意識だけ主観だけでは説明できない外界や客観の存在を証明するためなんですね
視界の中に赤を感じます
それは主観的に何にでも好き勝手に想像できるものではない、赤は自分の意思や願望とは別に確かに存在していて、それを感じることは否定できない
自分だけの主観だけでは説明できないものが確かに意識の中に現れている、この世界には自分の中の内面だけではない外界や客観はある、まず現象学はこのことの確認から始まります
でも信じられない、フッサールは絶対的な客観性とか認めなかったはずだ、フッサールは科学主義は自然的態度を批判したろう?そう言いたくなる人もいると思います
でもフッサールが客観的な人、普遍的絶対的な学問の鬼であることは譲れません、何故科学を否定したか
それもこれから順番で説明していきます
フッサールが書いた著作に当たりながら
フッサールの論理学研究の一巻の中心を占めるのは心理学主義批判です
論理は経験から与えられるか?現象学が始まったのはこの論理学研究からなんですね
現象学は経験では説明できない個人の内的な主観的体験だけでは説明できない経験からは独立したそこには還元できない
万人にとって常に普遍的で客観的なものがあることの確認から確立します
論理学は経験のような無限の果てまで確認できないものでは証明できません
誰にとっても普遍的で客観的です
現象学は主観的なものだ相対的な学問どころか正反対の普遍的で常に客観的、誰がやっても同じ完全に絶対的な物を基礎づけるためにあるわけですフッサールのテキストに書いてあるから動かせません 以下、論理学研究一巻の要約
・イデア的法則と経験などに基づくリアルな法則、論理的必然性とリアルな必然性は橋渡し不可能なことを心理学主義は見落としている
・心理学主義では経験命題は導けても論理法則は導けない、また、心理学主義は相対主義に陥る
・全ては人間が尺度とか、文化毎に真理は違うとかはナンセンスだ、どのような形の心理学主義も相対主義であり、否定される、それはあやふやな主観的判断や経験に基づくから絶対的な普遍とは関係ないからだ
・真理は経験を離れ、イデー理念である。真理は赤のイデアは経験には属さず無時間的で普遍的だから万人に妥当する。普遍的に客観的なものだ。
・論理の持つ法則的必然性も経験離れた無時間的かつ永遠に妥当するイデアである。だから常に正しい
フッサールは相対的なもの、主観的偶然的なものは相手にしていません、永遠で万人にとってもどんな時でも正しい、客観的絶対的なものしか相手にしません
このことはテキストで確認できる揺るがない事実です
では何故科学を否定するのか、それも実は科学が経験主義、心理学主義と同じで経験的偶然的なものを必然的なものと取り違えるからです
以下、中期から後期の著作で フッサール 厳密な学としての哲学から
・いくら実験しても経験からは論理的法則は導けない。経験科学からはフッサールのやるような厳密にイデアとしての論理的必然性を基礎づけることはできない
これはわかりますね、論理学研究と一緒です。真理は経験離れた客観性としてあるわけで自然科学それ自体はそういった客観性は持たないわけです。
ヨーロッパ諸学の危機から
・38節 受動的発生と能動的発生、世界が客観的数理物理的にあるとかは、後から与えられるものだ
・49節 客観的世界は、受動から能動として後から構成される、初めの生活世界ではそんなものはない
→ここから生活世界論へ
要するに現象に基づかないで客観を外から持ち込むのはフッサールは許せないんですね
心理学主義、実験では科学は真理、無時間的な真理を基礎づけられない。客観的世界像は後から作られるもので先にあるのは生活世界である
現象学の最初にエポケーであらゆる自然物を意識から排除したのも生活世界からガリレオ式物理科学的世界像を排除したのも同じことです。
フッサール自体は絶対的、普遍的、万人に妥当する客観的真理を追及しなかったことはありません。
フッサールは数や論理だけではなく赤や経験から構成されるように見える物も、イデア的な普遍的無時間的な物と捉えます
薔薇の赤や郵便ポストの赤、赤が赤であるのは個々の物や体験、知覚を越えてそれが赤だと経験越えて判断できる直観しているからですよね
そうでなければ薔薇も郵便ポストも色合いは全く違う
赤が赤だと判断できるのは赤が論理と同じで経験離れて普遍的客観的だからです
そうでなければあれとこれは赤、あれは赤ではないなどとは判断できません
生活世界から幾何学などを発見し教育され引き継がれといます。そういった共同体な一員として過去からの歴史を引き継ぐことが文明の証であり人類の知的遺産を引き継ぐことです
わけもわからずガリレオ的世界観を押しつけられるのではなく生活世界から一歩一歩人は受動的発生から能動的発生へ知を引き継ぐことができるのです。
幾何学の起源を参照
現象学は理性の普遍的真理の学問です。 人間には、赤のイデアを理解することはできるんだよね。
しかし、フッサールは、それ以上のことは一切できない、といってるように俺は感じる。
もし客観の存在を求めていくとすると、そこでカントがいってるように
数学をなぜ客観として認めないかがわからない。
そんなに詳しいなら、それをちょっと説明してくれる?
結局数学でもそうだけど、客観と思ってるものは、本人の主観だとすると、
主観に従って、真理と思っているものも、人によって異なるよね。
赤のイデアにしても、生まれつき例えばカラーコンタクトみたいに
網膜か、角膜に色がついている人がいれば、その人は赤ですら他人と違う色を認識するわけだ。
そうすると、もう何もかも、客観的に正しいとは言えず、そこには主観しかないんじゃない?
だって、今はパソコンで真っ赤っかという色がどんな色か、すぐわかるけど、
昔なら、真っ赤っかというものを見たことない人すらいるわけだし。
しかし、同じ色を見た時の感じ方のことをいってるんだろうね。多分。
それならわかる。
それでもわからないが、フッサールは結局、赤など色のイデア以外の何を、客観とみなしたんですか? >>21
それに、経験から論理的法則は導けないとすると、簡単に論駁できるような気がするな。
生まれてから真っ暗な部屋に閉じ込められて、何も経験していない人間がいるとする。
その人間は何か論理的法則を、導けるか。当然導けない。
結局カントのいう経験からの綜合によって、人間は何かを認識するんだと思うんだがね。
いったい、フッサールは、それについてなんと説明してるんだ? 赤が客観なように数も客観だよ
論理や数学の正しさは経験から独立だ
認識が成立するのは何らかの客観的真理があるから
郵便ポストと薔薇をまとめるのは恣意的な主観でも取り決めでもない
まとめたほうが良いと感じる客観があるから
見たことのないものでも赤と誰もが了解するからそれは恣意でも取り決めでもない
主観にはどうにもできない客観が厳然としてあるから認識が成立する
ただフッサールは現象以外の自然物を持ち込むのは嫌う
科学を嫌うのも客観的ではなく経験からは法則は導けないのに勘違いしているからで
より徹底した客観的な現象学を通じて世界を把握する 網膜がカラーコンタクトの人はその背後が違っているわけで、
赤のイデアとは別な物を感じているとの処理になるね
フッサール的には 経験からは数や論理が無限においても正しいことは確立できない
暗闇にいるのと差はない みすずのイデーンそろえたのはいいが早くも本質直観のとこで挫折
谷徹とかの入門書いくつか読んだがピンとこない
本質直観なんて本当はみんなよくわかってないんじゃないか
目の前に映る光景を「現象学的還元」して本質を取り出すなんて人間の理性を超えてるとしか思えない
ぼやぼやとした無意味な光景が広がるだけで自律的には何も構成されない 今、この瞬間目の前の薔薇を見てでも、その脳内の映像は他とはつながりがない
それを他の植物と関連づけてころは植物だ花だとか色を比較して赤だとか
花として植物として赤として最後にそういった集まった薔薇として
捕らえてはじめて認識できる
それが志向性と本質直観
孤立した瞬間の薔薇の知覚は他の何ともつながりは持たないし
関連づけられない
関連づけることが志向性
関連づけてはじめて認識として立ち上がるものが本質直観
認識として立ち上がった瞬間、それは目の前の孤立した知覚ではなく
既に本質直観を行っていることを前提としている
目の前の孤立した知覚自体は異形の化け物で赤とか花とか
認識できるものではない
フッサールの凄いのは目の前の意識に全てを還元したことではなく
その反対に目の前の意識だけでは何の意味もない何も認識できないことを
証明したこと 経験から共通部分を抽出してとやると移ろいやすいもの、同じ花でも見るたびに違うとかなる
薔薇と郵便ポストから共通な物が赤だと見たことのないものとやはり共通な物を抽出するのか
しないなら何故見たことのないものが赤と言えるのか混乱する
同じ薔薇を見ても見るたびに違う
そのたびにやり直すのかとなる
移ろいゆく経験論は使えない ブリタニカ草稿の解説読めばフッサールが形相的還元を中心に理論を組み立てていることがよくわかる
目の前に見たことのない花を見る網膜に映る光の像自体は意味がない。その像からこれは葉っぱや茎と繋がっていて植物であり「花」であることは間違いない。
薔薇と同じ「赤い」花だと思う
「赤」として「見たことのない花」として志向性の中で認識する、後で図鑑でこの花だと名前を覚えその花として認識する
網膜に映った光の像自体ははかなくて移ろいやすいが「赤」として「名前のない花」として「名前のついた花」として認識したものは普遍的で形相であり色褪せることはない
経験とは独立に客観的に存在する「光の像」の記憶は消えても
個々の知覚はどうでもいい。普遍として時空も経験とも独立に直観した本質直観が根本的認識であり、それは時空とも個々の経験とも関係なく常に正しく不変的であり常に真理だ
誤解されているがフッサールは主観的な知覚主義者ではない。経験主義者じゃなく普遍論者、実在論者
個別的な体験には意味を認めない
プラトンのイデア論もそう考えれば全く筋が通る
カントは中途半端に経験論的だが物自体で経験はその反映でとか言い出すと色褪せうつろい行く薔薇の網膜に映る色と郵便ポストの網膜に映る色の共通の本質と、この見たことのない花の共通の本質とと無限背進に陥るからペケ
個々の網膜の光とは関係なく赤の本質がありそれは経験とは独立に不変で普遍でかわりない真理だと考えないと矛盾に陥る
フッサールの現象学がやってたことの大部分は形相的還元であり、要するにイデアのこと、志向性も本質直観も形相的還元もイデアを捕らえて経験とは関係ない時空を越えた真理を把握すること
個々の移ろいやすい網膜の像、知覚ではなく不変的な一般的な普遍者、それは知覚を離れた「見たことのない花」や「赤」を含むで認識論を作っている フッサールにまつわる誤解を解きほぐす
・個々の経験、知覚を元にしたのではない。局所的な時空を限定され視点を限定された体験など何の意味もないことを証明したことこそフッサールの功績
・知覚や体験ではなく、移ろいやすい光の像ではなく、いつになっても誰にとっても普遍的で時空を越えて真理である形相を元にした、実在論者である
・主観的、相対的、偶然的なものではない、客観的、絶対的、普遍的、一般的、永遠的なものしかし相手にしていないこと
・志向性、本質直観、形相的還元
どれもそのことを手を変え品を変えて言っているにすぎない
・論理学研究以来、フッサールの本質志向は変わらない フッサールが『論理学研究1』で「ヘーゲルが矛盾律を否定した」とか書いてあって、
変な感じがしてそこに訳注が付いてので見てみたら、
フッサールのこの記述は不自然で、そしてフッサールはヘーゲルの本を少ししか読んでないとあった。
妙な感じがした。でも、全体の論旨を大きく損なうものではなさそうだから読み続ける。 今ハイデッガーの存在と時間読んでるが
これってフッサールはどう思ってたの? 自分の言ってることと違うって怒ったんじゃない そういう狭量な人なのかなあフッサールは。
論理学研究とか内的時間意識の現象学とか、形式論理学と超越論的論理学を読んでるけど、
ハイデガーの方がフッサールから離れていったって感じじゃないの。
弟子が師匠とは違う方向に行くのはあり得ないことではないだろうし。
『内的時間意識の現象学』のまえがきには、訳者の谷徹が、
「本書の刊行のための編集作業をハイデガーに依頼したのは、もちろんフッサール自身である。
フッサールは(出会った直後はそうでもなかったが)、すぐにハイデガーの実力を見抜き、
自身の後継者と考えるようになった。ところが、この当時のハイデガーは、フッサールから離反しつつあった。
フッサールとしてはハイデガーをフッサール自身の現象学の道に引き戻そうとして、この編集作業を
依頼したようである。」と書いている。 ちなみに『存在と時間』が出たのが1927年で、
『内的時間意識の現象学』が出たのは1928年だ。 超絶 精神 現象学でしょ。ヒュームを読んでおくと。 すぐハイデガーの離反とか人間関係の下世話な話になるけど
そんなのどうでも良くて現象学が普遍や本質を把握するための客観学
経験に左右されないアプリオリだけを問題にしたことを理解すること
それだけが大切 フッサールは現象学の理念しか読んでないけど
他人がいるということを前提にしてるハイデッガーの意見は
フッサールには受け入れられなかったと思うよ。 http://phenomenologies-meiji.com/event/20160319report
フッサールを怒らせたのは高橋里美らしい。
現象学は哲学のうちの一つに過ぎないと言ったらそうなったらしい。
自分の学問に思い入れが強すぎる人だったのかもしれない。 余談だけど明治大正昭和の男性日本人の名前には美の字がよく付いてるからな。
有名人だと田中美知太郎とか橋本登美三郎とか。 青木孝平『「他者」の倫理学ーレヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を詠む』社会評論社、2016年、を
みなさんはすでに詠みましたですか?フッサールの他者論からハイデガーをへて
サルトル、メルロポンティの他者論、それからレヴィナスとデリダの他者論をめぐる論争。
他者は超越論的主観性に還元できるかいなか。
フッサールに対するレヴィナスの批判。そして最後に「第三者」の登場で、
レヴィナスの他者論が崩壊していくくだりは、まさに圧巻でした。
読まれた方、ご批判をお願いいたします。
少なくとも「他者」は現象学的還元ができず、自己以前に現前するという
レヴィナスのフッサール批判は納得のいくものだと思います。 レヴィナスでは実存と実存者がよい。
ブランショ評 −絶え間ない騒動―
他者よりまず文学は他動詞から。 >>30
そうやって抽象的にごまかすけど
その文の「花」「赤」「像」「薔薇」を本質直観したものを具体的に記述しないじゃん
あなただけでなくて、フッサール研究者だれもできない
あったとしてもせいぜい主観的な印象を記述するだけで普遍性とは程遠い
本当は本質直観なんてできないんでしょ >>45
記述も何も「ある」ことは自明だろ
何勘違いしてんだ?
