>>153-154
ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の主題から説明しておこう。
論理とか哲学とはなにか、ということだ。
論理、哲学そのものに関する論考だ。

論理も哲学も(記号を含む)言葉によって表現される。
だから、「7 語りえぬことについては,沈黙するしかない」ということになる。
その意味での「5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」なのだ。

この大前提において、言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる。
君の勘違いは、その前提を見過ごして、ヴィトゲンシュタインが実在や人間自体を対象とした「存在論(哲学)」を展開していると思いこんだところから来ている。
有名好きの君の解釈が、だれかの解説のつまみ食いでなければ幸いだ。

僕に悪態をつく前に、自分の書き込みがジャーゴンの無自覚な流用であることぐらいには気が付いたほうがいい。
ジャーゴンのひとつでも明確な分類も定義もできていないのだから。

君と他の人とのやりとりもそうだが、議論するには、まず定義と対象を明確にする必要がある。
余計なお世話だが、ジャーゴンのすり合わせをすれば、君と彼(彼女)がそれほど違っていないことがわかるかも知れない。