存在論 [無断転載禁止]©2ch.net
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この己そのものの存在性 他者との関係性だけでは語りえぬ本質 認識論的に還元され得ない存在がある(ないしあるとすべき)なのだろうか? 存在論だけじゃ上手くいかないから認識論が出てきたんだっけ? 認識しきれないあぶれ出たものこそが存在論の中に織り込まれているのか。 .. | | ,( ⌒⌒つ . | シャシャシャッ シャ---------------------------------ッ /⌒ ̄`ヘ '`;、| | / レ ハ ノ ハ) .| | `ヘ∪^ω^ノノ . | | `∪ ∪ . | | オレの存在をーーーーーっ! 頭から輝かさせてくーーれーーーっ! そう、ブツがない 最近さ、やたらにアパート、マンションに共同出資しませんか的な広告あるよね ものすごい高利回り 技術革新とか生活形態の変化が伴わないまま 金がだぶついてるわけよ 爆弾が破裂したときには、またみんな苦しむことになるよ _ |O\ | \ ∧|∧ \ ( ⌒ヽ \ ∪ | (~) ピーン ∪∪ /⌒ヽ {jjjjjj} (´・ω・)、 (0 ⌒)0 ⊂_)∪ _ |O\ | \ ∧|∧ \ ( ⌒ヽ \ ∪ | (~) ピーン ∪∪ /⌒ヽ <○√ {jjjjjj} ‖ (´・ω・)、 << (0 ⌒)0 |二二| ⊂_)∪ 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 何が存在しているのか。科学は因果関係の体系である。 重い恒星が、赤色巨星になり、超新星爆発を起こす。 その破片が太陽系に捕捉され、衝突合体を繰り返して、 太陽から程よい距離に、程よい温度の、重力が大きな惑星が生れる。 この地球の表面には、水と大気がつなぎとめられる。 地球の核には、重いウラン等の放射性元素が集まり、地熱を生む。 地球の表面を、陽光が照らし、森が育つ。森には猿が生れる。猿は人に進化する。 人は家を造り、家々が集まり村を造り、村が発展して町となり、 町が発展して都市となる。都市群は国家を構成し、 国家群は国際世界に於いて、貿易を行う。 星、森、猿、人、家、村、町、市、国、世、の順に因果がある。 この順に、自然科学、人文科学、社会科学を整理して、存在物の学問体系とすると良い。 >存在するとは束縛変項の値であることである で、束縛変項とその値は存在するの? ある対象が存在するとは、それが束縛変項の値であることである ああ、「ある対象」ってのがミソだな。 自己同一性って問題もある。考えてみると、「存在」って問題はかなりやっかいだ。 なんらかの方法によってなんらかの形・形式で「扱える」ものは「存在」と呼んでもよいのではないだろうか? そうなると自己同一性がなくても扱えたり。 なんかの集団の笑いものになった経験 永遠にあなただけしらないでください!! 書き込み時間に注目していただきたい。 【 】内は書き込まれたスレッドのタイトル -------------------------------------------------------------------- 【右翼になろうよ♪ 13 [無断転載禁止]©2ch.net】 739 禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw 2017/12/03(日) 22:17:09.750 2017年連続ドラマ TOP15 (駐: このあと■■…や●●…等、一連の波平系スレを連続してageる) 【■■■■■■ 不惜身命のヨコチン披露 ■■■■■■】 20 考える名無しさん2017/12/03(日) 22:24:26.310 〜 【●●● 神の存在証明 ●●● [無断転載禁止]©2ch.net】 366 考える名無しさん2017/12/03(日) 23:08:03.810 (ここまで一連の波平系スレを連続age) 【右翼になろうよ♪ 13 [無断転載禁止]©2ch.net】 745 禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw 2017/12/03(日) 23:12:26.960 >>740 ■プリンス 後期ベストアルバム 「4everagain (1990-2015)」 ------------------------------------------------------------------------------- 禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw が本拠地のスレから姿を消していた時間に あまりにも見事に、■連発系スレがことごとく上げられていたのである!ww あまりにもスッポリはまりすぎている……! 荒らすにしても、もうちょっと我慢できなかったのだろうか? 死んだら存在が消えるんじゃないか。 >>23 それなかなか良いんじゃね。 970 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:10:06.64 0 今の借金いくらなん? 971 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:15:21.43 0 450万くらいだね。 親には、ほぼ頼ってない。 974 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:20:57.29 0 450万の借金て相当だよ どうやって返すつもりなん? もしかして奨学金なのか 975 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:23:23.73 0 >>974 消費者金融 http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1509417474/960- 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) 人間は家を造る。家の中には、エアコン、パソコン、光ファイバー、スマホ、 テレビ、電子辞書、ウォシュレット、洗濯機、皿洗い機、炊飯器、IH調理器、 電子レンジ、LED照明、冷蔵庫、自動車、カーナビ、バイク、インターホン、 電子魔法瓶、浄水器、給湯器、御風呂、トイレ、洗面所、炊事場、居間、 ソーラー発電、などがある。ここには上下水道、電力線などが入っている。 人間はこれらのアイテムを生活により便利で適する様に、会社や工場で、 開発し生産する。また道路に面しており、ガソリンスタンドやスーパーマーケット、 電車の駅、散髪屋、外食店、などに行ける。人はこれらの都市機能やインフラや、 高度な生産工場を造る。生活が存在し、都市が存在するのである。 存在とは、つきつめれば情報である。 情報の向こう側に存在あるいは実在があるのかもしれないが、それは推測あるいは認識でしかない。 そのように考えれば存在とは情報であり、情報のみが存在する。 存在は語りえぬものであり、情報のみが語れるものであり、語るということが情報そのものである。 そして、語るものも語られるものも情報であり、情報を受け取るものも情報である。 ここでいう「情報」とは一般的な意味での「情報」ではなく、圏論における「射」と同一視してもよいだろう。 「射」そのものは自己射を持つのか。おそらく、持たない/持てない。 ここで「射」を「情報」に戻す。 「情報」の根源は、宇宙の根源としての「矛盾」である。 「矛盾」が無ければ「情報」も存在しない。 >>36 面白いけど二行目以降は蛇足だな デカルトは自己のみが情報に拠らずに存在することを示した。 と続けると良いぞ デカルトがいうような素朴な自己ではなく、 自己とは何か、それが問題なのでしょうねぇ。 圏論において、存在とは「自己射」なわけです。わたしは同一視しています。 すべては自己射から始まる、そのように定義された圏論もあります。 存在=アイデンティティ ただし、西洋的なアイデンティティではなく、東洋的・日本的であり、モノもアイデンティティを持つ。百年経たなくとも。 ふと、見返すと、答えは >>1 で出ていた。 「語る」 語る/騙る ≒象る/模る ≒受ける/享ける/請ける/承ける 存在論における問題は「語られるもの」ではなく「語るもの」のほうなのかもしれない。 語るものがいなければ語られるものは無い、という素朴な考えから解き放たれるべきなのだろう。 存在論の誤謬は情報処理のための概念としての存在″と、情報に拠らないアプリオリな自己のみを示す存在″を混同したところにある 存在論と認識論は表裏一体であるべきではないのか。 表裏どころか「同じ」でなくてはならないのではないか。 存在とは認識する/されるということであり、認識とは存在する/させられるということではないのだろうか。 ここで「存在される」という言い回しができない(できないことはないが意味が違う)ことに気づく。 存在にも主体性を与えるべきだと思う。 いかにして存在論と認識論を融合させるか、 その方法はいくらでもある。 問題は、それで納得させられるのかどうかである。 存在論と認識論は科学が立ち入れない、哲学にとって最後の砦なのであろうか。 認識論というものから注意深く人間を取り除くなら、それは「関係論」である。 異論はみとめる。 存在とは、関係からみれば対象であり、関係を対象化すればそれは存在である。 存在と認識を抽象化すれば対象と射であろう。 存在ネットワークと認識ネットワークは等価であって、どちらもループである。 存在とは存在ネットワーク上でのループであり、認識とは認識ネットワーク上でのループである。 この2つのループをどのようにつなげるか、どのように存在させるか。 それは圏論の圏なのか? そのような完全圏?はあるのか? 存在論と認識論をつなぐものは仮定″の無条件な受容である しかし、仮定″とはトートロジーである 皇帝は単純であるべく忠告している。🍸 「それ自体何か。その組成の中に於いて 原因の性格は何か。」 マルクスアウレリウス皇帝⭐😄 存在するという属性を最大に備える存在者が存在する。 何故なら存在するという属性には 他の存在者もすべて備えるけど そのような属性を最大に持つ者は 正に存在するから このような最大に存在属性を持つものこそは 神です。🍸 ディルド買ったけどはまらなかった。 使い道に困る。 ABC予想の証明は存在するのか? 望月教授の宇宙際タイヒミュラー理論が専門家に理解されるのと、 別の誰かが別の手法でABC予想の専門家に理解可能な証明を示すのと どちらが先になるのか? いずれにしても、宇宙際タイヒミュラー理論の公表は科学史的に 時代を画する大きな出来事でしょう。最先端の技術知識というのは、 誰が優先権を有するのかが常に争われるほどの競争の中で現れて きた。だからこそ、最先端の技術知識はトップシークレットとして 扱われるのが常であった。だが、今回ばかりは事情がまったく違う。 公表され、説明のための大量の文書が示されても、専門家の間 ですら理解が広まらない。もはや最先端の知識は、機密扱いや 暗号化など不要な時代に入っているということではないか? ひとたび問いが共有されれば、その領域に分野に慣れ親しんだ者なら誰でも 気づいてしまう。そこにこそ権力を握る者にとっての言論の自由の恐さが あったはずだが、それをものの見事に覆してしまったとも言える。 証明の明証性についての深い哲学的な問いをもたらした。 ラマヌジャンが実在した人物であったにせよ、大英帝国が作り出した架空のキャラクタ であったにせよ、極めて高度な数学の知識を持ち、大量の計算を行っていたことだけは 間違いないわけで、それがなぜあのような不可解な円周率の公式を提示したのか不思議だ。 ラマヌジャンの円周率の公式はπの性質をよく表現しているわけでもなく(それどころか、 なぜ、どのようにして導かれたのか不明である)、計算の役に立つわけでもない。 いわば、せっかくわざわざ月面探査にまで行ってきたのに、月の石のサンプルとして 木の化石を持ち帰ってくるような奇行である。かつて月に木が生い茂っていた証拠 が見つかったというのは驚きではあるが。 Embarrassment as 'moon rock' in museum turns out to be just a piece of petrified wood By Mail Foreign Service Updated: 13:07 GMT, 28 August 2009 ラマヌジャンのモックテータ関数はまだ知らない。 ラマヌジャンは分割数を考えた。分割数はヤング台であり、量子数の算出に役立つ。 分割数に順序を与えると、ヤング標準盤になる。 ヤング標準盤は既約な結び目を算出する。 結び目はM理論に発展し、宇宙の全てである、極小の重力子やダークエネルギーなど を算出する事が期待されている。 自然は様々な生命を創り出した。 人間も電磁気に数学を適応して様々なハイテクや家電を作り出している。 電子は軽いが電気力は大きいため、比較的小さな分布の変更で、効果が大きいのである。 フロンティア電子理論に見る様に、生化学物質も、 その化学的性質は電子分布の極性による。 原子の性質の多様性も、凡その最外殻電子の数と電気力の差異によるのである。 人間の脳や筋肉もまた電子の運動により機能を得ている。 生命や人間、新たなハイテクや家電の多様性を考える時に、 電子の局在を考えることは本質的なのである。 >>60 自分では証明できないと思うことが自分の存在を証明している >>61 多分俺と同じ結論に達してると思うが、あなたに問う 存在の定義を答えてくれ >>63 了解 死の定義は変化点(客観) 生の定義は可能性(主観) 存在の定義は主客同一かと >>64 同じだった… 時間の発生について考えたことはありますか? 死の定義とかよくわかってないけど、存在の定義は同じだった >>64 何歳ぐらいで存在の定義に気がつきましたか? 主客同一以前に主客の定義が日本人には出来ないんだがな >>65 時間は有と無の行間的なものと考えています つまり発生は隙間かと >>66 単純に死ぬとその瞬間から別のものに肉体が変化してくので科学的に変化点 >>67 割と最近なので30代後半っすね >>68 日本語って哲学的言語として弱いっすよね冗長というかクドいというか 自然に出来てくるものは、人間などの知能をもつ生命であった。 そして人間はさらに、ハイテクの電脳機器をつくりだしている。 どちらも極小で極軽だが、力の大きな電子の制御で成り立っている。 元素の性質を決めるのも、生化学物質の化学的な性質を決めるのも、 最外核電子の極性であった。ここに存在の秘密がある。 現代科学は電子工学などによって、超電導磁石や核磁気共鳴、量子計算機をも実現し、 電子の多様な性質を解明して活用している。 「保毛尾田さんところの保毛尾田さんは実は ホモなんじゃないかって言われてるんですけどね。 あくまで 噂でして…」 何が存在するのか。主に陽子である。プロトンは主要部分という意味である。 存在物の主要部分である。訓読みの単漢字で存在物を考える。博物学も考える。 科学とは存在の因果の認識である。 星に森ができて猿がうまれ人に進化して、人は家をつくり、家々は村となって、村は町に発展し、町は都市に発展し、都市群は国家を構成し、国家群は国際社会において交易する。 この星、森、猿、人、家、村、町、都市、国、交易の機序が存在の因果であり、順に自然科学、人文科学、社会科学に整理される。 訓読み 博物学 陽子 プロトン(主要部) 存在物 物 星 光 雨 雪 雹 雲 雷 虹 空 陸 海 浜 沖 岬 崖 潮 汐 山 川 河 洲 瀬 澤 沢 淵 渕 原 野 丘 岡 岩 石 砂 土 銅 鉄 鉛 錫 森 林 樹 木 草 花 華 葦 藻 椎 椈 楓 楠 樺 桐 桑 梨 桃 栗 柿 梅 桜 杉 檜 桧 杏 橘 橙 蓮 菱 藍 薄 芒 綿 蜜 虫 蜂 蟻 蚊 蠅 蚋 絹 蛙 鮒 鯉 鮎 鰤 鮪 鰆 鯛 鮭 鰻 蛸 鳥 鶏 鳩 烏 鴉 鳶 鷹 鷲 燕 雀 鶉 鵜 猿 犬 猫 兎 狸 狐 鼬 鼠 猪 蛇 豚 豹 虎 馬 羊 牛 熊 象 人 親 父 母 子 童 兄 姉 弟 妹 爺 婆 友 者 屁 垢 息 声 話 汗 音 縁 絆 文 筆 紙 歌 祈 祷 笛 琴 鐘 鉦 鈴 糸 紐 布 服 褌 凧 家 倉 蔵 厠 厨 炉 湯 水 雫 軒 畳 襖 枕 床 床 灯 明 竃 釜 茶 飯 餅 乳 酥 汁 椀 碗 鉢 梯 鋸 鉋 釘 槌 鎚 路 轍 道 田 畔 畦 畑 畝 畦 集 村 里 窯 室 塩 薬 菜 稲 米 豆 瓜 茄 芋 掟 鎌 鍬 鋤 舟 網 綱 竿 町 橋 寺 社 墓 市 都 車 国 船 港 埠 岸 『神との対話』シリーズの神。 どこか特定の宗教だけの神ではなく、 世の多くの宗教にインスピレーションを与えてきた普遍的な唯一の神。 思索的な哲学書として読んでも面白い書物だと思います。 イエスの事も「イエスは最高のマスター(師)の例だが、イエスだけが聖者・マスターではない」と。 今回は宗教や格式を超えて、愛を持って気さくな形で人類に語りかけてきてくれた。 この愛の神を本当に信じ、心に受け入れれば、本当に世界の観方と経験が変わると思います。 《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》 https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法 役に立つかもしれません グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』 04Y9N 「存在」とは何か。 「存在」するモノ・コト・あるいはそれ以外の「もの」を「対象」とする。 「対象」であるため「自己同一性」を持っていなければならない。 と、ここまで書いて、2つの大きな問題に気づく。 「モノ」「コト」とわけたのに、それ以外の「もの」。 つまり、「モノ」以外の、「コト」やその他のものも「モノ化」されてしまうということ。 物体としての「モノ」と、対象としての「モノ」を区別する必要がある。 2つめの問題も、「モノ」問題と関連する。 誰がどこが、「自己同一性」を持つのか、与えるのか。 モノ自身の側なのか、モノを対象としてみている側なのか、あるいは両方ないとダメなのか。 物体も対象なのだから、「モノ」とは、「対象」としての「モノ」だろう。 「モノ化」して扱うというのは認識論的だ。 これに対して、自発的に「モノ」である場合wはどうなるのか。 「認識者」無しに自発的に、モノはモノとして自己同一性を持つのか/持てるのか。 それを「新存在論」とでも適当に呼んでおこう。 自発的に、モノがモノとして自己同一性を持つことが「存在」である。 (持つということと保つということの違いは要考察だ) 「存在」の「場」を「存在場」と呼んでしまう。 「存在場」が「存在」をつくり、「存在」が「存在場」をつくる。 「概念」も「自発的存在」なのか。 これを「自発的存在」である、という立場で考えてしまうなら、 物理世界と思考世界の「メカニズム」は同じであるw 異なるとする明確な「理由」はない。探し出さないw ラノベ的哲学、ライト哲学、クトゥルフ哲学。幻想哲学、想像哲学、空想哲学。 あるいは「思弁的実在論」、あるいは「新実在論」。 哲学は明確に...ラノベ化している。 事物の同一性は何よって成り立っているかを簡潔に述べよ(10点) 「同一性」ではなく、「自己同一性」。 「アイデンティティ」の問題なのだ。 これに答えを出してしまうと哲学は「終わる」w >>81 物理的事態としての事物の同一性を保証するものは何もない 対象を同一とみなす心的事態としてのみそれは存在する 「存在」とは何か。ずっと考えた。 「存在」とは「自己同一性」を持つということである。 それは「ループ」である。 対生成・対消滅から考えてみた。 対生成・対消滅の「ループ」を「無秩序の海」で発生させると、 もうひとつの「反・無秩序の海」がみえてくる。 「ループ」は2つの「無の世界」を行き来する。2回まわって元に戻る。 「存在」は「無」を生産する。 「存在」には常に反転した「存在」があり、反転した「存在」の反転した「場」もできる。 「対称性の破れ」が「存在」をつくる。「存在」とは「対称性の破れ」である。 とても雑な考えだが、素朴な「存在」の概念を破壊して、「対称性の破れ」としての「存在」という概念を再構築できるかもしれない。 てか、そんなことを書いていて、過去の自分の書き込みが目に入った。 「存在」とは「情報」である。 ループだ自己同一性だとかいうのは、結局、「情報」である。 情報としての存在論、情報としての認識論。 認識論的存在論と存在論的認識論を統合すると「情報論」。かもしれない。 図書館にいって、いろいろあさってきた。 「存在」とは「対称性」である。 「対称性」が破れることで新たな、より小さな「対称性」がうまれる。 「同一性」とは「対称性」である、と言い切ってもよいだろう。 ここで先送りしていた「自己同一性」を考える。 「存在」とは「自己同一性」を持つということであり、対称的なもうひとつの「存在」とペアになっている。 ペアでなければ「自己同一性」を持たず、「存在」でもない。 物理や数学だけでなく文学や美学や、とりあえずなにかひとつで乗り切るとしたら、 それは「対称性」である。 むろん哲学も「対称性」である。 「存在論」は「美学」であり、「対称性」の論でなければならない。 そうなってくると「認識論」も「対称性」であり、「情報論」も、もちろん「対称性」だ。 物理・数学・哲学・あらゆる学問から思想や人生にいたるまで、たったひとつの概念で乗り切るとしたら「対称性」なのである。 とりあえず「対称性の哲学」と呼んでおこう。 Aが存在するとは、Aが束縛変項の値であることである。 To be is to be the value of a variable. ですね。 variableをなんらかの情報空間とするならば、valueとは情報空間上の位置にほかなりません。 「存在」とは「情報」のことです。 「存在空間variable」上で「位置value」を特定できるということが「存在」です。 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか、という哲学の究極の問いはわたくしが解きました。 未解決問題は解消されました。 存在論の終焉です。 What does it mean to be there a variable? ということは存在空間variableなるものは存在してないのね ジム・ホルト(Jim Holt)「宇宙はどうして存在するのか」 実は、太陽系の近くの空間は慣性系でありません。 この銀河系は回転していますから。 銀河系の外の空間にしても同じです。 ですから、慣性系というのは人間の頭の中で考えたことで、この宇宙のどこにも存在しません。 ショーペンハウアーは「物自体」を「意志」と同一視し、その道徳観の基礎としている 認識論的存在はvirtualなものであり幻想あるいは虚像である。 非認識論的存在があったとしても認識に頼るしかない。 認識される存在とは情報である。 存在とは情報論的なものであり、存在=情報と考えてよい。それが人間の限界だ。 情報論的存在は、数学的存在+αであり、数学的存在は自然数論+集合論からひきだされる。 この+αをめぐる物語が哲学としての存在論である。 (+αは−αかもしれないし、位相の違いかもしれないし、確率的なものかもしれない) 仮想粒子としての情報粒子を考えるならば、情報粒子がモナドである。 このモナドは単数かつ複数であり、存在かつ非存在である。 存在しないという存在。 存在しないということで存在し、存在するということで存在しない。 そこには、アクセス不能でなんらかの大きさのようなものをもつものが「ある」。 矛盾をつくりだす核となるものは「ある」のだ。 ほぼ、超ひも理論における存在論だ。 キーワードは共形対称性・双対性。 物理的に無意味となる半径がある。 この無意味が意味であり存在である。 犯人は対称性だw 真の存在には内面が無い。まさしくモナドか。 対称性がモナドとしての狂言回しの存在をうむ。 l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l l 電波を感知しました。 l l__________l / / / _ ビビビ /ll__l∧ / 。.l.(O´∀`) / l≡( )) ))つ `ー| | l (__)_) 慣性系というモノが敷衍的にある気がするけど、僕たちは重力を背負っているけど、 背負えば背負うほど、慣性系の世界の到来によって身体が自由だろう。 モナドを考えてみてもモナドじゃないモノの構造があるんだから、モナドは侵食 し過ぎていると思われる。 思弁的実在論など、老荘思想よりも劣る。 タオイズムではなく純道家の思想。 まあ21世紀にはあたらしい哲学はあらわれていない、 哲学者の文章は読むに堪えない。 科学者の文章もしかり。 は! モナドはパイプラインか。 「つながる」ということはどういうことかと考えていたが、 モナドを「単子」というより、「接続の単位」と考えた方がよさそうだ。 でもって、これを逆転させる。 究極のモナドは「ひとつ」である。これを実モナドとすれば、モナドと呼ばれていたものは虚モナドだ。 「接続」などしていない。「ねじれた」だけだ。 この「ねじれ」が対象や空間や時間をつくりだす(そのようにみえる)。 みえるということもねじれであるw はたして、この考えで「哲学」を終焉させることはできるのであろうか。 終焉といっても終わらせるという意味ではない。 関係としての哲学から ねじれとしての哲学への転換。 レヴィナス以降意味をなさない存在論。 もはや科学哲学、生物学哲学、脳科学哲学、詩文哲学など、細分化されつづけるのみ。 存在とは何か、ではなくて、なぜ存在なのか、それだけが重要だ。 WHATならば、科学でもなんでも定義できる。 マルクス・ガブリエルの新実在論のどこが新なのか。 オンラインゲームに興じることに違和感のない世代からすれば、あたりまえのことを言っているに過ぎない。 西洋哲学、大陸哲学の脆弱性はもはや同情の余地すらない。 虚構は存在する。 そんなことは四歳児にだって認識できる。 認識がなくとも虚構は存在する。 存在するかどうかはそいつの理論の束縛変項に何を置くかによって決まるよ 存在?二つの異質な属性によって、左伝であることだろう。 ハイデガーは過大評価 ドイツに甘すぎるのが西洋。 そしてこれからは東洋の時代。 存在とは意識の流れ、そうベルグソンはおっしゃっておられる おまえの子房は果実として認めん おまえの子房は種なし おまえの子房は発達しない おまえには果実がない ガブリエルの新実在論 どこが「新」なのかさっぱりわからん やっぱ大陸系はだめだね ドイツ人の文章のへたくそさは、尋常ではない。とくにカント、ヘーゲルは悪文。 フランスだと、サルトルのへったくそなテキトー雑文もくそだが、ラカンのような詩にこだわりすぎて、オナニー文になってしまう馬鹿もいたり。 なによりレヴィナスってのは、自動書記なんじゃないのかな。 推敲しろよ、と。もちろん西田幾多郎もだが、推敲しろカスってかんじ? ,、..':::" ̄:::::ヽ_ /::::::::,ニニン´`ヾ::::ヽ /彡ン´ ',ミミ ,':::z´ ',ミ:} {:::{ =≡=、 ,ィ=≡t、_}::::l 〉ト{ ィtォ、 }'^{ ィtr }'!rト '、lゝ、_ .ノ ヽ、__ノ |!/ | ,.(、 , )、 |} < おどろどろいたね | ,.(、 , )、 |} | ,.(、 , )、 |} | ,.(、 , )、 |} | ,.(、 , )、 |} | ,.(、 , )、 |} | ,.(、 , )、 |} | ,.(、 , )、 |} ', ,..、 ,..、_ l '、 `~=~´ / |\ ´ ` , イト、 /ハ ` `二 二´ ´ / |:::ヽ /::::/ ', : . . : / |:::::::ハヽ 理解力どころか、読者を意識してない屑どもの論文は、まず売れない。 文学者はその点、文章がうまい。 シオランだろうと、ヴェイユだろうとお話にならない。 まあ哲学者で文章のうまいやつはいないってことだ。 むずかしいことを難しく言うだけなら、馬鹿でもできるということ。 ひろまつなんちゃらみたいなのが、馬鹿の象徴的事象。 元来、論文ってのは主に専門家に向けて書かれるもんだから 無学で理解力のないタコに合わせて書く筋合いのもんじゃないだろ "Have you lost your mind?" 「お前は心を失ったのか?」 失ったのが正気なら、それを取り戻すことはできるかもしれないが、 心を失ったのなら、これからはサイコパスとして生きていくしかないでしょう。 レビナスの捕虜体験はペースが速い疲労とか、参考になった。 徹夜で作業すると平衡感覚が失われる 平衡感覚の機能を犠牲にして脳を目覚めた状態に保っている 目覚めていることと平衡感覚が徐々に失われることがトレードオフ関係にあるわけだ 眠ることで平衡感覚が回復する 眠ることによって整理される雑多な情報の過剰な蓄積が、 目覚めていることによって雑多なままに放置されることで 「目舞(めま)ひ」を生じさせる 常に目覚めているとしたら世界から秩序は失われ 目舞ひしか残らないだろう ビジネスが覚醒であるとしたなら、人文学は眠りである 哲学は文学の一分野にすぎぬ。 科学も哲学もおなじく文学の奴僕 哲学は文学の一分野にすぎぬ。 科学も哲学もおなじく文学の奴僕 そら、文科省の馬鹿官僚ですら、そういう認識だからなあ。 文学の汎用性やエンタメの有用性には、哲学は勝てませんよ。 まず売れないし、内輪にしか通用しないし。 それは科学や宗教もそうだが。 文学のすごいところは、芸術でもあるところだ。 ぶんげい 【文芸】 1. 言語によって表現される芸術。 「―作品」 2. 学問と芸術。芸文。 「―復興」 哲学は芸術になりえないし金にもならない。 ただの論文。 詩が一番偉くて、哲学は詩がパフォーマティブに暗に示したことをロゴスで説明する仲介者にすぎん なお哲学研究者は哲学者ではない 日本の哲学研究者は、外国の著名な哲学研究者の論文を翻訳して、それを元ネタにして、自分の専門とする哲学者についての論文を書いてる人 ちょっと高度な写経や習字の練習にすぎない 日本で面白い人は、哲学科ではなく、ちょっと別の分野に属しながら哲学書も読める人 ディヴィッド・アッテンボロー 「トラは地球最強の肉食獣で脅かす者が誰も存在しない全ての野生動物の頂点」 ジョージ.B.シャラー 「トラはヒグマを捕食する。ネコ科は自重の3倍の動物も容易に仕留める。」 http://www.root-pictures.com/tigar/t_seisaku.html メドビエデフ「アムールトラは野生動物の頂点に立つ。密林の王者だ」 New Jersey City University 「虎は全ての動物の中で最も強い。闘技場で武装した数頭の象と闘わせたりもした。」 http://faculty.njcu.edu/fmoran/vol5tiger.htm#note153 アルセーニェフ『アンバ(虎)』 「我が国では、この虎に勝る獣はいない。虎が餌を探す所では熊も競わない。熊はいつも自分の縄張りを虎に譲る」 http://big_game.at.infoseek.co.jp/combat/combat1.html トラとヒグマが戦った例がある。 丘を転げ落ちつつ両者は咬み合い、草叢とブッシュを踏みしだきながら、200〜300mをくんずほぐれつ、転げ回ったが、遂にトラはヒグマを殺した。 しかしトラもかなり傷ついたらしく、抜け毛の塊がそこここに撒き散らされていた。 プルツェワルスキーがハンターから聞いた話である(小原秀雄、1970)。 同プロジェクトでは大きなヒグマがトラの獲物を奪うことが何度も観察されている。 しかしクマは逆に餌食とされてしまうのを避けるため、主に雌のトラを相手に選んでいるようだという点で関係者の意見は一致している。 「わぶ」≒"diminish oneself"である。 学研全訳古語辞典 わ・ぶ 【侘ぶ】 [一]自動詞バ行上二段活用 {語幹〈わ〉} @気落ちする。悲観する。嘆く。悩む。 出典伊勢物語 九 「限りなく遠くも来にけるものかなと、わびあへるに」 [訳] この上もなく遠くまでもまあ来てしまったものだなあと、互いに嘆き合っていると。 A困る。困惑する。当惑する。 出典源氏物語 花宴 「いといたう強(し)ひられて、わびにて侍(はべ)り」 [訳] まったくたいそう(酒を)無理強いされて、困っております。 Bつらく思う。せつなく思う。寂しく思う。 出典古今集 雑下 「わくらばに問ふ人あらば須磨(すま)の浦に藻塩(もしほ)たれつつわぶと答へよ」 [訳] たまたまに(私のことを)尋ねる人があったなら、須磨の浦で藻塩草に潮水をかけながら(涙を流して)せつなく思っていると答えてください。 C落ちぶれる。貧乏になる。まずしくなる。 出典古今集 仮名序 「あるは、昨日は栄えおごりて、時を失ひ、世にわび」 [訳] ある場合には、昨日(まで)は栄えて思い上がっていたのに、(今日は)時の流れに合わないで勢力がなくなり、世間で落ちぶれて。 Dわびる。謝る。 出典宇治拾遺 一一・三 「『ただ許し給(たま)はらむ』とわびければ」 [訳] 「ともかく許しをいただきたい」と謝ったので。◇「詫ぶ」とも書く。 E静かな境地を楽しむ。わび住まいをする。閑寂な情趣を感じとる。 出典松風 謡曲 「ことさらこの須磨の浦に心あらん人は、わざともわびてこそ住むべけれ」 [訳] 特にこの須磨の海岸では、情趣のわかる人は、わざとでもわび住まいをして住みつくであろう。 [二]補助動詞バ行上二段活用 活用{び/び/ぶ/ぶる/ぶれ/びよ} 〔動詞の連用形に付いて〕…しづらくなる。…しかねる。…しきれない。 出典伊勢物語 七 「京にありわびて東(あづま)に行きけるに」 [訳] (ある男が)都に住みづらくなって東国へ行ったが。 そういう書き込みこそ、頽落。 ハイデガーのメッセージは、頽落するな、ということだったが。 和解はイエスキリストによって成立 十字架に、よって人類は救われた 他の言語を無視して国語学が成立すると考えるのは愚かだ 突然の思いつきでタミール語を勉強しても問題は解決しない とはいえ、「古語辞典」には、随分、お世話になっている。 朝鮮語起源とか、そこに書かれている説明を信用してはいけないというだけの話だ。 信じるということ自体には あまり哲学的な深みはないのよ✨ 日本語では、従来、「〜を信じる」ではなく、「〜を頼む」だろう "In god we trust"≒「我々は『神を頼む』」であって、「我々は『神を信じる』」 ではない。こういう重要な部分の理解をいつまでも誤魔化しているから、 いつまでも理解のギャップが埋まらない。 愚か者が信仰によってフラットになって勝つ権利はあるだろう。 なぜ、存在者があるのか? そして、むしろ、無があるのではないのか? 「なぜ、何かがあるのではなく、何かの不在があるのか?」 これが正しい問ひだ。 >無があるのではないのか? ナンセンスな問ひに応えようとしてはいけない。 意味をなさない問ひに意味があるかのように振る舞うことを 強制されることにより、誤った前提を正しいと信じている かのように思い為すことを余儀なくされるからだ。 説明はできないけれど、絵として 見えてわかることってあるでしょ。アウグステ ィヌスが、「時間とは何でしょうか?」と質問されて、 こう答えたんです。「ああ、それはね、質問されないかぎり、 みんな、時間とは何か、わかってる。でも、もっと詳しく教えてほしいと言われると、誰も、時間とは何か、説明することができない」 「存在とは?」とか、「神とは?」なんて問いは 、むなしいんですよね。ちゃんとした定義がない と動けない自然科学や法律は別だけど。ヴィトゲ ンシュタインは『論理哲学論考』を書いて、哲学 問題はすべて解決したとして、哲学を捨てたわけですけど、 彼が問題にしていたのは論理言語だけだったんです。 論理言語による理想の宮殿は、氷のように透明で純粋だけど 、ツルツルすべって歩けない。 時間とは、反復する現象の観察から推定されて、単位として用いられる曲率円の円周長である。 円という全体を真として前提するしかないのが、物理学とか数学なのよねえ。 意味ないっす。 はい、却下。 前提となるものはなにかと問えば、それは「美しさ」である。 その前提となる「美しさ」を探求するのが哲学なのだろう。 この「美しさ」と「存在」は同じものである。 美しさゆえに存在してしまう。 もし、「世界」が存在しないのであれば、それは「美しくない」からである。 体格のいいユイの筋肉質でちょっとカチッとした感じで 時々獣臭くておしっこ臭い漫湖 これこそが究極にして至高の存在なのじゃよ〜♪ ..____ .. /... .....\ ../ .. ヽ 蛙邊矧憎魔璽斐螺禰佐都簑菟匙簾邊獅 .... | ..│ f''|: .◞≼☉≽◟ii◞≼ⓞ≽◟ | T . ト  ̄ i  ̄ | ノ . | ;; \ ^-^丶 / l | ;; / 米 \ ... :ノ ヽ │ヽ__ノ│/ \,,,__,,,,/ >氷のように透明で純粋だけど、ツルツルすべって歩けない。 スケート靴を履けばいいのでわ? 存在論的転回って何ですか?存在論的転換じゃないのですか? 存在論的転換って、そりゃなんだ? 転回しなきゃ意味がない。 「美しさ」が「存在」である。昨夜おもいついてからずっと考えてみた。 正しい答えだった。 「美しさ」こそが「存在」をもたらす。 注意すべき点は、あくまでも哲学で語られる「美しさ」のことであって、一般的な用法の「美しさ」とは異なる。 ネーターの定理は「美しさ」のひとつであろう。 「美しさ」は「対称性」であり、それが「存在」となる。 転回も対称性だな。 「対称性」こそが哲学の究極奥義であり奥儀である。万物の理論なのか。 同じであって、かつ、違うということ。それでいて自発性もある。 ちょいとレヴィ=ストロースの講演ビデオをみなおし。ヒントがあるかも。 結局、対称性という定義から考えてみても、存在とは対称性のことである。 そして、存在とは、対称性のもとでの保存のことである。 ここでいう保存とは不変性のことである。 問題は、不動点であろう。存在が、単に不動点にすぎないものであったなら... 哲学そのものも、「必然的偶然」にすぎない... 必然性。それだけが探求すべきものとして残されるのだろうか... 動的カシミール効果なんてのは普遍性がまだない。 実験数が少なすぎてな。 こういう暖冬だとあまり感じられないかもしれないけど、 もう少し寒さが厳しくなれば、カシミール効果も実感できるだろう 転回と転換では意味が違うし。 ontological turn だし。 convertじゃないしね。 人間に認識されるのを拒絶している範囲で売れちゃうのっていかがわしくないですかってずっと思ってる。 転びであるかどうかは、重力に従っているか否かでしょう 「ころぶ」の「ころ」は、言うまでもなく擬態語の「ころころ」の「ころ」 と同じであり、「〜ぶ」は、「ころ」という様態が自らに作用することを 表している。「ころす」が「ころ・す」という使役形であるのに対して、 「ころ・ぶ」は再帰形である。 ほころぶ も難しい。ころす。人間の発した動詞じゃないようだね。 真似似非じゃ恥ずかしい。文法や古文も大事でしょう。 前から潜在していたもの、自分の根底にあり自分を作っていたものなのは普段は忘却されている それを偶然によって取り戻す、取り返すから転回なんでしょう 転換だと、転じて向かう行き先が、前は無かった新しいものというイメージがつくでしょう 転回だと、根源(とされる)に帰るイメージ 取り戻しても知覚の中で再現されても昔のことは結局取り戻せない。 だが、人間を人間たらしめている根拠から、人間が完全に逸脱してしまえば、それを思い出せもしないはずだ だから、今も継続的にその「何か」は人間を支えているはず 余りに近くて気づかなかっただけなんだよ 今もここにある それが根拠と非根拠の差だと思う 後者の場合はそれが無くても、人間は生きることができ、だから完全に捨て去ることができる 元には戻らないものは、だから、要らないものであり、人間にとって非本質的なものなのだ サルトルの実存主義みたいに、実存は本質に先立つみたいな話もあるけどね そういう人間観の場合、人間には戻るべき過去は無く、ただ、未来において、自分を自分たらしめているものを「作る」ことになる しかし、彼らは、人間には本質が無い、それは作るものだ、ということをある意味人間の「本質」として設定しているわけなんだ だから、実存主義においても、この事実へ人間を「復帰」させていることになるだろう ウィドゲンシュタインの言語論的「転回」も、論理哲学論考の世界よりも、日常会話の言語ゲームの世界のほうが「古い」わけだろ フッサールの還元だって、還元した後に残存するやつのほうが「古い」わけだ 還元や、転回は、より古いもの、古層への遡行なのだ ほじくれば、それは今も保存されて「ある」という考え 民俗学や、人類学も、未開の部族のフィールドワークやって、あれは、未開の部族固有のロジックを取り出すだけじゃなく、 太古の世界がどうなってたかを、今も生きる未開の部族を調査することを通じて知りたいわけだ 近代の乗り越えのためのアイデアを探ってるんだな この場合の超克も、太古への復帰だな 知り得ないんだわ。古代の人間の感性は。 古代の人間の理性は抽出できたとしてもだ。 >>189 「ほころぶ」は、「ころ(転)ぶ」よりもむしろ、「ほろ(滅)ぶ」に 似ているんじゃないかな。「ほろぶ」の「ほろ」は、擬態語の 「ほろほろ」と共通していて、「ほろぶ」は、「ほろ」という 様態が自らに作用することを表している。 