薔薇があって、郵便ポストがあって、それらが共に「赤」ということは
本質があるということ
本質が「ある」ということ
なければどっちも「赤」であるなんてありえない
数や論理だって同じこと
数の表象や個々の薔薇や郵便ポストで記述する必要はない
してはいけない
個々の物や経験「でない」から、普遍であって、形相であって、
あなたのような馬鹿の求める記述できるものであってはならないんだよ 〉個々の知覚はどうでもいい。普遍として時空も経験とも独立に直観した本質直観が根本的認識であり、それは時空とも個々の経験とも関係なく常に正しく不変的であり常に真理だ
個々の知覚に還元できないメタなものが間違いなくあることが重要で、
それは個々の知覚や経験で記述できては「ならない」 『デカルト的省察』ってレヴィナスが仏語訳に関わってたんだね。
知らなかったよ。 精神現象学よりヒュームの方が過激。
宇宙空間を連続して寝て跳びながらコギトの連続を紡ぐ。 >>46
>薔薇があって、郵便ポストがあって、それらが共に「赤」ということは
>本質があるということ
それはたんなるドグマだな
こういう決め付けに満ちてるからフッサール読みはきらいだわ なんか考え方のアプローチとか方向性が自分と似てる気がして
フッサール読んでみたい哲学素人なんだが
哲学入門書みたいなのでおすすめある? フッサールに興味持ったんなら門脇俊介『フッサール -心は世界にどうつながっているのか-』
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』がおススメ
他には植村玄輝他編『現代現象学』これは読んでない
フッサールで哲学に興味持ったんなら
金杉武司『心の哲学入門』は定評がある本
信原幸弘編『心の哲学』なんてのもある
フッサールは基礎づけ主義っていうので批判されるんだけど、それが何なのか知りたければ
冨田恭彦の対話形式の入門書のどれかに結構わかりやすく書いてたはず(6冊あるけどどれか忘れたすまん、たしか角川文庫のやつ)
冨田恭彦の『観念論の教室』は最初はフッサールと全く関係ないけど最後の章でフッサールが何でデカルトが好きでその他の近代哲学者を嫌ってたのかよくわかると思う >>58
どうもありがとうございます
行きつけの古本屋に門脇さんの本はあったので明日見に行ってみます^^ 翻訳、もう少し頑張ってほしい。これだけフッサール研究者が日本には
いるのだから。
「現象学的心理学」と「第一哲学」の翻訳がまだない、ってのは
恥ずかしいことだぞ。
ハイデガーのほうはあれだけ、全集版の訳は読みづらいにせよ、頑張って
マイナーな本まで訳したのだし、
ディルタイやフィヒテでさえ全集がでているのに、
カントやハイデガーとならんで研究者の数が多いフッサールの翻訳が遅れている
感が強くある。 フッサール自身の著作の翻訳が進んでいないのに、研究書と入門書、
および研究書と入門書の翻訳がやたら多い、ってのが日本のフッサールについての
現状。 いろいろ研究者同士でのややこしい問題もあるんだろうけどな。
本人の書く書物や講義録、草稿の部類が、一見ちっとも面白味がなく、ややこしい
ってのも理由だろうな。
入門書や研究書は好みによるし、いいのが多いが、
1田口茂 現象学という思考
2山口一郎 現象学ことはじめ を個人的にはお薦めする。
次点で、
3斉藤慶典 フッサール起源の哲学
外国人による入門書では、
1ザハヴィ フッサールの現象学
2ヘルト 20世紀の扉を開いた哲学
かな。 フッサールが実在論者ってのは正しい認識だし、
本質直観についての理解も、先の説明で問題ないとは思う。
ただまあ、結局、そういったものの根拠を求めると、生活世界とか他者とか
時間とか空間とかそういう問題に行きつかざるをえなくなって、
諸批判に応えるべく、関主観性の現象学をはじめとする、莫大な手稿が遺された
わけだが、残念ながら翻訳は十分にない。
だから今は本格的にそういうことを知りたければ、ドイツ語をマスターして、
翻訳のない無数の文献を読み漁ること。
それができないうちは、先にでた斉藤さんの本とか、ヘルトの「生き生きとした現在」
とか、滅茶苦茶高価だが、谷徹の「意識の自然」とか、
貫茂人、浜渦辰二とかの本を読むほかないんじゃないか。 保毛尾田さんところの保毛男さんはホモなんじゃないかな?なんて言われてるんですけども
あくまでも噂でして…」 たとえ翻訳されている著作でも、フッサリアーナに収録されている数多くの
補論の大半は、訳出されていないことが多いのだよなあ。
本文は訳してあっても。
イデーンIも、フッサリアーナ3-2はすべて訳されてない。
比較的最近邦訳された、「形式論理学と超越論的論理学」も、「受動的綜合の分析」も
「危機」も補論はほとんど訳されていない。
結構そこに、フッサールの重要な考えは含まれているようだ。
昨年ちくまで邦訳された「内的時間意識の現象学」は、みすずの翻訳の数倍の
分量の書物になっているが、
まだ中身は見てないが、おそらく、きちんとフッサリアーナ第10巻を全訳して
