中論とメイヤスー

清水高志「メイヤスーと思弁的実在論」(2017-03)
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こうした議論は、西洋の知的伝統からするともちろんきわめて異例であるが、東洋にはむしろ類
似したものがあり、ナーガルジュナの『中論』で繰り返される 4 段階の否定の論法(テトラレンマ)
を思い起こさせる。論点を明確化するために、その点についてもここで触れておくことにしよう。
たとえば中論の 18 章の第 8 偈に現れる典型的なテトラレンマ( 4 句分別)では、最初に@「すべ
ては真実(如)である」という命題が語られ、次にA「すべては真実でない」という命題が述べら
れる。@は素朴に現実の世界を信じる者の見方であり、Aは現象はすべて一刹那の後には変化する
という洞察をもったものの見解である。そして三番目にB「すべては真実であり、かつすべては真
実でない」という命題が述べられる。@のような素朴なものにとっては真実であり、修行をしてA
のような見解をもったものには真実でない、というのである。
しかしこれらは、ある刹那の次の刹那に起こることにいずれも依存したものなので、第 4 の命題
C「すべては真実であるのではなく、かつすべては真実でないのではない」が説かれなければなら
ない。仏教では何か対象を否定するとき、次の対象が浮かんでくるような否定、対象のあり方にそ
の都度左右される否定を相対否定と呼び、そうでない否定を絶対否定と呼ぶ。 「空」が理解され
るのはこの絶対否定によるとされるが、Bまではいずれも否定対象の状況に依存した、相対否定に
よるものである。それゆえCでは、Bそのものが否定され、何らかの対象に依存しない(無自性な)
かたちで、Bの不可知論自体がさらに転倒されねばならない。Cの命題は、なんらかの対象につい
て語られるわけではないが、すべての対象について真実なことを述べており、「空」の立場からこう
した否定を行う何者かも、また確かなのである。(真如の確立)