【イスラム哲学】井筒俊彦を読む [無断転載禁止]©2ch.net
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クルアーンにおける神と人間読み始めた。これから井筒俊彦の英文著作も翻訳される
10月に存在の概念と実在性が出るが今流行の新実在論なり思弁的実在論と比較出来るものがあるだろうか?
思弁的実在論の誰かがイスラム哲学をインスパイアしてると聞いたことあるが 大半は指示出来ないな。基本的に達の悪い宗教であることは
間違い無いけど。オスマントルコ壊滅してから今反撃にでてるとかんがえたら
好きにしろって話かな。女性はどうなんだろね
そう言う場所でそだったら自由の意味すら理解してないと思うよ 井筒俊彦の説ではイスラム以前のアラビア人は感覚的、現世現実主義、実務主義的で快楽主義者だったとしてるがどうかな?
そしてイスラムの出た背景としてハニーフというユダヤキリスト教の影響を受けつつそれに属さない一神教概念の持ち主たちを挙げるが ユダヤ教キリスト教に属さないハニーフというのは架空でしょ
実際はどちらか、主にキリスト教に属していた
二つよりも古い伝統がアラビアにはあるというクルアーンの建て前の為の架空の存在がハニーフ >>179
クルアーンにおける神と人間ではウマイヤというユダヤキリスト教にもムハンマドにも従わなかった詩人をハニーフの一例として挙げてる
多分ハニーフとは何となく神仏は信じてるけどどこかの宗派に属する意識は持たない日本人みたいなものじゃないだろうか?
イスラム以前のアラビアは世俗的で宗教は形骸化してたようだから 「前イスラム期のアラブ人のほとんどは現世が終わったらその後には何もあり得ないと考えてた」
クルアーンにおける神と人間より 井筒俊彦の前イスラム史観は大昔はジン(妖霊)の声を代弁する巫者である詩人が部族長だった。
しかしムハンマド時代には詩人の地位は下がり賎業と見なされる事もあった
その頃のアラブ人は現世現実主義だった。
そしてユダヤキリスト教の影響を受けつつそれに属さないハニーフという一神論者が存在した
詩人とハニーフがイスラム誕生の背景となる
恐らく信仰が形骸化してたから偶像破壊にも抵抗は無かった アラビア半島に影響力あったエチオピアはキリスト教国であり、南アラビアのヒムヤル王国はユダヤ教国
北西にはキリスト教のローマ帝国があり、中近東のキリスト教会からは宣教師が継続的に送られてきていた
マッカに近いヤスリブ後のマディーナはユダヤ人の町
メッカにもキリスト教徒はいたし、ムハンマドが啓示を受けた後最初に相談したワラカはキリスト教徒だった
ジャーヒリーヤの正体はすでに一神教が半島を覆い尽くそうとしていた段階 イスラムが特にネストリウス派のキリスト教に影響された事は結構知られてるがキリスト教にならずにイスラムというオルタナティブを取った背景にはハニーフの存在があるのではないだろうか? .
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‐ー'`‐' ゙-'`ー-' アラビア語で平和はサラームでヘブライ語ではシャローム
アラビア語で神はアラーでヘブライ語ではエル(エロヒーム)
両方とも語源は同じらしい
ユダヤ人とアラビア人は本来兄弟民族なので一神教概念も古くからある程度共有されてたかも >>172
日常生活の中のふとした拍子に、存在の根源性を目の当りにしてしまうという話が、
サルトルの『嘔吐』だった。
『意識と本質』の冒頭でも触れられている。 “「ここから先、おまえは一人で進んでいかなくてはならない」と顔のない男は私に告げた。
「方向も道筋もわからなくても?」
「そういうものは必要とはされない」と男は乳白色の虚無の中から低い声で言った。
「もう川の水は飲んだのだろう。おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。
ここはそういう場所なのだ」
それだけを言うと、顔のない男はつばの広い黒い帽子をかぶりなおし、私に背中を向けて舟に戻っていった。”
― 村上春樹 『騎士団長殺し』第2部 遷ろうメタファー編 (2017) デリダは、
ヨーロッパ史上死刑を言い渡された四人の重要人物として、
ソクラテス、キリスト、ジャンヌ・ダルクと共に、ハッラージュ(Al-Hallaj)を挙げている。
ハッラージュはジュナイドの弟子。
『中国が読んだ現代思想 サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで』王前(2011) 中田考訳のクルアーン読んだが読みにくかった
けど井筒俊彦訳よりまし
あのじい様口調がちょっと…
中公版コーランが一番読みやすい >>189
デリダは人間の意識の中に神が在るという考えだったと思う
だから井筒俊彦を絶賛したし神人合一のハッラージュを評価したのではないか? 存在を抹消して痕跡を浮かび上がらせるというデリダのビジョンは、
ジュナイドの「ファナー(消滅)/バカー(持続)」と比較される。
ヘルマン・ランドルトとの対談「スーフィズムとミスティシズム 」で読める。 ここに出てくるイスラムや仏教の神秘体験では、ファナー/バカーという
意識(=世界)の否定/肯定、あるいは破壊/形成が体験される。
その時、破壊だけで終わるものは偽物なんだと言っている。
世界の解体後に、改めて新しい世界現出が伴うようでなければならないと。 >>194
仏教は筏の例えで渡り切った筏は棄てなければならないと仏教自体の中にその解体装置を内蔵さす
大乗仏教の各宗派は解体後の新たな世界観になる
勿論意識と本質に見られるような空を体験した後の本質無き分節もあるが 「ジュナイドの「原初の契約」におけるファナーとバカー」
澤井 真(オリエントVol.53 (2010) No.2 p.115-132 )
http://ci.nii.ac.jp/naid/130003396318
> 消滅を意味する「ファナー」の語と存続を意味する「バカー」の語は、
> クルアーンの中で対比的な関係として登場する。
> これらの語は,「地上のあらゆるものは消滅する(fānin),しかし,
> 変わらない(yabqā )のは汝の主の顔,偉大で尊厳の所有者である」(Q55:26-27)
> という節に由来する 仏教では、世界は意識の対象として、意識の内にあるわけだから、
外的世界の消滅とは、自己解体の先にある。 弥陀の身心は法界に遍く
衆生仏をねんずれば仏も還た念じたまう
一心専念すれば能所(主客)亡じ
果満覚王独り了了たり
浄土宗の高僧山崎弁栄が念仏の覚りを詠んだ歌
念仏専心すれば主客が無くなり仏のみが独り聳え立つという事
スーフィや井筒俊彦と共通した体験だろう 思弁的実在論のグレアム ハーマンが中世イスラム哲学の機会原因論に触発されたとwikipediaにあったけどハーマンは実在をどう捉えたのだろう?イスラム神秘主義では究極的に実在は神のみとするが
井筒俊彦に創造不断という作品もあったと思うが イブン・ルシュドは創造はすべての瞬間ごとに行われとしたな
本気でそう信じてそう言ったか分からんが >>201
神の絶対性を突き詰めると実在全てに神が介入する事になるから必然的にそうなる
逆が神が実在界に関わったのは創造の時だけで後は時計のように機械的に実在界は動いてるとする理神論。ニュートンなんかが信奉してた
神抜きで刹那刹那に世界は創造されるとしたのが
唯識の刹那滅。
刹那滅は仏教の無常思想から来てる
後唯識のヨーガ行体験もあると思う ハーマンはまだ詳しくないけど、
機会原因論は、物体や精神ではない
神にのみ作用因(事物を生成させる要因)を認めるということ。
創造不断に近いのは、偶然性の哲学かな。 86 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2016/02/11(木) 20:14:15.44 0
“この世界は、まったくの偶然で、
別様の世界に変化しうる。”(『偶然性の後で』帯)
実際に読んで思い出したのは、
9〜10世紀イスラムのアシュアリー神学。
そこでは、あらゆる時間性や因果性が断ち切られている。
毎瞬間、毎瞬間、世界は新しく創造され、
その行方は「インシャー・アッラー(全ては神の思し召し)」であると。
もちろん、メイヤスーは丁寧に断っているが。。。
「けれども私たちは、安定した世界に生きていることを天の恵みとしていちいちの瞬間に祝福することはしない。」
ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義 [無断転載禁止]©2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1451968507/86
×(『偶然性の後で』帯)
○(『有限性の後で』帯) アシュアリー(873‐935)はスンニ派を代表する学派の祖で、カラーム(思弁神学)を確立した。 刹那滅は因果が連鎖する。
アシュアリー神学は因果は切断される非線形な原子論。
そういう違いがある。 井筒は、この創造不断をデリダのエクリチュール論に結び付ける。
"書く"たびにそこに世界が創出される、というように。 思弁的実在論はポストポスト構造主義と言われるからポスト構造主義からは多大な影響受けてる
その中のハーマンはイスラム中世哲学の機会原因論に影響受けてる
この両方から影響を受けた井筒俊彦は思弁的実在論なりハーマンをどう評価したのだろう 井筒俊彦は存在認識の道の注で神こそ実在性そのものであるとする
神とは実在であり究極的に宇宙に神以外存在しないという主張に見える
ただし事の深層的次元に置いてだが 井筒俊彦が大川周明の大川塾の講師で司馬遼太郎との対談でもイスラムに積極的に関心を持った面白い人と言ったのは有名
しかしそれだけじゃなく井筒と大川は東西思想の比較と統合とか根底にある一如の思想に共通点があるように思える >>204
これは読んだけどそんなところには気付かなかった 一如(wiki)
一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。
「一」は絶対唯一、「如」は真如(tathā)・如同の意で、一異の差別なく平等であることをいう。
世間における一切の事物・現象には実相(真実の姿)があり、普遍的に不二同一であることをいう。
平たく読めば「一つの如し」となる。一でありつつそれは異なるが、異なりつつもそれはそれは一であるという、真如を弁証法的に表現した語である。
もとは老荘思想の概念であり、万物を生成し存在している真実の相、またその差別相を超越した存在義を意味する。
のちに、本来の仏教用語から派生し、剣禅一如などとも転用されるようになった。 >>200、>>210
ガザーリーか。
Occasionalism is the idea that God is the cause of all things.
Harman’s motif example of object-object relations is fire and cotton which comes from the the Islamic philosopher Al-Ghazali,
who repeats from the Qu’ran: “Fire does not burn cotton ? only God burns cotton”.
https://avoidingthevoid.wordpress.com/dictionary-of-concepts-for-graham-harmans-object-oriented-philosophy-draft-work-in-progress/
ハーマンはハイデガーから中世スコラ学に遡って、そこでイスラムに接しているという点で、
普通に哲学史の通りなんだと思う。 >>208
この辺は、清水高志『実在への殺到』(2017)の「機会原因論的アニミズム」が詳しい。
ハーマンは、
・「ハイデガーの存在論」と
・「ジェイムズの経験論」を
・「パースの記号論」的に足してる 平等を思い浮かべると逆搾取されるから平等は成立しえない。 井筒俊彦のイスラム思想史のガザ―リーの部分に偶因論(機会原因論)の解説があった。
原因と結果に必然的な結びつきはなく
例えばアリストテレス派では燃焼の原因は火であり
火は自然的必然性を持って機械的に作用するが
ガザ―リーは燃焼の真の作用因は火ではなく神だとした
彼にとり因果律は決して自然法則ではなかった
ガザ―リーの結論はアシュアリー派の因果律否定と一致する
この点においてガザ―リーは後のヒュームの哲学的先輩である
確かメイヤスーもカント批判してヒュームに回帰してなかったかな? 原因と結果に結びつきがないわけないじゃない。
神に偏って酷使するのもなあ。
火は機械ではない。 因果律というものは、ある事件があってあることがその結果となっているという
レベルじゃない。 ガザーリーのいう因果はなくすべては神の慣習だと言い換えても、結局世界のあり方は変わらないのだから同じことだよな
神の慣習=因果として働いてるんだから ヒュームのように経験主義を徹底さすと人間が経験する事の出来ない因果律による普遍的法則などは人間の妄想でしかない事になる
因果律を否定する徹底的経験主義は科学的法則も否定する >>224
一億回同じ因果律があったとしても一億一回目に違いが出たらもう世界は変わり科学的法則も成り立たないことになる 量子運動のような、だいたい合ってる程度のもんでも確率的に予測可能な事態であれば科学として成立する
全ての可能性について調べる手段がない以上は、絶対的な確証などあるわきゃない >>229
科学も厳密には蓋然的な統計問題になる。確度を上げていく事は出来るが
それ以上は今のところ哲学の問題だと思う 実在への殺到読み始めた。
自分は井筒俊彦の存在の0ポイントとジェイムの純粋経験が同じ認識領域を指すと思った
この作者はジェイムスの純粋経験とメイヤスーの(事実性)が同じ領域を指すと指摘している 井筒さんは「禅の心」を卓越した分析哲学者によって分析された「心」と結びつけていた
井筒俊彦の思い出
サイイド ホセイン ナスル
井筒俊彦全集第11巻月報第11号 >>233
一文があったので。恐らく心の哲学の類指してると思う。詳しくは掲載されてない あくまでしょ 神魔でしょ 堕天使でしょ。天使とランクが上がる。 >>231
> メイヤスーが《事実性》という名のもとに浮き彫りにするのは、
> 諸現象を整合し、総合するとされた主体の成立に先立つ「状態」であり、
> 主体も対象もそこではいまだ、整合や連接によって肥大していない、ある種の経験である。
p98のここかな?
真如に近いね。 【真如】しんにょ(tathatā)
・広説佛教語大辞典の解説
(1)かくあること。ありのままのすがた。あるがままなること。
(2)法がかくのごとく成立していること。法性と同義。
(3)「…真如」は、…なる法として成立していること。
(4)普遍的真理。心のあるがままの真実。あらゆる存在の真のすがた。万有の根源。
・デジタル大辞泉の解説
《〈梵〉tathatāの訳》仏語。ありのままの姿。万物の本体としての、永久不変の真理。宇宙万有にあまねく存在する根元的な実体。法性(ほっしょう)。実相。
・大辞林 第三版の解説
[仏] あるがままにあること。存在の本質、存在の究極的な姿としての真理そのものをいう。大乗仏教では、法性・実相などとほぼ同義に用いる。実性。
・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
仏教用語。あるがままにある状態のこと。
この世のすべてのもの (諸法) の根底にある唯一無二の絶対の実在界のあり方は「その如くである状態」すなわち真如としか表現のしようがない。
諸法の人法二空の本性を真如ということもあり,また,衆生の心の本来の清らかな状態である自性清浄心を真如と呼ぶこともある。 西田、井筒、真如、ハイデガー、仏教
“西田が「真実在」を「純粋経験」に求めたのは、主客未分・主客合一の〈境涯〉を披歴するためではなく、
そうした直接的経験の中に見て取られる「統一的或者」であり、
つまり意識の統一的秩序をそこに読み取ったこと、このことである”
“大乗仏教で説かれる「本体的一元論」は、例えばイスラーム学の碵学井筒俊彦氏が最晩年に『起信論』を取り上げて、
東洋的思惟の特徴として揚げる発出論的な形而上学とも異なっていることである”
“「真如」であれ、「仏性」であれ「法界」であれ、それらは「本体」であっても、
決して形而上学的な実体的根拠を意味しない。
むしろあらゆる実体性を打ち砕く「ハタラキ」なのであり、
すべての存在者が実体性の軛(くびき)から自由になって、
言い換えればいわゆる「根拠」から解き放たれて、いわば「無根拠」「没根拠」のままに、
おのずから立ち現われてくる「場所」”
“ハイデガーの所謂「存在(有)」が、あらゆる存在者(有るもの)の根拠として「神」でないように、
「本体」とは「実体」ではなく、場所的性格をもつもの”
“釈尊が掴んだリアリティはおそらくそうした場所的な性格をもつ般若智なのであって、
いわゆる「縁起」という、まことしやかな「理屈」、論理の知的理解ではなかったはずである”
― 井上克人 『〈時〉と〈鏡〉 超越的覆蔵性の哲学―道元・西田・大拙・ハイデガーの思索をめぐって』 (2015) 『明治期アカデミー哲学の系譜とハイデガーにおける形而上学の問題
―如来蔵思想とユダヤ・ヘブライ的思惟との収斂点―』
井上 克人
http://heideggerforum.main.jp/data08/inoue_r.pdf >>238
ジェームスと井筒俊彦はある程度分かるが西田は読まず嫌いもあってよくわからない。
井筒の存在の0ポイントは真空妙有と彼が言ってるように実体の破壊の場とあらゆる実体の根拠の場が一体になった領域だと思うが 真空妙有
“禅の説く「無」は、 意識的事実としてもまた存在的事実としても、絶対無分節と呼ばれるにふさわしい。
だが、この絶対無分節者は無ではあっても、静的な無ではない。
それは本然の内的傾向に従って不断に自己分節していく力動的、創造的な「無」である。
真空は妙有に転成する、というより、転成せざるをえない。
絶対無分節は自己分節するからこそ絶対無分節なのである。
分節に向かってダイナミックに動いていかない無分節はただの無であり、一つの死物にすぎない。
「死水、竜を蔵せず」(首山省念)。それは禅の問題にする「無」ではない。
禅の考えている「無」は宇宙に漲(みなぎ)る 生命の原点であり、世界現出の太源である。
この了解に基いて坐禅修行道としての禅は、「空」に到って「空」に堕するなとか、
「空」に眠り込むなとかいって修行者を戒める。
「一念未生以前、切に忌む者裏(その境地、すなわち空)に守住することを」(恕中無慍)”
― 井筒俊彦 『意識と本質』Z 井筒は、東洋哲学の共時的構造化といっている。
一神教文明から、神のない仏教や老荘までをも統一した理論で説明しようとする。
一神教では窮極的絶対者である神があり、仏教や老荘では絶対無分節者といった形而上学的中心を立てる。 原始仏教は、空というぐらいだから非中心的だし、もっと素朴。 井上は、真如を悟る唯一の契機は、心の止滅であり、
「世界は空」に反して事物を実体視しようとする自意識の解体にあるという、
仏教の根本原理を織り込もうとしている。 妙なる(言いようもなくすぐれた)有(存在)も、縁起も慈悲も真如も、
空を覚知した後に結果としてついてくるものであって、
最初からそれを目的化するものではない。 トレンドからみると、
(1)井筒や西田は、形而上学的な大乗仏教の解説に優れていたが、
原始仏教(ブッダの仏教)についてはあまり触れていない。
↓
(2)最近目立つのは、大乗仏教から原始仏教への原点回帰。
↓
(3)井上>>238は、大乗仏教に軸足を置きながら、そこに原始仏教の原理を読み込もうとしている。 西田はこちらでやろうと思ってる。
【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1494594731/334-
336 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/10/06(金) 23:55:26.34 0
しかし、西田哲学を安易に禅哲学だと理解しているようでは
読んでいる内には入らない。
337 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/10/06(金) 23:57:04.39 0
“併し君だからよいが普通無識の徒が私を禅などと云ふ場合 私は極力反対いたします
そんな人は禅も知らず 私の哲学も分からず
XとYとが同じいと云って居るにすぎぬ”
― 西田幾多郎 「昭和18年 2月19日 西谷啓治宛」 『西田幾多郎全集23』 (2002-2009) イスラムとヒンズーを統合したシク教のムールマントラに
Ikk oan karr sat nam(神は一つ。その名を真理と言う)がある
Ikkは一者で永遠性の純然たる経験そのものとする
OanはAUMがなまったものでAは認識作用の範疇
Uは絶対的な範疇が崩壊していく意識下の状態
Mは完全な無の意識の状態を指す
SatはSAD(真理を意味するサンスクリット。妙法蓮華経の妙の事)がなまったもの
これをnam即ち名とする デモクリトス、エピクロス、ヘラクレイトス、アシュアリー、デリダなどの
原子論を心理学的にうまく説明したものが思い浮かばないが、
唯識と比べるのが妥当か。
デリダの「散種」などは阿頼耶識に近いところのものだろう。 >>204のアシュアリーの説明も「創造不断」で読める。
イブヌ・ル・アラビーの例も出てくる。 “「世界は、ひと息ごとに変動する」(イブヌ・ル・アラビー)”
― 井筒俊彦 「創造不断―東洋的時間意識の元型 U」『コスモスとアンチコスモス』 (1989) >>231
メイヤスーは、「必然的」に見える世界の在り方の奥に「偶然性」を見出だす。
仏教は、事物の「自性」(本質)の奥に「無自性」(本質のなさ)を見出だす。
やっていることは近い。
その際、
メイヤスーは、あらかじめ、心(言語や感覚)は取り外す。
仏教の場合、心はあるが、その内容物をゼロ(無・空)にする。
オブラート一枚分の差があるが、どちらもそうした先に「ありのままの世界」を見る。 “九鬼周蔵の『偶然性の問題』は、その思弁的な極まりにおいて、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』に類似する。
すなわちそれは、「原始偶然」とも「絶対的形而上的必然」とも捉えられる、「形而上的絶対者」に関する議論である。”
― 千葉雅也「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」(『現代思想』2017年1月臨時増刊号 特集=九鬼周造) 井筒の前の世代にあたる宗教哲学や比較思想も併せてやっておくといい。
・柳宗悦 『柳宗悦宗教選集』
・九鬼周造 『偶然性の問題』
・清沢満之 『清沢満之全集』
・波多野精一 『宗教哲学序論・宗教哲学』
・田辺元 『仏教と西欧哲学』 西田と大拙は同い年で、石川県専門学校の同窓生。
柳宗悦は学習院高等科で西田や大拙に学んだ。 ・西周(1829-1897)
・福沢諭吉(1835-1901)
・中江兆民(1847-1901)
・井上哲次郎(1856-1944)
・井上円了(1858-1919)
・内村鑑三(1861-1930)
・岡倉天心(1862-1913)
・清沢満之(1863-1903)
・南方熊楠(1867-1941)
・鈴木大拙(1870-1966)
・柳田國男(1875-1962)
・折口信夫(1887-1953)
・柳宗悦(1889-1961)
・宮沢賢治(1896-1933)
・井筒俊彦(1914-1993)
京都学派
・西田幾多郎(1870-1945)
・波多野精一(1877-1950)
・田辺元(1885-1962)
・九鬼周造(1888-1941)
・和辻哲郎(1889-1960)
・久松真一(1889-1980)
・三木清(1897-1945)(京都学派左派)
・戸坂 潤(1900-1945)(京都学派左派)
・高坂正顕(1900-1969)(京都学派四天王、近代の超克)
・西谷啓治(1900-1990)(京都学派四天王、近代の超克)
・下村寅太郎(1902-1995)
・高山岩男(1905-1993)(京都学派四天王、近代の超克)
・鈴木成高(1907-1988)(京都学派四天王、近代の超克)
・梅原猛(1925-)
・上田閑照(1926-) 柳宗悦
学習院中等科時代、内村鑑三の影響でプロテスタンティズムに親しむ
↓
高等科時代、「聖フランチェスコ伝」がきっかけでキリスト教神秘主義に関心を持つ
↓
エックハルトに傾倒
↓
エックハルトの「無」や「空」から老子や禅に関心を持つ
回教詩人ハラージや、「否定道(否定神学)」などにも言及。
宗悦は「即如」という造語をつくった。
これは「二元を超えた世界を示唆する言葉」だという。 ,. -‐  ̄ ̄`  ̄ ´  ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ._,{ 、,i ! 諸行無常 諸法無我
__.. -/ ,.. / `ヽ、
, -‐ ,.´-─./ /:. . . / ..__ / ! `ヽ ヽ クゥクゥ クゥ 空
/,.-‐´ _r‐' _,ノ: : : : : : : . . . . . . . . . . .(_ `丶、ヽ、 、__,ス ,)
~~ ̄/(三,. -‐ ´ / ,.-‐ ´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`丶 l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
~ ̄i l゙´  ̄ ̄ / ,/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ し,j ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. l. ! / / 自己肥大・自己拡張・存在確認のさまようかまってちゃんクレクレ君は荒らし確定
. ! | (, ,,/
! ,j 2chの鉄則(おやくそく)とは 【荒らしはスルー(無視・放置)・あぼ〜ん・透明あぼ〜ん】 しましょう。
ゝ、ノ
● 荒らしは放置されるのが一番の苦手苦痛です。
→ ウザイと思ったらそのまま放置!
● 放置の荒らしは焦り、煽りや自作自演、PC串スマホで多人数を装い、あなたのレスを誘う。
→ 釣られてレスしたらその時点であなたの負け、あなたが荒らしです!!
● 反撃は荒らしの滋養にして栄養であり、ヨダレを垂らして最も喜ぶことです。
→ 荒らしにはエサを投げ与えないで下さい!
●荒らしは語尾に w をつけてあおります。
→ 問いに問いで返す無頭が故の無脳で、裏の小藪に捨てましょう。
●荒らし・粘着にはスルー・あぼ〜ん・透明あぼ〜ん・が推奨です。
→ 考えない学ばない荒らしは外道です。
●荒らしは自立できず、もたれかかり、ストーキングする
→ 真贋が見分けられないのが荒らしの属性です。
●無いものを有ると思い、有るものを無いと思う、これが顛倒(てんどう)、妄想(もうぞう)です
→ 公案の答えは無尽蔵、己だけの答えを出せ!
●枯死するまで孤独に暴れさせておくのが一番です。
→ ミイラ化です、放置、風化させ、土に戻しましょう。 >>260
『柳宗悦宗教選集 第1巻 宗教とその真理』(1990)より 西田や九鬼は数学をやるので、少しタイプが違ってくる “ジャック・デリダの「解体」哲学、ドルーズ=ガタリの「リゾーム」理論に代表される
現代ヨーロッパの前衛的思想フロントは、明らかにアンチコスモス的である。
コスモスへの反逆、「ロゴス中心主義」的存在秩序の解体。
西洋思想のこのアンチコスモス的動向が提起する存在論的、意識論的問題群にたいして、
東洋哲学はどのような対応を示すであろうか。”
― 井筒俊彦 「コスモスとアンチコスモス」 アンチコスモスは、アンチ−コスモスなのだから、コスモスに相対するもの
としてしか姿を現しえないだろう。始源としてのアンチコスモスはあり得ないのだ。 >>269
井筒の用法だと始源のカオスはアンチコスモスのカテゴリーに入ると思うが アンチコスモスがコスモスに相対するものとしてしか姿を現しえないことは、
コスモスの「解体」としてアンチコスモスについて語ろうとすることが、
「解体」という表現にもかかわらず、秩序としてのコスモスがどのように
現れているのかを解明しようとすることになることを意味する。 イスラム金融よりハイエクだよ。利子どころの騒ぎじゃねえぜ。
傷つき仆れた兵士は。対偶が。 “我々の有限なる意識の背後に横たわれる無意識はxに対するdxの如く考へることができないであらうか。”
“我々が或一曲線を意識するといふことは此の如き意味に於て限定せられた曲線である”
“意識するといふことは無限なる全体が己自身を限定することである。”
― 西田幾多郎 「自覚に於ける直観と反省」17 『西田幾多郎全集3』 (2004) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています