デリダの「ロゴス中心主義の解体」による存在根拠解体のあと(後、跡)。

井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約
http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm

“事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線
 ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますがーー
 を取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。
 それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
 「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
 ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
 ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
 限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
 この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ…”