竹田青嗣、ついに本気だした。俺は絶対読む。 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
苫野一徳 5月14日
竹田青嗣の主著になる大著『欲望論』3部作。第2部までが、この7月に刊行予定です。
21世紀最高の哲学が世に出ることを断言します。
苫野一徳 5月22日
竹田青嗣の講座のご案内。超絶お薦めです!7月刊行予定の大著『欲望論』の内容を一足お先に(?)21世紀最高の哲学が登場することを断言します。→「現代哲学の最前線 X 存在論・言語論・欲望論」
苫野一徳
2月26日
竹田の、主著になるだろう『欲望論』の草稿を読んで、我が師匠ながら、激しい嫉妬に苦しんだ数ヶ月だった。ニーチェ、フッサール、ハイデガー、竹田青嗣、という順序で、100年後語られると思う。
苫野一徳
2月26日
哲学者・竹田青嗣の主著『欲望論』の刊行は、少し延びて6月になるそうです。先月、「読んで感想くれ」と、いきなり90万字近く送ってくるちょっと頭のおかしい竹田ですが(分厚さ広辞苑レベル!?)、間違いなく天才。今世紀最高の哲学書が今年ついに出ます。
苫野一徳 1月24日
4月刊行予定の、竹田青嗣の主著『欲望論』87万字草稿(!)を読んだ。感動と驚愕と嫉妬で震えている(笑)カント「三批判書」のすべてを、何段階もバージョンアップさせたような、21世紀最高の哲学の誕生。疑いの余地なく。 超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』 (講談社現代新書) 完全解読 フッサール『現象学の理念』 (講談社選書メチエ) 苫野一徳さん、今後政治的なツイートが増えると
馬脚を現しそうな予感。
その点、師匠は哲学者に専念してるぶん潔い。 現象学は、論理思考(三段論法など)とは対極にある思考法だが、現象学の思考法は
“エポケ−”が中心となる。つまり、一切の自然命題を「カッコに入れる」ことである。
科学的な論理思考の場合は、“命題を定立し、その命題にそって結論を導き出す”思考法であり、
現象学の“エポケ−の場合”は、“命題を定立しない”思考法である。
しかし、竹田青嗣氏の本を読んで感じたことは、現象学で最も重要なエポケ-の具体的な“思考方法”に
ついて記述していないことである。
竹田青嗣氏は現象学でキ−ポイントとなる“本質直観”について述べているが、その本質直観に至る
為には“エポケ−”をしなければならない。 “エポケ−”の具体的な思考手順を記した著書をぜひ出版
してほしい。 在日なのに、内田樹とは違って、変な政治的な発言が少ない。
そこに好感が持てる。 竹田青嗣の哲学は、純粋にデカルト哲学から始めていることであり、
デカルト哲学の“心身二元論”から現象学へ至る道筋を論究しているところにある。
「欲望論」は、ぜひ読んでみたい。 竹田青嗣ももう定年か?
昔は大学入試の現代文にやたらとこの人の文章が使われてたんだよな この人、もとはといえば素人だったのに、読書会かなんかで哲学の道に入ったんだよな。
哲学一筋の専門家だったら、言語分析で忙しくて「欲望論」どころじゃなかっただろうなあ(笑) 他の哲学者による竹田青嗣批判って今までどんなものがありました? 竹田の論旨というのは異なる欲望が異なる場所から対象への妥当なる言説を
表出する、その妥当を協議する作業によって信憑性は確かめられるとする、言説
は淘汰されるというもの。人間はこのようにして個人としても集団としても成熟
しうるとする。
こういうのはヘーゲルの市民社会論の焼き直しに過ぎないし、あの市民社会論
が或る時期、再評価されていった過程に竹田の社会論・欲望論も位置する。当然
あの市民社会論では顧みられなかった問題は放置されているし、ひどく楽天的か
つ修身的な内容になることは避けられない。
竹田の社会論あるいはヘーゲルの社会論の後に、マルクスなりの労働疎外論
はくる。実践が物質を加工するうちにいつしか加工性は反転し、
人間自身が物質によって対象化されてしまう、自己と自己は〈他者〉となり、
〈他者〉の生産様式に包摂され、毎日疲労した顔で電車に揺られ、搾取され、
しかも少ない椅子をめぐって電車でも会社でも争わなきゃならない、
救いのない毎日を生きるようになる。しかもそのアクシスは機械改良によって
加速する一方である。
竹田の欲望論はかような現代性に答えられない呑気な学者仕事である。
読んじゃいないがw読んでなくても想像が付く。まあまともに読む奴もいない
だろうが。 今、竹田のHPに載っている内容の紹介を辿ったが。やはり想像したとおり、
個々の欲望の在り方から出発し、欲望から価値が見出され、その欲望の異なる
相関性に重心が置かれている。で、『欲望論』としてのそこで話は2冊の大部
を費やして済んでしまうようである。
そういうアカデミズムでしか受けない認識論、価値論、などを整理・発表して
どうするのか。一冊700頁以上の大部の本を2冊使ってそんなことを発表し、
学者仕事以外のどういう意味があるのか疑問である。
ちなみに竹田は『人間的自由の条件』という本のなかで
《国家を階級支配のための暴力装置とみるマルクスの捉え方は今日の国家論とし
ては適切ではない。》と言っているそうである。で、自由の相互承認こそが
自由の条件だということらしい。その論は分かるにせよ、実際は欲求が稀少性
をめぐって闘争、陰謀や政治をめぐらし、利潤を独占したがり、また排除した
がる。資本制の原理も亦そこから来るし資本における蓄積や搾取の法則もこう
いった排除の原理に基づいている。我々は資本に最低限の生活物資を与えられ
疲労した身体と心を抱え暮らしている。何が正しいのかなどとうに頭の中から
消えてしまっている。
竹田は欲望の相互承認というが、
そんなものが綺麗に成立している歴史や地域のほうが珍しい。これは
今も昔もそうである。なのでどうみても竹田の論は楽天的かつリアルではない
というふうしか視えない。楽天的だし修身的である。まったくリアルではない。
楽天的で修身的で、こういう論で我々の日々の疲労や頽廃やに拮抗できると
本気で考えているのか?なんのためのあの膨大な論稿なのか?ただ疑問しかな
い。 >>18
永井均『<子ども>のための哲学』
文学青年v.s.不思議少年
他に、随分前だが“竹田現象学で「死」は捉えられるのか”というような書き込みがこの板にあったな。
「死ぬこと」は視界に入ってるのだろうか。
あと(「真善美」という)日本語表現に引っぱられるけど「醜さ」「醜いこと」はどう捉えてるんだろう。
「ルサンチマン」ってそりゃ語義はわかってるんだろうけどさ。
本人の来歴と人柄抜きに、大人が読む価値のある言説はあるのかな。
(永井はいちおう“re”すなわち反復することの恐ろしさ、みたいなことは言ってる) 楽天的というのは違うと思うな。コアな竹田ファンは「わかってない」って言うだろ。
デモ等のいわゆる社会運動では、内部で人間疎外の状況が起こるって言うんだろ。
ここまで人間の底部を見る人は、竹田青嗣以外にいない、みたいに思ってる節がある。
竹田青嗣は「社会のディティールを具体的に考えていない」のだと思う。
こう書くと「それは哲学者の仕事ではない」というのが返って来るんだろうけど。
(永井均なんかも考えていないが、そのことは「哲学は何の役にも立たない」と認めている)
この板にも見える最近流行りの?反出生主義はどう捉えるのかなと思う。
これはマルクス主義者より竹田的な立場の人間が応答すべき思想だと思うが。 政治的な発言をしないのは単に興味がないからだと思う。
今だと岡田斗司夫、上の世代だと大学教員じゃないけど石原慎太郎みたいな、自分の固有名詞を「商品」としてパッケージングする才能があった人。
共通してるのは「時流」を気にする点。
竹田はアーティストっていうのも昔この板で見た。
アーティストであり、芸能界に属さない「芸能人」だと思う。 竹田:柄谷=石原:三島
竹田:在日コリアンを巡る各意見=岡田:オタクを巡る各意見
乱暴は承知 石原と岡田は異業界への転職が上手い、という点も共通。
それぞれ作家→政治家、アニメ会社社長→大学教員。
そこで周囲の人間関係はかなり途切れていると思う。
石原の場合、国会議員→都知事も同じ業界とはいえそうだったと思う(ネット上の旧国会議員時代の情報の少ないこと少ないこと)。
そこでは「前の業界での実像を知る人が少ない」という状況が発生し、本人の自己語りに頼るところが多かったのではと思う。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
0BDK4 「時間は流れていないんじゃないか」
「自分は存在しないんじゃないか(この世界は自分の夢なんじゃないか)」
こういう哲学的疑問を抱く人間はエロスがどうこうなんていう社会にいちいち調子を合わせて生きなきゃなんないの?
上段はたまに思うんだけど 哲学的疑問を抱く前にまず
他人に伝わりやすい文章の書き方を学びましょうね 竹田はフッサールを見事に誤読している、みたいなことがこの板でも言われてたし
知人の哲学科出身の奴も言ってたが、実際どうなん? それを判断するためには
フッサールの著作と竹田の著作を読み比べればいいのだが
それが簡単には出来ない
なぜならフッサールの著作がものすごく読みにくいから 竹田にとってはフッサールが世界を誤読してるんだけどな フッサールは欲望相関性を見落としているらしい 「凍える口」がヨーロッパで翻訳出版されるそうだ
フランス語かな
日本ムラ以外で竹田青嗣の読み方が試される時がやっと来たと思う ttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/57192
これからは哲学の時代??根拠なき時代、ほんとうの土台を築くには?
『欲望論』の著者、竹田青嗣氏に聞く@
竹田 青嗣 2018.9.1
今で言うパニック障害のような症状で、悪夢と金縛りに長く悩まされていたんです。
それが治らないので、フロイトの『夢判断』を読み始めたんです
北派は絶対に自分たちが正しくて南派は間違っていると言い、南派に言わせるとその反対。
でも、両者とも、どうしてそこまで絶対の確信をもって自分たちの正しさを信じられるのか、
私にはどうしてもわからなかった。
この経験が、現象学で言う「信念対立」について考える発端になった気がします。
ニーチェの哲学の根本は、世界の秩序は、どこまでも生の力と相関して生成するということです。
でも、フッサールの信念対立の問題の解明と、
ニーチェの、世界は欲望に相関して生成するという2つは、たしかにずっとあった
これから哲学を勉強しようという人にアドバイスすると、
近代哲学の中心は認識問題(主観‐客観一致の問題)だということが理解できると、
どんどん読み進めるようになります
近代哲学の問題の構図は「主観」と「客観」との一致です ケチをつけるようで申し訳ないが、
「個」は自分の肉体の維持や快楽を得るためにそれを『善だ』と考える情動を、
それを追求しようとする「衝動」を持っている。その衝動を妨害されると激発する「憤怒」を持っている。
その「個」の情動と別の個の「情動」を、如何に調停するか、
それを目指したものが『一神教だ』と、フロイトも『幻想の未来』で書いている。
デカルトの後継者フッサールと、キリスト教の規範を“過度に”振り回す母親に自己を抑圧され、
『自己の肉体を解放したい』『女ともやりたい』『(畜群に落ちた、自分以外の)人間も殺したい』
『(例えだけど)ナチス・ドイツのヒトラーやスターリンのようになって、
(「俺様」基準で)気に喰わない奴らを気分よく皆殺しにしたい』と
憤怒にかられたニーチェを合体させて新しい哲学を創る、
と言っても、西欧人はとっくにそれを考えている。別に『欲望論』は新しい考え方ではない。 今から考えても、木田元とか梅原猛とかが
馬鹿げたことを言っているときに、竹田青嗣先生だけが正しいことを言っていた。 105 :考える名無しさん :2018/08/15(水) 11:18:30.45
竹田青嗣をフッサール現象学を理解する助けにしてる人は今すぐやめたほうがいいよ
106 :考える名無しさん :2018/08/25(土) 23:57:14.64
>>105
まじか 詳しくお願いします
117 :考える名無しさん :2018/09/01(土) 22:49:56.74
>>106
誤訳だらけなの。
仮に竹田訳が一般向けに書かれたものだとしても、それで本来フッサールが意味しているところを読者が理解できないのなら、それはまずい訳だと思うの。
少なくとも術語は定訳を用いるべきだと思うの。
現象学会へ投稿する論文に竹田を引用なんてしたら、中身読む以前にリジェクトされるよ。 >>38
>>西欧人はとっくにそれを考えている。
考えてる人又はその考え方を紹介してくれ
>>41
竹田が現象学を誤解してるという批判はよく聞くけど
じゃあ現象学ってどんなもんなの?と聞くと
大体答えられないか、どこかの解説書丸写しの答えしか返ってこない
誤訳だらけというなら具体的に指摘すればいいのに ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1396898238/362-368
竹田青嗣「プラトン入門」1999年 あとがき
>哲学の世界に深く足を踏み入れるほど、自分の哲学理解と既成の哲学理解の溝は深くなり、
>その違和感はヨーロッパ哲学全般に及んできた。
>はじめわたしは、個々の哲学者たちの通念像のゆがみを個別的なものと考えていた。
>しかしこの間、それがもっと構造的な理由をもっていることに気づきはじめた。
>たとえば、現代の趨勢では、近代哲学は、
>総じて「主観―客観」という虚妄な問題を作り出した観念論的な営みだとされている。
>ところが、わたしの考えからいうと、これらの主張は、困ったことに、
>ひどい冗談、とんでもない中傷、白を黒といいくるめるような真っ赤な?、
>一切が“反転させられた”奇怪な「あべこべ」の哲学像、ということになる。 >たとえば、現代の趨勢では、近代哲学は、
>総じて「主観―客観」という虚妄な問題を作り出した観念論的な営みだとされている。
>ところが、わたしの考えからいうと、これらの主張は、困ったことに、
>ひどい冗談、とんでもない中傷、白を黒といいくるめるような真っ赤な?、
>一切が“反転させられた”奇怪な「あべこべ」の哲学像、ということになる。
>デカルトもヒュームもカントもルソーもヘーゲルもひっくるめて、
>つまり近代哲学の総体が、その適切な像を、たぶん“二度”ねじ曲げられた。
>一度は、マルクス主義によって。もう一度はポストモダニズム思想によって。
>いま、哲学を学ぶ人間は、まずたいてい、こういう哲学の基本像を通して問題を組み立てる。
>ところがこの哲学の像が、もし近代哲学
>(あるいはフィロソフィー)の本質をまったくつかみそこなっているとしたら、どうだろうか。
>近代哲学のそのような「真理主義」や「普遍主義」の虚妄は現代哲学によってすっかり証明された、
>などという通念が、およそ誤解にもとづくありもしない虚像だったとしたら、どうだろうか。
>もしそうだとすれば、それは要するに、
>哲学の方法の本質が人々に長く隠されたままになっているということ以外ではない。 白を黒といいくるめるような真っ赤な?=白を黒といいくるめるような真っ赤なうそ >はじめわたしは、個々の哲学者たちの通念像のゆがみを個別的なものと考えていた。
>しかしこの間、それがもっと構造的な理由をもっていることに気づきはじめた。
>ところが、わたしの考えからいうと、これらの主張は、困ったことに、
>ひどい冗談、とんでもない中傷、白を黒といいくるめるような真っ赤ない?(うそ)
>デカルトもヒュームもカントもルソーもヘーゲルもひっくるめて、
>つまり近代哲学の総体が、その適切な像を、たぶん“二度”ねじ曲げられた。
>一度は、マルクス主義によって。もう一度はポストモダニズム思想によって。
日本のエリート・インテリが、明治以来の自分らの、
外発的な《近代化の方法》を自己正当化するため、
西欧思想を“意図的に”《誤読》して社会に流布していたからだろう。
つまり、《西欧思想》それ本来の価値を正しく伝えずに、無価値、害を成す存在として日本社会に紹介した。
何のために?外国と結託して、自分ら特権者“以外の”その他日本人を専制支配する、
明治維新で打ち立てた《天皇制国家》(が持つイデオロギー)を自己正当化するために。 >いま、哲学を学ぶ人間は、まずたいてい、こういう哲学の基本像を通して問題を組み立てる。
>ところがこの哲学の像が、もし近代哲学
>(あるいはフィロソフィー)の本質をまったくつかみそこなっているとしたら、どうだろうか。
>近代哲学のそのような「真理主義」や「普遍主義」の虚妄は現代哲学によってすっかり証明された、
>などという通念が、およそ誤解にもとづくありもしない虚像だったとしたら、どうだろうか。
>もしそうだとすれば、それは要するに、
>哲学の方法の本質が人々に長く隠されたままになっているということ以外ではない。 このように、竹田青嗣氏は正しいことを言おうとしている。 柄谷行人「隠喩としての建築」
木田元『日本人に「哲学」がわかるか』新潮45 1995年10月号
木田元『「哲学」とは何であったのか』中央公論 1998年2月号
反時代的密語 梅原猛 朝日新聞
再考 エネルギー 朝日新聞 2012年1月1日 哲学者梅原猛
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1396898238/369-374 プラトンやデカルトは『正しく考えるにはどうしたらよいか』を考えた。
プラトンやデカルトは数学者である。
そこで彼らは、正しく考える議論の《雛形》として数学(が持つ方法論)を持ってきた。
何故なら正しく考えて、正しい結論に従わないと
(福島第一原発事故を見るまでもなく)人類社会が崩壊するからだ。
ところが木田元はデカルトを、
キリスト教に取りつかれた《神がかりな人間》であると考えている。
それで“デカルトは”『理性』などという、
凡そ普通の人間には《実行不可能な能力》を想定してその哲学を考えている。
プラトンの『イデア論』も同じである。
自然界の“外に”《超自然原理》を設定してその哲学を考えている。
この世の全て=自然界なのだから、
その“外に”そんな《超自然原理》を設定すること自体、馬鹿げたことではないか。
こんな馬鹿げた前提を基に考えた、プラトンやデカルトの哲学は大間違いではないか。
と木田元は考えている。そしてそれが(ハイデガーやフランス)現代思想によって今、訂正されている。
と木田元は考えている。が、プラトンやデカルトは
そんな木田元が曲解しているようなことは言っていない。 梅原猛はプラトンやデカルトの思想が自然破壊や、
西欧人の侵略思想につながっていると考えている。事実は全く逆だ。
そういった人間の動物性を理性によって抑制しようとする思想がプラトン哲学であり、デカルト哲学である。
プラトン哲学もデカルト哲学も、人間社会に倫理的基準を与えるものである。
しかし真理を発見する過程で例えば原子力などが発見され(技術的に応用され)て、
それが人間の恐怖や支配欲につながって
他人の領土を侵略したり資源を奪い取ったりする《動物的欲動》の拡大に利用されている。
だが本来は、プラトン哲学もデカルト哲学も、人間社会に倫理的基準を与えるものである。
自然破壊や侵略は、人間の動物的欲動、情欲が求めているもので、
プラトン哲学やデカルト哲学が持つ思想性とは関係が無い(むしろその思想は動物的情欲を抑止する側だ)。
それをあたかも関係有るかのように、
その中核思想であるかのように見せかけた議論をしているところが極めて悪質である。 >はじめわたしは、個々の哲学者たちの通念像のゆがみを個別的なものと考えていた。
>しかしこの間、それがもっと構造的な理由をもっていることに気づきはじめた。
>デカルトもヒュームもカントもルソーもヘーゲルもひっくるめて、
>つまり近代哲学の総体が、その適切な像を、たぶん“二度”ねじ曲げられた。
>近代哲学のそのような「真理主義」や「普遍主義」の虚妄は現代哲学によってすっかり証明された、
>などという通念が、およそ誤解にもとづくありもしない虚像だったとしたら、どうだろうか。
>もしそうだとすれば、それは要するに、
>哲学の方法の本質が人々に長く隠されたままになっているということ以外ではない。
アメリカでも一部、ニューエイジサイエンスが流行ったが、
西欧哲学全体を誤読するという状況は、80、90年代の日本に特有の社会現象だったのではないか。 申し訳程度の論文だけ書いて定年迎える教授も多いんやで… 竹田青嗣氏に限らず業績の内容の良し悪しは抜きにして売れてる、
又は、メディアへの露出が多い、又はやたら著作が多い人物は、単
純に「羨ましい」という理由で批判される。勿論、真面目に哲学に
取り組んでいる研究者からしたら、どれだけ論文書いているの?と
か素人がなに分かったような口きいてるの?ということになる。そ
れはそれで正論だが、根底は最初に書いた通り、メディアへの露出
も少なく、著作も売れなければさほど叩かれることはない。 エポケーにかんしては竹田のフッサールを読んで
わかった。新書版で売ってるやつ。
読めばある程度わかるよ。
しつこいぐらいに重ねて説明してくれる。 80年代に坂本龍一がこの世の中で意味があるとしたら「快楽」だけだ、
と言っていた。
快楽の素にあるのは欲望だろう。読みたい気持ちは起こるね。 「われわれの欲求は、量よりはむしろ多様性を目ざすことは明瞭である」シーニョア (ジェボンズ経済学の理論41頁より孫引き)
An Outline of the Science of Political Economy - 133 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
Nassau William Senior - 1836 -
It is obvious, however, that our desires do not aim so much at quantity as at diversity. Not only are there limits ...
Senior
シーニョア
経済学概説 1836 早稲田は定年退職していたのね。
今は至善館大学院大学というよくわからない
大学の教授。
というか、この人は博士号持ってたのが意外。 「ロクにドイツ語もできないくせにフッサールやハイデッガーを論じる胡散臭い自称学者」
とか某国立大研究者に揶揄されていたね。
まあ、あのオボカタ早稲田だからキョージュになれてんだろうけど。 竹田って学者だったのか?
てっきり哲学評論家とかエッセイストかと思ってた 信念対立の問題を解明しただのするだの言ってたけど、社会に何のインパクトも与えられなかった入門書作家
「自分の信奉するやり方」なら信念対立の問題を解明できる、と言っても誰も見向きもしません
そんなことは誰でも言ってるし、それこそが信念対立の源なのだから 読んだけど、そこまで間違ったこと言ってないだろ
とくに現象学解釈を批判してる奴らは難癖だ 竹田に対するちゃんとした批判は、ネット上ではあんまり見ないる
「アカデミズム内では評判良くない」「ドイツ語読めない」とか、
アホみたいな文句つけてるだけ。
アカデミズムからの批判もあまり見ない。
批判というより無視してる感じが強い。 まあ、弟子やら外野が褒めすぎてる感はあるけどね
対立構造に抗う言語ゲームという話はゴールと言うよりスタートだから
むしろ他の日本のアカデミアが全然そういう話をしていないのが情けない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています