柄谷行人はハイデガーの存在論を「ハイデガーが究極的に見出すのは、自己言及的な形式
体系、あるいは自己差異的な差異体系である」としてある程度評価しています(定本第2集p.133)。
ちなみに、存在=メタレベル、存在者=オブジェクトレベルという柄谷の解釈を東浩紀は
受け継いで図解↓しています。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200804/28/41/a0024841_4162993.jpg


ただし、実際にハイデガー自身が書いた図はそれとは違っています。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/14/41/a0024841_15442757.jpg


上記は、「ハイデッガーが講堂の黒板に描いた図形、現存在の図示としておそらく唯一の物と
思われる図形」(*)です。
それでも複数のクラインの壷を上から見たのだと解釈すれば整合性があります。また、右上
を余白にした所に図を見るものの「脱自」を促す余地があり、ハイデガーはその点さすがだと
思われます。クラインの壷だと図を見るものの位置が超越的になってしますので、ハイデガー
の意図とズレてしまうでしょうから。


上記図のハイデガー自身の解説:
「次ページの図は、人間の実存がその本質根拠において、決してどこかに事物的に存在して
いる対象ではなく、ましてや、それ自身の内で完結した対象ですらないということを明示するた
めのものでしかない。 (略)現存在として実存するとは次のことを意味する。現存在が「開け」
られていることからもろもろの所与がそれに向かって語りかけてくるが、その意味指示性を
認取しうることによってある領域を開けたままにしておくというのがその意味である。人間の
現存在は、認取しうることの領域として、決して単に事物的に存在する対象ではない。反対
にそれはそもそも決して、もともと決していかなる場合であろうとも、対象化すべき何かではない。 」
ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房1991年,p3) より
(参考サイト: http://www.archi.kyoto-u.ac.jp/~maeda-lab/A_maeda/A03_thesises/A03_thesis_room.html リンク切れ?
上記サイトはハイデガーの原図を解説しているが、矢印の解釈が少し違う。)