くれたのだろなあ。この書物がそういう企画では、日本初かも。
ハイデガー全集のほうは、きちんと全訳してくれているが。
こう考えると、たまに、廉価な文庫本のある「デカルト的省察」と「危機」
だけしか読んでないひとを馬鹿にするひとがいるが、イデーンとかを翻訳で
読んでいても、それだけでは同じアナのムジナだな。
フッサリアーナは42巻でているし、その他ドキュメントや資料集もでていて、
60冊は出版されているが、
そのうち、15冊くらいの本分部分だけしか、翻訳では読めない。 >21
“受動的発生から能動的発生”へ知を引き継ぐ、には具体的に
思考方法をどう進めたら良いのでしょうか?
思考法として“エポケ−”がどの様な思考手順によって事象を直観認識(本質直観)の次元へ
高められるのかが分からない。 21ではないが、本質直観は簡単なことで、意識に原的に与えられている
何かを何かだと判断してしまう働きでないか。
だから、エポケーすることで、いくらエポケーしても、そういう
林檎を林檎だと捉える働き自体は残っていると特にイデーン1くらいまでは
考えていた。
「事象を直観認識(本質直観)の次元へ 高められるのか」
「高められる」なんて言い方をすると、もう誤解しているんじゃないか?
エポケーすることで、色や形を判断する感性直観、
それが林檎である蜜柑であると判断する本質直観、
林檎が「2個」、蜜柑が「3個」と判断するいくつもの範疇直観、
これらが統合されて知覚が成り立つってことが見えてきたとか、そういうことだろ。
エポケーして、あらゆる思い込みを遮断する → しかし現実に林檎を林檎と捉えることが
我々には出来るそれを否定はできない → 人間の意識には林檎を林檎として捉える
本質直観の能力が備わっているに違いない。
こういう推論の流れ。本質とかいうから、たいそうなことを想像するひとも
いるようだが。
俺はこのあたりのフッサールの知覚の考え方はそもそも間違いだとは思っているけども。 「エポケ−して、あらゆる思い込み(主観も入る)を遮断する。
しかし、現実に林檎を林檎と捉えることが我々には出来る、それは否定出来ない。」と述べている。
しかし、“林檎を林檎として捉える”ということ自体、主観を基底として捉えていることになる。
エポケ−とは“一切の先入見(前提)を排する(カッコに入れる)“ことであり、この“一切の前提(先入見)”を
排するとは、主観をも排することを意味している。 >エポケ−とは“一切の先入見(前提)を排する(カッコに入れる)“ことであり、この“一切の前提(先入見)”を
>排するとは、主観をも排することを意味している。
ところがフッサールの場合は違うんだよなあ。
超越論的自我、あるいは、純粋自我ってのが残る。
これは、関主観性の現象学なんか読めばわかるが、発生的現象学の立場になっても
残り続ける。デカルト的省察の対化によって他者を捉えるなんて馬鹿な発想も
そこからくる。
ちなみにデカルトも違うよね。「考える私」だけは確かなものとして残る。
言っていることはよくわかるのだよ。純粋自我なんて残してしまったら、
それは現象学者にだけあてはまる特殊な自我だ。
その点でフッサール批判することは可能だが、
フッサールを理解したいのか、批判したいのか、どちらの立場なのかが
君の場合はわけがわからない。 純粋自我って、ある意味死なないんだよねえ。
あ、これはフッサール自身が言っていることね。
でも肉体の消滅とともに死ぬ自我ってのから出発すべきなのだよ。 とにかく、68は、ネット上でもいいから、「純粋自我 フッサール」
で検索してから考えるべきだろうな。
「エポケーすると(あらゆる)自我がなくなる」
なんてことを言いだすと、68が考えているフッサールのものではない
別のエポケーを、俺は相手にせざるをえなくなる。
68の哲学ってやらを相手にせざるを得なくなってしまう。
あ、そうそうフッサール自身の考えを知る上でもっとも分かりやすそうな解説書としては、
岡山啓二 フッサール 傍観者の十字路
をお薦めしたい。深みは乏しいかもしれんが、俺の読んだ限りでは、一番分かり良いと
思う。谷さんの「これが現象学だ」もいいが、もしかしたら入門者には記述がこなれ
すぎているかも。山口さんや田口さんのは薦めるがフッサール自身の入門というより
日常生活における現象学って感じの書物だ。
誰かが(58さんか)薦めていた、
門脇俊介『フッサール -心は世界にどうつながっているのか-』
は、言語哲学との関連で分析したもので、そういう方面に関心があるひと以外には
ちょっと薦めづらい。たぶん、多くのフッサールに関心を持つ人の関心とは違うと
思う。立派な本だけど。
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』はいい本でフッサールの全体像の読み直しとして
優れているが、エポケーも分からない人にはとても薦められないわ。 >>72
横だけど、エポケーが正確に解釈できないのは、フッサール自身の曖昧さに問題があるんじゃないか?
正確な解釈としては、エポケーというのは概念設定にもならない妄想に過ぎないということだろう。
主観をなくしたいというフッサールの願望自体が、幼稚な自己満足という意味で。 >>70
>ところがフッサ−ルの場合は違うんだよなあ。
超越論的自我、あるいは、純粋自我ってのが残る。
>現象学とは“エポケ−によって、一切の先入見(前提・既成概念)を排して(カッコに入れて)その状態の中に
現れる現象を認識することです。
フッサ−ルの様にエポケ−に於いて、主観(自己の論理・認識)を残し、客観的事象のみを
エポケ−(現象学的還元)をしても、そこに現れる“本質直観”には、自己の認識(自己の理論)が残っており、
“正しい本質直観”を得ることは出来ない。
正しい現象学から観た場合に、“主観”を残した現象学的還元(エポケ−)によって現出する“本質直観”は
不完全な本質直観ということが出来る。 >>70>>74
ふたりとも一度哲学のジャーゴンを見直した方がいいよ。 >>73
>正確な解釈としては、エポケーというのは概念設定にもならない妄想に過ぎないということだろう。
一部のフッサール研究者や信者なら反論するだろうけど、俺はそう理解しているよ。
>主観をなくしたいというフッサールの願望自体が、幼稚な自己満足という意味で。
いやいや、主観=主体をなくしたいなんてフッサールは考えていないのだよ。
厳密な主体に基づく、厳密な学問をつくりあげようとしているのだよ。
フッサール読めばわかるが、最後まで、純粋自我、純粋自我と言い続けている。
ハイデガーなんかは結局そこを批判しているのだとは思う。 >>74
君の場合は、フッサールの仕方は甘い、もっと厳密に考えるべき、という
立場なのかな?
>フッサ−ルの様にエポケ−に於いて、主観(自己の論理・認識)を残し、客観的事象のみを
>エポケ−(現象学的還元)をしても、そこに現れる“本質直観”には、自己の認識(自己の理論)が残っており、
>“正しい本質直観”を得ることは出来ない。
「主観(自己の論理・認識)」「自己の認識(自己の理論)」「正しい本質直観」。
この3つの言葉がポイントであって、
君は、エポケーしたら主体も消えると考えているようだが、そんなことはない。
エポケーしようと思索にふけった時点で、考えている自己(デカルトみたいだがw)
は絶対に残る。 完全に自分を消去した状態ってなんだ、と考えると、それは完全に意識を失った
状態としか言えない。
あるいは何か作業に没頭して、考えるのをやめてしまっている状態でもいいかも。
フッサールはそんなことを求めているのではない。余分なものをすてた裸の
私、つまり意識の有り方を求め、その純粋な意識の有り方から世界を基礎づけようと
しているわけだ。
あとそれと、「自己の認識(自己の理論)」、自己の理論とか、かなり多義的に解釈
できる言葉が出てきてしまっているのだが、
フッサールは、「純粋自我」って言葉で「純粋」というのにこだわっているだろ?
フッサールは、余分なもののない純粋な自我から学問を基礎づけることが
できると信じて、それを探究しているのだよ。
あと本質直観には、正しいも糞もない。
林檎を林檎として意識する、ってのに間違いもなにもないのだよ。
ちなみにフッサールは、間違い、(林檎と見えたが実は梨だった)も
本質直観として理解しているはず。 >>78
知らないよ。誰でも極度に傷つけられたら被害妄想的になるじゃん だけど、主観を拝した主幹、残るものの前に
、省いたものはどうなっちゃうの? だけど、主観を拝して残るものの前に
、省いたものはどうなっちゃうの? >>76
>厳密な主体
それ自体が言葉の矛盾だろ?
主体(個人)を厳密に追求していけば、生理的(物理的)な存在(存在者w)が残るだけ。
主体(主観のある個人)とは、猥雑な神経系と思念の塊だから。 >>78
>林檎を林檎として意識する、ってのに間違いもなにもない
林檎を林檎として意識するためには、それがミカンではなく林檎であると区別する根拠(概念設定)と、林檎そのものに対する知覚がなければならない。
乳児や原始時代の人間が、現代の大人と同じ知覚を持っているかどうかは、実は疑わしい。
心理学や知覚を追求したメルロ=ポンティの課題であったともいえる。
「純粋」などという概念設定ができると思い込んだのは、デカルトの悪しき影響ということになるのかも知れない。
「直観」もまた、個人や社会の精神構造から離れられるものではない。
存在は本質に先立つ、という当たり前のことを見失っていたのだろう。 >>77
>君は、エポケ−したら主体も消えると考えているようだが、そんなことはない。
エポケ−しょうと思索にふけった時点で考える自己(デカルトみたいだがW)は絶対に残る。
>デカルトの様に考えている自己は、超越論的自我として残る。それは、“方法的懐疑”という
思考方法によって可能となる。
現象学は“現象学的還元(エポケ−)”という思考方法であり、デカルトの“方法的懐疑”とは思考過程が
異なっている。
つまり、“方法的懐疑”は、“疑う”という思考過程を基底とするが、この思考過程は究極の“真”を前提(定立)して
すべての事象・概念に対して真偽を行う。 その究極にあるものが“疑っている私は疑えない”という究極の真としての
“私(超越論的自我)に至る。
一方、「現象学的還元(エポケ−)」の思考過程は、一切の既成概念・前提を排する思考法であり、その意味から
主観・自我も“既成概念”であり、排することになる。エポケ−により現出する本質直観は、一切の客観的事象と
主観的事象が排された(エポケ−された)後に現れる、まったく新たな認識が構成される。その認識を本質記述する。
従って、フッサ−ルは、デカルトの“方法的懐疑”の思考過程と“現象学的還元”の思考過程とを“混同”している。
この、両思考過程の“混同”が間主観性哲学にまで尾を引いている。 わざわざ長音の部分をマイナスに置き換えて引用しているんだな。
怖いものがあるわ。 >>83
>それ自体が言葉の矛盾だろ?
主体の定義になるんだろうがね。「私」という言葉が意味しているのは何か。
>主体(個人)を厳密に追求していけば、生理的(物理的)な存在(存在者w)が残るだけ。
基本同意で、俺はフッサールは正しくないとは考えている。
ただし、生理的を問題と主体の問題とは、問題の次元が違うのだろうなとは思う。
生理的問題を考慮しつつ主体をどう定義づけるか、ってことだろね。
思惟に重きを置きすぎる哲学ってのは基本間違いだと思う。環境をもっと考慮しないと。 そいでややこしい方か。
>>84
メルロ=ポンティは身体問題を考慮しているからな。
>「直観」もまた、個人や社会の精神構造から離れられるものではない。
>存在は本質に先立つ、という当たり前のことを見失っていたのだろう。
ところがねえ、晩年は生活世界なんて考えるから純粋自我は捨てずに。
このあたりの論理はかなり揺れているみたい。
>>85
デカルトの方法的懐疑とフッサールのエポケーが同じでないことくらいは
俺もさすがに理解しているぞ。
>一方、「現象学的還元(エポケ−)」の思考過程は、一切の既成概念・前提を排する思考法であり、その意味から
>主観・自我も“既成概念”であり、排することになる。エポケ−により現出する本質直観は、一切の客観的事象と
>主観的事象が排された(エポケ−された)後に現れる、まったく新たな認識が構成される。その認識を本質記述する。
だから、これはあなたが理想としているエポケーであって、フッサールのエポケーでは
ないのだよ。 純粋自我はおそらくフッサールなら既成概念ではない、と反論する
だろう。
本質直観も、やたら意味深いものに、意図的に自分の好みにあった定義に解釈している
ようだし。
これではあなたは、自分の理想をまくしたてているだけ。 >従って、フッサ−ルは、デカルトの“方法的懐疑”の思考過程と“現象学的還元”の思考過程とを“混同”している。
>この、両思考過程の“混同”が間主観性哲学にまで尾を引いている。
こう書いているからまあ自分はフッサールとは別の現象学を主張していると
理解はしているようだがw
私見では、思惟とか省察とかを出発点とするかぎり、「私」の問題は付きまとう。
いくらエポケーを唱えてもな。「私がこう理解する」というのが付きまとうから。
このあたりは、デカルトというより、カントの統覚の問題と重なるが。 >>89
>このあたりの論理はかなり揺れているみたい
本家(?)デカルトも、考える自分の存在自体を真とするなら、知覚を感じた自分もまた真としないといけない、となって、結局はぐちゃぐちゃ。
おまけに、考える「私」も知覚する「私」も、考えた時点で知覚した時点で、考える前知覚する前とは違う「私」になっている。
あれ? ヘーゲルになっちゃったw >>90
フッサ−ルの場合は、意図的に主観を置いといて、“客観的事象”のみエポケ−(現象学的還元)を実行しているが、
それは何故でしょうか?
それから、思惟・省察を出発点として、エポケ−をしても「私」の問題は付きまとう、と述べているが、それは
エポケ−の仕方によると思う。 >>92
何故というより、エポケーが定義上そういうもの、だからだろ?
エポケーを定義したのはフッサールその人なのだから。
「私」の問題ってのは物凄くややこしいのだけれども、
立場は違うが、デカルト、カント、フッサールというビッグネーム3人は、
この問題については、簡単に前提条件として受け入れてしまう。
ヴィトゲンシュタインとかハイデガーとかはそうではない。 >>91
デカルトが方法的懐疑によって、“疑っている私は疑えない”という究極の“真”としての
“私”を超越論的自我というが、 問題はデカルトが方法的懐疑による究極の思考過程に於いて
認識した“あるもの”を、なぜ短絡的に“純粋な精神(=私)”と定義したかでしょう。
本来、人間の“心(精神)と体(物質)”は、“一つのもの”として存在している。
つまり、思惟・思考する以前に“心と体”は、もともと“一体化しているもの”であり、
この“主体(=超越論的自我)”の問題は、更なる論究が必要と思う。 「何故短絡的に」ってあなたw
デカルト的立場で、科学技術の発展の基礎付けも得られた側面もあるのだから。
近代合理主義の基礎づけと言う意味で。時代の要請でもあったのだろ。
>この“主体(=超越論的自我)”の問題は、更なる論究が必要と思う。
そりゃあそうだが、ドイツロマン派の頃にはすでにこの問題をめぐって
様々な論争があったのだよ。もう200年も前に。 >>95
>デカルト的立場で、科学技術の発展の基礎付けも得られた側面もある
あるの?
>様々な論争があったのだよ
まるで無意味な論争だろ?
哲学はヘーゲルとフォイエルバッハで完成され、ヴィトゲンシュタインによって哲学のジャーゴンが解体された。
残ったのは、ヘーゲルの対象の観察による弁証法とフォイエルバッハの心理を追求した唯物論だけだろ。 >>96
あったんじゃないの?よく言われることだが。
逆に、デカルト以降、「心身問題」がクローズアップされることになったわけ
だし。見方によれば、デカルトのおかげ。
>哲学はヘーゲルとフォイエルバッハで完成され、ヴィトゲンシュタインによって哲学のジャーゴンが解体された。
>残ったのは、ヘーゲルの対象の観察による弁証法とフォイエルバッハの心理を追求した唯物論だけだろ。
それは単なる君の哲学史観。ヘーゲルが、それ以前の哲学者を自分の前段階と
位置づけてから、わけのわからん哲学史観を信じるやつがでてきてしまった。
ヘーゲルは、「俺が西洋哲学の完成形だ」と言い続けた人だから。
それを君が信じる必要性はなかろう。
心身問題なんていろんな立場で分析されているだろう。 >>97
「心身問題」なんてギリシアでも東洋思想でも当たり前の考え方だぞ?
>ヘーゲルは、「俺が西洋哲学の完成形だ」と言い続けた人
哲学史を勉強しろとは言わないけど、ヘーゲルぐらいは読んだ方がいいと思う。
いや、僕も哲学史をたいして勉強したわけじゃないからw >>97
あと、フォイエルバッハの観念論哲学の解体と、ヴィトゲンシュタインのジャーゴンの解体についてはどう思う?
関心がないかな? >>98
心身問題はな。ただし、「私」の問題としてクローズアップされてきた
点は、デカルト以降の展開が大きいかな。
別にデカルトを褒めろといいたいわけではないが。こんなのは哲学史的事実として
受け入れたらいい。
今更、何故デカルトは短絡的にーー、なんていってもわけがわからない。
デカルトはあの立場で哲学史に地位を固めた人なので。
プラトンは何故イデアなんかをーー、というのと同じ。
>>99
フォイエルバッハはどうでもいい。この文脈で名前が出てきたこと自体が
意味不明。
ヴィトゲンシュタインは重要だが、ここで突っ込む必要性は感じないけどな。
全体的に何がいいたいかわけがわからんが。