https://dictionary.goo.ne.jp/jn/205744/meaning/m0u/ ほろ‐ほろの意味 5 物が裂け破れるさま。 「綻 (ほころ) びは―と絶えぬ」〈源・紅葉賀〉 「あった!」というのが"finden"なわけでしょう。 「あった!」という場合、「どこに?」という疑問と、 「どのように?」という疑問が生じる。 その「どのように?」という疑問に対応する概念が "Befindlichkeit"です。 「思想」として尾鰭をつけて解釈しようとする前に まずは素直に言語表現として理解すべきではないでしょうか。 まずは素直に言語表現として理解しようとすれば、自ずと「思想的な癖」の ようなものも見えてくるのであり、「思想的な癖」の方から哲学を解釈しようと すべきではない。 "Dasein"の居心地というのはどのようなものですか? ハイデガーの「存在と時間」はまず何よりも現象学的な記述の試みである にもかかわらず、それを説教演説として解釈しようというのが愚かなんだよ。 >>206 現象学的に解釈して演説してから指摘しないと君もただの説教になるよ Aber ist mit diesem Aufweis des Verfallens nicht ein Phänomen herausgestellt, das direkt gegen die Bestimmung spricht, mit der die formale Idee von Existenz angezeigt wurde? Kann das Dasein als Seiendes begriffen werden, in dessen Sein esum das Seinkönnen geht, wenn dieses Seiende gerade in seiner Alltäglichkeitsich verloren hat und im Verfallenvon sich weg »lebt«? Das Verfallen an die Welt ist aber nur dann ein phänomenaler »Beweis« gegen die Existenzialität des Daseins, wenn dieses als isoliertesIch-sub-jekt angesetzt wird, als ein Selbstpunkt, von dem es sich wegbewegt. Dann ist die Welt ein Objekt. Das Verfallen an sie wird dann ontologisch uminterpretiert zum Vorhandensein in der Weise eines innerweltlichen Seienden. Wenn wir jedoch das Sein des Daseins in der aufgezeigten Verfassung desIn-der-Welt-seins festhalten, dann wird offenbar, daß das Verfallen alsSeinsart dieses In-Seins vielmehr den elementarsten Beweisfür die Existenzialität des Daseins darstellt. Im Verfallen geht es um nichts anderes als um dasIn-der-Welt-sein-können, wenngleich im Modus der Uneigentlichkeit. Das Daseinkann nur verfallen, weil es ihm um dasverstehend-befindlicheIn-der-Welt-seingeht. Umgekehrt ist dieeigentliche Existenz nichts, was über der verfallenden Alltäglichkeit schwebt, sondern existenzial nur ein modifiziertes Ergreifen dieser. 「どうあるべきか」という説教として読むのか、「どのようにあるのか」という 記述として読むのかの違いでしょう。 日本語に変換されて通用しているハイデガー用語によってハイデガーの言説を 理解しようとするのは到底無理ではないかという気がする。 >>208-209 コピペしたら、単語が変なところでつながってしまったな。 でも、ドイツ語知ってる人ならどこで変につながっているのか すぐに分るでしょ。 実のところ、私はドイツ語をろくに知らない。 ドイツ語を誰かに教わったこともなければ、真面目に勉強したこともない。 それでも、ハイデガーの「存在と時間」をドイツ語で眺めていれば、 ハイデガーの思考の歩みに「Erschlossenheit」という表現が重要な 役割を果たしていることを容易に見て取ることができる。 「Erschlossenheit」は通常、「開示性」と訳されているようだ。 そのように訳すことは無論、誤りではないだろうし、「開示性」と いう訳語を用いてハイデガーの著作を議論している人々の念頭には、 当然、ドイツ語の「Erschlossenheit」の用法が念頭にあるのだろう。 だが、それが「開示性」という日本語の表現に置き換えられて議論 されることで、日本語の読者には「erschließen」という動詞の用法 との関連が見失われ、ハイデガーが何を議論しようとしているのかが、 極めて分りにくくなってしまうことも確かである。 さらに、翻訳された議論の不明瞭さを悪化させるのは、「開示性」に関連して ハイデガーによって用いられる同様に重要な中心的な表現である" aletheia" や"Unverborgenheit"が"Erschlossenheit"と並べられて説明されることで、 それらすべての用法が完全に互換性があるかのような印象がもたらされて、 読者の理解においてすべて渾然一体となってしまうことである。 実際、ハイデガー用語のWikipediaを検索すると、英語の翻訳の場合でも、 そのような渾然一体となった説明となっている。 https://en.wikipedia.org/wiki/Heideggerian_terminology Aletheia (Ancient Greek: ἀλήθεια) Heidegger's idea of aletheia, or disclosure (Erschlossenheit), was an attempt to make sense of how things in the world appear to human beings as part of an opening in intelligibility, as "unclosedness" or "unconcealedness". (This is Heidegger's usual reading of aletheia as Unverborgenheit, "unconcealment.") ところが、そのような渾然一体となった「開示性」の理解が、ハイデガーの 思考の歩みをたどるのに大きな障害をもたらすことが、この場合、「開く」 または「開示する」として理解されている「Erschlossenheit」の動詞形 である「erschließen」をドイツ語の辞書で検索してみれば、ただちに 明らかになる。 https://www.duden.de/rechtschreibung/erschlieszen zugänglich machen auffinden und nutzbar machen (gehoben) sich öffnen, aufbrechen zugänglich, verständlich werden (gehoben) sich jemandem offenbaren, anvertrauen durch bestimmte Schlussfolgerungen ermitteln ハイデガーが「Erschlossenheit」という表現を用いる場合、それによって 伝えようとしているのは、単に「開示されてある」という「開示性」ではなく、 「『ひら(開/拓/啓)く』ことによってもたらされた状態である」であるはず だろう。さらに、(日本語においても)問題とすべきは、この場合、「ひらく」は どのような作用として把握されているのかということになるはずである。 ほとんどの哲学書は、5w1hをはしょってるし、なかには詩的文体で全体を貫いたりしていてまさに論文には不向きの自慰となっている書が多い。 あとは翻訳家の無能もそれに関係してくるのだが。 もともとの論文の、推敲足らずが問題なのかもしれない。 そしてたとえばそのドイツ語の構文と、日本語の構文におけるメカニズムの違いこそが哲学書を悪文にしている。 よって、そんなものは一部のマニアにしか売れないし、原文そのものを自ら訳す暇など、一般的な現代人にはない。 それに比べてエーリッヒ・フロムのように5w1hをしっかりおさえた文章を書けるひとの作品は、翻訳家が2流であろうとなんだろうと、一般人にも読みやすいという長所があるわけです。 彼は哲学者ではないが。 およそプラトンが後代にわたって必要のない注釈を加えられ続けたのは、そのわかりやすさにあるわけです。 バタイユは難解で、生存時はフランスでも読者は1000人にも満たなかったそうだ。 「Erschlossenheit」という表現を見て私が連想する日本語は、奇妙に 思われるかもしれないが、「開示性」でも、「開くこと」でもなく、 固有名詞としてしか用いられなくなってた「さこ」である。 例えば、「さこ」は、「大迫(おおさこ)」という人名に見られる。 私は、「迫」は当て字であり、「さこ」に「迫」が当てられる 必然性はなく、この漢字が当てられたことには、インデックス性の 反転が関与しているものと考えている。私の思うところでは、「さこ」 は、自動詞の「さ(咲)く」および他動詞の「さ(裂)く」に関係して おり、いわば、「さいた/さかれた」状態を表している。 https://kotobank.jp/word/%E8%BF%AB-114074 世界大百科事典 第2版の解説 さこ【迫】 山あいの小さな谷をいう。岡山県以西の中国地方と九州地方に多い。 同様の語として千葉県などでは〈さく〉がある。また〈狭間(はざま)〉も 同様の意味の語である。このような小さな谷に開かれた田が迫田であり, 《俚言集覧》に〈美作(みまさか)にて山の尾と尾との間をさこと云ふ。 其処に小水ありて田有をさこ田と云ふ〉とある。迫田は,谷田, 棚田と同様に,1枚1枚の耕地は零細であり,労働力の投下に比して 収穫量はけっして多いものではなかった。 「さいた/さかれた」 ↑ スラッシュの意味ないから。 「さこ」は、「ひら(開)けている」といっても、単に覆われていない、 あ(開)いている、または露出していることを表しているわけではなく、 「『さ(咲)く/さ(裂)かれる』ことによって『ひら(開)いた状態』」 であることを表している。 その場所が「ひら(開)いた状態」にあるものの、山肌が迫っていることから、 「さこ」が表現していたはずのインデックス性が反転して捉えられて 当てられた漢字が「迫」だろうと思う。 人間は地球より先に滅びる可能性が高いことは科学自身が証明できるのではないか? もし証明できないとしても、人間か地球は滅びる。 究極的には科学も哲学も意義がない。 じゃあ、あなたの食事にも意義はないので、 とりあえず、あなたは今日から食事をとることをやめましょう 経験科学において「証明」などという営みはありません 滅びるの定義によるね。 人類が進化(退化)したときは、それを人類と呼ぶのかどうかとか、地球が粉々になっても、地球の一部は残ってるからそれを地球と呼ぶかどうかとか。 さて、電子が死ぬと、つまり崩壊すると宇宙はどうなるでしょうか。 そこにもひとつの答えがあります。 つまり、宇宙とはなにか、といううつくしい問いが。 この本の翻訳は出版されないの?これだけ沢山ハイデガーの「存在と時間」の 日本語訳が出版されて、その源泉が日本にも関係あるという話らしいから、 とっくに出版されててもよさそうなのに。読んでないけど。 田鍋良臣 前期 木4 Reinhard May, ”Heidegger’s hidden sources: East Asian influences on his work” を読む [授業の概要・目的]この授業ではReinhard May(transl. by Graham Parkes)の『ハイデッガーの隠された源泉――彼の著作への東アジアの影響』 (1996年, ドイツ語初版1989年)を精読する。著者は、様々な資料や証言を もとに、ハイデッガーの思索が東アジア思想からの多大な影響下にあったと いう驚くべき主張を展開している。老荘思想の受容や禅仏教への関心、そして 京都学派との関係性を比較哲学的に分析することで浮かび上がるのは、 これまで秘匿されてきたハイデッガー哲学の「文化横断的(transcultural)」 な側面である。本書を精読することを通じて、研究文献の基本的な読解力や 分析力を身につけるとともに、哲学・思想領域における「異文化対話」に ついて考えていきたい。 まあ、確かにハイデガーが「死」ついて語るとき、普通の意味での「死」 ついて語っているというより、「成仏」について語っているような感じだ。 滅びるわけじゃなく文明の痕跡を残して次元的に去るんだよ。 ビッグバン仮説が覆されると、それはまたなんちゃら転回とかいって、わらって済ませるだけ。 科学はあまり有能ではないのだ。 >>232 それ、無意味な問い。 要するに言葉の定義の問題。 世界とは様態ではない。 有限の変化の遇有性ではない。 >>239 文末を「ある」で書き替え投稿できて 何ぼなんじゃない、哲学的には。 何がいいたいのかね? この疑問文は、破格構文をよしとしている、ニーチェやバタイユやラカンやマラルメに対して言うべきだろう。 すなわち彼ら悪文家は、何かを言い得ているようで何も語っていないのだ。 なぜ日本人は、ニーチェやバタイユが好きなのか。 わかいころならば許されよう。 しかし気づくべきだ。 悪文家に付き合うほど日本人は暇ではないということを。 心の哲学などなんの役にもたたない。 なぜなら人間のための人間による人間科学に過ぎないから。 そもそも哲学論文のような論理体系では単なる科学的アプローチのみに依存していて、何の発展もない。 それを超え得るのは詩だけである。 矛盾許容論理を許していける素地を持たないことには、人間科学レベルにとどまるのみ。 わたしとは何か、なんてことに原稿用紙何十枚も費やすだけ無駄、ということだ。 存在論を プラトニズム、有限主義、形式主義の3つから考えてみようとしたが、 結局はどれもが認識論的存在論に落ち着く。(個人的な感想です) それでは認識論を克服できない。 かといって存在論を優位にもってきたとしてもなにも解決しない。 とりあえず、存在論は存在を説明できず、認識論も認識を説明できない、としてみる。 存在と認識の間には不確定性がある。 とすれば、これは量子論だw 存在を「対象」、認識を「射」とすれば圏論である。 そうなってくると意味論もつけくわえたい。 意味とは「その構造を保つ対応関係」に与えられるものである。 哲学的圏論は存在論・認識論・意味論をパッケージ化?した哲学言語となる...はずだ... もちろん、それが理論なのではなくtoolである。 数学からアプローチすれば、存在とは4次元の構造にある。 >結局はどれもが認識論的存在論に落ち着く。(個人的な感想です) それは主体的認知論であって、非主体性認知ではないのは明らかである。 常に対象を狭めて論じることは重要であるが、非たる対称する相反する関係にこそ 本当の存在が存在いたしめる本質があるということである。 >>253 あなたの言ってることも非主体性認知って造語が何を意味する概念なのか 言明しないで明らかであると言ってるだけの主体的認知論になりますよ。 認識論とは、Epistemologyあるいは theory of knowledgeであって、 cognitionとは違うのです。 認識論は主体とは関係がなく、むしろ客観的な知識論なのです。 しかしまー、ハイデッガーなんてのは根本的に哲学の才能がなかったんだなと思うよ。 ハイデッガーの著作読んでも詩の才能の欠片も感じない。 本当に哲学の才能があるなら詩人になるからね。 英語の"spot"と日本語の「坪(つぼ)」はイメージも発音も 似通っているという印象を受ける。無論、語源的に 関係しているわけではないだろう。「スポット」と「ツボ」 では、「ポ」と「ボ」の違いがあるが、日本語では、 この位置で「ポ」は現れないので、「ボ」の発音が「ポ」に 対応するイメージを代わりに担っている感じがする。 「ポ」の発音から私に想起されるのは、「空間を有する局所性」だ。 英語の"pocket"は、はまり込むような局所的な穴の開いた様態を 表現するが、日本語でも、心に「ぽっかり」と穴が開くと表現する。 「ポカ」をやらかすという場合も、意図せずに落ち度が生じること、つまり、 うっかりと穴をあけてしまうことだろう。 英語の"point"は、尖っていることや、大きさのない点を表すようにも イメージされるが、もともとは、やはり、小さい穴をイメージさせた 表現だろうと考えられる。 https://www.etymonline.com/search?q=point point (n.) c. 1200, "minute amount, single item in a whole; sharp end of a sword, etc.," a merger of two words, both ultimately from Latin pungere "to prick, pierce," from nasalized form of PIE root *peuk- "to prick." The Latin neuter past participle punctum was used as a noun, meaning "small hole made by pricking 骨(ほね)も、「ぽね」と発音されたとすれば、「ポキポキ」と簡単に 折れるような中空のイメージが強くなるのではないか。中空の根 としての「骨(*ぽね)」である。 英語の"point"に対しては、日本語では、「ぽつり」という表現がある。 https://www.weblio.jp/content/ ぽつり ぽつり ( 副 ) (多く「と」を伴って) @ 雨やしずくが落ちるさま。 「 −としずくが落ちて来た」 A 点や小さな穴のできるさま。 「 −と穴があく」 B 一つだけ離れてあるさま。 「 −と一人座っている」 C 言葉少なに話すさま。また、一言だけ物を言うさま。 「 −と一言つぶやいた」 D 糸やひもなどが途中で切れるさま。ぷつり。 「糸が−と切れる」 言語学にも哲学にも無知な人が、なんで連投してるんだろう? 役に立つ知見があると思うのなら、それを自ら示せばいいだけ 「私が「〜〜という状態」を所有する」という文章と「私が「〜〜という状態」にある」というのは「私が「〜〜という状態」」が成立していて、同じ事を言ってる気がしたけれども何か違う気がして、何が違うのか考えたところ、第二の文は 「〜〜という状態」が、私を所有する と言い換えられます。 ここで第一の文と第三の文を比べると、所有するの主語と目的語、主体と客体が入れ替わっている、同じ事を言ってるのにも関わらず矛盾している、と考えました。 さらにこれを推し進めて、所有するの定義は何か考えたところ AはBを所有するをA⊇Bと書いたところ、先ほどの文はA⊇BかつB⊇A、すなわちAとBの境界、輪郭のことだとわかる。つまり、存在とは輪郭、内側でもあり外側でもある主体と客体の境界のことだとわかります。 つまり主体にとって客体が定義されなければ存在が成立しない。 ゆえに人は、自己は、他者なしに存在することは出来ない。 夏目漱石の「それから」と言う作品の終わりの方に、主人公がヒロインを口説く言葉に 「僕の存在に貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」と言うシーンがありますが夏目漱石も自己の存在に他者が必要だと言うことに気がついていたのでしょう。 或いはBUMP OF CHICKENの藤原基央さんがカルマという曲の中で存在について歌っていますが同様の結論に達しているのでしょう。 ニーチェもまた同様の結論に達しているようです、あまり詳しくは知りませんが。 キリストが隣人愛を説いたその理由はこういう事かなと私は思います。 つまり存在とは何か最初に答えを導いた人間はキリストであると。 世界が平和になりますように。争いがなくなりますように。他者を大切にしますように。 人を愛しますように。 ドストエフスキーの作品の罪と罰の最後のエピローグでラスコーリニコフとソーニャが手を繋ぐシーンがありますが、存在とは輪郭のことだとドストエフスキーは伝えたかったのではないでしょうか?必然的に他者がいなければ存在は成立しないと。 ラスコーリニコフが老婆を殺したのは、自分一人だけで存在が成立すると思い込んで、本質、真実、つまり自己の存在には他者が必要だということが見抜けなかったが故に彼は敗北したのではないかなと。 ドストエフスキーはまた作品悪霊の中で 存在の最高の形式は愛である と作中の人物に発言させていますが、彼もまたキリスト、夏目漱石、藤原基央さんなどといった方々と同様の結論に達していたのでしょう。 その根源を求めれば聖書のキリストの発言に遡ると思います。 第一の文章だけでは存在は成立しないので、第一の文章のみ成立し第二の文章が成立してない、存在するも存在しないも成立してない状態があるようにみえます。つまり、目に見えない世界がある。これを波動空間と定義します。 目に見える空間の存在は波動と波動の重ね合わせによって定まっている、のであれば、片側の波動を変えれば目に見える存在は変わる。というのを病気という現象に応用した時、病気にかかっている人間の波動が変われば病気も変わるのではないでしょうか?病も気から、という言葉がある通り、本人の波動、精神が病気という現象を定めているのではないでしょうか。 日本語の「と(溶)ける」、「と(溶/解/説)く」、「とろとろ」などの 表現において用いられている、古語における乙類の「と」として 用いられる発音は、現代の中国語の「荡(蕩・盪)ピンインdàng」 につながる表現の発音を流用したものではないかと思う。 万葉仮名で乙類の「と」の発音に当てられる頻度の最も高い漢字は、 「等」であり、古い中国語において想定される発音において、 「等」と「荡(蕩・盪)」と「湯」は似通っているように見える。 日本語において「湯」という漢字は、「湯治」の場合、「とう」と 読まれるが、もう1つの読み方は「ゆ」であり、これは、「ゆる(緩/弛)む」 の「ゆ」でもあるだろう。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 融 融 (OC *luŋ, “to melt (at normal temperature); to blend”) 鎔 (OC *loŋ, “to smelt; to melt (at a high temperature)”) 熔 (OC *loŋ, “to smelt; to melt (at a high temperature)”) 溶 (OC *loŋ, *loŋʔ, “to dissolve (in a liquid)”) 日本語と英語の間でも案外、発音とそのイメージに共通性が感じられる 事例に出会うことがある。例えば、日本語の「た(垂)る/た(垂)れる」と、 英語の「droop」、「drop」、「drip」などとの間には、何か重なり 合うものが感じられる。 日本語の「た(垂)る」という表現の「た」が対応する中国語の表現は、 「堕落(だらく)」の「堕(だ)」および「惰性(だせい)」の「惰(だ)」 だろう。中国語においても「堕」と「惰」の発音はほとんど重なって おり、さらに、日本語において「惰」は、「おこ・た(惰)る」という 表現にも用いられており、「おこ・たる」の「たる」は、明白に 「た(垂)る」と共通している。 だらしない 大辞林 第三版の解説 ( 形 ) [文] ク だらしな・し 〔「しだらない」の転。近世以降の語〕 「しだらない」であれ、「だらしない」であれ、これらの表現形成 の中心となっているのは、「た(垂/惰/堕)る」であり、「〜ない」 は「極まりない」を表すように用いられている。 存在論は哲学の柱だったが、いまや素粒子物理学がすごすぎて圧倒されてしまっている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる