ギリシャ哲学総合スレ [無断転載禁止]©2ch.net
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>>323
2について付記。
アキレウスと亀の間に無限に中間点が生じて、アキレウスは中間点を超えることができずに亀を追い越すことができないということだが、ここには運動の過程が除外されている。
アキレウスと亀のスタート地点をそれぞれΑ、Βとし、その中間点μとし、Αからμまでの距離をμ1とする。
アキレウスがΑからμ1に達するのに要した運動をχとする。
ΑμはμΒに等しいので、μ1=μΒの距離でもある。
χと同じ運動で亀がΒから進んだ距離をβ1する。
μからα1までの距離の中間点をμ2とする。
μ2=(μ1+β1)/2
アキレウスは亀よりも早いと仮定されているので、β1はμ1よりも短い。
とすると必ずμ1>μ2ということになる。
そうすると、アキレウスにおいてχ=μ1なので、中間点μにおいて同じχの運動をしたならば、それはμ2よりも長いことになる。
従って、アキレウスは同じχにおいて、2番目の中間点以降、一つ以上の中間点を超えることが可能なのであり、ゼノンの言う中間点を超えることができないということは当てはまらない。
ゼノンは中間点に達することを運動そのものと見做すことによってパラドックスが生じている。 プロティノスの「善なるもの一なるもの」では一と存在を対立させ、存在は多であるがゆえに、一はそれに優越するとしている。
プロティノスはここで錯誤している。
一と対立するのは多であるが、存在に対立するのは無であって多ではない。
そうであれば、存在に多を配するなら、一もまた存在であることになり、一と存在とは対立するものではなく、むしろ周延されるものであることになる。 『「太陽の哲学」を求めて:エジプト文明から人類の未来を考える』 (2008)
梅原猛、吉村作治
この本では、
日本哲学→西洋哲学→ギリシャ哲学→古代エジプト、
また、一神教→太陽信仰へと遡る。
プラトンの「イデア」は古代エジプトの「カー(精霊)」の翻訳であるとするのは吉村の説。
古代エジプトでは、人間を「カー(精霊)」と「バー(魂)」と「アク(肉体)」に分けた。
人が死ぬと「バー」は「アク」から離れるが、「カー」は「アク」の傍にいて「アク」を守る。
「カー」は思考・判定し行動を支配する。
「バー」を思考によってのみ得られる存在、「アク」を現実の存在、「カー」をイデアと考えたのではないかという。(第4章) 善によってイデアが認識できるようになるとはどういう意味?
善とは何を表わしている? べつに膝カックンしようとか椅子のボルトを外しておこうとかそういうのはないよ >>338
吉村は発掘以外のことについてはど素人だよ。 誰か説明してくれ
善によってイデアが認識できるようになるとはどういう意味?
善とは何を表わしている? >>345
論理的な議論ができる
適切に論証できる
そういった基礎的素養すら備えていない連中ばかり 全は天国あるいは天国圏に近いところにアクセスするという意味だ。 善は天国あるいは天国圏に近いところにアクセスするという意味だ。 善さ 天国 悪さ 地獄 という定理なワケ。天国に行く衆徒も慈善業をするだろう。
イデアでなくても世の中の仕組みは層だ。 全は天国あるいは天国圏に近いところにアクセスするという意味だ。 善は天国あるいは天国圏に近いところにアクセスするという意味だ。 善さ 天国 悪さ 地獄 という定理なワケ。天国に行く衆徒も慈善業をするだろう。
イデアでなくても世の中の仕組みは層だ。 哲学によって神話の部分を極小化してはいけないよ。哲学は広範囲にわたらないし、
まだか弱いのだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています