ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 20 [無断転載禁止]©2ch.net
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ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 19
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1454335694/l50
単著
『ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性』 木田元・財津理訳 朝日出版社:エピステーメー叢書、1980
『経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然についての試論』 河出書房新社、2000
『ニーチェと哲学』 足立和浩訳、国文社、1974
『ニーチェと哲学』 江川隆男訳、河出文庫、2008
『カントの批判哲学』 中島盛夫訳 法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1984
『カントの批判哲学』 国分功一郎訳 ちくま学芸文庫、2008
『プルーストとシーニュ』宇波彰訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1974
『ニーチェ』湯浅博雄訳 朝日出版社、1985/ちくま学芸文庫、1998
『ベルクソンの哲学』宇波彰訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1974
『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 晶文社、1973
原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ 原田佳彦・丹生谷貴志訳 哲学書房 1986
『差異について』 平井啓之訳 青土社 1989、改訂1992.2000
『スピノザと表現の問題』工藤喜作ほか訳 法政大学出版局、1991
『意味の論理学』 岡田弘・宇波彰訳、法政大学出版局、1987
『意味の論理学』 小泉義之訳、河出文庫上下、2007
『対話』 河出書房新社
『スピノザ 実践の哲学』鈴木雅大訳 平凡社 1994/平凡社ライブラリー 2002 >>459
いまとなっては、なぜドゥルーズに夢中になったのかわからない、という人が多いだろう。
なにかへの思いの強さだけは伝わってきたが、中身は陳腐だったり無意味だったり。
哲学に夢中になれる人がいた、ということだけは間違いない。
思春期の恋の病みたいなものかな? >>460
確かに香ばしかったがここも五十歩百歩だろ こんなの読んでる暇がったらアルト−の詩でも読んだほうがいいよ ダブルバインドの反復により発症する分裂症の症例の分類:
1言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
2言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型[解体型])
3コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)
ベイトソンの1956年に発表した論文「精神分裂症の理論化に向けて」(『精神の生態学 』新思索社,299~308頁)参照
浅田彰『ダブル・バインドを超えて』(1985)では、1がジョイス、2がベケット、3がアルトーに対応するとされている(64,87~8頁)。
Joyce 妄想型 paranoid https://i.imgur.com/2biUldM.gif Ulysses メタファー
Beckett 破瓜(はか)型 hebephrenic https://i.imgur.com/9FIyMsE.gif Quad リテラル
Artaud 緊張型 catatonic https://i.imgur.com/rwKgu01.gif La coquille et la clergyman カット・オフ
ただし、破瓜型は近年では解体型と呼ばれ、また、ダブルバインドのような理論の多くは統合失調症の原因というよりも、
パーソナリティ障害の原因らしいと言われている。(岡田尊司『統合失調症』PHP新書)。
《…ベイトソンは…バリへ行き、ともすれば暴力の突出につながりがちなニューギニアの社会とは対極的な、エネルギーを小刻
みに高く保つ術にたけた柔軟な社会を、そこに見出します。で、それを分析する途中、事実上ダブル・バインドに触れているんですね。一九四九年に出た「バリ:定常状態の価値体系」という論文の中では、母親が子供を愛撫し、子供が興奮して抱きついてくると
急に冷たいそぶりを見せる、という状況が描写されています。こうして適度のダブル・バインドをくぐりぬけることにより柔軟な
性格が形成される。それが、クライマックスの突出を避け、エネルギーを小刻みに高く保とうとする文化を生み出す。おおよそ、
こういうことになるでしょう。蛇足ながら、ベイトソンはそういう高エネルギー定常状態を「プラトー」と呼んでおり、そこから
ドゥルーズとガタリの書物が『ミル・プラトー』と名付けられることになります。》(『ダブル・バインドを超えて』100~1頁) ドゥルーズを読む人はヘーゲルやデカルトはバカにして読まなそう 小泉義之はドゥルーズ研究者として通ってるがデカルト研究者でもあったな
財津理もそう >>466
財津理だと、ヘーゲルはまるで理解できなさそう。 >>469
今どきドゥルーズに関心持つのなんてもともと哲学に興味のある人だけだから
ドゥルーズやデリダが世間で流行した時代はもう終わっただろ >>470
ヘーゲルを理解できるかできないかの話じゃないの? いや、SNSとかでは未だに現代思想かぶれをよく見るぞ
ていうか大学の教員にも多い
とくに文学や美術が専門の人 >>473
もう廃れてるだろ?
いまはドゥルーズじゃ、大学に残れないんじゃないか? >>475
それは失礼。
あのパンジー畑のようなドゥルーズで、どうやって論文書くんだろう? ドゥルーズは第一に哲学史家
差異と反復も哲学史として読める >>477
なにしろドゥルーズだからどう読むのも自由だけど、『差異と反復』を哲学史して読むと何か発見でもあるの? >>473
哲学史全体の理解が浅いままドゥルーズにばかり言及するのはかぶれだよ スレ民は近藤和敬ぐらい読むべき
ドゥルーズガチ勢はちゃんと学者だから >>480
ドゥルーズガチ勢が学者、というのは形容矛盾だろw 仮にドゥルーズが思想家ではなくポエム家だったとしても
大学に在席してその研究をしていれば学者だよ
どんなポンコツ詩人が研究対象でも文学者は文学者に変わりないのといっしょ >>483
>大学に在席してその研究をしていれば学者
それも学者の定義の一つだね。
在野の学者を含めることができないのが難点だが。
たしかに、ドゥルーズはポンコツ詩人だが、研究というからには、歴史的にと同時代としての位置づけができないといけないよね?
思い付きの言葉の理解と創出、使い古された心理と社会の分析しかできなかったドゥルーズに、そんな位置があるのかな?
そもそも、なんの歴史と時代に位置付けるんだろう?
哲学での位置づけは、無理だろ? ドゥルーズがいなければタルドやシモンドンは邦訳されてないだろう
スコトゥスも
サドとマゾの定義もドゥルーズが変えた
スピノザとライプニッツの関係も変えた
接続詞「と」の認識はゴダールに先行する
ハイデガーも出来なかった複数性を提示し得た
20世紀最大の哲学者はドゥルーズ >>485
>サドとマゾの定義もドゥルーズが変えた
>スピノザとライプニッツの関係も変えた
>接続詞「と」の認識はゴダールに先行する
>ハイデガーも出来なかった複数性を提示し得た
スゲえな・・・
なにをどう変えたの? ハイデガーが一元的なのはあえて神学的なオントロジーの問題を追求した人だから当然では
複数性は何もドゥルーズにかぎった話じゃないでしょ
ニーチェもライプニッツもだし、なんならプロタゴラスもそう 吉本の『アンチ・オイディプス』評は、率直な読みとしてこの本のもっとも優れた批評だと思う。
スターリン的云々というのが唐突だが、哲学史的な知識と無関係に独立して読める。
《…わたしが『共同幻想論』でやったことは、この
本でD―Gのやったのと、まったく反対のことだった。国家や社会体は「共同幻想」であり、家族は「対幻想」
であり、個人は「個人幻想」であり、この三つはまったく異なる次元の幻想として扱われなければならない。こ
の著者たちが「一切は機械をなしている」と述べているのになぞらえていえば「一切は幻想をなしている」とい
うのがわたしの理念の生産であった。この本の著者たちがいうように「一切は機械をなしている」というのが唯
物論的だとすれば、わたしは極度の観念論的だということになるし、著者たちからわたしの「対幻想」の分離と
設定が反動的にみえるとすれば、その度合に応じて、わたしの方からはD―Gたちはスターリン的マルクス主義
のラジカルな変種にみえることになる。 》
「『アンチ・オイディブス』論」(『吉本隆明全集撰3 政治思想』590-1頁より)
両者の関係を考える時、以下のヴィトゲンシュタインの言葉が示唆的だ
《私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなもの
として世界から分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見て
とるには、私もまた残余の世界に属するのである。従って一方には何も残存し
なく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論
は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。》
(ウィトゲンシュタイン、1916年10月15日、
「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より) AOに関してはガタリを無視出来ない
以下参考:
吉本隆明&ガタリ1987
善悪を超えた資本主義の遊び方、マリクレール1987年4月号(『よろこばしい邂逅』青土社 より)
…
ガタリ 吉本さんの考え方で資本という言葉のかわりに市場、国家という言葉のかわりに
社会的実践と、もし入れかえていただけたら私は吉本さんに全面的に賛成です。つまり資
本とは、ある一定の国際的なカーストの力ですからね。それに対して市場経済とはまさに
財、思想、文化、研究といったものの自由な流通、サーキュレーションです。ですから私
は市場経済には全く賛成ですが、資本に対しては反対です。…吉本さんのお話をたとえば
チリのような国に適用したとすると、それはもう社会、経済の根本的な破壊につながるこ
とだと思います。
…
吉本 いや、正にその問題がガタリさんの著書を読んでいてぼくが一番違和感を感じると
ころなんです。いま何を一番考え直さなきゃいけないか。それは資本主義と社会主義を先
験的に分けてしまうその考え方です。ガタリさんの著書を読むと、資本あるいは資本主義
は先験的に悪なんです。… ガタリ 私は資本主義が悪だと言ったことはないし、資本を全面的に否定したつもりもあ
りません。私は資本の優越性は、あるタイプの社会・経済関係をよく整理することができ
るということにあると思うんです。その点に関しては、私は資本主義が社会主義より劣っ
ているとは考えていません。また私は社会主義と資本主義とを対立させても考えておりま
せん。私は、さまざまなタイプの社会主義はすべて資本主義のヴァリエーンョンの一つだ
と思うんです。…創造的な態度をとる必要があります。それゆえに美学的なパラダイムが
非常な重要性を持っているのです。音楽家が音楽を創り、画家が絵を産み出すように、い
ま社会を生み出さなければならないと思います。…
第三世界に対して食糧を運ぶことが必要なのではありません。飢餓自体は吉本さんのお
っしゃるとおり現地の権力の腐敗や収奪といったものにも起因しているわけですから。そ
うではなくてむしろ最新のテクノロジーや新しい生産様式を彼らが自分のものにすること
の方が大事だと思います。…
私がどうしても認められないのは、まず最初に荒廃があって、その荒廃の上に進歩みた
いなものをつけ加えるという考え方なんです。その荒廃がいけない。
吉本 いや、ぼくは、国家なり社会なり制度というものは無菌的よりも、デカダンスを包
括していないとダメなんじゃないかと思うので荒廃に対してあまり否定的ではないんです
よ。もう時間がなくなってしまい残念ですが、またいつかお会いする機会がありましたら
是非とも続きをやりたいと思います。
(一九八七年一月二十一日、銀座三笠会館にて)通訳 小林康夫 アオちゃんの書だよ。アンチオイディプスは。分裂症があの短文で捌けるか?
その段のレヴェルですら無理そうな感じ。 とりあえず長文連投はやめてくれないかな
2ちゃんなんて3行でおさまる内容の話だけしてればいいんだよ
それ以上の話がしたければ学会に行け >>493
横だけど、君に哲学スレは無理だよ・・・ こんなの読んでる暇あるならアルトーの詩でも読んだほうがいいよ ボブ・ディランもオススメ
《BOB DYLAN / 11のあらましな墓碑銘 (より、つまみ食い的抜粋。)
…
さよう わたしは思想ドロボー
だが 誓って 魂のぬすっ奴じゃない
わたしは建て 建てなおした
海辺の砂を待っているものの上に
たくさんの城をきざむ
わたしの時間の前に
開かれているものの上に
ひとつのコトバ ひとつの調子 ひとつの物言 ひとつの行
わたしは心をひらく
そしてわたしの戸棚思想裏庭的雰囲気をみとめる
ちがう わたしは抵抗しすばやくツバを吐く
コトバという武器で》
上記はドゥルーズが『ドゥルーズの思想』(ディアローグ---ドゥルーズの思想 )で引用して話題になった。
《質問 ボブ・ディランって、本当に脱領土化なんですか?
ジル・ドゥルーズ ええ、そうですよ。ディランの声とは音楽的に言って何でしょう?
一種の抑揚のない声ですね。非常に面白い。どんどん鼻にかかったものになっています。》
(ジル・ドゥルーズ「音楽について」ヴィンセンヌでの講演、一九七七年三月八日)
(批評空間1998 6月 第二期18号) アルトーよりマルクス詩集ははるかに上。アルトーは交渉技術が舞台でぶれて、
簡単な世界で地方で終わったバカ。かっこいい役者持てる役者ってバカだろ? 罵る、罵声を浴びせる、下品な言葉を使う、とかが文学に関係あることは明白。
文学科なら、お国柄で、哲学者を飲み込んでしまえ。
哲学科があるなら、また話は違う。快速で、後塵を拝させる、切れ味のよさとか・ 哲学にかぶれた哲学者もどきは本当の声、本当の言葉、本当のうめき、本当の
吠え声、本当の書体、本当の咆哮を自己抑圧して無しにしてしまう、危険に気づかない腰抜け、
間抜け、だからな。哲学に教育者は必要で、戦場での驚きやひらめきの方がもっと大事で
どんな次元の教育が、統率行動が、文学悪にかったかな? https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784560096512
酷い時代だがよさはあるよね。統失は女性の症例です。クスリも出ていて
心配ないでしょう。本人はそれほど
大げさではない。他者にとってどうかというところ。転移概念じゃ語りつくせないし、
精神分析のはるか先を行く。 >>501
ここに書いてれば、九大准教授や九大元院生みたいな事件は起こさないだろう。 こんなのって2ちゃんのことだよね?
全面的に同意する >>494
ここの哲学スレごときをどんな評価してるんだよw
真面目な話、短文でまとめてるレスの方が内容も的確なのが多いだろ >>508
短文しか読めないのが、ネット世代の特徴になっちゃったね。
短文は短文、思い付き以上のことは書けないよ。 《‥…「私と同じようにやれ」と 言う者からは、何も学ぶことはない。わたしたちに
とっての唯一の教師は、わたしたちに 対して「私と共にやりなさい」と言う‥… 》
(『差異と反復』単行本49頁より) . >>509
つまりそのレスも思い付きを書いただけで無意味ってことだな トーマス・マン『魔の山』より
「おそらくあなたは悪意にたいして少しも敵意をもっていらっしゃいませんな、 技師さん。
私は悪意というものが、闇と醜悪さの力に対抗するための理性のもっとも輝かしい武器だと
思っているん ですよ。悪意というのはね、これは批評の魂です。そして批評というのは、発展
と啓蒙の源泉なんです。」
別訳、
「…あなたは意地の悪さに反対ではないでしょうね、エンジニア? わたしの見るところでは、
意地の悪さこそ暗黒と醜悪の諸勢力に対する理性のもっともかがやかしい武器なのです。
意地の悪さとは、あなた、批評の精神であなた、批評の精神であり、批評とは進歩と啓蒙の根源なのです」そして急にペトラルカについて話しはじめ、ペトラルカを「近代の父」と呼んだ。
魔の山 第三章 悪魔(サタナ) kindle版 訂正
「…あなたは意地の悪さに反対ではないでしょうね、エンジニア? わたしの見るところでは、
意地の悪さこそ暗黒と醜悪の諸勢力に対する理性のもっともかがやかしい武器なのです。
意地の悪さとは、あなた、批評の精神であり、批評とは進歩と啓蒙の根源なのです」そして急に
ペトラルカについて話しはじめ、ペトラルカを「近代の父」と呼んだ。
魔の山 第三章 悪魔(サタナ) kindle版 より 《ビンビイは私に、めったに多くを語らなかった。彼は個々の
人間にたいしてつっけんどんだったが、私は彼に好かれている
と感じた。彼と友だちになろうという気になったのは、彼が宗
教を論じるのを聞いたときである。私は自らを、もはや無神論
を越えたものと見なしていた−−つまり私はサタンだった。し
かしビンビイは無神論哲学を、いわば一つの体系のなかにおさ
めたのである、私はそれまでの激しい罵倒による宗教攻撃をや
めてしまった。私の態度は彼にくらべるとじつに迫力のないも
のに思われた。そのうえ彼は、下品な言葉など一度も口にした
ことさえなかったのだ。》
(『マルコム・X自伝』邦訳206頁 ) >>511
そういうのは反論にならないんだよねw
短文でなにかを言い切るというのは、小泉が流行らせた。
安倍も真似をして、中身が無くてもただ言い切ることで、人々の信頼を得ている。
ヒトラー・ナチスを継承している政治家だが、それに乗るのが短文愛好家の若年層なんだろうな。 >>516
根拠なく決めつけるのが、長文が理解できない、新聞も読めない知的下層の特徴だもんね。 >>517
うんうん
だから短文が好きな人は小泉やナチスの影響下にあるとか
短文は思い付きしか書けないとか根拠もなく決めつけちゃうんだよね >>518
根拠はあるよ?
小泉、安倍の短文切り捨て口調を支持してるのは、若年層の、新聞も読まない人たちなんだから。
考えさせないことが、小泉-安倍の政権運営法だし、それを支持してるのが若年層だ。
考えさせない政権、というのはナチスに端を発して、小泉‐安倍、あるいはトランプに引き継がれている。 ドゥルーズは、わけのわからないことをたくさん考えさせる、という哲学者だったなw >>521
わかる人にとっては、考える必要もない? ジルベール・シモンドンの『個体化の哲学』からやり直すの推奨
特に吉本隆明のドゥルーズ批判が世界で最も優れているみたいな妄言をはきつづけているやつがここに居座ってる以上、
なんかない限りこのスレは不毛なまま 誰でも薄っすら感じてることを勿体ぶった言い回しで延々と言い換えて書いてるだけの人 >>428
こういう「私は純粋です」ポーズ、すげえダサいわ 基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
関連論考
ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の 問題を中心に
小林, 卓也
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/33992/26827_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』 2018/7/26
福尾匠 (著)
また、「私は素朴な観客です」というドゥルーズの言葉どおり、「見たまま」を肯定する態度は、
ドゥルーズの哲学の創造性とどのようなつながりがあるのだろうか。
映画から哲学へ、哲学から映画へ、まっすぐに『シネマ』の核心へとスリリングに論じぬく…
「ゼロから読む」という名前のとおり、この本はジル・ドゥルーズの『シネマ』という書物の入門的
な解説書だ。したがって本書を読むにあたって、ドゥルーズについても、哲学についても、映画理
論についても知っている必要はない。映画をどれだけ見たことがあるかということもまったく
問題にならない。いずれにせよ本を読みながら映画を見ることはできないのだから。 以下『記号と事件』より、『運動イメージ』について
《ドゥルーズ──視線の概念が本当に必要かどうか、疑わしいと思いますね。目ははじめから事物のなかにあるのだし、
イメージの一部にもなっている。つまり、目というのはイメージの可視性のことなのです。…
…
目に相当するのはキャメラではなく、遮蔽幕(スクリーン)のほうです。》 >>530
自分の権威を貶されたと思ったら、いまになって悔しくなっちゃったの? >>535
人間というのは、3000年前から似たようなことを考え続けて、誰も答えを見つけられない。
哲学者はみんな一人一説。
考えてることが変だから、なんだろうな。
「人間とは精神を病んだ動物のこと」と言い切ってもよさそうだ。 このスレだって中二病患者だらけじゃん
文学板のドゥルーズスレを笑えないね 『基礎づけるとは何か』第3章ソクラテス関連でドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に
言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の認識であり、原典に当たっていない
のがわかる。
多分ベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。 >>539
「アンチノミーは解消されない」、この一言で、ヘーゲル弁証法を理解してないことがわかると思うんだが・・・
プルードンは、ヘーゲルをまともに読んだことはないのだろう。
誰かの不正確な解説書頼みだったような気がする。
マルクスを苛立たせたのは、たぶん、そのせいだと思う。 アンチノミー 弁証法 プルードン
言いたいだけなんだろうな ヘーゲルの弁証法はまさにアンチノミーを解消していく過程のことだからな >>540
そこはヘーゲルに対して異説を唱えている部分だから内容がヘーゲルと違うのは別にいいのでは
妥当な主張かどうかは別にして >>543
ヘーゲルに対する反論になっていない、という意味なんだけどな。
虎と闘おうとして、猫のぬいぐるみを攻撃してる、みたいな。
関係ないけど、僕自身はプルードンの言い回しは好きだ。
ただ、ときどき、この種の踏み外しが出てくる。 ヘーゲルを否定するプルードンというのは、フロイトを攻撃するドゥルーズと重なって見えてくる。 絶対精神を頂点とする弁証法は最悪だが
本来ヘーゲルの体系はAとBがアウフヘーベンされCになっても
CとAがさらにBにアウフヘーベンされるという循環システム(逆回りもある)
父と母から生まれた赤子もやがて親になり循環するというように
(キリスト=子には父がいないからそうした読みはできないが論理学、自然哲学全般、には妥当する)
カントの三批判もそうした読みが出来る
これでヘーゲルの体系を再評価できる
自分はプルードンのヘーゲル批判(>>539)は歴史的には決定的だと考えるが
ただし根本的なものではないというのはわかる
より根本的には柄谷行人のように代替案を提示する必要がある
マルクスから影響を受けつつ柄谷体系がプルードン再評価を含むのは象徴的である 基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
https://www.amazon.co.jp/dp/4480098879
ネットで公開されている「ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の問題を中心に」
なる小林卓也氏の論考にはこうある。
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
ドゥルーズはヒュームとカント以外にもソクラテスについて書いている。さらにドゥルーズが珍しく
プルードンに批判的に言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の
認識であり、原典に当たっていないのがわかる[2018年邦訳文庫版では49頁]
多分ドゥルーズはベンヤミンが引用した>>539の言葉も知らない
ただし、ここからが肝心の点だがドゥルーズは実は思想史的に意図せずしてプルードンを受け継いでいる。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」
プルードン『経済学』草稿(未刊行、邦訳なし)、邦訳なしより
「プルードンの未発表手編『経済学』について」斉藤悦則から孫引き
なお、邦訳文庫版は
1基礎づけるとは何か? の他に、2ルソー講義 3女性の記述 4口にすることの輪郭
5ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ を含みお得である これまで働いたことも無い高齢者が
何を言ってるのだろう 「ニューアカ」(笑)ブーム時代に大学生だった世代の長文コピペ連投 >>554
ニューアカも、どうせなら丸山眞男でも復権させればよかったのにね。
それなら、少しは現実との対峙も可能になっただろうに。 ルソー講義におけるヘーゲルのルソー批判の文脈で
突然スピノザが出てくる(基礎190頁)。
訳注によると神学政治論16,20章の要約らしい。
《スピノザは社会状態においても自由を維持している。「私は単なる
必然性だけでは満足しない」とスピノザは言う。そこで維持される
新しい自由とは,近代世界においては思考の自由ということになろう。》 ニューアカは現代日本におけるソフィストだと思ってる
東浩紀とか宮台あたりも ドゥルーズにとって決定的な切断は68年ではなく第二次大戦だろう
(ABCで詳細に語っている)
だからシネマ1,2が重要になる
ニューアカはこうした切断を経ていない
前提として自明視しているものが多すぎるから普遍的思考にならない
東浩紀は社会的インフラを前提にし
浅田彰はテクノロジーを前提にし
柄谷行人は翻訳を前提にしている
柄谷だけが第二次大戦の断絶を経験している…
ドゥルーズを世代論で片付けられはしないが。
《−−あなたは怪物ですか?
「怪物」というのはまず、混成的な存在です。そしてたしかに私は、一見すると多種多様な
主題について書いてきました。怪物には第二の意味があります。すなわち、極端な規定が、未
規定なものを十全に存続させておくような何かや誰かのことです(たとえばゴヤ風の怪物)。
この意味で、思考とは怪物なのです。》
邦訳『ドゥルーズ書簡』110~1頁より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています