意味論 [無断転載禁止]©2ch.net
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「意味」が意味空間(または意味の場)における位置(あるいは値)であるとするならば、 その「意味」以外の可能性としての「意味」がある。 意味空間とは、テンソル積を考えなければ、対称性でもある。 より大きな対称性が破れることでうまれた対称性である。 そのように考えれば、「意味」は「対称性の破れ」によってうみだされる。 どの意味を取るのかは射影であり、それぞれの意味の世界があるとすれば多世界であり... 「=」が対称性における同値性をあらわすのだとすれば、 意味とは=でむすびつけられた同値性である。 命題の意味が真偽値であるとするなら、命題と真偽値には対称性がある。 とても興味深い。 問題は意味空間だ。認識論的な意味空間はどうにでもなるのでどうでもよいw 存在そのものが意味であり、もはや存在と意味の区別はつけられないのではないか。 と、くだらないことを考えてしまった。 意味とは同値であるということであり、 値そのものが意味というわけではない。 意味函数があるとしても、その値が意味なのではなく、 意味函数によって得られる値が同じになる、ということが意味である。 意味函数がひとつしかないとすれば、その値は情報であり、 意味函数そのものが情報函数であるということになる。。 情報意味論か。考える価値はありそうだ。 意味比較函数あるいは情報比較函数。 AssertEqual 同じ意味空間(情報空間)への写像がコミでないといけない。 となると、意味の(情報論的)な形式化が可能であり... そうなると、値としての「意味」も形式化可能だ! (情報論的に)「意味」を「理解」するAIがつくれる、ということ。 もうすこし考えを整理してから制作してみよう。 >>89 >意味とは同値である そんなわけないだろw より正確にいえば、 意味の意味とは意味函数の値が同値ということであり、 意味の評価は同値関係しかない。 意味函数の返す値が「意味」なのではなく、 同値関係ということから意味函数自身が「意味」であるとしてもよい。 これはチャネル理論を読みかえただけである。 やはり哲学には「圏論」が必要だ。 codomainが同じということが意味の意味であり、同じでなければそこに意味は無い。 これを「認知」と考えることで、人工認知意味論が...w ・意味の抽出 ・意味の比較 ・意味データベース 吟味中。 状況意味論ではなく、状態意味論あるいは状態認知意味論か。 ま、情報意味論でいいやw 同型あるいは準同型。ま、そのへんは圏論と相性がよい。 そもそも、圏論は数学における「意味」をあらわすものだともいえる。 「圏」とは、よーするに「同じ意味」だといっているわけだw そこで、逆転させて「意味(の意味)とは同じということである」としてみた。 対称(性)意味論でもいいかな。 ふふふん。 結局のところ、チャネル理論やChuSpaceでできることは全部、圏論でまかなえてしまう。 ただ、圏論は抽象的すぎてつまらない。 ま、意味論の周辺では、圏論を活用した研究がいろいろと精力的におこなわれている。 いろんな学会誌を探るべし。 だが、圏論を用いても、なにを「意味」とするのか。なかなか難しい。 「圏」なのか「自然変換」なのか、 「対象」なのか「射」なのか。 意味が同値性のことであるなら A⇔B C⇔D の意味を区別できないね はて? おれの考えている意味論(意味ネットワーク)だと区別できるが。 つーか、区別できるように繋がっている。 ノードとエッジ。よーするに点と線である。 点から必ず3本の線がでるようにして、全体を閉じる。 そうすると、すべての線はなんらかの対称性をあらわすものでもある。 この対称性が「意味」なのではないか。 そう考えれば、「意味」は(意味ネットワークにおける)「線」であり、それは「対称性の破れ」である。 そこにみえてくるのは4つめの「線」であり...こいつが曲者だ。 時間だったり重力だったり。へたするとループ量子重力時間理論が... われわれは、なんらかの表面上の世界にいる。ブラックホール的な何か。 これが無いと、意味ネットワークは収縮してしまう。 意味論がだんだん超対称性理論にみえてきた。 意味というものは、不変性に対する変換演算子と同一視できるのではないだろうか? 圏論的には函手間の射、すなわち自然変換が「意味」なのかもしれない。 意味論としての物理、意味論としての数学。 意味論としての哲学w 思弁的意味論。相関主義を徹底的に排除した意味論? そう考えていくと、圏論とは不変性を記述する言語である。 意味(の意味)とは「同じということ」、すなわち「不変性」。 とすれば、「意味」は「圏論」によって記述可能だ。 「実体」はなにもない、対象物間の射にすぎない。 ただし、下部構造には立ち入らない。上部構造のみを扱う。 「意味」とは、上部構造における「圏」が「等価」である、ということ。 いや、「意味」を「圏」とすれば、「意味」の「意味」が「等価である」ということだ。 数学における「存在」とは、自然数の公理と集合論の論理から定義できるもの「だけ」である。 そうすると、数学における「意味」とは、数学言語で表されるものだけであろう。 圏や関手や自然変換すらも、対象であるかぎりidentityを持つ。 数学的対象はidentityを持たねばならない。 哲学的圏論において、identityは対象自身が持つのか外部から与えられるのか、そのへんから違いが生じるの、かも、しれない。 それを「現象」とするとき、「現象」のidentityは「どこ」にあるのか。 数学的圏論が、対象や射から圏や関手や自然変換へとたどるのであれば、 哲学的圏論は、「現象」からその内部構造へとたどり、identityを求めるもの、でなければならない、のかもしれない。 そうなると、哲学は数学と逆方向であり、究極の「意味」とはidentityのことなのだろう。 identityを自己愛ととらえるなら、それは「煩悩」であり、(西洋)哲学は「煩悩学」であるw 「煩悩」と書いて「モナド」と読んでしまおう。 さて、意味論の意味は「煩悩」を暴くことで浄化するということではない。 今回の、今の宇宙で最長不倒距離(時間?)を目指すことであるw われわれは、そのような「競技」に参加している。それでいいのだ。 いろいろ考えたが、「意味」とは結局、「存在」のことである。 「存在」の有り方/在り方。 それは「対称性」。どのような/どのように、「対称性」を持つのかが「意味」である。 「意味」に先立って「必然性」がある。 「必然性」あるいは「必然的偶然」が生まれるのは「無秩序」ゆえである。 ざっと暴力的/短絡的につなげてしまって結論してしまうならば、 「意味」は「無秩序」からうみだされるw 「神の数式」を視聴しなおし中。 「無」とはなにか。 「無秩序」である。とりあえず、そのように考えてきたが、 「無限(大)」であってもよい。 「無」とは「(有の)すべて」である。 これを等価とすることで、すべてが解決できる? かもしれない。 意味論における究極の問いが「無」であれば、至高の問いは「すべて」であろうw これをつなげた超対称性から「意味」が紡ぎだされる。 意味のものさしはおもしろい形をしている。こいつが「大きさ・長さ」のようなものの根源ということになる。 であれば、これが「神の数式」であらわされていものの「はず」である。 「意味論」と「超弦理論」は「同じもの」である。 ひととおり考えてやっと「対称性・対称群」がつかめてきた。 これでエドワード・フレンケルが読める。「数学の大統一に挑む」。 書店でみつけて、ああこれは買ってあったはずだと気づいたが、部屋のどこにあるのか探しだせる自身がなかったので図書館から借り出してきた。 ラングランズ・プログラム。そうでなきゃエルランゲン・プログラム。 といっても、数学屋ではないので、これらには立ち向かわないw 哲学屋でもないので、哲学にも適用しない。 でもって、ちょいと番組表みてたら放送大学で日本語リテラシーやってたので録画。 「接続関係」。これも「対称群」である。そのように読み解ける。 「対称群」によって哲学を含めて文学から数学・物理などすべてが「大統一」できるだろう。 この「対称群」そのものの「(存在)理由」を探求することができるのは「哲学」だけだ。 「美しさ」を求めるのではなく、「美しさとはなにか」を求める。 哲学におけるすべての問いの根源は「美しさとはなにか」である。(ただし、思考者としての人間を前提としない) 「数学の大統一に挑む」(原題は Love and Math -- The Heart of Hidden Reality) を再読していて気づいた。 素粒子理論と、考えていた量子ゲートによる論理学・集合論の再構築との類似性。 こりゃー、ジョージ・レイコフの認知意味論(Women, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal About the Mind. )も、対称群の立場から読み直してみるとおもしろそうだ。 文系理系を超えた超大統一理論。ありだよなぁ。 無から有を生み出すKobayashi-Maru的手法。(チートかよ) 「神」とはCheatのaliasである。 む、自身->自信 自信が自身となるようなcheatということか。デカルト的cheat 意味は言語がさすものという単純なことではない。 意味深である。 「意味」というものを仮想粒子として扱えばよい。 「意味の素粒子」 そうすると、「意味」とは「ひも」の振動によってもたらされるものであるw 「意味」というものを数学で捉える/捕らえるならば圏論における「自然変換」が適当だろう。 なんて考えてしまうと、「意味」=「圏」でよい。 そうすると、超弦理論もまた「圏論」の現物的な姿であり... 「ひも」とは「煩悩」そのものであり、「煩悩」によってこの世界がつくられているとw 「対称性」とは、なんらかの操作に対する「不変性」である。 そうであるならば、 「意味」とは「意味の時空間(意味場)」における意味的対象(存在)間の「不変性」であろう。 「意味」とは「対称性」のことである。 量子論・素粒子論・超弦理論など、どれも(現象に対する)意味の意味を探るものである。 「対称性」は「不変性」と、その「つながり(関係)」からなる。 圏としての不変性や、関係としての自然変換もこれに含まれる。 でもって「対称性」そのものにも「対称性」があり、対称「群」となる。 これらすべてを巻き込んでw「意味とは対称性のことである」と。 この巻き込みが超・大統一理論を... 哲学も文学も科学も、「対称性」に陥る/還元されるとすれば... >>117 意味の意味を考える議論。 もちろん、意味の意味の意味の意味・・・という無限の議論になる。 夢をみた。 「哲学の本質は『美学』にあり、『美学』とは『意味』をみいだすことであり、『意味』とは『対称性』のことである」 「意味」というものを「対称性」「だけ」に求める。 計算モデルを構想中。 「理解」という言葉の意味を再定義しなければならないが、 「美」とは「理解する」ということである。 より明確に語りかけてくるものだけを「美」と呼んでもよいだろう。 そこにはエネルギー的流れがある。 [いみ]って読ませて53って連想させて35とあわせて88にしようってGの宇宙企画 で [なに]って読ませて72を連想させたのを88倍すると4桁になるアレ なかなかよく出来たデザイン 対称性を捕らえる/捉えることが意味であるとすれば、 意味の意味とは対称性の対称性である。 必ずしも無限連鎖せずに「収束」するかもしれない。 不動点でもよいかもしれない。 ループが形成されたとき、それは自己同一性を持ち、存在となる。 意味が存在をつくるということ。 電磁波的な意味と存在の波動?いや、波動が存在か。意味とペアになるものはなにか? ん? 意味と存在で実在? 破れが実在をつくる? はたしてなりたつのか? これがサンタからのプレゼントかも... 意味とは記号表現に起因する記憶情報の平均値のことである 「意味」と「存在」。 どちらも波動であって、クライン–ゴルドン方程式によるものであるとすれば... 遅延波と先進波から意味と存在が読み出される。 実在化による存在ではなく、 意味波と存在波の合成による実在化。 でたらめな考えだがおもしろい。 意味とは(何かと)「同じ」ということであり、 存在とは(何かと)「違う」ということである。 どちらも空間を伴う。どちらもその空間内での位置である。 意味と存在を合成して実体化させるのか、 実体を意味と存在に分離するのか。 意味を宇宙際タイヒミュラー理論で説明するとどうなるの? 意味をどこにとるかだなぁ。 タイヒミュラー空間とは変換函数の集合であり、 宇宙際とは、数学的な議論領域間のことであり、 合わせて、異なる数学的な議論領域間での変換空間のこと。 変換こそが意味である、とすれば、タイヒミュラー空間が意味の場、かもしれない。 宇宙際なんたらと関係なく、タイヒミュラーによるタイヒミュラー空間があります。 ただし、宇宙際タイヒミュラー理論では、積による部分の変換においてなんらかの値がでてきます。 ゆがみかもしれないし、ギャップかもしれない。 それが「意味量」となるのかもしれない。 これを考えると、テンソル積のとりかたが「意味」なのかもしれない。 かならずしも線形に展開する必要もないし、可能な次元全体に展開する必要もない。 ええと、そう、あれだ、基底状態だ。 どのような基底状態に変わるかということが意味をうみだす。 ということは基底状態こそが意味なのかも。 ひとつ、ふたつ、みっつ ひ、ふ、み 「ふたつ」の「ふ」は、中国語の「复(複)ピンインfù」を流用したものだと 考えることができるけれど、すると、「ひとつ」の「ひ」は、中国語の どのような表現を利用したものだろう、としばらく考えていた。 「ひとつ」の「ひ」が、「ひと(等)し」の「ひ」や「ひと(人)」の「ひ」 と共通していることは明らかだ。これを手がかりにすると、発音の点 からも、意味の点からも妥当と思われる答えはすぐに見つかる。 「一匹、二匹、...」の「匹」である。「ひとつ」であることは、 その語源においても相対(/当)性により表されていることになる。 cjjc.weblio 「匹 ピンインpǐ」、匹敵する,相当する,釣り合う. wiktionary † to match; to be equal 匹配 ― pǐpèi ― to match 匹敵 / 匹敌 ― pǐdí ― to be equal ひつ 〖匹〗 ヒツ・ひき たぐい 1. 二つが組になる。対(つい)になる。つれそう。 「匹偶(ひつぐう)・匹敵・匹儔(ひっちゅう)・好匹・良匹」 2. ひとり。ひとつ。「匹夫・匹婦」 事実関係として「ひと(人)はみなひと(等)しい」というわけではない。 そうではなく、「ひと(人)」が等号、"="なのである。 だから、誰にとっても、「ひと(人)」のことは「ひとごと(他人事)」、 "gleichgültig"なのだ。 こういうことを指摘するのは、私しかいないわけだが、 こういうことに気づいたのが私だけだとはまったく思っていない。 他の人々、特に国語学、日本語学、言語学の研究者のなかには 確実に気づいた人々がいるはずなのに、誰も指摘する人がいない。 これが世の中のとても奇妙なところだ。 まるで「王様は裸だ!」と叫んではいけないかのようだ。 >>136 こじつけで客観性を得るのは無理じゃない? そのとおり。 人は、「気づかされてしまう」という形でしか説得されない/ 納得しないのです。 人は、ひとたび「気づかされてしまう」と、いくら気づいていないふり をしても、気づいていることが暗黙のうちに振舞ひに顕れてしまう。 己が、己の振舞ひによって裏切られるのです。 《trahir》、「〜を裏切る」、「〜を暴露する」とは、そういう意味なのですよ。 人は他人の話を聞く場合にも、相手の言葉の意味や論理関係、言外に 伝えようとしている意図に注目しているだけでなく、相手の発話行為に おいて「裏切り」として露わになるものにも注意を払っていて、 むしろ、言葉の明示的な意味の方が、「裏切り」によって露わになる ものから解釈される。だから、たった一言のつぶやきがとても重かったり、 重大な結果を招きかねないことに対する警告が、伝え方が軽かったため に無視されたりする。 「意味」とは「関係」なのか、というと、 「関係」というものを同じ集合に属することであると考えるなら、 「意味」とは同じ集合に属するということだ、ということでもよいと思えてきた。 集合論的意味論。 「意味」というものをなんらかの集合に属するということだけに絞り、 その「集合」も、同じ集合に属する他の元だけを考え、集合自体には意味を求めない。 (集合論における「クラス」概念からの発想である) ともかく、「意味」を求めないことが「意味」であるw すなわち、「本質」ではなく「関係」のみを扱うという「科学」と同じ手法。 とすれば、それは「科学的意味」であり、科学哲学における意味論なのかもしれない。 抵抗は無意味だ。 匹敵すること、敵と対等であることが「(ひととして)数えられる/数に入る」 条件である。とても分かりやすい論理だろう。 Wiktionaryでは、中国語において「匹」と「比」が語源的に関連するものと 考える説が紹介されているが、「匹敵する」という表現と「比肩する」という 表現の類似性を考えてみれば、これは妥当な推論だろう。 >>144 万葉集は朝鮮語で書かれている、という発想と同じだな。 >>144 「(ひととして)数えられる/数に入る」ことについての考え方は、そのまま 数学における数の考え方の基礎とも共通しているだろう。 「ユークリッドの互除法」とは、「違うものを『比べる』ことによって、 『匹敵するもの』を数える手順を繰り返すこと」として説明できるはずである。 手順において現れる、数えられた「匹敵するもの」が、その都度、暫定的な 単位としての「1(ひと)」つである。 >万葉集は朝鮮語で書かれている、という発想と同じだな。 まずは、朝鮮語で同様のことができるかどうか、やってみせることだろう。 私は、朝鮮語については、韓国ドラマでよく使われるフレーズの意味を 少し憶えている程度にしか知らないが、日本語が朝鮮語と直接につながって いることを示そうとした本のいくつかに図書館で目を通した限りでは、 表現レベルでネットワークを形成するような説明は完全に欠落している。 岩波古語辞典にも、数多くの項目で朝鮮語起源とする記述が見られるが、 個別の事例で発音と意味が似ているという指摘でしかない。 >>132 >>147 ひとつ、ふたつと数えるとき、数詞の「ひ」は、「匹 ピンインpǐ」、 「匹敵する」こと、「相当する」こと、「釣り合う」ことを表しており、 数詞の「ふ」は、「复(複)ピンインfù」、つまり、「覆る」こと、 「反復する」ことを表していることが明らかになったわけだが、 このことから、さらに面白いことが分る。 「ひ」である、つまり、「匹敵する」ことは、それ自体としては、 「ひとし(等)さ」を表している等号、"equal sign"、「=」でしか ないので、「『1(ひと)』そのもの」は、不特定な潜勢態として しかあり得ない。ところが、値(あた・ひ/能ひ/与ひ)として実現 された「1(ひと)」は、既に「匹敵する」ことにおいて数えられた、 つまり、「反復する」こと、「覆る」ことにおいて現れる、 「『复(複)ピンインfù』における『匹 ピンインpǐ』」、 つまり、二分の一である。 >>148 君の書き込みのことをそう言ってるんだけど?w 数学の基本的な技法を伝えるときのメタ言語における存在論的な混乱が、 数学の初歩的な理解に無用な混乱を招き入れている。"1"は、等しさを 表しているだけなのだから、あらかじめ数値として「存在する」わけではなく、 同様に"π"も、直径に対する円周長の「比」なのだから、あらかじめ数値 として「存在する」わけではない。特定の円が与えられて、その直径の 大きさを「単位として規定する」こと、その行為によって初めて、 "1"が「数として与えられる(あた(与)ふ/あたひ(値)となる」、つまり、 「数値」となり、それにより、πも、その数値に対する比として3.1415... としてその特定の円の円周長を表す「数値」となる。数学者が自明の ものとして、数学の技法を説明するメタ言語においてこの存在論的な 区別を軽視していることが、初歩的なレベルで数学の技法をうまく 伝えることの失敗につながっている。 誤:「数として与えられる(あた(与)ふ/あたひ(値)となる」 正:「数として与えられる(あた(与)ふ/あたひ(値)となる)」 数学を分りやすくするために、円周率を「約3」として教えるべきか、 それとも「3.1415...」として教えるべきかを争そうのは、まったく 的外れな議論でししかない。 互除法や連分数計算において実行されている行為は、「匹 ピンインpǐ」 である性質、つまり、「ひと(等)しさ/1である様態」を近似することに よって、「比」を表現しようとすることである、と記述することができる だろう。 commensurable (adj.) "having a common measure" (as a yard and a foot, both of which may be measured by inches), 1550s, from Late Latin commensurabilis "having a common measure," from com "together, with" (see com-) + Latin mensurabilis "that can be measured," from mensurare "to measure, " from Latin mensura "a measuring, a measurement; thing to measure by," from mensus, past participle of metiri "to measure," from PIE root *me- (2) "to measure." 現実の生活において、「合理性」は、適用されるべきものではなく、 それを表現すること/表出させることが、試みられるべきものなのだ。 1である性質/ひとし(等)さ/自己(onself)は、対比において無限に近似しよう とすることを続けることによってしか捉える/同定することができないが、 その近似の精度は、数を順に数えるのに応じて高まり、その近似の精度の 表現であるとともに、1である性質/ひとし(等)さ/自己(onself)の裏である 他者性を対比において表出させたものがπである、と言えるのではないか。 日本語の起源が朝鮮語であるとは考えられず、日本語が利用している 中国語の表現が朝鮮語経由であると考えるべき理由もないが、それでも、 朝鮮語に入った中国語を参照してみることは、日本語の表現を考えるのに 役立つ。 日本語の「や」が、「やぶ(破)る」、「や(止)む」、「や(遣)る」、 「や(焼)く」などの表現において、おそらく、ドイツ語の"weg"に相当 するようなイメージで用いられているであろうことは前に指摘した。 しかし、「やは(和)す」の場合は、そのようなイメージで用いられて いるとは考えられず、むしろ、「よわ(弱)し」の「よ」のイメージと 似通っている印象を受ける。さらに、「やさ(優)し」の場合は、「や」 のイメージの解釈に明らかに多重性が生じていて、用法により、 まるで異なる意味合いで用いられているのを見て取ることができる。 ところで、日本語では「若干」は、「じゃく・かん」であり、「老若」 は、「ろう・にゃく」だが、朝鮮語では、「若干」は、「ヤッ(ヤク)カン」 だろう。現代の中国語では、「若」、「弱」、「蒻」はすべて、 「ruò」と発音されるようだが、「老若」の日本語の発音に反映される とおり、「ニャク」に近い発音であったとされる。「ニャク」発音から 「n」の発音を落とせば、朝鮮語のように「ヤク」という発音になる。 「やは(和)す」の「や」、「よわ(弱)し」の「よ」の発音が想起させる イメージは、おそらく、そのように「n」の発音が落とされた中国語 の「若」、「弱」、「蒻」などの表現のイメージと重なっていたのだろう。 >>151-157 数学を説明する場合のメタ言語における存在論的な混乱は、πを計算する ブラウンカーの連分数を考えてみると分りやすい。 π=4/(1+1^2/(3+2^2/(5+3^2/(7+4^2/(9+5^2/(11+... 以上のように順に数を数えることに応じて円周率を表す数値が計算されて いく。私のように数学操作そのものを苦手とする人間には、数学記号と 数字の羅列だけでは、何も理解できないので、これがどのような計算に なっているのかを具体的に考えてみよう。 円の直径×円周率=円周長であることは、学校で習う。 すると、この連分数では、円周率を求める割り算になっているのだから、 円の直径×円周率=円周長を変形して、円周率=円周長/円の直径を 表していると考えることができるはずである。この場合、 π=4/x という形をとっているのだから、分子の4が円周長を表し、 xで表した1+1^2/(3+...の数式の部分が、円周長を4とする円の 直径を近似することになっているはずだろう。さらに、この連分数の 数学的な正しさの証明の手続きなどについて、私は全く知らないものの、 最終的には円周率のπが求められるのだから、分母であるxの部分は 計算を進めるにつれ、4/πに近づいていくはずであり、したがって、 その逆数であるπ/4とxを掛けた(π/4)*xは、1に近づいていくことに なる。 そこで、実際にWolframAlphaのサイトで計算を試してみることにすると、 X=1+1^2/3までの計算では、(π/4)*(1+1/3)=π/3=1.04719... であるが、この計算において3までにとどめた3、5、7、9、11...と続いて いく部分を37までカウントして計算すると、 (π/4)*x=0.9999999999999953... と算出され、計算結果が次第に1に近づいていることが分る。 では、この手続きは、無限に続けることができるのだから、 この計算の答えは、「極限」において1という値に収束する と考えていいのだろうか。私は、数学の知識がないので、 数学用語として厳密に定義された「極限」の意味も、 「収束」の意味も知らないが、日常言語の用法に照らして、 確かに計算の結果は、1に「収束」していると言えそう な気がする。しかし、計算の手続きから考えて、その 計算結果に「極限」は存在しないはずだろう。そもそも、 (π/4)*x=という形で、πを用いているのだから、このπが このサイトでどのようなアルゴリズムを用いてあらかじめ 計算されているにせよ、その計算結果の数値に照らして xの部分の計算の精度を確認しているだけであり、参照 されるπの値も別の計算方法によって算出されたところ までの数値が確定しているだけの話だろう。 >日本語の「や」が、[...]おそらく、ドイツ語の"weg"に相当するような >イメージで用いられている こういうことを考えることが何の役に立つのかというと、そのように 暫定的に仮定してみることで、一見、ばらばらに見えるものを統一的に 考える手がかりが得られることだ。例えば、私は、古語の「やがて」と いう表現について、それがどのように構成された表現なのか未だに判断 がつきかねている。それでも、この「や」も、暫定的に"weg"に対応する ようなイメージで用いられていると考えてみるなら、その解釈が最終的に 正しくないことが判明することがあったとしても、一時的に考えをまとめる ことに役立つのだ。 (現代語)そのうちに。along the way/down the road (古語)そのまま。along the way/along the line すぐに。right away、 そのまま全部。all the way それが正当化されるか否かに関わらず、人はいつでもそのような推測を 働かせている。例えば、英語に接触する以前の日本語で「そふ」と言えば 「祖父」を表し、あるいは「そ(添/沿)ふ」として理解されただけだろう。 しかし、英語からソフトという言葉が入ってきて、ソフト・クリームなど の名称で日常的に「ソフト」という発音と柔らかいイメージを結び付ける 言葉の用法に慣れると、似たような発音を聞いただけで、それが柔らかい イメージを想起させることになる。だから、柔軟剤の商品名として「ソフラン」 や化粧品の商品名として「ソフィーナ」という名称を聞くと、「ソフ」 だけでは英語としては意味を成さないにもかかわらず、また、その命名が どのような意図によるのか明確に知らないにしても、それらの名称が付けられた 商品を「柔らかい」イメージに関連付けて捉えることになる。これは、 人々が特に意識することもなく、自然に働かせている推論である。 >>162 この関係は、こう言い表すこともできるではないか。 円周長が単位として数えられる確定した/規定された値を有するならば、 その単位は、いくらでも正確に近似することはできるものの、その 値は、確定したもの/規定されたものと見なすことができず、逆に 単位を確定した/規定された値と見なすならば、円周長は、その 単位を数えることによっていくらでも正確に近似することはできる ものの、確定した/規定された値を有すると見なすことはできない。 したがって、1を特定の値と見なすならば、その1を直径とする 単位円の円周長を表すπは、決して確定した値であることはなく、 逆に円周長を表すπを確定した単位と見なすならば、直径を表す 1は、確定した値であることはあり得ない。 測るために用いる単位と、測られる大きさについて、視点が交互に入れ代る ため、どちらもあらかじめ規定されて与えられているという錯覚が生じるのだ。 数える行為に先立って数が存在すると信じる、根拠のない奇妙な形而上学が 数学神秘主義につながる。 円周率とは、数を順に数えることに応じた、「数えるための単位/ひとしさ」 の規定の無限後退の表出/表現であると言えるのではないか。 円周率を数値として求めようとするとき、いくら計算しても、計算してしまう までは数値の定まらない小数点以下の桁が無限に続いていくので、計算の 対象である円周率の方が捉えがたく逃げていくような印象を受ける。 しかし、円周率が数値として与えられているものとしてその数値を 追求するとき、実際に無限後退を迫られているのは、数値を数えるための単位、 つまり、「ひとしさの規定」の方だろう。 私は間違った記述をしたいとは思わないが、私自身による記述が適切である か否かは、それほど重要なことではない。重要なのは、日常言語で記述する 試みの必要性が認識されて、私の記述が不適切であるのならば、より適切な 記述が行われることである。 πについてのライプニッツの公式とブラウンカーの連分数の比較 ブラウンカーの連分数の場合 (1+1/(3+4/(5+9/7)))*(π/4)=1.001382... ライプニッツの公式の場合 (1-1/3+1/5-1/7+1/9-1/11+1/13-1/15+1/17-1/19+1/21-1/23+1/25)*(4/π)= 1.0244 ブラウンカーの連分数の場合 (1+1/3)*(π/4)=1.047... ライプニッツの公式の場合 (1-1/3+1/5-1/7+1/9-1/11+1/13)*(4/π)=1.045... πのについてのライプニッツの公式は、何を近似することによって導かれた ものだろう。直径を1とする円の面積だろうか。私はよく知らない。 いずれにしても、ライプニッツの公式をブラウンカーの連分数計算と 比較してみると、ライプニッツの公式の方がはるかに「収束」が遅い ことが分る。ライプニッツの公式は収束が遅いことがよく知られている とWikipediaにも記載されている。 ここで私は数学の技法について議論したいわけではない。私にはそのような 議論をする知識もなければ、能力もない(小学校の算数のレベルにも達しない だろう)。そうではなく、私がここで表現しようとしているのは、このような 数学の技法の比較を隠喩として用いて、より一般的に、コモンセンスの追求を "commensurability"を求めることに喩えるなら、その追求において試みの 反転を繰り返すことが、コモンセンスへの効率の良いアプローチにつながる と言えるのではないか、ということである。 私がこのような主張をすると、ネットの環境でも、対面的な場でも、 算数についても、数学についても私に基本的な技能すら身に付いていない ことを思い知らせようという連中がたちまちのうちに湧いてくる。 しかし、私には別に、自分に数学の能力があることを証明したいという 目的があるわけではないので、私にとってそのようなことはまさに 「どうでもいい」のだ。私は数学の権威の立場から、そのような主張 をしようとしているわけではない。滑稽なのは、自らも数学にまるで 関心のないような連中まで、そのようにあたかも私が自らの数学の 技能を証明しようとしているかのように非難することに必死になる ことである。連中は、実のところ、"brute force"の崇拝者であり、 自らには力量がないことを自覚しながらも、自分たちが"brute force" の側に立っていることを示せることを誇りに思っているのである。 誤:その追求において試みの反転を繰り返すことが 正:その追求において、連分数の計算のように、試みの反転を繰り返すことが 私は、マルクス主義者ではないし、マルクスの著作もほとんど読んだことが なく、ドイツ語で読んだものと言えば、"Zur Judenfrage"のみであるが、 マルクス主義者とマルクスの違いははっきりと指摘することができる。 マルクスには特徴的であり、マルクス主義者には完全に欠けているもの、 それはまさしく、"Zur Judenfrage"の文体に典型的に見ることができる、 反転する試行/思考の実践である。 ふむふむ。 ライプニッツの公式の宇宙。 そして、ブラウンカーの連分数の宇宙。 これらとπの宇宙。 宇宙際ですよねぇ。 てことは、そこの際間にタイヒミュラー空間を挟めばおもしろい。 そう考えてしまうと、宇宙際タイヒミュラー理論はいろいろ使えるかもしれない。 宇宙では広すぎるのでclassあたりにするのが実用的だろう。 classを構造と読み替えれば、構造際タイヒミュラー空間も考えられる。 それを圏論にもっていけば、超自然変換から物理量が得られるような気がしないでもない。 異なる「宇宙」あるいは「class」あるいは「構造」間での「タイヒミュラー空間」。 もしかしたら、それが「意味」。 タイヒミュラー意味論。また新しいおもちゃができてしまった。 ホモトピーとか、なんらかのホモ*ではなく、むしろ、異相変換。 あるいは超自然変換(=意味論)w まだ単なる思いつきだが、ヘーゲルの見落としたもの、マルクスが捨てたもの。 そしてマルクス主義者を狂気へ導いたもの。 それは意味論の問題だったのかもしれない。 というわけで今日の図書館行きのテーマはタイヒミュラー空間だ。 これを意味論の空間として読み解く。 >>164 日本語が中国語の表現を利用したピジン語として形成されているとは、 どういうことだろうか。例えば、英語からの外来語である「ソフト」 という形容詞は、指摘したとおり、商品名や会社名として「ソフ」 という短縮形で「ソフト」の代わりに多用されている。英語でも "soften"という動詞は、"t"の発音を含まないので、「ソフ」だけでも 「soft」であることに関連付けられてイメージされる可能性はある。 それでも、英語においては、"sof"という発音のみで"soft"という 形容詞の代用とされるような用法は一般的ではない。したがって、 日本語のおける「ソフ〜」の用法は、英語から入った外来語のピジン語 的な用法であると言える。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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