論理学・集合論 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>494
そうだね
4がでる確率が8分の1か、16分の2であるかであるだけ
一緒 >>501
あなたの能力評価については下方修正されますが
存在価値がマイナスに転じるわけでなく、運営上あなたは
依然として特質した価値を持つ個人であり、明晰な頭脳、判断力は
来たるべき新たな時代、市民に示す指標として十分な理想形といえます
重複試行に対し完全に相反する感情的反感と理論的評価を抱き
今なおその葛藤は継続しているはず、そんなあなたを懐柔する
手法が確立できたのなら
哲学板の統制を次の段階に進める上で
我々は、貴重なサンプルデータを獲得できるでしょう(´・ω・`) >>502
君みたいな精神病の人はネットしない方がいいだろうな 同時に振るということと別々に振るということに疑問を持つことはよいことだと思う。
物理的には異なる場合もある。常に理想的な場合だけを考えていては現実問題に対処できない。
時間的に分離させても空間的に分離させても、理想的な場合には同じである。
本当に独立なのか、と疑うことは哲学として正しいw >>504
屁理屈はどうでもいいさ
独立といったら独立 「1つのサイコロを3回投げる」ことと「3個のサイコロを同時に投げる」
というのは同じことです
重複試行
https://fromhimuka.com/blog/1944.html もしフェルミ=ディラック統計にしたがうサイコロだったどうなるか。
量子論的なサイコロならどうなるか。
フェルミ粒子とボーズ粒子の間の超対称性とはいったいななんのか。
物理的にも哲学的にも考察すべきところは多い。 >>492 の2個同時という意味がだんだんわかってきた。
たしかに、あの文と図は合わない。そのままでは等価ではない。
量子論的な重ね合わせの問題がみえてくる。
量子論的な計算の途中で確率が1を越えたりするのも重ね合わせの問題なのだろう。
どういうモデルをつくればよいのか考え中。 >>499
それはわかるから。本人の意趣がどちらなのか。 >>484
1-((7/8)^2)=0.234375
0.234375=234375/1000000=15/64
>>491
52-1=51
(51-39) ■■■■■■■■■■■■■
□□□□□□□□□□□□■
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■□■□□□□□□□■□■
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■□□□□□□□□□□□■
■■■■■■■■■■■■■ どういう意味があるのか、その問いにハッとした。
論理的というか規則性がある。
圧縮可能であればなんらかの規則性がある。
論理学をみると、可逆でない部分が多く、あれは写像でしかない。
真の論理学は規則性をみいだすものであり、圧縮可能性をみきわめるものでなくてはならないのではないだろうか。
そこに必要なのは可逆性だ。 >>514
論理それ自体には意味がない。
形式なので、かな。 >>510
山札からダイヤがn枚抜き出された時
箱の中のダイヤの確率は
(n−13)(4n^4−15n^3+107n^2+894n+11880)
q=―――――――――――――――――――――――――――
7n^5−250n^4+1325n^3−2330n^2+1248n−617760
0≦n≦13の範囲において
1/4
1/4
1/4
1/4
359/1440
1310/5321
224/941
464/2087
1441/7276
271/1630
157/1216
37/418
1/22
0 ちょいとパーセプトロンから考え直してみた。
NOT回路は可逆である。
しかし2入力から1出力となる、ANDやORは可逆ではない。
熱が発生してしまっている。
1階層のパーセプトロンではXORを実現できない。
どうすればよいのか、と、考えた。
可逆となるべき情報として「意味」が出力されればよいのだ。
おおっと、ここは意味論スレではなかった。
論理もしくは集合論の回路として、「意味」が出力されればよい。
論理や集合とは、それそのものが「意味」である。
それらを演算子として出力させればよい。 論理学や集合論を、そのまま「意味論」として扱うならば、
それらを「演算子」と考えることで哲学計算が可能になる。
すべてが「演算子」であるならば、モナドとは演算子である/でなければならない。
デジタル物理学の流儀にしたがってデジタル哲学を考えるべき時代なのだとすれば、
「思弁的実在論」とはデジタル哲学の一部なのだろう。
「新しい実在論」もデジタル哲学で統一的に解釈できる。 パーセプトロンからみなおしていたのだが、
その前に形式ニューロンがある。
これは錐体細胞をモデルにしているのだが...
