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0001じゃろろ? 
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2017/07/24(月) 20:37:16.630
ウムの食い込みパンツョックんどんじゃろ?
復活じゃろろ?

           (  ,,ー一'  '´'-‐‐', ノ
            !◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟丿
            ( ,,ー一' '´'-‐‐',ノ     どどんじゃどどんじゃどんどんどん
             ) "ー=::=-', ヽ      どんじゃどどんじゃパンツョックん
             /\ ヽニソ  ,/、      ウムの食い込みパンツョックん
            人   `ー'  .ノ\
        , -''" ̄⌒ヽ, , `.( )``ー;.''~´`丶、          
       (  ,--一''" ~`〜〜''"~ ー--、   )           
      /  ::|                (_ヽ \、
      (。mnノ                 `ヽ、_nm
0851考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:11:09.900
ちなみに、菅原道真と宇多天皇が、遣唐使を白紙に戻したのはその十年後の894年
0852考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:11:45.780
「もう、唐から学ぶことがなくなったから」と小学校の教科書には書いてあるが、
実際には、唐は黄巣の乱で事実上、滅んでいた
0853考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:13:15.470
黄巣の本拠地の山東省から、南の広東省までを荒らしまわった
0854考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:13:26.130
北京は関係ない
0855考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:13:56.630
朱 全忠(しゅ ぜんちゅう)は、五代後梁の初代皇帝。廟号は太祖。
諱は初め温であったが黄巣の乱の際の功で唐朝より全忠の名が下賜され、さらに皇帝即位後に晃と改めた。
0856考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:15:02.420
大中6年(852年)に宋州碭山県の牛溝里に田舎儒学者であったとも伝えられる
朱誠(朱五経と称された)の三男の朱温として生まれる[1]。
家は貧しく、少年時代に父を失ったため、2人の兄と共に母の王氏に連れられ
親戚に当たる蕭県の富豪の劉崇の家で小作、いわゆる畑仕事や家畜の世話をやっていた[1]。
0857考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:15:17.570
だが農耕を嫌った朱温は学問と武芸に励んだ。
畑仕事などは平凡で退屈な仕事と頭から馬鹿にして少しも精を出さず、
長じて気性も荒くなったため[1]、里人の多くは彼を嫌い、
度々主人の劉崇から杖や鞭で咎めを受けていた[2]。
0858考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:15:33.440
朱温は特に武術に興味を示し、独学で棒術や拳法を覚えて腕をあげていき、
たちまち暴れん坊になったため「ごろつき朱三」(朱家の三男の意)
と呼ばれたという[2]。劉崇はそんな朱温を嫌ったが、劉崇の母だけは
「朱三は只者ではない。お前たちよ、あの子によくしておやりよ」と
言って高く評価し、常に朱温をかばったという[2]。
0859考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:15:53.140
朱全忠は漢人で、チンピラヤクザのゴロツキ
0860考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:16:27.470
黄巣の乱が勃発すると、次兄の朱存と共にその家から出奔して、参加し頭角を現した(朱存はその中途で戦死したといわれる)。広明元年(880年)に黄巣軍が長安を落とした後、夏州節度使であった諸葛爽を投降させる。
0861考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:16:51.080
その後東南方面の先鋒を任され、南陽を攻め落とすなど軍功を立てていったが、河中の節度使であった王重栄率いる数万の軍に何度も敗れたため、
黄巣に救援を求めたが、左軍使の孟楷によって要請を握り潰された。
また兵士の内に黄巣軍の形勢が悪い風聞が流れたため、朱温は側近たちと語らい、黄巣から派遣された監軍使の厳實を斬り、王重栄に投降した。
これを聞いた時の皇帝僖宗は「是天賜予也」と喜んだといわれる。
0862考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:17:09.140
その後朱温は官軍側として黄巣軍を諸侯軍とともに長安から追い落とした。この戦功で、朝廷から左金吾衛大将軍、河中行営副招討使の地位を与えられ、皇帝に忠誠を誓う意味である「全忠」の名前を賜った。これ以降、朱温は朱全忠と呼ばれるようになる。
0863逆レオナルド ◆/lQMO72QVo
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2018/02/24(土) 08:17:14.550
ぶりっ💩
0864考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:18:00.660
三国志だと、黄巾の乱が勃発して、それを孫堅・曹操・劉備・袁紹をはじめとする
群雄たちの連合軍が征伐しにいくのが序盤のハイライトなんだが
0865考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:18:24.350
黄巣の乱ではそうならず
0866考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:18:52.380
反乱軍の主役のひとりである朱温が、黄巣を裏切って唐に降った
0867考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:19:09.240
裏切り者は、唐を滅ぼして天下を取った
0868考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:19:27.700
ヤクザあがりのゴロツキなので、天下を取ってからも粗暴
0869考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:19:46.400
曹操や劉備のような人気者になるなど、あり得ない人物
0870考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:20:10.340
もはや、三国志のような騎士道精神にあふれる時代ではなかったのだ
0871考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:21:18.520
節度使に昇進した朱全忠は、黄巣に対し共に戦った李克用と朝廷内部での主導権を巡って争った。軍略では李克用に遅れをとる朱全忠だが、政略や謀略では李克用に勝った。
また李克用が武略一辺倒だった事も両者が対立した一因となった。
最初、朱全忠は李克用に礼を尽くし、黄巣の乱で黄巣軍に押されて支えきれなくなった際、李克用に救われた恩義があったため、朱全忠は李克用のために盛大な宴を開いてへりくだって応待した[3]。
しかし一本気な李克用は朱全忠の存在が頭から気に食わず、この丁重な応対もかえっていやらしく見えたという[3]。
朱全忠が救援してくれた事に丁重な礼を述べても、李克用は「朝廷のために賊を討っただけであり、貴殿に礼を言われる覚えはない。それに黄巣は貴殿の元の君主。
さぞや戦いにくいでしょうな」と憎まれ口を叩いたという[4]。
だが朱全忠は怒りを抑えて作り笑いを浮かべながら李克用を手厚くもてなした[4]。
そして李克用と部下らが酩酊したのを見計らって自軍の兵を率いて李克用を襲撃した[4]。
酩酊していた李克用は部下に水をかけられて目を覚ますと直ちに応戦し[4]、
折からの大雷雨も幸いして朱全忠軍の包囲を破って城外に逃げ延び、ここに朱全忠と李克用は不倶戴天の仇敵同士として争う事になった[5]。
0872考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:21:35.870
武略一辺倒の李克用は朱全忠の政略と謀略の前に次第に押さえられていった[5]。抗争に勝利した朱全忠は朝廷の実権を掌握するに至った[5]。しかし、この頃の唐は長安一帯を保持するだけの地方政権に過ぎなくなっており、各地にはかつての節度使らが群雄となって割拠していた。
0873考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:22:17.440
天祐元年(904年)1月、朱全忠は昭宗に圧力をかけて遷都を行い、都を自分の拠点である洛陽に遷した[5]。
ついに8月に仮子の朱友恭と氏叔jに命じて昭宗を弑して、その九男である13歳の哀帝を帝位に即け、禅譲の準備を整えた[6]。
後に彼は朱友恭と氏叔jに罪を着せて誅殺した。
帝位を窺う朱全忠を、長兄の全cは「朱三よ、汝が天子になろうとは何たることか。
元をただせば黄巣の一味のおまえを引き立てて下さった陛下のご恩に報いるどころか、三百年の社稷を簒うとはこの愚か者め!」と罵倒した[6]。
しかし、その直後に長男の友裕が早世したために、朱全忠は悲嘆に暮れた。
0874考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:22:49.970
天祐2年(905年)には腹心の李振・蒋玄暉らの進言によって唐の高官らを黄河へ沈めるべきとの建言を受け、興味を示した朱全忠は実行に移した。
こうして、唐の高官であった裴枢・独孤損・崔遠・王溥・趙崇ら30余人を自分の根拠地である河南の県尉などの下級地方官に一斉に左遷して、任地に向かわせる途中の白馬駅で処刑し、その遺体を黄河に放棄したと伝えられる(白馬の禍)。
この事件をもって中国における貴族制は完全に崩壊したと考えられている。
0875考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:23:42.580
こうして、黄巣の乱の裏切り者・朱全忠は天下を取った
0876考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:24:08.750
白馬の禍で、唐の貴族たち数十人を虐殺して黄河に捨てた
0877考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:24:44.460
日本に例えれば、天皇家が廃され、源平藤橘の貴族が皆殺しに合うようなもの
0878考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:25:06.530
古代から続く高貴な家柄は、ここでほとんど尽きた
0879考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:25:30.210
貴族の時代は終わり、武人の世となる
0880考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:25:58.610
同じく武士の世となった日本では、京都で藤原系の摂関家が幕末まで続いた
0881考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:26:29.930
それに比べると、唐末に貴族が皆殺しにあったシナのほうが、変化は劇的
0882考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:26:58.230
それが大陸の厳しさだ
0883考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:28:14.710
李 茂貞(り もてい)は、唐末から五代十国時代の岐の王。深州博野(現在の河北省保定市蠡県)の出身で初名は宋文通。
0884考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:28:35.800
初め唐の近衛兵である「神策軍」の一兵卒であったが、黄巣の乱の鎮圧で名を挙げて僖宗に近侍を許された。やがてその軍事的功績により節度使に任じられて国姓である「李」姓を与えられて李茂貞と名乗るようになった。
0885考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:29:11.760
大順元年(891年)、隣接する興元節度使の反乱を鎮めてその本拠であった漢中を支配すると朝廷が派遣する後任節度使を妨害し、腹心を留後(代官)として派遣したため、
実質的に2つの節度使を兼任する事となる。これに激怒した昭宗は乾寧2年(894年)に李茂貞討伐軍を起こすが、
李茂貞が倒された場合に次の粛清の対象となることを恐れた他の節度使が朝廷への協力を拒んだために討伐は失敗、李茂貞が関中全域を平定する結果をもたらした。
0886考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:29:31.090
これに勢いづいた李茂貞は光化4年(901年)に昭宗に迫り岐王に封じられた上に、
昭宗を自分の根拠である鳳翔に遷して遷都を宣言した。この時十道二十州を統治した
李茂貞は帝位を窺える勢力を有するに至った。
0887考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:29:51.430
急速な勢力拡大を遂げた李茂貞に対して、他の節度使が激しく反発し、朱全忠や李克用ら有力者が打倒李茂貞へ動き出す。天復3年(903年)に鳳翔を包囲した朱全忠は蜀の王建と結んで挟撃、李茂貞は昭宗を朱全忠に引き渡して降伏した。
0888考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:30:28.990
領土も二道七州に削減され,没収された領地は朱全忠と王建によって分割された。
天祐4年(907年)、唐から禅譲を受けた朱全忠は後梁を建国する。
この動きに合わせ各地方の藩鎮も次々と地方政権を樹立し
「王」や「皇帝」を自称するに至った。
先の戦いで勢力を削がれた李茂貞も王府を開き、
百官を設置し自立政権としての体裁を整えた。
0889考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:30:56.860
後唐の荘宗李存勗が後梁を滅ぼすと、天祐21年(924年)に李茂貞はその圧力に屈してその領土を荘宗に献上し、岐はここに滅亡した。
荘宗は降伏した李茂貞を後唐の諸侯王として秦王に封じたが、
ほどなくして病死し、鳳翔県(現在の陝西省宝鶏市金台区陵郷陵村の東)で妻劉氏との合葬墓に葬られた。
1998年にこの墓が発見され、1999年11月と2001年4月から9月にかけて発掘調査が行なわれた。その報告集も公刊されている。
0890考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:31:47.550
朱全忠と李克用の連合軍に敗れたとはいうものの、李茂貞もまた重要な唐末群雄の1人
0891考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:32:06.530
天下を取れなかったので認知度は低い
0892考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:32:41.600
朱全忠・李克用・李茂貞の唐末三大勢力
0893考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:33:04.560
三国志でいえば、李克用だけは呂布みたいな粗暴な英雄だけど
0894考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:33:36.740
後の2人はちっとも英雄っぽくないので、盛り上がりに欠ける
0895考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:35:29.380
李 嗣源(り しげん)は、五代後唐の第2代皇帝。
0896考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:36:08.240
天成元年(926年)に即位した明宗は、都を洛陽から開封に遷した。宰相として馮道を登用し、内政に注力した。宦官の勢力を抑制し、支配地に大規模な検地を行なって税制の整備を行なった。
また、自身も奢侈を禁じて倹約に努め、三司徒を創設するなど、内政に多大な成果を挙げた。
また代州出身の異民族として漢民族に君臨することを悩み、夜な夜な香を炊いて天を祭り「私は異民族出身なので天下を整えることが出来ません。
天よ!願わくば早く聖人を生み、天下の民を助けて下さい」と漢民族の天子の生誕を祈ったといわれる[2]。
その謙虚さゆえに国内は安定して、明宗は五代の中でも屈指の名君とまで讃えられている。
0897考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:36:45.810
石 敬瑭(せき けいとう)は、五代後晋の初代皇帝。廟号は高祖。祖先は沙陀より太原に移住したと言われている。
石氏はタシケントを出自とするいわゆるソグド姓で、
ソグド系突厥と呼ばれる唐朝後半期から東突厥のもとで突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる[1]。
父の石紹雍(臬捩雞)は沙陀族長李克用の率いる軍閥に従って転戦した功により、洺州刺史に任命されている。
0898考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:38:03.510
幼少の頃に李嗣源(後唐の明宗)に認められ、その娘婿となる。同光4年(926年)の魏州兵変に際し、李嗣源と共に汴州に入り、その後洛陽を攻撃した。
明宗が即位した後、保義、宣武、河東の節度使を歴任した。その後、李従珂(末帝、廃帝)が即位すると、石敬瑭の勢力を疎んじるようになり、天平節度使に左遷されている。
その後、国内の反乱に乗じ、契丹の勢力を頼って皇帝を称した後に、契丹の兵を用いて天福元年(936年)に後唐を滅ぼし、後晋を建国した。
0899考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:39:03.650
即位後に燕雲十六州を契丹に献じ、毎年30万疋の絹を献上する盟約を結び、
自分より10歳年下の太宗を「父皇帝」と称し、自らを「児皇帝」と称した。
だが、こうした高祖のやり方に不満を持つ安重栄や景延広らと現状維持を続けて
その間で国力の充実を図るべきとする桑維翰らが激しく対立した。
0900考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:39:34.880
後に河東節度使である劉知遠が吐谷渾の部族の投降を受けていたため、
しばしば契丹からの問責を受け、天福7年(942年)に憤死した。
甥の石重貴(出帝)が帝位を継いだ。
0901考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:39:54.130
勢力の安定のために燕雲十六州を契丹に割譲し、さらに臣従したことから後世、特に民族主義の高まった近代では、漢奸の典型として、南宋の秦檜などとともに非難されることが多い。
0902考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:40:18.260
劉 知遠(りゅう ちえん)は、五代後漢の初代皇帝。廟号は高祖。太原の人
0903考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:40:44.410
テュルク系突厥沙陀部出身。父の劉琠は後唐の李克用の列校をつとめた。
はじめ後唐の明宗に仕え、その後は後晋の高祖石敬瑭に仕えた。
後晋の建国に大功を挙げたため、天福9年(944年)に幽州道行営招討使に任じられるなど軍の要職を歴任した。
石敬瑭が契丹に燕雲十六州を割譲しようとしたときは強く反対したが、容れられなかった。
0904考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:41:19.340
出帝のとき、後晋は契丹による侵攻を受けたが、劉知遠は軍を出さなかった。
そして出帝が契丹に捕らえられて後晋が滅亡すると、河東行軍司馬の張彦威に無主となった中原で皇帝即位を薦められたが、この時は拒絶している。
しかし天福12年(947年)2月、開封にて自ら即位して国号を「漢」とし、翌948年1月に乾祐と改元し、名をロと改めたが、同年に崩御した。享年54。
0905考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:42:12.820
郭 威(かく い)は、五代後周の初代皇帝。廟号は太祖。
0906考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:42:48.110
邢州堯山(河北省隆堯県)出身。郭簡と王氏の間の子。父は、晋王・李克用の時代に刺史に任じられたが、郭威が3歳の頃に、戦乱に巻き込まれて戦死したために家門は没落し、養母の韓氏に養育された。
成長した郭威は、一兵卒から立身して、劉知遠にその才能を見出され重臣となった。劉知遠が後漢を建国するに際し大功を挙げ、枢密副使にまで昇進している
0907考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:43:35.380
48年、劉知遠が没して劉承祐(隠帝)が即位すると枢密使に昇進する。さらに契丹を撃退するなど多大な軍功があり、人望を集めたという。
そのため、その実力を劉承祐に恐れられるようになり、一族を皆殺しにされた上、自身も命を狙われるようになる。このため、軍と共に逆に反乱を起こして劉承祐を殺害し、
劉知遠の甥(劉崇の子)の劉贇(順帝湘陰公)を皇帝に立てたが、間もなく殺害して自ら皇帝として即位し、後周を立てたのである。
0908考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:43:53.180
即位してからの郭威は、農村復興や節度使の統制、軍事力の強化など、内治に力を注いだという。
0909考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:44:26.480
家族が皆殺しにされてしまったために、郭威とともに行動していて難を逃れた甥の柴栄(妻柴氏の兄の柴守礼の子)
が後継者(世宗)となった。
0910考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:44:49.330
柴 栄(さい えい)は、五代後周の第2代皇帝。廟号は世宗。五代で随一の名君とされる。
0911考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:46:00.610
即位後、郭威が死んだ隙を突いて、北漢が契丹の援軍を得て侵攻してきた。
両軍は沢州高平(現在の山西省晋城県)で激突、
序盤で自軍の一部が北漢に降り窮地に陥る。しかし、世宗自ら矢石を冒して督戦し、
将軍趙匡胤の奮戦によって押し返し、北漢軍を撃破、逆に北漢の首都・太原を包囲した。
この戦いでは北漢を滅ぼすまでは至らずに退却する。
0912考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:47:00.400
節度使は、大きな軍事力、支配地に対する行政・財政権(軍民財の三権)を兼ねて持ち、軍閥化して独立・割拠の傾向が強く、五代を通じて戦乱の大きな原因となっていた。
また後唐の明宗の時に禁軍として侍衛司が整備されていたが、歴代の皇帝がこれを優遇しすぎたために、恩賞が約束されないと戦わない驕兵となっており、再編成のための老兵の解雇さえ困難だった。
対して、柴栄は新たに殿前軍を編成し、節度使の配下から優秀な兵士を引き抜いて殿前軍に組み入れ、その指揮権を皇帝のみが持つようにした。
こうして節度使の弱体化と禁軍の強化=皇帝権力の強化が達成された節度使は、大きな軍事力、支配地に対する行政・財政権(軍民財の三権)を兼ねて持ち、
軍閥化して独立・割拠の傾向が強く、五代を通じて戦乱の大きな原因となっていた。また後唐の明宗の時に禁軍として侍衛司が整備されていたが、
歴代の皇帝がこれを優遇しすぎたために、恩賞が約束されないと戦わない驕兵となっており、再編成のための老兵の解雇さえ困難だった。
対して、柴栄は新たに殿前軍を編成し、節度使の配下から優秀な兵士を引き抜いて殿前軍に組み入れ、その指揮権を皇帝のみが持つようにした。
こうして節度使の弱体化と禁軍の強化=皇帝権力の強化が達成された
0913考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:47:34.580
また廃仏令を出し、仏教勢力の力を弱め、法難と仏教側からは非難された(三武一宗の廃仏の4回目)。
しかし、それまでの廃仏で多かれ少なかれ仏教と対抗する道教側からの示唆・介入があったのに対して、柴栄の廃仏は純粋に経済・国家統制上の観点からのものであり、税・兵役忌避を目的とした出家や資産の寺院への流出の防止、仏教勢力からの権益の獲得を狙いとした。
これらによって増えた税収と没収財産は、軍事再編成の費用に当てられた。
0914考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:48:53.840
北周の武帝も、統一を目前にして倒れたものの、隋の楊堅による統一への道を開いた。

後周の柴栄も、統一せずして倒れたが、宋の趙匡胤による統一への道を開いた。
0915考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:49:18.310
この2人は、仏教を弾圧したところまで似ている
0916考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:49:42.810
歴史は繰り返すというが、これほど歴史的なポジションが似ているのも珍しい
0917考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:50:14.810
柴栄の後を継いだのはわずか7歳の息子・柴宗訓であった。しかし五代の先例に漏れず、すぐに軍内の兵士たちによる実力者擁立の動きが出てくる。それが柴栄に最も信頼された殿前都点検・趙匡胤である。軍部の推戴を受けた趙匡胤は柴宗訓より禅譲を受け、北宋を建てる。
殺伐とした戦乱の時代である五代十国時代では、前王朝の皇帝は殺されるのが通例であったが、柴宗訓は手厚く保護され、柴氏は南宋の滅亡まで実に約320年の間、勅命により優遇された。
0918考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:51:11.310
華北では、このような五代の興亡が続いた
0919考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:51:39.380
一方、南では、十国が分立した
0920考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:52:06.060
この十国が、日本でいえば戦国大名のように、各地で発展に力を注ぐ
0921考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:52:24.550
その結果、大陸は大きく発展した
0922考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:52:44.650
日本でいえば、戦国時代に相当する画期的な時代
0923考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:53:17.040
十国といっても、重要なのは大国の南唐
0924考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:54:21.830
つまり、五代十国といっても、実質的には、北の五代と、南の南唐による南北朝時代
0925考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:54:52.750
しかし、過去の南北朝時代とは異なり、福建省のビン、広東省の南越といった、もっと南の国々が栄える
0926考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:55:12.360
それだけ、シナの文明圏が広がっていた
0927考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:55:29.530
ベトナムが独立するのも、この時代
0928考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:55:55.400
遣唐使を廃止した日本も、国風文化に移行した
0929考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:56:24.120
南唐(なんとう、937年 - 975年)は、五代十国時代に江南に割拠した国であり、十国の一つである。
首都は金陵(現在の南京)。国号は単に唐であるが、唐と名乗った他の政権と区別するために、
特にこの国の名を南唐という。
十国の中では最大の勢力を誇ったが、華北の後周や北宋に攻め立てられて滅亡した。文化的・経済的には大いに繁栄していた。
0930考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:57:19.260
李 m(り けい)は、十国南唐の第2代皇帝(国主)。烈祖李昪の長男。初名は徐景通であったが、南唐建国後に李mと改名し、
さらに後周の臣下を称したあと後周の信祖郭m(太祖・郭威の高祖父)の諱を避けて李景と再改名した。
0931考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:57:49.930
即位後は内治に意を注いだ烈祖の政策を転換して外征を進め、保大3年(945年)に閩を、保大9年(951年)には楚を滅ぼして最大版図を築いた。
保大15年(957年)に後周の軍が南唐に侵入、南唐の領域であった淮南を占拠してさらに長江一帯に迫ると、李mは後周の世宗柴栄に使者を送り、臣称して帝号を廃止、国主を名乗って後周の年号を用いた。
元宗は政治面よりも文化面で名を残しており、詩、詞や書に優れ、特に「小楼吹徹玉笙寒」は不朽の名句であり、次代の後主李Uの作品とともに『南唐二主詞』に収録されている。建隆2年(961年)に46歳で病死した。
0932考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:58:26.830
南京に都をおく南唐は、華北の五代王朝と並ぶ二大勢力のひとつ
0933考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:58:53.920
実質的には、五代と南唐による南北朝時代であった
0934考える名無しさん
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2018/02/24(土) 08:59:27.670
南唐最後の皇帝・李イクは、詩人として有名
0935考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:00:05.620
宋に滅ぼされ、開封で幽閉された後、かつての栄華を懐かしんで作った詞が絶品
0936考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:00:35.770
かつて、隋に滅ぼされた南朝・陳の後主も、詩人として有名だった
0937考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:00:55.540
歴史は繰り返すというが、非常によく似ている
0938考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:02:22.410
十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者・楊行密は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧、一時は北の後梁と互角に争い合う程の勢力を誇った。
しかし呉では楊行密の死後は配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子・徐知誥によって簒奪される(937年)。
徐知誥は簒奪後に名前を変えて李昪と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」とした。後世の歴史家からは南唐と呼ばれる。
0939考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:02:49.030
同時期に南の浙江では、呉越が勢力を張った。建国者・銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。
0940考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:03:19.910
呉越の南の福建では、節度使・王審知がこの地を制圧して閩を建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。
0941考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:03:53.720
西に目を向けると湖北には荊南(南平)、湖南には楚、広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。
楚は茶の貿易で栄えた国で、建国者・馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。
南漢の統治者の劉隠はアラブ系と言われており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。
しかし後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した
0942考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:04:39.410
四川は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀・後蜀の両蜀政権である。
前蜀の建国者・王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年、後唐によって滅ぼされる。
その後、この地の統治を任された武将・孟知祥が自立して934年に後蜀を建てた。
後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの詞を集めた『花間集』の編纂はこの時代の文化を伝える上で大きく貢献した。
0943考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:05:06.800
中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、
国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。
だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。
0944考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:06:15.770
華北の梁唐晋漢周
0945考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:06:40.620
南京の呉・南唐
0946考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:07:00.460
この2大勢力による南北朝時代
0947考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:07:27.750
しかし、南には諸国が林立
0948考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:09:17.860
浙江省の呉越、福建省の閩、広東省の南漢、湖北省の荊南、湖南省の楚、四川省の前蜀・後蜀
0949考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:09:47.860
要するに、シナ南部の諸省が、ほとんど独立国だった時代
0950考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:10:06.460
中国分裂論者にとっては、理想的な時代といえる
0951考える名無しさん
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2018/02/24(土) 09:11:09.540
荊南(けいなん、907年 - 963年)は、中国の五代十国時代に現在の湖北省を支配した国。弱小ながら、交易の中継点として栄えた。南平(なんぺい)・北楚(ほくそ)とも。
ただし、実際には中原の五代王朝の節度使の1人に過ぎず、独立した国家ではなかったとする異説がある(後述)。
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