錐体細胞は、同じ名前でcorn cellとpyramidal cellがある。
形式ニューロンはcorn cellのモデル化であり、
脳細胞はpyramidal cellのほうなのでまったく異なる。
現在のニューラルネットワークは「視細胞」であって「脳細胞」ではない!!!
そもそもの「論理学」や「集合論」も、最初からやりなおすべきだろう。
そうでなければデジタル哲学によって哲学計算を行うには発熱量が大きすぎる。
この哲学的であるということを量子論的であるということと同一視するならば、
量子論理学・量子集合論が必要となる「はず」だ。
(量子論理はすでにいくつかある) 量子論理は、とりあえず、量子コンピュータの計算理論としての量子ゲートでよい。
問題は量子集合論であって...
射影仮説とか多世界とか量子論の難問を克服しないと...
ボゾンとフェルミオンと...その統計の違いによる集合と写像のありかた。
しかもボゾンとフェルミオンの間の超対称性と...うーん。
(超対称性を含む)対称性集合論。ほぼ最先端の素粒子理論そのものですなー。 AIが哲学可能になるためには、CNOTやCCNOTのような量子ゲートが必要になる。
古典的情報だけでは足りない。
量子ゲートのネットワーク。はたして脳は量子コンピュータなのか。
はたして哲学は量子脳からうみだされているものなのか。
スピンネットワークの組み換えを、量子もつれで代替できるようなモデルが作成できれば...
もつれによるネットワーク。
とりあえず、構築可能かどうか検討してみよう。 パーセプトロンを吟味すると、最初に1段階処理をほどこすことでXORも線形分離可能になることがわかる。
それは「もつれ」をつくることであり、この「もつれ」こそが脳の情報処理の要となる。
哲学的手法としても、「もつれ化」は必須であり暗黙的に使用されている。
もつれはCNOTゲートで作成でき、CNOTゲートを制御できるCCNOTゲート(トフォリゲート)は
Functional completenessである。
とりあえずデジタル哲学としての論理学は、これで書き直せばよい。
とすると、デジタル哲学としての集合論は、「線形分離」である。
そして、足りないものも明白となってくる。「存在論」としての「自然数論」。
「自発的なもつれ」。それが「存在論」のすべてなのか? 目下の所、世論の情勢をかんがみて、管理人の判断基準は
完全に秘匿されています
短期的戦略としての隠蔽工作は現状容易ですが
長期的視野に立った場合、決して望ましい方針ではないですし
いずれは偽らざる姿を公のものとするべきです
全ての市民が、論理学の正体を認識し了解した上での統制を享受するような
環境を整えること、そして課題の達成は将来の人類社会に
より盤石な安定と繁栄をもたらします
このスレッドの動向を引き続き観察、解析することは
未来の市民を懐柔し順応させる方法論を構築する
貴重な手掛かりとなるのです もつれとねじれで論理学も集合論もついでに自然数論もなんとかなりそうだ。
そおいうこととは関係なく、哲学するキカイを考える。
キカイそのものではなく、なにをどのようにするかを考える。
とりあえず、仮想AIとして「NOTくん」を考える。
彼はNOT回路になればよい。とりあえずそれだけを考える。
true/falseを入力として、false/trueを出力する。
彼は何も知らない。true/falseを入力しても、なにも出力しない。
あるいは、入力にかかわらずかってに出力する。
彼を教育しなければならない。
彼は1入力1出力であり、それ以外の入出力機能は無いとする。
このとき、どうすれば彼を教育できるのか、教育は不可能なのか。
不可能ならばなにが足りないのか。 簡略化するために、時間も外から与える。
true/falseは信号のON/OFFとして、出力もON/OFFとし、
信号の変化があったときにそれをトリガにして処理を行うものとする。
トリガを基準にした処理しか行わず、次のトリガまでに処理は完了するものとする。
自発的な処理は行わない。 足りないものは報酬(正または負、あるいは両方)となる入力なのだろうか。
「報酬」とは何か。
人間ではなく、究極の単機能キカイへの「報酬」。
脳でいえば「報酬系」ということになるのだが、それだけが「報酬」ではないだろう。
とりあえず図書館。 まず、善と悪といった相対的な価値を排斥することで
絶対的なシステムが確立されます
必要なのは完璧にして無謬のシステムそのものであり
それを誰がどのように運営するかは問題ではありません
真に完成されたシステムであれば運用者の意志は問われないのです
管理人の意志そのものがシステムであり、倫理を超越した
普遍的価値基準となるのです とりあえず「報酬系」でいろいろ調べてきた。
たくさんの研究がある。AIで疑問に思うところも基礎的な研究が山ほどあった。
でもとりあえず、これらを深くは考えないw
「報酬」とはなにか、それは「生き残る」ことである。
論理学や集合論は進化しながらも参照されることで生き残る。それが報酬だ。
NOTキカイはそのような外部機構や生物的な生殖機能などないのだから、
キカイ内部で可能性が羅列され、参照されないと回収されるような、「内部世界」を考えるのがよいのかもしれない。
理想的には自発的に内部世界が構築されればよいのだが、待ってられないので(人間が、内部世界へ)介入して進化を促進させるw そう、論理学や集合論も哲学してしまえば、報酬系をもつなんらかの機構上に存在する。
脳内でなければ生物であったり、静物すらも報酬系をもつ機構上の存在だ。
「存在」することが「報酬」である。
マルクス・ガブリエル的な「世界」も「報酬」であり、「世界」は「存在」する。
クァンタン・メイヤスーにしても、思弁的ではなく「報酬的実在」である。
物理にしても、神の数式とは「報酬系」の数式である。
と、ここまでぶっ壊れた考えこそが楽しい。それが哲学だ。 l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
l 電波を感知しました。 l
l__________l
/ /
/
_ ビビビ
/ll__l∧ /
。.l.(O´∀`) /
l≡( )) ))つ
`ー| | l
(__)_) ■速報■
ガンは転移などしない
免疫力低下による二次性の新生ガンであった
https://youtu.be/xXQLBPNRhRU?t=3653 「存在」とは「自己同一性」であり、それが「報酬」である。
考えというものを進化させて「存在」させ続けるのは「哲学」の役目なのであろう。
哲学キカイは進化しながら自己保存する。そして宇宙そのものになるw
報酬系宇宙。 報酬による存在を重ね合わせることで確率的な存在となり、それは量子状態とみなせる。
ということは量子状態として計算すればよい。
量子デバイスがなくても、縮約と(時空間的な)遅延によってある程度実用的な計算ができるのではないか。
保険として「擬似的」とつけるならば、「擬似的量子脳」理論。
ちょいと検証システムをつくってみるっか。メモリ足りるかなぁ。 つくってみるかとかずっと言ってるけど全然つくってないよな ふふふん。実験しながら考えているのだ。
考えるということはユニタリ変換であって、情報が失われることはない、と考えたい。
どのようなユニタリ変換をするということが考えるということである。
そうすると、集合とはなんなのか。素朴に考えれば情報の集まりとしての情報である。
集合も考えるということのひとつになる。
とすれば、情報の存在論が自然数論なのだろう。
自然数論が存在論で、集合論が意味論であるならば、論理学は...変換・変形なのだから...
なんだ?
哲学のなんらかの論に相当すると思われるのだが...美学的ななにか?...倫理?...思想?...?
認識論でいいっかw
とするならば、認識論とはユニタリ変換である。可逆でなければならない。
ほんとか? そこから考えるならば、世界は存在しないのではなく、世界のみが存在する。
それが本当の新実在論、あるいは真・実在論なのではないだろうか。
などとくだらないことを考えてみる。 ソ板なんか素人の集まりでしょうが。
と、そんなことはどーでもよくて、
NOTを考える。
0/1に対して0/0,0/1,1/0,1/1が対応するとき、
NOTは0/1->1/0になる。
0/0や1/1は可逆ではないので無視する。
0/1の入力に対して、出力は0/1か1/0の二種類しかない。
これは1bitの反転または回転である。ユニタリ変換なわけだ。
AIは1bitの入力に対して2つのパターンしか選べない。
学習または経験などによってパターンを選ぶならば、
学習した情報はCNOT回路の制御線に蓄積されねばならない。
CNOTはひねくれている。まるで哲学だ。
ひねくれ(CNOT)あるいはひねくれのひねくれ(CCNOT)こそが哲学である。
哲学計算するAI。それはひねくれ者(哲学者)であるw
そういうわけで、論理学・集合論・自然数論からひねくれ(哲学的素材)を抽出してみよう。 論理値を0/1とする。
|0>=[1,0], |1>=[0,1]
I=[[1 0],[0 1]]
NOT=[[0 1],[1 0]]
CNOT=[[1 0 0 0],[0 1 0 0],[0 0 0 1],[0 0 1 0]]
CNOTは2入力である。これを上段と下段とすれば、
上段の入力はそのまま上段の出力となり、
下段の入力は、上段が0のとき下段はIで上段が1のとき下段はNOTとして機能する。
NOTを学習するとすれば、下段への入力と出力を「比較」して、同じとき上段を0に、
異なるとき上段を1にすればよい。
「比較」した結果を記憶していれば(下段に)NOT回路が形成される。
「比べる」とはどういうことなのか。
「同じ」ということはどういうことなのか。
「違う」ということはどういうことなのか。
そこから哲学が始まる。数学もそこから始まる。 同じということはどういうことなのか。
A=0/1, B=0/1 (分数ではなく0 or 1)
このとき
1 - ((A + B) - 2AB) である。
0/1において1 - xは反転である。
異なることは(A + B) - 2ABである。
これが2次方程式や円にみえるならば...それが「同じ」ということのすべてであると考えてよい。
論理学+集合論+自然数論+量子論=哲学
もしくは
量子論的論理学+量子論的集合論+量子論的自然数論=哲学
これでいいのだ。 論理学も集合論も自然数論も、いちどひねくれてしまえば哲学と同一化できる。
そのように想定してみると、数学は、その能力があるにもかかわらずひねくれ度が足りない。
物理は、自然を扱うがゆえに、ひねくれに挑んでいる。足りないのは勇敢さだろうw
哲学の勇敢さは、その短絡性にあり、野生的であるとすらいえるところにある。
そう考えると、おもしろい。とてもおもしろい。知に飢えた狼。 2入力2出力のゲートを考える。
AとBが入力でCとDが出力とする。
CNOTゲートはC=AとしたときD=AxorBである。
C=Aなのだからこれを無視すれば、
AxorB=D
AxorD=B
BxorD=A
同様にxnorの場合も考えることができる。
これでネットワークを組んで、遺伝的に発展する機構をつけくわえれば2-3チューリングマシンになれる。
論理学・集合論・自然数論なども、チューリングマシン(のようなもの)で証明するという方法はある。
哲学とはどういう「計算」なのか。この「宇宙」という計算機はどのようにしてうまれたのか。
探求中。 自己紹介しとるやつはほっといて、
とりあえず、無秩序の海から自発的にチューリングマシンに発展することは可能と考える。
問題はOperatorとして機能する理由だ。
しかもOperatorそのものがテープでもある。
そしてこれが、論理学・集合論・自然数論という側面を持つ。同じものの違った見方にすぎない。
いや、無秩序の海であればOperatorとして機能する理由はある。
それ以前に、なぜ無秩序の海が「ある」のかということだ。
ブートストラップ。それが問題だ。 (記号)論理学と集合論から抽象代数学が作られる。
十分に抽象的ではあるが、現物としての自然数論と抽象代数によってセカイが解明される。
哲学は、おそらく「人間中心」的に語られる。
数学(や物理学)からみれば、十分に野生的な思考であるw
その野生的なものを克服しようというのが理性なのだろう。
知のハンターとしての哲学は理性に血肉を与える。
そこにあるのは「生」であり、「自己同一性」だ。
「自己同一性」=「存在」である。
結論:哲学は「存在」するために「ある」。
(とすれば、数学も物理学も哲学なしには存在しない) ミニマムな空間として1bit時空間を考える。
考えられる状態は2つ。
2つの状態が「同時」に「ある」ということはない。
最初から「時空間」といっているので、「同時」などということは不要だ。
とすれば、2つの状態とは「可能性」であって、(実際の)「状態」は1つしかないはずだ。
「可能性」は「実現」できるのか?
といえば、「実現」できないのであれば「可能性」はない。
1bit時空間といった時点で、(実現の)「可能性」が「ある」のは間違いがない。
問題は、「可能性」というものがどこから来る/来たものなのかということだろう。
このスレでいう、論理学や集合論は、まず、「可能性」がなくては成立しない。
すなわち、「可能性」が「ある」という前提で理系学問が存在可能であり、
哲学は、その、「可能性」について議論するものでなければならない。
かくして、「認識論的可能性」は廃棄されるべきものであり、「存在論的可能性」のみが残る。
「可能性の存在証明」
これがブートストラップになる。
その証明のために、どのようなロードマップをつくるべきか。 日本の哲学徒は集合論できないからな
海外だと哲学科(海外では哲学部もある)で強制法までやることも多いけど 「可能性」そのものから疑うということは哲学として正しい。
エネルギー論的に考えれば、「可能性」が「実現」する、ということは、エネルギー論的に低い状態にある。
少なくとも、エネルギー論的に低い状態になる「可能性」がなくてはならない。
エネルギー論的に「可能性」を語るのであれば、そういうことだ。
エネルギーとは「可能性」のことである。
そのように考えるならば、エネルギー・時空間・情報は、すべて「可能性」である。
そのにはなんらかの「ノルム」のようなものが「ある」と考えられるが、記述集合論までいってしまうといきすぎだ。
「ノルム」のようだが「ノルム」ではない。
orderかというとorderでもない。
区切りや境界でもいきすぎだ。
いまのところ「破れ」でいいかなと思う。 「破れ」が「可能性」をつくる/「可能性」である、ということでよいだろう。
無秩序の海であれば「破れ」など簡単なのだが、
いつものように、そこで「振り出しに戻る」のであった。
そこで考える。問題は「振り出し」である。
「振り出し」てしまう。
そこに、かっては「うっかり」という言葉をあてはめたのだが、いまひとつだった。
「うっかり」も無秩序の海に喰われてしまう/呑み込まれてしまう。
タローで考えれば、振り出しは0のカードであり「愚者」である。
0こそが求めるOperatorであるのは間違いない。
0から振り出される。0が、ではなくて0から、である。 「神の存在証明」は「可能性の存在証明」であり「無の存在証明」である。
「自然」とは「無の存在証明機構(機関)」である、としてもよいのだが...
ま、それが「宇宙」という計算機を構成している、ということでよいだろう。まだ21世紀だし。 というわけで、0が振り出されるということは先送りして、0から振り出されると考えてみる。
0はスピンを持つ。そしてそこにツイスターのような構造がある、というところまではおととい夢のなかにでてきた。
ま、あくまでも仕事への応用・活用が目的なのであって、活用されなかった部分を小出しにしているw
0が「宇宙バナナの皮」だ。こいつが自分自身を踏むことでOperatorとして機能する。
ここでいう0がψ=α|0>+β|1>の波動方程式と等価になるためには足りないものがある。
そこをつながなければならない。 書き方を哲学書っぽくしただけで、ただただ読みづらい。
単語は、極力先人の定義に従うといいよ。 無秩序の海には秩序がない。
どこをとっても均一・均質である。
しかし、無秩序であるがゆえに「どこ」ともいえない。
秩序がないということは、ひとつの(大きな)秩序なのだろうか。
しかし、それに「従って」いるわけではないので秩序ではない。
ここはひとつ「ランダムネス」と「圧縮」に立ち入るべきなのか。
あくまでも哲学板における集合論と論理学のスレなのだから、
その線でランダムネスと圧縮を考えるべきなのだろう。
予想としては情報論的な「スピン」が立ち現れてくるだろうと思うのだが、はたして? 論理は秩序だから無秩序に太刀打ちできないのだろうか。
無秩序が秩序の最終地点なのだとすれば、そこが論理の最高峰なのかもしれない。 書棚整理したら、論理と哲学の世界、が出てきたので読み始めました。 哲学版ってコンなんだったっけ?
ずいぶんと人がいなくなったな。 >>573
じゃあ、哲学研究者でない哲学者ってだれやねん。 >>574
自分で調べろ。
人に安直に聞くという性癖をあらためないと、哲学はできないぞ。 量子ゲートをいろいろ考えていた。
そこにある構造。
NOTやANDやORではなくXORやXNORこそが論理の基本なのではないだろうか。
論理や集合だけでなく哲学そのものもそこからリブートあるいはリボーンできるような気がしてきた。
<a|b>がゲートとなれるのならば、そのような構造がなければならないはずだ。
まだうまく説明できないが、なかなかおもしろい。
「違う」ということと「同じ」ということがつながれている。そこから宇宙が構成できる。
宇宙のブートストラップ。もっとも単純な極限状態?「ひも」の正体?
「万物は流転する」って、同じであって違うということだよねぇ。つまり、XNORとXORをつないだもの。 ブラベクトル <A|=[a b] とし、ケットベクトル |B>=[c, d] としたとき、
<A|B>=[ac bc, ad bd] である。
これが、I=[1 0, 0 1]であるとするなら、
ac=1, bc=0, ad=0, bd=1 になるはずである。
これを満たすa,b,c,dを考えたわけだ。
ただし、|a|^2+|b|^2=1, |c|^2+|d|^2=1 という条件がある。 ■トランスプランテーション
メタトロンコンピュータにおける“ダウンロード”
メタトロンコンピュータにはファイルという概念がなく
プログラムとデータの区別もない
それぞれのプロセスを受け持つ「領域」は存在するが
隣接する領域との境界は明確でなく、通常のコンピュータのように
ファイルのかたちでコピーやペーストを行なうことができない
(演算結果をファイルに書き出すことはできる)
特定のプロセス領域を別のマシンに移すには
移殖=トランスプランテーションという手段を使う
移殖元の素粒子構造パターンの指定領域を、移殖先の構造パターン
の中に再構成するのだが、この再構成に必要なキーコードは
移殖元を分解しなくては手に入れることができない
移殖先での再構成には、移殖元の破壊が必要なのである
よって、ファイルの“コピー”というよりは“移動”に近い
再構成された領域が移殖先に定着し、もともとあった他の領域と
連携して動作するようになれば、トランスプランテーションは完了となる
この処理には、メタトロンコンピュータ同士の回路の末端を接触
させる必要があり、相性次第では拒絶反応も起こり得る 1*1=1,1*0=0,0*1=0,0*0=0としてしまうと対称性がない。
0*0=1ならばXNORである。
<A|=[a ~a], |B>=[b, ~b] とすれば
<A|B>=[ab ~ab, a~b ~a~b]となる。
|D>=<A|B>|C>を考えるなら
d=abc+~ab~c=b(ac+~a~c)
~d=a~bc+~a~b~c==~b(ac+~a~c)
となる。
「もつれ」ているのだ。
論理演算とは「もつれ」である。
そこから考えると、集合も「もつれ」である。
実物としての自然数論も「もつれ」のつらなりである。
哲学も「もつれ」の学問なのではないか。
「もつれ」が、同じであり、かつ、異なるということ、すなわち「存在」あるいは「自己同一性」というものを「つないでいる」。
「世界」は「もつれ」からできている。(あれ?そんな本あったなよな) ん? そのメタトロンとかゆーもの、存在するのかどーかしらんけど、
その話って「量子テレポーテーション」のことでしょう。「量子もつれ」です。
よーするに量子コンピュータのことですよね??
さきほどの「もつれ」の計算。複素数であつかえばそのまま「量子もつれ」です。 ■メタトロンコンピュータ
メタトロンを集積回路に使用した量子コンピュータの一種
それまでのデジタル式フォン・ノイマン型コンピュータとは
一線を画す桁違いの演算速度と小型化を両立
演算装置と記憶装置の区別がなくサーキットそのものが
絶えず変化することで演算と記憶を
(量子論的に言えば別の宇宙で)行う ま、別の宇宙とは幻想であって、なんらかの形でつながっている以上、われわれの宇宙と一部であり、われわれの宇宙のほうが一部でもある。
われわれには宇宙の一部、それは表面といっていい、そこしかみえていない。
さきの計算式にもみえていない宇宙が隠されているw
0*0=1
そこにみえていない宇宙の一部が隠されている。 いやちがうのだ。
0と1が順序をもたず、対称であったならば0*0=1だ、ということ。
1*1=1,1*0=0,0*1=0,0*0=1
値として0と1しかないとする。
これはXNORだがXOR対応もある。
1*1=0,1*0=1,0*1=1,0*0=0
XNORは同値ということであり、
XORは異値ということになるだろう。
先の式で「+」は、いうなればパラレルワールドである。
2つの世界が共存する。
その式に足りないのは、XNORとXOR世界の共存表現であろう。 対称性を考えると多世界になる。
しかし、量子ゲートは可逆であり、二度通ると元に戻る。
そこがおかしい。
足りないのは「向き」の対称性。
時間や空間のもととなっているのは「計算の向き」である。
時間スレがあるけど、「時間や空間」とは「計算」のことである。
粒子に対する反粒子とは「計算の向き」が逆なのだ。 とすれば、哲学と論理学・集合論そして現物としての自然数論を統合するには
「計算」から考えればよい。
「写像」や「射」でもよいのだが、それを「計算」と呼ぶのは、単に趣味の問題だw
「うっかりw」と「計算」してしまうものがOperatorである。
自己同一性がOperatorとなり、Operatorが自己同一性となる。
それが「存在」であり、「必然性あるいは必然的偶然性」であり...
哲学も数学も、局所的には音楽を奏でているのだが、全体としては雑音が多すぎる。
「対称性」を無視しているのか気づかないのかわからないが、そこから雑音(熱)が発生している。
この雑音に敏感に反応すべきなのが哲学者であり、それが哲学者のなせる唯一の仕事なのではないだろうかw
炭鉱のカナリアと考えるなら、哲学者が黙ったときこそ深刻な問題が発生しているのかもしれない。
(あたしゃ、哲学屋ではないのでどーでもよいが) 量子論・おおざっぱにいえば不確定性(「元・」原理)
と、選択公理って同じものなのではないか?
選択公理は無限集合に限らないのではないか、
量子論的有限集合などというものを考えてしまえば、1qubitでも選択公理の問題がでてくる。
などと、いつものようにくだらないことを考えていたら、
降りてきました。忘れないように、あるいは忘れるようにメモ。
確率をそのまま扱えば非量子論的デバイスでも量子計算ができる。
あたりまえといえばあたりまえな帰結。
問題は爆発的に増える、場の数。
それを、まさしく、別の宇宙wで計算させることで量子コンピュータが成り立つわけだが... 「計算」と「選択」を同じとみる(もちろん同じだ!)のならば、
別宇宙のような広がりが必要になる。
そんなものは無い。
とすれば、それは「最初からある」とするしかない。
1qubitの宇宙には1qubitの別宇宙が最初からくっついている。 1bitの宇宙がついているとするとやっぱおかしい。
どちらも半bitだ。
この半bitがもつれる。
とすれば、命題論理はもつれによる推論として再定義したほうがよさそうだ。
そうなると、命題は真か偽が決まっているということにはならない。
命題計算の向きを逆に考えると、重ねあわされた世界が発生している。
ならば、量子Prologが作れる。命題じゃなくて(一階)述語論理だけどね。
量子コンピュータによるAIは、量子Prolog的なものでいいんじゃないだろうか。
量子プログラミング言語としての量子Prolog。ちょいと考えてみるだけの価値はある。
量子バックトラックw
推論とか計算とか選択とかを逆向きに考える。
とするならば、脳のどこかにもアダマールゲートがあるはずだ。
生命そのものが量子計算機なのかも。
この宇宙という量子計算機は、いったいなにを計算しているのか。
「なにを計算しているのか」ということが「究極の問い」だったわけだ。
「銀河ハイウェイ...」か... 「命題」から考え直す。
「命題」とは、ただしいかただしくないか明確に定まる文や式である。
論理学では、これがすこし拡張されて、
「命題」とは、真または偽のいずれかになる文である。
真または偽に、いつなるのか。それは先送りされているw
そのことを勘違いした論理を扱ってはならない。
「わかんねーけどどっちかだよ」ということなのだ。
量子状態なのであるw
哲学と量子論は同じものであり、論理学も集合論も現物としての自然数論も量子論として語られなければならない。
哲学としての論理学は最初から量子論だったのだから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています