悟りに近づくために10
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>>976
そうですね。意味を意味で返すのでなく、感情で返してもいいという風に思います。もともと感情を威嚇しようと
思っている人との会話を続けるのは苦痛であり、おかしな関係ですね。
もともと僕は、繊細で、割と感じやすい性格なので、気を張り続けて今は疲れてしまいました。
さっき、感覚のまま、感情のままに物事を理解してみると、自分にとって自然な気持ちがあふれてきました。
自然体を忘れてしまえばまた気が張ってきますので、自然と分かるもの、への視線を忘れないようにしたいです。
>>977
作り笑いも、きちんと習得したいです。
韻ですね、素晴らしいです。頭子韻を除いてまとめた漢字は、古くは二百六、現在百六の分類があるのですね、
漢字に詳しくないのですが、ちょっと調べました。 前向きに生きるのです。過去を振り返ってはいけません。過去を思い出してばかりいても、それは思い出に浸って、
自分を忘れてしまっている状態なのです。
前に進もうとする状態に、自分が行けるのだと思いなおさなければ、自分の生の全ては、愚かしい、めそめその、
幽霊的な、現実否定の人間否定の自己否定の自己満足だけにしかなりません。
前に行く人間にしか、有能な仕事はできません。そして、なくしたものを、手に入れていたと思い込むことは、
気持ちの基準によって、物事を比較しているだけなのです。
そうです、理想と現実の比較には、積極的にとらえられる意味はないのです。過去の憤怒、悲しみ、
そうしたものしかないのならば、それは、本当は何の意味もないものを繰り返しているだけなのです。
生きることを止めるのは、自分の意思を感覚していない人間に訪れる取り返しのつかない行為でしょう。
自らは前に進むぞ、過去を振り返らないようにしよう、と心がければ、生きることの意味が、ありありと
前に見える、未来の時間が、自分を包むオーロラのベールの様に、ひらひらと可能性の踊りを繰り広げるでしょう。
そのとき、きっと物事を処理する能力に対して、自分が欠けていたのは何なのかと気づかないではいないでしょう。
苦難に対峙することは、とても簡単なことです。苦難は過去のしがらみや、思い込みが気持ちを引っ張っていることが
原因であるでしょう。安心でも神秘の謎でも、人との協力関係でも、創造性の発揮でも、全ては、未来に生きようと
することで、自分の力で取り掛かることのできない問題は、無いのであると思います。
なぜ生きるのかという問いに答えるなら、未来を自分が楽しむため、生きているということの摂理を、知っているのだから、
という答えを、僕は与えます。立ち上がるためには、苦の力の及ばないところ、即ち、時間と気持ちの両方を、
使うことをすればよいでしょう。 最終的には、一人に行きつくのかもしれない。生まれたときはお腹の中にいたのに、死に際しては一人、
さらに生きていくことも一人。それを、否定することもしてはならないことだ。孤独で心細い、というときにこそ、
人は真に生きているといえる。なにかの記憶をまといつかせて、その意識に目をくらませてしまう、それは
大変に申し訳のないことなのだろう。孤独になり切れない人間は、誰かに依存していると論理的に言えるであろう。
その依存状態においては、自分から考えたことはあるとしても、それを受け取ることが出来ない。
自然の中にある人間が、その自然を受け取ることさえ目くらましせずにはできない。言うまでもなく、
自然から離れることなどできない。すると、そうした集団性を必要とする人間は、集団的な進化の方へと
進むのかもしれない。だが、僕自身は孤独の方へと行くのが、一番自然で、意味のあることだと思う。
それは、自然が、傷ついて人間を拒否するようになり、人間の集団的行為が動物の種を滅ぼしたり、
環境を破壊したり、さらに人間同士が破壊しあったり。集団的行為には、そうした無責任な放埓
をこそ称揚していく傾向がみられると思う。これは、集団内の個人にとっては、自己の記憶の破壊を引き起こし、
まやかしをさえ素晴らしいとみるほどの、錯誤の状態にある判断を下すようになる。
だから、孤独の寂しさを、噛みしめ、その条件の中で、個別的な人間になるべきである。その上でなければ、
個人が共同体を作ることは、意味がなくなるだろう。上で述べたように、集団性は非自然性であるということが
言えると思うから。テクノロジーが未来の状態を左右するという、特殊な状況に至ったのだから、一層
個人的な知恵と判断力と胆力と想像力を備えた人間にならなければならない。
このことは、他人と関わり方が、自己のアイデンティティの中核の大きな部分を成すということであると考えて、
自己の成長において、新しい人間にならなければならず、自然観と言うものの変化と、人間観といったものの
変化が、二つながらにして、悟りの獲得から、言えることを規定する。時代の喪失は、孤独との対峙を促して
いるといえるだろう。強く優しい人間になる。孤独がなければ連帯はない。 初めの1歩さえ進めれば、あとは本能の赴くまま、
失敗や挫折、そして超えられない壁もあるだろう、
完全な壁で閉ざしても、そこに星が見えるかぎり、星を目指す、
1億光年先の星だとしても、物理法則など破ってしまえ、
その姿勢をとめるものは誰もいない、物理法則でも否定できないのは
変化すること、完全な静寂と完全な無なら今すら否定しなければいけない、
時間は進む、すこしづつ、そこに積み重ねされる僅かな希望は、
大小あれど未来へ進む、決して過去には戻らない、まして人が作った知識や人知法則
などがそれを変えれるわけがない。
根源にある変化をするという抽象的本質は、どんな解釈をしても裏切らない。
裏切るのは常に人の言葉、人の知識、人の所業といった具体的な事実や解釈認知する意味だ。 過去は自分だけが持っているものではなく、世界の内にあるという共通性がある点で、自分だけのものには
ならない。一方、未来は誰も知っていないものであるから、自分だけのものとして実現を行うことができる。
意志こそが個別性であり、全ての人間に備わった、生きるための能力である。過去に触れることはできず、
未来を掴む(即ち、自分の位置を左右する)ことは可能である。
エネルギーは現在と未来だけに関わりがある。過去の来歴は、保存されたイメージのみによって知りうるから、
エネルギーは現在と未来のみのものである。
エネルギーの流れる方向へと未来は現実化される。エネルギーのないものは、物質ではなく、情報である。
情報を受け取るものは、何らかのエネルギーの、多寡によって、区別される。
過去に向かってエネルギーを向けられるか?
情報の札のついた、エネルギーの流れ、その関わり次第においては、過去に再会することは可能であろう。
だが、情報の札は、時間自体により受け取ることが出来るのであり、情報の札を張りなおす事が、
一体どのようになされうるのかという点で、札の認知が現実に関係するような場面は、認知者以外には、
全く存在しなかったのである。札の登場は、認知者の発生によってはじめて可能になった。
老いゆく存在者は、その存在の変化をコントロールすることが出来ず、書き記すことによって、
自らの存在のその場その場の重要な情報を、残すことになる。残されたものは、拾い上げられうるが、
存在者の変化の全てを印すことはできないと思われる。
物理法則にしたがった現実の整合は、整うという点で、稀少な場合となる。すなわち、物理法則が物質の
普遍的な構造をもたらしており、再現性という点で、まったく昔も過去も変わらないものであり、
それが、一つの救いをもたらす。すなわち、重要度の違いが可能になること、特に、重要度の低いものは、
主張せず自然に任せ、重要度の高いものは、自らの手できちんと整えなおすことが出来る。
エネルギーの担い手としての人間には、「自己の考えているということに基づいた法則」が可能になっており、
その力は、使いうる力として、認知とエネルギーの流れを、操ることが出来る。奇跡的な認知が行なわれる可能性もある。
凡庸さのなかで、願うこと、それさえも、自らの意志に関わりがある。 小さいものと大きいものの感覚は、自分の中にあるだろう。脳の部分の大きさなども、
自分の感覚で思えるようになれ。ストレスの程度も、自分で思える、強さを把握せよ。
小さい、大きい、という大きさについての感覚は、自分に与えられているものだ。それに従って、物事を測り、認識する。
個人が想像するものの中では、個人の感覚を変えてしまうものもある。
生存で必要とされた、評価するという能力は、あらゆる認知において、基礎となる。
評価できる力があれば、特別な奇想を作ることが出来なくても、やっていけるはずだ。
小ささに繊細さを感じて、大きさに雄大を感じる。そこから心は出発しなければならないだろう。
自己は、左右されるばかりではない。自我の危機の時には、不快な言葉を操る文化人、そういったものに影響されずに、
自らの基本的能力を、確認する、そうした大小が分かること、それに立ち返ることが出来る。
囚われないことだ。自分のメジャーは自分が持つ。何かに対して、自分が遅れていて、人の方が立派に見えたりして
悔しい時も、一時の涙を呑み、評価の上で判断すればよい。 未来へ行こうとする意志は、どれだけでも強く、消えるまで未来を追求することが可能だ。過去についても
好きなだけ追求できる。未来も過去も持続的に存在し、未来へ行くこと、過去へ行くこと、その過程も、時間にさらされる。
人間にとっての時間と、物理的な環境の時間の二種類が存在するということが、素朴な実感であろうが、その二者のうち、
人間が体感する時間というものに、真理を見て、その真理はまさに物理的時間と同様の時間というものと一致する。
すなわち、追及の末に(時間についての)感覚と、実在が一致するのである。そのとき、感覚と実在が、
現実の中では同じになるはずである。そのようにして、真理は主客の両者を、一つの関わりの、点様の、ただ一において
統べ、統べられたものは、真理に、抱かれるだろう。そして、人間にとっての大きな謎の一つが、過去と未来はどう関わっているか
ということだ。記憶という物理的な機構に過去と未来を任せるとき、完全性は求められず、パラドックスに陥ると思うのである。
パラドックスが観念的であるのはそういう理由からだろうと思う。パラドックスの向こうに、人間的謎を解決する、或いは黙って諦める、
そういった態度でしか、謎には向き合えないが、私が重く見ている感覚というのは、未来と過去を得ることの方にある。
未来と過去とはいったいどんな関係にあるのだろう。それを考えると、自分自身の永遠の認識と感覚において、カジュアル平明な
天地の存在と、人間の認識の明らかさが、属している原理の世界に於いて、本来的な運命として受け入れなければ
ならない方向は、良く指示されているようだと思える。指示されているものとは、自己の限界性を作る、言葉(ファンクション)
と、無限の複雑さを生む論理の複雑さとの、絶望的なまでに閉塞的な、生きている人間である。
死によって解放されるとき、限界内にあった自己は、消えるということと引き換えに、限界から解き放たれる。
それは、色即是空という言葉のとおりであると思う。二者の間での取引とその結果である。あるのは、人間と自然であり、
関係というのは、本来的に妄想なのである。それは人間だけが解くことのできる関係であり、またそれゆえ、人間の価値が、
他者からは認められるのであり、その真理を言葉にして伝えうるということは、もっと大きく努められるべき事だ。 >その真理を言葉にして伝えうるということは
伝えるのではなく、生み出せ、
伝えという意志はあれど人の認知は万能ではない、万の言葉で真理に達したとしても
生まれる一言には及ばない。
伝える何かの扉を開くのは常に受け手だからだ。
理解させるのではなく、気が付きを、ひらめきを、ときめきを
お花畑の思考はお嫌いか?
美しさという煌めきは、個々の本質から生まれ真実に帰着する、誰もがもっている力だ。
そういう夢をみた。 >>11
あなたの持っている関係と言うものがどんなものなのかは知りません。関係を解き、それを誰かに伝えるという、一方通行
である行為を相互に、もたらしあう、そのようでなければ、真の親しみ、真の関わりではありません。人を必要とするならば、
そのときにこそ美しいものが生まれる素地があるのだと思うのです。他者の見方が一方通行で、自らの限界が消えゆく運命を示す、
それ故、伝えることにより他者と自らが、相補的に一となる。生み出すということが、自らの「最大限の行為」であるでしょう。
時の場は広がっている、だからそれを行うのが良い、自らの力を使うということは素晴らしいことです。
妄想というものが欠いているもの、誇っているものは、それは完全な力と、不完全であれども美しさの神秘という裏の力、
であると思います。生むことにより、妄想が現実のフェーズへと足場を見つける、新しい世界に自らを運ぶ、そのようにして、
神秘は神を手に入れる。人間と神は、融通され得るものである、不完全な妄想と、完全な真は、時間を通してつながっている。
自己と他者は、人間と神の関係と同じようなものであると考える。人間と神が、生むということを通じてわかり合えば、
自己と他者が一方向の時間の流れに乗り、たどり着く未来という一方通行は、それでよいということになる。
お花畑は──咲いた花に飾られており、花が咲いているということが、すなわち生むということを、現実への表れとしてよく示している。
一輪の花には、全ての叡知神髄が凝縮されており、生むために生まれた人間、咲くために生きた花、花同士が受粉のような関係に
とどめられているとはいえども、花を救いとるのが仏に違いない。
本は読まなければわかりません。言葉は内実を与えなければ記号です。考えることによって、ときめきが──。
生んで育てるような、命、命は無駄に使わないこと。
自然な感情の働きを知らず、間を、途切れた空虚としか見ず、追い求めること、それは現実を自らに引き寄せたいという
渇望から生まれるのでしょう。全ては、自分の見識であり、世界観であり、人間観です。空白を信じ、本当の自分は失われないと思うことです。
神秘的な世界こそ、孤独を耐えるためのよすがを見出す場になるでしょう。世界を広げずに、本当の意味を知らずに、おけましょうか? 自と他の区別はどのようにできるか。
例えば、人間が手や足を動かすには、筋肉に力を入れることなしにはできない。
だが、例えば整体は、他者の手を使うことで関節を動かし、それが特別な経験となる。
同様に、思考とは、自らの脳を働かすことによるのであるが、関節などとは違って、外界からの刺激に、
極度に弱い。自と他が半々くらいの割合で、思考をしているのではないか。思考における自の働きを止めて、
他からの働きかけを最大にしたとき、何が起こるのだろう。自の考える働きは、消えることが出来るだろうか。
もしそれが消えれば、整体で治療をしたのと同じ効果が脳に起きて、自の刻印から解放される。意識からの脱出だ。
一方、他からの全ての刺激をはねのけて、全てを自によって起こすとき、どんな思考であるのだろう。
それについては最後に言及する。
もしかしたら、思考は、自と他の両方の共存を基本とするように出来上がっているのかもしれない。
前者が意思のようなもので、後者は感覚刺激である。
どこまでいけば救われるか。それは、集団的な気付きであるのか、完全に自己によるものであるか。
整体によって筋肉が本来に至ることが出来るとすれば、他の刺激と自の思考の、両方の本来的
ありかに、思考を合わせることが良いのではないだろうか。
人生における自と他を、分けたり混ぜたりして、自分の最善をもたらすためには、苦についての深い洞察を、
体感したとき、同時に全てが知られるようなシナリオを作ってみる。
自己のコリから、解放されることが正しいだろう。物理的な力には勝てないが、勝てるなら、それは
何らかの極度の強さ、対処法を知っていないといけないだろう。持続が時の本質であるように、
存在の本質が、自他の縁起に他ならないだろう。どんな人もそういうことの中にある、それを自覚するならば、
一日、五分、十分の積み重ねで、真理についてのアプローチは、個人的な究極の存在へと至るはずだ。
それを得ることが出来るなら、他者の表情に怯えている自己は、もう悩まされないようになるだろう。
その上で、偉大としか言いようのない宇宙自然と、自己が、再会するのである。苦の果てに救いがある、
そうに違いない。
完結した自と、無限の他によって、全てが自のため、全てが他のためとなる。正なる生=悟りだ。 全を極める術が禅だ、全力には敵などない無敵である、全は無でなければ全ではない、
無敵の仕組みは何か、全とは敵すら全の一部、お釈迦様の手の上で遊んでいるだけ
感謝を極めたとき、すべての壁、すべての敵、すべての障害、すべての不可能は、
味方になる、それが全の本質、全の真理。
そして全がすべてではなく、全は進化する、多様性は更に全の根源を増やす、
その増えかたを創造するのが神の力(死神も含める)だ、GODではない、
関係性の知、すなわちエントロピーが増大する根源の法だ。
人の認知は心にある、心は単独ではなく世界と共にあることを感じるだけでいい。 >>14
なるほど、自と他に分けることもできるが、それらすべてを合わせて、全に含まれるのだ、ということですね。
全体主義というのは、非常に忌み嫌われていますが、心がはぐれてしまったところでは、世界を感じる
ことが、単独ではない、ということ、そうしたものを考えると、社会主義なども、一概には悪いと言えない。
だけれど、言葉のレベルで、全体主義という言葉には少しきな臭い印象がある。
主なる宗教神無き国には、全の働きが、禅などによって標せられているのかも……というのは、誤算誤用の
つぎはぎ国家という観点によるとき表されることです。世界を、感受性の粋まで広げたら、きっと、新しく、
美しく、真実が、特に、視覚的なイメージが溢れた世界が生まれる。新鮮で、知に力ある、印象、コピーを、
進化、させられるの?みんなそこで、引っかかるものですよ。頑張ってほしいです。 全は一、一は全なり、全体主義ではなく個の為に全体がある、全体の為に個がある、
片方だけでみれば全体主義に見えてしまう、個は個であるわけで全に従属するだけの
個など意味はない、個が全の為に全を変えて未来をつかめてこそ全の中の個であり、
個がすなわち全の支配者である、同時に存在しなければ全は一、一は全なり、とはなりえない
全が変貌するように個も変貌する、そして全が個を変えられるように個も全を変えてゆかなければならない
個は全の中の1つでっても個は常に孤独だ、
個と全が天秤で生死の秤にかけられどちらかを選ばされる時がきたとき、個は全の為に
自滅するのがその理屈だが、所詮は人間の浅い理屈でしかない、
個を犠牲にする全など全では非ず、それは「全は一、一は全」の条件を満たしていない、
個が犠牲になるときは全も犠牲になる、共にあることが禅である。
全と個が合わさったとき、僅かだが変化がおきる未来への希望という変化だ、
超えられない壁を越える覚悟を全力ですべてが分かち合うとき、超えてはいけないものを
超えられる、人が理屈で考えれば、全体の1人は犠牲になる思考しか働かない。
全が個であるならば、1人の犠牲すら受け入れられないはずだ。
個々がばらばらに全体を動かせば最小公倍数の力しかだせない、だが全体のすべてが1つの意志と
なりえるとき最大公倍数の力となる。
絶えられない限界を共に背負い共通の苦を超える最大公倍数の力は、共に他の全てを感じたときしか
なりえない、孤立意識の孤独行動から生じる全体行動は、全体意識の全体行動から指揮される個人行動の合力を上回る >>16
個と全なんですね。どちらか一方ではなく。自分らしく生きるっていうことが、無視しえないことですね。 個が重要だ、だが個は全によって機能する、vs 全も重要だ、だが全は個によって機能する
どちらか一方であって、かつ、同時に両方である、それが具体的ではなく抽象的に捉えることだ。
個を重視するには全を重視することが大前提であって、その結果として得られる個を
選ぶということ、全を重視するということは個を重視することが大前提であって、
その結果として得られる全が重要だということ、表裏一体の関係であることを忘れたたとき
片側一方だけが機能する「具体的」思考にたどり着く、それは合理性という極論理の思考だ、
両者がを同時に活かすこと、対称性を持たせること、見える部分と同じぐらい見えない部分を大事にすること、
自分を活かすのは当然であり、その方法、つまり技ではなく術として自分以外を活かすのである、
その結果として自身が活かされるように対称性を天秤で秤とることがバランスであり
これが循環する力を大いなる力といい、然として大きな抽象的な流れとして機能する
それぞれの術は抽象的には何も行えないのでその点で具体性が必須になるが、
それは抽象性を求めるための具体性であって、具体性だけの姿を追ったとき、
全体は自然ではなく歪んだ形、バランスが悪い、秩序がなっていない形を浮かび上げる。 人が意志で物事を達成するときに運任せにはしないだろう、意思をもって思考し結果に結ぶ
だが運任せでいい、自分を運び自分の流してしまう運は、自分の思考で流れを変えることが
できるのだから、運という流れを操作することを考えるのが自分ではなく他、個ではなく全を
活かすこと、すなわち「大いなる力」はめぐりめぐって自分自身に戻ってくる、これが運を操作する術である。
術を具体的に身に着ける方法が禅である。禅を極めることで操作する具体的な術が見えてくるということだ。
その結果は抽象性である偶然の原理、運の流れすら操れる釈迦の力である。
見えるものを操るのではなく、見えないものを掴み得ないものを操る、その方法は見えないだが禅によって
それが見えてくる、貴方の周りに突如禅の力が舞い降りてくる、それは理解するものではなく
感じ取ることだ。
万の理解と言葉の論理をもっても自然にやってきて、突如として見えてくる「それ」は、立ち向かう姿勢と
全ての物へ感謝をもった心より生じる術である。合唱、理解してはならない。 >>18-19
個と全で言うと、個と全の中間、考えで類例を上げれば、「もやっとしたもの」を考えるのが、精密に至る道で
あると思います。考えたうえで、もやっとしたままで取り扱おうとすることはできます。
ですから、もやっとしたものは、視界などでもそうだし、意見でもそうなのです。進んでいくのでもなく、
止まってしまうのでもない、そこに、何らかの意味を見出せそうだ、というか。 個と全には明白な境界線はなく、自分の体、自分の服装、自分の所有物
自分の家、自分の家族、自分の自治体、自分の国、自分の星と、
拡大認知される曖昧なもの。
故に全と個は連なって個別だったものが1つの纏まり、1つの意味として機能しえる、
分かれているが分かれているわけではなく、
人間の肉体だって1つの臓器、1つの細胞、1つの分子といった個と人間という
全体の関係をもつ。
個と全という風に具体さを割り切るからこそ、抽象的な境界の曖昧さが失われる。 努力すること、頑張ること、考えにおいては、今まで避けて、人任せにしてきた思考を、行うこと。礼儀とかの正否ではなく、
何を自分は考えたか、ということが、重要なのである。人のお世話にばかりなっていてはいけない。失敗などでなく、
頑張って多くのことを考えるべきである。
すぐに体系だった思考のためにならないようなことであれ、考えたということは記憶に残る。すると、そのことは、
自分の燃焼である。失敗や汚点といったことを避けていてはいけない。人が助けてくれるかもしれず、また、そうでなくても、
沢山のことをやったという経験になる。
良く考えること。そうしなければ、生きていても死に体である。だらだらとやることからは、精髄は生まれない。
自分らしくなくても、おかしいようでも、その考えに関わることが出来ているなら、寄り道をしてさまざまな考えを
自分で実行することに意味がある。最後は、成果に自らをゆだねて終わるわけではないだろう。
もっとも自分を誇れることは、自らの燃焼を行ったということに基づくだろう。利益の為ではない努力が、
自らにとって欠けていたと気づくべきである。まぐれあたりを狙っていては、自分などはないのである。
少しの違いが、やがて大きな違いとなるというのが、人間個人にとって、まさに真理としておかれるだろう。
つまり、生物的生存を終えるだけではなく、人生を過ごすということ自体が、大きな問題としておかれるような、
自然的ではない概念的な自己を誰もが持ちうるというところに、生きる意味があるのであろう。
麻酔を打たれた人間は、生きていると言えないだろう。自分の知らない自己と言うものを、誰しももっており、
それを発見し、実践することが、後悔しない生き方だ。 缶コーヒーのCMで、ライバルがいるから頑張れるというのがあるが、あれは一面の真実を表しており、
出来る限りの速度で、限界まで思考を回転させることに、神が宿るのである。いままでのんべんだらり
としていたものが、何らかのきっかけや、影響により、自分以上の自分へ至ろうとする、秘めた欲求、
願いのようなものを、現実に起こしたとき、生きるということが、後ろめたくなくなる。病気を抱えていようが、
何らかの負い目が有ろうが、それはいいのである。涙に値するような、心の喪失を、埋められるような、
そんな、結果とは関係がないような個人的な行動を、欠いているということに、気づかなければならない。 このスレちょっと読んでみたけど、仏教の要素が少しも無いね
それでなにが「悟りに近づくために」なのかよくわからん
これじゃ、普通の西洋哲学じゃないか >>24
現代における悟りへのアプローチとしては、西洋的視点も、合わせて考えて行こうというつもりです。
それは、私的には精神病からの立ち直りを考えるため、悟りへの近づきを、使ってなにがしか
意味があればいいなと。怖さや苦しみを、どのように考えるかということ、論理の破たんがあれば、
それをどうやって正しく得られていくのか、ということを、考えています。つまり、全ての人間に共通している、
見識を、一例として得られればいいと。つまり、哲学という言葉が西洋のものであるという性質を持ち、
悟りという言葉が釈尊の思考と仏教のおしえの性質を持つということは、確かなことですね。
そして現代において、重要となるのは、仏教的な事ばかりではない。という、時代をしっかりと認識する
視野の広さを持てば、重要なのはどこからくるかという、一つの重点が色々と考えるためには、
とても自然であり、何らかの気づきが悟りなのか、悟りの、例えば過程などは、いかなることなのか、
そういったことを考えつつ、広く強く人間の思考を救い上げ、その結果、自分が悟りに至りたい、
そうした関心の下に、このスレを作りました。
具体的な疑問を呈していただければ、考えを進めることに、問題を共有できると思いますので、
よろしくお願いいたします。 死に対する恐怖の内で、大きな一つは、呼吸が止まる苦しさだ。それを何とかしようと考えてみた。
呼吸は、鼻から吸い、首を通し、肺に入れる。このうちで、肺において呼吸を止めた場合が最も苦しくて、
我慢も短時間しかできない。次に、喉で止めても苦しい。鼻で息を止めるのが、一番楽である。
このような考察から、息が止まる苦しさは、徐々に、緩和されるものであり、その緩和は、脳との
連携次第であろうと、仮説を立てられる。そう考えた場合においては、死に至る原因があるなら、
それは脳に働きかけるから、息が止まる苦しさは、緩和されるだろうと思われる。
上に述べた鼻で息を止めるという行為は、おでこで苦しさを感じる、と言えるのかもしれないが、
それが正しいとしたら、より朗報として、脳の働かせ方次第で苦しみを緩和できるのだということが
いえるかもしれない。 他人の痛みを痛んであげることはできない。できるのは、思い遣ること、理解すること、眼差しを投げかけること、
声を出すこと、言葉を紡ぐこと。これらできることは、脳の機能を使うことにほかならない。脳の個別性、
個の断絶性は、どうしようもない。そう知ったうえで、自分ができることは、まず行為であり、それができるうちは、
完全な孤独ではない。そして、余分な間違いのもたらす余分な苦を低減できる。自分の行為は、意図に
相当基づいており、従って、声の出し方を精一杯うまくいくように考えて行為することなど、それらが、
少ないことであれ、できることである。他人とは想うべきものだ。自分とはへつらうべきものだ。
人の働きは、自分自身の力を持たねば何もできないのだが、人を苦しめないこと、自分で考えること、
そうした行為の中でこそ、自分にできることをやったと思えるのである。妄想は、視界内、視界外に存在するのでは
ない。脳の一部に存在する。他者の妄想を止めるには、声をかけ続けるしかない。孤立した脳の、つながりを
持ちたいという気持ちがあるだろう。そして、妄想者は、自分の脳で、全てを改善していかねばならない、
そして改善しうるという希望が見えたとき、改善の行為に喜びを持てるだろう。人を理解するということは、
最終的な真実である。そういう視点に基づいた、人生と言うもの、それをできる人なら、せずにおいては
いけないし、負い目のある自分でも、誇らしく立てるための、お互い様である。立場が同じもの同士が
協力することで、社会にも何らかの良い影響が生まれるはずである。
そうしかできないのだった。それでもせいいっぱいのことをした。次に進める。なにも気後れすることは無いだろう。 例えば優しくしたい人が隙をみせたとき、罵倒の言葉が頭に浮かぶことがある。これは脳で扱うべき問題だ。
経験にばかり依っていてはいけない。表裏であり、仕方がない。うまく乗りこなせれば、スリリングで面白い
人生にもなるだろう。 良い呼吸法。
吸うとき首と背を反らし、吐く時うつむく。 自分も仏教に興味持って来たんですが、
なんか延々ととりとめもない考えを書いてるだけになってません?
精神病からの立ち直りということですが、だったらなおさら
まともな仏教書の考えをもっと重視したほうがいいですよ
自己流でやるとあぶない世界だと思います
精神病が悪化する可能性もありますよ
なんらかの基準は必要だと思います まあ、自分も偉そうなこと言えた身分じゃないですけどね・・・ >>30-31
延々ととりとめもないことを考えているのは、他者の意見を、記憶にとどめることに困難があるためです。
おっしゃるように、まともな仏教書を学ばなければいけませんね。そして、私にはそれだけの実力が
ないのです。延々と七年くらい5chで「悟りに近づくために」スレをやってきていますが、
精神病の悪化は、まったくないため、安全であろうと考えています。まずは自然な論理を備えた
脳に至らなければ、肝心なところや、数理的処理というパワフルな方法、それらを使えないので、
宗教の神髄には、現在は取り組みあぐねていますが、あと少しで病気も晴れそうな気がして、
少しづつとは言え、自分を壊すこともできず、視界と心が晴れるとき、また新しい気持ちを
感じることもできるでしょう。もちろん、提議はできる限り受け付けますし、気さくにまじめに
利用してくだされば幸いです。様々な情報が、空気中に浮かぶシャボン玉のように、存在感を
持っていればいいのだがなぁ、と思っております。 >精神病が悪化する可能性もありますよ
可能性というのはその正反対もある、
これは害悪メディアがレッテルを貼る言論誘導のやりかた
>まともな仏教書の考えをもっと重視したほうがいいですよ
まともというのは正義と同じで、イスラム世界の「まとも」とアメリカ支配の「まとも」
は同じではないのです。
どれだけ仏教書が多様化し、それがカルトのような説明をしているかすら理解していないようですね >>33
そこまで極端な例を出して、
大げさに反発するのは、あなたの心の問題じゃないですか
悟りを語るなら仏教書を読んだほうがいいんじゃないか、
これは当然の感想であり、最低限の道理ですけどね
天才でもないかぎり、
自分の思考だけでなんでも導き出せるわけじゃないし、
ブッダの言葉くらいは知っておくべきと思いますけどね
仏教書も読まないで悟れるのなら、
西洋哲学の中でもとっくに悟ってる人が出て来ているはずです
哲学だって大学で哲学のトレーニングをしないと、
かなり効率の悪いことになるわけだし > どれだけ仏教書が多様化し、それがカルトのような説明を
> しているかすら理解していないようですね
そう思うのなら、「悟り」というキーワード自体に興味をもつ
ことをあきらめたほうがいいのでは?
「悟り」というキーワードを掲げておきながら、自分の考えだけで
近づこうとする、そのどっちつかずの中途半端なコンセプトの
ほうが袋小路で無理があると思いますよ
そんなに言っていることがおかしいですかね >ことをあきらめたほうがいいのでは?
よく悟りで勘違いは、諦めが悟りであると確信してしまうこと
たしかに仏教の悟りは四諦をもって悟りとしているが、
それは諦めることではない、気が付くことだ、
>自分の考えだけで近づこうとする
仏教の悟りは自分の考えだけで得るもの、まさかお釈迦様が誰かとの議論討論で
悟ったと思っているのかな、必要になったとき自然に舞い降りてくるもの、
いつまでも具体的なものばかり追い続けているとそういう風に誰かの考えを
具体化した書物の複製を暗記するだけに流される、流されるだけの人生でお疲れ様。 自分が生きているのかどうか不安であるということへの対策。
見えていることは、生きていることを証明するのだ、ということが感じられると思う。
生きていないなら見えるはずはない。
「生きていることが証明されないなら、見えていない」という対偶命題も併せて考えよう。
また、思考は生きているということを証明しない。死んだ者も思考する。残滓の形で思考が成り立っている。
それは、思考が他者的であるということである。
つまり思考結果及びその過程は偽の自己同一性なのである。
思考はありのままではないのだ。
では、思考していないとはどういうことであるか。
それは語りえないことであり、沈黙しなければならない。
なぜなら、思考は論理であるからだ。
思考は気を逸らしてしまうから、生きているということそのものではない。
見えているということは責任を引き起こす。
見えていない者に責任はない。
見えるということは、責任にさらされるということだ。
その、責任が生じる代わりに、主体は生きているということを受け取るのだ。それは自由の一端だ。
人の表情や意図を知ろうとするのは、一面では責任を分担して背負わせたいということだ。
そのようにして人は社会化されていく。
社会的な責任の中で、一番心しておかなければならないのは、今において見るということで、自分の生を証し、安心することである。
見えているという感覚があること、これが生を証明するのだから、その上には、存在することがしっかりと置かれるのである。
存在が力を向けるためには、自己の基礎がどのように生まれるのかということを、考えるべきであるのだ。
旅が徒労となってしまわないよう、生への目覚めをもち、間違った不安と物事の認識を、突き抜けることが必要なのである。
気がそらされることで、思考資源を、浪費しているのだ。
慢性の病に徐々に失われていくことのないように。
目覚めるということが、安心ということである。見ることのもつ意味にも、気づくことが出来るのだ。
生きているということを知ることで、死を見ることが出来る。
生は生であり、死は死であるということをそのまま見るのは、大変な作業である。 安心のためには、主体的に思考を働かせてはならない。受け身でいることを覚えなければならない。
なぜなら、必要なことは、必ず行うことができるだろうから。逆に、受け身に感じることの方が、
精神の安定を生み、他者を煩わせない。仕事に励むということと、受け身な世界観、自己観を持つこととは、
決して相反しない。不安のために行動することは、個人の欠陥の表れである。そうなったとき、
決して健全でない。だれも口を出せない。 >安心のためには、主体的に思考を働かせてはならない。受け身でいることを覚えなければならない。
それでいい、人間は意志をもっているようで意思は状況に流される原理がある、原理に逆らうのは
苦痛をもたらす。
しかし、原理、状況に流されるという前提を元に、それを操作することで自分で設定した原理状況へ
流されるのは受身でいながら主体であるを成立させられる。
だが確率的に主体であって具体的で完全な目的意思に流されるわけではない、
流されるという道へ進むのも主体の意思の表れである、偶然に運ばれる運命は、操作できないわけではなく
進む世界を創造してゆくことが受身を正しく機能させられる。
主体的意思のままに周りを操ろうとすれば必ず反感を受ける、ことが理解できない人には、
その「主体的に思考を働かせてはならない」の本質は受け入れられないはずだ。 脳内のイメージや音声は、それがなんであるかと考えることができる。というか、自ら作った思考、像の再解釈が必要とされている。
それは、とても楽しく、落ち着いて、行うことが出来る。イメージの意味を認識するのは、自己の再開発である。
ある種のサイクルの実現。同様に、自分の「理解した意味」を、もう一度、それがなんであるのか確かめなおせる。
そのような、無限の遊びの中にいることで、人は、一種の無限に豊かで自由な完結性を実現する。
自己とは、そのような、イメージ想起法という真似と、解釈という理解作用の両方をもち、科学的な言葉で言うならば自己は場である。
能動的生成というような、感覚を作り上げる第一次的な内部的な作用と、それに対する解釈とでは、明らかに順序を成すような、
違った思考が成り立っており、その両方が大切であり、後者が、ないがしろに見過ごされてしまいがちである。
つまり、自分の理解に対する再解釈を行うことによって、無限にずれていくこともできる内部の余裕のある、自己内の遊びが出来るのである。
無意識のうちに明確であるという思い込みに従って考えている自己は、反省によって、さらに自己内の作用のみによって、自己を知りうる。
自分と言うものの理解は、どの程度であり、この思考の限界はどのくらいであるかという、吟味を行うこともできる。
よりよいものを作ろうとして探すのならば、外部と内部の両方を考えられるが、外部に対する内部の理解という公式をとるならば、
自分の理解の程度を知りつつも、さらに、理解を何度も繰り返すことで、無限のずれが生じることにより、どこかへ近づいて行くことになる。
それが、行為というものであり、特に自然な反省行為であると言える。そういったところでは、自己は自己に依っているのであり、
他に対して原因を求めるようなことではないから、謙虚と言えば謙虚であり、有能と言えば有能である。
自己を対象とした関わり方による思考は、当然自己を問題化するため、自己の間違いがわかり、自己の甘えが、解消される。 >自ら作った思考、像の再解釈が必要とされている。
イメージは再解釈ではなく、想像だ、創造、具体的な夢と希望、
必要なのは自分のイメージを強く重く念じ、結果に繋げてゆく未来があることを
根拠無しに信じること、信じるという勇気をもつこと、奇蹟は起こるものではなく
意思をもって起こすこと、世界の本質を信じ、自分の本質を信じ、結果へと繋げる
信じなければ明日は来ない、明日を信じないやつは終わる、
どんな小さくてもいい、明日に繋げる意思を示せ、100%不可能でもそこを超える勇気を
示せ、人は一人ではない、周りに人間がいなくても世界は本質を活かすものに
僅かな助力を与えてくれる、どんなに小さくても積み重なることが未来へと続く。
現代文明が失っているのは世界(森羅万象)と共に活きているという愛を感じることだ。
あえて超えられない壁に挑むことが心を軽くしてくれる、想像力に不可能などないのだよ。
俺正義でいい、1歩踏み出す意思を世界へ見せ付ければ、あとは営みの管理、細かい
主体の意思を次に続ける秩序づくりだ、貴方に壁などない、壁を作るのは常に自分の心(闇)だ。 >>42
>奇蹟は起こるものではなく
>意思をもって起こすこと、世界の本質を信じ、自分の本質を信じ、結果へと繋げる
全本質に、近づけると僕が思うのは、現在の世界観の中で、自己自身を放出するという行為が、もつ可能性です。
現在の発散の、イメージ想像を持ったところの行為によって、自己は救われてしまう、救われうる。
このことは、つまり、発散によって、過去のしがらみを、解き放つことが可能であるということです。
もし、もやもやの気持ちを、押し付けられてきた過去があるというならば、それをふいに(無効に)してしまう発散ですね。
つまり、自己の病的なこだわりは、何の難しいことでもあらず、この限定された空間の中で、完全に燃焼させてしまえるということ。
過去への係累は、自己のかたまり、縮こまりです。勇気とは蛮勇としてのその本質的発散の一つがあり、それが、放出なのです。
イメージは自己をも救い上げ持ち上げ、天のゼロに、全ての負の意味を消してもらえることが出来るのです。
それはその勇気が、主体的行動への働きかけを成し、その場で自己の活躍の基礎としての自分の安心と解放の気持ちを、
作り上げ、身につけることが出来るのだということに気づくこと。どのようにして気づけるのかというと、場へ身を投げ出し、
自己に自由な、範囲の空間の中で、燃やし尽くす咆哮をイメージし、同時に思考として体験することです。
主体性は、対人関係連鎖の中で別の形に実現を奪われてしまっている。病んだパースペクティブが、自己自身にとっての解放を
目指したとき、自分の周りにある範囲での最大限を用いれば、100%不可能は、自己の内部の話であったと、知りうるはずです。
咆哮の持続が、声満たされる自己の燃焼、自己の燃焼が、イメージの本質に接続された、超越のつながり。
そういう行為を、持てるものは、何も不満を言ったり、鬱々としたりする必要はないのです。考えるということではなく、
自らの行為であるのです。動くための、身の力。 1歩1歩、線と点をつないでゆけば、それが本質を結んでいるなら、
かならず全ての点と線は結ばれ円を描く実線にたどり着く、
これは法則だ、自分がそこに行くのではなく自分という本質がそれを歩む存在に
なるなら、自分ではなく世界がそれを望む、自分の力ではなく世界の力が
それを望み世界が結果をだす、故に法則である。
奇蹟を起こすのは自分の意志だ、だが自分の力では足りない、
自分が世界の本質となり世界が奇蹟を起こす、自分の力だけでなどと侮るな。
世界に感謝するとき、世界は祈る者を祝福をする、それは愛だ「繋げろ点と線」を、
それは勇気だ"やるか、やらぬか"だ、答えは常に自分の目の前にある世界のどこにでもある、
希望をもて願え勝ち取れイメージしたそれはホーリアップだ、自分がではなく世界がホーリアップ。
1歩を踏み込め、最初の1歩は微弱でも徐々に大きくしてゆけばいい。
よく捉えろ、まちがえてはいけない、未来の1歩は自分で進めても、未来は自分が確定させるのではない
未来が自分を確定させてくれる、未来を操れ!未来をイメージしろ、未来の本質を掴め、
"自分の意志"で未来を決めるのではない、未来に祝福される存在になれ、そのとき未来の主となれ。
たとえ作り笑いであろうが、自分が笑っていれば、未来は笑い返してくれる、それが法則だ。 その本質とは何か、存在や世界が望むもの、それが最後の最後にたどり着くところ、
それは"決して裏切らない"その力だ、見えるのはその表層の具体さ、そんなものは
裏切る、見ろ掴み取れ内在する活かすべき未来へつながる何か、裏切らない何かを信じろ、
世界には無数に、"何処にでも"、"目の前"に常に隠れている本質、裏切りはしない、
ただその本質の1歩が小さいだけ、余った微力を貸してあげろ、
貸した力は必ず何らかの形になって戻ってくる、それが法則だ、
ただ本質は目に見えない、"具体性"がない、だから耳を澄ませ感じ取れ、
小さなる存在がそれを待っている、与えるのは貴方だ、世界に微力を与えろ、
世界を笑顔にさせろ、かならず自分の心が満ちてくる、
全ての本質を掴んだとき本質は具現化し、そのとき貴方が世界の主である、世界の見えざる真理。
昨日より1歩進めていれば、歩みを止めないかぎり、きっとたどり着く、
だが今すぐに目の前を望めば、たどり着いていない場所が現実になる。
時間がないなら、ぎりぎり限界まで1歩を踏み込め、
限界と等しくなったとき、1歩は無限の力になる、踏み込みが甘ければ落ちる、
なぜなら限界の向こう側の超えてはいけない扉にのみ答えがあるからだ。 限界の1歩とは、自分の意志で選ぶのではない、
世界の意志だ、世界とは自分との因果関係の全てであり
自分以外の因果関係ではない、因果するもののさらに因果はゼロではない
関係が薄いだけだ、すべての関係を感じ取れ、それは可能だ、
自分と世界の関係だから常に自分が感じる中心にいる、その事実は崩れない、
世界を背負い、世界と共に、世界へ1歩踏み出した自分は世界の力で活かされている、
世界が関わる自分への力は、裏切らない、いままで世界へ力を尽くした自分の裏返りだ、
限界の1歩は、世界が示す1歩だ、世界に選んでもらう、故に世界を操作する主にしか
その限界にはたどり着けない、自身が示す世界への態度が揺らいでいるなら、世界から
自身へ向ける態度も揺らぐ、それだけの話だ。
世界(因果関係)を確定させる点と線の付き合いをすればいいだけ、そして1歩を踏み出す、
世界(森羅万象)はその関係を裏切ることを許さない、それが法則だ、法則が発動するとき
からなず神が背後に現れる、不思議な力で死に行くものには死を、生きるものには生を与える。
だが揺らぐ関係しか紡がないものには、揺らいだ結果を返す、神は裏切らない。
何も関係を築かずに限界の1歩を踏めば、たりない部分を対価として奪われる、
当然のことだ、等価交換である、その価値とは自身が願う価値ではなく、世界の意志が決める願いだ。
積み重ねなく偶然で結果を得ようとするものは、宝くじで1等が当たる原理に従う、答えは貴方が知っている。
貴方が点と線を結び関係を紡げば、かならず貴方を見ている観測者がいる、それは人とは限らない世界全体である。 「葬式ごっこ」があった富士見中学事件。
「[自殺した]鹿川君の「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」という言葉は、問題を「だれがどんなふうに」ということだけで
取り扱おうという精神です。「何を」ということを敢て除外する。」(別役実『ベケットと「いじめ」』)
同じことを考えていない人間同士が、コミュニケーションにおいて喧嘩するというのは、「だれが、どんなふうに」ではなく、「何を」を
神様に据えて意見を戦わせる、つまり、「どんなふうに」ということが一目瞭然ではないということ、すなわち「いじめ合い」であろう。
壁に向かっているようでもあり、汚れを嫌っているようでもある。
「だれが」なのかは、行きずりであり、「どんなふうに」、というのは、対立的である。どちらも議論の余地がない。議論も成り立たない。
しかし、そこには何かはある。何かがある、というところから、発展はあるのか。
「だれが、どんなふうに」というコミュニケーションを、葬式ごっこの被害者は求めたのだろう。「何を」という、局部に自分がなってしまう、
孤立を、避けたいと思った。そして、クラスの中は、それ(鹿川君の気持ち)を「認めていた」に違いない。
恋というものが部分であり、それを普遍化したものが愛である。象徴や、普遍といったところから、部分がもたらされる。
弱小者が、価値あるコミュニケーションを得ることができるような、回路が現在では、社会的、未来的に求められているだろう。
「孤」の存在というようなものは、ほとんど生きていることを許さないということではないか。「孤」は、物理的にも生きられない。
概念的「孤」というものも、突き詰めれば生きていないということになる。それを避けようとして、声が上がり、助け合う。
そんな未来を、個人的には思い描く。何らかの救いが、孤独に対して、存在するような。それは、例えば本などであり、
意志や思想という対話の形式などでもある。自分を否定しないでいられるような、何か。それを見つけることが、正しいし、
理想を言えば、人間的な輪の中で、自己に対して与えられる。 何事であれ、耐えきれない怒りを湧き立てる物事であっても、後から考えて、何かがあるという感触があるなら、そこには何かがある。
何かを理解しようと試みるのは、何もしないよりはいいのではないか。
耐えきれない痛みがなければそれでいいのだと思うこと。それだけでは何もない。
過去にあったはずのことが、消えうせてしまっているように感じられること。無という穴に、全て落ち込んでいってしまうように思えること。
だが、次へ行かねばならない。自分が死んでしまうと思っていては、何もできない。 衝動を抑制せよ。全ての感覚を空にせよ。息も、一度、あると確かめた上で、その操作においては、
特別に呼吸法を考えたり感じたりしないようにせよ。つまり、意味付けと衝動感を逃れよ。触覚も、特には考えるな。
過去にも未来にも、囚われないようにせよ。それは妄想である。激しい思い込みを、脱け出よ。
全ては自然に行っていけるのだから、何かの不安や欲、一時的な学習本位に、従ったり囚われてはいけない。
副交感神経が優位になるようになる。神経の潜在的な機能を使うことで、力の源が、自由な意味のある思考が、生まれ、
自分が今までにはなかった境地に至る。
そのとき、利己と利他は境を失い、自他が、考えの上では区別を失う。悩みは、自分自身の境遇や能力、人間関係、
そしてひいては、生き方の迷い、健康を無くしたことなどから生じる。それに対応するに、生自身を突き止めるという感覚から、
その悩みも開けるはずだ。なぜなら、気持ちが落ち込まないからだ。
副交感神経が優位な、穏やかな自分であればいいだろう。どんな衝動も、抑制することで、逆に自分のためになるのである。
妄想がなくなるにつれて、存在の真理に至る。なくす、消すことで、完成に至るということもあるのだ。失う不安は迷いなのであり、
失うことは怖いことではない。得失を考えても、その思い込みでは得られないものがある。 前向きに生きるということが、全てにおいて、必要であり、前に進むしか、人間個人の原則はない。
考えるときの方向性がそうだし、失敗から立ち直るためには、自らを後ろへ引っ張るようなことに対して、
いつまでも鬱々と悩み、怒り、つまずいて、とどまってしまっていると感じられるなら、その前へと進もうとする
気概と意志が、全ての決断と生き方を、応援すると知るべきだ。
自分が今までやってきた理論では対処できない物事を受けてきたのなら、そこから考え、行動して前へ進むような、
自らの力の制御を、試さねばならない。
失恋とか、健康を損なうといったことに、いつまででも考えすぎ、囚われているのだとしたら、そこには自分自身への責任や、
誠実さを行うことが、しなければならないこととして、存在する可能性がある。
停滞や自己否定は、仮のものだ。自己否定が感じられるのだとしたら、それは、他人の中にではなく自分の中に答えが
あるのである。やり方が見つからず、どこへ行っても自分が否定される。それは、自分が自己否定のサイクルにはまってしまって
いるからだ。何事も、まずは気持ち、工夫、計画、挑戦、何も大きいことをしなければならないのではない。
ただ、現在において、自分ができるはずのたくさんのことに、温かな気持ちを持って、自分の力でやっていこうとすること。
そうでなければ、生きるということはできない、ということだ。 別に前向きじゃなく後ろ向きに生きてもいいんだよ、
ただその結果が想像できて受け入れられるなら、 >>52
傷をいやし、生きることが出来るならそれでもいいでしょう。
消極的が積極的と裏腹にあるというなら、それを扱うすべには、二種類あるでしょう。私もそう認めます。
その結果、想像が働けばそれは意味あることです。受け入れられるかどうか、ということは、もはや前向きを前提として
いませんか。結果に重大な意味を感じるのは、責任を感じるからかもしれない。人に対する優しさと言うものでしょう、
いろんな形があるにせよ。
全ての人には考えがあるのですから、それを否定することは良いことではない。だが、大器晩成ということを、積極的に
考えるなら、そのためにも、心の切なさのような感情に対して、敏感であるべきです。
それらを、集めることで、だんだんと物事が見えてくる。自分自身のことなら、制限せずいろんなことを受け入れていくことが
必要です。 自分の一番弱く神に改善してもらえたら良いなとすべき特徴こそ
自分がもつ最大の武器だ、否定するのではなく受け入れて道具にする方法を考えよ 実際に思考するということは、関係を結ぶことを離れられない。つまり、ある物事の把握は、背景抜きにはできない。
プライドと言うものは、実績からこうできるであろう、こうできるに違いないと信じるという背景の中で、自らの現実を受け止めることである。
だが、プライドの良い面とは、そういう自負心がもたらす、改善の能力を意味あるものと認めるくらいのもので、
人間関係において大きく障害を作るようなものであるに違いないだろう。勘違いをしてはいけないのである。
おおまかに、流動的な思考というもののほうが良いに違いなく、こうあるべきであるということが、かなりの割合を占めているにしても、
当然に侮ることは、誰のためにもならない。
文章を読んだり、現実を生きたりすることも、それは、物事の連関を考え直している、と捉えるのが一番よさそうである。
どういう世界の中にあって、その物が存在しているか、などといった背景、世界観の中において、魔法の気持ちが生まれる。
世界の力を借りることで、単なる計算機とは違った情緒が生まれる。
例えば、子供のころ、PCゲームの黎明期があって、『うる星やつら』のアドベンチャーゲームの攻略本を読んでいたが、それは、
大人世界の大きな夢が、その背後にあったからこそ、その中で夢中になって世界を摂取していた。想像とは個物と背景の二つを
必要とするだろう。どちらもどちらを駆動させる。
このように、人に対して優位感を持つ、とか、社会の上層部であることに、満足して支配するなどといったことは、避けるべきことで
あるように思う。結局、自分でやること、そして、世界は自由に想像できること、この二つくらいのことで、全ては成り立ちうる。
そういう夢幻的世界こそ、最も謙虚で最も力強く、最も幸せを左右するものであるに違いない。
見えてくる世界が、大きく結実してほしい。夢が現実であってほしい。物事の仕組みに関わりたい。
そう考えることが、良く生きることであると思う。 精神病者は背理法に陥りがちである。
背理法とは「P を仮定すると、矛盾が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付ける」ことだ。
もしこうでないとした場合、ああなるはずだが、現実はああはならない。したがって、こうであるのである、と。
数学的背理法を現実で適応する動機は様々であろうが、まず人間は、何かを証明しようとして生きている側面はある。
精神病者は、現実に信用がおけず、現実が間違っていると仮定しがちであり、証明しようとしているという目的を忘れ、
論理的なふうに、「現実がこうでないとしたら……」という仮定を、探っていき、思い込んでしまいがちである。
僕は数学的な知識が十分でないため、背理法が、トライアルとして行われるのか、十分な嗅覚をもって、そうするのが
うまく証明に役立つだろうと思えるのかが、定かではないが、理性に従った十分な記憶力を働かせ、正面からぶつかることが、
より近道であるとは、現実に対しては正しい自己の規範である、と認めるくらいの、失敗した背理に頭をつっこんできた経験はある。
救助策。条理と背理の両方を、考えること。その間で揺れ動いていたら、直観的にどちらを取るべきかがわかるだろうから、
どちらも選べるのである。筋肉は、緊張と弛緩の両方を機能として備えていなければならないように。
二元の間を揺れ動くことが、「自由」に至るための方法である。 ちまちまと思考を変えるのもいいが、ダイナミックに思考、理解を動かそうと試みてみよ。
視界や、眼球の動き、未来過去の記憶なども、ダイナミックに動かすのである。
ダイナミックに動かす過程において、小さな問題を引っかけて、解決してしまうことがあるだろう。
もしダイナミックに動かすという習慣を無くしてきているなら、その影響は心身に及んでいるはずだ。
もともと人間は、大きな動作および思考を行うものだという、機能が備わっているのだから、
その機能が失われているならば、それは次第にそうなったに違いない。
ということは、その習慣的な鈍りが、時間の感覚の欠陥として現れている可能性がある。
心身(脳と身体)が働きにおいて不可分なことは、意外であろうが、決して無視すべきではない。
小さなストレスのために、動きが鈍ってくると、その蓄積が大きな病状として現れる。 1%の効率を20倍の20%に向上させるより
90%の効率を誤差でしかない91%に上げるほうが恐ろしく困難である、
だが、100%を超える効率は不可能なのか?
答え可能である、自分自身だけが行えば自分の限界が上限の100%であるが
自分以外を効率に変え1%しかない自分の効率に100%を超えた部分(他者)から得られる
効率を加算すればいいだけのこと、
自分を活かすことだけを考える主観的な思考では、他者を活かす客体的な思考が
困難である、もういちど自分だけで目指す結果ではなく他者と共に目指すそれを創造
する選択があるか考えるのも方法論である。 >>58
女性ならば処女性、また人なら命と最低限のプライド、を大切にするものである。
身の程を知って、自分を低いものだと位置づけること。
身の程を知るとは、他者が自分を規定する内容に対して、自分が服従することである。たくさんの他人の中にいれば、
その中での他者の判断基準とは、ある一定の客観性を帯びているものだ。それを一つの意見として知っていれば、
それが自分にとってもある基準を形成するのに役立つ。
100%を超えた部分というのは、自分自身のアイデンティティを形成された状態、即ち、一から自分で積み上げた価値観ではなく、
一般的に動いているインフラ(産業や社会生活の基盤となる施設)を利用するような感じで、無意識のうちに自分に与えられている
身分的な助けを、自然に使えるという状態であると考える。
背が低いのに高身長の自分、と言い張ってみても何の益もないのである。
では、その身の程を知っている、相当に穏やかな雰囲気の中で、何を行うか。これこそが、自分のしたいこと、やるべきことである。
全ての知的性質は、外面からはうかがわれないものだ。同様に、女性が処女性を大切にしているなどということは、
分からないものである。人が命と最低限の存在可能な尊重を望んでいる、とは、なかなか外部からはわからない。
身の程の穏やかさの中で、散る火花を見つめ、最も高まったものに憧れること。
もともと憧れとは、ある一定の穏やかなやり取りの極限的な非自己的な外部に対して、心が動かされ、陶酔する、そんなものではなかった
だろうか。自分の望みとは、自分が外部に優越することではなく、もともと優越していた外部に合わせ、それを自分にとっての現実として、
一員になること、ではなかったか。 全力とは、自分の能力の全ではない、自分以外の全てを使う力だ、
人は論理性や合理性のもとに、自分本位の思考、自分主体の思考をしてしまう、
具体さや意味をあることにする思いがそれを加速する、
自分だけの主体性では周りは動かない、動いているのだろうか?
世界が自分を中心に回っているような錯覚をする人もいる、
世界は自分の思うとおりにならずそこで無力を感じ日々の積み重ねや
自分の思いを強めれば適うと信じたくなる、
だが、答えは自分が主体ではなく、客体にこそ本当の意味がある、
全力とは自分が何もしなくても、結果が勝手に目的を達成してしまうこと。
実に不可思議である、全力とは禅力だ、それは正しく感謝して世界と一体になる
心を取り戻したとき、世界が祝福してくれるのである。
そこに何か不可思議な力が働く、その何かが禅力である。
主体だけの全力を選べ、さすれば貴方の手が届く範囲のものには届き
手に届かないものは絶対に届かない、不可思議な力はやってこない。
それは気が付くときまで理解することはできない。
天空に瞬く空の星をこの手で握れようか?にぎれない。
それが主体だけの自分だけの意志がもたらす全力、自分の限界である。
限界を目指す意志がないものに限界は壁となり嘆き苦しもうがそれは
不可能という現実を与えてくれるだけ。 限界の先には無限がまっている、超えられない壁などない。
見えるものが限界であり、限界を超えた先は見えないもの。
見えないものに興味がないなら、限界の先など考えてはいけない。
己の殻に閉じこもり自分の行動できる範囲に執着し、自分の縄張りを死守すればいい、
見えないものは、その眼で見るものではないからだ。
絶え無き好奇心と1歩1歩進む何かは超えられない壁の何かに手を伸ばす、
限界の向こう側に論理も合理性も知識も思考こない、ただ暗黒が続いているだけ
限界を超えるものは自ら光り、限界の先を照らす、輝かやくのは自分自身だ、
誰かが希望の光りを差し伸べてくれるのではなく、そんなものは詐欺かペテン師の
騙しにすぎない。
進むのは常に我、自分自身だ、自分の力を理解すれば限界は見えて、多くの大人は
限界を超えようとしない、自分で自分の井戸に閉じこもる大海をしらない蛙となれ。
超えるには覚悟が必要だ、そして感謝しろ、世界を照らすものは、世界が鏡となって
自分へ戻ってくる。
小さな希望を捨てたものには未来は闇であり超えられない壁でしかない。
心の老いはやがてやってきて、全ての可能性を吸い尽くしてしまう、壁を作るのは自分自身だ。
壁を選べ、自らを閉じ込め二度とでてこないのを選べ、そして消えるのみ、選んだのはそういう結果だ。 才能とは年月に耐えられる熱意の冷めないこと。
最低10年は続く現象である、 『神との対話』シリーズの神。
どこか特定の宗教だけの神ではなく、
世の多くの宗教にインスピレーションを与えてきた普遍的な唯一の神。
思索的な哲学書として読んでも面白い書物だと思います。
イエスの事も「イエスは最高のマスター(師)の例だが、イエスだけが聖者・マスターではない」と。
今回は宗教や格式を超えて、愛を持って気さくな形で人類に語りかけてきてくれた。
この愛の神を本当に信じ、心に受け入れれば、本当に世界の観方と経験が変わると思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome
答があるはずなのに、その周りをぐるぐる回っている。カフカの『城』のような。
ぶれている二つの画像を、重ね合わせて焦点を結ぶようにしたい。
視界の中には、いくつかひっかかる部分があるかもしれない。
思考の中にも、いくつかひっかかる部分があるかもしれない。
目的を立て、そこへまっすぐにたどり着けるようになりたいと思う。
頭の回りくどさは、何かへの気遣いのようである。
心が思考の方向を決めるのか、思考から心が生まれるのか。
そんなことがわからない。
徐々に近づいて行く悟りの方へ、考えてきたことはその実際を心から希求する。 見える答えは掴める答えだ、見えない答えは、掴めない答えだ
その見えない答えは掴むのではなく、答えに掴んでもらうのだ、
答えを掴みえる存在となれば、答えが自ら掴んでもらいに寄ってくる
見るのではなく、見てもらうのだ、目的を立てるのではなく、目的が自身を存在させるのだ、、
心は思考を生み思考は心を生み、状況はそれらを生み、心と思考は状況を生み出す、
表裏一体とは、全てが繋がり全てが廻り回る循環だ、
自ら悟るのではなく、悟りが自然とやってくる、悟りが自分を形作る、
それが理解できたとき自然人になれる、自然は自然人を常に祝福する。 >>65
見えない答えは掴めない、だから来てもらう、魚釣りにも似ていますね。「フィッシュ・オン!」。思考を釣り上げる。
星を掴めずとも、星は夜空にある。その距離があっても、星は星。十分に、親しい仲にあるわけです。
その際に重要なのは、光を掴み、星という存在のもたらす、意味を熟慮することでしょう。
分からないから一生懸命考えるという、プロセスを与えるだけであっても、見えないものは、
意地悪ではないわけです。
ぐるぐる廻る「自分」というものが、何らかのきっかけがあったために、分かるときが来るかもしれない。
そのためには、意固地になって背を向けてしまわないことが大切であると思います。
まあ、意固地になってもかわいらしく思える人もいるわけですが……。
物事が見えるということは、それを操る資格と能力ができる、ということです。
自然へと至ることが出来れば、それは人間が帰る場所として、正しいのだろうと思います。
想いを逃した悔しさは、沢山の機会がその人に対して巡ってくるだろうから、自分ができなかったことを、
悔やむ必要もないのかもしれない。
だから、自分が欲しかったものは、客観的に見た場合、それほど重視する必要がないのかもしれない。
自分が重視するものが、客観的な意味とは一致しないというところに、人間の未熟さがあるのかもしれない。
自分にとっての人からは、信じるということと問題についての多様な本来性を、抽出して得るべきなのかもしれない。(信念が
常に事実と一致して、豊かなものが、正しく与えられることになる場合ばかりではないということです)
「今、ここに対する違和感」は、想いを信じ込みすぎているからなのかもしれない。
そういう意味では、「自然」というのは、一番普遍的であるものですね。
人を助けたいという気持ちと、人が助けを求めたくても袖にされる恐れは、自然な人間となれば、上手にできるようになる気がします。
そのような状況においても、また新たな状況を作り出そうとすること、これが、信念によって作る幸福と意味の深さが、
無礼と無駄が、実質と空虚が、自分と他人との性質が、細やかな思考によって、だんだんと解かれ、恐れが深淵に変わる、
そういう時読みの深さを、得られるような方向を見させます。
見える、見てもらう、見させられる。 気が付けば縁が結ばれ、気結びとなる、感謝の気持ちで気を結べば縁ができる、
運という状況も気が付かなければ偶然は掴めない、運を呼び込むのは気づくこと
感謝の気持ちなしでは縁は結べず、そこに働きは生じない。
自分本位で成すことは、強すぎれば祝福されない、不自然だからである、
祝福される自然さとは感謝の気持ちをもって縁を結ぶこと、気がつくことである、
すべて存在がもつ才能、必禅の元へ誘われる。
その才能とは感謝を続けられるかの存在の本質。
世界が無条件に祝福する心をもてば、無敵である、感謝の念を篭めて。 >>67
そのときそのとき、自然のあり様を知る、それに働きかける、それに情念を結ぶ。
紐の結び方はいろいろありますが、それがほどけないようにということを、考えるのでしょう。
思念の紐は、自分の中で結ぶこともできますが、人との、物事との縁が、途切れないよう、
想いを込めた方がいいのでしょう。
「言葉が人を作る」ということもありますが、言葉で運命を唄い上げ、あわよくば運命を変えようとする。
連なった言葉は、連ねられるほど強く意味を作り上げ、それは、独自に多様な意味を可能とさせる。
その多様な意味を、真理を解くのに使うことが出来る。心の中で、ある意味が似たような意味を
縮約させ、いくつかの意味がまとめ上げられる。それ故に、代表的な表現は、全ての代理を果たし、
通ずる道は、いくつかあっても、言葉は行きつく場所を開拓して、自分なりに、道路も荒れ道も、
通っていくことになる。その中で、頭に何かが浮かんで、それをよい考えとして、自分の手柄にする。
独自性と、公共性は、共にありうるものですが、同時にそれは、妬みや諍いや命令に、幻惑されて
頭を沸騰させる。それだからこそ面白い、そんな気分でも、行きたいものです。
雑念や雑音のない世界の中で、高められた戦いの、行方を、戦わなければならない。
それは、当然に、心的なもののことを言っております、自らの時間と身体を、勝ち取るための、
勇敢な思考であります。人が生きたかった未来を、自分が生きている、ということを思えば、
僕は謝らねばならない。そして、感謝をしなければならない。そんな気持ちになって、
でも、僕は、今までやらねばならないと思ったことを、やらなかったことはありません。
今からはきっと、色んなものへ、感謝をささげましょう。心の表現が、上手くなれればといいと思うのですが。
感謝を、表させていただきます。全てが統一されたような気持ちと、豊かな想像の、祝福の中で。
相互への試みが、どんな形であれ、無駄ではない、と思うのですから。
パワーを出して、どんなことも、できることはやっていこうと。
結局のところ、先輩も同級生も下級生も医師も、会った人の顔は、良いものとしてだけ思い出されます。
それが僕の一番身近な感謝です。 感謝とは心の書で、当然として正しい感謝と間違った感謝があります。
何が間違いで何が正しいというのは、感謝をしようとする本人にしか捉えられない類であります。
正しいか間違いか?感謝してみればわかります、自らの心に感謝の書を描き(文字、漢字ではない)
想念や観念の類である感謝を導き世界と自己を結ぶとき、正しい感謝か呼び込まれるのです。
そして感謝は自分が行う所業を意味している訳ではありません、自分の所業の想念により
そこに感謝が正しく生まれ出るということです、正しく感謝が成されれば祝福(秩序)されるのです、
より自然になるのです、私が具体的に感謝の手法を示すものでもなく、言葉で感謝を説明
できるものでもないのです、感謝を生み出す術が感謝という想念を生み出し、それに感謝に至る初動として
感謝へと繋がります、感謝をする達人が居たとして他人が達人を見たとしても普通の人にしかみえません、
何が違うか、感謝が正しく働けば不思議な何か、言葉では説明できない何かが現れるのです、
それが自ら捉えられるようになったとき、答えや目標とする正しい感謝ができたことになります。
そこに辿り着くには正しい礼儀(自身の考え)をもって作法を考え、正しい感謝と思えるまでバランスを問い
続けることだけです、誰が具体例を教えるわけではないのです、自らが感謝が何かを理解できなければ
それは感謝ではないのです、言葉で説明できるものではないのです。
的を射た感謝は、弓道における弓が的に当たることと同じです、成した心が、言をもって射する
類かもしれない。
心の中で繰り返し感謝と思われる想念を浮かべ、それが何かと気が付けばいいのです、
「気が付いた」それが正しい感謝の始まりです、不思議な力(祝福)が現れるとき、
それが真の感謝に辿り着いた証となります。 自分自身にとって、生きる目的は何か。それは、僕の場合は、自分自身と最も親しくなること(自分自身を知り、不安を消す)、
または、自己の中の神を見出すこと。自分自身が同一化して、さらに、神とも同一化する。他人との接触は、自分が他人を
体験することはできないのだから、神を通じてわかり合うしかない。交換である。自分が生きているうえで、目的とするのは、
神との同一の時間、神とのかかわりの時間、そしてもちろんそれは究極の体験として、生き続けることの逃れられない
本性であるから、自分自身が神との同一の時間を持つことで、自分自身が最も高く置くべきでありまた最も近くに寄っていく
その対象を、二極の相互存在として、完成すること、である。
このように考えた時、岡真史の言った、
「ぼくだけは/ぜったいにしなない/なぜならば/ぼくは/じぶんじしんだから」(岡真史『ぼくは12歳』)という言葉が、決意の言葉
として受け取れるのである。
神様がいなくならないのに、自分がいなくなるということは無い。そして、神様はいなくならない。だから、自分はいなくならない。
という風に言うことが出来るだろう。そして、それを実感として支えるのは、自己の意識の極限としての、先の、自分自身の
直接観取、神との同一、そしてその先にある、神の存在の実感ということである。それに基づき、無限の数の仏が、
曼荼羅の中に描かれたように存在する、というのが時間性の永遠における世界の把握、つまり全ての人の数だけ存在する仏が、
全て実在し続けるという見取りである。
つまり、生きる目的は仏になることであり、生きる目的を得た(悟った)ときから、よく生きることが出来るようになるのである。 現在と言うものは倫理的な要請によって重要であると位置づけられるのである。それは自分と言うものと他者と言うものが、
完全な相互理解に至らないため現在において理解しあうために必要であるから、現在が特に重要視される。
同様に想像の世界というものが、現実の世界よりも低く位置づけられる。現実は実際に影響しあうから、一番重要であると
みなされるのである。
だが想像の世界を作るということは、人間の行為の中でもとても重要なことである。想像が出来ないものは理想を作れない、
そして別の可能性を取ることが出来ないのである。
現在において法的に世界の中で決めつけられた序列をしっかりと学び、現実に適応してしまうことは、自分の頭を縛ることに他ならない。
違法行為をこっそりやることで、因果的に決まった横並びから逸脱したぞ、うまくやったぞ、というようなことを誇るような人に、
劣等感や焦りを感じるのは、よほど不幸な人である。
実際には、現実の獲得も他者の心の獲得も、それらが想像世界に於いて達成されたとしたって何の見劣りもしない。
つまり、自然ということを追い求めると、現在がそれほど重要であると考えることは、必要がないのである。
現実の粗暴さ、現実の自己欺瞞。
自然に、過去や未来の世界、また想像の世界に浸り、考えることも、それはそれで思考現実という現実である。
つまり、価値というようなものは、理解という意味ある行為を必ずしも助けるものではなく、そこには経験と想像を使って、
内面の序列、構造が、作り上げられるべきであるということが、大きなこととして光を当てられなければならない。
何事も現実が上手くいくばかりではなく、自己の能力が調子が悪くなってしまっている場合、現実と言うものの中に、
自分の居場所を見つけようとしても足の骨折をおして歩くことになってしまうから、現実を置いておき、想像の中において、
自分の頭を使うようにするのである。
自分にとっての自然を、確保することがまず重要なのである。
その上で、自分にとって良いものを徐々に選んでいけばいい。そうすることで、青春の真っただ中にいる自分になれる、
壊れてしまったものが元に戻る、価値をどのようにしてか達成していたよき思い出をもう一度取り戻せる、それらのことに、
遅すぎることは無い。 70.
生きる目的は仏になること、か。
生きるということは生活の問題である。
宗教は生活の問題ではない。 >>72
生活なくては生はない。死があっては生がない。そこで、するべきとは、生を維持することである。
生を維持していて、感じるのは、目的を見つけたいということである。生活が欠いているのは、
思念の世界である。目的を探すことは、思念の一種である。
では、ここで一つの仮説を提起したい。小さい頃の自分の考えが、一番自然で、迷う過ちがなかった、ということを。
つまり、不幸とは、自然な喜びを失ってしまっているということだ。別に速読が出来れば優秀であるということではない。
限られた人生で、一つ一つの思考が、楽しいという状態に戻れば、何も面倒なことは無い。それには、速さなどは関係がない。
一つ一つの行動が、着実に行うことが出来て、一つ一つの考えが、安心の下、損なうことなくできればいい。
こういう、不自然な負の状態に至るというのは、人の事を考えすぎたからではないだろうか。
つまり青春の時、生から脱落していく人は少なかった。そもそも、強い生命であった。
生活感とは、生の痕跡である。したがって、生活は生を離れてはいない。だから、生活が宗教と無関係ではない。
生活感の中に、悟りを見るということも可能である。極端な観点で物事を見るのは、遠回りである。
信仰心が、宗教の本質であるという点はあるにしろ、宗教は人生でもあり、生活と切り離して考えられるものでもないだろう。
もちろん、夢を見たりするとき、興奮するのは、何らかの特殊な達成に対して、自分自身が別の次元に達した、という爽快な
感覚に没入することだ。この特別感が、宗教の、特別な目的としてとらえられるものではある。
塔の中を、二人で舞って上昇していく、そんな夢が特別だ。そんな夢が現実となれば、最上である。だがそれは夢だ。
現実の複雑さは、夢の複雑さと同等なものであり、現実に帰ったとき、やりたいことだけをできる、遠回りではなく
今こそが全ての自分の生きる生き方に他ならない、というふうに気づいたとき、それは自己の現実においての覚醒である。
一方で、何らかの特別を生き表現することに、理想を託す、また別の一方で、現在の奇跡的な自己の能力(認知、身体の能力)に、
再び驚くこと、どちらも、生きるに値することだ。
自らの想像に論理性をもたらすことさえできれば、優劣によってはかられる必要はない。 73.
宗教がなくても生活ができる。
仏にならなくても生活できる。
生きていくのに必要ないものである。 >>76
人がいなければ生きていけない。秩序を保つための道徳心が作られねばならない。善悪を決める観念を育てるため、
倫理学が必要であり、そのために宗教が必要である。仏のない世界は、鬼の世界となる。
倫理を、様々な形態に、自由に考えても良いだろうが、弱者への目線を育てることが大切である。
もちろんそれで独善的になってはいけないが、純粋でありつつ、しかも強さを持つためには、宗教の教えを作り上げていくことが、
罪の世界に必要である。
多くの人間が救われる必要があり、対立を解消する手段のために、心と裏腹な罪を犯してしまうものである。
それを、悲しむ観念が、人の頭に浮かんでくるのだから、生きる上では、それらの、罪への癒しを担うものが、なくてはいけない。
そういう点で、必要不可欠、必ず存在する、というものが宗教である。必要であるかどうかという観点で物事の本質に
迫ろうとする思考自体は良いが、それを生に当てはめるのは、よほど条件を見据えないと、正しい命題の形で
提議することはできないだろう。多くの物事を説明するための許容度が問題となるだろうし、個人の哲学的
必要条件は、全体へのかかわりの法則を、含んで再構築されねばならない。 目のいい人は、中心視野をよく使えるらしい。黄斑を使うのが、中心視野である。
www.me-kaiteki.com/recovery-method/visual-training/extraocular-muscle/usage.html
頭の使い方は、頭の狭い範囲に集中してみてはどうだろうか。広く活性化させようとするとうまくいかない。
思考のエッセンス、感情のエッセンスは、凝縮された狭い点の中にこそあるはずだ。
目を使うように、頭を使う。現在は、より狭めてこそ現在である。
目を閉じて、暗闇の中に集中する。その中で一点を得られれば良い。 時間を使わないと本質的な論点がはっきりしない自分の中のもやもやがある。
その場ですべてに対応しようとせずに後回しにすることが議論の場での正しい行為であることが自分にとってあることがある。
つまり自分にはわからないことがありでも気になることがある。
それは一つの新しい基礎だ、少なくともその当人にとっては。
初めのうちは分からなくてもあきらめてはいけないし、分からないことに絶望する必要もない。
本当にわからないことは端的に時間をかけてもわからないということであり、レベルが全然違う。
分からないということが逆に安心を与えることもあるが。
従って気になることはすべて解決可能なことであるのであって、時間をかければわかることである。
その時間を持てるということが先々への努力が可能かどうかということをはかる一番のバロメーターである。 >目のいい人は、中心視野をよく使えるらしい。黄斑を使うのが、中心視野である。
感のいい人は、ものの具体性やものの表面を見ない、感触や、色、音や味という
目でみる形とは違う多種多角的な物差しで目的の中心以外を捉えて全体からの
雰囲気を心に写し取る。
>頭の使い方は、頭の狭い範囲に集中してみてはどうだろうか。
頭の良い人は、他人より秀ている故に狭い集中による、つまり秀才の才能である、
頭の弱い人は、他人に思考をさせ、全体としての流れを読み取り流される、
ただ他人の思考の本質(抽象的特徴)を掴み、それを活かし、他人と他人を繋いでゆく
そして相互が全体として活かせる形を創造することが頭の弱い天才の才能である。
暗闇に本当に何もないなら、暗黙をいくら積み重ねようが暗黙である、
暗黙に人工の偽星という明かりをつくり、それを手がかりに暗黙ではない状況作りは
暗黙だと確信していた世界に希望を作り出す。 >時間を使わないと本質的な論点がはっきりしない自分の中のもやもやがある。
もやもやは、もやもやでいい、もやもやとは経験的に知識的に、それと比べる具体的な何かが
見つからないからだ、あえて論点Aとか論点Bという風にありそうな要素として名前付けしてみる
そして、それをはっきりさせる方向を計りとるには"定義する"のではない、定義されるように仕向けるのだ。
論点Aではないものを除外することはそれほど難しくないはずだ、つまり論点A以外を無数に
探し出してゆくことで論点A以外を具体化できる、もし論点Aを強引に具体化してはっきりさせれば
論点Aを強引に定義した結果として答えは歪み、その安易な思考は真理とはずれた別の本質を掴み取る、
合理性の呪縛に呪われるだろう。
答えは試行錯誤で縛るのではなく、それ以外の何かからうっすらと導きだしてもらうべきだ。
才能とは実力ではない、長期の時間をその才能が示す結果に進むように続けられる事、その長さである。
実力で得た具体的結果がどんなに優秀で素晴らしいものであっても、それは実力であって才能ではない。
偶然与えられた情況と運によるもの、自らが進むべき持続力ではない、積み上げられた才能から生み出した
結果とは違い、最初からできた実力は恐ろしく脆い力でしかない。 答を出すことを恐れる必要はない。それは修正できるものだし、次へ次へと条件をそろえることで、先延ばしにしていては、
何らかの欠陥を避けることについてまわるリスクを、取らない駄弁の脳になる。
特に、時間感覚などについて、上手く時間を捉えられないのだとしたら、ああ、いま5分たった、などと答えを決断することで、
十分に条件を無意識的に考慮した時間の実際が、経験として頭の中に出来上がることを知るべきだ。
優柔不断は、恐れである場合もあり、硬くなってしまっているということもある。
「ただ考えるだけのこと」について、避け続けるのは、悪い習慣である。
自分の知識が足りないのか、騙されているのか、おかしいのか、信じているものが悪いのか、善知識の出番だ。
そして、懺悔するためには、覚悟という行為(決断から答えを表してみること)を身につけて進めるのが良いだろう。
直観は否定できず、自分を騙すことはできない。従って、本当に人を騙すことも、できないことである。
責任を担えるようになるためには、問題の答えを、仮にでもいいから、出していかないといけない。
かりそめの人格は、人を損なう厳しさを、避けられるものである。
信念思想には、自分で実際に関わっていくという面白いことがあり、新しいものを生み出していく、あるいは新しさを実感する、
そのためには、入門のまっさらを、再び顧みなければならない。
蜘蛛の巣が破れたら、また張りなおさねばならない。どういうことかというと、真理を捉えるために構築された理論は、
柔軟性があり、何度も張りなおすことが出来なければならない、即ち、自分の信念を、感覚を、たくさんのものに
合わせて、それを得られるために、考え直す、そんなことは、しなければ腐っていくばかり。
自分が無能なのではない。考え方が無能なのだ。あらゆる脳は、十分な可能性を持つ。
そういうことから、努力の普遍性が成り立つ。
扉を開けない自分を持たないことだ。縮こまって閉じこもったような経験は、渇望の強度を記憶の中に感じている。
様々なアプローチにおいて、近しいものも遠いものもあるが、一致の方向へとそれが向くならば、それは直観と経験によっており、
それは自分が現れるという、ハイライトである。 物事はうまくいく方へ向けられる。文章を読んで、持論と違うことがたくさん書いてある。僕はもう、悲観して諦められなければ
ならないのか。いや、物事は、正しさに飛びついてはならない。自分で考えることが、正しさ以上に重要である。
いつも正しくあらねばならぬ、それは、実際の責任を負う時だけだ。まだ余力がある、社会体系への不満もある、
変なことを言ってる偉そうな思想があちこちにある。
それらは皆、自分の思いたい方へ思えばいい。例えば、将棋では、目的を持った指し方をしなければならない。それには勝ち負けと
同じほどの重要さがある。つまり、雑多なものをあちこち動かしているような意味の見られないことではなく、自分の思念が
一つの方向へ向けた、そういう経験が、破れたとしても生きたということになる。自らの力は、正誤を気にした貧弱な
意志として、生きてしまってはならない。そもそも、生きるということはどういうことであるか。考えることが、そのキーポイントであろう。
自分で決まった方向を向けない、生のマスターではない。あまりに縮こまっている。人ばかりが立派に見える。
店などで知らぬ人に目をそらされる。それらは、妄想であり、顧みる価値はない。
過去を忘れがちになる。長い範囲はとても思い出せないだろう。だが、一瞬、脳裏に浮かぶものがある。それが過去だ。
現在から振り返った時の過去だ。それ以上に思い出せなくとも、それはそれで、必要はもうなくなっているはずだ。
必要な物だけを考え、決断の方法(1、思考に目的がある。2、過去を知っている)を存分に使っていくなら、それはずいぶんと
楽しい生き方に他ならないだろう。
人は、大したことを言ってくれない。騙そうとする。上に立とうとする。僕自身もバカにしたりすることもある。それらはみな、皮肉でしかなく、
哲学思想として目を向けたり、囚われたりしても仕方がない。もっと大切なことは、自分をつぶさず、何らかの意味を、自分なりに
なしとげることである。自分が生きなければ。励ましたいという心を、美しく楽しい交歓を。恐ろしくなったら、自分自身の意思を。
強さがそこにある。人に騙されない。本心とやり口を見抜く。思想がたわむ。でもそこから自分で歩いていく。迷いなく、楽しく、心強く。 >それらは皆、自分の思いたい方へ思えばいい。
それでいい、だが、それは逆風に立ち向かう覚悟でもあることを覚えよ、
答えは安易ではない、なぜなら貴方が自覚しているはずだ。
正しさとは、結果を出した者に与えられる称号だ、結果を出せない努力や思いは過程でしかない
途中で勝とうとするな、最後まで諦めず与えられる勝利を目指せ。
貴方が勝つのではない、貴方の才能を認めたとき貴方が諦めなかったとき世界が勝ちを授けてくれる。
偶然に頼るな、常に必然の流れをイメージすれば、貴方が進める道は明白に現れる。 >人は、大したことを言ってくれない。騙そうとする。上に立とうとする。
湖のボートに乗り水をこぎ前に進もうとするとき、水は常に上位者によって進む力の土台にされる、
世界はそういう吊り合いのバランスで成立している、牧場の牧草が牛にらべられようと、牛は牧草を食べて生きる
それは生きる土台にしか使えない、それが生きるということだ、牛が最後に人間に食べられる、それも然り、
自分も常に何かを犠牲にして進んでるだからこそ、上に立とうとする、
ただ、そこに感謝があるかどうかが重要だ、牧草を根絶やしにし次に生えてくるそれすら上位者が根絶すれば
牧草は生えてこない、上位に立つものとして感謝をして根絶やしにしてはいけない、進むのに必要なものだけを取る、
それが下位に存在するものへの感謝である。
人の上に立つものが暴れ周り暴言と憎しみを下にぶつければその上位に立つものの立場が崩れる、
周囲を廻らせ世界を循環させるように感謝して上に立て、上に進めるものは足場は崩れず、足場が崩れるものは上に進めず、
世界と共に在れ、それが感謝だ、世界に対して負の感情を持てば見えない部分で足場が崩れる自分の足元に気がつけない。
世界の70億人の人口のうち10億人以上が明日の食事すらあやしい飢餓人口であることを、
明日の食事が確実にある豊かさに感謝しよう。 >人に騙されない。本心とやり口を見抜く。思想がたわむ。
人の言葉を信じるな、言葉とは呪術からはじまる呪いの技術である、
信じるべきは人の才能、人の本質、なぜならそれらは抽象的で掴み得ない何かであっても
具体性はなく、決して裏切ることはない。
理解するのではなく、理解されろ、信じるのではなく信じられろ、理解するから反感が生じる、
表面だけの言葉など、それは不快な雑音の類である、いらだつ工事現場の騒音は
永久に続くものではない、関係が必要ないものは気が付かないときに自然に消えてゆく、
存在する価値を現世が認めないものは、自然に消えてゆく、哀れな存在である。
表面に現れる奇怪な具体性など、クスリで異常になっている薬中毒患者が大声で奇声を上げ
あばれているようなもの、それを想像すればいいだけ、それは彼の問題であり最後にたどり着く
結果は想像を超えた末路、戻れない落下地点、南無阿弥陀仏。 自分が輝いている瞬間を願え、想像して自分の道を作れ、
それで覚悟を決めればそれも呪い、
呪いは後ろ向きに作用するものとは正反対な前向きに作用するものがある、
後ろ向きは負の感情に類する何かだ、自分で考えろ
それは前向きか?小さい1歩でいい、続ける才能があれば微動でも加速する、
後ろ向きに加速する言葉は死に至る呪いだ、共に死ぬ負の連鎖、
恐るべき呪いを理解すれば僅かであっても引き込まれる、触るべからず、
自分の進むべき道でも課題ではなく、最後に地獄に落ちてゆく亡者の怨念でしかない。
負の道に誘導するそれは冷たいようでも、踏み台にした土台と考え、理解せず
踏み台となってくれる感謝だけをしよう、負を知らなければ正は歪み正しい道はつかめない、
貴方にとって正しい道を示す負の現象は踏み台でしかない、上位者は貴方であり自分である、
踏み台に感謝しても理解してはいけない、工事中の道路と何の違いもない。
だが工事中の道路は蟻地獄の罠のように危険をもち危険を覗き見する物を誘惑し
仲間として理解させようとする、悪を共にしては悪に落ちる。悪とは貴方が決めるもの。 >>85
盛者必衰のことわりを表す……心の中に掴んだものが、だんだんと失われたら、どんなものでしょうね。それでも強く
川の流れとしての身を確かに持つ……たとえあぶくと消えようとも、そのミクロなメカニズムには、たしかなドラマがあるでしょう。
余りにも大きなところから見下ろされる仏様は、歴史的でもあられるけども、各個人にも寄り添ってくれる。
全てのスケールを、当てはめることでしょうか。
>>86
崩れる足場を思う時、循環による安全は、貪らないことであり、人の上位を考えることなしには、人間が世界を続けることは
出来ませんね。
>>87
言葉によって救われた経験が、ある人ほど、美しい言葉に近いでしょう。愛の告白を、自らの口によってしたか?
決定的なインスピレーションを待つくらいしか、日々の中で行えることは無いでしょう。
>>87
悪と共に……そんなことも覚悟の内になければなりませんね。土台に使うべきものとは確かにあります。 過去は見通せる、未来は見通せる、全て、この眼による視界と同じように。人の圧力は、暴力である。暴力は見通せなく
させるもの。過去も見える、未来も見える、暴力も感じる。必要な力。失敗もする。軋轢がある。
見えることに安心をする。言葉を紡ぐ先、言葉を立てる方向、全ては見通せる範囲のこと。
自分の心が現実性を帯びてしまう、理想の精神状態と、すぐれた能力も、今ここでしかない。
永遠を見通す視力、眼力を、悲しい感情と共に思い出し、その視力を実践することで、歓喜が生まれる。
泣くな、友よ、我々は、隔てられてさえいない、別の感覚の中に生きている。あなたの見とおせるものは、
時間と言うものであり、あなたに見とおせないものは、靴のなめし皮のようなものだ。
片方は高貴であり、片方はよくあることだ。子供は後者を気に入るのだ。
心の必然を折り曲げてでも、守るために変えなければならないものがある。
見えるままに、全ての危険を予知しなければならない。奇跡を信じるなら、その条件をそろえなければならない。
あなたは知っているだろうか、自らが仏であることを。
そして、どこにだって、見えるものが考えたことでないことは、ないのだ。
理念が身勝手な物であれば道を失う。だが私は、自らを言い張らないと決めている。全ては、人を後にはするまい。
ただ自分でできることのために、時を使うだけである。 過去も未来も空間も全て見通せるものだというのは、最強の考えだからね。愛しい人が、いる場所さえ、見通しているのだから。
それがどこなのかはわからないにしたって。死んで巡り会おうなんていうことは、意味がない。もともと、どこかにいて、
何らかの同じ時間の中で生きているのだから。近くはなくても、過去を見通して知り、未来への可能性も見通し、
空間の無限の中で共に生きて、苦しい気持ちは、その存在に預けられる。死をはやまることに意味はない。
人生の転機の、インスピレーションを待ち続ける、そんな風にしてみたっていい。 何らかの印象をつなげていくことが、認知である。例えば、読書なら、行頭からイメージを残しておき、次へ進む。
この行為が、字面で文章を理解する方法だ。なれれば、速読も可能になる。じっくりと味わって考えながら
読むことのほうが、より良いことであることも、言うまでもない。
同様、脳の中の働きの印象を、覚えて置き、関連付けていくこともできる。そのとき、世界は印象の嵐の中にあるのであり、
あらゆる可能性が頭の中に存在している。そこから、何かを得るわけである。これも、一つの瞑想的な思考である。
印象をつなげることで、知がある種では可能になるとすれば、こだわっている特定の印象に、別の角度から、
アプローチすることも可能になる。我慢するんだ。悲しい別れを、耐えるんだ。自分だけにしかできない愛し方を
すればよい。たとえ、今生の別れとても、信念はある。死ぬのと同じことだ。自らにこだわることは、浄土を
念ずることで、耐える自分が、人のせいにしないことになる。
たとえ自分の悲願があるとしたって、大変な境遇の中で苦しんでいる人もいる。それらすべてを救う方向へと
向かわせるのが、念仏ではないだろうか。対岸の火事を消しに行ってはならぬ。それぞれが正しい心を
持つことこそ、世が良い方へ向かう方法である。
「罪のひとびと み名を呼べ
われも光の うちにあり
まどいの眼には 見えねども
ほとけはつねに 照らせる、と」(「正信念仏偈」より引用)
つまり、この自分は大した心を持っていないのに、仏は救うという。仏の悟りは、世界の理解でもある。世界自体が仏である
ということは、どのようにしたら得られるのだろうか。それが不可能ではないということこそ、教えの真理に近いだろう。
世界は思い通りにはならない。考えは色々と工夫できる。心の世界の無限を、有限なる人生において無限の内容によって、
超越すること。つまり、生死に囚われないことが、命の本質なのであろうか。なぜ生まれてきたかということを、答えておられる
のであると思う。生まれた意味が、浄土としてあるはずである。必要のない命がないということだ。 物事を正しく得るうえで、最も大切なのは、時間である。例えば三秒の時間で一回転とする。三秒あれば、何かの
考えを思い浮かべ、解決することが出来る。長い文章を前にして、気が遠くなることもあるだろう。そのときは、
短い考えの集積として長文が出来ているのだと思えばよい。人生はなかなか長くとも、物事の理解は、単純で
短いことがほとんどだ。全てを理解しなくても、部分部分で得られるものがあれば、それだけでも十分に
価値があることなのである。というわけで、時間の使い方、得方には、いつでもできるということがあるから、
ぜひとも短い時間の積み重ねという、フォーカスを短時間においた自然な日々の暮らし方の中で、
難しくなく得られるたくさんの知恵、経験を、考えるべきなのである。いつまでも先延ばしにして、
ストレスを感じながら頑張ることは、重い金時計を首から下げた羊(村上春樹『風の歌を聞け』)
に他ならない。 >>93
>物事を正しく得るうえで、
正しさは重要ではない、なぜなら人が考える正しさは常として過去や現在の正しさを
考えるからだ、正しくとするならばまだ盲目で掴み得ない自分自身が進み行く
未来への道筋を想像したまえ。
>考えを思い浮かべ、解決することが出来る。
解決するべきは未来であって過去ではない、過去に縛られるのは後ろ向き、人間世界では
過去に囚われるものは未来を愛せない、無理不浄に立ち向かい未来を活かすことだ、
思考は常に過去に縛られる原理がある、そこから旅立つには過去を土台にする必要があるが
過去の力は人を支配し、全ての過去を捨てる覚悟と決意ができたとしても99%は過去の力
からは抜け出せない、未来へ進むのは羽の無い人がそらを自由に飛ぶこと、決して重力から
抜け出すことは、どんな方法でも無数の犠牲と努力と決別の上にしかできない技である。 才能とは、実力や結果ではない、無意識下から引き込まれる人の道、
考える前に誘導される方向、それらが自然に奏功を繰り返したどり着く必然である。
凡人と才能のある人の違いは、心の根底にその道筋へ進む何かの有無の差である、
言葉や意味できないからこそ生まれ持った才能と割り切るが、
人がもつ根底に眠る本質が変えられるように才能も根底を育てることで生じるもの、
まず必要なのは1歩だ、自分に呪いをかけ過去に戻ることを悪とせよ、過去を捨てる
それは過去を具体的に割り切り切捨てることではなく、「過去をぼやかす、曖昧にすること」
明確な過去や過去の知識、過去の経験こそ過去が現在をすばる呪いだ、
新しく唱えよ、常に前に進む、振り返らない、忘れさるのではなく重力に逆らう土台にして
空に羽ばたく道具にしろ、心の翼は心が病んだもの後ろ向きなものには使えない、
だが誰にでもある翼である、飛ぶことを諦めた鳥にあるのは過去だけ未来などない。
重力を切り捨てるのではなく、重力と共に重力を原理として飛ぶのが鳥の飛行である、
どんなに原理が強大な力であっても、次元を超えた心は縛れない、次元の絶対超えられない
壁を心に作るのは過去の現実である、幼いころもっていた色鮮やかな未来への好奇心、
無力で無知が故に進みだす無能で脆弱な力、中途半端な力を得たからこそ、それを忘れている、
貴方の中に封印した宝石箱には、未来へと繋ぐ「無能で脆弱な力」があるはずだ、 才能が無いものが自分の才能を開花できないのだけの雛形である、
死ぬ以上に恐ろしい壁を無意識に作りその先に手を伸ばさない、
馬鹿や阿呆といった能力を否定し、未知の領域に自分を陥れる遠回りで非合理的な
選択を無意識で選択している、なぜならそれが簡単だから、安易だから、無難だから、
進む選択を最適化するほど、その未知への領域を拒む過去の知識と経験の合理性に
支配される、現在停滞してどうにもならない部分こそ、その「過去の知識と経験の合理性」
が作り出した居心地のよい巣穴、その中でどんなに努力しても外に出ているわけではない
井の中の蛙、弱い心ほど、非合理、無駄、無意味、不条理、間違い、それらを恐れている、
ただそれらが全て助かる唯一の道であると気が付くことができるなら、
「死ねば助かるのに」というセリフの意味を理解できるだろう。
勝とうという気持ちがない、ただ助かろうとしているだけ、貴方は怯えている。
貴方が大事にする自分以外の他の何かを活かす気持ちに辿り着ければ、勇気が得られる、
自分以外の「他の何か」としてもそれは貴方の一部だ、どうすればいいのかは自分の心に聞け! この人の語りは徳の高い坊主の説法くらい値打ちがあると思うね、皆はバカにしてるけど
書いていることを読んでみると只事ではないということが分かるだろう
読んでないけど >>94-96
親鸞聖人の時代には、科学技術が発展することも、また、進化の末に人間が出来たということも、分からなかったでしょう。
それであってさえ、陸路よりは海路で船で行くことの利便性を、悟りについて説いておられました。
ですが、心の問題を、現在において考えるならば、未来へ行きうる、未来へ行くことが良いことである、このようには、親鸞聖人はお考えに
なっていなかった模様です。現在の世界に対する否定は、大きくあった。それは、それほどに苦痛苦労が大きかったからでしょう。
人間は、自分の力で世界を動かすまでになった。
それでは、最後はどこへ。人間はどこへ。幸せはどこへ。ただ進むこと、「死ねば助かるのに」、こういった考えは、
確かに未来を拓くためのものです。過去をあいまいにして、嘘をつくことをしないこと。
人には、好かれる人も嫌われる人もいます。そういったことを一つの原理として回っています。一般世間では明らかには
されませんが……。損をしたとか言うのは、一面の真理でしょうが、誰にだって、自らの命はある。それをどう使うか。
その輝きだって、オリンピックアスリートと一般人では大きく違う。でも、草野球もある。
全ては、完全ではないのだから。自分以外の「他の何か」これが、倫理的なお言葉ですね。
綺麗事を乗り越えて、自分にとっての真理は、もう見つかっており、これが自分自身です。余分なことを申しましたが、
広い世界があるらしい。心の世界も、現実の世界も、物事を動かす世界も。あなたがご自分を偽らないまま、進んでいかれ
ますように……。 531 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2018/03/04(日) 17:54:37.80 0
底辺、好きな人と付き合いたい。
底辺、人の気持ちを考えるだけで、セックスとかめちゃくちゃ下手だお(о´∀`о)自信もないし、やりたくもない。正直、いまとなっては、乳首舐められながら手コキされたいくらいしか欲はないおな。気持ち悪くてすまんが。
底辺、誰かと付き合うのは本質的に無理だと思う。
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1519363752/531 頭の中は、発火して、働きを持つ。
自分にとって、近しいものはある。例えば身体の周りの空間であるとか。周りには何かがあると思えばさみしくはない。
SNSなどによって、関係が近しくなることもある。
自分の周りの世界について、あそことあそこは近しいな、ということを、考えていくだけでも、十分に意味がある。
頭の中で考えるとしたら、自分の近くにあるものに対してこそ、大きな考えが生まれるはずである。
時間についても、どうように近さを考えなければならない。 この世は地獄である。そこにいるだけで大きな苦しみを受ける。壊れない楽しみは、この世には存在しない。
金剛の楽は、大涅槃であるのに対して、この世のものは移ろっていき、全て変わっていってしまう。
もともと親子の情、友の情、愛情などは、永遠を誓うことで、喜びとなる。それが破れてしまうものであること、
これが虚無であろう。
現実は諸行無常、浄土は常住、この流れに乗るために、現実には真実を、また本当を、行なわない手はない。
必要のある虚々実々は、心の問題である。それを、せめて知っているか、体験したかということを、していないといけない。
小さな過ちも、大きな過ちも、自らの怠け癖によって、起きるなら、大きな過誤である。
地獄にいる。どんなこともある。どんなにも苦しい。そういう観点から世のこと、人の事を考えようとするならば、
他人に対する執着心は、消えるに違いない。結局は、快楽と感情の間で、揺れ動くのだろう。
もし、地獄の次を望むなら、それは清浄かつ楽しい地で、常住の永遠を共に生きたい、
信心とは、誰も立証できないことを、自らの内で信じざるを得ない所にある。 言葉(事物も表す)と、論理がある。脳は、論理に対して自己を調整し、合わせなければならない。
論理が脳のためにあるわけではないだろう。だが、脳には不思議なところがある。
その不思議さは、悔しい現実の負けを、挽回するために使えるのではないかと思われる。
うれしい不思議さと、くやしい不思議さがあるのは、人間と論理が一致した状態に在るものではないからだ。
想像力を失ってはならない。それが、自由だ。
考えを論理に合わせることで、感情をかなりコントロールすることが出来る。現実以上の思考。
間違いもある、正解もある、中間もある。
もし自分が疎外されているなら、少しずつでも論理に付き合っていかなければならない。
それが自信になり、褒美となり、達成となる。
脳の可塑性とはそういった物だろう。
歩き方は、覚えるしかないのだ。一生歩けないのだとしたら、非常な障碍となる。だから、世界の物理的成り立ちに、
自分の考えと身体操作をしていくこと、が大切である。事物に対する付き合い方とは、そうしたことしかない。 理論を作り、それに当てはめて雑事を理解することができる。その理論に合っているかどうかを確かめることで、
理論に従った性質によって処理できるかどうか、という作業である。
一方で、本などを読むとき、その言葉から、正しい理論を次々と作り上げていくこともできる。
仏教者の立てる理論は、真理についてのものであることは間違いがないだろう。
つまり、真理を知ること、真理を操れることが、仏教の目的の一つである。
苦を楽にすることが出来るのである。
人間の極限と、世界の極限が、同一につながっており、人間の栄光と神秘の美しさを結びつけるようにあがくことが、
仏教の一つの目的である。もし、世界が見捨てているとしたら、人間の前向きな感動はなぜ起こるのであろうか。 人間に平等はない。体得能力、運、前世からの業、など。不平等のスープの中で、永遠を続けるのか。
そこに、浄土という思想が生まれる。浄土は平らかで、永遠にもいることが出来る。そこでは、
幸運とか、不運とか、苦しみとか、一瞬とかいったことは無い。
この世界に生まれ、不条理に嘆き、それで終わる?そんなはずはない。
浄土がある、いかなる悪業をするものも、偶然の楽しみを謳歌するものも、
全ては、仮のものではないか。つまり、この世は仮であるということだ。
だが、単なる仮ではなく、必然性のある仮なのだ。
信心とは、自らについて納得することだ。浄土について納得するとは、不平等への憎しみが
原動力になるのではないか。だれだってオリンピック選手になりたい。
だが、自分だって、それなりの力は出せる。これらの現象面での不平等を、
争わない場が浄土なのではないだろうか。なぜなら、争いと言うものは、
奪い合うことが目的だから。心もものも、奪い合うのである。
死というものは、なんだろうか。それは、挨拶の様であり、
苦しんだ後に死があるのではなく、死の後に苦しみがあるのである。
つまり、苦の受け手の自分は、朦朧としてもう死んでいる。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
2W2KV 前頭葉、後頭葉などでイメージを作るとき、ピントがずれている状態を、積極的に作っていかなければならない。音のピントもずらすべきである。
一つの気分も、ピントをずらすべきである。色んな気分が釣り合って精神状態を作っていると思われる。意志とは、自然な力で、作り出そうとするべきものだ。
時間の"ずれ"によって、特殊な時間を作ることが出来る。認識においては、人間が統合的に存在しているということから、認識のしかたによっては、悟りと
その向うを、見られるんじゃないか、その向うへ行ってみたいと思うものだろう。場所によって時間の流れ方が違うというのもありそうなことだ。脳の中で、
流れ方の違う時間を、それぞれにおいて健全で多様な時間の流れをつかむ方法として読経がある。自分を知ったものなら悪人と責められるべきではない。
なぜなら、この世があるのは、正しいジャッジメントの下に公正な行いがあることではなく、この世を回していかなければならないからだ。
罪の表れ方によって、意固地な心を改心させるように、仏が見守る。仏は次の仏と共にあるべきである。
夜が見える。光の方に道がある。悲しい朝は新しく生きようと何度も心に繰り返しながら、失敗してきたのだ。
果たして成功とは何か。
自己にこだわって一つの生き方を示すのだが、それが、強く思ったり、瞬間へ集中させるエネルギーの結果であれば、嘘ではないだろう。
つまり、自分の実践がなければ宗教とは言えない。実践の一つは、勇気と共に、ニヒリズムに対することだ。 日ごろの行為に気をつけることである。スリッパは右足から履くとか、習慣にしてしまっていては楽しくない。
あらゆるルーティーンを、その時その時で違う行為、違う考えにかえて、暮らしていく。
すると、固まった筋肉に新しい号令が出されて、気分も変わるのである。 >果たして成功とは何か。
永遠に負けない心、それが成功である、勝つ必要などないのだよ。
たとえ山が動かずとも、山を動かす心があるかぎり、山を動かす力は消えない。
天に輝く星がつかめずとも、天に届かせる手は無限に星に手を伸ばす、その心は諦めないかぎり
消えることはない、常に成功者である。
心が負けを描いたとき、それが失敗、敗北、自滅である。
戦うべきは自分の心の中にある希望だ、希望を失ったそれに未来などない、どんなに小さくても前に進む為の
チャンスを掴み取れ、高望みすれば落下するのが山だ。
希望への道は続いている、道を進め背後には悪意しかない。 身体全体を使って笑うことが大切だ。身体に対しての操作法として、お決まりのパターンに陥っているなら、未知の筋肉がある。
身体全体で笑うとは、身体を解放することだ。 >>111
思いが現実と同じものである、と見る世界観ですね。それは、一つの見方として正しいですよ。落下への恐れとは、
諦めたうえでの自滅ということなのでしょうか。神秘が生きることと等しいという見方は、人間のあり方を向上させます。 >>112
特に大切なのは、肺で笑うことである。笑うという筋肉の使い方によって、大きな筋の動きが可能となる。
すると、深い呼吸に達するために、肺や胸で笑うことの重要さが推測される。 暇なときや、時間が自由な時に、自分に対して思うべきこと。
まず、未来は分からないものだ。あるものが分かるということは、分かっていることを思っているというごまかしだ。
頭の中のある部分から別の部分へ意識を移して、それは初めての認識。それについて驚くことはできる。
つまり、知りえないから面白い。全てわかり切った疲れることがずっと続いていくばかり、と思ってしまうと、
生きているのが耐え難い。だが、知らなかったことを知るという場合、気が晴れる。それに目を見開いていくべきなのである。 柔らかなタッチで、脳や気持ちに接するべきである。柔らかいとは、高度な感覚だ。柔らかく触れられた意味、箇所には、
柔らかい反応を返すことが出来るようになる。柔らかくなければ、破壊の力となる。それに、包むというやり方で、
抗することになる。誰かが作ったもの。生命においては、柔らかさが進化の頂点である。知らなければ覚えればいい。
そっと触らなければ壊れてしまうものは、たくさんたくさんある。柔らかい暴力は、心の中にはない。
柔らかい心は、何よりも素晴らしい。 精神状態は、くるくると変えなければそのうちに収束する。変えずにいられないなら、他の方法を開発するしかない。
苦しい気持ちを、突き詰めなければ、その苦しい気持ちは、自己のあらゆる部分を襲うだろう。そうはいっても、
息苦しかったり、不安だったり、耐えられなかったりすることはあるのである。そのとき、何も頼れるものは、ない。
自分と、存在していても自分には与えられない世界があるだけである。そこで、自己が存在することは、良きにしろ悪しきにしろ
否定できない。それを使うしかない。十分に、苦しみを味わった後で、そこをクリアーしていくことはできるだろう。
観察の上で、何らかの自分なりの工夫を試していくことしかないのである。 思考を一つ保ち続けるのは難しいが、感情は持続させることが出来る。それにしがみつけ。
例えば怒りだ。怒りの気持ちは、自然なものだ。
例えば悲しみだ。悲しみは、心臓を掴むほどにパワーがある。
例えば楽しさだ。楽しいという気持ちをいつでも持てればよい。
例えば空虚感だ。空に至った感情の持続は、目的に向かわないようにするには難しいが、得られれば常にともにあれる。
というわけで、感情というものが、思考とまた別に持っている力について信頼するべきであると述べてみた。 >思考を一つ保ち続けるのは難しいが、感情は持続させることが出来る。それにしがみつけ。
何ゆえに思考するのか、すべては感情が成させる道、
自分に嘘をつくな、つくのは他人と自分以外の世界だけでいい、
考える根源になるそれを正しく認知すれば、根源が導く感情もその行動も、
すべて根源に従う、具体的にではなく抽象的に捉えろ、
具体的な思考を続ける意味などいくらでも解釈しなおせるし自分を騙し、捉え方で
なんどでも歪められる、根源の本質とは抽象的なものだ、何かを起源とはしていても
それを育てた環境も今までに経験した何かもが全て含まれる総体的な本質だ、
根源は認知しても言葉に表せる必要はない、イメージできればいい、自分が自分で
あることを認めることが今を生きる原動力だ、今が過去に流されないようにするには
未来への確実な希望を持て、希望は届く必要はない、ただそれに進む道を繰り返すだけ
道を描き進むのは現在の決意と覚悟、自分の未来は自分のものだ、目指せるのは
目指そうとする以外を忘れること、目指す希望以外は立ちはだかる壁でしかない。 全ての時間は、実体を縮約してとらえることが出来る。半年たった、ということを、一秒で置き換えることが出来るのである。
時間の実体性は、脳の機能のみが保つものだが、人間のはからいの中では、「意味」などとともに、仏にまかせないことの一つとして、
丁寧に向き合わなければならない。 この世の美しさと醜さを説明するのに、弥陀の本願が、いかなるものだったかということを、原理として、照会するべきである。
人間の一番の美点として、醜いものは自然に忘れ、美しいものが心を慰め、世界を改善しようとする心を持つということがある。
その美点ゆえに、弥陀が自分の仕事をはからってくださるのである。
釈迦は、そのことを、人生自体に秘められた力、時の惑わしに損なわれてしまっている本来の人間の力を、悟り、我がもの
としたのであろう。全ての縮約と、全ての自由、心の経済性、自ら捨てなければ力の使い方を知ることが出来るということ。
幻を思うのではなく、思考をまとめること。それらが、現実化したときに、願いが花咲き、無用な抵抗を考え出す必要は
ないということ。
誠に、現実には関わってもらい、またこちらから関わろうとできる。
勘所は、概念操作のしかたということだ。 なんらかの成功を、繰り返し味わうために生きているのではない。
生の本質を得ることである。欲望の本質を、ではない。オナニーは駄目だ。
どんな小さな種であれ、欲望を満たすことが、自己にも他者にも毒になる。それは、決まりきったコースを味わう
という堕落なのである。本当に、行動するとは、欲望を満たそうとしてしてはならない。他者の悪を制する
ということであっても、正義を満たす欲望に従っては、自らが傷つく。
では、どうするかというと、囚われないことである。自己の本質を、自己自体の為ということに従って見通せないだろうか。
ただ偶然に、さいわいを得る。汚れない心で行為する。自分の汚れを自分でぬぐう。
この世にあって、この世で好き勝手にやって、ということもある。それは、現実の中で変えねばならない。
魂に位階があるかどうかは良く分からないが、死後の世界にまで、恨み、正義でさばく、などということを、
持ち込んではならない。その悪人は、力があったからしたのである。それは、一つの珍しくない要素にすぎない。
現世とあの世を、分けて考え、それぞれをそれぞれなりに諦めることである。なぜなら、自分で考えて行為しなければならないからだ。
その行為の中には、当然、読経が含まれる。読経によって、自分で知ることが出来ないことを、行為することになる。
もし、自分が間違えてしまうとしたら、それを業として、引き受けなければならない。
自己の本質とは、欲望と、悟りと、生物体ということと、念を持つということ、そして業である。
それで結構ではないか。いったん楽しみながら、この生を送ることに、何の躊躇をするべきであろうか。
もし、自己が本質について不満に思うなら、考えを進めればいい。
自分の不幸を、世界や運命の所為にしてはいけないだろう。それは、精一杯生きるという約束を破る。
約束は誰としたのか?親である。また世間であり、他者である。そこまで踏み込んだ関わりを、当然に、
一般的に持っているはずである。 >この世の美しさと醜さを説明するのに、
美しさとはなんぞ、
自由と束縛、完全な論理秩序と、揺らぎのある非論理秩序、
カオス(混沌)と秩序を比較したとき、カオスが2つ以上の異なる秩序から生じる
原理と知れば、カオスも秩序なりか。
それは極所的で主体的な秩序と、広域の客体的な混沌が同じである原理で繋がっているから、
尺や計りの違いで秩序にも混沌にもなりえる、主体が限定されれば主体に対する秩序は混沌よりも大なり。
正義という秩序が主体にあり、その正義が相互に争う混沌が生まれるように。
我にとって美しいものが、他人にとって醜いものなのもある、相互の尺の共通点をとり共通の美しさを作れど
全ての組み合わせをみれば美しいそれは少なり。
秘められた力は、可能性だ、可能性を見出せない主体にとっては実になっていない理由により醜いと判断されるだろう、
その秘められた力を正しく捉え他から助ける力を加えて活かすことができたとき、美しいとなりえる、
秘められた力を示すのではない、秘められた力を自分以外が活す状況を勝ち取とれ、
我と神をもって合わせた力こそ愛と勇気と希望が導く祝福された一筋の矢だ。ビューティーセレインアロー >>123
尺の違いと言えば、自我と他人という、認識の違いから生まれる、どうしようもないもの。それを統合するのが、自然などの外部
に対する、働きかけ方ですね。祭りの情緒。可能性をどのように作るかということは、自我外の真理の一つでしょう。 意識と身体の二元論。身体のみに気が向く統合失調症には、自分に意識があるという感覚の発見は、新しいものだ。
意識には中心がある。それが、身体の不調を捉えられる。つまり、意識を治すこと、意識で考えること、これらは、
今までの身体、脳に閉じ込められていた思考を展開できる場所が生まれることだ。意識と身体の二元論には、
それを考えることで、それぞれを治すことが出来る。何もできずに苦しんできてばかりの、心と頭には、
自分と言うものが意識の中心にあるということを考えることで、少しは改善、改良が出来る。
私は生きているし、身体の不調を考えの不調と混同しない。意識には、見えないがつながることが出来るという
希望がある。 呼吸の中に意識は存在する。つまり、呼吸とはめんどくさかったり、息苦しい感じがしたりするものではなく、
その中にはっきりと意識を作り上げ感じることのできる、大変に落ち着く行為なのである。 >>127
意識とは、気が付いているということである。気とは、世界の中の人間存在を成すために必要なものである。
気がなければ、生きられない。意識がなければ能動的行動はできない。
では、意識はどのような働きに使えるか?それは、脳や心が不全になったとき、意識に向かって、自分の存在を、
自分の不調を、投げかけることが出来るということであろう。脳や心がだめでも、意識はある。
意識は、強制をしない。
アイデンティティを必要としない生命の基本。そんなものが意識ではないだろうか。 >気とは、世界の中の人間存在を成すために必要なものである。
>気がなければ、生きられない。
気とはなんぞや。観測(主体がない)できないものか?主体があってこそなのか? >>129
僕は呼吸法の本を一冊読んだだけなのですが、まあ、空気みたいなものですね。気体。頭の上から入ってきて、
身体の中を循環する。意識と、気の流れとの関係を考えました。
結局、観測は無理でしょうね。なぜかというと、人間の内部で感じるものであり、定義できるものではないからです。
主体にとっての、気です。でもそれは、クオリアなどと似た形で、研究対象にもなり、真実を得ることもでき、
極めることが出来、実際の効力もある。
そんな風に考えています。 >人間の内部で感じるものであり、定義できるものではないから
感じない、定義できないものは存在しないのか?
たとえば、知覚したことがない(発見されていない)深海に住む生命体とか、
命を感じなければ命はないのか?
主体が気を自覚できなければ、命のように命はないでいいのかな。 >>131
ええそうです、存在はします。観測が難しいのです。どういう存在のしかた方というと、普通に存在が確認できるもの
の組み合わせ、そして解釈のしかたということです。気の自覚は、程度問題でもあり、達人になるのは大変でしょう。 過去を考えることもできる。未来を考えることもできる。だが、一番生産性が高いのは、現在を考えることである。
現在には、明らかに、かなりの情報がある。それを考えることは、さらにそれに加え、大きな化学反応が起きる。
つまり、時間と言うものは、過去現在未来の区別をまずするべきであり、そのうえで、それぞれに対する思考を
行なうのが事実的な思考であると思うのだが、それはなぜそうなのかというと、現在と自分の思考が、
関わりあうことが出来ることこそ、本当に知るべきことであると考えるからだ。 対象について考えるのではなく、その前後の余韻を考えよ(悩め)。
真っ白、真っ黒な状態を考えるべきである。
余韻を考えることこそ、オリジナルで生産的な考えを浮かばせることになる。
何らかの決定的中傷、失敗などは、その悔しさ自体を考え詰めるのではなく、今はそうではない、
そういう対象もあったけれども、その対象(の特性、まつわるところ)を考える必要はなく、
ただ余韻を考えるだけでいい、それで消えていくものだ。
そして、創造的思考には、何の妨害もないのであり、自由で無垢な自分のこれからを、大切に楽しくやっていくことが出来る。
例えば、クラシックの音、その一つ一つは、いったい何なんだろう、何を表そうとしているのだろう、という疑問の様に、
「謎」「わからないこと」を考えることが、頭を使って生きていくことに他ならない。 〜したから〜をしてあげる。
〜だから好きになってあげる。
このような、善因善果の網を破らねばならない。なぜなら、このまま世界が廻り続けると、人は食料等を得るために、
地球上のすべてを使い果たしてしまう。さらに、因を工夫することによって何かを得ようとする場合、
感情を劇薬の副産物として生んでしまう。
〜しやがったな、仕返しだ(腹のなかがぐつぐつ)。
王権によって、法を敷く。指導者は、指導者以上の存在、それも無私なる存在を、いただく必要がある。
因果を逃れるには、何かを作らねばならない。そうして生まれたのが、サンガや読経だ。
多くの人間の集合として、因果を良い方へ向ける。そして、その中でも因果を感情と現実において超えたものが、
悟りを得た者となる。零か百ではない。自分こそが因果の表れである、私が正しく導こうとするとき、
その導き得るものとは、世界観、行為、意志なのだ。
世界を変えることが出来ないなら、この周りにあるものすべてが、自分であると考えるのだ。
そこに一として存在している私は、また全てに関わっている。一とはいえ、その一の生きざまは、
全ての人に対して読まれうる。
そのように、世界をよくするために、徐々に努力をしていけばいい。
零か百ではない。 表面の因果だけを捉えて真理であると判断せず、真の原因を、存在するものとして敬い、従う。
その因果は、孫悟空の手のひらの話のようなものであり、世の中の執着を軽くするのが、
様々な雰囲気である。いつまでも、居たい場所がある。いつまでも一緒にいたい人がいる。
縁を求めて、ただ謙虚にこの生を否定しないこと、そうしないと苦痛のみの空っぽの生だ。
立ち上がり、為したいことを成すのである。不遇は救われ、災難に助けを求められる。
今したいことが出来るなら、それをなすことは、永遠の因果という法に対して、
目を開くことである。何らかの不可能を求め続けるのは、軽い気持ちになってからでも
いいはずである。ただ自分を失うこと、それが駄々をこねた愚か者だ。
愚か者は、人を愛することをしないのだ。 どんな個人にも許されているのが、物語を作ることだ。現実と全く違う空想であったり、自分に起こった出来事を
まとめたり。物語的発展の想起が、人間の普通にすることだし、暇なとき、イライラした時、落ち込んでいるときなどにも、
物語を夢想することは大変な慰めである。物語の形に、色んな空想をすることが、知の精髄である。
物語を作り続けられるということは、大変喜ばしい能力である。 いいか?!
理解するのではない、考えるのではない、理と論が示す具体性こそ否定するべきこと、より抽象的に捉えること。
人の愚かさは知恵の実を食べたことから始まる、自分が優れていると思っていることこそ否定するべきこと、それは主体からみた人の知恵、
幻想ではなく妄想をする、それは非現実の実態を捉える方法ではあるが、具体的にするのが幻想であり、抽象的のまま捉えるのが妄想だ、
妄想は道具になりえない、故に意味を扱えない、ならばこそ自分が優れているのにふさわしくない愚かな考えによって抽象的は否定される。
主体が意味を問うものは、他の主体の意味に問われてしまう、主体として意味を問うのではなく、問う結果として意味を中てられるべきだということ、
自分が理解しようとすればするほど意味は逃げてゆく。
見えるものは真理でも本質でもない、だが無意識として意味を欲し理解を欲し幻を作ってしまう、捉えてしまえば理解してしまえば、
現実を得るのではなく、現実に奪われてしまう。
妄想や幻想を具体化しなければ知覚できない、だが知覚しなければ得られないというのは心が作りだした幻影でしかない。
何も得られていないと思っていても繰り返し行ったそれは裏切らない、見えない部分で貴方を支えてくれる、思考せずとも結果を与えてくれる、
貴方が見て行うのではない、それが貴方を動かし貴方が従い気が付けば、それが結果を出してくれる。
それが本当の力だ。 >>138
ルーン魔法においては、
調和の波を、なるべく短い時間で制御しなくてはいけません。そのために、魔法の瞬間に集中するとき、
その型は、あらかじめ演繹的に導かれた必ず正しい命題について、慣れていなければならないでしょう。
その向うに、さらなる新しいルーンを作るためには、辛抱強さと信念が必要でしょう。
始原の構成にさかのぼれば、神の意志を明かしていくこともできるでしょうが、そういう道は、
現実自体が真の意味を持つのでなく、その向うにあるものを、中心として生きる、そんな
態度でしょうか。
魔法をかける練習が必要です、演繹的に、パッと表せる程度の様々な真理をためておくことが、
練習です。答えは、出しても、後から修正できる。どんなことも、やり直せることがほとんどですから、
僕が様々な間違ったやり方をしていても、気が付くこと、世界へ従属している自分を知ることは、
大切だな、と思います。
生きるということの限界が、神仏を必要としています。生きることに限界があるのは、生命の不完全であり、
その完全化、あるいは進化を、達成することはできるのでしょうか。
答として、このままでいい、というのが、自然でしょう。悪いところにパッチを当てるようにするくらいにしておいて、
寿命に踏み込むのはやはり怖い気がします。
神には見捨てられそうですが、仏は黙って見ていてくれると思います。
失われた魔法が、なぜ失われたのか、それを読まねばなりません。
芸術、発見のために必要な忍耐を、僕も知らねばなりません。 まず、自分は弱いという認識から始めなければなりません。
他人から、お前はこうしろ、ここがだめだ、まだまだ……等々。
これらは、考えあわせると矛盾が起こり、先延ばしにして受け入れるくらいしか方法がありません。
ですが、勝手に答えを出せばいいのです。これはこうだ、ああだったんだ、こうしよう、なるほど……
これらの心掛けで、自分が進むべき道を見つけ、未来に溜めていくことがなくなります。
認識だけですが、魔法の様に心が軽くなります。 言葉というものは縛られている。舌が一つしかないからだ。また、一人でいるときにぶつぶつと呟くのも、ぱっとしないものだ。
言葉の本質は、独り言にある。コミュニケーションとしては力があるが、自分に対してどれだけ働きかけてくれて、
どれだけ一人だけでの言葉が自分を進ませうるかと考えると、こころもとないだろう。
人との間の会話、特に対立的になった場合、口だけでけんかをすることになる。
そこで、手振りを使うのである。口で言うことが出来た場合はいいが、口でうまく言い表せなかったことは、
自由な手を使うこと、そうしない手はない。
一人であっても二人であっても、口のみに頼らず、手を使って何かをすること、このことが、ストレスとみじめさを
解消するのだ。 ほとんどの懊悩の正体は、矛盾である。二つの曲を同時に聞けない、これがしたいが、命の危険のあることだ、
昔の嫌なことが頭に浮かんでどうにかしてやりたいが、現実には法と手間により、実現が不可能だ……。
頭にムカッと来るときは、たいてい矛盾に突き当たっている。
嫌な気分がしたり、つまっても、人やモノや運のせいにせず、自分で考えることが大切なのである。矛盾にムカッとしているだけで、
自分以外の何らかの要因さえよいならば問題は起きない、こう考えるのが良くない。矛盾を解決する方法はある。
時間が味方であることを重視しよう。
自分の習慣には、愚かなことがたくさんある。その愚かさは、自分のわがままであることがほとんどである。
落ち着いて、「ああであったらいいのに!」と思わず、「こういう風にすれば問題がなくなる」と考えねば
ならない。
〜したいのにできない、という矛盾になってしまうために、人は、別の道を取らなければならない。穴があれば
避ける手間を取るのだ。悪い人間だから、自分を不快なめに合わせるのだ、そう思ってはならない。
どんな人と一緒にいるとしても、自分が誤りを犯したというのは事実だ。それを嘲り笑われた、そうおもっていては、
本来の問題はなくならない。
つまり、人やモノや運のせいにせず、自分で考えるということが大切なのである。不思議、とか、怒り、とか、色々と
あるだろうが、自分の考える力を止めてしまってはならない。習慣的に、怒りの感情にしてしまうことで、何も考えたりしない、
そういう愚かさは、直そうとすれば出来る。矛盾には勝てないのだから、矛盾でなくする手順を考えるのである。 本を読んでそこに素晴らしいことが書いてあったとする。あるいは、絶対の答えを見つけたと心躍らせたりする。
それはそれでいいことだ。だが、そうしたことに従っているばかりでは、なんとなくすり減っていくような気はしないだろうか。
だから、本に書いてあることを超え、過去が押し付けてくる失敗感を超え、それらは、単なる言葉や気持ちにすぎないのであるから、
それ以上の、信仰を超えたところを探るのが、まさに自分というかけがえのないものにとって、重要なのである。
人からの教えを超えよ、信条、信念を超えよということ、もしそれが、自分が浮かれてしがみついたものであったり、
自己の構成において中核になることであった場合は。
得たことは素晴らしいことだ、でも、もっともっと、素晴らしいことが降ってこい、そんな気分でいると、本当には生きていない。
真の生き方、真の自分の働きへ──。自らへの信仰は難しいのである。それゆえ仏を信ずるということの不可思議さが、
上空のようなところに存在しているのである。
信念は、相対化されなければならない。 矛盾などと言うものは存在しない。どんなものでも貫ける、どんな攻撃も防ぐ、実践してみれば、どちらかが言われてきた通り
ではなかった、ということが明らかになるだけだ。
このスピードで車を走らせて、あの信号が赤に変わる前に通り抜けなければ死んでも良い、などと、願を賭ける場合もある。
だがどの矛盾は、じつは自分の命の方の肩を持っているのであり、信号などはどうでもいいのだ。そこで問題になっているのは、
自分の命の確かさを証明したい、ということである。だから結局、答は命の永続性の確認と、運の悪さを小さく見積もって納得することになるだろう。
そういう願をかけるとき、結局のところ失敗したとしても実際には命を失ったりはしないということを知っているうえで、そいう
願をかけるのである。それをあたかも神聖で犯されないような純粋な願いであるとは、まったく言えないのである。
ところが、そういう願は、本物のの願との類似性があることも確かだ。自分はそういうものとのかかわりがあり、自分は
そういうことになじんできた、だから……、と矜持を持つ。それは素晴らしい。だが、本当に命を懸けられるかどうかは、
証明されたわけではない。
命という存在は、矛盾の不可能にしたがうから、個体はそれを守るのである。もし矛盾が実際に存在するならば、世界はもっと
確定的なものとなるだろう。矛盾の不存在が、アウフヘーベンである。
命はなくなる。これこそが真理だ。不老長寿の薬があったばあい、命が永遠ではない、ということと矛盾する。
そう、さっきいったとおり、矛盾はない。不老長寿の薬はない。 正しく自然に視界を得ようと思ったら、視界外の黒い部分と、見える部分を、同時に見ることである。
存在と非存在、という縦に分かれたものも、両方を同時に考えることで、理解が出来る。
身体の偏りに、騙されてはいけない。存在と非存在の現実に、負けないようにして、最終的には
人間の勝利として、理解できなくてはならない。
区別と融合は、宇宙的物質存在の在り方のの原理であるようにも思われる。 私は、いつからか、自分と言うものの存在が分からなくなった。何となく世界すべてと等しいようでもあり、中心が自分の
なかにあるということを、否定できなくなってしまった。すると、自分と言うものの特別さを、全ての人が持っている
特別さ(個別性)と、同じものであるのだと気づくようになった。だが、それでは自分は特別ではないことになる。
自分の心は、その全部を完全な範囲まで広げなくともよい。自分の心は、世界の一部とこそ同じでなければならない。
目に見えるある一部分に、心を全てあずける。それが良いのではないか。私は一部だ。だからこそ違いがある。
人間構造が、世界とつながった、限定されていることの完全さである。広い範囲を求め続けることは無いと思う。 >私は、いつからか、自分と言うものの存在が分からなくなった。何となく世界すべてと等しいようでもあり、中心が自分の
>なかにあるということを、否定できなくなってしまった。すると
何の間違いでもない、世界が認めるから自分なのです
世界に認められない人、誰も貴方を見てないなら、それは存在(高尚な次元の概念)とはいえない。
物質として存在しても人としての存在とはいえない。
自分を活かすことは世界を活かすことと鏡あわせであり、両者が1つになって活きることが
世界を廻らせる、自然輪廻の力だ。 >正しく自然に視界を得ようと思ったら
正しい自然の視界とは、理解や知識や関係がなどではない、
自然が正しいと囁いている、自然が正しいと轟かせる、そういうことだ。
自らが正しく判断ではない、自然が正しいと判断するということ。 >ほとんどの懊悩の正体は、矛盾である。二つの曲を同時に聞けない、
敵の憎しみを受け入れられない戦争は、勝ちか負けの2択である、、
敵を力で洗脳服従させ物と化す意思がないのであるなら、
平和を望め、それは両者が相手と平等ではなく、相手より圧倒的に妥協する2つ同時に聞き理解するという
矛盾の選択だ。
世界は等価で公平であっても「平等」ではない、平等などありえない。
数字の1と2は量として平等であっても、それがふさわしいバランスなら公平で等価になりえる。 >数字の1と2は量として平等であっても、それがふさわしいバランスなら公平で等価になりえる。
訂正:数字の1と2は量として平等じゃなくても、
客観的1つの面からみた平等の価値観と、安定させるそれは違う
公平なら能力やら才能などに従い重み付けが変動し、比べられないものは
2つの矛盾を受け入れるには、共に1つになって働きを能力にしたがった補間をして
相互に活かし合う、相生と相剋が安定を作る原理だ
という考え「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」
主観的感じ方によって等価が変わってくる。 >言葉というものは縛られている。舌が一つしかないからだ。
言葉は始まりから呪術である、意味を生じる縛りそのものだ、
だが会話は音である、それは自ら生じる光そのものだ。
舌が奏でる音で感じさせうのか、意味として相手に論理に服従させるのか、
それは抽象的なものを結果とするか具体的なものを結果とする、
主体が発するものが果てしなく広がるか、果てしなく閉じるかの違いだ。 >>147
世界の一部と一体になる自分、その一部は全部の中の一部であった、という一休さんのようなことかもしれません。
認識にかかる部分として特別を認める必要はなく、世界に認められることを第一に考えれば、
人としての存在への足掛かりであったということかもしれません。
>>148
自然の一部としての自分を超えることはできませんね。
>>150
存在の正体とは、それぞれのものであって、平等ではないということでしょうか。
>>151
音も光になる、だから広がっていく、発信のもととなるということですね。 未来について、人間は、それが良いものになるということを望む。未来の方向とは、ちっぽけな人間の願いではあるが、
未来に良いものがあるのだと思わなければ、とても生きていられない。ただだらだらと、何の変化もなく同じことが続く
のでは、生きる気力は削がれていくだろう。だから、小説などは、先に向けて希望が書いてあるから読む。
この人間ネットワークの中には、きっと多くの人が、(まだ気づいておらず、鬱々としている人間、何のために
生きているのかわからない人間、それらは多いだろうが)前向きに生きようとするから、その合計が、
人間の存在意味を雰囲気として明らかにされねばならない。雰囲気は、コミュニケーションの中に
表れる。負の交流は、続くことは無い。小さな意見の相違、小さな傷、それらを保ち続けることが、
愚かなのである。未来の良いことに向かって、人は自分を生きることが出来る。
それは、どんな小さなことをするとしても、自分でもたらし、世界から持ってきた賢い希望なのだ。
前向きに生きることが出来るということ、それを楽しみとして、日々を送っていくのである。 力を入れ、力を抜く。
入れると抜くの、どちらが先か、どちらが根本か。あるいは、それは同じことを解釈しているのに過ぎないのか。
力を入れて、それを抜く。心の不安を膨らませてそれを抜く。一方の働きに囚われたとき、それはもはや力ではない。
力は両面を持たねばならない。自然な状態では、入れると抜くの両面を、おなじ、筋肉が受け持ち、脳がその二つの命令を出す。
あらゆる個所に置いて、抜いたり入れたりできる。これは、心の働きにおいても同様である。
どんな悲痛からも、その悲痛の感覚は抜くことが出来る。精神病においては、片方に偏ってしまっているのではないか。
力を入れる、と、抜く、生きることは、このコントロールをすることである。
観念には、突き詰めていくような自然な働きがある。自分で考えられる人は、どんな心も、自分なりに操れるはずだ。
そのために、観念や欲を極限まで広げ、ぱっとそれを萎ませる。
これは、人間の極限を、どう扱うかということである。
色々な考えを人間は持つものだが、その内容について、仮に作り上げ、未熟なものをおさめる。そういう風にして、
偉い人も偉くない人も、同じ考え方の論理を持っているだろう。
ただ言いたかったのは、緊張のみで出来てしまっている心は、簡単に緊張を解くことが出来る、ということであった。 過去や現在になんらかの恨みを持ち、やり返そうか、何とかしてやりたい、などと復讐の心は根深く心をしめる。
また、同様に、あることに失敗しそうで、心がぐらぐらして、脳みそが頭蓋骨に張り付く。
それらはみな、考えすぎなのである、もちろん考えすぎなのは普通なのだが、ぱっと萎めることが出来れば、
また別の考えが出来る。そうすれば何に囚われても、実際的に大丈夫だ。 人は皆考えたことがあるだろう。現在、過去、未来のすべてをなるべく大きく長く、記憶しておいて、自分の記憶力を
鍛え、優位に物事を進めたい、と。だが、それは無駄なことだ。
その、頑張ってとらえた時間について、ぱっとそれを萎め、なくすことが出来る。それこそまさに、「現在」を知った、
ということなのである。
全時間の把握、という方には、人間はプログラムされていない。自然、ということを重く見るなら、
「現在」を感覚する考え方こそ、本来的な人間の考え方だ。
時間感覚を無くし、一点に立ち返るようになること、それが本来のあり方であり、全ての真実なる考えである。
精神や人生の悩みはすべて、膨らんだものを萎ませることで解決する。 もちろん楽しいことはどんどん考えることが良い。苦味も、味わった方が良い。どうしようもない意味のない記憶に対してのみ、
萎めることをするのが良いと思う。自分にとって必要かどうかは、判断できるだろう。結局のところ、病性のものに対する
対処法として、考え始めたことだから、むやみやたらに痛みを避け続けることはいけないだろうが、一般的に
適用できることに対しても、この考え方はかなりの力を持つはずだ。 我々の多くは、見る物も聞くものも、ただ受け取るだけで、あまり考えようとしたりはしない。だから、目に見えるものを、(主に
前頭葉を働かせて)考えなければならない。ただ流すだけでは、あまり人間の本分を果たしているとは言えない。
文章に対するように、景色に対する。また、聞こえてくるものについても、良く考えなければならない。
過去のことで、思い出されることについても同様である。思い出された場合、きちんと考えるということをすれば、
それは思い出したということの本来の理由、つまり解決の力があることを、実行したということになる。
考えるということが疎外されてしまっているなら、逆のことをしよう。考えることで問題を解こうとすること、
それは、簡単なのだが、実践し始めるきっかけがあまりない。 で、そこまで断言できるなら既に悟っているのだろうな >>160
それはわかりません。精神の開放感を感じることなら、しばしばあります。それ以前が悪すぎたのです。
世界の全てを見ることなどできませんが、歴史が途切れないものであるということは言えますから、
小さな範囲で得たものを、少しずつ地道に話したりしていくことが出来ればいいと思っています。
その内容如何によって、僕がいかなる位階にあり、悟りを得たのかどうか、物事をどれだけ測ることが出来るのか、
それらがわかりません。もともとは、NEWなことを生み出すための才能と教養、基礎知識といったことを、
増やしていきたいなと考えていました。
丁度、自らの知る周りの世界と知識以外に、とても広い世界が広がっていると、思い知り始めました。
対立と不信は、蒙昧であることからくるものでしょう。
何らかの人生を、面白く楽しく、充実感を持って、真理を得て過ごしたいというのは、万人の願うところであると思います。
僕はなぜ生きているのか、生きたいのはなぜか、と考えてしまいますが、僕を生かさせているのは(身内の)真理である、
と言うことを思います。自分自身が生きているようでも、自分とは、身体のみなのでなく、他のものと(ややゆるく)つながっており、
それを意志させるのが、身中に存在する真理の存在であると感じ、信じます。 悟りを得た釈迦は決して神通力をもった超人ではないだろう
勤勉であるとか自堕落であるといったこととも関係がない
悟りとは自己という概念に囚われないものだ あらゆる可能性を果たしてから死んで行こう。脳の中には、使っていない(使いたくない)部分が沢山ある。
何事かの感情的異変を感じたなら、それを推し進め、使っていない脳の部分を開拓するのだ、と考えるのが良い。
身体についても、使っていない身体の筋肉はたくさんある。それが弱点だ。
意識においても、味わったことのない覚醒感、空間的、時間的意識は、沢山ある。
それらが、全て、自分を育てるためにあること、自分がよりよく存在するために使えることだ、と思いなおせば、
何の後悔もないだろう。重要なのは、姿勢だ。新しいものへのつながりであると思おう。他人のために生きるのではない。
なぜなら、自己は愛を得ることで、執着を解決できるからだ。
これはいったいなぜ執着なんだ、それは、甘えだったのだ。
これ以上行き場のないところまで行きつこう。そうすれば悟ったということであるし、使っていないところ、感じたことのないこと、
他人への気遣いが、何らかのコミュニケーションの末の奇跡へとたどり着くのだ。
我々衆生の誰一人として仏になれない者はいない。年齢も関係がない。生まれたなら生きよということだけだ。
自分を持てあましていないか。苦しみを逆転させよ。苦しみを解決するには、苦しみが自己の成長であるという
意識を持てばいい。広く深く自己を存在させるのが、生命として生まれさせられた人間達が自らの救いとして、
死と生の逆転を悟ることである。 生きるということはずいぶんと雑多なものだ。一本の線に従って、やってきたのだが、今は、昨日のことも明日の予定も、
人間関係のことも、思い出すことも、ミックスされている。
ここから何かを取り出すことが芸術で、全てを理解することが宗教だ。何故そうする必要があるのか?
そうする必要は、だんだんと失くなってきている。もっと実際的な事の方が、優先されるし、大切である。
そういう時代に、悟るということは、倫理観を完成させるために必要なのだろうが、昔なかった知識(新しい土地の風習、
科学など)が、新しい条件を与えている。
だが、心を病む人が多く、社会が向かうべき方向も、分からなくなってきている。
前は、悟らねばと一生懸命に5chをやっていたが、精神病が寛解して見れば、僕自身にその必要と才能が、特別に
あるとは、思わないようになった。
読んでいる人を騙すことの無いように、僕自身の悟りへの重点がどうかと書いておくと、「精神病が治るのが悟りである」
という言葉に、集約されてしまうような気がする。
いつも5chを頼ってきたが、「自分で考えなければならない」。以前よりずいぶんと力はあるが、考え直すべき時に来た。
いままでのずっとの集積は、いくらかの意味を持っていると思うが、これからも人間学として何か、考えられればいい。
新しいものを言葉遊びではなく考えていきたい。
長い年月が、新たな芽を育てることのできる肥料であったならいいのだが。
まだ、完全に苦しみが治ったわけではない。だが、必要なものは全て僕の前にそろった。
僕が(悟ろうと)誓うことが出来るのは、今まで、見てきた、聞いてきた、さまざまな種類の論理と、感情、正しかったことと間違っていること
に対してだけだ。僕に未来は分からない。だが、未来を含まない悟りは、帰納性を要請しているから、演繹と帰納の、二つの平行する
現実理解を、どこかで完全な形に表せるように目指したい。 何かを思いついたり、考えを変える時は、瞬きによる。瞬きの行為をするだけでいい。そうするだけだ、何も他人の
強要も、攻撃も、後ろめたさも、瞬きを制限はしない。だから考えは人との先後においても、自由なのだ。
人の瞬きは、自由と誇りと正しさと強さなのである。 生きるのではない、
生かされるのだ、それが生きるという本質
命の証明ではない魂の証明だ、
生きた証とはそういうものだ。 色即是空、色を否定している。世界についている色は、あたかも実在を主張する根拠の様に勘違いさせる。
人間存在とは、世界認知ではない。自己認知である。言葉によって考えない世界は、色のない、
白黒だ。考え続けることが良くない。考えたいという欲があるからだ。
全てが存在しないところの、ただ自分の存在というかすかな認知が、世界を人間のものでなくする。
人間は、半端ものだ。くだらないような思考に、賭けているのである。だが、世界の本質、性質は、
人間に左右できるものでないのも確かだ。人間は、人間の世界と言うものを、新しく作らねばならない。
そして、世界のうちに巣を作っているのだと、知らねばならない。
言葉ではない。言葉には力はない。言葉は、人に命じるという点で現実になる。
それでも、言葉にかけるような人間もいる。その姿勢も、良いものには違いないだろう。
だが言葉でない思考のことを知り、実践しなければならない。 自由な思考の一歩目として、自分自身の考えを、自分自身だけのために、上手くコントロールして、脳の力を把握すること。
例えば、頭の中に音楽が流れ続けている、そんな状態は普通であると思う。それを否定しよう。例えば、
「でも、僕」「でも、僕」「でも、僕」……これを永遠に唱え続けることで、自主的により深く自分の脳をコントロールできる。
お経とはそうしたものだ。
そうしたものを必要としない人はいる。それは大したものであると、僕の目には映る。 自分に対して、敵対的に侮辱を与える人がいたとする。その場でやり返せればいいのだが、人はしたたかで、思うとおりに
いかないことも多くある。そして、あとで、その人の事を考えると、怒りが募る。逆に、許すということも、自分の身、
感情に逆らうことになる。というわけで、お定まりの、二つの間で揺れ動き、どちらもとれない。
この場合、解決すると、それは中道である。その人が好きでもなく、嫌いでもなく、また出来事が許せないのでもなく、
赦すのでもなく、どちらの立場にも立たず、中道とする。
中道なんて言うのは、軟弱な処世だ、と思ってしまうかもしれないが、実際は、こういった苦難の末に、やっと導き出せる
重要なことなのである。
自分について、物事を忘れてしまうというのは、良くないことだ。なるべく、多くのことに対処できるようになれば、
人間が大きくなる。それゆえ、中道の経験を積めば、強く大きな人間になれる。 人の倍かかったっていいじゃないか。
あれを実現するためにはこれをすればいいと、
一瞬で脳裏を真実が駆け巡るだろう。
良い人間でない自分を発見したら、心のどこかを治せばいい、わかるだろう。
したいこと、思いついたら、即実行、あるいはプランの中にいれよう。
我を張ることに意味はない。
哲学からは、正しさがわかるはず。
書物に手をつけず、したいこと、するべきことをしなければ。それらの事態を抱えた人は、恐らく今の時代には多く居て、
一瞬でできることなのにためらっている人が多いだろう。
本当にするべきこと、気分を変えていつもと違うこと、簡単なんだ。
私はいま、部屋を整理しなければならない。そのためには、散らばっているものを区分けしなければならない。
区分けするためには、想像しなければならない。そして手をつけよう。
心は、自分の全てを知っている。 自分が生きるために、世界を動かす。自分がいる世界だから、関係を持っている。世界を理解しようとするのは、
その理解が、衆生の生きる方法を探すことと同じことだからだ。必要以上の理解は目的ではなく、
必要とされる理解は、大切なのである。
そして、生きることに、不思議さが現れてくる。他人とは何なのか、自分とは何なのか、世界とはどうできているのか、
良い死に方をしたい。ただ生まれ死ぬ、ということを、受け入れるかどうか。
大部分の人間は、それ以外には言いようがない。そう見ると、親鸞の様に、悪人についての味方を探るような
宗教を行うことは、確かに意味があることだ。
救われるということが、「人間であり続ける」、というような条件のみによるのだと、感じる。
分かることはわかるのだし、分からないことは分からないのである。自我意識は、知識によって構成される
のではないから、全ての自我が平等だ。
自らの場所で自らの責任を果たすこと。果たしたくなることが、仏性である。無理はしなくてもいいはずだ。
人間の力を知んじ、人間の良心を信じるからだ。
罪のようなものを重ねる人間、その罪はその人が背負う。
だからつまり、なるようにしかならないのだ。 >>174
誤字訂正
下から三行目
×人間の力を知んじ
○人間の力を信じ 鏡はその辺にある平らなものではなく恐ろしくいびつで歪んでいる、
心に映るものは幻想(具体的)な形が追加され映る場合と、妄想(抽象的)な形が追加され
映ることがある、自分が感じた世界を自分が認知する、つまり評価は常に世界と完全一致ではない、歪んでいる、
それは事実や現象の解釈を言葉と意味に認知する仕組みが、誇張と過小評価で変形するからだ、
理解とい方法と術が必ず自分の内心に潜む思いによって理解の仕方が1000人1000色と個別に違ってくる、
どんなに正しく本質を理解しようとしても、無駄だ、
理解するのではない、理解されることだ、貴方の能力で理解してはいけない、貴方の能力で理解される状況を作り出すという意味だ。
意味を成すのではなく、意味となるように成されることだ。
人は意味を発するときに心の鏡が必ず歪める、それが本質や、見えない本質を信じるとは、人が発する意味の「良心や力」ではない、
人がもつ天命、人がもつ宿命、考えずとも成りえる道と行方、意味として捉えられない「才」を信じるのだ、
生き物は必ず生きようとするのも本質的な才だ、知的な人が知識を理解して技術とするように流れるのも知能という本質的な才だ、
できるだけ安易に簡単にもっとも良い近道を楽するという心の流れも本質的な才だ、
これらの力は心の動きは裏切らない。
貴方が理解しようとする才は裏切らない、そこに自然に流れ着く、見えないものおはそういう類だ。
信じるべき本質の名を想像し、自然にたどり着くもっとも適切な才を後押しすれば、才は自然法則のように働く、 世の信じるべき、ことわりだ、
自然なままに流されたどり着く本質を読み取り感じ意味として理解できるとすれば、
それが全ての根源の力である。
「それ」を掴むのではない、「それ」が貴方に掴ませるのである。
理解するのではない、理解してくれる「それ」が入るのである、
それを理解してはいけない、それに理解されること、これが本当の世界の法則である。
それを求めればいつか、それは貴方にも理解として存在してくる、
しかしそれは、それ以外の何者でもなく、それ以外の名前などない。
未知の怪物、自然の法則、偶然を原理とする必然が、「それ」そのものだから。
技術でも科学でも知識でもない、いわいる背後霊のご先祖様のような類、
それとは物質主体の外側に存在する万物の魂のような存在である。
それを理解するには、信じること、心にそれが浮かび見えてくる。 >>177-178
才を発揮することが、生きていくことの、楽しみである。また、自分自身の確かさは、それを得ようとしても、
鏡が歪んでいる。つまり、心という鏡こそが、本当の鏡である。
さらに、理解されること。つまり、自分については、他者による理解の方が正しいことが多い。
世界の意志は、法則的ですが、法則的意思というものの存在を否定できません。
知情意でいえば、「意」を強くすることが、現在のところ僕が必要としているようです。 意(欲)を強くしようとするとき、頭を使ってもできない。腸などの内臓を使うのである。 >>179
才の力は意識や理解や認知など無関係に発揮する類である、
生きる才は、生物は等しくもっておりそれを意識する必要などない、
つまり特徴や性質という類である、生きる才は生きるに値しない状況や環境によって
変動しときに自殺とか狂気のような行動になって生を否定する行動にも化ける。
>現在のところ僕が必要としているようです。
人の次元で人の世界を認知し理解し関係を作るには主体となる人が必要となる、
人の次元がないならば人の主体など不要である、原子が化学変化する現象に人の観測が必須になるわけがない。
>意(欲)を強くしようとするとき、頭を使ってもできない。腸などの内臓を使うのである。
主に内蔵というが具体的主体は内分泌系といわれる分散した臓器である、あらゆる生態ホルモンを神経以外の
仕組みで伝達物質として作り出し、人という次元の根底に抽象的に現れる働きである。
精神が病む要因があると、それらが抗精神ホルモンすなわちコルチゾールを作り出す、大きなストレス下に浸り続けると
内分泌のホルモンは他のホルモンが作れず、コルチゾールを主体とする抗ストレスホルモンだけが作られ
その結果として全ての臓器はコルチゾールによって分解される、コルチゾールが高濃度で分泌されると痛みすら感じなくなる。 >>181
薬によってはバランスを崩しながら、対処箇所へ物質を送るような働きがあるのですね。それでも対処できない時に、
死を迎える。
夢や才は、その人だけのもの。それを持ちながら人と関わる。一人とみんな。孤独と連帯。
僕は、二十年ほどどうしようもなかったので、人と関わるときにブランクを感じてしまいます。
ニュアンスや、言葉を発するときの心の状態という機微。
でもまだこれからです。 >>182
バランスとは、単純感覚だと平均的で常識的なとどうしても思考が誘導される。
それは間違いだ、バランスとは対象性の秩序であり決して適当な平均値に誘導する
ことではない、高度な活動をする類は多面的な多次元的な秩序を保つことが維持であり、
それが簡略化され合理化され多様性を失うことで平均化され効率を求めて安易で
容易い流れに誘導されてゆくのが老いと死に至る劣化だ。
生まれ持った何かは、環境適応に準じてより抽象化し薄まってゆく、それが誘導される流れだ、
先天的に持つものと後天的に授かるものの違いだ、先天的に生き、後天的に死ぬ。
先天的な要素だけでは無限に分裂する癌細胞になってしまう。
高次に多様化した心と意思は、肉体を離れ「生きた証」を残そうとする本能により、魂という
形で人の外にオカルト的に作用する、形を捉えられず見えないだけで色はある、
そういう類であっても、個々の生きた証を残そうとするのが生き物の才でもある。 >>183
人の次元というのは重要なことだと思います。才について、様々な考え方があるでしょうが、才によって、何らかの
謎を解明しないなら、何の人生ぞ、と思います。 才能というのは、うまれつき持っているもの、意味をもって評価されたとき良い部分のみをみて才能という、
たとえ多くの人が言う幼児が天才と騒がれる能力を発揮したとしても、それを維持できない
そして投げ捨ててどうでもよくなるのなら、才能ではない。
多くのテレビなどで騒がれる天才幼児が大人になってその能力を維持できている人は
皆無に等しい。
最初はできなくても経過に苦痛を伴っても楽で快楽を伴っても関係ない、
最後に結果にたどり着ける、そういう人の底に眠る本質、つまり天命をもっているということ。
単に好き嫌いの類でもある、さらに好き嫌いの類は不変ではなく進化する。
大腸にいる微生物は善玉菌と悪玉菌というが、発酵をするのが善玉菌、腐敗をするのが悪玉菌、
そして発酵と腐敗の違いは人間にとって良いものを発酵、悪いものを腐敗と命名しただけである。 .>>185
その人の天稟を損なわないように育てるのが教育だと、岡潔は言っています。
いつからでも、才能に向き合えば、どうすべきかということは、わかるはずです。
でも、それさえも金銭的にできない人はいるわけで、難しい。
好き嫌いは確かに進化します。子どもは駄目ですね。
最近は天命を知ったような気分でいます。 全ての芸術が、何を表しているか、どう表しているか、理解できる気がする。平面的にしか分からなかったものが、
立体的に、現れる。すると、ルーツは辿れる。人間に追尾可能な全ての因果関係において。
何もかも、そこには意味がある。意味を辿ることが出来る。直観と、努力によって。 死をもって終わるとするべきでもないし、才能の後天的面も考慮しなければ、精神はもちろん、肉体身体面ですら、
生得的なものしか子供に遺伝しないからいくら頑張ってもしょうがないと
いう無意味なことになってしまう。後天的形質的遺伝の方が大事なのです。
だから子供の信仰を集めるなどして、後天的な死とは割り切れない緩衝的部分に
ついて考えてみるとよいと思います。 >>190
獲得形質が遺伝するかどうかということはモデルを説明できればいいのですが、むしろじぶんのDNAと同じものを
持っている子供が、同じ能力、人生をたどりやすいという風にも考えられます。
それでは進化がうまく説明できませんが。 後天的な遺伝ではない情報が子供に伝わるということはあるのではないでしょうか。 >>191
遺伝子は環境と共にある、人間の形、臓器の形、家族の形、社会の形、
人類全体の形、人間の知的認知の形、
遺伝子だけでは形にならない、生み出す子宮がなければ卵は杯になって胎児になってゆく
ホルモンの影響をうけない。栄養だけじゃ駄目なのだよ。
外からの刺激も重要だ、音、振動、リズム、
環境なしで遺伝子が形を人の作るとしたら奇怪であり機械でしかない、喜界の出来事で笑え。
赤ん坊から人間に育てられた猿は自分は人間の仲間だと感じる、
猫だって人間の仲間だと錯覚しはじめる、人間社会の形を受け入れることも形だ、
猿に育てられた人は、人間的なエリート能力の猿でしかないのだよ。
環境とは地球も。太陽系も。銀河系も必須条件であることを悟れ
普通である常識であることを考えないからこそ、かならず人から人が生まれると考える、
たとえ脳がないカエルのような奇形児でも親が人として死ぬまでの間は、人なのである。
人であるからこそ魂があり、命がある、それは環境である親と子の関係が脳のない人間に
なれなかった肉の塊、人間もどきにすら人間の定義を与える。
我が思うゆえに我あり、高次の認知とはそういう類である。 >>193
受精卵が環境の中で生まれなければならないということでしょうか。ホルモンの話は新鮮です。
嘘の気持ちなのか、本当に愛せるのか。本当の愛を可能にするのが、夫婦間の愛でしょう。 理想と現実がある。理想は、自分の思いが現実にならなかったとしても、理想として持ち続けることが出来る。
全ての現実を思い通りにすること、誰かが都合よく自分の理想を体現していた、ということもある。
というのは、現実から恩恵を受けるということだ。そのためには、自分も同じことを返す、それは
普通の感覚であるだろうか。別の形、テクノロジーの発展に寄与することが、また一つのお返しとしての
形でもあるだろう。
現実の中にあるから、理想を持てる。理想を持つとは、人間であるということだ。どんなに突飛な考えであろうと、
少しづつの貢献であろうと、人間であるからには、仕事のみではなく、理想のことを考えるべきだ。
どんな人間も食っていかなければならない。それが、一番簡単に表された現実だ。
現実を動かせないなら、理想を保ち続けるのだ。完全なる社会などない。自分の考える良い社会、
それこそは、各個人の抱く、それぞれによって考えられた理想なのだ。 子供の時、みんな仲良く、ということを言われた。それは、争うと統治が難しくなるからだ。そして、素晴らしい協力。
生まれたなら死ぬだけ、ということ、これも寿命をぬけば、平等だ。
だが、楽しみと苦しみの、程度が人によって違うから、これは不平等。そして、不平等は個性という面でみれる。
豊かさをもたらすのは何か。それは、力だ。力を尽くせば豊かになる。その命令者はいないというのもまた平等的である。
現実はどうあれ、心の中では理想に従って考えるべきだ。理想を考えられる自分が偉いから?そうじゃない。
生まれて死ぬまでに、自分の思い通りではない事の差(能力、裕福さ、自然)を、受け入れるためだ。
人間のために地球があるわけではない。地球の資源には、多様性の素晴らしさがある。 この世の中で、自分の考え、五感などは、全て仮のものである。プログラムに従って、様々な値を返しているだけだ。
どんなに楽しく、どんなにやりがいがあって、どんなに充実感を身体に感じたとしても、それは単なる仮だ。
たまたま、この世に生まれ、最後まで進むための報酬や罰として、五感がある。
どのような業績も、どのような秀逸も、それに対する嬉しさも、全て仮なのである。。
それを捉えなおす。自分はいかにも価値があるかのように感じていたとしても、それは思い込み、レベルを上げて見たら、
悲惨なものでさえある。もう一度やってみたい、と思うのは、そう思い込んでいるだけである。
レベルを下げて、苦しみと死という逃れられないものが存在することをみよ、何を感じるか、何を得るかという自由感は、
自由なのではない。生きることを色々と順序を変えて、配置しているだけである。
「われ思うゆえにわれあり」この、「思う」ということが仮のものに他ならない。
修行というのは、この世で生命体として存在してみよ、という命令を下されたのである。
何故作り主がそのような余興を行っているかは謎である。
ただ一つ、真理は否定されない。 感情は関係を生み、関係はつながりを作り、繋がりが高次の模様を作り出し
その模様の働きが知性となり知識という術に進歩したのちに理性という形へ成長する
すべては簡単で優しい心地よく暖かいものへ流れる性質をもっている、だがそれらが
相互にぶつかるとき理性と理性がぶつかり競争の原理が争いを生み
知のつながり、関係のつながりが普遍で一様ではなく距離と頻度の重みによって
優先度ができる原理によって無関心から転じて、強い繋がりは愛と憎悪に変貌してゆく。
なんでも見通せる力がないゆえに、なんでも知りうるちから、なんでも繋ぐちから、
それの限界の先に争いが生まれるのもその状況が生む集団の真理の1つ。
個の真理が生み出す模様にすぎない、1つ1つの偶然が重なり必然へとかわる、
平等という知恵が争いに反転する、それも真理、避けるのではなく操る心構えを
考えるべき、人が個という肉体や精神に固執するのは必然だが、これを否定し
狂気の知恵より神の視点を生み出し必然の色と形と模様をさらに上の次元へと
結ぶことが増えすぎた命に求められる選択の1つ、そうでなければ簡単な波のように
上げては下げを繰り返すだけ、そこから抜け出せない。
間違いしか選べない愚民であっても、愚民の創意は、愚民から生み出す命の証を残そうとする。
命の証が必要か、そして命の証とは何かを考えよ、
個に縛られ個の愚を極めるもよし、選ぶのは誰でもない何処にもない、もって生まれた本質に聞け。
何か見えるものを簡単に掴んだとき、見えない本質を否定し、見えている真理のようなものを得るだろう、
見えているそれは真理なのか、掴めばわかる、ちいさい真理を掴んできた積み重ねの経験を思い出せ、
後悔だけはしないように。 >>199
命の証しは、僕にはいらない気がします。愛ゆえの拘泥、世代の継承、そんなことに遠いからかもしれません。
最近、身体と頭の調子が激変しているので、なにやら頭に不思議な感覚を受けてばかりです。
後悔の無いように、自分のほどを知って、やたらと誇張することのない人生を送りたいと思っています。 >後悔の無いように
これがあなたの命の証か、自分が自分であるという状態保存を心が求める類 人間の想像力は、目で見えるもの以上の法則を作ってみることができるであろうか。サイクルの中で生きることの
不思議、これは自転公転のためだが、実践して生きた場合、そこに神を見るということもまた、自然で
うなずけることである。「完全」ということは、眺望次第で変わる。眺望とは、方法でしかないのに、上手くした
場合「完全」というものをその瞬間に作り上げた、身に訪れた、という感覚を得ることが出来るように思える。 統合失調症がほぼ寛解して、頭の働き、戻ってきた。つまり、選択ができること、つまり当然であるが選択のメリットを
比較すること、それらの悩みを、きちんと自分の頭で行うことが出来るようになった。判断力というものだろうか。
こういう場面で、考えることに苦痛を感じて、自然な能力がなかった。つまり、能力的にはバカだった。
だが、発想は割とできた感じだし、世界と隔絶された自分において、世界を愛することが出来なかった。
愛することが出来ない世界は、なんとなく、憎むようになってしまう。
自分の脳内の場合分けや、現実での判断力、これらはあるととっても便利なスキルである。
逆に、ないと使い物にならず、働くことも難しい。 例えば、(今日はたまたま月末で休みだが)、図書館に行こうと思ったとする。そこでは、最低で二時間くらいは
読書をしないと、来た意味がない。なじみの図書館で、特に借りたい本もないから。そこで、図書館を出て、
次は何をするか、と考える。何もしないでパソコンを使ってくつろぐか、といったことを選択する。
もちろん、車で本屋に行ってもいいし、洋服屋を物色してもいいい。だが、それらはもう以前にしたことだから、
とくに選択を外した方がいいという気持ちになる。
こうして判断についての考えが浮かび、気になると、カントの『判断力批判』を読みたくなる。現在は他に
二冊の本を読んでいる途中なので、三週間くらい経ってから読んでみようという予定を入れる。 この世は仮の世ではありますが、真実なる光が反映されているこの世の自然の光が
内在されています。
この世の中に真実なる光を観たものは、悟りを開いた人であります。 >>205
>道仁 純さま
光だけは仮を超えているということでしょうか。光には真仮の区別がないと。それを見る方は仮なので、向こうに
合わせるようなことをするか、何らかの瞬間がうまくはまるといいのでしょうね。闇の暗さは、眠っているときは
光も共にあり、真の光を得たものは真の夢を見る、というような可能性もあるかもしれません。 この世で闇はいまだ危険である。闇を休息の時間に充てるためには、安全なねぐらを確保しなければならない。
休息と癒しは、活力と交代する。活力を得て食事をする。運動も必要である。
成長の道のりで、真似からさらに上を向く時、自由意思の獲得が、得られる。自分自身が、他の世界から盗み見られない事、
自分自身だけで考えていることが出来るのだ、ということ、これが、人間のなかにあって、活力を得たものが、
することである。もし、サトラレのような状態に在るなら、それに至ってしまった傷をいやすために、活力ではなく
休息を必要とする。そして、穏やかな環境、穏やかな人間の中で、自由意思を育てる。
自由意思は、それ自体が善である。自由意思を使って、何をするかということを、考えねばならないだろうが、
自由意思を得た人間たちは、活力の助けがある。この世の闇を、思い煩うことなく、身近なところから、
やっていけばいいだろう。 なんなんだよサトラレのような状態って、そんな状態あるのか ハーモニーは快感だ。建築は周りに合わせた外観になる。人間意識はストレスを操らねばならない。つまり、自然を範として
外観はできる。
人間の自由意思には、好みのルールがあるだろう。ハーモニーは、音楽においては、記憶した音の重なりに
ハーモニーを感じるのである。人間の洗練された行動とは、ハーモニーを作り上げる行動だ。
ハーモニーに参加せよ。 人の能力として、注意を向けるものを自由に選択できる、というものがある。手、足、頬、全てを選んで集中できる。
頭の中にイメージを作り、それを眺めまわすこともできる。時間ならば、現在のみではなく、未来、過去、全て
考えたいとおりに考え詰めることが出来る。
頭の中は、ほぼ暗闇である。暗闇の中を、注意を使い、眺めまわすことが出来る。
空には、太陽があり、上方は明るい。つまり、空と無との違いは、その光の存在のみなのである。
基本的な性質として、注意を向け、探索しまわすことが出来る空間である、ということは変わらないのだ。
すると、闇とは人間の本性であり、その外部にあるものが善なのであるということを考えられる。
そして、闇に慣れた人間は、光を望む程度と態度が違ってくる。光自体は余りにも尊く、人間がどうこう
いうことはできない。たとえそれをコントロールできようとも。
普遍的な、最上の生き方、それは存在しない。よりよくしていくということのみを、考えとするべきなのではないか。 >>213
なんで しつこいの?ねんちゃくするの?
劣等感でも抱えている? お前がバカなことを一人で言ってるからだろ
往来を裸で歩いてる自分が悪いのにそれを笑った人に襲いかかってくるような変態 >>216
往来を歩くような気分で、論を立てたり考えたりするのかね?他人の目を気にするのは、独創性と意見に自信がないのかね?
ちょっとしたお遊びで、5ch哲板を、やっているんだね?「ユリーカ!」と叫んだ、精神を受け継ぐ気はないのかね?
団まりな『生物の複雑さを読む』には、書いてあるが、
原初にただ一度だけ出現した高分子化合物の集合、それがのちへ残されてきた末裔として、われわれは、
全ての生物が一つであるということを、知らねばならないのではないかね? 頭の中の暗いイメージ空間を、瞑想により、消し去ることが出来た。暗いイメージ空間は、必要のないものだと思っていた。
イメージ空間と付き合っていく流儀はあるだろうか。それは、全ての悪を呼び起こす場所なのであるように思える。
いつの間にかできた空間は、心をずっと苛み続け、幸福と力という騙しを私に吹き込み続けていた。 頭皮の全てに力を入れるようにすると、精神力が鍛えられるようである。 ウィトゲンシュタインの『原因と結果:哲学』を読み始めたところである。
ウィトゲンシュタインの言っていた、あれをこっちへ持ってこい、という指示が言語の原型である、というならば、
言語の限界は、そのような指示行為の全てによって、決定されると言えるのではないか。
そういう限界によって、語りえぬことについては沈黙せねばならない、という限界を表す言葉を書いている。
そして、われわれが作った言語の側からの、やりかえしがある。言語は、何かを作る。絵が現実ではない、
ということを注意しよう。では、言語は無限か。言語の対象が人間であり、言語行動の原因が、人間である、
という当たり前の状態に在るうちは良いだろう。言語のために言語を作る、言語が言語に意味を見出し始め、
言語行動の原因が、人間以外ではなくなり、逸脱した原因として、結果を作るのに、価値判断をし始め、
価値をたくさん作りはじめるということは考えられる。結果とは、つまり何らかの価値があるし、
原因は、価値を作ったものである。現在では、作りはじめるのは、生物だけである(言語のみにおいて)。
価値の承認というゲームを言語が行なうならば、それは言語自体の人間からの反乱であろう。
つまり人間以外が言語を作りはじめるのだ。そのとき、宇宙存在の運動を言語行動として比喩的にでも、
語ることは可能であったし、コミュニケーションは、なぜか人間にとってのみ特別であった。
新しい言語と新しい価値は、変わった局面において生まれるのかもしれない。 親が死ぬとき言ってやるんや。「あんたは生きたどー!あんたは生きたどー!」て。
まだ…悟ってないけど、まだ…悟ってないけど、悟りが熱いものであって何が悪い。
慈愛を注ぐことの、喜びの、またなんと大きいことよ。生の否定をするのが仏教ではない。
解脱の結果が、その前にもあったエネルギーの、発露であればいいと思うのだが。
エネルギーの形態の変化の一種、それが人間的な心の原理の理解、
今は、そう思う。 身体中が灼熱の炎に包まれたような感覚である。
全身を思索、理解、発散、表現、到達のために、傾ける。 意志がなければ何もできないだろう。強く話すためには、意味を持って、言葉の記号と同時にしなければならない。
意志の使い方は、簡単ではないが、強く話すためのシミュレーションが、自分で本を読もうとすることだ。
あるいは、大切な物を大切に扱うために、知っておかなければならないだろう。
「心の泉で洗われた言葉は美しい」例えばこの言葉に、意味を載せつつ朗読することだ。すると、言葉は意味と調和して一緒になり
意味と言葉の両方は報われるだろう。意志は、意味の操作に成功しつつ、表現に発散されたことで、本来の意味の
とおりに、和解することが出来る。話す主体と話される意味、これはもちろん主体によってしか作り上げられてはいないが、
その範は圧倒的に事物におかれていて、印象を名前にするということをするのである。
何事にもコツというものがある。楽しみの多い事、楽に学習、仕事ができること、その鍵が、意志と意味と言葉にあるだろう。
愛に達するために、祈りや口づけの意味を……現実にできるだろうか。やり方は、上で書いた意志に他ならない。
真実に達するために、意味を自由に操れることが、重要だ。
今夜は神が降りてきそうな気配がする。それほどに、欠損を生めるような発見をしたからだ。
かつて現れしもの、忘れ去るまじ、思い出すということは、一つの宇宙の中で存在と逝去が、物事の二重性のために、
自分と言う小さな世界の中でさえ、目を覚ますことなのだということだ。
あなたは、宇宙という実体を、頭と心の中で描こうとしたことがあるか?それが最後の理解なんだ。
この世を知るこにおいて、最も力あるものだ。それを知り、思考は各事物へと帰っていくんだ。 >>225
訂正 最終行
○この世を知ることにおいて
×この世を知るこにおいて 日常的に暮らしていても、時には誰それが憎い、という、本当はそのように思いたくないことが思える時もある。
だからそれを避けるには、自分の憎いという思いか、それをのせている対象、そのどちらかを消せばよい。
思念とその対象は分離することが(考え直すことが)できるものであると思う。
対象とは、名前であったり、像であったり、思い出される過去の気持ちであったりするだろう。
対象を解かれた思念は、なくなってしまうが、それは仕方がない。
どう問題を解決するかについて、自分で責任をもたねばならない。
多くの問題をため込んできているはずだ。
思念と対象は、のせられるものとのせるものだが、幸福な結びつき方をする両者が訪れることを願うべきであろうか。
自分自身の核にあるものに触れられた経験を私はまだ持ったことがないが、こちらからよい思念のあるところへ
出かけて行って、眺めるようなことをしたことはある。こういう言い方をすると、核は自分の中にないような
感じを受けるかもしれないが、核に触れられるというのは、対象の性質、性格、存在的属性に大きく左右されるから、
特に幼少時を考えると、まず対象があり、そしてその存在のもとで自分の気持ちのような、思念を作りあげるという
やり方をしていたように思う。対象と思念の間には、ごく短い時間の違いしかなかったが(即反応)。
思念は価値を目的とするから生物にとっては余分である。だが生がたやすくなった現在では、価値をたくさん得る
ことを楽しみに生きられる。そこで、真の価値を得たいと思い、何が真の価値なのかという疑問も、持つようになるのだろう。 >意志がなければ何もできないだろう
意志で行うのではない、それが意志にさせるのだ、
それが見えてくれば、意志は必然として流され従う、
意志は理解に流される、心は感情に流される、論理は合理性に流される、
己の意志に命令して進む原理ほど脆弱で不確かなものはない、
己が進むべき道を決意し、呪いとなる約定を道に刻み、意志など無縁な
無意識の領域すら縛り、それが意志を誘導してくれる、
まちがえるではない、意志がではなく意志にさせるんだ。
それは意志が受動態である原理だからだ、完璧な意志など存在しえない、
だからこそ、それをもって意志を動かす覚悟とする。 >>228
意志、心、論理という人間の方法が、自然的なものによって流される、ということですね。
決意と覚悟を持てば、自然に周囲のものを味方にできると。 自然な今を思い感じることで、執着から逃れられた。なぜあんなに苦しんで精一杯だったのだろう。
軽い侮蔑がある。自らの心を持っている。人と自分の境遇も存在も、まったく違うということを、
強く感じる。 人間存在の侮蔑されるべき本質を、否定できない。昔の時代に比べると、自分なんて大したこともない、
どうせ自分なんて、と言う風に考えている人は多いだろう。それが、真実へと近づいて行っている。
古いものに負けない。僕は今に従う。 試すのではない、絶対やる、それが決意と覚悟だ。
当然として超えられない壁にぶつかれば玉砕する。
超えられない壁は、越えられるまで、山が動かなければ山が動くまで諦めない、
それが決意と覚悟だ。
目指している希望が不可能でもやり抜く、試すのではない。
可能性ではない、100%勝てない相手に勝とうとするな、だが負けてはいけない
ということ、負けなければどんなに100%勝てない相手でも勝機は生まれる。 この世に不変などない、かならず変貌し、第三のチャンス、異界からの力
ありえない流れが時間の流れと共にやってくる、決して曲げない心、心が馬鹿に
なればどんなに小さい勝ちでも、それは勝ちという隙間が生じる、それの積み重ねだ。
どんなに小さいチャンスでも逃すな、高望みするな、その時に、それがやってくる。
自分で勝つのではない、それが勝利させてくれる。
自分でできることはバカになり負けないこと。 >>232
勝負においては、トキの機運に気をつけないといけないですね。それを捉えるためには、常に勝負を心に秘めていること。
そもそも、入門の段階では、視野も狭くて、難しいと思います。天才は天才であるために、天才であるための
努力はしているはず。何事も、自分でやってみなければつまらない。
天才マジシャン、フーディーニの逸話として、パーティで、脇に二つビールの入ったジョッキを隠しておいて、
それでマジックをしたとか。 >>233
そもそも、勝負というのは、自分自身の望みである。自分が何かをできるようになりたいと思い、やろうと決める。
それに全力を傾けるのは、当然でもあり、見極めも重要になるでしょうね。 人生は勝負である、選択の繰り返し
そこでつかめる可能性のチャンスを掴み取ることができるかは決意の違いだ
試してみるという心構えでは、次がかならずあると考えてしまう、
わずかであっても2回目のチャンスを選ぶものは結果を出せない。
駄目に近いチャンスであっても、それを反転させるぐらいの気構えなくてどうする、
駄目なのは当たり前だ、不可能を可能に変えるのは才能ではなく、
チャンスを掴み勇気があるかどうかの1点でしかない。
いけるかも?その一瞬の心があれば、絶対に結果を出すという気持ちに変えられず
結果など出せるわけがない、どんなに余裕で可能性があり絶対なそれでも
1回目がつかめない奴には、また次だという落とし穴に流れてしまう。 >>236
こういうことも言えるだろう。自分の頭で現在から未来まで時間を使って考え、考えをできる限り演繹する。
そういう思考ができるが、一方で、(仮の)結論をだすことも、意味があり、重要である。間違っているかもしれないが、
自分で結論を出せない人間は、他人に何かを言えない。その場で結論を出して、場の議論についていくということも、
しなければならない。仮説を出せない人間は、臆病者であり、限界がある人間だ。限界を突破するためには、
自分が外部からよりたくさんの情報を集めよう、それで考えを発展させよう、そればかりに集中していてはいけない。
選択すること、ですね。(自分の責任の範囲をしりつつ)結論を出すことの自由。 思い出すということは、自我の本質である。他人に代わって思い出すことはできない。
したがって、言葉から他人の言っていることを理解するとき、その発言の主が、何を思い出しているのだろう、
と、少し気にかけながら言葉を聞くべきである。決して自分には思い出すことが出来ない何事かを、
いつも思い出しながら発言しているのであるから、そこに完全に自分がかかわることはできないし、
自分自身の生というのは、思い出すことを常に、幸せだと思いながら生きているに違いないから。
理解できていたことを思いだすのと、理解できないことを思いだすのは、根本的に仕組みが違う。
自我を豊かにするのは理解することであるし、不安になり怒りたくさせるのは、理解できないことである。
他人というのは完全に理解するのは絶対不可能であるから、懸念のもととなる。だが、ある同じことを、
他人も自分も理解できた、そんな良いこともある。 >言葉から他人の言っていることを理解するとき
理解したときそれは他者の模様を見ているだけである、
自分の向かうべき道を意味させたわけではない、
理解できなくても、そこは過去と現在で違う現実がある、世界は常に変化し
目の前のそれも理解できずとも、これから意味となりえる何かが絶えず変化し
理解に繋がる前提としても機能している、己が見出す理解できない何かや
己が無意味だと思っているわずかな変化、状況の違い、それらは、己が意味を
見出そうとしているかぎり、けっして無意味ではないのだよ、理解の有無とは無関係に
未来は成立しうるということだ。
理解など論理の世界の理屈にすぎない、理屈なくても世界は存在している、
世界に人間も生物も何もなくても、世界は存在している、その存在は次元が違うだけで
自己がその存在を理解できないだけ。
無から有を生み出そうとすれば、無を有に変えるため無に有の属性をつけて理解する
意味をつけなければ有がない無など存在しえない、ただ理解できるかといえば理解できない
理解できないから無だというだけの話だ。
理解できない何かを切り捨てし、理解したい何かを切り上げし、理解という計りで世界を
みることが世界の実態との差異を生み出す、その差異こそが不安と、差異を作ってしまった
己への怒りでしかない >>241
理解できないものを考えることが出来るだろうか。理路を完全に理解することなくとも、文、像、感覚に何の意味も得ることなくて
思い出すことはできない、さらに、接することもできない。そして確かに、「完全な理解」は不可能である。それは、どの角度から
理解をするかということで、意味を理解することこそが大事であるのだが、未来に向けて、或いは現在の中で、
意味を想像し、自分がやってくる未来より先に、意味を描くことはできる。そのために、理解したものを使うことも、
理解していないものを使うこともできる。
>世界に人間も生物も何もなくても、世界は存在している
世界は他者である。自分自身という世界のみは、自分である。自分は、確かに世界の一部であり、そのままの自分存在の力を
もってしても、相当な行為はし得る。理解することで世界との接点を増やすが、いったい何のために理解しようとするのか、
ということについての洞察を必要とする(のはあなたの基本的態度か?)だろう。悟りのためには、理解できたことが多いという
ことから、離れる必要がある。悟りは理解ではなく、全てに通じてすべてを説明できる何らかの境地なのではないかと
思える。僕は悟りのために様々なものを理解しようとしてきた。だが、それを使えば何でも理解し、説明できるような何かの絶対知
というものは、あるのかもしれない。それは自分の心についての洞察を必要とするであろう。心と悟りは、何よりも強く関係している。
世界と悟りは、また同じくらい関係している。心、世界、悟り。ここで問題にする心は、自分自身の本質であるとする。
世界の本質と、自分の本質と、絶対的に優れた意味ある他者による自分への働きかけの喜び。この絶対的に
すぐれた意味ある他者が、仏である。自分の心が動いたとき、見えない心が自分を左右する。自分と言うのは、
心を介して、分裂しているものを、統合する。自分は一つではない。であるから、仏は、唯一ではなく、全てである。
全てに分裂していて、偏在する。仏の心を知らねばならない。仏の心が行きついたところに、従うのだ。
(つづく) (つづき)
心が、攻撃されるのも、関わろうとされるのも、心が分裂しており、それが混乱をもたらすからだ。
それで、理解は、分裂を統合する。分裂とは、細胞の機能であり、仕方がなく、それがもたらす混乱を、納めなければ
ならないが、そのためには、必要な分だけの能力を増やすしかない。能力を増やすために、論理を使う。
知識を使う。自らの心の動きの示すところにある、自然としての自身の心の力を使う。意志の存在を
否定する者はいないだろう。それと同様に、心の動きの示すものがあるのである。 物事に論理性がなく、前後につながりがなくても
それは思考である、ただそれを思考と認めたくないだけである。 >>244
論理性や前後のつながりのない思考が、見える(思考になる)のは、偉大な真実の女王、「光」によってでしょう。
見えなくとも世界はある?そんなわけはありません。その世界は、世界ではないのだと思います。
真実の鳥は、「青い鳥」です。世界の実態との差異があることを怒るなら、全ての人間に等しく同じものが、
何であるのかと、わかるでしょうか。私は、自分の幸福を求めるための準備もしておらず、方法も、道筋も
分かりません。自分の家にいる「青い鳥」が、幸福です。その象徴する内容は、私にはまだ、分かりませんが、
幸福がなければ、悲惨、が待っています。魔法を使えずとも、真実を見出す洞察力を、勉強して、
幸福というものを追い求めるのに疲れ挫折した心を、叱咤して、色のある世界に、居るのだということ、
それを謙虚に学び、そこに加える何かを誰かと共有したい、そのための合言葉が、「幸福」だと思うのです。 >>見えなくとも世界はある?そんなわけはありません。その世界は、世界ではないのだと思います。
地球の反対側は見え無いし、永遠に知りえない生活があったとしても
向こう側の人は普通に生活し存在しています。逆に向こう側の人は貴方の存在などしらず
見えているわけもなく、永遠に知りえない人は大量にいます。
両者とも相手を 存在していないと主張してみましょう。 >>246
世界を知ることは、TVカメラで見た限り、本で読んだ限り、それで知っている、と言えるかは私は分かりません。
常識や、正常な判断力のある理性によって、なんとなく判断はつくにしても。
だから、旅に出るには十分な理由があるのですね(オザケン)。
「より正しい世界像」「より大きな世界像」と言う風に、働かせた想像力の裏を取るのが、一つの方法です。
前世少女を生んだ、日渡早紀『僕の地球を守って』では、現世と月の世界と前世とが、絡み合って存在していることに
なっています。自分の持つ「科学」「理論」に満足できなくなってきたときに、反証のための旅にでるのです。
様々な謎が、様々な神仏が、生きるのに飽きた、健康で頭の良い若人を呼ぶでしょう。
やれるだけのことはやれ!と思いますし、現在の自分が絶頂をいくつも超えてきたなら、前人未到の領域
に、挑めると思います。リュウグウなんて、すごいですよね。
精神世界の豊かさ、驚く心、自分の気持ちが昂ること、そんなことを思うと、それが生きている理由になります。
人生のやりがいというか。 座禅としてはかなりいいところまで行ったと思う。いいのは、日常の動作も、楽に出来るようになったところである。
そして、もちろん、落ち着きを得ることが出来た。 >>248
弓と禅 オイゲン・ヘリゲル を読みたまえ。 今朝から、右腹の中辺りに、ブッダ像のイメージが感じられるようになった。これは、自分の中に存在していたブッダが
表れたのだ、気づいたのだと言う風に思う。全ての人間の内部には、ブッダ的なものは、存在しているに違いないだろう。
仏陀を信仰する、ということは、自分の命を信仰する、ということでもある。生死に意味を与えるもの。
生まれて、いつか死ぬが、それがむなしくは無いのである。自分の中には仏陀がある、自分が仏陀的なものを秘めている
ということである。死ぬということは、ブッダになるということであり、そこには意味があるように思う。
それは、大きな悟りというものを成し遂げたブッダが、悟らざるものも救おうという願いを持ったということを、知っていることが、
大きなきっかけであったのであろう。僧侶集団が出来て、集団的に気づきを伝え合うことが出来るのは、修行の為であろう。
生きるということの内実は、各地の自然というものが大きな位置を占めるのであるし、欲望を小さくすることが大切だし(暴飲暴食
などをしてはいけないのは当然だ)、
意志とか、願いの、強さなどは、良い心なのである。解脱したら、欲望をコントロールできて、
情緒の世界、思考の世界が大きくなり、そういう風な生き方が出来るということであり、そう生きることが真の満足、
無理のない穏やかさをもたらすのではないか。
自分の中にあるブッダ(的なもの)が、ずっとおなかの辺りにい続けてくれるのは、とても不思議で心強いものである。
意識的な像として存在していて、自分自身の愚かで悪いことを照らし続けてくれる内部の仏像を、
大切にしたいと思う。
仏というのは、存在だ。人が存在する限り、仏が偏在する。死ののちも残る存在なのであろうと思う。あると言われるものも、
ないと言われるものも、形を変えるだけであり、同じ存在なのである。時を超え帰ってくる、お盆は、まさにそいういう
どちらの世界から見るかということの違いであり、死んだ人の方が、広い世界を知っていると言えよう。
魂は時を超える。時は、現生的な原理であるのではないか。変わらない、ということは、時に縛られないと
いうことであり、変わっていくのは、現世の時に従う人の生き方の修行に、洞察を加えれば理解できることではないか。 >>250
誰でも仏陀になれる、死ぬと仏陀になる、生きたまま仏陀になれた人はそのとき自我を失った状態にある。
天才アーティストなどがときどき薬中毒になるが、あれは幻覚をみて自我が
保てないときに常人では認識できない思考ができるからである。
常識と論理という人への支配から解き放たれるときだけ、思考は人を超えた領域で
思考できる、そして理解しやすい具体性のある執着が強ければ強いほど常識と論理に
縛られ理解という入れもものから抜け出せない。
それはどうやってもお釈迦様の手のひらの中でうごめいているだけ、井の中の蛙、
否定するべきことを受け入れるなど人の知性では無理であることを認めないかぎり
自己が定義した殻に閉じこもるのは必然といえる。
通常の精神状態では理性に流されていることを自覚できない、流されず自分で思考していると確信するのである、
それは明確でわかり易い具体例がある思考と認知によって魔法のように多くの論理性をもつ常識をもって思考と理解は
それに収束する。理解しえることを選ぶという前提を否定できない限りその呪縛から抜け出せない。 映画(アウトレイジ最終章)をみながら、魅力的な表情を見せる俳優の演技をどうやるのだろうと考えたのだが、
表情を司るのは、眉毛であるのだと思った。眉毛を上げたり下げたり、近づけたり遠ざけたり。すると、目の辺り
にしつこく残っていた不快感が、あらかたは消えた感じである。表情は、自分の心の健康の為でもあり、人と対するとき
にも重要であり、そのような簡単なことでも、良く考え、答えを見つけようと頑張らなければ分からないのであった。
何らかの不快な気持ちが、重なると重大な問題を引き起こす。ストレスが溜まってくるとき、表情一つで
それを払しょくできるなら、簡単なことである。 勝ち負けの意識が関係の中にこじれてくると、まともな関係は持てない。逆に、勝ち負けの意識を持たなければ、それほど
親しくない人とも、何らかの会話が持てたりする。各人によって強いところはさまざまだ。顔のでき、身長、服装、学歴、
知識、経歴。そして、その人との関係における上下。特に、関係における上下は、知らない者同士の間では、
下手に扱うと問題が出来る。勝ち負けなく、普通の関係を結べるかどうかだ。
コミュニケーションの、通じた時の、喜び、嬉しさは格別である。勝ち負けなんて持ち出さないで、自分がやりたいことを
追求するだけでなく、関係の中で生きているというその関係において、行きずりの会話が持てるようになるようなこと、
人とかかわることは、人間にとって本質的に大事なことである。 ある文章や、現実での出来事、またそれによって引き起こされる感情、そういったものは、じんわりと味わうべきである。
その結果が、知識、知恵となるはずだ。大量の情報を処理しようとすることを目的とするのではなく、ある物事の、現在の自分にとっての
意義というものが、明らかになるだろう。それは、怒りや不快感についても同様だ。次々と展開していくのではなく、ただ味わう、
じわっと感じられるのが、ごまかしのない、ということだ。
これだけでは、対処法ということだが、例えば布団の模様と質感、雨の音、こういったことを、じんわりと味わうのが、
生きる上で大切なのである。こういうものは、自分を作るものなのだ。なにも、目的に向かったりはしない。 >勝ち負けの意識が関係の中にこじれてくると、まともな関係は持てない。
物事が具体的なら、勝ちか負けかの2択、
それは勝ちであり負けであるという2重性や、どちらでもないという不確定さ、
さらに異次元の領域であるという異端のそれを抱擁できない。
つまり、まともな関係をもてないのは、勝ち負けではなく具体性を理解しようとする
レッテルと決め付け思考の簡略化、答えは1つであるという己の性質がなすもの。
抽象的に存在し判断することは思考をしないのと同じだと決め付ける思慮の浅さが原因だろう、
自分という視点から旅立ちたまえ、主体との関係でそれを望むからこそ敵が生まれる、
主体がないものに敵などない、具体的関係も曖昧のままならば2択のような具体性にはたどり着けない。 >>255
どの程度抽象的にするべきなんですか。心の動きからはもう魂さえ見えてくる、くらいの理論化はできるんでしょうか。
感じればいいんでしょうか。会話に重要度を置いていますか。あなたの向き合う相手は、やはり、主体性を持っているのだと、
感じられますか。そして、自分が主体でないとき、コミュニケーションに混乱は起きませんか。
僕は、言葉というものの使い方に色々ある、ということを、知らねばならないのでしょうか。
僕は、五感をやられて孤独と混乱の極みだったのですが、回復しました。だから、大抵のことは、理解できると思っています。
そういうときに、こういうあなたの考えを聞いて、あまりにも異次元だと感じて、戸惑いと、感心を、感じています。 >>256
理論化できるとは具体化することで抽象化ではない、
対象を捉えるのに主体的な関係で考えるなということ、それは考え比喩し実態を見つめるほど
見えなくなる性質がある。
捉えるのではなく、捉えてもらうということだ、理論化するのではなく、理論のように浮かび上がらせる
ということだ。
実態が見えたものは幻にすぎない、形がないものを形で定義する思考法ではたどり着けない、
つかむのではなく、包んでもらうということ、見るのではなく見られることで成立させること。
言葉で捕らえるのではなく、言葉が浮かび上がる何かである。
感じるとは、それは気が付きにすぎない、いることが判ったとき言葉で他者に説明すれば、
それは嘘になる、理解するのではない、理解される状況を生み出すことだ。
異次元ではない、目の前にあるそれを目を使わずに見ること、
あたかもそこに何かが居たような気配、それが実態である。気配を具体的実像にすれば
それは嘘、幻、創作物、妄想である。
理解しなくても世界は存在する、理解しなければ世界が存在できないという考えを捨てよ、
それが主体的な関係の思考だ、主体が無ければ考えられないという傲慢さは人の知恵が
すべて主体という自我、自分との関係、自分の考える何かであるからだ。
たとえば微生物を人間という社会や経済、営みで捉えても駄目だ、微生物には微生物のそれがある、
人の立場で見れば、植物にも心があり思考があると擬人化し、微生物だって同じだ、壁の木の板に浮かぶ
顔のような模様を擬人化してしまうその高度な認知をする才能が主体の能力でありその能力では
自分本位の思考から抜け出せない。 例えば探し物が見つからないとかの時とか、問題分からないのでカッとなってしまったり、怒る、キレるときには、脳が血液を要求している。
だから、血液を供給できれば、或る程度は抑えられるはずだ。血の巡りをあっちこっちさせる自己ゲームだ。 頭の中と、外部の全て、を光で満たせ(そういう想像をせよ)。嫌なことを光で満たせ。不安を光で満たせ。
全過去今未来を光で満たせ。記憶を光で満たせ。他人の心と思うものを光で満たせ。まず頭の中(内部)をくまなく光で満たすことから
始めよ。
これは一種の逃げであり、何からの逃げであるかというと、迷い悲しむこと、自分の不安、そして心の痛みからの逃げである。
迷い悲しんだり、不安になること、痛みを痛むことそんなことは意味がない。だから逃げよ。それを解脱と呼ぶ。
イメージは、作ってもいいし、消してもいいのである。そういう能力が備わっている。
光のイメージは魂の要素である。言葉の意味を光で置き換えると、理解と同時に自分なりの向き合い方が出来る。
光は魂が、望むものだ。光が魂を作ったのだ。魂による交流は、イメージの相互承認である。イメージの交換は、
生きるということ自体の動機となる。生きる果てに偉大なことを成し遂げたとしたら、それはそれで素晴らしいとは言えるが。
だが、小市民にとって、イメージの交換という、魂の交流は、悟りへと通じる果てを指し示しているように思う。
光のメッセージとは、「続く」ということである。光に満たされることには、続くことの安心があるのである。 或いは、>>259のことを、まったく同様に、闇によってすることができる。全てを闇で満たすこと。
こちらも、可能である。可能であり、意味がある。陰陽のとおりに。闇は落ち着きと省エネ(安らぎ)を与える。
光と闇のいずれにせよ、それは全てがそれによって成り立っているのではないかと考えられる。
すなわち、光か闇か、どちらかに属す。 人は自分で思考しながら、自分で理解して、自分で意識を意味を作ろうと考えながら
同時に状況や環境に流される、流れには逆らえない、これが逃げられない事実であり世界そのものだ。
これは私を含め貴方、すべてのそれが背きたくても流される現実はかわらない、
なぜなら不可能を可能にすることは困難を極めても稀にしか実行できないからだ、
故にできることの範囲という合理性から抜け出すことはできない、井の中の蛙である。
理解しようとすれば、認知した時点でそれは具体性に傾く、貴方が常に望んでいることだ、
つまり理解を否定する以外にこの流れを回避する方法はない。
私も例外なく、この法則から抜け出せない、物体が重力によって高い位置から低い位置に
転がるのと同じである、貴方はその重力を無視し逆らい星を掴めるのか?それは無理だ、
困難を極め時間と労力と技術を繰り返しロケットをつくり宇宙に旅立つことはできたとしても
極稀の存在でしかなく、個が行う意志の結果としての可能性は0に近い。
だからこそ世界を闇と光に喩え陰陽を2極だと思い込む、レッテルである、現実には闇と光の中間はあり、
完全なる光なきところに闇はなく、完全な極限などない、有と無も同じだ完全な有と完全な無もない、
無から有を生まれない、無という有を作り出し有を生み出す理屈を考え無という詭弁を使うだけである。
ビックバン以前には無しかなくではなく、生み出す前の"無"という有があったわけだ、それは対象関係で
考えるからこそそれを心に描く錯覚にすぎない、完全なものなどこの世にはないのである、完全に見えるだけ、
意味として完全に極限に近いならばそれは完全とみなすという定義でしかないのだよ、
捉え所がない抽象性な観念である無限(非値)と具体性のある無限大(値)を同一視するからこそ錯覚が始まる。 まず、具体性を放棄すること、主体を放棄すること、理解を放棄すること、
否定することから始まらないそれは論理であっても、哲学ではない。
「ほんとうにそうなのだろうか」、ほんとうにそうなのだろうか、とはそうなのだろうか?
具体性のない世界には無限地獄が待っている。
この苦しみと「捉えどころのない」物を扱う術をしらないからこそ、人は論理と意味と
自分が理解しうる簡単な意味へと流される。
「捉えどころのない」ことを扱うにはどうしたら良いのか?
これを考えたまえ、抽象的、抽象性を追ってゆけば必ず無限地獄へ落ち、論理の海で溺れる
息もできず思考は止まり、何も得られない。
もう一度言う、「捉えどころのない」ことを扱うにはどうしたら良いのか?
これが答えだ。 岩登りの登山者は崖というとらえどころの無いものを相手にする、掴もうとしても
掴むところが無い、これは「捉え所がない」のと同じだ、岩登りの技術では
その答えが明確にある。
掴めないならば、掴まない、これが答えだ、だが、
掴まないのに岩登りでは体を支え、掴むところが無数にあるように登れる
この矛盾を理解したまえ。これが捉え所がないものを扱う答え、すなわち技術である。
思考できないものを扱うには思考しない、これが基本だ。理解しえないものは理解しない、
見え無いものは見ない、だが、
掴むところが無い岩場、そして泥の崖、これを手で、足で掴めないのに、掴まないのに
主体を捨てた達人は登れるのである、技術である、理解できないものへの答えである。
抽象的なものを掴むには具体的に掴むのではない、掴んではいけない。
岩場の達人の答えは「掴めないなら、掴んでもらう」、岩に体を支えてもらう、手を岩で掴んでもらう、
主体を放棄し、主体以外が主体を掴むという思考の切り替えだ、異界の思考といえばそれまで。 捉えるのではない、捉えてもらう、
理解するのではない、理解してもらう、
見るのではない、見てもらうのである、
常に自分本位で自分主体の思考と論理に染まると、
廻りめぐって、自分以外の働きが自分へと作用する、その自分は自分以外の何かであり、
例え自分が死んだとしても、魂の働きのように自分以外が死んだ自分を補うように、
死んだ自分を補完するように流れるのである、
これが主体を超えた領域、抽象的な領域、光と闇でもない、グレーで説明ができない何か、
その何かが自分の意志を超えて、自分が何もしなくても働くとき、
理解を超えた、論理を超えた、意味を超えた何かとして世界が成立する、
人の魂が人の住む環境に宿り、その人が存在するがのように主体以外が人を活かす流れ
それは科学ではない。貴方の言う異世界的、異界的な何かだ。
科学者は言う、「そんなものはない」、貴方も同意すればいいだけ。 >>264
余談:ワイス&ヒックマンの『冥界の門』シリーズが好きで、ちょうど死者が大挙して生き返り出したところで、翻訳が止まっているんです。
世界があるから自分がある、世界から生まれたから世界を味方につけられる、そんな風に思いました。
実践するには、あまりにも僕は自分と言うものを、強く持っているようです。
僕は、恐らくこの世でも有数の苦しみを味わってきた過去があるので、拷問に身構えてしまいます。
後遺症は残っていないようなので、一安心ですが。
この意味のない苦しみは、苦しさが、何らかの経験であればいいのですが。 止めてある車のドアを開けようとしたら、隣の車のドアに軽くぶつかった。少し音が鳴った。すると誰かがクラクションを鳴らした。
つまり、赤の他人の眼であっても、悪いとみなされることには正義心を持っていて注意するのが社会だ。こういうわけで、
何か行動や会話をするときには、人が見ていなくても、正義に悖る行為は許されないのだ。そういう心で、天の目を気にするのだ。
天に従った思考こそが、創造性につながるのだ(普遍性が強いからか?)。岡潔もそう考えたのではないか。我は天、天が我。我は石、
石が我。私が考えることは天を超えないが、天は私に意地悪をしない(とアインシュタインも言っている)。
すなわち、我が思考天を超えざるとも、我が自由は奪われず。私が石のようにありふれていて変化しないものであるとしても、その私は、
石のように確たる真実、否定されざる真実を、持ちうる。思考の創造性は、普遍的ということが、第一の条件である、と言えるのであると思う。
その普遍は、人間の道に通じるのだ。普遍が、人間の善をもたらすものであり、無限競争から抜け出ようと決心する者の、理由、根拠
なのである。天は守護者なのである。 言葉はですね、自分自身のみにとって関わるなら、字句にこだわる必要はないのですよ。
言葉よりはですね、精神(心掛けと、未形の自分にとって潜っている意味)の方が大事。
というのはですね、言葉は自我ではないですから。
言葉より意味を、勝手に読みこんで、自分なりに自分を作る。自分の体験をする。
メロディーは、つながっているほど深いですね。
意味も、つながってさえいれば、ちゃんと通るんですね。
だから、つながりに熟達することが、意識のある時の行為の極意でしょう。
一瞬の思い付きも、それを生む土壌があった。それが、連続性の意味によって作られた。
どれだけ連続性として、トキを捉えられるか、それが、悟りへの試しですね。
一日中の時が連続していれば、失敗はまずないでしょう。
そして、抽象的な物事を連続して続けられたとき、それを成したということは素晴らしい業績と言えると思います.。
メロディーが連続していることによって成り立つということは、根本的で、かなり重要な事実です。
脳の中の映像が動き出したとき、心も動き出すでしょう。
それは、人間の思考の中でも、一番自然なことだと思うのです。 美しさの餌の向こうにあるもの(チェリビダッケ)──それを知るだけで、正確な聞き取りなどは必要がない。
自分にとって必要なのは、音楽を覚えることか──いや、違う。
知識を増やす事か──いや、違う。
自分だけのオリジナルな何かを得て、それを心の中で温めること。
王道よりも邪道を選ぶことを恐れず、無知であることを後ろめたく思わず──今までになかったものを。
いずれ王道も理解できるだろう。全てを決めるのは自分自身のやり方に他ならない。
他人のやり方など、もうさんざん、叩き込まれてきたではないか。
もちろん伝統や秘訣を教わらねばならない能などもあるが、その実際は知らない。
各人が何かを見つけ出せること、そんなことが望ましいと思う。
これらが修練であり、閃きと同じくらい大事だ。オリジナルな絵を描ける人にも、個人的な流儀がある。
音楽を知る人は、音楽を楽しめる人。楽しむとは、自分が喜ぶことだ。その瞬間に、脳は新しい回路をつなぎ続ける。 世の中にある全てのものは、つながっているものだ。
自分が、何かの妄想に苦しめられているときには、ほかのことを思い浮かべることで、メロディーができる。
不要な音符の再利用。そうすれば、生きているということは、曲を作るのと同じことだ。
そう思えば、先に進めるような気がする。失敗にもまだ理解していない自分の原因がある。自分の傾向がそうなのだから、
それらをつなげて先へ進めるような、なんでもない思い出に変わるのだ。 >言葉はですね、自分自身のみにとって関わるなら、字句にこだわる必要はないのですよ。
言葉は唄(うた)から派生し、唄は占い(うらない)から派生する、
占いは思いと心の作用から命(いのち)を活かす為に必然として表れた、心の声と念じる思いを具現化させる
ことが言霊の葉となり力を宿す為の術になる、それらの利用のされかたは非言語という立場で説明される
ルーン文字のような術で広まる。
>世の中にある全てのものは、つながっているものだ。
廻っているものです、同時ではなく静的でもなく、伝言ゲームのように >>270
包括的な理解が可能となるのは、まとめ上げる法則を知ったとき。それらを適用できることで、科学の方法が強力になった。
命を活かすということが、占いであるとは、初めて知りました。それが唄を生み、言葉を生むとは。
>心の声と念じる思いを具現化させる
(自然の)力というものが、思い通りにならないんですね。予知も難しい。
物理でも、三体問題などは、微分方程式の解を具体的に求めることなく、その定性的な性質を調べる研究
(力学系の大域的研究)が生まれるきっかけになったそうですが。
偶然なのか、何かの(心的?)作用、自然の空気が、占いを本当に当たるものとしているのか、大変に興味深いところです。
僕は、勘と言うものが大好きで、唄も言葉も、勘を働かせるようにして接するのが基本です。
そこに、メロディーの原理を考えて、勘と違う原理を楽しめるようです。そして、包括的にとらえて、この世と自分を
少しだけでも分かって、発見していきたいという希望を持っています。 >占いを本当に当たるものとしているのか、大変に興味深いところです。
占いは予知ではなく予言だ、科学的な論理な思考者は それを予知や予測だと思い込んでいる、
予言とはなにか、「有言実行」すなわち、神頼みではなく予言した結果になるように勤め考え
誘導し未来を示すことで現在の可能性を呪術として縛ることだ、
未来は偶然ではなく必然である、世の中に確率的にどの未来も等しい確率でおきるわけがない、
なるべくして成るものだけが結果に到着する、確率を六つ目のサイコロの出目のように1から
6までが均等にでる考えてしまうからこそ希望する目の下に鉛を仕込ませている現実を理解できない。
世界は平坦でもなく均等ではなく、歪んでいる、でこぼこしている、
故に選べる未来は現在の予言のきっかけだけで少ない選択の1つに流れやすく誘導することができる
それが本当の意味の予言である。
占い師がデタラメに選んだのは似非でしかなく、占う側が未来を読み取ってそこに落ち誘導する
呪縛をすることが本当の占い、未来を縛る予言である。
現実に有効なプラセボ効果のように、空気を読まずとも一定の割合は予言によって誘導できる。
それは気や、フォースといった類が現実に効果させる原理でもある。 中心ばかり見ていてはいけません。円や△□などは、真ん中がぽっかり空いているでしょう。だから周辺を見なければならないのです。
周辺を見ることは、世界の形を知るために役立ちます。それは、意味ばかりではないのです。意味の周りにある、その意味と、
関連したもの、それらを知ることで、中心ばかり見つめていては分からないものが分かるのです。
例えば死が怖いのは、苦痛、苦しさを中心でとらえてばかりいるからです。苦痛の周りには、いつもと同じ平静で
平安な気持ちがやっぱりある、ということ、自分が無になると言っても、その周囲にある、自分自身でもあり、
自分と関わってきたものが、見えれば、消えることの恐怖は、感じることは無いでしょう。
現実的にも、視界というのは好きに使えばいいのですから、中心ばかり見ず、周囲を捉えていくことをしてもいいのではないでしょうか。 中心ばかり見ているように思うのはあなたの才能です、
中心のように表現するのは、具体的な主体関係での視点を捨てるべきということ、
物事を具体的に見れる才能をもつと、逆に具体的には見れない才能を理解できないのです。
周囲を見るのではなく、周囲も同時に見る周囲を具体化するのではなく
周囲と中心が表裏一体で区別がないこと、具体性の全否定です。
目をつぶり見えていることを全部否定できなければ貴方は具体性にたどり着き中心と周囲を
区別してしまいます、それが貴方の才能、それは先天的ではなく"後天的"なものです。
中心ばかり見ずに周囲をみるということは、周囲を中心として見ることの他ではありません、周囲を中心に置き換えているだけの作業になります。
けっして周囲と中心を混同して見ているわけではないのは明らかです、それが具体的な主体からみた意味を捉える能力の
結果になります。 >>274
中心を見るのも才能の一つ、であるということですね、もっと進んで、抽象的になれればいいのですね。周囲全体がでっかい中心である、
とか。いや、そういう禅問答のようなこじつけも、あまり程度の高い認識ではないでしょうか。解像度について、抽象的に考えるのが
難しいんですよね。生体的なものをひっくり返したり、逆の意味を見たり、それこそ悟りではどのように見るべきか、難しいです。
具体的には見れない、というのは、僕は、物事を、周囲を見ることで、幾何学図形に還元しましたよ。
それって良くないですか。別の見方が出来ていると思うんですが。
見えていることを全否定したとき、世界は視覚ではないということになるでしょうが、世界とのかかわり方については、
僕は何の哲学も持っていません。身近なことは、豊饒だけど怖いんですね。 心を自由に操るための修行として、胸や脳に、思考的負荷をかけて、それを押しやり、広げる、というものがあります。
すると、胸や脳は、ストレスに抗するということになるので、健全な筋肉トレーニングと同じ結果が得られ、脳や胸の
避けてきた部分を強くすることが出来ます。そうすることで、胸も脳も、気持ちも思考も、強靭になります。
気持ちや思考が、ピンチになったとき、こういう方法をとると、より強くなれます。この鍛錬は、実用的には
気持ちや思考に対して、別の気持ちや思考を得られるということがあります。
つまり、鍛える、得る。ということです。 そして、日常的に、頭に来たり、不安になったりすることは、多いでしょう。それを、爆発させたり、苦しんでうなだれたりするのではなく、
その怒り、不安を、種とすることです。そういった気持ちに負けないこと。その気持ちに抗すること。全ては修行としての機会です。 そんなのどうすればいいのかわからない、と思われるかもしれません。それなら、結果を見ればいいのです。
逃げなかった今、いったいさっきの気持ちはどうなった?そこに変化がみられるなら成功です。
頭のどの部分を使うにせよ、心の中で対抗すること、これは、他人に押し付けない立派な行動です。
それを続ければ、精神的苦境に対する、積極的な対抗行為となります。
別のやり方として、気にしない、考えすぎない、という全く逆の方法もあります。
どちらを選んでもいいと思います。 ふわーっと広げるといいのです。瞼、両目の間、首、あらゆる筋肉、脳などなど。ふわーっと広げることで、
筋肉の緊張がとれます。 >つまり、鍛える、得る。ということです。
何も秩序がない脆弱な状態から育つには正しいことです、鍛え方の質も問いましょうよ、
鍛えれば賢くなり頑丈な硬い柔軟性のない合理性の結果が得られます、人は学び賢くなります、
まじめな気質と堅実さは時に何も受け付けない結晶を生み出してしまう、もっと馬鹿になりましょう。 >中心を見るのも才能の一つ、であるということですね、もっと進んで、抽象的になれればいいのですね
人は考える生き物です、考えとは人の思考であるかぎり人が主体となって意味と理解を生み出します、
故に中心を見るのも主体の視点でしか理解できなくなります、思考ではなく直感に頼る魂の開放を行えば
自分を捨て自身の論理の外に雰囲気、気配を感じ、その働きが病気じみているかを察すれば
おのずと自我の外からの中心が見えてきます、それは考えないこと、理解しないこと、意味としないこと、
具体的に単語や概念に照らし合わせない言葉にできない「何か=抽象的」を目指すことです。
現代社会において先人が積み上げてきた膨大な知識と理解の上では、その具体性に類似させることが
もっとも簡単であり合理性があります、その流れやすさ常識という概念こそが自我、すなわち主体との関係を
理解する強力な力であり逆らうことは困難です。
抽象的に捉えるのは学問、技術、知識の否定であり 主体から見た自分の理解の否定であります、
現代人が後天的に得たそれを全否定できますか?まじめで、堅勉な姿勢は賢さの誘導の流れ、長年積み重ねた
それを捨てるなど口で言うようにできることではない、決意と覚悟をもって100を目標にして1できればいいほうです、
考えずに考えること、理解せずに理解すること、具体化せずに具体化すること、行わずに結果を出すこと、
それが感じることで行う(自分の行いじゃない)という所業の術であります。
全部抽象的になればいいわけではなく、抽象的な面を1%という極小を導入するには具体性の全否定するぐらいでなければ
たどり着けないのです、それが人間としての教育と成長の過程で得てきた才能で才能は簡単には否定できません。
理性をもった人間が本能のまま、野生動物(道具を使う前の類似猿)を真似できたとしても演技でしかないのです、
それそのものに成らなければ人としての尺度(常識)が壁となって全て雑音にしか聞こえないのです。 馬鹿という才能は、それが間違いだと明確に理解していても
行ってしまう、型破りの才能です。
それは学校で学ぶものではない、そして親も教えてくれない、知識も技術でもない、
比喩>俺は空に光る恒星(星)を手に掴んでやる
恒星は手につかめるほど小さくはない、故に矛盾している、子供だって知っていること。
これを理解したうえで手で握り掴もうとする大人が馬鹿の才能です。
型を破る、常識を破る、それは人が数千年の積み重ねで得た科学を否定すること、
そんなことは物理法則を否定して星をつかめると言う怪しい超能力のようなものです、
理屈では馬鹿を行うことはできると考えますが、馬鹿は先天的な才能で後天的に
学ぶには馬鹿ではなく、「狂気」になる必要がある、
理性をもってそれを否定する覚悟と決意、自分を含め自分の周囲の全てを犠牲にする代償
を対価にするほどの領域です。
馬鹿の力とは、火事場の馬鹿力のような、日常では発揮してはいけない安全回路を破壊してまで
だす力であります、安全回路にはこころや思考、知識、常識、難易度など無数の壁があり、
人が人であるかぎり超えるのは難しく作られているのです。
火事場の馬鹿力は臨死体験のような極限の状態になったとき脳内ホルモンが全ての足かせをはずし
可能性を模索する為の直後に待っている死を回避する危機の所業です、簡単にそれを得ることはできない。
得たところで可能性の領域は低確率でしか正しい答えをつかめない、これが大きな問題です。 馬鹿の力は、賢い方法に比べて恐ろしく手間と時間と得られる難易度や可能性が低い、
たとえば自転車を動かすのに自転車に乗って目標の距離まで走ればいい、これが常識です
これに正反対なものは、馬鹿の所業、
つまり自転車には一切触れずに目標の距離へ移動させる、それは地面を掘って自転車が
倒れてくる原理を使い自転車を永遠に転がせながら移動させるといった方法論になる。
実に馬鹿で手間と時間と労力と難易度が高い、「賢く」を完全否定した術の例には正しいかも。
隣の家に行くのに、地球の反対側を回ってたどり着く術、日本の反対側のブラジルに行くのに
地面を掘って地球を貫通させブラジルに到達する考え、すばらしく馬鹿であります。
賢いそれではどうにも成らない、つまり科学も技術も知識も常識も通じない、そのとき必要なのは
馬鹿力です。
世の中には馬鹿の力を巧妙に使い賢い力を超えてしまうことがあります、それを天才の力といいます。
優秀な人が天才の術を真似しても結果を得られません、そういう術が天才の領域です。
教科書としてマニュアル化し手順を明確に具体的に間違わず巧妙に「真似できる」ことは技術であり、
それを手際よく合理的に行うのが達人であり賢者であり、優秀のきわみです。
天才は教科書など見ません、これが天才が天才であるが故の術、馬鹿であっても結果を出せる術を
常に考えそこへ至る裏技を知っている、過半数はそれをインチキ詐欺、トリックと言うが、
ルールに反している反論にならなければ、それはインチキではないのです。
ルールが間違っているからこそ抜け穴ができ、インチキにしか見えない裏技が隙間に生じるのです。 >>283
小学校三年生くらいの時、計算を簡単にする方法、(1+2+3+4+5+6+7+8+9=1+9+2+8+3+7+4+6+5=55)という計算法を、
思いつけなかったのが悔しくて「卑怯なり」と言う風に思ってしまいました。だから、そういう点で数学が苦手
でした。
天才の方法とは、確かにあるのでしょう。それは、結果のみをだすこと、そのために普通と違う方法をとるということであり、
大変にうらやましく、また正しい存在だと思います。『弓と禅』は購入しましたが、しばらくお待ちください。 >>284訂正
○(1+2+3+4+5+6+7+8+9+10=1+9+2+8+3+7+4+6+10+5=55)
×(1+2+3+4+5+6+7+8+9=1+9+2+8+3+7+4+6+5=55) 脳がぐにゃ〜って曲がってくるような感覚が好きです。生きているって感じ。僕の現実(リアル)は深いかな……。 >>284
先生の弱みを握る、計算する前に答えを得る。
計算せずとも答えがだせる。
これが天才の仕組み。
計算を計算的に行っている限り、まだ天才の足元の裏でしかない、近づいている程度。
計算をするなら、誰か何かが計算されるのを利用する、計算せずに計算する、そういう状況
操作をしてことインチキの神である。
コンピュータソフトウエアで万能であり前提さえクリアできれば最強の国士無双のアルゴリズムがある、
たとえば難解な計算をして、唯一の答えを出すならば、
その難解の組み合わせの種類を限定し、その組み合わせの答えをあらかじめ計算を終えておき、
計算開始と共に計算しておいた答えを直で得るという術だ、計算しきれ、準備できているかぎり無双である。
ただ開始と終了の間では目的の計算はしていない。 世の中には計算不能の難解な問題が無数にある、問題解決するには矛盾があり、
教科書的な手法や過去のあらゆる問題解決の解決手段を模倣しても当てはまらない類である、
これを解決するには解けない問題を解くのではなく、溶ける問題にすり替えすること、
つまり技術計算や科学技術で全てのパターンや論理モデルや方程式を使ってではなく、
答えが理想の形になるように修繕すること、前者は予測モデルであって、後者は予言モデルである、
予言モデルとは先に言うことでそれに合うように強引にネゴシエーションすること、自分の努力で
自分を制御しきるより、対象がどのように動くかを操ること、前提条件や世界そのもの意味を
微妙に改変することで自分の力に合う形を見出すこと。
それには主体である自分の論理ではなく、主体以外の論理を感じ取らなければならない、
主体と主体以外の論理をあわせ1つの論理をつくりだす、主体を改変し、主体以外も改変する
これによって主体と主体以外を合わせた最小な術で行える目標がつくられ(感じ取り)、
予言した形へと収束させてゆく巧妙で緻密で主体的論理を超えた領域の術である。
とうぜんとして主体より主体以外のほうが難解で複雑で混沌としている、なので主体の論理は
ほとんどが無視でき、主体に都合の良い方向への 「非主体の動きを操る」ことが主たる目的になる。
戦争で勝つには戦わずに1人も死傷者をださずに勝つ、それがその方法である、できるなら真の天才、
自分本位で自分の主体論理から抜け出せない奇妙で非常識な技と技術を使っている時点で天才もどき。 近いものへの愛着。
イメージは、一秒前の景色の方が、十分前の景色より思い浮かべやすい。
漸近的に、過去から今へと、近づいて行く。極点に至れば、今見ているということと、想像しているものは一致する。
考えは、様々な場所にある。それを指定はできない。考えを近づけて、自分になる。もし、今が何らかの超能力を
発揮するなら、それは全ての過去と、全ての理解した概念や物事が、自分の中で整理され、あるのだということが、
分かるということに違いないだろう。
全ての時間における感覚や経験が等しくて、全てのものを把握しており、後ろめたさや向上やそれらに対する不安
といったものは、一つとしてないのだ。もし、自分が悟って、自分の能力を完全に操作できるようになれれば。 人間の時間的能力は、先回りをして時を迎えるということだ。交響曲などを聞いていると、明らかに二分の一秒ほどさきに、
自分がいて、音が鳴るのを待っている。これは、予測能力と言うものだろうが、この能力を極めると、物事の先をとって、
危険回避などが出来るようになる。そして、音楽を素晴らしく楽しく聞くことが出来るではないか! >自分が悟って、自分の能力を完全に操作できるようになれれば。
自分の限界をしって、限界を超えるものか、限界に支配されるものかということだ、
完全などない自分が作り出すものが完全だ、限界を認めたとき限界が上限という完全な壁になる。
自分を超えて成長できるか、自分という入れ物を上限とするか、選べ
神は完璧なものを作った、その完全とは不完全を抱擁した完全だ、変化があるかぎり
完全すら変化しうる、変化に適用できない完全など愚か者の思考だ。
人が望むのは人が考える完全、それは神が創る不完全には及ばない、愚か者でいいよな?
目の前に見える完全、最後にたどり着く完全、それは同じではないということだ。
ルールが永遠に不変であることを願え、ルールが改変したとき常識、定説、知識、技術は恐ろしく
簡単に崩壊する、なぜならルールが変われば常識が非常識になるからだ。
平常という日常にくる絶対にあってはいけないような災害がくれば、それは来ないかもしれない、
常識とルールを守った学校の先生と生徒は津波に流され、生存者はいない。
そんなこと、他人事、次は絶対にこない、だからルールこそ、目の前の完全こそが正しい、
それも然り、選べ、目の前の連続する勝利と、途中は駄目でも最後の最後で得る究極の勝利、 >>291
勝利に酔うことは最上です。小さな勝利、それであっても嬉しいのですが、それは倫理的に制限されることが、日常で
余りにも多いからです。それはもちろん、社会が存在するために要望されたことではあるのですが。
だから、僕は、勝利のために全てを傾けることが出来ません。その勝利に、どんな実際的価値があるのか。
愛も勇気も、希望も、全て、皆が幸せになるための合言葉に違いありません。
歴史に詳しくないのであれですが、西洋中世などの力の時代、勝利が必要とされました。
ですが、どんな空想の武器も、魔法も、今の時代では必要とされていない。
しかし、ラノベなどの世界で百花繚乱だ。
最後の問いには、僕は、やはり後者を選びますね。
答えるための基準が僕の中では明白に立てることが出来ないのですが、僕の、あなた(の考え)への信頼です。 >僕は、勝利のために全てを傾けることが出来ません
社会が貴方の勝利を望めばいいのです、何の問題もない。
>その勝利に、どんな実際的価値があるのか。
価値は貴方が決めるのではなく社会が決めるので
受動態でありながら主体である意味を見出すには自分がではなく自分を動かす
全てに祝福されるべきです、それが感謝というもの。
世界にとっての希望が貴方の勝利を望むなら、それを拒む理由があるのでしょうか。
自分の問題ではなく、社会の問題にするのです、世界の問題であるなら
世界が解決してくれます、それが必然の力、社会と貴方の間に虹を描き、その輪を
輪廻させることができれば、貴方は社会であり、社会は貴方だ、そして世界は貴方であり
貴方は世界である、ただその両者に輪を作り出すべきか気づけるか、そして輪の本質を
見出し的確に真実へたどり着けるか、
自分中心の主体でしか理解をしないからこそ、自分以外のそれが貴方を中心として意味を
見出す的が見えてこない、自分以外の全てにとって何が、そして貴方がその中心にいるなら
どうすれば、どのようにと、繰り返し禅の境地で廻れば、それが見えてくるはずです、
貴方がではなく貴方以外、すなわち社会や、世界が主体とする本質が貴方と共に手をよりそい
世界が望むことを達成するには貴方もその一部、世界と1つ、世界は貴方を必要とし、
貴方は世界を必要とし、双方が感謝をもって双方によりよりバランスを生み出す、その力が作用するのです。
正しく本質を見抜き真実にたどり着けば貴方は祝福され、間違ったそれを見抜き的を得られなければ
祝福されない、区別は簡単です。
いいですか?自分の視点ではなく自分以外の視点が祝福されなければいけないのです。
自分で行うのではなく、社会、世界が行うのです、貴方が行うべきはそれに気がつき、
本質を見出し、力に繋がる道を1つづつ積み上げ1つの感謝の輪を作りだすこと。
本質を見出すのは簡単ではないです、それ以前にその存在に気がつかないといけない。
本質を感じ取っても真実に繋げなければ働きは生じません。 >>293
世界の法則の中でも、特異なのが、偶然です。「手本引き」の中に、偶然は存在しない。人生の偶然は、自然の偶然
と、人間の個性の対決です。社会が勝利を望む、つまり、各人が自分の為というのではない働きを成す、そのとき、
本当の働きが人間のものになる、というものでしょうか。
忘れるということについてですが、記憶はなかなか手ごわい。それゆえ、一層自由に操ろうとすることに、大きな意味があるでしょう。
全ての積極的忘却、これにも何かの意味が見出せる。つまり、極地に至るまで、地図のような働きを担わせられる。
本の示す地図は、忘れないようにした方がいいもの、であって、全体を俯瞰して眺めることも、必要となる。
そして、虫の目で見れば、物事の小さい成り立ちが見える。
このように、人間は、地図である、とも言える。自己の地図は、自己が作るもの。他人の地図は、便利ですが、
コードを必要とする。
このように、迷わないように、目的地が探せるように、扱わねばならない。地図の制作法は、自分の感覚を、
間違いと思って、捨てないこと。全てを捨てないこと。自分で考えたことは、自分で処理しなければならない。
スリルの瞬間は、地図の目的地への到達と、二輪でなければならない。
スリルが提起する問題は、破壊と生成の、破壊の方でしょう。生成の方法は、自らが世界に望まれるまま、
声を聞くことだ、とおっしゃっているのかもしれませんね。幻の破壊、そして建設。幻を感じて、幻を再現
しようとするのは人間だけであり、ゆめかうつつかということが特別な意味を持つのも、、幻のような
現実こそは、信じられないほどのものである。そういう機制こそは、喜びである。
個人というものが、距離を縮めることが必要です。距離が近ければ、物事は扱いやすくなる。人と人との
距離が近ければ、愛の感情が自然に生まれる。恐れてはなりませんね。
どこへ行けるのか?──あらゆる場所へ行ける。
自らの内には記憶があり、他人にも記憶がある。 >>294
偶然は簡単です、人が物事を平坦にみるからこそ1000回に1回起ることが稀にあれば
偶然、そして1000回中990回おきてもそれは偶然なのです。
世界は平坦に分布しておらず、偶然を重ねることに組み合わせされた結果は歪んでしまいます。
6目のサイコロがどの目もでるから1つの目は6分の1で同じ偶然だと思うでしょう、中に重しが入っていれば
目の出方になります、せかいは平坦ではなく町をみても人ごみをみても、それは過疎だったり
満員だったりで平坦に分布していません。
祝日の道路が渋滞するのは偶然ですが、必然でもあります、祝日だから混むわけです。
なぜそのように必然的に起きるそれらを偶然としか見れないのでしょうか?それは人が認知できる世界が
狭いからです、見えない予測できない、理解しえない、そういう類は必然的に結果が成立しても、
偶然だとしか認識できないのでず。
貴方がその年齢まで生きてこれたのは偶然ですが、生きる本能と環境によって生きてきたというのは必然です、
決して偶然として現在生きているわけではないのです、高い確率で生き延びられるのは偶然と呼ぶのは
早期判断すぎるのではないでしょうか。 >>294
>愛の感情が自然に生まれる。恐れてはなりませんね。
愛の反対は憎悪ではなく無関心だといわれています。
つまり愛は微妙な誤解で憎悪になる、愛で距離を保もたず接触すれば当然として悪意を感じる。
相手と自分が1つになった意識があっても、自分だけが食事をとり目の前の相手には何もあたえず飢えれば、
その差異によって悪意が生まれます。
完全な1つになれるなら問題はないのですが、固体のリズム差異は一致しない、一覧性双生児の双子ですら差異が発生する
ただ差異は憎悪だけではなく愛の原因にもなる、自分が無いものを補完してくれる、自分が安定する為に必要だ、
距離は近いだけでは成立するわけではなく、遠くにいる彼女を求めるような愛もある、
距離の長さではなく、相互の働き、相互の補完、相互の助け合い、相互の相性、相互のリズム、それらが共鳴しうるとき
共に秩序を成すなら愛、共に混沌を成すなら憎悪のようになるのでは?
物理的な距離ではなく、真横にいた夫婦ですら心が無限に離れていることもある、想いが別々に働く、近いが遠い場所、
心の距離は相手が存在しないと死ぬような状態ならば、それはほぼ0距離といえるんでしょう。
物理的距離が近くてもリズムが合わない場合、どんなに努力しても拍子抜けになります、最悪の相性が悪い場合は
何をしても阻害する結果にしかなりえない、
心の優しいワニさんが、川を渡ろうとしている人を本心で親切に渡そうとするが、途中で本能によって人が食べられてしまう、
ワニさんは食べるつもりなどなく、後悔に悩む、避けられない相性の悪い天命を背負った人もいるんです。
良いと思って行うことが悪になる、誰でも同じようにという発想は美しいのですが、善意を悪意でしか返せない
音叉が共鳴するのは特定の周波数に慣れやすい性質があるからです、逆に打ち消しあうそれもあるのです、
凸レンズは集光し光を強くし、凹レンズは光を広げ光を弱くする、凸凹の相性を無視できればいのですが、世界はそう出来ています。
世界は広い、隣に呼び込むのは相性の良い相互に助け合うそういう才能を限定するべきでは? >>296
>世界は広い、隣に呼び込むのは相性の良い相互に助け合うそういう才能を限定するべきでは?
そのように、凹凸レンズのように、相性よく物事を処理できるような間柄を作ること、誠に、大切だと思います。
人間は、個が一応決定の主体ですから、何をするかは、一つの行為となります。
ところが、思惟はそうではない。無理に、習慣的に考えていると、誰それが悪い、憎い、といったことと、
いっしょになって物事が思い出されてきます。しかし、それは事実を損なった悪い世界の感情です。
喜怒哀楽の、怒と哀が混ざって感じられる、感じるべきである場合は多々ありますし、そういう感情を、
ありのままに感じること、これが大事になってきます。心と頭が相即になり、名を与える言葉と表現したい意味がほぼ等しくなる、
そういったことが、大切なのだと、感じます。 >ありのままに感じること、これが大事になってきます。
それは表面を見てくださいで見えうる具体性のことか、ということ、
ありのままは見えないものだ、飾りや具体性のない本質である、言葉や意味になる類ではなく
抽象的で理解するものではない、
1つ欠ければ動作しない理屈で機能する歯車の類ではなく、自ら働くべく機関を正しく走らせる状況の軌道レール、
世界との接点をやさしくオブラートしてくれる環境や、決して裏切らない物事の根底、基底にあるものだ、
また 生命のような肉体や動作や、心のようなAIの学習させられた最適パターン、そうじゃないだろ、
それらは正しくみえても、目の前だけの収支利益であって、最後の勝利へ導いてくれる道ではない、
たとえ変な動きいらだつ動作、気持ち悪い見た目、関係と成して活かしてくれる目に見えないもの、
そこにも命の類は見出せるだろう、それが本質だ、最強のAIになくても、存在しか与えてくれない単純機械でも
命が見えてくる、たとえ見てはいけないものであっても、高次に現れる何かは現実の物理世界ではなく、
それは神や霊や魂などに分類される意味の命だ、死ぬと生きるの2択しかない命ではない。 存在を存在と認めたとき、初めて本質がみえてくる、だからこそ非生物には命は見えてこない。
どんなにちっぽけで世界に力を現さない何かでも、小さな声を発している、小さきものは無意味に分類され
無関心に至るもの、関係はなく非存在であるかぎり「小さな声」は聞こえない、
世界に存在しているとは、万物全てに何かしらの本質があるということだ、それを命と認知して何がわるい。 >>299
自分は存在である。と自分で認める。あなたは存在している、これも言いたい。何もケチケチしている人ばかりじゃ
ないだろう。ただ、そうすることの必要がないのだ。勝つか負けるか、論理はどちらかを示してしまうだろう。
では、存在がよりよく存在するためにはどうするべきか。オブラート包みの世界、裏切らない、最後の勝利、
命の意味を、得ることですね。
僕は、情報を取り入れることが何より大事だと思います。その情報は、自然と言うものにあります。情報を取り入れられなければ、
認知症になります。
人間が意味を紡ぎ出すとき、その意志は、主体的である、といえるでしょう。でも、主体になって意味のあることをする人間が、
どれほどいるでしょう。あなたの意味、他者の意味、それは、自分の中に閉じ込められています。
それを、少しずつ出して言っている。
情報を取り入れること、そういう意識で世界に向かえば、健全な成長、回復が得られるのです。情報をどう解釈するか、
それが、有効な世界観を作り上げるために必要であり、人の意見に対しては、取り入れられるものを取り入れるのです。
だから、理論は学問的なもの、情報取得は、脳の健全さと生きていく上でのより身近なもの、そう思うのです。
情報を取り入れようという意識をもって、その情報の、ある一貫性のある部分(例えば他者)を、愛おしむ(情報なのですから)、
情報の遮断を悲しむ、そんな風に考えています。
ありえないことに興奮する、それは、難しいことです。毎日の中で、どんな時でも最高の瞬間と変わらない
こと、それが、情報を得て、健全になることです。
生きるという意志に、向かっていないもの、そのめざめのためには、どうするべきか、自分が情報を得ようとすることの意思が、
人間らしくて、いいことだと思います。
勝利を得るということは、現実的な事では、素晴らしい。負けるということは、社会の、下の方に追いやられることですが、
もちろん良い暮らしができたり、敬われたりすることの方がいい。
でも、死兆星を消したのも、愛でしたね。
そんな風に、個別的であること、距離があることが、人間をかろうじて生かしています。僕は、人間の本質を
情報と健やかさに見ています。 イメージできると思うが、頭の上から下の方へ至るまで、内面の様子を観察すると、目から光は入るのだが、下に行くにつれて、
たとえば腹の辺りに来ると、真っ暗である。光が射していない。ということは、何もわからない、つまり、自分自身でも分からない
ということになる。
光は、受ければ、それを知ることが出来る。そして、自らの力で、光を生み出すことが出来る。そして、明瞭にものを
判別できるようになる。
腹の辺りの光の届かぬ奥の方まで、自ら作った光によって、照らし出すイメージを持つのだ。そのとき、きっと何か、
見えなかったものが見えるようになり、自らが不安であった暗闇がなくなるだろう。
自分自身を信じることが出来るようになるだろう。自分は、どんなことにも対応できるし、自分の中の力で、
生きてゆくことが出来るんだ、と。
外からの光が真の光であるが、自ら生み出す光もまた一つの人間にとっての心の真の光である。暗愚は、去り、
自らの自信と賢さが、戻ってくるのである。 自らの中の、どこかから光は差している。それを、探し、自然に、そこを大切にしなければならない。人により個性があるから、
また人生があり、脳が可塑的に変わっているから、光の場所は一定ではない。
それを内観して、その方へ向かうことが出来れば、自らの本体を、知りえたことになるだろう。
本体を知り、そこから闇を払っていく。その過程は、決して退屈なものではなく、ドラマティックでさえあるだろう。 勝負とは、自分が心から負けたとき、相手を認めること。また、勝つとは圧倒的に打ち倒すこと。
勝負するか?
負けることなんてないものだ。命を大切にして、負けるべきだ。勝つなら、勝った責任を持ち、さらにいくんだ。
腹を立てるのは、卑怯な人間に対してのみで良い。
何に負けてきたか。何に勝ってきたか。まだ勝負の経験はないのか。勝負にこだわりすぎていないか。
本当の勝敗(完全な決着)は、つけずに、だらだらとやってきたんじゃないか。
上辺だけの遊びでなく、真に世界を深く理解したものに女神が微笑むだろう。
起きることは起きたことと等しいのではないか。
つまり、未来は過去の繰り返しであり、新しい価値など生まれない。ルネサンスのように、発見するだけだ。
せせこましいことを考えず、自分が負けたと思うまで、勝つことが出来る場所を探し出すまで、
いろんな風に生きればいい。 怒りを制御するのは難しい。怒りは、映像とともに浮かぶのではないだろうか。そして、一方では思念として
許せないと思うものだろう。その解決とは。それは、映像と思念を同時に頭の中に存在させることだ。
つまり、バカにされた場面に、立ち向かうことだ。映像など、思念と同時にあればそれほど気にならない。
二つの往復運動が、いつまで経っても終わらないことを引き起こすのだ。
というわけで、現実にある物事と思念を同時に感じることで、一般的な思考が、豊かになるし、
別々に順番に両者を解釈する必要はない。見えるものと心の、同時化こそが、人間の思念の
あるべき姿であり、悟るためには必要なことだ。 本当は怒りの対象が虚構ってことや
怒っている自分も虚構ってことに気づけば
怒りは無くなるよ
世界も自分も全部虚構
涅槃寂静 >>305
虚構に対して怒ってしまうのは、しっかりとした事実に対するのとは別のことであるからだ、という理屈がたちます。
僕自身があまりに愚かであるということは、はっきりとした事実です。
意味のないということに対する怒りの感情は、自分の身勝手な内的な整合性を欠いた弱い愚かさからくるでしょう。
ただ、涅槃寂静と虚構との関係は、人間を超えているのでしょうね。その断絶に深い絶望を見てしまいます。 妄念が起きることおびただしい。特に人の集まる場に行くと、自分の置き場所がなくなる。失敗したような気持になる。
だが、妄念は、妄念を起こした、と認めることで、知的な意見として、様態を変化させることができる。
妄念を起こしていません、と嘘をついてはいけない。全ての妄念は、自分が知っていることである。
釈尊が、一人の瞑想で悟りに至った、というのは、妄念を妄念と認め、間違いも愚かなことも、考えに浮かぶ
のだ、ということを認めたからではないだろうか。
それを行動に移したとき、また事実になる。だから、そこの間に自分の思考としてワンクッションおいて、
妄念を評価し、考え直すということで、誤った行為に身を預けてしまうということがなくなるのだ、ということを
悟ったのではないかと考える。
それは、画期的な転換点であったことは間違いがないだろう。自分の思考は妄念を基礎とする、そこから玉を
作り出す、どんな妄想も、自分が考えたことだと認めること。一瞬、一秒か二秒の間のことである。 >>306
事実ではなく真実にたどり着きたまえ
理屈ではなく本質にたどり着きたまえ >僕は、人間の本質を情報と健やかさに見ています。
妄念によって
僕が見た(と理解)を改め
僕が見る(べき)とすべし 内外打成一片(ないげだじょういっぺん)
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/doujyou/touge/touge.1.htm しっかりした事実とかはっきりした事実なんてのは本当は無くて
全部認識上の虚構なんだよ。
じゃあ、まったく存在しないのか?と言うとそういう訳でもなくて
次の瞬間(30mS程度)に起こる事象の予測には長けている
というだけのもの。
虚構なんだけどちょっとだけ役立つもの。 311は言葉と単語についてもっと勉強したほうがいいのでは? >>308
目の前にあるものとは、別の次元に何かがあるとは思います。それは、人間的なものでしょうね。
>>309
理解より、必然的なところを見るべきである、と。謙虚に一人間として過ごす借家を、臥所にし……。
>>310
多忙のため、後でゆっくりと読ませていただきます。
>>311
虚構の作る世界の性質には、しっかりしたりはっきりしたりしたものが、存在すると思います。それをひっくり返すのは、
相当に至難な技でしょう。よく生きるための、足がかりないしは、方法になればいいとは思いますが。
そこをつなげるのが、考えるということであり、難問になると思いますが。 天の国は近いから天の国に入っていったキリスト教という後発宗派
のほうがわてら世代には現実的な時宜も。 天の国は針の穴にバスケットボールをのせるよりはいり難いのだよ。先代と違ってな。 >>314-315
キリスト教は、アウグスティヌスとかトマス・アクィナスとか読めば少しは理解できるんでしょうが、個人的には油絵のイメージしか
わきません。たまに論で使うことがありましたが、イメージ拝借ということで。時宜が悪くて、天国には入れないよということ
でしょうか。 世界の全てが虚構ってことに気づくための方法は2通りあって、
1つは昔から行われている仏教の瞑想で、ありのままをみる訓練を行う方法
もう1つは脳の認識機構のメカニズムを理解すること >>317
その二つはいつもやっています!なかなか虚構を感得するまでは行けませんが。
想像は、いくつも薄い壁を破っていって、連想によって本質に至ろうとして、言えることをすべて言える状態にする、
先を見る、仮説であっても過誤であっても、といようにやっています。 うまく行かないのは、悟りを神秘的な何かと勘違いしてるか、悟り自体を目的にしてるからなのでは? >>319
>うまく行かない
そうは言っておりません。 虚構なんて言い出すのは妄想ができず幻想を事実としてしまうから虚構に落ちる。
認識なんてしようとするから虚構とか言い出す、気がつき目覚め本質を捉えようとはせず
目に見えるもの意味のあるもの理解できるものばかり追いたくなる思考原理が貴方にある、
具体性を追えばそこに落ちる、メカニズムがあるという確信がメカニズムという具体さに
流され落ちる、脳の原理だけが全てだと確信している証拠であります。 >>321
感情的になり、おざなりになり、失礼しました。 頭の中ではいろんなことを考えられるが、ある物事の、反対のことも考えて、やじろべえのように、均衡を保つようにイメージを
頭の中に持つ、といったことができる。その効用は、常にバランスが物事に対してとれるということであり、
理解ではなく、その物自体を、存在させていれば、自然と理解も深まってくるのではないだろうか。
理解する、とは、次へ次へと、壁を打ち破っていくことである。それは確かに新しいものをつかめる。
だが、均衡は頭の精神の話である。それには新しいということは関係がない。自分を落ち着けるという
ことである。感情の焦り、不安といったものが、必要以上に増えてきて振り返れば、調和が本来の瞑想の
目的であったのであって、とりあえず自分自身に価値を取り戻すことができる方法を持てる。
もし、先に行きたいなら壁を破っていけばいい。ここでリラックスしたいなら、頭の中に調和のやじろべえのようなものを、
思い浮かべ、それが必要なことであると認めればいい。振り子のようなものを思い浮かべるのもいいだろう。 振り子のような調和に流れる類は「f分の1揺らぎ」を持っている、それは秩序と混沌の間が
単なる反復や単純バランスではないことは明らかである。
2つの要素、合い反するものが二元論のように対立するのではなく
2つが1つになりて関係の円が作られることにより存在が活かされること
それは機械的ではなく、自然的な調和を示す振り子だということだ、 無字の公案、犬に仏性があるか、否か。
人間には仏性がない、が答えである。バカには理解できない。 >>327
f分の1揺らぎは面白いですね。自然的な調和を乱すのには、どんな意味もないような気がします。それを知れば、もっと
進化していくとも思えるけど、本筋としては、f分の1揺らぎにしたがった研究をすることでしょう。
>>328
ごめんなさい、わかりません。 目が在って視界があるのか?そうではない。まず、視界があることが先決である。これは、視界が現象しているということに
ほかならない。すなわち、あるもの、与えられたもの以上を求めるのは科学的な態度であり、あるものに従うのが、
宗教的態度である。考えなどもそうである。まず、考えがあって、それに加工をして、思いができる。現象とは、
このように、いろいろなところで表れているもののことなのだと思います。視覚的現象は、視界以外ではなく、
現象的思惟は、自らと絡み合う。
つまり、よく見ようとするのも大切だが、見えているものを先に考える態度も大切である。
考えとは、無意識のうちに働いているという点が大事だ。それを超えようとすれば、どうするのがいいか、
それは、現象と主体的なものとの絡み合いを、心の声として、体感することである。
そういう体験を経なければ、本当に考えることはできないだろう。現象をみるなら、
死というものも現象の最後として、敗北ではなく受け取ることができるのではないか、
そうだったらいいと思います。 つまり、ある文章を読んで起こす考えと、目の前の世界像の間に、本質的違いはない。どちらも現象に違いない。そう考えることで、
知らずに身についた何らかの序列をなくすことができる。だが、その二種の現象には、質的違いがある。
現象の本質とは、「ある」ということだから、現象をなくすには、死ぬしかない。いや、現象を加工することもできる。
あるいは、過行く。時間の本質とは流れる、ということだから、時間の本質をつかむには、流れを見なければならない。
どうやって流れが見れるか。流れるには、高低差が必要である。時間も、過去の高さから未来の低さへ向かって
流れて行っているのだろうか。エントロピーの高いところから、低いところへ向かって(おや?逆のはずだが言葉だけの問題なのか?)、
流れているのか。
さて、現象は、保存されない。「私」はどうやら保存されない。なぜなら、私の本質とは、死ぬということだからだ。
死ねないものは、人間ではないだろう。私も時と一緒に流れる。それはつまり、世界と私が関わるその
かかわり方が、時間的なものであり、また現象的なものであるということである。
何とか現象した。私は私自身が存在していると気づいた。現象とは、主観と客観の、結び目であろう。
一生一緒に、やっていくしかない。そして、それを超える、現実は、おそらくないのだ。
まあそれでいいだろう。自分には、妄想するという力もある。視界自体が現象に過ぎないのだから、
まさに、この時点で妄想と現実は、同列となる。
どのように、それらを、自らの力として、必要な時に使えるか、そのような程度に生きていくのがいいと思います。 >>328
ばーーか。ばか、ばっかーーああ、馬鹿wwwwwwwwwww Aなんとかってやつは性格悪いな↑自分の言いたいことだけ喋らせな気が済まんのか >>333
喋らせな、というのはどのことでしょうか。また、自分の言いたいことっていうのは、どこでしょうか。 >>333
正直に言わせてもらうと意味不明なんだけど。 そんなことを一々気にしてるようではまだまだ悟れてないね、執着を取れよ ..... ________
..... /:.'`:::: :::\
..... /:: \
.... /::. ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' :: ヽ
.... |::: ン -==-∴-==- < |
蛙邊矧憎魔璽斐螺禰佐都簑菟匙簾邊獅
.... ヽ_`⌒,,,ノ(、_, )ヽ⌒_ノ
.... ヽ: il´トェェェイli./
..... ヽ!l ,|r-r-|!/
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/ ,.-― l .',__ ヽ l /. `ヽ
. ,' , .,.-‐‐r‐ヽ ヽ、 "''‐-.、 _,,..-――‐ `''‐-..、
..| ./ ./ r'′ .\ \ ヽ/ ヽ ヽ
..| l .l / ヽ ヽl´ .| .| l ヽ.
..ヽl ヽ ヽ ヽ、/ ./ | ',
\ ヽ._ヽ--ノヽ-' | / `ヽ l
`''┬‐'"´ ヽ._____ノ ヽ.____ ノl .ヽ
', ニ/-..,,_./ .l ヽ_,,.-''ヽ__ / ヽ ',
ヽ ー< `''‐..,, { ,,.-‐┼‐-.、}_,,...-仁/ .', l
ヽ `''-..,,_ { | }_,,..-'' ∧ l |
| {` ̄ ´l` ̄´.} / .ヽ
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.. ,'::::::/::::/:::/:://:::::::::Lr‐y:::::|:::::l:::'、 o
.. ./:::::/:::/:::/:://:::::;.ィ'" .ヽ、,|::::::l;::::'、
.. .,':::::/:::/:::/:/::∠,,,,,,_,...;-;-‐'´゙>ァ:::::::l,
.. /:::::/::/::://:::/ ∞ .:.:;;:;;:/.: .;'ヽ、,l'、
.. .,'::::/::/:::/;'_;;ハ、; .; ;;/.: ..;.. lト;l, +
.. /::::/:/::::/;r' \ .:.:.:.;;;;/.:.::.:.::. |〈! 昭恵廼汚麺麭公害
.. /l:::;':/:::::;イl .; ヽ ,,__;;/.:.:.:.:.: |:::l >>338
とうとう正体あらわしたな。wwwww
>>336
悟りなんて どうでもいいこと。 自分の妄想を主張するのは良いことだ、ただそれはポエムにすぎない、
示された知や術を学ぼうとか思うなら、それは愚か者、そんなものがほしいなら教科書を学びたまえ、
学べるものは技術やら知識であって非技術や非知識は学べない、そしてそれらは模倣しても正しく働かない、
他人の妄想をねだるな、自分自身で勝ち取れ、自分の力で未知の扉を開くものは常に祝福されるだろう。
模倣では解決しえない、それが非知識、非技術、非科学という類である。
簡単である、自分が祝福されているか妬んでいるか自分自身が感じられるはずだ、
所詮正しいか正しくないかとは、主観で計るしかないのだよ。
ポエムマスターになりたいのかね? >>341
私が求めるのは知識ではありません。もちろん私自身で判断して正しいか正しくないかを分けます。
考えるということの技術面を言えば、考えるとは、瞳を使ってするものでしょう。
それは、技術とはいいがたい、深い思索の際にも常に働いていることだと思っています。
自分があればいい、マイペース、そんな風にやっては来ました。
人が足を引っ張ることをまず体験し、ろくでもないことの中から、自分で対抗し、自分であるということを、今ならできますが。
見通す瞳、悲しみも喜びも、それがなければ体験できません。
体験をする。体験を、真なる言葉に表す。社会の言葉のシステムの中で考えてみる。真なる体験と、それを表す真なる言葉。
今までにないものを作ることは、今までに誰も言っていないことを言うこと。今までに誰にも感じられなかった感情を感じること。
静寂の、中の自分。それを再発見し、何らかの、自分とは違うものを、まじまじと、見つめて、大事にする。
僕が大事にするのは、ポエムではなく、愛にまつわることです。現実の形式の中で、行う、最も温かいもの、それは。 >>343
確かに、執着する愛はありますね。でも、未熟な赤子の時に、愛を受けずに育ったらどうなるでしょう。
愛がなければ国は亡ぶでしょう。一人で生きていく覚悟のある人もいるかとは思いますが、そうした人にとって、
生きるとは、自己をどうにかすることで、満足するのだと、推測します。
愛は自然なものです。愛を否定する前に、ほかのことで足りないこと、未熟なこと、を探した方が、いいんじゃないでしょうか。
愛の執着は、一概に否定するべきものではないと、しか思えません。 >>339
悟りはどうでもいいなんて思うのはどうでもいいこと >>339
悟りへの執着すら捨てろと教えられていることも知らないヴぁか? 悟りが妬ましくてしかたがないんだけどどうすればいいの? 悟りなんてどうでも良いという気分でいながら実際は悟りを目指しているってことは
本心はコーマンやりたくてしょうがないんだけど女なんてどうでも良いという気分でいるみたいなことだな 悟りを志向することは悟りに近づく道で、偶然の悟りに届かないだろうな。 どんなにねだっても、言葉を模倣したいとか知恵を感じたい、
強請るやつには何も与えない
与えられるのは自分で勝ち取る人だけ、
閉じた世界で閉じた扉は法則だからといって破ろうとしないルールに支配された貴方だよ。
扉の向こう側に行かないかぎり、扉は自分で閉めるもの、他人が閉ざしているわけじゃない。 >>349
確かに悟りとは程遠い浅ましい人間だな
禅の世界でも、愚図で知恵の回らない下働き男が悟りということは
自分には分からないと言って悟った
後に南宗を建てた慧能である >実際は悟りを目指しているってことは
目指しているという錯覚な。 人間にとってと限定すれば、時間は過去と未来の両方へ向かって流れているのではなかろうか。その流れ方に、違いはあるにせよ。 人間にとっての時間とは、密度が変化するものである。脳がぎっしりと詰まっているのと同様に、時間はどれだけでも凝縮できて、
密度のある時間を感覚することが大切である。 >>355
>時間は過去と未来の両方へ向かって流れているのではなかろう
時間が正の方向へ流れる解釈はその解釈が正しくても別次元で成立している
定義そのものがそういう世界だからだ、定義を否定すれば時間解釈そのものも否定されるので
両方向へ向かう世界と、片方向へ向かう世界は両立できても同一ではない。
両方向へ向かう世界が正しければそれは、片方向へ向かう世界とは別の解釈や定義であるので
一緒ではない、 >>357
そうですね、定義をはっきりさせる必要はある。定義しましょう。
時間というものを、人間にはとらえることのできないものだとすると、それの解釈や、感覚によって、二次的に推測するしかないので、
もし実感とは違う時間というものが物理的にあるとすれば、それは物理的と、人間感覚的が違ってくるものなので、
二行上に書いた、解釈や感覚は、間違っていることになる。そういう風に定義しました。
この定義から外れる時間については、別の定義をしなおして、日々の感覚で実感するか、あるいは何らかの高度な実験によって、
また理論展開によって真理とされたもの(相対性理論)を理解するしかない。
しかし、相対性理論が絶対的であるということはない。ただ感覚的に感じられるものから、実際に本当の(人間にとっての)時間を、
得ることができれば、それは良い。それを、物理学的なものの原型になることになる。なぜなら、それは、感覚的に得られた時間感覚を、
もう正しく得ているという状態から出発しているのだから。
おっしゃっているのは、解釈や定義によって、いかようにも考えの中で、時間は変わるもの、ということでしょうから、これはまさに、
哲学的なことです。 いまの科学も物理も、観測者(人ではない)にとっての関係をもってどのように観測されるか
という説明だけで非観測者(観測できる位置関係にない=情報が伝達できない関係)では
説明していないの点が重要になる。
主体からの距離が観測できないが今後離れてゆく移動物体は常に観測できるわけではなく
亜高速(光の70%など)で逆方向で移動する粒子(恒星を中心とした)は非観測原理では
実在しなければならないわけで、観測できないからそれらがないというわけでもなく
関係しないが正解である。
超新星爆発で光速にほぼ近い速度で移動するニュートリノは進行方向とは逆方向にも
放出されるわけで、両者の位置関係は光速の2倍の速度に換算される位置関係になるのは
明らかなのに学者の説明では光速は超えられないから両社は光速に等しくてもとか言い出す。
非観測での説明ができないからこういう話になるのである。
定義をもった観測系での解釈は常に正しく(実証の反証積み上げによる)、それは非観測系の
解釈をしているわけではない、ここに気がつかないからこそヘンテコな説明が成立する。
光速を超えられないが、空間膨張は光速を超えられる、故にワープ(光速を超える)移動方法は
物理法則で否定できない、またワームホールなど時空を超えるそれもアインシタインが否定していない。
光速不変という論理フィルターで定義理解するからこそ光速を超えられないだけという点が頭にないだけである。
光速不変というのは観測においた実証系の側面においてそうなるだけだ。 現実感を喪失することと、現実感を取り戻すこと。
例えば、ある人の意見は、大変に自分にとって重要であると感じてしまうことがある。それは、身近な人の言葉であるとか、
緊急を要する情報だったり。だが、それ以外でも、自分の感覚に触る情報はたくさんあって、それに対していちいち
興奮するのが、現実感のゆがみである。実際はその人は、豆粒より小さな姿でしか見えないし、現実というものを
持つことができれば、そういった豆粒のようなことばかりである、と感じられるだろう。
必要な想像と、不必要な想像がある。それは、現実の中で、例えば自己感覚と世界感覚、そしてそれをもたらす距離感を、
見誤っているのである。社会に貢献するのは良い。だが、死んでまで社会に尽くす人間に、かけられる言葉もない。
豆粒のようである私たち、それぞれが、「やらねばならないこと」を持っている。それを無視した、身の丈に合っていない
義侠心は、妄想である。そして、妄想を消すには、必要な現実感を取り戻すこと。非現実感、全てが滑りゆくスリル、
それを楽しむには、強靭な精神力を持っていないといけない。なぜなら、危険だからだ。
危険がダサいという雰囲気はある。それは、現実のことをわかっていない場合に当てはまることだ。
小さいものを使うこと。小さいものに突っかからないこと。それは、現実の範囲で現実感に従った、正しいスケジュールを
もつこと。自分は特別ではない、誰もみな特別だ、という論理矛盾を、大事にすることだ。それが特異点
「私」にとって、課せられた「現実」だ。論理に従っていては現実はできない。特別条件は常に付いて回る。
余りにもうまく行かない作戦を、自分らしいといって玉砕するのは、一度でよい。長い時間は必要だろうが、
人間ならざるものになったものが、再び人間になること、これが、私に「向けられた」はずの、「現実の」使命だ。
きっと祝福される。 公案を透過せよ。
無字の公案。犬に仏性があるか。
答えは、人間には仏性がない、ということである。 ふと気づくと、妄想、空想に没頭してしまっている自分を見出す。妄想、空想は、健全な頭の状態を損ない、気を改めないと
抜け出せないから、常に妄想に逃避することは、良いものではない。はっと現実に戻った時、妄想は、空中の一点に、
ふわふわと漂っていた痕跡を思い出す。
現実の中において、妄想、空想を断続的に渡り歩くことを、してしまうものである。それをこじらせると、妄想、空想の外に
出られなくなる。現実は外にあり、現実の断片さえ見えない。
これから、妄想、空想をするぞ、この気構えが、より有用で本当の妄想、空想をするときに、心がけるべきである。
妄想、空想の時間を過ごした、そう振り返るとき、妄想と空想が、現実と分かつことができないことに気づく。
記憶の中では、昔のことは、その両者を区別できなくなっている。
では、現実のみによって構成されるものなどあるのか。妄想の、良さとはないのか。
そうだ、妄想には、種類がある。よい種類の妄想とは、目的に向けて考えているということに他ならない。
どのような妄想も、現実には勝てない。妄想を現実に取り込め。
妄想による頭の重たさを、経験して、現実に気づくためには妄想の森を抜けねばならない。
そのとき、現実とは空である、従うべきものもなく、自我も、主張したり、妄想を何らかの負からの逃げ道として続けている
というようなことが、ないのだと知るべきである。
妄想と現実の関係を解き、そのうえでより高度な思考行為を、目指せるのだと。
それはつまり、妄想による思考ではなく、空から何かを生れさせるようなことを勇気と智恵から、していくこと。
真似ばかりではいけない、本当に生きることを、考え、現実をつかみ、妄想から覚めることの重要さを、知らねばならない。
夢から覚めて、人間になれ。おびえているなら、妄想をやめよ。その外にあるものこそ、自然な自分、
過去から抜け出した今。 一般的に、信仰とは、没頭して、信ずることだ。それは、苦しみから逃げているのだ。その逃げが妄想である。
じぶんが悪いことをしてしまったのじゃないか、間違っているんじゃないか、そう不安に陥ること、
それはすべて妄想なのだ。現実的行動でいかようにも解消できる場合がほとんどだ。
逃げようとしたり、自分を責めたりすることは、妄想と同じ構造を持ち、それゆえ、そこから覚めることができる。
本当の不幸とは、たくさんあるが、それに対して感じる劣等感は、むやみやたらにやっても、仕方がないことだ。
できる人、やる人はいるだろうし、やる人は、良い人である。よい人が、妄想にとらわれていないか、
ということを考える。思惟も行動である。行動も思惟である。ケチをつけるつもりは全くない。
世の悪と戦うということも、必要だというだけだ。悪を生むのが妄想にほかならないと、考える次第である。 自分の感覚を信じているか。様々な気持ちが起こり、馬鹿にした気持ちを持ったりして、作業に逃げる。
だが、感覚とは、自分に起こったことだ。それを無駄だと捨てるより、ダメもとでその気持ちを理解する。
もしかしたら、自分は捨ててばかりで、簡単で些細なことだと、無視してきたことがあるのではないか。
そのように考えると、どんな気持ちにも意味というものがあり、頭の中に感じることを、外界や状況に合わせ、
持続してみるのは良いと思われる。感じ、考え、保つ。何かで覆い隠し、やっぱり自分はこれでよい、
そう思うのがいけない。信仰を脱すること。というかむしろ、信仰から得たものを本当に自分の頭で、
ふるいにかけてみること。何の目的もない気持ちであっても、自分にとって落ち着く感情や気持ちを、
逃していたのかもしれない。意志とは、働きであって気持ちではない。
その働きというものを、気持ちに変換して、何が起こるかを見守るのだ。
許されない気持ちなんてないし、自分を損なった経験があるとか、何かもやもやするときは、
新しい感情と、それのもたらす思考を、新規に拾い上げ、試しに保ってみることだ。
その結果、それが良いことであったとわかればそれは何よりだし、良いことでなければ次へ行けばいい。 ある理をいくつか持っているとして、さらにそのうちのいくつかは、適用範囲に関わらず、それが正しく当てはまる。
その理由は、小さなものが集まって、大きなものをなしているという構造で世界ができているからである。
単語が文を作り上げるとき、論理というものが、文の背骨である。小さな生き物がより複雑に進化して、
大きな生物になった。
このように、ある理がすべての範囲に適用できるなら、その理こそが真理と呼ばれるものであろう。 >ある理がすべての範囲に適用できるなら、その理こそが真理と呼ばれるものであろう。
全てに適用できる、それは特定の具体性を示す類か?
いあ違うはずだ、より根源的なもの、そこにはより抽象的で具体的な意味のかけらすらない
無意味であるもののはずだ。
真理に意味を求めるからこそ、見せていた真理を真理とは認められない。
真理とはそういうどこにでもあって、どこにもない存在では? >>367
>真理に意味を求めるからこそ、見せていた真理を真理とは認められない。
無意味が何なのかということですね。それは、人の創造力の極限をえようとすることの、助けになりますね。
世界に意味はなく、人間に意味がある。そして、人間の極限は、自然から生まれてきたということにかかわりが
大きくあるに違いない。
>真理とはそういうどこにでもあって、どこにもない存在では?
それの影を見て、究極に想像することで、手にすることはできるものであると考えます。
西洋哲学の展開があったように、真理も近づいてはいけるものであると。 >自分の感覚を信じて
信じるというのは、未来を妄想すること、過去を理解することではない。
つまり願いだ、想いだ、情念である。
理解するのではなく、信じるからこそ、確定していることは受け入れることであって
信じることではないのでは?信じるってことは未来を具現化させうる人がもつ術、
人が活きているという証、命の輝き、わずかでも可能性へ伸ばす触手の手、
それは活き活きしているならば、可能性が確定するような予測できるものではなく
何かわからない物へ伸びる情念、人の歩む道、
貴方が背負った宿命、そして貴方の底に眠っている天命、流されるだけの道に
迷い、未来を信じられなくなったとき、未来への情念は薄れ未来を信じることができず
過去ばかり理解しようとするようになる。
夜空に輝く星があるだろう、人は誰もが一度は空にある星に手を伸ばし届かないか
届いて見せようと妄想するはず、届くことがではなく、届かせる想いだ、
理解し届かないと理解したとき手を伸ばすのをやめるだろう、
それが記憶の彼方に置いてきた、貴方がもっているまぶしく輝く宝石だ
無いわけじゃない、置いてきたサイレントメモリー雑音として心の奥底にしまって
何重にも層をなし開けられなくなっている想い、
自分の力など世界のそれに比べれば0に近い、ならば自分で得るというアプローチでは
絶対に届かない場所、それは夜空の星だ、
恋人に夜空に光る月がきれいで、それを貴方にあげるとバケツに汲んだ水に映っているものを
差し出し、彼女が受け取れば、絶対にプレゼントできない月すらプレゼントすることは可能だ。
世界は解釈にすぎない、脳内現象のシナプスにすぎない、
世界の前提条件が変われば運命も天命も絶対的ではなく相対的に関係するだろう。
つまり自分を騙せ、世界を騙せ、世界も自分もそれは日本の古語では「うつしよ」と呼ぶ
それは世界を心の鏡に映した認知にすぎないってことだ。
全ての世界が自分に対して正しく働くならば、その前提では自分は神にでもなれる。 >西洋哲学の展開があったように、真理も近づいてはいけるものであると。
東洋哲学でこの世の真理は説明されている、
太極図(陰陽魚)=陰陽、それが真理だと紀元前の人が考えた答えだ。
すべては陰陽の対極対称性の元にある、最先端物理学でも数学でも対象性をもつものが
美しいシンプルな仕組みと考える人が多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD >一般的に、信仰とは、没頭して、信ずることだ。それは、苦しみから逃げているのだ。その逃げが妄想である。
妄想の無いそれは氷だ、変化のない時間が進まない結晶、
変化がないそれには未来がない、過去だけが存在し過去の理解だけが正しく
それは新たなる解釈(妄想)と可能性を見出さない、新たなる扉を開くことを拒絶し
氷の中に閉じこもることになる。
変化のない絶対,普遍で不変で不偏な正しさ、そこには妄想などない、変貌などない。
駄目なら駄目じゃなくなればいいというのが妄想が見出す結果だ。
答えは先にあり、今ではない、妄想が妄想を呼び不可能な無限の氷の壁を砕き溶かし、
可能性という生命の海に導く、
ただ変化の初動は恐ろしく小さい、そして小さいそれは雑音としてかき消される
声無き声として消え去るそれは、大きな潮流に同調しないから消される、
自分の小さい力ではなく、世界を感じ取れ、世界を信じろ、自分でやるのではなく
世界が行う、世界が自分の為に自分は世界の一部だ、世界と自分が共に活ける可能性を
妄想する、それが逃げでもいい、強く丹念に精密に続く情念をもった妄想は積みあがる、
たとえ初動が小さくても世界にはカオスという性質があり繰り返すことで小さな誤差であっても
大きな誤差にたどり着く。その妄想を正しく機能させうるかは、想いの強さに比例する。 >「想像」は頭の中だけで考えることです。
>「空想」は現実にはあり得ないことや、現実と関係ないことを思いめぐらすことです。
>「妄想」は病的に抱く誤った判断や確信のことです。
病的に抱く誤った判断や確信は、過去に対しては間違いであっても、
未来に対しては間違いとは限らない、妄想がたどり着く未来は実効として
機能しえればそれは妄想が創造へ昇華する。
創造など妄想の情念の繰り返しにすぎない。
空想は現実から遠ざかる、諦めや、絶対にできないと確信しているからこそ空想だ、
そこには空想に達しようとする情念がない。
考えることは想像であり、想像が空想を呼び、妄想につながり、一部が創造へと繋がる。
結果を出せる確信した意思は、現在や過去の所業では誤った能力や行動や判断である、
しかし確信は曲がらない心や、諦めない心を含んでいる、錯覚であろうがそれを実現させる
1歩1歩が未来を築く、人の歴史はそういう繰り返し絶えない妄念があるはずのない技術を偶然掴みとり
結果を出したものではないのか? 世界は、そのすべてを知りうることなどできないから、逆に素晴らしい(人に知りえない全の価値)、
その不可知は、生きることの汲みつくせぬ源泉となる。
その中で目覚め、その中で眠る。
月のプレゼントは面白い話ですね。
そして、人間がやろうとすることは、人間自体を知ることと、世界の傾向を知ること。
人間の存在の極には、人は涙を流し、世界のカオスには、人を断罪しないような優しさがある。 自分で自分に限界を設定するからこそ、成長がない。
限界は諦めたときにやってくる、呪いだ。
可能性は自分が作り出すものではなく、世界が変貌してゆく中で
変化という僅かな差が新しい可能性を世界が生み出す、
そこに可能性を認知し存在を妄想できるのは創造者である
創造を生み出せる存在だ、過去を計算するのは機械でできるが、
未来を妄想できるのは妄念を原理としそこに無意味な情念をささげ
可能性が閉ざされたという定義そのものを破壊する開拓者、想像は
最後に創造にたどり着ける、それは全部ではないが、強い妄念をもつものに
しか与えられない。妄想を拒み確定するだけの知識と技術に縛られるものが
新たな可能性を模索することはないのだよ。 ねだるな(ただ待っているだけでは解決しない)、勝ち取れ(空気を読み、もがき苦しみ馬鹿力を出せ)
壊れない壁は、壊す力が無いものが叩き壊そうとしても、壊れない、
壁が不変ではないならば、壁も壊れる道筋が必ずある。
たとえば大岩を扱う石材屋はハンマー1と杭1つで大岩を自由に割り任意の形にしてゆく、
声無き声を聞き取り、岩が満足するような力を加えれば、
小さい力で大きな結果がだせる隠されたポイントがある、石職人の達人はそれを聞き分ける、
現実にある職業だ。
岩を強引に割るのではなく、岩が割れる気持ちにして岩が自然に割れるようにささやくのである。 >>375
過去に対する態度を、僕は、保留しておき、眺めるものにしておきます。それが意味を持つなら未来においてだけであるし、
執着する意味はない。
そして、未来への妄念を持つことを、情念的な最も強い人間の力を、未知に対して想像する、そんな、情念的な生き方は、
可能性を広げる生き方ですね。 >>376
そうですね、馬鹿力を、出さないと。無手勝流を極めるなら、そのための時間はあるし、未来は何とも決めつけはしない。
自分の思うことは、自分の思えること。そこに意味を見出せるなら、世界から拒絶されていないし、世界に背を向けてもいない
という証ですから。 すべてはポエム、なぜなら発言はそのときに気持ち
唄を上手に読めば響く、轟く、にじむ、揺らぐ、
細かい具体性にこだわるな、
ポエムに限界などない、妄想すればいいだけである。
愛と勇気と希望をもって ホーリーアップ
迷うものいはポエムは描けない、心が自分自身の言葉で呪われているからだ、
描くポエムに失敗などない、何故なら再解釈していくらでも妄想しなおせばいいからだ。 >迷うものいはポエムは描けない
迷う者には ポエムは描けない >>379
そうですね、一度の失敗であきらめる必要というものはない。妄想しなおし、ポエムを行為する。そのために必要なものは、
最低限でよいだろうと思います。誰にも与えらえれた、命があるから、何度でも解釈。 念ずることの中で意味がある念は、今現在にとどまろうとする念だ。なぜなら、それは試みることができるものであり、
しかも必ず失敗するからだ。つまり、その念とは、叶えようとしてする念なのではない。ただ正しく感じるため、
自分の意識の限界を得るため、つまり、自分の念の限界を、知るための実験なのである。
さて、時間は止まらないものだとわかる。「今」は決してつかめない。そのことで、健全な働きを、知り、信ずることもできる。
つまり、時間が止まらないものであり、今であるということが、いつもいつも同じ感覚で得られるなら、迷いから脱出する
ことができるのである。原理として立てることができる。恐ろしい霧が払われ、悩みから脱する。
この念により、自分が物質であることを確認できる。時が生み出した迷い子ではない。
時は、二度と元には戻らない。だから、何らかのレースを行えば、神秘性と、従っても悪くないもの、行為によって
絶対を求めなくてもよい、ということが記される。自分は自分であるが、共通したルールのもとで、共同的に
結ばれるのが、時間の中において同じ存在の仕方をするという理由からだ、と、いうことであり、自らを怪しまなくてもよくなる。
なぜ今は得難いのか?それは、人間の根本に呼吸があるからだ。呼吸という行為を成り立たせるものが、呼吸する間の時間であり、
今を感じるためには、呼吸に対して何らかのアプローチをせねばならない。
私が感じるのは、客観物の観察というものだ。例えば(アナログ)時計。時計によって、時の流れを知れる。それを見つめることで、今に至れる。
時計を一度も見たことのないものが、今という概念を、はっきりと意識し、感じられるだろうか。
計算である。そういう形式で脳を使うことによって、数と関係がある時間のことを、知れるのである。
客観と主観は、融合することができる。どちらも正しく、両者の違いがなくなる。それには、主観の方から歩み寄るしかない。 妄想を強く信じること、それは感謝なしでは適わない
信じるとは自分とか他人とか言葉ではない、
世界の本質を他人の本質を見えるべき未来の本質を信じる、信じきれば敵などない、
妄想が孤立した事柄なら、それは妄想ではなく妄念でもなく、空想や幻想だ
どこかを空のまま切捨て合理化した空想、具体化することで世界に感謝せず世界を無視した幻想だ
妄想が示すのは現実ではないが、世界と共に世界に感謝する妄念は、自分の妄想がではなく
世界そのものが妄想へと傾きだす、
なぜなら、世界を誘い、世界を揺さぶる現況は妄想をめぐらす主体にあるからだ、世界に響く妄念は
世界に感謝することで、世界は鏡(完全な鏡ではない)となりて妄念の主体へと帰着する。
感謝するには、世界を感じなければならない、世界を信じるには世界を感じなければならない、
妄想を信じるには、妄想が世界と共に存在しえる未来を見出さなければならない、
それは決して個の中だけで生じる空想や幻想ではなく、世界が妄想する、世界が妄念をもって
未来を創造するように、共に感謝し、世界が妄想しうることを信じること。
はじめから「無理だ」と決めてかかっては出来るものも出来ない。「出来る」と信じることが大切だ。
より大きな力とは、より大きな感謝を狂信者のごとく信じること、それは待っているのではなく
世界が極僅かにでも微動しうる本質を正しく見抜くこと。
われわれの力は恐ろしく小さい、0に近いが0ではない、世界が願う何かを見つけ出せばいい。
世界の願いを1つ1つ感謝してゆくことで0ではない何かは積み重なってゆく。
ただ形が無いものが形をもつには、恐ろしく時間がかかる。
世界が願うそれが極小さいものであるならば、力も極小さいはずである。
きっかけ が きっかけを呼び込み、目指す指標が共感する何かを示せれば
多くの何かが力を僅かに貸してくれる、共感する僅かな希望、
それは自分が成すのではなく、世界が成すのである、信じるのは世界の本質、隠された
根底にある 根本の願い、そこに響く何かを考えだすのが妄念だ。
さあ、信じろ、何を?しらんよ、「それ」が正しければ力を貸してくれる、フォースだ
世界に隠れている何か、「それ」を浮かび上がらせ輝かせるだけである。愛だ >>383
愛、ですね。
よく読むためには、文章に抑揚をつけて長く読むことですよ。
よく生きるためには、気持ち、気分に抑揚をつけること、ですよ。
そうすれば、退屈もエキサイティングになり、心は平穏な満足に満たされる。
必要のない争いというものは、退屈を、高揚に変えようとすることが、関わっていますよ。
それ自体は悪くなくても、そういう気持ちが伝わる。
自分自身で抑揚をつけていけば、何の退屈も、何のやるせなさも、なくなるのです。
気持ちを感じ、気持ちを平和の中でコントロールできる。
長い時間を無駄に過ごさないために、抑揚をつけるという、簡単な方法を試してみてください。
妄想は、望みから生まれることもあるでしょう。望むことの焦りは、あらゆるものをつかみそれを達成しようとするのです。
妄想をすて、抑揚の受け身である、禁じられた遊びを、心に秘めているものは、一生を、意味ではなく、
生活として、助けなくとも生きることができるのです。頼ってばかりではいけません。精神的な修養においては……。 フォースとは、小さな範囲に閉じ込められ、繰り返されることで、一つのパワーとなる抑揚です。
閉じ込めてあるので、迷いはない。
抑揚を続けてきた心は、解放されれば圧倒的なパワーになります。
抑揚は、コツでもあり、自然を身に着ける手段でもあります。
抑揚によって、自然を理解し、自らと自然の波長を合わせます。
高周波から低周波、すべてを体現することができます。
気持ちと行動は、心と自然の関係に等しいのではないでしょうか。 さらに、外界の抑揚に、自らを合わせるのです。外界、つまり外の雰囲気は、ある余裕を持っており、人間が関わろうとすれば、
関われるものです。外界の抑揚とは、かなりゆっくりとしています。だから、自分を外に合わせると、ゆったりとした
落ち着いた気分になります。そして、いったんなってしまえば、それは大きな力との合一の状態にあることが
わかるはずです。外界と内界の同調。内界の抑揚は、もはや自らの内部の抑揚にとどまらず、
何らかの思念と、思考の開放において、次々と波及していくような、自然の力を借りられることになります。
それは、人間の力の最大限を身に着けることであり、その状態が、悟りであります。 どんなに、精神病で苦しんでいる最中であっても、その状態のままでも次のフェーズに行ける、ということを考えなければならない。
苦しんでも次へ、これを認識の救いと感じられるはずだ。早く死んで楽になりたい、そんな気持ちが正しいはずもなく、
その気持ちのまま次のフェーズへ。この繰り返しだ。生きるということは、苦しみによって、とどめられはしない。
そのままでも、いけるんだ。幸福、快適、それを求め続ける事、これ自体はいいことだが、もしそうじゃなくても、
寿命のまま生ききるしかない。何らかの奇跡が起きて、自分の苦しみが救われる、そんなことを考えるより、
苦しみへの対処をしてきたことの、その行為が無駄であったような気がしても、時は優しく、自分を差別、
攻撃しないで、与えてくれるのだ、新しい時間を。それは、何らかの変化を保証している、次へ行ける、
次へ、自然に運ばれる、そういうことについて考えると、自分は生きていないわけじゃないと、感じられるだろう。 道は必ずある、だが険しい道はその意味のとおり険しい、
決して簡単じゃない、つまり簡単に進める他を妬み、欲するべきじゃない
試練が大きいほどそれは大きな対価となりえる、方法1つに意味があるのではなく
全ての道に意味を与えるのは道を開拓するものの情念によるもの、
険しい道ほど他者にそれを真似したり奪い取ったりなどできるわけがない、
同じ結果を見ても明白である、短絡でショートカットするものは前提が崩れ時間が
流れたときにその単純さや背景の狭さゆえに結果そのものへの道が一箇所でも
崩れれば簡単に全体が崩壊する。
恐ろしく遠回りしてきた結果は、道が一箇所程度崩れてしまっても遠回りという迂回が
それを簡単に修復できる。
それは失敗したとき、理屈や常識が通じないとき短絡的にショートカットする合理性の
脆弱性が致命的欠陥になる。
ただ、だらだら停滞して遠回りするのではない、全力で情念をこめて、世界に感謝し
作られた道は、自分が道を歩むのではなく、道が自分を歩ませてくれる。
常に掴めるものだけを選んできた簡単な結果は、掴めるものが無くなったとき泣くしかない。
掴めない自分の才能を呪い、自分を作り出した世界を恨む、いつも当たりくじだけを
引けるわけがない、時に低確率で不運を引き当てるとき、遠回りと近道が明白に選別されるだろう。
世界は平等になんてできていない、世界ができるのは世界の法則により公正に法則がてきようされる。
不運を掴むのもは運ではなく公正に低確率でおきる非常を「そんなものおきるわけがない」と
割り切った人に与えられる、
答えは簡単だ、誰にも平等ではなく、公正に世界の常識、世界の標準、世界の仕組み、世界の法則
世界へのアプローチのしかた、など時間と共に変動する、そのとき平等ではなく公正に世界が個に
働く、世界に感謝せよ、世界を祝福せよ、世界は不完全であるが個の鏡である。 生きて前へ進むとき、ある考えをどれほど深く考え込むか、ということが問題としてある。ずーっと、考え込んで、どんなに深く
考えようとしても、それは常に意味がその深さを、意味があってもてるものなのか、ということが問題としてある。
正しいやり方、考え方は、前へ進むためには、深く掘り下げすぎていてはいけない。それが、物事を進める方法だ。
もし、どんなにも深く考え込むなら、一歩も前へは進めず、失敗感、失敗のみがまっている。
というわけで、自分について考えこむことが、思索であるとしても、他者に寄りかかってはいけない。状況、状態に寄りかかりすぎてはいけない。
もう、そこには、何もないと、考え込むことで得られないものがあると、わかるべきである。
命ある限り、物事を前へ進められる。そして、そういうことをなせば、物事の進め方が分かる。
考えることは大事なことなのだが、掘り下げることが常に正しく行為するための条件ではない。
それは、実際的な生き方の話だ。コンビニに行って、正しいものの受け渡し方はどうするべきか、と考え込むとき、
先へ進むという意識を持っていなければ、人と普通にやり取りすることはできないのだ。
穴は、好きなだけ掘れるが、そこにはまり込んでは、時間を進めることはできない。正しさには限度がある。
進んでいくこと、それが因果の原理に関わりあうことなのだ。
そういう適度な深さの考えをし、普通に前へ進める事、これが僕の考える悟りである。
フェーズは移る。自らの力によってはそれをとどめることはできないし、とどめる必要もない。
適度な程度に考え、場面場面において、時というものに関われることが、悟りの状態であると考える。
僕は、人から言われたことを考えすぎた。時においては自らを、縛ってはいけない。
時間に逆らわないこと、掘り下げること、その両方に、従うことである。
礼儀がある、他人を悪くも思わない、自らの成功を盲信しない、こうして時間を自分にとってどう使うか、
ということを、全ての根本として、自在に生きていける。深く考えることのできる人なら、
進む方法も、見えるはずである。時間と、はまり込んだところからの解放と、深さは、全てが調和できる。
考える事には喜びがあり、それが適度な深さであれば、それが生きるための、やっていくための、状況への対応である。 失った恋のことを思うと、死にたくなるのはなぜだろう。当てつけをしたいということだろうか。いや、自分のことを、少しでも、
どんな形であってもいいから、考えて、欲しいということだ。
だが、死んでしまえば自分はいなくなるのだから、死ぬまでの過程において、倒錯した喜びを、わずかに得られるにすぎず、
恋に何の意味もない。死にざまを見せるというようなことは、まともなことではない。
これは、自ら、またはどこかから刷り込まれた考えだ。
失った人のいない世界を生きていくことが、とてもつらいか、ということを考えると、まあ、生きていくことがそれほど楽しくないもので
ある、とは思わない。つまり、幼いということであり、勘違いだということである。
悔しいという思いは、抜けないが、そうしたのは、別に悪いことを考えた末ではない。
嫉妬に狂う、というのともまた違う。
まだ先は長く、人生の切り開き方も、自分にはある。
ということで、しばらくは様子を見ながら、自分に自分のことを、捨てないよう、念じながら生きるしかないのだ。 何についてであっても、筋肉は力を入れるというものである。つまり、視線を動かすときは、眼筋に思い切り力を入れてする
のが正しいし、呼吸をするときは、鼻の穴に思い切り力を入れてすべきである。それが、筋肉に備わっている力であり、
筋肉の本義だ。あらゆる筋肉について、放置せず、使い終わるということ、それが正しい身体の在り方である。 何があっても、呼吸は対称的に行え
バランスではない、平均的ではない、多面的対称性だ >>392
ありがとうございます。心がけて、やってみます。 脳の左右で同じことを考えるということをやってみました。結果は、難しい、というところでした。成果があったかどうかいまいち
自信は持てませんでした。そこで、音楽で試してみようと思いました。音楽は、聴き流すのではなく、音と脳を、同期するくらいの、
積極的な聞き方をするのが良いと思われました。そう思ったのは、ベートーヴェン「交響曲第九」の第三楽章を聞いているときでした。
脳全体に響き渡り、脳のトレーニング、回復には、効果があるに違いない、と思わされたのでした。 音楽療法のようなものですが、聞きながら、自分なりにしたいようなとき、声を出す、歌う、ということで、聞くと発するが両方
行われるわけです。喋れないという障害があるように、より深く音楽を聴くことができます。疲れて黙った時、
音楽に対する親しみの気持ち、よりたくさんの音を聞けるようになった自分に気づきました。
日頃一人でいると、会話をしたくなります。その代替として、音楽療法を試すことに、大きな意義があるでしょう。
生きるということの、選択肢、または行動の方法が、増えるわけです。それはとても力づけられることです。 呼吸について、いろいろと探ってみましたが、吐く息を、、胸からのどへ、風邪の時のように、ハァー(ゼェー)と、吐き切ると、
いい呼吸ができるように思いました。伝わりづらいと思いますが、呼吸は重要なので、多くの時間をその探求に使って
います。 息を、ゼハァー、と、空になるまで吐き切ると、あとは吸い込むだけです。この吸気の際には、心臓がどきどきして、
生まれたてのような、生命感を得ることができます。実に簡単な呼吸法です。 >>396
それは武道とか禅の呼吸だ、水泳のときにも似た呼吸をする。
原理は簡単だ、息を適度にすって、吸った直後に最後まで一定の速度で吐ききる
それだけ、
エビデンス的には、血液中の重炭酸イオン(HCO3−)を二酸化炭素にする効率を上げる呼吸法だ
血中の水素イオン(H+)を減少させることができる、たかがこれだけの原理は
精神的にも内分泌系でもエネルギー代謝TCA回路などでも電子伝達系の機能の結果として
よりよい状態へ導いてくれる。
単なるおまじないとか、オカルトやプラセボ効果ではない。
ゆっくり最後の最後まで吐く、吸うのはあまり重要ではない、
有酸素運動のときに酸素を吸うのが重要ではなく、二酸化炭素を効率よく吐き出すのが重要ってこと。
呼吸法が正しくできないと酸素を吸い込む呼吸になり二酸化炭素を吐き出す効率が悪い呼吸になってしまう。 人間の想像とは面白くて、頭の中を真っ暗にも、真っ白にもできる。よい想像について考えてみよう。それは、透明ということであろうと
思われる。前も横も上も下も、「脳内で」様々な透明を持つことができる。そうすると、妨害はやはり現れる。その、透明をとどめようと
するものを、雑念というのであろうか。とにかくそれらも透明化してしまい、永遠に遠くの方へ、透明さを持つことができる。
そうすることで、自分というものは、透明を生むものだ、と考えを進めることができる。黒、白、透明。障害を取り除く。
こうしたことを考える前には、記憶力の低下に悩まされていた。今日の朝何を食べたのか覚えていない。
だから、過去のことを思い出すために、そこへたどり着くために、透明であれば行きつけるのではないか、
と考えた。
透明になれば、未来にも過去にも、意味を少しもたらせられる。そんな希望を、賭けていたのである。
一朝一夕で答えを決めてしまうのは、非常によくないので、しばらくは透明化を進めたい。 >今日の朝何を食べたのか覚えていない。
覚えていないのは何種類かの原理ある、
@食べたものに意識せず認知が曖昧で記号化されず記憶に曖昧である。
A食べたものを記憶はしているが、それを読み出す関連状況記憶の連想ができない。
B記憶そのものが浅いか、思い返そうとする思念が弱い。
C何かの別の記憶に上書きされ記憶が間違った情報として再生される。
覚えていないのにも段階がある、食べたことすら覚えていない、食べた時間がいつごろかわからない(朝)
食べた記憶とほかの食べた記憶が分離できず区別できない、食べていないか、食べたと確信している、
食べた何かは思い出せるが、具体的な何を食べたか連想し具体化できない、ご飯だか麺類だか
曖昧なものは思い出せても詳細が思いつかない。
違いはあるんだよ。それによって対応のしかたも違う >>400
@とBですかね。現実に深くかかわっていこうとはしているところなんですが、こんな弱音を吐くのは、焦っている証拠です。
大人らしくなろうとするなら、乏しい記憶の中からでも、カッコよかった人のカッコよかったところを感じていた自分の
記憶を、思い出したいと思います。もし、一度失った記憶力を取り戻すことが、記憶力の向上、あるいは少なくとも
そのメカニズムの理解、につながって、より日々を有意義に送れるようになり、発想力の豊かさにつながるなら、
少なくとも苦しかった経験にも意味を持つことができる、それはとてもいいことです。
しかし、深いことを広く知ってますね。妬ましく嬉しい。 思考の中で、最も根本的で、脳を活性化するのは、「悩む」という事である。ある物事が、頭に浮かび上がってきたとき、
それに対する態度は、基本的には正負のどちらかであると、じぶんには決まってしまっていることが多い。
だが、その見方が、正しいかどうかは、客観的に言えばわからないものである。それゆえに、大げさに言えば真理に、
至ろうとすれば、簡単に答えを信じ込んではならない。悩むことで、自らの偏った考えと、より良く付き合うことができるようになる。
失敗は、そこから学ぶことができる。自らを押し通そうと思わなければ、迷惑な、困った人間とはならない。
悩むことは、生きることの上で、一番人間らしさに近いものなのだ。
暇があるけど、なんだか調子の悪い、だから機嫌の悪い人は、目の前のコップは、存在しているのか、していないのか、
そんなことを悩むことで、やることが増える。それを起点として、他の事でも悩むべきである。悩みは自分がいる限り、
ずっと続く行為であるから、悩む力を蓄えることで、自分を許すことができて、自分の力の一つだと、
自信をもって生きていくためになると思うのである。 ユングの本を読んでも、類型がどうこうといった話で、さっぱりよさがわからないのだが、
未来の治った自分を想像し、それに感謝する。これで自分の統合失調症を治したらしい。
これは確かに効きそうである。想像力を、脳内において自由に操る。夢の診断も、にたような
ものだろうが、自分で自分のイメージを作るのは、忘れがちだ。たとえかなわなくとも、
夢を持ち、夢を見るのが人間だ。
夢では非現実的なことが起きる。夢で幸福であること、現実に幸福であること、現実とは世界であり、
夢とは別世界である。それをつなぐのは、価値観と快楽である。悪夢は、処理できない苦しみや不安が、
影響しているのだろうが、快および苦か、フラットか、と言えば、僕自身には選ぶのが恐ろしい。
だが、人の夢というものは、全ての人を調べたら、ある傾向が観察されるだろう。
それが、総体的な意思というものであり、進化の方向、欲望の達成を、生物的な形で、もたらすものだろう。
未来の夢。よくなった自分。ここにある心は、自分で関わることができるのだし、心はどんな風にもなれる。
感謝とイメージの関係は、自分を操るための、一つの知恵であろう。 感謝をすることは、確かに、精神上良い。私の忘れていたことだ。どうしてもわからなかったことだ。生きる意味は、感謝を多く
大きく、できることにある。思いあがってはいけないのだ。迷ったことにも感謝をする。物事を途中でやめることは、
できないが、一息つくときに、就寝前に、良く感謝をすることが大事だ。なぜ、感謝という形でしか表現できない
ことがあるかというと、形なきものに、すなわち、自分というものが、現実に見ることができないものに、関わろうと
するからだ。愛もなにもかも、日常も何もかも、いつも、特に自分の生命にも、他人の心にも、言葉にも、
道具にも、空気にも、現在という不確かな誰にも解明不可能な存在に対しても、感謝をすれば、
仕組みをわかることができなくとも、確かに通じ合えるものなのであろう。 自分というものを保ち、作り上げているもの、すなわち、人間の正気を保っているものが、感謝という行為だ。
それなしでは、精神がバラバラになる。だから、感謝は自己と同じものなのであり、自分が行動を起こそうと
するとき、感謝から始めるのである。そうすると、成功した自己像を描き、成功した気持ちを想像し、
それに感謝する、こう始めなければならない。だれでも、行動には体に力とエネルギーを使っている。
それを、勝手に手に入れたわけではない。ゆえに、正道を通るとすれば、感謝することだ。
自分の業やコンプレックスに対しても、それを直した自分を描いて、その将来に、希望をもらえることに、
感謝する以外ないではないか。 僕は長文を書くが、そういう考え方しかできなかったから、という以外には、説明はできない。
瞬間湯沸かし器的な思考は、出来なかったことの一つ。
記憶に障害があったため、逆に、正当性を探す思考になってしまった。
両方とも思考であり、複雑に使い分けられるだろう。
瞬間における白熱した集中力を、何度も繰り返すことで思考になる。
それをまとめるのは、別の能力だ。
誰もが時間の制約を持ち、得意不得意は当然にある。論理においてはどんな長いものも組み立てられる
だろうが、瞬間は論理では説明がつかないだろう。
よい知識は、トライされた知識だ。自らの考えと、実行されてない思考によるカタログ。
あらゆる学びの末、自分だけの思考実行を、すること、そこに喜びはあるのであろうが、
数学的に言えば、
量を、回数で割れば、小さくなる。逆に言えば、小ささを繰り返せば、多量になる。
人間にとっては、忘れなければ長さは問題ではない。 +か−か、+か−か、これが、短い思考の例である。そこには快楽の原点を見出せるはずだ。
存在のみを、表すことができるか?すべては、セットになっているのではないか。
整数論の本を見ても、有理数xは正(すなわち≧0)であるか、負(すなわち≦0)であるかである、ことが、ひとつの
基本的仮定である、と書いてある。
性質というものは、真なものであろうから、脳の性質は、数学的な性質に、従う。あるいは、数学的な性質が脳に従う。
あるいは、脳の性質と、数学的な性質は、同じである。
この三つのどれかである。もちろん、それを言うためには、性質という言葉が、両者において、共通に使えるという、
仮定が、真であるということを、踏まえねばならない。そのために、僕は、性質という言葉は、幅を持ちつつもすべてのものについて
否定されない、つまり、絶対的に認めてよい本質が脳と数学についてその性質を生む部分で共通しているのだと、
思うのであるが。
ややこしくなったが、性質と本質との関係が難しいのである。性質は本質を表すのである。同じことだが、性質から本質はうかがえるのである。
そういう推察ができるという事、これが人間というものの、優れた洞察力を示すものである。 無駄と合理性は比較するべくもなく無駄のほうが愚かで悪く何も結果を出さないと常識では考える
それは間違いない、無駄は無駄だから無駄と言う、それは間違いない。
だが無駄というのは合理性の側面からみた無駄であり、無断が常に無駄なわけでもない
世界へ感謝することは直接結果をださない無駄なのである、
1歩の何かの無駄が無駄と和を作り、さらに無駄が無駄に合わさり、確率は低くても無駄の
中には合理性が出せない結果を偶然に出してしまう。
無駄で結果を出す原理とは? 偶然を原理として必然を成すという術だ。
無駄を侮るな、無駄の繰り返しによる結果は、たった1度でも起こせればどんな合理性をもって思考する
エリート中のエリート、達人中の達人、秀才中の秀才、人類の英知をもっても偶然は論理では制御しえない。
偶然が任意に制御できるなら、それは「偶然とは言わない」からである。
偶然の原理が存在することを回りに理解させたとき、優れているものほど、合理性のある思考ほど、
その存在を理解しようとしてかつ、理解が不可能だと気がつく。
そういう他者の意思を操る術がある、学習と理解を主原理としたそれは不可能な相手に立ち向かえないと
考えたとき思考は停滞、すまり停止してしまう、
思考停止したそれを勝ち乗り越えるのは簡単である、単純なブラフにすら気がつけない、冷静の判断ができない
状態には単純で無能な論理ですら勝ち得る。
フォースの力だ。 >性質と本質との関係が難しいのである。性質は本質を表すのである。同じことだが、
同じだが、似て非なるもの、それは性質は説明しえる具体的な事だが、本質は説明しえない抽象的な物
超えられない壁がある。
洞察力は本質だけ読み取れるだけでは、たどり着けない、
本質を読み取り(過去)、本質を作り出す(未来)ことだ、
性質を読み取り(過去)、性質を作り出す(未来)ことだと思い込むからそこにはたどり着けない。 >あらゆる学びの末、自分だけの思考実行を、すること、そこに喜びはあるのであろうが、
あらゆる生活の営みの結果、自分たちだけの家庭で、生み出すこと、そこに喜びはあるのであろうか
本来、ないものを生み出すことはどのようなことでも苦行であり、受け入れがたいものだ。 >>408
無駄は、合理性では理解できない。ポーカーとかでは、必須の方法でしょう。相手に自分を誤解させる。それが布石となり、
無駄ばかりして、弱さを装う。つまり、それは遊戯の中では意味を持つもの、そして、自然の法則は、ほぼ理解されていない
ため、自然に起こりうることを当てるには、無駄も合理性も、ほぼ同じラインに立つ。
偶然を必然的な方法として使うことで、混乱させる。
そしてそれは、自然にとっては、普通の事なのでしょう。少ないことが起こることもある。
そして、発想として、無駄を知っておくことは、完全を考えるなら、必要である。
組織として働くなら、無駄ゴマの存在は、何らかの役に立つ。 >>409
なるほど、作り出すわけですね。本質を知っていないと作り出せない。
>>410
家庭は閉じてしまってはいけませんね。新風入れないと、煮詰まり疲弊する(ような気がする)。 >>412
性質は裏切るが、本質は裏切らない(本質を信じるべき)
性質は移り行くが、本質は変化しないもの
性質を見抜くには洞察力ではなく観察力であり、具体的に細かく見る力、明確に意味づけるそれが観察力であります。
洞察力は見えない本質を見抜いてこそ洞察力であり、見えるものを見抜いてもそれは洞察力ではない。
形のないそれを見抜くには未来へと繋ぐ、世界と存在背景を未来へ結ぶ何かまで含まれるということです。
観察力では対象を見るが、洞察力では対象以外が重要になり、対象以外の時空間の全てに対する存在意義を
作り出せなければ力ではないはずです。 いい条件でわりよく使われる(例えば雇用される)ようなことばかりを考えるのではなく、自分が「使う」という事を考え、実践しなければ
ならない。人を使うことを考えるのはもちろんであるが、道具なども使うことである。
使われるという事は、自分が主導権を持っておらず、ゆえに、自由でないといえるだろう。逆に、使うという事は、自らの権利の
実行ということであり、使い使われ、それで物事が進む。理想的な関係を考えれば、対価を払って使うという事が、
自然なことであり、そういう関係がうまく働いていなければ、搾取されても搾取する側に回ることを考えないので、
問題は一方向にしか進まない。つまり、生きていくうえで重要となる、「策略」ということを、考えるのなら、
人をどう使うか、いつ使うか、という事を抜きに考えていては、シミュレーションとなるわけもない。
使われてばかりの自分、というのでは、生きがいもなく、うつうつとするばかりだ。使うことで爽快さを感じ、
心が晴れるのなら、金銭を使い、自分の心の何かが変化するのである。
なぜ、使われるのには慣れているのに(習慣的にいつも使われて不思議はないのに)、使うことに抵抗があるのか。
そこには、使う使われるという事が、関係として果たして正しいのか、という恐れがあるだろう。だから、問題が
起こってからでよい。感情を恐れることはない。何を感じるかではない。何をするかだ。 結果が同じであれば、人は満足する。それがどんなものを使ったのであっても、それから余得を考えるのでなければ、
いいと思う。
人を憎む場合、人を損なうことに満足する。
人を愛す場合、愛の関係になることに満足する。
この二種は、変態である。
運命は、見定めがたく、何らかの絶望と、こだわりの、全てがここから出てくる。人の、思い、人の、行動、それらが、使い使われる
とは運命の前でチリとなることは、明らかである。運命にこだわるとき、自分が特別だと思いたい、逃げたい、自分でありたい
と思うのである。運命とは、全てのものを巻き込んだ、一つの、絶対であるから、それに勝ったと思うとき、全てに勝ったと思うだろう。
さあ、それでは、チャレンジだ。自分の考えの正しさも間違いも、それを決めるのは運命である。運命を知る者は、
障害となるが、その者に対し、自分は使ってやることもできるのだぞ、という、考えを捻じ曲げてやれる力が自分には
あると、宣言できる。そして、運命を抱きながら、倫理を吹き飛ばし、自分自身を他と比較しないで、
おかしな人間、ヒーロー的な人間、翻弄される人間、そういうものになるのだ。人々と自分は、横並びではない。
失われた力に、文句を言う人がいたとしても、そういう人の意見を、自由に使ってやるぞと、自らの力の中に取り入れれば
いいのである。
人が言葉を発するのは、発話者自身のためなのだ。だから、好き勝手言われることに対して、それを使えばいいのだ。
小さな意見が大きく扱われることほど、腹の立つこともない。なぜ腹が立つかは、自分の考えの中で、ねじ曲がり、
普通が理解できず、大いなる野望を冷笑された末の何もない自分を、許せないからだ。
運命、それが、一般的な見方として広がって、人がそれほど強くもない分野が一つあるのだ、ということを知ってほしい。
自分の力を、どう使うか、それが、運命に翻弄されるものなのだ、と、例外を認めてほしい。
どんなに頑張ることも、人によって様々なやり方があるのだと、知ってほしい。 何らかの罪悪感が生まれるのは、自分の知らないことを言われたとき、その扱いに困るからだ。悪意として解釈することにもなる。
それは、自分で使ってやる、と思えばよい。発言者も、まさに、そうされることを目的としているのだ。
自分で人に何かを言う、それをその人が理解して使う。そういうスケッチが、正しいと思う。
人の意見に対して、反発するのも、ひれ伏すのもいけない。それを使うのだ。
人間は、世界を、使うのだ。混沌の中にある世界を、言葉によって制御して、結果を出す。
そういうことをする以外に、争うことの発端はないだろう。
あらゆる有力者も、人を助けることを、本能的に感じるだろう。
ねじ曲がってはいけないのだ。自分を捨ててはいけないのだ。
自分のピンチ、それを利用するのだ。
状況は、うねりの中にある。つまり、状況は、良くも悪くもなる。それに負けないことだ。
状況を使うこと、それは、どんな状況に対しても、である。 人のかかわりについては、尊敬という事が軸になる。敬意を払っている人、などがあるので、集団でのやり取りには、誰が尊敬を
集めているか、という力学があり、それは、楽に感じ取れる。自分が尊敬を集めている、あるいは集めているべきなのだ、
などと思い込むと、集団では浮いてしまったり、嫌みでほのめかしたりされるだろう。行為として、意見として、考えとして、
敬意を集める行動をすれば、自分は尊敬されるだろう。
簡単な方法は、自分は誰を尊敬するか決めることである。そうすれば軸はしっかりする。自己が自己を尊敬している、
というのが、一番なのだが、それができる人は少ない。
そうやって、尊敬を集めることができれば、自分は正しくなり、攻撃も止む。人は、めったやたらに人を尊敬しないし、
また、するべきでもない。
道行く人とかかわるなら、その人の尊敬感情を、侵さないようにするべきである。 混乱は、小さな範囲で起きた方が、解決しやすい。そしてさらに、広げることで何かを得るという考え方は、良くないと思う。
余り考えを広げすぎず、いまある少ないものだけで、思考し、遊ぶべきだ。何かが足りないと思ったとき、それは、プラスする
何かではなく、自分のパズルの組み立て方のまずさだろう。なにしろ、小さい範囲で解けないことについて、解くために、
知識の範囲を広げてみよう、と考えたところで、うまく行く保証もなく、問題はさらにあやふやになる。
自分に問題がある場合の話でもあり、一般的に通じる話でもあるのではないかと思う。
野心は、それだけでは意味を持たない(手段と機会と、力がいる)。だから、着実にいかなければならないのだ。
広がるものは、自分が得なければならないことと、世の中が変わっていく、という二つのことがある。
頑張り方は、必要なのだ。終わった分野で研究することは、虚しい、という場合が多いのではないか。
もし、心の安定や、何らかの趣味的な関心、自己のチャレンジなどを動機として何かをするにしろ、
新しいところへの到達が、可能である、というような可能性を、捨ててやるならば、それは自分の
責任を、ごまかしているのである。
小さな範囲で考えることこそ、自分が今やるという事なのであり、精神病を直すために勉強する、考えを正しくしようとしてみる、
そんな考えの生産性を、取り戻すために必要である。
もちろん、精神衛生という分野は、このレスで述べたことのみしか方法がないというわけではないが、一つのトライとして、
自分にはそれが良かったと思える、という理由から、この文章を記述しているわけである。
焦ったりする人に向けて、こう考えてはどうか、という提言を、ささげているわけでもある。 一言でいえば、茫漠と広がる不安に対して、今の考えだけで大丈夫、自然に考えが展開するままに落ち着いていけばいいよ、ということだ。 脳でも体でも、全部を活性化して、働かせようとするのは良くない気がする。脳の一部だけで考える。疲れないで長く思考できれば、
いいと思う。思考対象も、絞った方がいいように思う。どのみち、必要なことは自然にできる気がする。 アイディアを出すことが、最上級の、また最低の思考である。それは、自分なりに考えて、ある貢献を付け加えることである。
だから、大きい意味がある。人の話を聞いて、自分が最低だ、と嫌な気持ちを抱えるとき、それは一つのアイディア、
他人のアイディアだと認めること。それさえも考えの一つなのだから、そこからアイディアを浮かべることも、できるのである。
アイディアを出すことを、習慣にするべきである。逃げてきたジャンルに、初心でなんらかの意味を、自分なりに、
小さくとも、考えてみる。それが正しいか正しくないかという事は、責任が伴わないなら、気にしすぎることはないだろう。
大きく勘違いするのは、それがアイディアにさえ至っていない、役に立つアイディアではない、ということを、
客観的に見れない場合である。アイディアとは、基本的には、自分の中から生まれるものではないか。
言葉に落とし込めば忘れないが、アイディアを思いつくこと自体は気分を上げるものである。
考えなければアイディアは浮かばない。アイディアは、人間の行為の最後である。
言葉の意味を考えること、これは、アイディアなしではできないだろう。直感的把握こそ、物事の本質に
至ろうとする場合の、底である。長い本の最初から最後まで、価値があると信じ込まない方がいい。
テーマを決めて考えること、それが哲学に他ならないだろう。 他人に起こることは自分にも起こること、という風に感じられないか。リアクションに失敗して、まずいことになることを
外から見ている、だが、それは、自分もやりえたことではないか。だから、他人を責めるだけのことは、気まずさなしには
できないことのはずなのだ。こういうところに、悪人正機の意味があるのだと思う。
だから、自己内部の規範を、うまく作らなければ、自己は他を批判する資格はない。自分ではしない、という決定的な
行動規範を作ったうえであれば、他人の罪を責めることを、する資格があるという事だ。
つまり、法には、自ら規範を作っていくことが、他人に対する目と、自分の自戒という、二つのことを、
しなければならないのだと思う。 だんだんと、自分はしないでおこう、してはならない、というようなことが、自然にたまってくる。
それが、大人になるという事の一面である。 集中力を得るためには、頭を切り替えていく必要がある。そのようにすれば、ストレスを取り除ける。つまり、リラックスしてゆったりとしたなかで、
集中できるのである。 >集中力を得るためには、頭を切り替えていく必要がある。
局所に偏るのでもなく、バランスをとるのでもなく
対称性を保つこと、正義と正義のバランスではなく、正義と悪の対称性である、
バランスが偏っても、それを安定させる対称性、すなわち同等の対価がそこに生じるなら
それは相互につりあっているということ、決して同じ量にするとか鏡で移したままの相似でもない。
安定とは不安定をなくすことでもなく、不安定を基礎に安定を作ること、
故に安定だけを極限に求めるとそれは、恐ろしく不安定な状態を引き込む。
極限に集中する意思は、余計に非集中に侵略される。 >人のかかわりについては、尊敬という事が軸になる。敬意を払っている人
人に尊敬をもつのではなく、人に感謝をもつこと、
それは「うんち」に感謝もつと同等で、「うんち」に尊敬と敬意をもつわけではない、
その辺に歩いている、横に座っている「うんち」には尊敬ではなく感謝をもつべきだ。 >他人に起こることは自分にも起こること、という風に感じられないか。
日本には強く同調圧力が発生する風土がある、流される人は周囲と同じことを、
普通でいることを望む、そうでないと同調圧力の原理により不都合が生じるからだ
同じ環境で同じ性質であれば類似した結果が誘導される必然は襲ってくる、
同じ環境でも大きく違う性質であれば違う結果に誘われるだろう。
平等を望むな、公正を望め、似た人に大きな優劣差が付くのは公正ではない見えない性質があるからだ。
僅かな違い、気にかからないが微妙な差、そういうどうでもよい何かが優劣をつけ、結果の起こりえることにつながる。
耳をすまし心を静め洞察し本質をみよう、それは決して観察では得られない直感に頼るもの。 >アイディアを出すことが、最上級の、また最低の思考である。それは、自分なりに考えて、ある貢献を付け加えることである。
アイデアは妄想だ、それは明確な答えに見える幻想でも、結果を伴う創造でもない
妄想を繰り返すことで、強引に幻想として具体化しないことで、創造へつながる布石になる、
あとは妄想が繰り返され偶然の原理により創造に至る僅かで微妙で一瞬のチャンスを待つ。
チャンスに身構えていなければ、気がつける、掴めないことはない、
より大きなチャンスを望むな、大きなチャンスは目の前にあっても幻だ、
最小限のチャンスを掴むことが次の道に繋ぐ最短コースである。 >結果が同じであれば、人は満足する。
優劣が付かなければ安心する。だがそこには競争が生まれない
競争と争いは負の面であるが、負の面は進歩と前進、よりよい未来を模索する原理でもある。
極端な違いは極端な競争と争いと不安をもたらし、耐久力の無い人は犠牲になるだろう。 >何らかの罪悪感が生まれるのは
発生したことに責任が負えないからである、
全ての責任を負う覚悟と行動があれば、すでに罪悪の対価は先払いである
対価は払えない対価があるので、その点だけは注意するべき。 >一言でいえば、茫漠と広がる不安に対して
負の面はあれど、負には必ず正の面もある、
負と負を連鎖させるのは負の思考だ、正の面があるこに気がつこうとしなければ
正の面は見えてこない。
周囲に示せ、内なる可能性へ向かう勇気と希望を、例え僅かなそれでも周囲に伝染する
仲間や周囲であればさらにあと1歩という前進は迷っている人に対しても希望を与える 正しい感謝とは、他人にすら感謝の気持ちを芽生えさせる感謝である。
感謝の和が生じるとき、世界が感謝を先導するものに祝福を与える。 たとえ、周囲に誰もいなくても自分の中だけの感謝だとしても。
1回の感謝は過去や未来の自分へもつながってゆく、
そうじゃない感謝は、間違った感謝である。 >>425
対称性ですか、逆説的なこともおっしゃっていますが、自然を保つといったようなことだと思いました。
>>426
うんちへの感謝、なるほど、うんちは必要ですものね。
>>427
平等は成り立たない、これは、そういえばそうですね。直感の大切さ。
>>428
妄想を練り上げる
>>429
正しく厳しくだが優しく競争をする、そんな環境意識の整備。
>>430
先払いですか、そうするのは良いですね、悩まないために、セーフティーという、保険と同じアイディアですね。
>>431
周囲に示し、他の知恵、力も借りる。
>>432
お互いの感謝がなされる和を大切にしたい。
>>433
過去へ未来へ、アクセスするきずなが感謝だと思います。 〜ねばならないという考えがいけない。
友達の機嫌を損ねたり、礼を失したりしたのではないか、等、頭にもやもやと絵が浮かび悩まされる。
しかしそれは、次にするべきことを決めたら、今すぐなんとか改善せねばならない、などと考えるべきことではない。
〜ねばならない、ようなことは、過去や未来には、一つもない、少なくとも、前向きな思考以外においては。
生物としては仕方がない。生老病死と言われるように、生きねばならない、老いねばならない、病を苦しまねばならない、
死なねばならない。四苦八苦。
救いはどこに?
「悟り」である。仏教において悟りが最重視される理由を示そう。どんな小さなことであれ、気づいて悟ったこと、この瞬間、
頭の中が明るくなり、気分が晴れるだろう。これが、一切皆苦をなくす方法である。悟ることは、考えたり生きたり行動
したりするうえで、生きる上で、なしには済ませられないものである。
その最大限を悟ったのが、仏陀である。生を悟ったのだ。
われわれ凡夫の、小さな悟りが、大きな悟りと本質的に同じものである、ということ、それが仏をあがめる理由となるだろう。
生において、悟り、死が意味をなくすようになること、死ねば浄土へ行く、と、「確信してしまうこと」これができれば、それが、
生において死を生きる、死において生を死ぬ、最上の悟りである。 >>433
いつも話してくださりありがとうございます。ホントですよ。 人間は思考ができるが、そのためには、身体の健やかさを求めた方がいいだろう。
猫を見ると、喉をゴロゴロならす。それに倣ってみよう。
人間も、喉をゴロゴロ鳴らすのだ。水を飲んだ時に刺激される部分が、そこである。
ゴロゴロ鳴らす(だんだん音を大きくしていけるのだが)と、人間の喉というものがつかさどっている
部分を、正常に向けることができる。それは、呼吸が楽にできるようになるという事なのである。
息を吐くとき通る喉が、ゴロゴロなることによって、正常をもたらす刺激を、与えるのである。
たとえば、タバコをやめられないといったことにも、こうした喉を鳴らす行為は、効果があるのでは
ないかと思う。 次は、同じように、鼻を鳴らせ。馬も鼻を鳴らす。
呼吸においては、鼻と喉を使うのである。それを、活性化できるのだ。 ややおせっかいであるし、自信のないことではあるが、本を読むときなどにも、鼻と喉を鳴らしながら読むのも、ある意味では訓練になる。
それは、視界から意味を取る訓練である。喉と鼻がうるさいが、音に落とし込まなくても本を読める、というのは大切なことではないか。
エクリチュールとパロールということだが、うるさい職場で事務仕事を片付けることなどもすることがあるのではないか。
音の世界を離れ、イメージを広げることができるように。その結果を知ることができるのが、鼻と喉を鳴らしている状態での、
読書である。頭の使い方というのは難しいことなのである。
ただ一つ僕がそうしたことから学んだのは、視覚的な読書は、深さの思考ができなくとも、圧倒的に早く理解ができるらしい
という事である。 固まってしまった眼筋のほぐし方。
@目じりとそのあたりの眼球に思い切り力を入れる(効き目など、片目だけでも良い)。
A手でペンなどを動かし、その先端を、思い切り力を入れて目じりで追う。
たったこの二つである。
統合失調症で、コンタクト、メガネなどにより筋が固まったという原因である場合のものは、これで寛解する。
統合失調症患者の88パーセントに眼球の動きに不調が見られた、という研究もある。
コツはいるが、頑張ればすぐ治せる。 考え方に硬直が見られてはいけない。頭を柔らかくすれば、新しい考え方も生まれる。西洋でいう自我というものがあるが、
自我を確かに、というのではなく、自我を自在に、という風にしなければいけない。つまり、自我とはそれ自身で意味があるもの
なのではなく、それを使って何かを生み出すために、また協力するために、交渉するために、存在するのが
本来であると考える。
哲学は、特に幅広い知識と、論理性が大切だから、それらを操ることは、柔軟な頭に切り替えないと、いけない。
何か新しい考えを生もうとするなら、自我の拡大や、自我の救いといった観念的なものではなく、
心や魂といった、自我と似てはいても、実際はより必然的にかつ頻繁にかつ深く作用するものにたいしてこそ、
注意を払っていくことが大切であろう。心や魂を、良くするためにこそ、自我の柔軟性が大切にされる
べきなのであると思う。
気持ちの問題だ。適度な怒りを発散出来て、何やら自分でも理解していない不明なものを守ったりせず、
柔軟に生きていく方法を学ぶことが大切である。
過去にとらわれる人も、現在にとらわれる人も、実際的な生活の余裕がないというのでなければ、自分の中で守らねば
ならないものは、自分自身だけではなく、人である場合も多いだろう。
偽善に硬直したり、偽悪に硬直したり、させられはしない。たくさんの考えることができる人がなす社会において、
一部の独占的トップをのぞけば、その社会には、叡智があちこちにあるはずである。
その叡智は、自分が遅れてやってきてついていけないという、焦りを呼ぶかもしれない。
だが柔軟な思考を持てば、そんなことは気にならない。自分を守るのであり、自我を守るのではない。 人生においては、すべきか、せざるべきかといった自由な選択を選ぶべき機会も多い。そのとき、焦った気持ちで投げだすのではなく、
柔軟な頭で、そのリスク、可能性等を、考えて決められる。これが、選択に強くなる方法である。どちらを選ぼうとも、
投げ出すのではなく、考えを尽くした末の結果なので、後悔はない。生きるとは、結果のみではなく、自分自身の経験、
スリル、熟考、発揮といったことをできること、そんなことを重ねていくことに、感情と物語の楽しさがあるのだ。 ショッピングモールなどへ行って、道行く人の顔が侮蔑、拒絶に見えたとする。そのとき、その人の顔の真似をすれば、
自分のしていることなのだから、僕に対して何を言うこともできないのだ。人間は、一秒前とは変わっている。刻々変化する。
では、その直前にとらえた自分の表情、思考、感情を、自分自身で真似するのだ。自分で自分を真似するのだ、意識的に。すると、
うまくできれば、自己自身は自己自身と一致して、完全な自己ができる。そのとき、他者と自己と時間の中で、分裂していた自分は、
完全な自己を取り戻す。そのようにすれば、ぶれはなくなる。完全な安心となる。時間とともに変化する自己は、
今現在というものと、完全に一致し、今が永遠となる。
他者の真似によって能力を身につけた自己が、離陸し、自己自身となるのだ。自己懐疑、じぶんとは何かという問いに、
自己であると答えることができるようになる。 自分の思ったこと、考え、気持ちなどを、それは本当なのかと、自分自身に問いかけねばならない。そうしたとき、初めに
抱いた思考、気持ちが、より精密に、より確かになる。間違ったことを思った、という場合も多々ある。だから、
外に出す前に、考え直すことは、非常に重要である。ほとんどのことは、自分自身で確かめられることなのだ。
どうしても、他の答えが欲しいとき、本を読んだりすればいい。行為として正しくあるかどうか、する必要があるかどうか、
それは、行為する自分自身の行為のやり方を、注意深く、自己に問うた上でのことであらねばならない。 特に、欲望については、何度も問い返さなければならない。欲望、意志の正しい使い方が人間を作るからだ。 宇宙そのものが一つの生き物なのだよ🍜
>>443
オマエつねに変顔してるってことだなww 悟りって仏教のイメージがあるが悟りって本当は知ることだろ
怠け者のブッダの真似をするな >>446
ベルクソンの本は、読んだことがありません。難しそうです。
>>447
そうなのですか、それはいいことを聞きました。
>>448
そうです。音楽の指揮をしながらモールを歩いたり、変な行為をしたりもします。
>>449
仏陀は、知っていたはずです。怠け者だったんですか?意外です。
>>450
そういう悟りもありますが、仏陀は生前に悟っております。 僕はずいぶんの間、病のせいで困っていましたが、それは誰にもどうすることもできないことでした。
今は、困っていません。
つまり、人が助けが必要な時は、金銭を使ったり、友情だったり、親切だったりして、助けられる必要があるでしょう。
つまり、困っている人、助けが必要な人は、助けられるならそうしたいというのが、僕の思うことです。
助けが必要な人はいますか。
助けが必要でないという事を、何らかの事情で自覚していない人はいますか。
こんがらがって、訳が分からなくなっていたら、自分に何か助けてもらいたい状態だ、ということを、認識することから、始めましょう。 苦しいことつらいことから逃げようとして瞑想しても悟らないよね >>453
まだ少し残ってる
>>454
瞑想のほかの方法の方がいいよね。瞑想は、暇がないとできないし。 目の正しい使い方は、眼球と瞼の両方を使うことである。セットで一つの目となる。 >>455
禅は、いついかなるときでもできる、
座禅が瞑想のように信じている人がいるが、
それは走ることでも、卓球で玉を打ち返すことでも、
禅は可能である。
>>449
自らが主体となりて知ることは悟りではない、知として知る、または知りたいという考えかたは
西洋合理化思想そのもの。
知るのは我ではないもの、つまり「それ」=自分ではないものが知るのである。 >>457
「それ」は自分ではないもの、というところに注目してみると、「この人」などというと、距離が近くてしかも、客観的に言及
している。これは、人称表現の新しい形です。誰でもない人、として見ることの、あることのできる可能性を、
「この人」は残しています。つまり、全人格をとらえるといった表現ではなく、一部において自分が関わる、
関わりうるということです。限りある人生であるということは、全てに影響を及ぼす事実ですが、
自分において、新しい関係の方法を探し当てる、ということはなかなかできないでしょう。
一対一において「この人」ということの、三人称化という意外な距離感の取り方を、増やしていくと、
新しい表現が生まれるでしょう。 >自分において、新しい関係の方法を探し当てる、ということはなかなかできないでしょう。
新しい関係とは、他と自分に意味のある他から意味がなしえるということでしょう?
そうではないのです、新しい関係とは他は関係ないのです、常に自分の中にある自分の中の
積み重ね、自分の経験値にすぎません。「それ」とは自分ではない何かすが、それを認知するのは
自分自身そのもの、他者との物理的な関係や意味のある関係は前提条件ではないのです。
自分の中に芽生える「それ」であります、自分以外の自然現象を神と比喩する考えがあります、
ですが、それを認知するものがいなくては神を捉えることはできません、「それ」は自分以外の
何かでっても、「それ」が芽生えるのは自分自身の奥底にある真理です。
「それ」が見えたとき「それ」がはじめて判るわけで、「この人」とかいう主体に対する関係でとか
とも違い、関係性のように表現してもそれは関係ではないのです、合理的知識は二元論のように
自分と他者を分けて考えます、そうではないのです、関係性そのものを捨てる、合理的を捨てる、
知識をすてる、論理をすてる、その先に「それ」があるのです。
我が「それ」という他によって機能するのでもなく他という「それ」が機能するわけでもない、
我と他が1つとなりて機能する、我と他を区別してはいけないのです、それとは言葉にしては
ならないものなのです、最初に自分という主体的捉え方を否定できずに他のそれは捉えられません。
そして他を知るとき、自分と他が和をもって自然でいることを悟ることができるのです、
「それ」を言葉で理解できるように具体的に説明してはいけません、どんな方法でも何かわからない、
そして決して理解してはいけないと定義してください、前提を解けないと正しく定義したとき、
それを解く術が与えられるでしょう、つかめないものを掴んではいけないのです、掴んでもらうのです、
掴んでもらう「それ」には意識や主体などないのです。
サーフィンの波乗りは水という「それ」と一体になるからこそ波は我、我は波となる、波を掴もうとしても
だめなのです。 >>459
徹底的にシンプルな、「わ」れと、「そ」れ(と、「こ」れ)の合一ですね。言語以前の世界へのアプローチとしたら興味深いです。
波に乗るという、世界の変化への対応ができればいいと思います。「それ」の発生、分かれていき、最後にはやがてはまた合一する、
そんなことをおっしゃっているように思いました。ペンギンが、一年ぶりに、自分の親に会うような。 われわれは因果の渦に流される、現象の法則は常に定常状態では裏切らないし、裏切るものを発見できない
法則の否定は論理の否定であり理解の否定でもある。
だが無限に届かない因果の関係性は事象の関係性は距離という有限の届く範囲がある、
決して無限の先に集合という意味が移動できるわけではない、量子レベルで無限の先にテレポートできるとしても
それは移動ではなく物理法則を否定しているわけでもない。
意味のある集合はそれぞれの何かと何かが有限で関係をもつからこそ、有限の先が末端の関係になる。
すなわち、集合として意味を成すものが有限の関係しかもてないそれは、無限の組み合わせではなく有限の
組み合わせになる、その意味は過去は確定できても、未来は確定できないという証拠になりうる。
つまり時間を伴えば神の計算機であっても誤差(有限)を生じるということ、その誤差の積み重ねは巨大であり
我々はその1つの誤差にわずかであるが選択という影響を与えられる。
有限の根拠により未来は確定しているわけではなく、どんな神の計算が成されても不確定になってしまう。 法則を観察し測量し神に近づく論理ができたとしても、われわれは状況世界、現象世界の中で流されるだけである、
ただ極微量の選択が少しあとの結果に対して大きな違いを生じさせる。
どうやっても理解すればするほど世界の秩序から"抜け出せない"が、極微量の選択が0に近いとしても、
その先にやってくる全ての存在がもつ誤差の累積が 自由意志という流れの選択も同時に存在させる。
流れに逆らえず未来は決まっているように必然さは生じるが、誤差は同時に未来の必然すら壊しえる、
解釈、観測によって同時に両方の意味が成立するんです。
後者である自由意志とは、哲学板で問われるそれとは違い、観測や予測ではなく、「予知」「予言」の類であります。
科学と同時に生じる裏の面、すなわち「オカルト的」な部分は完全には排除できないということ、
理性や論理、言論、言葉、理解という知識知性は、本質的に意味を成すものを扱い、どちらでもないという
隠れた意味を扱えない、意味になりえない何かを扱えない、説明しえない何かをあつかない。
意味にできない領域にこそ、次元の違う類が存在しえる、より高尚で高度で抽象的な何か、それらと向き合うには
科学、学問、教科書といった具体的知識を否定するところから始めなければ、決してたどり着けません。
人は理解できない類があることを謙虚に認め、理解できない何かというジャンルを作り出しより複雑な捉え方で
向き合う必要があると思います。
「それ」とは理解してはいけない何か、理解とは別の捉え方が必要なのです。 絶対的な神のようなものがあるとして、それは完全であるが、人は完全ではない。つまり、自然法則は変わらないから、
因果の全体がすべての記憶の必要をなくすが、人は不完全であるゆえ、記憶し、記憶を忘れる。
つまり、システムとして存在するのが生命であり、システムの構造が、個性である。内と外に分けられることでもある。
そして、システムは、何かを蓄え何かを放出する(やり取りがあり、内と外の区別がある)ものであり、成長することもある。
忘れることは、システムの一部の破損だが、その破壊は、必要である破壊である場合もあるのではないか。
システムが動くには、記憶の全てが命令を下すわけにはいかない。記憶の中でも、重要なことと、重要でない
ことがある。自らの価値を決めるのは一体何か。システム個体としての優秀性への満足か。報酬系をみたす名誉か。
いや、自己と自然を理解することだろう。自己はおそらく、協力ということを、根本に持っている。生命が協力によって、
成り立っている。僕はそこに人類の希望を見る。破壊を回避する智恵を、代わりにもてる。破壊を回避するべきである
理由が、隠れている。 >>461
>>462
受け売りからは何かしか生まれなかった
って感じだね どうでもいいなんて態度では悟れませんよ。
悟らされますよw 悟りに近づくために悟らされる奴隷こそ慈悲を施さなければならないw 悟れない、悟られない人生を必死に生き抜く空しさを
人生の完結によって悟り得る。
それがお釈迦様の言われる悟りなのですよ。 日々の生活を自分なりに頑張っていく。
自分の体を大切にしていく。
無理なく誰かのためになることをしていく。
他に迷惑をかけない範囲で無理なく自分なりに楽しんで生きる。
なにはともあれ無事に生活できていることに日々、感謝をして生きていく。
愛情、思いやり、慈悲の気持ちを大切に生きる。
「 苦しみ 」に負けない。 >どうでもいいなんて態度では悟れませんよ。
>悟らされますよw
「さと(悟)る」の使役形は、「さと(諭)される」でしょう。 集団の中で、問題が起きて、犯人捜しのような、「一番悪いのは誰なんでしょうね」ということを言われているとする。
その時思うべきことが、「僕は悪くない」である。多くの、心理的攻撃、圧迫などに、屈しないために。 だから諭されますよを
使わず、悟らされますよと
言っているんでしょうねぇ・・・ お釈迦様の「慈悲」には気持ちや感情はまったく伴わなくて、ただ機械的に施しをしているだけ。
おそらく悟りを開いた者にとって哀れみの感情も虚構だと理解しているのだろう。
それでは何故慈悲を行うのだろうか?
おんどりゃなめとんのかワレ
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(V / `ーーV) フフ〜 フフ〜
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..:::::::::::::::::::::ヾ三三ノ ',', 呼吸と血の流れを健全化するために、横隔膜に思い切り力を入れた。息を吸って、下方に向けて横隔膜に最大限の力を入れ、
息を吐いて、上方に向けて横隔膜に最大限の力を入れる。すると、心臓がドキドキしだして、頭に血が入ってぼーっとなり、
身体が生まれ変わるような、気持ちを味わえて、大変に健康に良さそうな気がした。 また、立って天井を見ながら首に力を入れたり、下を向いて首に力を入れるのもよい。
また、横を向いて首に力を入れるのもよい。 おれが悟った、お前らは悟れない、
いいかげん悟れよ、クズやろう 時間を実際に、というか、感覚として、意味あるように、使ってみようと思えば、テンポを抜きに考えることはできないだろう。
たとえば、交響曲を聴くとき、リズムにばかりこだわってしまえば疲れてしまうし、全ての楽器に耳を傾けるのは不可能に近い。
だが、テンポは曲の全体において、一つにとらえることができる。それが音楽を聴くときのコツであり、バラバラになった時間、
毎日が苦しい精神にとって、一つの答えを与える。テンポは時間なのだ。それを持つことができるから人間は、時間の中に
存在するといえるのである。時間の外に出たら、あるいは、時間が感覚から消えたら、そのとき物事はバラバラになって、
まともな思考がなくなって、時間の楽しみから疎外されるのである。そして、時間のない生は、必要のない苦労の連続である。
テンポにより時間感覚を取り戻し、時間間隔が物事をまとめてくれて、世界が順々に並んでいるのを眺めることが、
精神にとっての安心である。どんなに苦しいときも、死の直前でも、テンポは裏切らないだろう。 テンポがないと不安定に思える時はむしろ精神に気を配った方がいいよ >>483
それはどういう事態なんでしょうね。おそらくは、混乱を何とか統御してくれるのでしょうか。
脳全体をまとめ上げるテンポを、持っているということが、正常な脳の状態なのかもしれません。
そこで問題となるのが、悟るためには、脳全体にわたるテンポを持つべきであるような気がする、
ということです。
もしもっと応用して踏み込むならば、脳内のイメージを動かすとき、テンポなしで高度なイメージを
作れないような気がします。イメージは思考の中でもなかなか難しい高度な行為だと思いますが、
それゆえに、一度その機能を失ってしまったとき、テンポに合わせて動かすことで、リハビリになる気がします。
そして、どんなに正常な精神を持っている人であっても、テンポを持たないで過ごすことはできません。
このことは、テンポがあるときか、ないとき、という風に二分されるということでしょう。
そして、テンポの意味とは、精神状態を落ち着ける、ということのほかに、時間に関わることができるということにもあります。
そして、時間をテンポから解明しようとするとき、悟りは時間抜きでは考えられないと思うので、
時間に親密になり、各人間にとっての時間が、すべて一致する流れ方をするとき、つまり、天上の時間を
掴んで、何かと合一したと感じるとき、その満足は、力ある満足です。その手段が、テンポとして与えられているのではないでしょうか。
演奏者も聴衆も、同じテンポの中でいた、または、心と心のテンポが合った、その感覚。小説の中に流れる時間を、
楽しんだと思えるとき。
人々が協力するためには、そういう方法があるのではないでしょうか。背を向けあって、いがみ合って、憎んで、疑心暗鬼で、
そういう心に寄り添おうとするなら、お互いに目を向けあうなら、その時にするやり取りは、テンポの合った精神状態が、
助けとなるのではないでしょうか。テンポを乱されるのは、精神的にストレスを与えられるということです。
それが、いがみ合いの、理解しあえないことの、根本です。精神的な和合を、手段として用いることが、
和解の、世論的な、意見の、分かり合いになるはずです。
「目的が手段を聖化する」こんな風に、物事を塗ってしまってはいけません。生きる喜びを、感じることが肝要です。 疑問から結論までの散漫さで貴方自身が
テンポを求めているのが伝わってくる。
時間、悟り、心、協調、教訓、バラバラのテンポ
で結び付けられたイメージで、小気味よさが
読んでてありません。
内容については、人それぞれ目的も手段も
生きる喜びも様々なので、実例あっての
結論でもなく、返答は求めていないという
印象しか受けません。 >>485
散漫な文章と感じられましたか。それでもだいぶ治ってきたんです笑
対話に行くまでに、頭と気を回すことができず、ごめんなさい。
返答を求めるマナーまで、頭が行かないんです。
視野がまだ狭いようです。
ご意見いただき、ありがとうございます。 仏教とか宗教、神学は釈迦個人の人生哲学で啓けた道を悟りと伝えた
ようにその思想を知るのに学ぶんで、悟りに近づくのが最終目的なら
人と協力して和合を現実に実行して理想通り生きることが悟りの精神に
遵うということ。
哲学者のように哲学を完成させる目的とは違うから、聖化のストレス要因
に関与せず、余計なことを考えず無心で生活するのが筋でしょうね。 >>487
理想的な生き方ではありますが、僕は自分の自由を使って、自分の悟りを手に入れたいんです。
オカルトの極私的、反面滅私的な、ものの考え方、そして偽りと本当の世界の自由に、親近感、を感じます。
オタク的二次元の世界に、ある程度足を踏み入れています。そして、それの意味のことを考えます。
象徴、夢、疑似世界、ファンタジー……。悟りへの入り口として機能するはずです。
青春を求めましょう、と。逃してしまって遅くなっても、やるべき、じゃないでしょうか。
つまり、テンプレにあるように、「新しい」ものを作りたいのです。
そのための、方法として理数系的な考えを使うのが、オーソドックスだと思います。
そして、最上の認識には、おそらく言葉に念を入れることを実践することにより、近づけると思っています。
そういう考えの、もとが、哲学にあると思い、哲学板で悟りを求めることをしています。
哲学の完成ということ、そういう概念を通って哲学を見たことは、一度もありませんでしたので、新鮮です。
数理→病→哲学→悟りと、順番があります。 >>487
人生経験からしか個人的な悟り、自由は手に入れられませんので
自分なりの順番で進め、新しいなにかが作られるといいですね。
その過程も楽しそうでなによりです。 >>485
あなたの妬みだ、
>疑問から結論までの散漫さで貴方自身がテンポを求めているのが伝わってくる。
まず自分のそれを冷静に考えてみては?
自分の何かを出して進むのではなく、他と協調するわけでもなく
自己主張を認めさせたいだけなのでは?でなければsageよ、スレを目立たせて
自尊心につなげるのはやめようじゃないか。 >>490
悟りなど必要がないことを悟りましょう。 >>491
知らんがなw
>>492
その悟り、悟るまでもなく無用w >>493
不要なのはオマエ、
必死すぎて俺正義すぎる 運転中にたくさんの思念が浮かんだ。それらのほとんどは、悩みや後悔であった。それらは解決のしようがないことであるとしか言えない。
それらについて考えるのは時間の無駄だ。対処法。忘れること。忘れ、将来にこたえられるかもしれない雑多なこと、と位置付けるのである。
忘れても忘れても、想念は浮かんでくる。見えるものさえ、意味のないことにしか思えず、確かに意味はないだろう。それらについて、
いちいち色んな理屈を考えるのが時間の無駄だ。視界も忘れるしかない。真理に届く考えだけが、時間の無駄ではない。
真理には、無から近づいていくしかない。自らの吟味によって、真理と思えるかどうかを判断する。自分にとって、意味があると
思えることは、たくさんなくて、たくさんの情報が自分をもてあそぶ。自分は判断を下すことができる。自分は思い出すことができる。
自分は忘れることができる。自分は将来思い出すために今忘れることができる。くだらない理屈を、作ってはいけない。
その理屈は、忘れることよりも意味があることなのかどうかを考えよ。別に体系にする必要はない。自分にとって意味がある
ことには、積極的に関れ、そのことは、のちに思い出すことになるだろう。忘れよ。そして思い出せ。
意味のないものがあるから、意味のあるものはそれらを手足として使い、輝くのである。長さ5メートルの川などない。
意味がないものと、意味があるものとは、自分がただ崇高なもののみによってできているのではないということ、
雑多な無意味さえ、大陸の一部であるということ、流れる川であり、それが変わっていくことをとどめる力のあるものなど、
存在しないということ、それゆえ、記憶の中の忘れ思い出すという操作が、自然の中から取り出した真理を作るために、
有効である手段であって、それが人間の悟りへの力であるということを、思えば、人というものの、生き方において、
価値を得るために、するべき選択は、異常なこだわりをほどいていくことができるようになれば、自然と自分に、
簡単にできるようになるのであると考える。一度感覚して、忘れる、そうして経験したもので、大事なことを思い出す。
思い出したものは、真理であるから気になる。気になることが沢山あるならば、豊かである。
一つ一つを丁寧に扱い、それぞれを分かるようになるだろう。 概念と意味が一切なくなった言葉だけの状態を思い浮かべるか、言葉が一切なくなった概念と意味だけの世界を思い浮かべるか。
不必要なものを差し引いていけば、よりわかりやすいような、完全に近づく。
気持ちが最も高く置かれるには、概念と意味を理解できること、無駄な言葉を差し引くこと。
人間の幸福とは、気持ち次第のものだから、悟りとは気持ちを高め、気持ちが永遠に続くことであろう。諸行無常の中で、
永遠ではないことを忘れ、最上の気持ちを持つこと、そのためには、空のための椅子を用意して、
そこに座り考え、また立ち去って、私という存在はあったのだ、ということを悟り、雑念ではない、
欲望ではない、簡素な気持ちを、自分の力で保ち、存在に対して持てる限りの概念と意味を持ち、
悪をせず、面倒を忘れ、自らの怠慢を罰して、日々生活するようなことが、良いと思われる。
欲はあるのだが、可能性への渇望はあるのだが、夢や大志を抱くのだが、それらに拘泥した気持ちをなくし、
忘れてしまうこと。そうすれば、競争に巻き込まれず、人と和し、悪を行わないことが可能になる。 時間は人間にとって、脳で把握するものだから、大づかみの時間を一単位として感じてよい。
気が付けば随分と遅くなってしまった、というように。時間に合わせて脳を変える必要はないのである。
時間が前に進む性質が、なぜか基本になるので、長い時間を追いかけたり、逆行したりすることもできる。
そして、自然な感覚が一番である。
空間が、細かく見れると、目は、機能として優れている。解像度が高い方がいい。これも、自然に決まってくる。
ただ、目の使い方にはいろいろあるから、どの部分を見るか、焦点はどう合わせるか、などを操作していると、
頭の働きも、それにたくさん使わされることになる。 分析しすぎじゃないかな。
味がわからなくなるまで租借することに
とらわれたら、人生という幸せな食事の
時間も義務的で不自然な儀式のようで
無味乾燥になってしまう。
自然体で受け入れられない不快な思念
想念に浸らず分析せず、そこから意識を
離して体を動かしてリフレッシュするとか。 奪えば自分の才能になるんだから奪えるものなら奪ったほうがいいと思うけど
/ / ̄ ̄ ̄\ \
/ / / \ ヽ おんどりゃなめとんのかコラ
f / /| ヽ | 半ケツはマルマンには敵わんのじゃ
| | / ヽ | | フ〜
| |/ __\(\ | | フフ〜 フフ〜
(V / `ーーV) フフ〜 フフ〜
| ヽ●) (●ノ .|
人 ( ノ
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/´ `ヽ、. .: `ヽ、
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..:::::::::::::::::::::ヾ三三ノ ',', そうだそうだ!おまえは愚図だ
論破してやったんだぞ!愚図w | |/ __\(\ | | フフ〜 フフ〜
(V / `ーーV) フフ〜 フフ〜
| ヽ●) (●ノ .|
人 ( ノ
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ヽ ヽ ; j:! " __..:-‐'"´ ̄ ̄` __ノ
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|ヽ_\_ ≧=´ ヽ ハ/ / 二二二二  ̄ ̄ヽ / ' ´ ` </ /
| ` _,イハ { // / 二 -―‐'´ ̄ ̄ \ ,. '´ ヽ /
| _,. '´ || ト、. / / / ヽ― ' \/
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/ -》' / /'. , ヽ._ |
_,. -=ニ三 ̄〈 / / `、 ,.'  ̄ Y´ |
ヽ {イ ` ´ | |
`┤ | _,. -=ニ二二ニミ.、ノ
| 、._ ` ー ' ´ -‐、 _,.| //´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄i》
r、 __,. イ ≧=--=====- 、.___,. '´ | //_,. -=≦ ̄ ̄ ̄ `{
´ | / -=≦二二二二≧=-`ヽ
! // ̄二ニ=―=ニヲ《 ̄Y
r'/ / / ̄ ̄ ̄ ̄ `7,)
《_,-=≦ / ,'
《_> ―| ,' 空というものは、変わらないものである。石を頭に思い浮かべると、その形、模様などが複雑であるから、そのうちその像は
変化してしまう。欲というのは、変化するものである。だから、絶対として打ち立てられない要素である。
考えるなら空を。空を考えるとき、空は変化しないので、いつまでも永遠に考え続けることができる。
そしてそれは、気の迷いを払うことができる。充実した状態にあるのである。考えには対象が必要だが、
その対象として常に絶対に選べて、絶対に変化しないのが、空なのである。諸行無常の中で、変わらない真理としての
人間にとっての対象は、空のみである。空を考えること、これが悟りであると考える。どんなに自分が変わっても、
どんなに環境、時代が変わっても、変わらないのが、空を考えている状態である。周りにどんな雑念があろうとも、
常に考えと対象がつながっている、それが空を考えるということなのである。 >>508
..____
.. /... .....\
../ .. ヽ
蛙邊矧憎魔璽斐螺禰佐都簑菟匙簾邊獅
.... | ..│
f''|: .◞≼☉≽◟ii◞≼ⓞ≽◟ | T
. ト  ̄ i  ̄ | ノ
. | ;; \ ^-^丶 / l
| ;; / 米 \ ... :ノ
ヽ │ヽ__ノ│/
\,,,__,,,,/ >>508
|┃ 三
|┃ /''~⌒`´⌒~''ヽ
|┃ ガラッ / ∧ ヽ
|┃ 三 l ノー;;;;;' ll ゙;;;;;;-'ヽ l
|┃ 彡 ,,◞≼≽◟◞≼≽◟ ,,, ミ
|┃ 三 /.( )( )( .)\
|┃ ~リ〈∵;∴) ll (∴;∵〉ソ~
|┃ ノヽ. / ∈∋ ヽ ノヾ ぷりろっぷりろっ!
|┃ 三 / ヽ:.__;;;;;;;;;;__.ノ ヽ
,⊆ニ´⌒ ̄ ̄" y .;ヽ
゙⊂二、,ノ──-‐'´: ・ 人 ・ ,.y i
|┠ ' |  ̄  ̄ .| .|
|┃三 | ノ. ノ
|┃ |. (x) 9 /
|┃ | 彡 イ 事実は、変わりません。過去に苦しむとき、それが変わらない事実だと認めることが、乗り越える有効な手段でしょう。
考えは作りものだから、事実には近づけるだけです。でも、事実という見方を認めることで、考えは前に進むでしょう。 自分が扱える範囲の考えというのはあります。それは、改変したり、心にまとわせてみたり、自分の裁量で色んな扱い方ができます。
悟りというのも、この扱える範囲のものを自覚して、使えることが条件であるでしょう。常に自分があること、これが安心には一番であり、
自分を失うということは、不幸なことに違いありません。自分が世界の一部を見ただけで悟ることができるのは、世界が自分抜き
でもまわっており、自分はその中で自分自身をうまく楽しんで生きていけるからです。そのための自己裁量の幻想です。 >>513
その通りです。冷静さは大切です。興奮した状態で見逃すことややり逃すこと、できないことは、多いと思います。 不意に死の観念にとらわれることがある。それは、死ぬことに近づくことである。生きているという観念を、増やさなければならない。
人が長文を書く理由は、主に、その文によって、生の感触を作り出して与えたいという気持ちであるということなのではないだろうか。
死の考えは、脳みそをつついてまわる。生の観念は、明るく、生きている意味を与えるものである。
ご飯を食べて、おいしい、そんなとき、生の喜びを、十分に味わいながら、食べよう。イライラするとき、ストレスをとらえなおして、
対策を立てよう。考えは、人なりに、生に近づく色んなことを、与えあうことだ。生の観念は、美しく正しい。ウェルカムだ。
死の観念を抱いたとき、それに気づいてやめねばならない。自分の環境と能力と努力によって、死を感じないようになれ。
今死を感じる必要はない。生の喜びを、求め続けよ。
生の気分、死の気分、そんなことだけでも、幸せの実現は、ささやかに存在する。生きているものしか、生きているということが
わからないのだから。死の矢が刺さったのはいつの時かわからないが、もし、不幸な気持ちがするのであれば、矢を
抜かなければならない。小さな死の観念は、流れ出る血のように、少しづつ人を損なっていく。 脳の使い方として、脳内イメージ空間と、現実の視界との間を、往復することで頭を鍛えよ。だんだんそのスピードを
あげていくとよいだろう。これは、人間の想像力を鍛えるために、無理なく行えるリハビリである。 その次に、例えば本などを例にとると、書いてある内容から自然に思い浮かべる頭の中の感想空間を、次々と変化させていき、
渡り歩く、という方法がある。これは、実世界から離れ、思念の世界に没頭することだが、ある空間が頭の中に生じる、
ということは間違いがなく、次に移る空間は、また、準備される。空間を切り替えていくことができるのであり、
この切り替えの能力なくしては、高度な思考、あるいは意味ある読書などをすることはできないであろう。
切り替えるということが、イメージの高度な使い方であり、切り替えることができれば、たいていの本は読めるものである。 こうして、イメージ想起をして切り替えていくうちに、現実の中で空想ができるようになる。空想のみではつかれてしまう。
現実の方を愛する。現実を常に感じ、踏まえながら、その上に空想を打ち立てるということができるようになる。
広さと自由さはイメージに任せ、リアリティは現実に任せる。そして両者を切り替え能力でつなぐ。
切り替えは、脳の能力であり、意志的である。イメージは脳の自然であり、自動的である。 呼吸を楽にするには、肺を膨らませるとよい。硬直した肺に、空気が入れば、呼吸のための不要な緊張も取れ、
考えることも明るくなるだろう。なにせ、血の中に取り込んだ酸素が、脳を楽にしれくれるのだ。脳は、酸素が多い方が、
良く働くはずだ。息が苦しいと、本来の力が出せず、もったいないのである。 人の行動や言葉は無視しろ、人の本質を信じろ、人の才能を信じろ、 >>521
いつもありがとうございます。
人の本質と才能、それのみを信じることですね。
そういう付き合い方は、本当だと思います。
特権VS人権。現在でもその二つは、揺れ動いていますでしょう。
文章のどこに力点が置かれているか、という視点が大事なものですね。
全体の中に置かれている自分は、何も人の期待に添うようにされて、散々気持ちの発散に使われる。
そうです、本質や才能は、人についての最も自然で大事な、属性でしょう。
私も、自分に留まらないために、人のそれらに注視しましょう。 わたしはここでユダヤ教やキリスト教の宣伝をしているのではない。
聖書を知らない以上は世界を理解できないという事実を述べているだけである。
教養とは、結局は古代の中国官僚の処世術にすぎない論語を読んで身につけるものではない。
論語は世界の文化を形成していない。教養を身につけるとは、世界を形成してきた聖書を読むことなのである。
何を独学するにしても、聖書を読まずに始めるならば、あらたな偏見を自分の中につくるだけに終わる。
そういう人が多すぎる。すると、さきほどの評論家のようにギリシア神話も聖書も区別がつかなくなる程度の頭になってしまうのである。
つまらない誤解がある。聖書は、ユダヤ教やキリスト教に人々を勧誘するための書物ではない。
また、聖書にはありがたい教えばかりが書かれているのでもない。聖書に描かれているのは、人間への神の関わりである。
神はたえず人間にかかわり、教えてきたのである。
法律の原型も神から教えられている。法律の原型は聖書の成立よりも古いハンムラビ法典にあるように思われているが、
他人から害を受けても復讐をせずに賠償ですませよという法律の基本も聖書で教えられている。
為政者や知識人や学者が考案したものではないのだ。世界には聖典だの経典だのというものがあまたあるのだが、
その中でも世界の形成に事実として寄与してきたのは聖書だけである。
キリスト教信者が世界で圧倒的多数を占めたために現代世界が形づくられたわけではない。
世界の土台が聖書にあるのだから、そこに何がどのように書かれているのか知っておくかどうかで世界の見方が変わるのは当然のことだ。
仏教経典をいくら読んだところで世界は少しも理解できない。しかし、聖書を読んでいれば、仏教経典に何が書かれているかさえ理解できるようになるのである。
(白取春彦「勉学術」) 眼球と首、頭皮などを、同時に感覚すれば、眼筋、顔筋、首の筋肉などのコリはとれる。
首をグルグル回し、同時に眼球もグルグル回すのである。 自民党の某議員
「貧困の再生産など起きない。彼らは子供さえ持てないからいずれいなくなるだろう」
2006年9月12日(火)発売 週刊SPA!2006年9月19日号49ページ 頭を構成する器官の様子や、気持ちの通りの想像像、例えば目の奥がイガイガした感じに思えるとか、地面が平らであるとかの想像、
それらは、どうすれば正しいのかと、考えすぎてはならない。完全なイメージというものはなく、自分の思える通りが正しいのである。
ゆがめることはない。あるがままに現在を認めなければならない。そうすることで、不調は、徐々に和らいでいくだろう。
自分の癖は、受け入れなければならないのだ。 癖は具現化するときに常に一定の結果にはならない、
すこしずらして癖を具現化すれば解釈も変わってくる、
それは好き嫌いも同じであり具現化した具体的なものは常に後天的なものだ、
正しく作用さえさせれば都合の悪いそれも都合の良いものに変貌する。
よく観察しよく本質を見抜きさえすれば、肯定しなければいけない負の対象を正の対象に変貌
することは可能である。
どうにもならないものは、まだ、どうにかする時期に至っていないからである、それは本質がみえていない
いくまんも丹念に慎重に見通したそに隠れている何かが見えてくるのは時間が必要だということ、
現実に行う技術として必要なのは、対象に「時間差」無く、対称的な心で捉え応答し時間差がないそれが
見えない同調と歩調を合わす結果を導いてくれる、時間をかけて応答することの愚かさということだ。
対称的な心というのは和を重んずる日本の心だ、美しさを感じればそれは正しいと判断の基準になりうる。 >>527
癖には幅があるんですね。解釈という外的なものへの対応も変わりうる。
好き嫌いにも幅があり、負の対象さえ正にかえることはできて、それは本質把握によるものである。
具現化する一番簡単な方法は、言葉だと思いますが、言葉には音と意味があり、それが、
対称性をなすもの、なのかな。
和になった場は、対照的であり、力と美があり、それが正しい基準としては、優れた作用力を秘めていて、
それが特別な力である、ということですね。 体に不調があるときは、少しだけ筋肉を動かすようにするとよい。眼鏡も、大きく曲げるより、少しだけ曲げた方が、治癒効果が高い。
だから、首を少し動かし、目を少し動かす。そんな感じで治療ができる。指なども同様である。その理由は、絡まって凝って
しまった筋肉をほぐすことは、糸玉をほぐすような、繊細な行為であるからだ。 考えること、脳を使うのも同様である。大きく働かすより、少しづつ意識して動かしていくことが、脳の回復につながる。 未来に向けて、少しづつ未来を見ようとすることで、時間間隔が正しくなる。 >対照的
違います"対照的"ではなく「対称的」です、それは世界のトップ数学者や理論物理学者たちが求める超対称性の本質と同意。
極論いえば陰陽の太極図や曼荼羅が示す類です。
>「対象」「対照」「対称」の違い
>https://chigai-allguide.com/%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E3%81%A8%E5%AF%BE%E7%85%A7%E3%81%A8%E5%AF%BE%E7%A7%B0/
>"対称とは、互いに調和を保って釣り合うこと。"
調和の無いそれは平等のバランスにすぎません、それは全体の流れに平等をとるのではなく
全体に対して公正であること、貧乏人と金持ちがいてもそれは対称が調和できます、
だが1人の貧乏人と1人の金持ちでは対称ではなく、圧倒的多数の貧乏人に対して1人の金持ちで
なければ対称として調和がとれない、調和は平等ではなく秩序もって美しく全体が機能することです。
たとえ敵と対立していても敵と味方のバランスが悪くても全体として見ると循環した和ができているということ。
人は合理性を見出すと最適を目の前の結果ばかり重視し長期的な合理性には盲目になります、長期に訪れるそれに
対しても合理性を和として多面的に見出さなければ調和がとれているとはいえないのです。
学問や知識や論理はほぼ過去との付き合い、過去の利用、過去からの分析と応用、過去の評価、過去という計れる類との
付き合い方であり、それらは未来に対する付き合いかたではないのです。論理性だけではなく過去と未来を対称させて調和を作ることです。
>具現化する一番簡単な方法は、言葉だと思いますが、言葉には音と意味があり、それが、
物事を具現化させることで抽象化が抑制されます、言葉といっても言葉を生み出すことが本意な言葉は、当然意味を示すのではなく
意味を生み出す状況を成すものです。「言葉を発するのではなく、言葉に発してもらうのです」、つまりそれは簡単ではないのです。
物事に捉われず、具現化せず、曖昧のまま付き合うことが重要になるのです。
具現化したいなら、具現化するのではなく「それ」に具現化してもらうのです、「その何か」を具現化するのは正しくても、具現化したいものを
具体化するのでは「それ」が主体となって具現化する働きは得られません。簡単ではない。 >>532
なるほど、言葉とは発してもらうという態度でいなければならないのですね。対称性という考え方、世界を正しくとらえておられます。
しかし、あなたは頭がいいですね。 頭の中で、時間を前に進めようとか、戻ろうとかしてはいけない。ただ頭は頭であり、そこにあるだけ。
認知によって人間的時間は感じられるのだが、実際に物理的に進む時間に従い、それと自己の時間を同一にすること、
そのためには、頭の中で時間をゆがめないのがいいだろう。
人間の脳は、認知がなければ、物理的時間と同一化して速度を刻む。それこそが、人間的に汚染された時間から、
真の存在に至るための、時間の感覚の仕方なのである。
もっとも、頭によってゆがめられる時間とは、文章を読んだり、何かの考えをすることである。つまり、何もしない、
何の思考もしないことによって、頭の中の時間を前に進めることがなくなる。それで真の時間に至る。
では、真の時間を得ることによって、何のメリットがあるのであろうか。それは、頭の中の時間を、使いたいときに、
基準として体得しているということである。真の時間にいつでも戻ってこれる、すなわち、頭のオーバーヒートを
冷やすことができるのだ。つまり、迷いを一つ減らすことになる。 人間は、思うことを、価値を判断するより前に、優先しなければならない。思ったこと、つまり自分の思いが、何より優先される
脳の構造をしているのである、本来は。つまり、思うことが自分なのであり、価値判断はそのあとにくる。思うということは、
一番最初に持ってこなければならず、その思ったことを、言語などの形にする。あるいは、思ったことに評価を下す。
だが、評価は本来的ではない。思うことによって、先入観なく物事をとらえるのが、一番安心できることであり、
人間の本来性である。もちろん生きていくうえでは、また社会を作るには、価値を高めることも必要である。
だが、個人一人にとって、幸せになろうと思えば、カリカリと人や世界に文句を垂れてはならない。
思うこと、これが悟りなのである。その思うということは、だいたい二秒くらいの間に行われると思われるが、
思い、次にそれを形にする、この順番を入れ替えてはいけない。悟ろうと思えば、人との関係には、重きを置かず、
自分をまず満足させることである。思うということは、無限の可能性を秘めており、頭の中が穏やかになり、
どんなことより、思うことが正しい物事の認識を可能にするのである。ぼやっとしてとらえること、この気持ちの良さは、
非常に、安心を与えるのだ。考える前に思え。思ってそれを形にせよ。この繰り返しは、脳に何の負担もかけない。
つまり、考え続けることは、不可能なのだ。それが脳を壊す。ダメージを与える。それから逃れ、真なる
頭の使い方を、することなのである。
なぜ、思うことがそれほどに力があると言うのかというと、環境の変化に、左右されない自分、脳という環境に左右されない
一つの絶対に対して、有効であり、柔軟さが生まれるからだ。穏やかな認知的思いに至ることは簡単ではないが、
それはすべての人ができることなのである。 そして、言葉は真実にはたどり着けない。行為についても、そうである。したがって、暴行や殺人などをする人、そういう人が、
いかなる悪意の気持ちを持っていたとしても、それへの義憤で興奮してはならない。そういう人の発する言葉、そういう言葉であれ、
受け入れなければならない。嘘は信じることはできないが、あらゆる行為、言葉について、それを、許さねばならない。
なぜなら、一個人として、思うことをやめることなどは、個人の幸せの範疇を越えてしまう。関係者や被害当人に
とってみれば、それは悲惨なことであるが、取り返しはつかない。つまり、そういう行為の、全てをなくすことは不可能である。
世は解きがたい。したがって、自分自身の幸福を追求するしかない。そのことを皆が手に入れられるのであれば、
きっと恐ろしいことは減るはずだ。犯罪者は、なぜそんなことをしたのかと、幸せに、なれなかった自分について、後悔する
はずである。従って、個人がすべてである。そのうえで、人と付き合う。自分というものの、自分自身に対する責任を
果たすということは、幸せな気持ち、本来の脳の使い方、それを会得すること以外にはない。それが、生きる目的
なのである。涅槃に入ること、それは、誰でもできることだ。
私についていえば、思うことの思い方を得ることによって、大変に平安な気持ちになった。これが涅槃であるかどうかを、
自分で結論付けることは、出来ないのであるが。 意識がどこにあるのかわからない人も多いであろう。それを知るためには、消去法である。ここも意識じゃない、ここも違う、
と否定していき、結局のところ、意識はある場所にあるのではないと結論付けた。つまり、偏在であり、意識状態に従って、
あらゆる場所にありうるもの、視界に映るものや、聞こえてくる音によって、変化するものであるように思えた。
つまり、意識は常に探りながら働かせるのが良いのであると思えた。 また、自分は好かれているのか嫌われているのか、あの言葉はプラスの意味を込めたのかマイナスの意味だったのか、
と悩むことも多いだろう。そういう場合には、あらゆる可能性を考えてみることで、わかる。
自分はすでに知っているのだ。自分の考えていないことを考えている、などということはありえない。
だから、心にある答えを、探りまわすことが必要なのである。可能性のあることは、その中で、はっきりとさせることができるのだ。
自分に必要な言葉だけを拾えばいい。 意識や、人間関係だけではなく、時間についても、消去法を含めて、あらゆる可能性を試しに考えることによって、わかるようになる。
今、未来、過去、どれがどれだ。どこの時点にそれらはあるのか、あったのか、ありうるのか、ということを、訓練するのである。
すると、それらの置き場所が分かるようになる。ただ、時空ということで、どの場所を想定して、時間を考えるべきなのか、
という問題があるが、それは、あまり気にしないでよいと思われる。細かいことに目をつぶり、思い切ってやってみることも、
負の状態から抜け出すために、必要なのである。脳や、上空などに、とくに気を取られるだろうが、それはそう感じたまま、
自由に、その場所でも、また無理に場所を変えてでも、やってみればよい。だんだんと、健全な思考ができるようになる。 少しづつ考えるよりも、一気にすべての考えを考えることで、創造性と経済性の両方が、上がる。目の前にあるものを一度で全部見ること。 つまり、待っていてはいけないんだよ。何か不遜な考えが浮かび、それを見据えたうえで、考えを展開していく能率の悪さ。
浮かんだ考えは、結論として持ってもよい。つまり、一連の流れにより理路を作るんではなく、全てのことについて、
自分が間違えるということは、ほとんどない。なぜなら、アイディアこそが、最初に心を占めてしまう力を持っているからだ。
理路を作るのには意味がない。問題の解決に意味がある。それは、日常生活の上で、時間に沿ってやっていくしか
ないから、少し奇妙な考えに思えるかもしれない。だが、何も時間に忠誠を誓ったわけでもない。
始まりも結論も、ばっと考え、ガシガシと問題を解決していくべきである。何かが生まれるはずである、と期待して、
論理の展開を全てにおいてしていくような考え方、これは、疲れるし意味がない。ただの考え、怖がらず、
全てを同時に考えよう。 >論理の展開を全てにおいてしていくような考え方、これは、疲れるし意味がない。ただの考え、怖がらず、
>全てを同時に考えよう。
ただ時間が かかる、長い時間だ、合理化すればショートカット(近道)できるだろ、経験や労力を踏まない、賄賂を渡してえる免許や称号だ。
そして時間だけではない、物事の本質を掴めなければ永遠に結果に たどり着けない、
自分基準で正しく働くか 間違った方向へ働くか、そこまで感じられる感性(現実に繋がる未来のイメージ)も必要だ、
常に正しいと判断できる行動を繰り返してゆけば、間違いなく一瞬で自分本位の正しさが判断できるようになるだろう。
自分が苦労があっても可能なこと、実現できること、それらが他者に評価されず(無意味)とも、それらを確実に行うことが1歩になる。
本当に信じるべきは見栄えのよい才能ではない、その根底にある資質、素質だ、根底に近いものほど裏切らない物事の本質である、
才能など飽きたら終わるし、道を見失えば先には進めない、本質から生じるものは、才能では超えられない絶望すらも超えられる。 舌を様々な形に置くのが、顔の筋肉に大きな影響を与える。同時に顎関節の開き方、力の入れる方向を変える。
すると、喉も様々に動かしたくなり、動かすことになるだろう。
そのように、動かせるのに動かしていないのが、顎関節と舌であり、喉である。
それを使えば、目の筋肉にも良い影響があり、精神的にも自由度が増す。
顔の関節、筋肉のストレッチの起点として使えるのが、舌なのである。 >>542
資質、素質ですね、僕も本当にそうだと思います。本質を知っていれば、絶望を越えられる、これは、「死中に活を求める」ような
危機への踏ん張りとともに、戦わずして勝つ、死ねば勝つ、のように、戦略的賢さを与えるのが、本質であり、
必然的に勝つわけですね。 死んだら千の風になる
僕にとって時間とは細胞の変化が引き起こす何らかの感覚のことであるから、細胞がなくなれば時間は無くなる。
そしてそれこそが時間の無である。無とは、有の否定であり、現在存在する宇宙が否定され消えればそれが宇宙の無である。
宇宙が始まり終わるのも、生物にとっての時間の感覚と消失を、まったく同じようにたどることなのである。
それゆえ、無と有が、感覚として、また概念として、つまり様々な様態として訴えてきて、理解が可能になるのである。
宇宙空間は、物質がなければ存在できないであろう。何もない宇宙はない。宇宙空間は、現在は有であり、
やがては無になる。そして、物質は、相互に相殺され消えるのではないだろうか。
生命の始まりが物質の存在を抜きに考えられないように、宇宙の始まりも、宇宙のあらゆる法則を生み出し、規定し、与えたような、
何か別のものを抜きに考えられない。生命が宇宙内の存在であるから、宇宙を理解する。宇宙は宇宙外の何物かの
規定する存在であるから、法則が「変わらない」。法則を完全に理解した時、生命が宇宙外をなんとか表現しうる。
生命の神秘と、宇宙の神秘は、苦しみを、あるいは「時間」を、ともに持っている。そうだ、宇宙外のもの、宇宙を生んだのも「時間」だ。
「時間」の否定は、「無」である。すべての「有」を理解すること、つまり、「有」の本質とは、「時間」である。
だから、時間の法則は、全て(生命、宇宙という存在、全宇宙法則)を規定するものであり、時間がすべて(存在の全て、全ての存在)を、
規定している。時間には矢があるが、それが、止まるとき、時間が無になる。そんなことが、起こりうるのかどうか、それは全くわからないので
あるかもしれない。
デカルトは、宇宙の始まりに神の一撃を想定した。だが、僕が考えるには神とは、時間のことであり、神とは違い、時間には矢があり、
時間は相変わらず存在し続けているものであるように思える。
宇宙の終わりに、物質はバラバラに散らばり、千の風になるのかどうか。いうまでもなく、風とは時間とほぼ同じものを表す言葉になっている。
あるいは宇宙も無になるのか。時間の性質への根本的理解がなされなければ、それを考えることは、難しいことになる。
法則の統一から存在の神秘にアプローチするしかないのか。 全くの想像だが、有と無が止揚されると、絶対矛盾的自己同一になるのではないか。有と無を止揚できるところに、
人間存在の特殊的優秀性が、現れる、のではないか。人間とは、そこで矛盾の中にとどまるを得ず、
矛盾の中で、自己が同一的に完成されるということだ。千の風になる、つまり無になることの、自然的な必然性は、
どうしても否定できない。であるから、感覚という、個人の有の代表的能力にとどまること、
止揚がもはや必要とされない(つまり、自己の死を受け入れる)という気持ちになること、
有の全てを、完全に使いつくすこと、それが人間の限界であるから、限界を引ければ、
悟った、ということになる。あとは、有なるもの、つまり感覚を大切に楽しめばよい。
千の風になり、自己を産んでくれたものと同じになり、人類すべてが同じになるという
安らぎに、納得を見つけられるのではないだろうか。 欲望(食欲、性欲、等)を空にせよ。その向こうに悟りがある。その欲望を空にすることが尊いのは、それを自分の意志の力でするからだ。
意思の力を増すことになるのである。そのためには、頭だけではなく、身体的な感覚も、必要である。例えば、胃を感じることができれば、
食欲はコントロールできる。スポーツや健康運動で、心臓の鼓動を感じたりできたら、生命感が強く感じられるだろう。
欲望に従うのではなく、もっと素晴らしいものに従うことができる。それは、欲望というつまらないものに拘泥するより、
はるかにいいことであるに違いない。 血の流れを、毛細血管に至るまで感じられれば、生きていることを感じられる。 身体について、意識を向けることによって、血流など活性化されるのではないか。 考えたことは考えたことである。考えることで対象と自分は、何らかの関係を持つ。考えたことがないことは、考えたことがないこと。
つまり、意識によって行動は決まってくるのであり、意識をどこに向けるかというのは、偶然に左右される。そして、意識しないことが、
世界には膨大にあり、それを包括的に処理することにより、正しさを作り上げることはできるかもしれない。どこにどれほど意識を
置くか、ということが、自己の生、存在の全てになる。 意識を働かせていくと、意志も作れるようになる。意識を、想像力のなかで組み合わせることにとって、自分に向けた
自己の実験が可能になる。意志とは、価値観についての意識の自己実現を目指す。
意識は、ストレスと戦いながら、意見を言うことができるようになる。意識を持った自我の自己実現を、
外に対して実現できる。これは幼児の段階であるが、自我の自己実現を、内部で達成することが、迷惑でないことである。
自己の完成を目指すこと、つまり意識をよく働かせられれば、満足感が得られ、その裏としての不安の解消
として働くのである。 脳の回路が分岐する。思考や予測も分岐する。視界に映る空間も、分岐させて
いける。無限の可能性で。行為を続ける/やめるも分岐点である。
分岐が無限とおりであることから、時間の限られた範囲での宇宙は、無限に構成されることはできないはずだ。
だから、無限の可能性を生みながら、有限の宇宙は変化し続け、意味のある時間が構成されるには、
有限の構成された(=1通りの)宇宙を存在可能にするから、意味のある時間は有限である。
無という時間から、分岐して、有に変態する時間が生ずる。そして、無から分岐した有時間は、
それが進み続けることで、無に帰ったり、生まれたりすることで、無限である時間の遊びの間に、
宇宙空間と物質を、存在させることになる。
この時点で、時間は空間と一体である。時間のほうが親であるが、一度生まれた空間は、時間を裏切って、
逆戻りすることはない。ということは、空間には時間の進み続けるという性質が、髄まで染み渡らされている。
進むか戻るかという分岐が、時間にないことは、時間の性質である。時間にできることは、気まぐれな産出だけである。
上に述べたことの全体は、解脱したお釈迦様の知るところであって、いつかは弥勒菩薩が宇宙ごとどうにかする。
お釈迦様の存在のありよう、どこにいらっしゃるか、などは、悟りを得たときにわかることであろうと期待する。
生あるうちに悟りを開いたのが唯一お釈迦様であることは、分岐した、死を救うための、願いの発生が、
人類において花開いた、まさに、奇跡の現象であったということであろうと思う。
悟りの方向に行くためには、空間を無限分岐させて認識しうる能力を、最上の可能性として、持っていることに気づき、
では生は無に帰すのではないのだ、無に陥らず、個々の人間も無限であることに気づくことが大切である。 特に現代において深刻な精神病だが、自分の脳や気分を、気持ちのいい方へ、楽な方へ分岐させていくと、
かなり楽になると思われる。 あることを考えようとし始めるとき、それが悪い考えと思われるなら、それを考える前に止めるということを身につけるのが
有益である。意味のない考えは、時間をとり、自分をゆがめる。そういう考えの代表が、自分が何かより優れていることを、
証明しようとする考えだ。考えるべきことを考えるというのは、情報の海の中では、大切なことである。
考えてみて、悪い方へ行ってしまうということは、よくあることである。それはつまり妄想ということである。 自分が悪いという考えも、同様に、考えそうになったらやめるべきである。 不思議さ。何かを否定する気も、もとより乏しい知識をひけらかす気も無いさ
だから、+板のレスバトルに入り込む余地すら見つけられないさ
人間とはそんなものだというか、
信じるもの全てに裏切られた、コヒアレンス感。 >自分が悪いという考えも、同様に、考えそうになったらやめるべきである。
善悪などどちらがすばらしいというのは人間の業である、人間という次元が無ければ善と悪に
区別(高度な認知)などありえない。
>考えるべきことを考えるというのは、情報の海の中では、大切なことである。
大切である、だが必須ではない状況で答えを出すのは大切ではない、平常では具体さを否定し抽象性を肯定するべき。
>考えてみて、悪い方へ行ってしまうということは、よくあることである。それはつまり妄想ということである。
それは妄想ではなく幻想である、具体性への帰着による善悪、良悪など曖昧ではなく決定してしまうからだ。
自分本位であることが自己愛に繋がり答えが判明しない(多重解釈できる)想像の領域から、具体的な答えがある
幻想へと昇華される、他人からみれば妄想と幻想に差はなく、自己の中のそれは答えに執着しているか、そうではないこと、
答えは自分で土壌を作り導く妄想までは正しいが、自然に勝ち取らず欲望や自己願望によって導きだされた幻想は
その意を思い浮かべた一瞬の時点では正しくても、それから続く未来には正しくない、時は移るもの状況は変わりゆくもの
具体性は不安な心に対して気持ちだけの範囲で希望を与えるが、現実に良い方向へはまわりずらい、なぜなら余裕がない
確定した原理と働きであり、融通が利かないのである、他者と共に成り得るのは妄想(曖昧)ではなく幻想(具体)で完成すれば
他者の自由を奪う受け入れがたい強い縛りをもったルールへ変貌する。 >特に現代において深刻な精神病だが、自分の脳や気分を、気持ちのいい方へ、
>楽な方へ分岐させていくと、かなり楽になると思われる。
つまり古代、原始において深刻ではないと認知していると察する。
シャーマン(呪術、占い、予言)が原始の村に1人いるような古代では、
故意に幻覚を起こし人の精神を高次元へと誘う行為がなされ、故意ではなくとも
その能力をもつものはより高い次元の精神現象(夢、幻、妄想)が可能であり、
古代では科学も知識も技術もないわけなので、より高度な災害や事故や未来といった
知識や論理では掴み得ない類に対して認知できる素質や資質となって役に立っていた。
人の心の原理は、楽なほうへ流れる原理をもっている、楽ではないところに流されるのは人であるかぎり
避けることができない人間の本質原理だ。
何をもって楽か楽しいか、気持ちがいいか、それは認知の働きと慣れと自己の役割などの自尊心を高めること、
それは主体である自分がどう思うかの問題であり、特異な人ではマゾ(SM)や、寝る時間すらない仕事づくしの世界や
受け入れがたい重労働など楽しくやってしまう場合もある、それが人間であり、高度に働く精神現象では単純に良い悪い
のような論理では説明できず、心の持ちようが重要になる、精神病が問題というのは他者の評価であり、それが
自分の気持ちのよいように働かないのは、それを働かせる状況を考えないからだ、目の前の好き嫌いや優しさだけを
選ぶことで、その後にくる最強のそれらを上回る何かをしらないからである。
苦労と努力と辛い状況を乗り越え山の頂上にたどり着いた登山家は、それらの苦を一切わすれる、それほど良いものだからだ、
妊娠して胎児を出産する母親の痛みと苦労は出産する行為で打ち消され、再び次の子供を生みたくなるということだ。
自分にとって本当に良いものは経験しないとわからないかもしれないが、思考を短絡させ具体性ばかり追いかけ楽な流されるだけの
それは愚民が辿る道といっても過言ではないはず。賭け事の快楽は人を堕落させ、薬物も、依存する嗜好品もである。
精神病が悪いのではない、認知が異常でも能力が最悪でも、メンタルが弱い(心が弱い)ことが最終的な愚になることも考えたほうがいいのでは? >分岐が無限とおりであることから、時間の限られた範囲での宇宙は、無限に構成されることはできないはずだ。
分岐は無限ではない、可能性も無限ではない、なぜならその無限という解釈の絶対大多数は選べないからだ、
目の前の都合の良い行い道に、好き嫌いの好きへ流される、繰り返す選択は届く範囲でさらに、繰り返せば繰り返すほど
流れや成るべき先へ誘導される、無限の可能性があっても超新星爆発の被害やビックバンなどのような起こり得ない現象は
選ぶことは難しく、任意の分岐で無限に選択する候補としては、ほぼ不可能に近いもの、
人間が生まれ思考しても猫になれるわけではなく、神(比喩される能力)になりたくても神にはなれない、
選択できる範囲など恐ろしく狭く、狂気で人を捨てた存在以外では自分の意思の選択の候補にはなりえない。
宇宙旅行を夢見ても片道切符で戻れないそこに行きたい人は狂気である、安心安全のないそこは選べない。
恐ろしく狭い分岐の候補しかない。意味を見出すそれも常識の範囲、認知できる範囲であるかぎり、認知不可能で存在の
有無すら気がつけないそれを選べない。 >上に述べたことの全体は、解脱したお釈迦様の知るところであって、いつかは弥勒菩薩が宇宙ごとどうにかする。
>お釈迦様の存在のありよう、どこにいらっしゃるか、などは、悟りを得たときにわかることであろうと期待する。
悟りを得るのは簡単であり困難でもある、なぜなら自己の否定、自我の否定をするだけであるから、自我をもって自我を否定など
できるわけがない。解脱にいたる為には解脱するという意思すら捨てることになる、自分の魂が空に浮き自分ではない何かを
見ている状況に達してこそ悟りの境地である、自分ではない働き、それはどこにでもあり、世界はそれで満たされている、
ただ自己をもって自己をという二元論の思考に流せる論理では、主体がなければ思考などできず主体以外が思考して結果をだす
方法もできない。まず具体性を否定し、自己を否定し、意思すら否定する、無我(何もないわけではない)=すなわち自分以外が自分を成すという世界の循環を
受け入れられるかということ、自分以外の全てとは自分との関係で自分そのものを表す、主体との関係性は主体以外のそれが持つ
意味こそが重要であり、主体の意味などは重要ではないということ。
自分が生きているのではなく、自分は世界に活かされていることに気がつくこと、自分が選ぶのではなく世界が自分に選ばせているということ、 >意識を働かせていくと、意志も作れるようになる。意識を、想像力のなかで組み合わせることにとって、自分に向けた
>自己の実験が可能になる。意志とは、価値観についての意識の自己実現を目指す。
自己実現など自尊心の満足という感情を満たす原理である。
自分で自分自身の行いを自己評価しては、自分が理解する(他者の理解ではない)それにたどり着く
自己とは他者、世界、環境、状況あってのものだ、自己が先にあるわけでもなく、自己が世界を支配しているわけでもない。
自己なんてものは恐ろしく弱く、世界に左右され流されてしまうもの、目の前の都合のよさ合理性、行いやすさ、好き嫌いで
自分で行っているのではなく世界というレール(鉄道)によって進むべきそれは線路のない部分ではないのは明らか。
自分が自分の思い通りにできているように見える他人がよくいて、それが機能しているのをみて、自分でもそうなりたいと
願い、ねだり、望む、多くのその自己実現をしているような人は自分で自分を制御しているわけではないのである、
自分で自分以外のそれを制御することで世界が自分に優しい都合の良い結果を与えてくれる世界へなるように世界の本質を
読み取り世界がそう流れるような布石を行ったけっか、自己は結局は世界のそれに流される。
世界の働きが自己を否定するような異常な選択などできるわけがない。できれば狂人、「ひとでなし」だ、悪魔だ、
だがそれも方法の1つだが、悪魔の才をもった人など自然に発生するのは困難である、悪魔たらしめる環境と道筋があった
からこそ悪魔の才能を得るだけとなる。
自己のパワー、エネルギー、アビリティ、ストロング、主体が成す具体的なそれはフォース(自分以外)ではないのは明らかだ、
自尊心、自己実現とは良い物に見えても、結局は自己愛である、極めれば俺正義である、
世界が成す形の価値観を導き、細かく適切な妥当性を活かし、フォースとして世界の力を手に入れるべきというのは私の持論であるが
自己のパワーが欲しいなら、世界の覇者、世界の強者、世界のエリートに向かえばいいだけ、それは孤立の力である。 >身体について、意識を向けることによって、血流など活性化されるのではないか。
活性化とは破壊である、創造と破壊は表裏一体であり、停滞ではない。
血管が停滞し血管が細くなり血の流れがわるくなるのは、停滞である。
血管が詰まりそれを破壊できずに停滞すれば全身がその停滞の連鎖に導かれる。 >考えたことは考えたことである。考えることで対象と自分は、何らかの関係を持つ。考えたことがないことは、考えたことがないこと。
考えるべきことは、何らかの関係をもつことではなく、何らかの関係を持ってもらうこと
>つまり、意識によって行動は決まってくるのであり、意識をどこに向けるかというのは、偶然に左右される。
偶然に流されるが、偶然の種類や範囲は選べる、交通事故で死ぬ偶然は車が通らない道では発生するのは困難である。
自分で行動やら意識を制御しているようで偶然に支配される、選べる偶然は無限の選択ではなく状況における恐ろしく狭い範囲でしかない。
>世界には膨大にあり、それを包括的に処理することにより、正しさを作り上げることはできるかもしれない。
世界の具現さ、具体性、目に見えるもの、そういう類を処理するのは困難である、
そしてその眼に見えるそれらは偶然に左右された模様にすぎない、見るべきは心の眼が見るもの、眼をつぶって浮かんでくる元素、本質
外から確認できるものは本質ではない、見えざる何かの根本に隠れている本質、正しさはそこに隠れている。
根本的にある抽象的なそれは裏切らない、なぜなら具体性がないからこそ曖昧なそれは見えざる部分の根本的な働きそのものの原理だからだ。
競馬をやって利益がでても、25%は税金でもってゆかれる、目に見える勝ちと負けは見えやすくても、隠れている税金となって徴収される
それは1回目では見えずとも、繰り返し続けるほど平均的に働き 具体性は意味を成さなくなる。一定の割合で徴収されていることを理解しても
それを理解したくない、目の前の見えやすい勝ちだけの快感に流される、隠れた本質を見るべきだ。 >欲望(食欲、性欲、等)を空にせよ。その向こうに悟りがある。その欲望を空にすることが尊いのは、それを自分の意志の力でするからだ。
だが。意思や悟りを求める気持ちすら欲望である、悟りをもとめ、悟りがあるのは悟りが不要と感じたとき、自然に沸いてくるもの。
自分の意志の力で悟りを得ようとするかぎり、悟りへはたどり着けない、意志が物事の初動でありきっかけ、であっても、
悟りは意志でたどり着くものではなく、意志すらない領域から、自分以外の何かから、悟りが自然に得られる。
人は意志や自我を捨てることは困難であり、唯一の生物としての生存原理でもある、無我となり意志すらすて、全ての関係を絶った瞬間、
世界は動き出す、個に意志なくても、世界は個に意志を生じさせうる。
パワーではなく、フォースである。
自分で行うのではなく、自分以外の何かが行うように思考すること、世界を活かすとき世界は巡り回りだす、和である、
それこそ世界への感謝の気持ち、自分を取り巻く限定された世界が気持ちよい状態になれば、自分も気持ちよくなるという働きである。
自分を動かすのではなく、自分を流し自分の好みになるように世界を活かすことで世界の活かされたことが奏功して和をなすとき
自分はその渦中にあるかぎり世界の流れは自分を活かす流れに導かれる。 >>559-566
わかりました。具体性は人間で、抽象性は世界。具体性は皮相で、抽象性は本質。生きるとき活きようとするならば、
心の満足は、具体性より抽象性のほうに、働く。それは、僕の考えではまぼろし。言い伝わっているまぼろしについての
情報から、まぼろしを、実在的にかんがえようとすると、抽象性の実現が、無視できないほど重要に思えてくる。
つまり、人間存在よりも、世界の方が、上位にあり、しかも人間を産んだ世界は、人間を祝福するのに、用意がある。
人間が世界の本質を得られれば、フォースとなる。
一番重要なものは何か。自分の知っている限りの中でも。それが、世界に帰ることで、生み出された人間は、自然に
反することには意味を持てない。つまり、文明が重要ではない。文明を作った何かが重要である。
皮相に覆われた思考では、文明の本質は明かせない。だから、傷をつけることが重要である。
脳の中、に、傷をつけていく。すると、皮相から剥き出した生命が、得られることになる。
血と傷と、世界とフォース。それらが、まだまだ幼児期である生命に、掴む機会を与える。
重要なものが何なのかと考えていくと、様々な答えに惑ってしまうが、世界に接することで、
自分が何のために生まれてきたのかがわかる。そうして、まぼろしを、自分で知ることができる。
そうして、世界の本当の姿に一体化できる。
妄想が、正解の妄想になる。トライの末、本当に全てに当てはまるような、世界観を得る。
そしてその力は、歌のように人をひきつけ、真実を得ていくことができる。
こんな感じでしょうか。 世界は自然それぞれの秩序に従って存在するが、それに加えて新しい操作を可能にする物質体が生命である。特に、生命の脳は、
構成能力が顕著に備わっている。例えば、上下を考えてみよう。自然的には、重力の違いによって、上下というものがあるということ
であるのだが、人間は、それに加え、頭と足というものを加えることによって、上下に意味を加える。すなわち、人間は、上と下
という世界を構成し理解している。
熱い寒いといった感覚も、人間が複雑に構成したものに過ぎない。感覚器と血流の温度などを、脳に届けて、利便安全のために
処理しているのである。だから、人によって、また状況によって、その快不快は変わってくる。
言語も脳は構成する。ある単語の意味を、並べなおすことにより、構造を作り、意味を考えている。一種の遊びであり、
利便性が最も重要である。
世界空間。これも、脳によって構成理解されるものだ。上に述べた上下の話のように、物の構成を、ある規則に従って理解する
ことで、世界空間は生まれる。
従って、構成に時間をかけ、ゆっくりと間違わないように、また、自由で快適なように、言語や世界を構成理解することが、勧められる。
余りにも無自覚な惰性の連続によって、凝り固まったものしか理解構成できないのならば、それは大きな問題である。
こういったことを考える上で、物体の受動的側面、思考の受動的側面、存在の受動的側面が、真理として重要である。
脳の構成能力はその上に作動する。脳の構成能力が自我、主体であるのだが、受動的なものも、大きく脳の思考に
影響を与えているということが重要な点である。
従って、脳の能力とは、自由さと言ったことや、確実さと言ったことを、基準として比べられる。
主体として生きるには、構成行為に無自覚であってはならない。そして、越えることのできない限界が人間にはあるのだということを、
世界の中で知っていることが良い知恵である。 人や物に対する快不快の感覚は、大きな割合で、自分がカルマを積み上げ、それに対抗しようとする作用なのだということを、
知っていれば、過去でさえ、構成しなおすことによって、その自分に対する意味、重要さは、変わってくるのである。 久しぶりにのぞいてみたら、板の雰囲気が偉い変わっている。 言葉はうわさだとすれば真実が入っていると思う。
認知することは訓練であってのちの本質には大事な部分だろう。 目の前にあるものと、それを見ている自分の認知把握したものとが、同一のものであるか、というのが、現実を考える上では、
問題となる。個々のものの特徴を知るのは、素因数分解とほとんど同じことであるだろうが、一が素数でないように、物の
認知は、どの面に着目して同一であるように認知したか、が重要になる。
目の前の文章の意味と、自分の理解とが、同一であるかどうか、というのも、大きな問題である。
自分が何を重要であると思うか、という価値観が、世界の中の命題において、命題の真偽は「客観的に」決まってくる
というばあいの客観を考えていない場合に、信じるか、あがくかといった、かなり困難な方法に走ることにもなる。
客観を構成できない問題もたくさんあるから、闇のなかに埋没している様々なものに対して、それこそが可能性である
という場合も多いので、光を当てることによって、客観がよりパワフルになるような法則を発見することもできるだろう。
客観を強く広くすること、それが科学の強力さを増すことであるだろう。
何にせよ、同じものと違うもの、ということを考えることで、自分があっているか間違っているかという、基本的な判断が、
迷い少なくできるようになるだろう。自分の理想に対して事実が裏切ったとしても、それはそれで真実に近づくことで
あるわけである。何も感情を動揺させる必要はない。 私は満ち足りた。
包括的に物事を理解すること。
眼球を全体で機能させること。
脳の部分(前頭葉、頭頂葉)を、包括的に包み、一つのサークルを作り働かせること。
あらゆるものに対して、包括は可能である。それがイメージを操作する力であるから。
縦にも横にも、時間にも空間にも、包括することができる。
違うものを包括することもできる。
そういった操作が、物事を理解するために、混乱を鎮めるまで、掴んでおくことができる。
考えを包み、自己の全体を包む。
そのように、自己は自己以外のものと一緒にも、別々にもなれる。
まとめることで物事は理解がたやすくなる。
分裂した自己は、わからないことを包んで、記憶に送ることで、理解を試み、まさにその理解によって、
分裂をなくすことができる。
実際の問題を、抽象的な作用により、あらゆるレベルで自らのものとできる。
不思議や、謎を、区分できる。
区分は、行為であり、思考である。
理解の方法とは、包括に尽きるのだ。
包んで理解する身体部分の機能、包んで理解する外界への思考。
それ以上に、何物も足りないものはない。
従って、私は私の望む、真の理解と存在を手に入れたのである。 何かの思考で、日常的に自然なのは、何かについて、一瞬疑うこと、一瞬何らかのアイディアを走らせることである。
その繰り返しが、思考行為である。つまり、あまりにも長く疑うことは、考えとしては優れてはいない。
一瞬思い返すことができればいい。そして、一瞬で戻ってくることである。それは、胸において行うことになる。
つまり、周りのものを見失うほどに没頭している思考は、どこかおかしい。一瞬の疑いの感覚を忘れなければ、
日常や読書において、自らの思考様式を確立した、と言えるほどになる。
さらに先に進もうとするなら、そうした行為を、深く長くすることもできるだろう。 それは、何らかの方向性を持っているわけではない。ただ自然な懐疑行為である。だから何に対してもできるし、何かに対して
のものである必要もない。内的な行為である。 この思考行為の特徴は、言葉や映像の入り込む余地がないことだ。ただ一瞬であり、考えることと感じることの
両方であるような感じなのである。 この思考行為は、問題を解決するものではない。ただ、自分の存在を確かめ、おそらくは無意識に何らかの変化をもたらすような
安心の行為である。健全の行為である。 心技体が備わってない奴が何かを疑ったって行きつく先は自己批判w
形は様々だがw それは、おそらく、"Geheimdienst"の働きが、あたかも彷徨う魂の
ように国という「身」からも、国家という「体」からも、なにか
遊離しているように感じられるからだろう。 無我とは楽しいものである。悩みがなくなる。自分の考え気持ち、感覚、存在感全てが無であれば、世界の中に溶けていくよう
な感覚が得られる。我を作るべきことはある。それは作り、後は無我である。死の恐怖もない。責任を果たすべきなら、
輪廻の中にあり、自分のカルマがなくなれば、解脱である。カルマがなければ、自分の世界への欲が無になる。
存在へのこだわりがない。記憶も思考も、消えてよい。それらは、一時のものであり、それらはすべて、欲が
作り上げるものに他ならない。復讐したいなどの欲も消せる。正義も欲を抜いたものでなければ、正しくはない。
無我無欲こそ、人間のあるべき姿であり、執着欲を、常に消さなければならない。 悟りを得て肩こりが治るとは思えない。だが、身体における健全性は、仏像などをみても、十分に悟りと関係がある
ように思われる。したがって、思考と身の健全は、同時進行の様相を帯びるのではないだろうか。
私が壊したのは眼筋である。全身をつかさどっている眼筋には、特別な力があった。そして、凝ってしまった眼筋をほぐすのには、
直接的な刺激はできないから、眼筋自体からほどいていくしか仕方がなかった。ではどのようにすればいいのか。
脳の前頭葉(おでこ)、頭頂葉、側頭葉、後頭葉などに、直接働きかけられないから、それぞれの部位の頭皮に刺激を
与えることで脳に良い変化をもたらすことができる。そして、頭皮と目を同時に意識する、ということが、必要なのであった。
つまり、おでこに力を入れながら、目に力を入れるとか、頭頂を意識しながら目に力を入れたり動かしたりする、ということである。
このようにして得られた視界は、より自由な思考を可能にする。つまり、邪魔をされたり、リミッターをかけたりしていない状態
だからである。
自らを思ったように動かせるということは、何にもまして、安楽なことである。 遠くのものをみるときは、眼球の奥を使うことになる。
遠近感がなくて困っているのなら、遠くと眼球の奥を
つかって、みるということの訓練をすれば良い(一瞬で治る)。 安心感をつかさどるのは、横隔膜である。横隔膜を正常に戻すには、腹と背中にそれぞれ手を置いて、挟むような力を加え、
横隔膜を意識することである。そうすれば横隔膜に強い力を加えることが可能となり、体調は回復する。 本を読んだりするときに、強い意識を持つのが良い。強く意味をつけ、悪いと思って抑えていた感情を解放するのである。
泣きたいときに泣き、笑うときは笑う。それなしでは人ではない。だから、本に書いてあることも、しっかり受け止め、
内容に対して、強い意識で返答することが、良いのである。 言葉や行動や思考でも、心遣いをすることができる。何をどうするか、思考なども自分でできるように操れる。自分次第だ。
工夫次第で、思考の在り方が変わる。つまり、自由に考えられる。それは、効率などではなく、安心の境地である。
誰もが、生きているから、思考を殺さないで、ゆっくりと生きている間に、思いたいことを思えると知ってほしい。
筋道を通るように、焦りなく。 もし考えをコントロールするのが難しいなら、見たいところを、見たい速度で、見たいように見ればいい。それだけで、人間にとっての
自由を、ほぼ尽くしていることになる。 音楽は、時をとどめる。一本のギターの弦が鳴っているとき、それは、時間的に把握するのではない。
したがって、音と言うのは、人間には音の高さが、長さよりも先にとらえられるし、それを楽しむ。
弦の状態を聞くわけである。時間の貯蔵、時間の彩、色んな風に、時間を使うわけである。
色と広さとの関係に似ている。
とどまることのない時間が止まる感覚を与える、無限に広がる空間に、区別を作る、
人間に与えられたのは、美しさである。そこを通るから、浄土へ至るということが、考えられるようになる。
浄土は、永久の苦を、否定することを可能にする。 つづけなさい、意味を求め認めてもらうのではなく、
表現を楽しみそこに何かを感じなさい
意味を求め結果を得ようとしたとき、貴方のそれは間違った方向へ行くでしょう
重要なのは続けることです、強くではなく繰り返しです、
何も感じられないなら、それは少ない回数で大きな意味を求めているから
得られるのは意味ではないのです。感じたことが正しいのです。
進むべき道は常に貴方の中にある積み上げによって生じるものです、
決して誰かが与えてくれるのではない。 >>594
意味を求め結果を得る、と言うことは、自分の通ってきた意識の全てが正しいと思うことではないでしょうか。
ところが、人間は間違うことに気づかなければならない。なぜ間違うかと言うと、全てのものに無批判で
ある場合があるからです。僕の場合は、焦燥感と無自覚などにより、全てに意味を与えようとしました。
それは、認めてもらえる人がいなかったからです。というわけで、認めたり認められたりというのは、
健全な付き合い方です。何がいいたいかというと、様々な考えに洗われ、今思ったこと、本などから
得たことが、重要であるかそうでないかという精査を行わなければならないでしょう。さもないと、
ガラクタを宝物にすることになる。
続けること、感じたこと、これは、意味のために捻じ曲げてはいけないことですね。どんな気持ちも、他人に
提示するなら、気持ち、感じたままを、ぶつけなければ、感情を殺すことになってしまいます。
これは、意味を正しくしようと思う行為で、気持ちという、ある意味正しく、重要なものを、なくしてしまうことになるということです。
だから、思った通りのことを、出来る場面であれば、行っていかないといけない。その先に、何らかの成果が見える。
道を進むなら、道を持たねばならない。そのためには、重要なことと重要でないことを、立ち止まって分けなければならない。
この命題は何かいい。この命題はくだらない。こういった、勘を付けることが、また、その考えの価値をよく考えることが、
積み重なって、熟達できるようになる。考え上戸は、様々な表現を楽しみ、何かを感じることができる。
組み立てようとすれば、まず分かっていないといけない。わかるためには、自分の判断で、重要な考えを、見抜き、
覚えておかなければならない。記憶によって、考えられるわけです。その記憶とは、短期記憶、長期記憶などがあり、
それぞれ重要です。赤子の聡明さは、感じることの敏感の聡明さだ。
というわけで、僕が重要だと感じた考えを、述べてきました。これは、繰り返しによって分かったことでしょう。
重要な考え、すなわち、本質に迫った考えを、いくつもしていきたいものです。 >意味を求め結果を得る、と言うことは、自分の通ってきた意識の全てが正しいと思うことではないでしょうか。
正しさを得るのではない、正しさに得られるのである、正しさから選ばれ祝福されること、自分が意味をなし
正しいと思うなど愚かだということ。
>人間は間違うことに気づかなければならない。なぜ間違うかと言うと、
正しさを知るのではない、正しくを行うのではない、間違えを繰り返しそこに正しさを浮かび上がらせるのである。
正しくあるのならば、正しいことだけを学ぶのではなく、圧倒的な無数の間違いを学びたまえ、そこに正しさが
浮かび上がる。
>わかるためには、自分の判断で、重要な考えを、見抜き、覚えておかなければならない。記憶によって、考えられるわけです。
判るのではない、自分が判断するのでもない、何が重要かを考えるのでもない、
全ての行いの積み重ねから 自分ではなく世界から答えを与えられるのである、重要など自分で判断するのではなく、世界が判断するのである。
目に見える世界ではなく、目に見えない世界が成すべき、考えるべきを巧妙に隠してもっている、直接みようとしても得られるものではない
世界を感じることで、世界が眼に浮かび上がらせてくれるのである。決して自分が考えるのではない。
覚えることも記憶も考えることも世界が行うことであって、それを受け取るのが自分である。
あなたは未だに自分で理解しようとしている。世界が理解する、世界がという働きを感じるとき自分の正しさではなく世界の正しさ、世界の間違いを
感じ取れる。自分で理解しようとするかぎり自己都合の意味は捨てられない。
人であるかぎり、「自分が」という働きに流されてしまう、それでは世界がという働きは掴めない。掴むのは世界であり自分ではないからだ。 後頭葉で、眼球を見る。また、脳の各部に、イメージを書き込んでいく。自由とは、自分で書けること。自分で読めることは、
その前段階。 内だけではなく外にも書き込んでゆくんだよ、記憶は裏打ちされることでより強くなる。
1つのそれを多数のそれに結び付けてこそ可能性もあがりより力が増す
繰り返すことは同じことだけど、それは常に対称をもって成されないと、
単なる機械運動になってしまう。 人や世界を、こうだと決めつけたがる人がいる。「お前はこうだ」「こういう人間だよね」その快感は、ほぼマウンティングと
呼ばれるものだろう。自分は自由にやるが、人のことは拘束して、懲役と同じ状態を作り出す。
そうして、人に勝とうとする。勝負はよくあることなので、それで自分が悪人であるなどと非難されることもない。
利用できるものは、目をつけて利用するのである。
だから、人をこうだと決めつけるのは、良くないことなのだ。人は人であり、こうあるために生きるのでなく、その相手の、
優越感(人間の、頂点捕食者となることの優越感のようなもの)を満たすために存在などしていない。
したがって、悪い競争は、雰囲気を悪くする。フェアマンシップのない関係。だがそれは蔓延している。
したがって、優越的に自分を固定してくる人間は、馬鹿だと思えばよい。苦手であれ、固定してくる人間は馬鹿である。
思い返せば、どんな人にも尊敬するべきところはある。愚かな人間もいて、それは仕方がない。
自分で自分を固定化しているとすれば、そのときは他人の支配が関係している場合が多い。記憶はなかなかなくならない。
固定されていない人間は、他人に頼ったり、他人を攻撃したりしない。自由を得ることを、考えるのである。
自分は自分にとって最も近しいものであり、自分は最も大切にしないといけないものだ。
こうであると決められる理由は、はなはだない。決めること、決められることに、何のメリットもない。
自分を知るということは、枠にはめることとは全く違う。
人をこうだと決めつけることは、全く失礼極まることである。
世界についても、世界はこんなところだ、と決めつけてしまってはならない。自分次第で変わるのが世界であり、
人間のために世界があるわけではないのだ。
人によらずとも、生きていくうちに、自分はこうだと、思えてくるものではある。だが、それが悟りとは遠いことなのである。
自分がこうあるために生きる、自分を実現するために生きる、または、人のために生きる。
それらはみな、まやかしである。大人物は世間的に褒められるべきである。だが、仏教的には、また
違った意味があるはずだ。そこを間違えてしまうのはいけないだろう。 人とかかわるときは、自由を根本に据えるべきだ。ある人への偏見が大きい場合、それは差別ではないだろうか。
物事を決めることで、生きていくということは、普通にあるが、共有できる価値観は、あるにせよ、そうではない方が
大事なのである。自分を理解することで、世界を理解することで、大切なのは、因果応報という原理のみである。
心理も自然も、それ以外の法則は必要がないと思われる。
決めつけを脱することを心がければ、楽になる。いちいち、枠を気にせずに話すこと、それは幼児のように自由なものである。
立つところによっても決まらず、力や知能によっても決まらない。
ただ雑多のものが、位置を決まらずごちゃごちゃとあるというところまで、立ち返るのが、決めないということである。
必要な時に必要なことを規定して行為する、ただそれだけの、最小限にとどまること、それが、業を小さくすることだ。
実際的業(食事など)に加え、精神的業もあり、その業とは、つまり他人に悪い影響を与えて、世間を悪く
するということだ。
人と世界の決めつけを、しなくて生きていくことは、恨みを解体し、精神の苦しみを小さくし、自分と世界とのかかわりを、負けるような
方向へもっていかないことである。そのようにして、自己は自己を救う。決めつけのために思考を使う必要がないので、
色々なより生産的なことを、考えられるようになる。妄念も消える。 >>596
そうですね、自分も世界の一部ですから、主観と客観を分けるのも、正しいとは言えない。ただ、量としてはどうしても
主観が強くなる。その中で、正しいものを得るためには、チリのような自分を、世界に祝福されるのが良い。
世界とは、私の力の及ばない、しっかりとしたもの。それを知ることなど、不可能である。ゆえに、世界に
見てもらう。 本を読んだりするとき、頭に思い浮かべたイメージは、正しくなくとも本当である。それを忘れたり、消したりする必要はない。
自分自身をだんだん正しい方へもっていけばいい。自分の人生も、否定することはないように、イメージは、自分の権利であり、
間違えても、人を傷つけない。自分で傷つくことはあっても、それですべてを投げ出さなくてもよい。幻覚などを、
否定することは、間違いを否定することである。だが何が間違いか?自分で決めているだけだ。間違いと思っても捨ててはならない、
それは正しさへの曲がりくねった道だ。 今だけを生きているわけではない。過去と未来において、ある程度の幅を持ちながら、生きているのである。
それをなくすと、うまく生きられないし、幅を増やせば、より、現実と良くかかわることができるようになる。 自分で考えることには、どんなに突飛であるように思えても、考えには理由があり連鎖する。
全ての目の前の事物に対して、それを一つの景色としてまとめえる前に、個別のものを、
関係づけている。イメージにしてもそうだ、自分が頭の中で考える良い方法は、イメージに、
つながりを持たせることだ。また、つながりは全くないように思えても、きちんとつながりを見ることができるのだ。
自分がどんなつながりの中、生きているのを気づくのは、真実を知ることであろう。 一行、一フレーズ、単語の連結にさえ、つながりは意識してとらえることができる。
知るとは、つながりを使えば、自分の知りえることの全てを知ることができる。
悲しみにはそれに至るまでの人生があり、奇抜な部屋ということを考えれば、
部屋の様子にさえつながりが存在することがわかるだろう。
そのようにして、世界は出来上がっているし、人間はそれを理解できる。
考えることがうまくできないとしても、つながりに気を付ければ、わからないことはない。
自分を分かることができるのは、人間の力であり、つながりは力を使うための方法である。 どうしても、筋肉の緊張が取れない時、それが、病態と言えるほど苦しくなってきたら、左右の上瞼同士を、近づけると、
顔や体の不快感はとれる。 筋肉、特に顔周りの緊張をとるには、手を当てて力を加え、その当てた部分は、力を込めやすくなるので、ストレッチの必要
な個所を、しっかり補助して、そのままでは難しい力の加え方が可能になる。これは、究極のストレッチである。 自分では、特に頬っぺたのあたりに力を込めることができなくなっていたので、手を当てて力を込めれば、ほぼ病状も
消えた感じである。 支離滅裂な思考に支配されているなら、それは病気だ。子供が自然と遊びのルールを覚え、ともに遊ぶことができるようになるように、
考えには一定の一貫性が出来てくるものではないか。支離滅裂とは、精神病であり、思想の統一を持っていない。
知識不足で、安易な論を立てる、センスが不足している場合もあるが、それも精神に関係があるだろう。
精神に触れるためには、手を当てて、おかしくなっている筋肉がないかと、確かめるのが、一つ方法として、
考えられる。考えるのは、被試験者であり、言葉でその前後の状態を、教えてもらえばいい。
つまり、自分でできるという、非常に強力なコミュニケーションである。
つまり、自らの分裂同士がコミュニケーションを行うのだ。
そして統合へ向かう。
それは人間に戻ることだ。
支離滅裂な思考は、書き記すことでだましだましまとまりを付けることもできるが、文章を作るのではなく、
健全でまとまった精神を作ることこそ、緊急の課題である。
どんな人であれ、支離滅裂に気を付けなければならない。
逆に、自己に閉じこもる独我論というものもある。独我論は論破しにくいが、支離滅裂な人間には、我さえない。
他人に何を望むか、それは、自分の限界を破ってもらうことであり、悪意を持って、人を独我的状態に押し込め、気を狂わせようとする
輩もいる。独我論とは、自分以外は痛くないから、何をやっても自分に被害が及ばなければ悪いことのやり得というタイプもある。
つまり、独我論によって、他者攻撃は、平気になされる。悪の周りには、独我論がある。
それはさておいて、各自のセラピーが、行われるなら、その考えに耳を傾けよう。
そこに嘘や誤魔化しや驕慢がないならば、その誠実さで、他者を認めるという、育ててきた心が、伝わるということである。
誰も、どんな大人物も、他者の前で審判を行われる。もはやゆるぎない自己を確立していれば、それは何ほどでもないが、
独我論の周りで罪や犯罪が横行するのであり、独我論を破ることは、共に生きる世界をキーにするか、その人の見ていない
ところで、その人のことを考えた、ということを伝えることで、その人が存在していると思っている証拠になり、通じ合える。 当たり前の話過ぎて恐縮だが、精神病の状態は、言葉を考えつかない状態だ。つまり、自分では何の言葉も思い浮かばない。
ところが、自分の脳内で言葉を作れるようになると、これはコミュニケーションが可能になった状態だ。
自分自身を分かっている状態だ。
沢山の言葉が、思いつくこと、これが自然な状態である。
各人の、不満なども、頭の中で、言葉を考えることにより、発散される。
自分が迷っていると、不安になり、おかしなことをしたりもするだろう。
言葉を思いつけ。言葉を操れ。そんなことができないというのか。
私は、以前までは実にそうであった。
現実との接点は、そこにある。
言葉を思いつかないのに、感謝を述べたりはできるはずはない。
だからきっと、自分の中で言葉を思いつければ、その人なりの能力が発揮されるだろう。
本当に考えているということは、あふれる言葉のなかで、それを理路に従い、形にするという過程の中にあることである。
言葉を使える(言葉は誰のものでもないが)ということは、喜びの源泉である。
捨てられても、言葉は誰のものでもなく、ただあるのみだ。
しっかりと言葉を選べると、しっかりとした人になれる。
適切な言葉も、創造的な言葉も、全ては、選びうる。頭が言葉にあふれる状態にあること、ここから退化してはならない。
よく言われる言語ゲームなどは、沢山の言葉を選びつつふるまえるというところに、面白さがあるだろう。
そういう風に言葉の意味は無限であり、生きていくことの喜びの一つであり、主体的な自分の、
作り上げるものである。よく考えて、先々まで意味を作っていく。自己の外に出ること。またそのためにみずからを涵養する。 吐く息にやすらぎを得て、吸う息に苦を感じる
というのはどうだろうか
つまり一瞬で吸って、長い間かけて吐けば、苦が一瞬であり、やすらぎは長い間感じられるという理屈
いずれにせよ、呼気と吸気の境目には何かがある 首の後ろの気管をしっかり通して、使うのがよさそうである。 何でも手を当てて回復しようとするが、
肺の機能に不安があったら、両手を肺に
当てると、呼吸はうまく行くようになる。また、それのみではなく、
喉や首の後ろに手を当てて呼吸をするのもいいようだ。 また、よく脳を働かせようとするなら、頭に手を当てて
考えるのが良いようだ。 脳を働かせる事に限界を感じたとき、
どうすればいいか、その方法は覚えておいてほしい
すべてのそれに限界はある、個人ごとに限界は決まっている、
脳で理解するのではなく、感じて慣れろということだ。
脳は便利な道具で、あきらめたとき脳はあきらめず逆算して最適解を与えてくれる
それは直感やら第六巻の類だ、最初に得たそれを信じろ、感じたものを書きとめろ
疑わしくてもそれはその時点のもっとも正しい答えだ
たとえ何も得られなくても、理解できない何かが踏み台として形勢される、小さな踏み台ではない、
積み重ねた集大成は次のステップへ昇るには絶対に必要なもの、昇る段階がより複雑なものならば、なんどもそれをしなければたどり着けない。 現実の中に、自分はいる。脳内でイメージを白昼夢のように考えるとき、その想像の中に、自分を、あるいは自分の分身を
登場させると、妄想を膨らませられる。つまり、自分と自分の分身とは、相当に強く結ばれた、切っても切れない縁があるのである。
自分がいれば、現実とも夢(想像)とも、関わっていられる。したがって、自己の考えるものの中でも、自分のバリエーションを
持っている、ということは、自分の「居る」世界を、多く持っている、ということである。 小人を想像することは、自己の身体に縛られない、豊かな想像力の働かせ方だ。小人が考えると、その考えはもちろん自分自身も
知ることができる。蟻の世界に共感するなら、蟻と同じサイズの小人を、一緒においてみれば良い。現実世界において
分身(小人)を想像することで、主観と客観の両方を、その場において、得ることになる。
そして、想像世界の中にも、主人公として、自分の代わりに分身を、登場させ、自己が関わることもできる。 読書などをしたり、するより、思索の方が楽しいのは、文字という表面的なものに関わるのではなく、抽象的に
現れるイデアを感じるからであろう。それは、文字のように無味乾燥ではなく、自分にとって、柔らかいもの、
心地いいものとして受け取れる。そのとき、読書は、優しい意味として受け取れるのだ。言葉が、麗しい。
そうおもえるのは、意味があるからだ。全体においても、一文字ずつ覚えているのではなく、一つの意見として、
全体的にとらえられる。つまり、本に愛を感じるのである。その愛は、様々な形態を持っているであろう。
であるが、全てのものに対する愛を、言葉に対しても持っているということは良いことであるだろう。 字面のようなものが温かく優しいと思えるのであれば、そこには文字愛がある。言葉の一つ一つに、優しいイメージ、驚き、
気分の良さが感じられるなら。ただの情報のやり取りではない、愛が、自らの望んだものに、感じられるだろう。
形而上の、イメージを、作ることに、何の不快感もない。そこにこそ、イデアが上位にある理由の一つも、あるであろう。
困ったものに対処するとき、しっかりとやること、愛を持つこと、それらは必要である。愛を捨てにかかる理由はない。
世界を受け入れられる人間は、世界から愛されている。自らを愛する人間は、自己、すなわちおそらくは神から、
愛されている。その見返りは、きちんとある。よい家庭を築くのが、その素晴らしい例だ。
早くたくさん読めばいいというものでもない。読めないなら、病気を疑い、先延ばしにすればいい。
動画で聞いて勉強することもできる。全てのものを愛することを、キリストは望んだのではないか。
釈迦は、時間の流れを愛せよと言ったのではないかと推測する。自分を越えているものが沢山あるけれども、
それらを所持するのではなく、自らを超える宝は、ないのだと教えたのではないか。
どんな人も顔を持ち、それを活かすことができる。つまり、その人は生きた、ということは、写真で確認したり、
思い出を受け継いで行ったりできることで、確かにあったと知れる。その上で、人というものが、亡くなる、
ということが、どのようなことなのかということを、巨視的に見て、自分の顔と体を持ちながら、愚かに生きないように、
大事に日々を過ごすように、そんなことを考えたのではないだろうか。
愛する、良く生きる、逆転は起こらない。その平凡性の中に、悟りがあるはずだ。
まず他者を、そして自分を、ひいては物、言葉を、愛すること、これらのことが、一緒になって、ぐちゃぐちゃになって
回っている。細かいことに、煩わせられるのではなく、本当の愛を、実現していくこと、それらを軽く見ないのは、
人類が滅びないようにするために、当たり前に必要とされることなのだ。 >読書などをしたり、するより、思索の方が楽しいのは、文字という表面的なものに
>関わるのではなく、抽象的に現れるイデアを感じるからであろう。
抽象的でなければ過去にないものではない高次、高尚な概念は現れない。
具体的であれば過去の何かの一致か不一致しか現れない問題もあるね。
過去から未来へ向かう無限に見える連鎖では決して過去の繰り返しではなく
過去の一部は未来へは薄まり届いていない、なぜなら宇宙が完全であっても
届く範囲は有限であるから。
物事が失われずに影響しあう為には、届かない先からも影響をうけないと
過去の情報は失われる。 私は悟りを得た。以下にその内容を言葉で記しておく
空想や、憤懣、嫌な気持ち、怒りなど、過去についての思考がある。その全ては、外界のものであって、内界のものではない。
つまり、色々と考えてしまうとき、それがいかにも逃れがたいように思える。だが、それは間違っている。
つまり、考えと言うのを、「世界と自分の関係」というような表題にまとめてみると、世界は外部の全てであり、
それとの関係を考えざるを得ない自分の思考も外部のものである。だから、全て自分の思考は、外界のもの
なのである。内部には、今現在、脳の働きを使って、外部にあるものを、受け入れているという点で、
脳の中の重要な部分、おそらく魂と呼べるようなものが、唯一の内部である。
だから、考えと言うのはそれほどに大したものではなく、私は外界からの侵入攻撃に、常にさらされているのである。
そして、日頃考えること、妄想のように浮かんでくるものは、すべて外部のものに他ならない。
つまり、自分が責任を持つべきことではない。この世にあることはすべて、小さな自分が苦しみながら、
何とか人とつながって幸福を持とうという、苦闘の痕であり、それらがすべての人間の考えることなのだとすると、
人類は、外部との争いを、内部に常に抱えている。したがって、どんな罪を犯した悪人も、その動機は、
外部との齟齬の関係から生まれるのだ。したがって、自分の罪は、外部に負うところが多く、それを思った時点で、
すでにそれを経験化しており、その経験から、人類一般としての自分というものに目覚めるのである。
周りに存在するすべてが外部であり、外界を自分だと勘違いしてしまってはならない。外界は外界であり、
自分自身というものがそれであると、勘違いしてはならない。全ての苦しみは、内部が負っている。
そこに、人間の尊さがある。外界との関係を、いつも思い浮かべてしまうならば、それは、内部ではない
ということを、忘れているために起こる、罪悪の気持ちであろう。外界を構成しなおして、自分の責任で、
担うべき思考を担おうとするならば、その時にこそ、自らが自由になり、目覚めることになるのである。
全ての欲が、外部との結びつきによって保険を掛けようとするようなものなのであれば、それは、捨て去るべき
外界との記憶をまやかしの中で遊ばせているのだ。 (つづき)
全ての見えるもの、感じるもの、聞くものは、すべて外部のものである。それに注意を払いながら、生活するべきなのである。
自分が外部のものを知っているといったからと言って、それはただ外部のものであり、私自身のものではない。
だから、考えたことが、外部的なものであるということを、気を付けなければならない。
つまり、地球は私を中心に回ってはいない。知識の量によって人を測るのは、優劣ということであってはならない。
ただ自分を生きる、そこで、素質とか素養とか言ったものは、二次的なものであり、一次的には、まやかしを信じない
生き方をしている、ということこそ、最も大事な生き方になると思われるのである。まやかしを自覚して考えるとき、
その考えは客観的にとらえなおされているのであるし、執着する必要も、全く見いだされないのだ。
ただ生きて、仏様を拝むことができるならば、共に、まやかしに惑わされたりしていない、と気づいたことを、
している、と、お伝えすることもできるであろう。
私の考える悟りとブッダ像を、こんな風にして描いた。 このことを実行するためには、それである悪い考えを変えようとしてはいけない。ただ、納得してやめるのだ。
するとそれは消えるのである。 魂(脳の中の重要な部分?)があると考えてるのであれば悟りの最初の段階(預流)にも到達できていないと思われ >>625
人生があまりに苦行すぎ苦悩したが故にアドレナリンが放出された一時の閃き、悟りの境地に達した高揚感が描く観念なんだろう 百面相と言うのは、誰でも知っている行為であろう。それを、体の各部で行うとよい。首、腹、胸、足、手、目、耳などで、百面相を
行うのである。
さらに、脳で百面相をすることもできる。左右、前後を入れ替えたり、できる。
そして、時間について百面相をすることもできる。過去、現在、未来について。
時間については特殊であり、例えば未来の白い壁に過去を投げ入れ、そこで百面相して、一つの場とできる。
また、考えについて百面相することもできる。思ったことを、自由に交流させるのである。
また、イメージを百面相することもできる。頭の中で、様々な沢山のイメージを思い浮かべ、混ぜ合わせる。
また、言葉について百面相することもできる。あらゆる自由な言葉を、頭の中で吹きすさばせる。
これらのストレッチは、こわばってしまっている個所を自由にするのに役立つはずだ。 つまり、幸福や快適な感覚が、どこかへ行ってしまっている(見失ってどこを見てもない)。それを呼び戻すのには、まずは、
苦痛を追い払い、納得する必要があるのではないか(鬼は外福は内)。人が考えをやめるのは、何かについて納得した時だ。
つまり、苦痛の代わりに快適が戻れば、僕は苦を感じるということさえ納得する。要するに、苦のみであるという
状態に対して、耐える以外の解決法を探している。
快適はどこからやってくるのか。苦しみが、恥や憎しみなどから生まれ、苦痛から生まれる。
苦を百面相してみれば何かが変わるだろうか。混ぜてみることで、何らかの考え方のみによって、
どこかにある快適がやってくるだろうか。後悔はしたくない。だが、じっくりと取り組もう。
もうこれ以上の世界は、描きようがないのだ。これらの方法を試す。何らかの救いが生まれてほしい。
身体と、感覚と、考えと、その外にあるもの。こう分けたとき、それらすべてが苦であるなら、いったい
生きるということは何なんだ。
文章を百面相してみよう。文章を、隅から隅まできちんととらえてみよう。そのとき、言語神がいい加減にはしていない
僕というものの捧げものと実行を善いと認めるかもしれない。つまり、小さかろうが、全てをおりなす場合に、
記憶神は、私をどうにかしてくれるだろう。そうしていい加減さも消え去るだろう。そう信じる。何のために、
考えてきたかが、そこにあるように思える。 諸行無常と言われるが、時間を止めることはできる。それは、一瞬を得るということである。
一切皆苦なら、出家することの意味を与えられるであろう。つまり、仏道修行で、人生の可能性を捨てたと
思われるかもしれない。だが、苦が原理ならば、修行が全てに行きつく行為である。出家とは、
考えることを捨てるものではないだろう。この世の苦が諸行無常ゆえに生じている。
そして、時間を止めるのは、死である。人間は、諸行無常に身を任せつつも、最後にその外に飛び出る。
死をこわがる執着は、苦を恐れて発生する。赤子のような安らぎは、他に身を任せる所にある。
人も支え支えられ、最後に仏に身を任せ、つまり他と自に身を任せ、死んでいく。
このような尊さが外にあるだろうか。
無秩序が恐ろしいとしたなら、百面相をものにする思考によって、それを回避することができるだろう。 多飲症の解決とは?
喉のあたりにコリがあるのをとらねばならない。
そのためには、うつむきながら水を飲む、などの方法がある。
首と言うのは、非常に大切で難しいことを行う器官だ。
ほかにも、首を前後左右に曲げたり、横向いてひねったり、その状態で息をする、水を飲むなどができる。 物事は、深い意味を秘めているのである。漫然と認知して満足するより、何の理論もない徒手空拳によって、
ただそこにあるものの向こうを想像できる。つまり、意味というものが、前世の感覚の向こうを想像すれば、
どのような組み合わせも、どのような形も、バランスも、モノというものから離れ、奥へと進める。
本などの言葉もそうだ。世界や心を描き出し、その作家の言いたいことを、奥へ奥へとどれだけ深くもとることができる。
必要なのは、深くものを見ようとする心がけだけだ。 病気のせいで、目の前にあるものさえわからない、だから何の論も立てられず、気持ちの悪い苦痛ばかりが襲う。
そんなとき、助けになるのが、脳の奥を知ろうとすることだ。外がダメなら中がある。意思次第で、何らかの神秘に
到達できる。外や中が、同じ探索の眼で見られること、一度思い立てば、決してそれから離れてはならない。
自分が深くを知ろうとする、苦痛はやわらぎ、人生は意味を持つ。ストーリーではない。真理をえよ。 >>633
月を指さすっていうのが、意味深いようで、面白いと思いました。遠くにあるものを「感じる」ということですね。
アルファベットのほうは、わかりませんでしたが……(今度教えてください)。ありがとうございました。 耳を引っ張るのには確かに効果がある。同時に、頭皮に力を入れて、動かせば、コっていたところが治る。 いい結果の原因が自分にあるなら、悪い結果の原因も自分にある。
いい結果の原因が自分にないなら、悪い結果の原因も自分にない。
いい結果の原因が皆にあるなら、悪い結果の原因も皆にある。
いい結果の原因が皆にないなら、悪い結果の原因も皆にない。 身体でリズムをとれば、生きていることを感じられる。せっかくあるのに動かさないのはもったいない体。
困ったときは、苦しいときは、絶望にとらわれたら、音楽にのせて体を動かせば、少しはましになるはずだ。
身体のリズムは考えではない。リズムに乗って、生きるんだ。神歌でも、レゲエでも、何でもいいさ。
知能の優劣は、身体を優位に立てることによって、乗り越えられる。そして、楽しい感情は、掴めたら、
だんだんと自分のものになってくる。身体を動かせ……。 人間には短期記憶と長期記憶がある、さらに意識として記憶する以外の記憶
つまり慣れによる無意識としての第3の記憶もある。
何も記憶しなくても自転車の運転や水泳の泳ぎは体で覚えている、反射の域に近い
それは条件を考えるなどは判断できなくてもパターンとして体感の記憶に宿る 「「自殺者」は、個体化は罪であるという感情に襲われた人間なのである。人生の目的は、自己の完成や表現ではなく、自己の解体、
母への復帰、神への復帰、全体への復帰だと思っているような人間である。」(ヘルマン・ヘッセ『野生のおおかみ)』)
自己を解体して、何が出てくるのだろう。おそらくは、人間の力の解明を目指すといったところか。そして、生きていることの
偶有性を、ほかの何にも帰せない気持ちの悪さが、倫理性の基礎をなす場合にとる態度であろうか。人生を、満たすのは、
全体への帰属という、平等さによるものであると。力なきものの最後の力だ。もし、全体が力を合わせるなら、最強である
のは間違いない。そこに、自然からの乖離という不自然さが出てくるだろう。罪の自覚が、全体への復帰を原因づける。
では、視点を変えれば、二種に分かれる原因とは何だろうか。少し考えると、競争で周りをきょろきょろ見渡すような
人間が、自殺者である。全体への復帰を、死の供物によって果たし、自らのエゴが全くないと、見せるのである。
そういう人は、他人をどう見ているか。それは、罪深いものであり、幸せを曇らせようとするようなことを考えているだろう。
死にまつわること、つまり、勝負をないことにすることだ。だが、それは果たして可能なのか?
謎の解明などは、禁止されるべきであり、開けてはならない箱がある、と思うこと。
だが人間は、克己を禁じれば、堕落していく。堕落を擁護する、母、神、全体。死の直前と直後に、信じるのは、何である
べきかということ。生の中に生きるという観点の欠落。今生きているという、否定できない事実。
劣っているところを受け入れず、頭だけで考えることが、母に向かう。急ぎすぎた自己の完成は、大きな傷を抱え込み、
気付かない。 つまり、自分が特別な意味を見出そうとして失敗するとき、大きな喪失感になる。それが積み重なっていく。
その最後を死に託す。受け身の攻撃、価値への攻撃である。人を巻き込めばどうなるかは自明だ。
それを避けること、なくすこと、そう行った方へ、大づかみで向かうにはどうすればいいのか。
コミュニケーションの欠如を、満たすことであろう。それは会話でもいいし、スポーツのような
競争でもいいだろう。
死の克服ということを、自己の完成、表現によって、可能にできるだろうか。
苦労が、自らの活力を、引き出させるような方向へ向かうべきである。
もし個体化がなければ、統率もない。個を統率するのだから。
そして、統率の向かうべき先を、失ってしまった現代である。
いや、もともと、統率などはまっぴらごめんだったのだ。それがいかに効率的であろうとも、
結局は方向定まらぬ力の暴走が、反省なく繰り返される。
何が先で何が後か。この式を解くことは、根本的に重要である。なぜなら、ともに生きるために、
それが分かっていれば、失敗は取り返されるし、自分のするべきことを見出すのも
より簡単になるからだ。時間を操り、健全に過ごす。これが生には、欠かせないし、
憎しみの先後を理解することになるのだ。
最も大きな恐れ、恥とは、先後を間違えてしまうことである。 昔は、マクドナルドで、スマイルは0円だと、掲示してあった。だがそれはつまり、スマイルは価値があるものであると、
店が宣伝しているのである。売笑婦という言い方もされる。
つまり、人の心を読むには、取引がまず先行する。あなたの心を読んでいいかしら。
それを許すことも許されないこともある。スマイルには価値があるのだ。
そして、さらに話をややこしくすることに、心の奥の方まで、探っていくと、自分とは関係のない
プライベートなところにまで、触れてしまうこともある。エチケット違反だ。
ただでいくらでも読んでいいのが、服装だ。飾ったものは、見られるためにある。
裸は見せないということでもある。
ファッションでは、危険さ≒カッコよさ≒力であり、権利を主張するなら、それなりの努力と財力は必要である。
他人の表情から心を読もうとすれば、表情の限界に突き当たる。そして、そんなに見ていても、口で要求をしなければ
わからないよということになる。表情は、ウサギとアヒルの反転図形のように、万能ではなく、時に間違える。
そして、心と表情が完全に一致している人間などいない。
だから、より確かな言葉を使って、心を表すのであり、それがまぎれのない方法である。
自分の表情に自信が持てない場合、不自由を感じている場合、閉じこもるか、練習するか、治すかしかない。
自分の言葉に自信がない場合、心と表情と言葉を、うまく組み合わせる訓練をしなければならない。
どんなに強力な推論力を持っている人であっても、他者の中に何か素晴らしいものが、あり、それを得ることを、
願いのようにしてはならない。
言葉と表情をもって、立ち向かう。ない腹を探っても仕方がない。自らの謎は、病ゆえにそう見えるのだという
可能性がある。
不用意に、他人の心を読もうとしてはいけないのである。そして、心を読んだところで、大したものがあるわけではない。
安心が欲しいなら、まず自分の心が読める状態(=自分の気持ちがまとまっていて落ち着いている状態)にあるかどうか、
用意を整えなければならない。 時間と言うのは、一つの推論の結果の連続である。因果といえば、わかりやすい。あることが起こった、またもう一つのことが
起こった、時間的推論に従えば、S→Rという記号であらわされるような推論が、正しいとなる。つまり、時間的推論とは、
時間の順には逆らえないということから承認する推論だ。それを認めないと、何一つとして確かなものがなくなってしまう。
S→Rという出来事の発生でさえ、推論(あるいは理解)するには、時間順を認めねばならず、無条件にその記号を理解することなど
できないのである。
少し発展させると、頭の中にいくつの推論法を身につけているかによって、予測に差が出る。指向性によってあるものを
思考することができるが、その次には、時間順の推論と違った推論が不可能なのである。
それがなぜかと考えると、時間はいついかなる時も流れており、物事は実際に変わっていっている、という
観察していないところでの変化を、認める必要があるからだ。
血の流れ、意識の流れ、思考の流れ、それらを感じていることが、生きている、ということである。
過去にさかのぼって考えをすることが、未来においてこうなるだろうということ、または、現在において、これはこうであろう、
という推論を実行すること、に比べ、不毛になりやすいのは、主体として可塑性を実現することが、過去においてはできないし、
現在、未来においてはできる、ということによると考えられる。 人々が死ぬ前に大切なものについて救われることがありますように。
父よ、母よ、兄よ、弟よ、友人よ。我々が何もなく死んでいくのは、
あまりに悲しいのだ。すべきことをきちんと済ませたか?
子どものころから抱いてきたものを、果たすべき手段を手に入れられたなら、
遅くなる前にそれをやっていくのだ。もし大事な思いが果たせるなら、
その人の救いは現実である。人はいなくなっても、思いは残る。
人生の遺産は、人に認められて、後に残る。
一陣の風を見逃すな。果たされなかった愛と手に入れた愛が、
全てを祝福する。人の思いは強い。それは、全ての悪徳を、
打ち砕くほどだ。悪は必ずひるがえる。環境さえ整えば、
受けた愛をそのまま返したいと思うのだ。どこかへ渡したいと。
この世の全てが、そのような場所であり、人間というものは、
そのような存在だ。 >>642
時間を否定するには時間が因果という時間の矢が一方にしか向かない
逆を成立させないかぎり無理なんだよね、因果逆転よ、
結果があって原因がある、つまりエントロピー増大法則の否定よ、
移動という概念は時間が進むからこそ移動するわけで、移動が逆転する
すなわち移動しなかったことにする、関係が無かったことにする、観測が無かったことにする
それがそれこそ時間の否定の原理になりえる。
もしそれが可能とすれば、論理すら時間が進むという原理に支配されている故に、
論理(ロジカル)の否定から始まる必要がある、すなわち言葉ではそれを実現するなら
デタラメ、嘘、幻、夢、意味不明といった類でなければ不可能なのは明白である。 >>644
素晴らしいですね。ずっと支持します。その考え方、存在。 人間は矛盾の方向へ行くものである。例えば、心臓にとって良いことと、肺にとって良いことは違う。従って、腕の中に矛盾を抱えていたり、
やることに一貫性がないのは、不思議なことではない。自分で自分を見るとき、振り返るとき、行動するとき、自分が一貫していない、
としても、気に病んだり修正する必要はない。それが、ありのままの自分である。たくさんの種類の観念が、一つの行動に対して、
存在するのは普通のことである。例えば、自動販売機にジュースを買いに行こうと思ったとき、喉が渇いた、というのと、そこまで
行くのがめんどくさい、というのと、お金がかかる、というので、どうするかに、統一性はない。
このように、自分の体も心も一体ではなくとも、それで悪いわけではない。自分については、厳しくするにはもっと別のことに
力を使い、バラバラな人や自分を見るべきなのである。 頭の中に不快な気持ちを覚えるときいくつかの考えがぶつかっていることが多い。それを、自覚することによって、解消できる。
だいたい、三つくらいの考えが争っていると考えると良いだろう。
極端なことを言えば、死の恐ろしさとは、苦痛、苦しみを受け続ける、それがなくなってほしい、だが、苦痛がなくなった時、
死に至ったということであり、終わりである。苦痛と終が矛盾している。それゆえ、克服することが難しい。
終わることと、生きること、この二つは、全く反対の概念、感覚である。生きることが好きな人間は、終わりたくない。
生きることが苦痛な人間は終わりたい。だから、生きることが何であるかという答えを出してしまえば、生きることに
執着することもなくなる。
生きることとは、細胞の働いていること、意識があること、この二つであるが、人生の目的は、ある程度の長さ存在して、
納得して終わることであろう。この、納得のためには、いつまでも生き続けたいと考えていてはだめだろう。
生のコントロールが自分でできるということが素晴らしい、そのほか、生命として存在出来たことが素晴らしい、
生については、そのようなことを考えつつ、有限を納得できるだろうと考える。ずっと生きられたらいいのに、と願うことは、
生への意志である。だが自己のみによって、人生は完結しない。あとに残すことができる。人の中に託すことができる。
そのように、人類の連綿と続く受け継ぎによって、自分の有限さを納得できるように思う。
問題は、自由なのだ。未来へ絶望しないため、自らの内の不自由な矛盾した考えを、自覚して克服できれば、自由な考えは、
十倍にもなって達成できる。生と死が矛盾するのではなく、生と終わりで納得するのだ。苦痛は永続しないし、
終わりは完全に消え去ることではない。生の喜び、成功の喜びを、いつも、何度も感じられるなら、その時初めて、
その人は真の生に目覚めたということだ。それで、幸福を達成した人間は終わることも怖くない。 死を想う言語上の分裂より、態度未決定で、天運を待ち、死に執着なしの方が。 頭にくることを消すためには、物事の類似点を観ないことだ。これとこれは似ている、この人とこの人は似ている、この概念と
この概念は似通っている、この外形とこの外形は似ている。つまり、似ている点を見つけたとき、頭にくること、気持ちの悪いこと、
不安などが、再び呼び起こされる。すると、全てが何かしら似通っているともいえるわけで、全てが不快になる。
いっぽう、違いを見つけるほど生産的で、脳にいいこともない。これとこれはここが違う、そういう態度で暮らしていれば、
物事を見分けられるという点で、知に本質的であるし、やって意味がある。それぞれ人は、自分だけのものを探しており、
それは、自分が違う点が多い存在であるということを、持っていれば、特別な大切な存在である、ということを、感じられる
ようになる。この、分けるということには、何の負も存在しなくて、やればやるほど気分が良くなり、頭がよくなる。
セオリー、仕組み、法則などは、仕方がなく存在しているとみればよく、人間にとっての、自然とは違うような、
存在への望ましい在り方は、各事物が、違っている、ということなのである。
嫌なことに負けないために、違いを見つけていく、その違いで判断する、そういったことが大切である。自然の真理があるとして、
それとはまた違うのが、人間の真理なのである。ある負の言葉には、ただ負であるというのが本質なのではなく、べつの負の
言葉と、負であるという点で共通点を「感じ」、頭が負けそうになる、不快の行き場がない、となるのであれば、負などというのは、
それぞれ時点もその時の自分自身も違っており、なにか弱点を突かれているような、気持ちでも、分けることで、自由を
取り戻せるのだと考えるべきである。 老いのことを考える。老いないためには。
身体的、精神的刺激を絶やさないことである。刺激の欠乏は、ボケにつながる。
身体的刺激は、常に絶やさず、精神的刺激は、小説などから得る。
あるいは、仕事などで脳を刺激する。
スリリングな小説を読むのは面白い。それを理解することと同じくらい、それから刺激を読み取ることが、
なんといってもだいご味だ。
刺激を絶やさず、空間的な前後の区別もつける。そうしていれば、ボケない良い人生を送れる。
必要な苦労は、刺激に変えることで、自らの潜在能力を生かすことへとシフトできるはずだ。
がり勉が続くのは、刺激を面白がれる時だけである。
そのような刺激あふれる世界を、自らに与えることができるのだ。
必要な刺激は、人生の良い友である。哲学的な考えが、刺激的であるためには、それが高度な必要がある。
シュアーであることも忘れてはならない。どんな形であれ、哲学は、面白がれるための素養となる。
自らをメインテナンスするためには、どうすれば自分にとってあることが面白いか、ということを考えていく必要があるだろう。
どんな人生であれ、人間の生きることを、とどめるようでは、何も楽しくない。
見通しは良いか、スリリングか、不安はないか、健康か、元気か。
自らの自由な刺激享受に対し立ちはだかるのが、他者の存在と他者の要求である。
他者に対して、他者にいいことが起きればいい、他者がうまく自分を表現していくのをできれば手伝いたい、
そのような視点、他者尊重の視点が、コミュニケーションの要点だ。もちろん、自らがしっかりしていなくてはいけないが。
どんなみすぼらしい人間も、生きる権利がある。
それを、自分と他者に同等に与えることが、自らの慢心という、コミュニケーションでの不快な謎がとけるために、
必要なことで、あった。他者と自分の迷路、協働と失敗の迷路、それらは、自らに刺激、他者への良心による共感、
時への感謝、そういったことをそろえていくことが出口だ。
どうしたって神にはなれない。だから悟ることを目指す。悟りとともに生きる。悟りはおそらく前にあるだろう。
前へ進むことが、自然だ。考究の末に、悟りが見つかるであろうと思いたい。様々な努力が、年の取り方と、
世界理解と言った、自然な方法で生きる末にみつからないだろうか。 >老いのことを考える。老いないためには。
健全な肉体には健全な魂がやどる。
老化の主な原因は内臓と血管(特に毛細血管)の老化である、
また内臓は内臓だけではなく、そこに住む微生物の種類と性質だ 言葉には音楽的要素もあるが、主には意味がある。
意味をつなげる、長く意味を考える(つなげる)と、充実した思考になる。
考えるとは、音ではなく意味を考える。
その際には、前頭葉を働かせ、意味を前頭葉で扱うべきだ。
呼吸にも前頭葉を使うといいようである。
また、図像、物の視覚の意味をとることもできるが、それには後頭葉を使えばいいはずである。
長くもたれた意味から、理論を作ることができる。
悟りという言葉の意味は、非常に謎めいている。
悟りは日常論理の頂点にある言葉であると考えられる。
つまり、日常論理、万能論理の中に、悟りは含まれるのか、バタイユ的な内的体験は
論理化されうるのか(意味をとれるのか)、語りえないものを沈黙によって示すことが、
体験として持てるか、あることが起こったことには、情報以上の何かがあるのか、
経験されることによって、物(人を含め)の存在に変化が起こるのか、
祈りが自己を越える、何かとのつながりのために役立つのか、
想像することが、自己内に完結しているのか、
不思議という言葉は、思い、議論することができないという意味だから、
語りたいのに語りえないという負の状態ではなく、
語りえないものを感覚したという正の状態である、
などといったことに、目を向ければ、気持ちが非常に不思議へと変わる。
不思議を解明していくことに、進歩がある。
想えば科学とは、不思議なものである。
時間的な限りの中という縛りの中で、完全性を意識化できたとき、悟りが生まれるかもしれない。
それは、人間の本質と限界を、どうとらえられるかということだろう。
思えば、全ては不思議であり、それを認めるくらいのことをすることはできる。 人間は、時間という形で、物の変化を、意識に「合わせ」考えるが、自然や宇宙といったものは、人間の感じ方と、
全く違った様相で表れることもあるのではないか。宮沢賢治の電柱同士の会話を感じ取れる存在があるかもしれない。
つまり、時間感が、意識に合わせ規定されている。コンピューターが処理するのに合わせ時間が別様に存在しているのを、
人間の観察によって、見ることができる。これは、科学の対象の一つであるかもしれない。
人間が計算をできるということは、限界の能力であり、感情はまた別の限界の能力である。
つまり人間の限界は、積み重ねることで進歩する文化文明であることを限界において、要請する。
限界は越えられないだろう。人間はコミュニケーション能力もある。これも限界能力の一つであるだろう。
自然と一体になること、この力は大きい。観察と想像によって、人間外の感じ方を、身につけることができる。
例えば植物の呼吸を感じ考えることなどだ。
宇宙自体の、法則は、人間的ビジョンの限界を超えて、様々あるはずである。そう、ビジョンにおいて、やっと宇宙を観察する。
ヴィジョンの計算が、思い出である。宇宙を感じること、それは実験から理論を感じとることだ。人間の法則を考えると、
自分を構成しているものも宇宙に存在する物質であるという考えに至る。つまり、人間というものの仕組みを解明し、
そのうえで自分を理解でき、そのうえで、宇宙と一体であるというこの地点=自己の位置を、人の意識との違いを、
悟ること。これが現在における個人の在り方として、最も良いと考える。お経を書いたり読んだりするのは、
そうした最も人間意識を滅した境地に至ることのできる、世界の感じ方であると考える。
罪や争いを滅するために、お経を読んだり書いたりすることができるのであり、個人の限界と言えど、意識の向こう側を、
そのように感じるのだ。 時を追いかけるのはコツがいるが、一緒にいると、大変に気が休まる。つまり、存在し、時を追いかけることが、真の存在の仕方である。
そのマニュアルとしては、頭の中で言葉を反芻することを第一レッスンとして、前頭葉で時が見える方向へついていき、
共にあることにより、時についていくことができる。
時とともに歩調を合わせなければ、余計な障害物のために、自己が押しとどめられてしまうことになる。
存在全体が、時とともに進んでいく、これが存在と時間の関係であり、人間の本質の一つである。
時とは、脳が作り出すものであり、かつ無意識的である。時=脳の幻覚、である。従い、自分の作り出すものについていくという
ことであり、投企的なものである。時を追いかけるという一つの行為が、成り立つところに、人間の意識の本質がある。
つまり、人間という存在には、時しかない、ということもできる。それが、存在の特徴でもある。共同存在が、
それぞれに時の中に溶けており、それが混ざる。それを感じない人には、どこかに欠損があるだろう。
時という幻覚は、車が走るのと同じ在り方である。脳がなければ時は存在しないのであり、無頭人という言葉を使ったバタイユは、
ハイデガーを発展させようとしていただろう。つまり、死がなかったことになり、西谷修の言う、不死のワンダーランドが、
バタイユの念頭にもあったと思われる。 目に見える現実だけではなく、「兆しを捉えよ」
兆しは目で見るものではなく、掴みえるものでもない。
物事の本質を見抜き、真理を創造する為の道具だ。 >>658
兆しは、萌とも書きますね。モエモエ。自分に関心があることについては、兆しまでとらえようと、したくなるんですね。
関心のあるものに近づくには、どんな道具も使って、見せよう!真理については、唯一か沢山あるのか、神と同じです!
全ての心は、真理と等価なのではないかと、思います。全ての人が、悟りを開くことができる、真理が不変である
ゆえに、悟りについては差別をされないということになるのでしょう。仏の眼からはすべてが平等です。
人の眼からは、関心が広くなるほど、豊かであるはずであり、無関心はいけません。かといって、悟りを開いていない状態にあるのに、
関心のないものにまで無理に関わろうとする必要はないはずです。自分の心の中にも、自分自身で関心のあることに気づいて
いけば、心の関心の兆しというものも、見えてくるでしょうね。心の関心だけは、自分と等しいものなので、「見る」こともできるはずです。 万物はバラバラな原子から成り立ち、集まって物体となる。従って、法則を覗いた状態を想定すると、バラバラこそが存在の裸形である。
そういうことに基づいた物理現象はあるかもしれない。人間も、部分から構成される。筋肉の一本一本の繊維は独立で動かすべきだし、
脳細胞もシナプスの別々な同時的動作が、本来的だ。従って、人間の意識も、部分に分けられる思いの集合であり、それを、
バラバラな本来に分解できるということ。この、身体と思考の二条件について、バラバラに動かせるようになれば、それが、
万物の原理に従った人間存在となり、即ちそれが悟りである。 全てがバラバラになれば、個体の死であり宇宙の最後もそうである。それが個物の最後というものである。
だが、それを知っているならば、神になって全てを作り直す操作を、科学でなせる可能性はあるのではないか。
人間原理の把握を力として、世界原理を元から動かすのである。 思考を腑分けするには、知の限界をとらえることである。細かい光が放射状態で生まれる表現が仏像になされている。
知には限界がある。それを逆に利用する。無知が、知を縁取る。知っていることと、知っているのに分かれないことと、
分からないのに知っていると思い込んでいること、それら三つの状態が、知と無知の、作用形態である。
どこまでも知を追いかけ、境界を知ることが、思考を分解するために役立つのである。
不快を恐れてはならない。すべてを受け入れ、腑分けすることの作用で、最上となれる。 人間の原理は、知と息である。息の流れは一筋であり、時間感覚と大きな関係があるのではないかと思われる。
その二つは、意識によりコントロールできるものであるが、なければ存在できない不可欠を強いるものでもある。 真理が不変である が、共通ではない。
未来において無数の真理が存在しうる。 川の流れの同じ流れに二度足を踏み入れることはできない、というのが、色即是空の意味である。
現在は、未来という空を掴むこと。掴んでいない膨大なものに取り巻かれている。
過去の記憶はところどころ思い出せないので、それを埋めたくなる。
それで、空白について考えることが、完全な悟りに至ることである。
つまり、過去と未来の空白を知り、埋めようと考えることが、ニルヴァーナの境地である。
膨大な取り巻く空(未知)の中にいると知ることが悟りなのである。 悟りは入り口、ほとんどの人は最初の1歩で溺れる。
扉を開けただけ、掴み得ないものを掴む術を持て、
つまり掴んだ時点で何も解決しない。 あるがままにみて
あるがままに感じとる
人は生きていくうちに
いろんなことに囚われ縛られ
視野や行動が拘束され制限されてしまう
それを取り外すために座禅をし
心を解き放ち
今感じることだけに集中する
すべてを取り払い
あるがままに感じとることが出来たとき
悟りの門が開かれるでしょう >>669
あるがままなら、誤解とかありえないだろ。
理解 したら 誤解 だろうけど 理解 しないからこそ あるがままなわけだ。
わからないものを判りたいと思う願望がみえみえなんだよ。
悟りとは 「突然あらわれる」「閃く」 類のもので、主体がなす努力、修行、術、知、 真理の行動やら会得など
どれもまったく関係ない。
そもそも 誤解、錯覚 というほうが その悟りの説明に近い。
>>668
門があらわれようが、頭で考えている状況ではどうにもならない。
つまり 「頭で考える、理解とは」 心が成仏していない証拠だ。 人間にとってアリは小さな存在
宇宙にとって人間は小さな存在
ただ人間は宇宙さえも頭の中に
入れてしまえると思っている
宇宙で起こる現象は人の力ではどうすることも出来ない
地球で起こる天変地異もそうだ
理解出来たからといって
すべてを超越した神のように感じるのは
過ちである
人間に出来る限度があり
出来ないことに打ちひしがれる人々は五万といる
そこで悩み苦しみ
宗教へ駆け込む者達に
あるがままを受け入れることを
教えるのが
宗教の使命だろう この世には
正しいことばかりではない
過ちでなりたっていることもある
輝かしく見える人にも
影があり
影ある人にも光はある
あるがままに受け入れる
受け取るのを妨げているのは
自分自身なのだ
他人のせいにしていては
何の解決にもならない
瞑想し
心を静め
集中して
すべてを取り払い
感じるままに感じること
悟りはその先に待っている 悟りを得るためには、モノと生命を区別する原則を、また、脳機能と意識を区別する原則を、得ることが必要だ。
例えば、音楽は、音符の一音の単位に終結させられる。
つまり、意識から、思考へ至るには、単位を抽出できる。
というわけで、人間の最高の原則は、クリアな♪に集結する。
この単位を、視界において、思考において得られれば、人間の意識の原則は、分かるはずだ。
音楽体験の元となるのは、このように幼児期から生育された、認知の収束点なのであるだろう。
この体験から原則が得られれば、別の法則を人間原則に取り込むことができる。
そのように、知の目的ができたなら、作曲が可能にもなり、働きかけと、創造が可能になる。
この可能性を身につけるために生きてきたのだ。 目が二つあるから二重に見える。
その重なりが一つになった時、人間の嘘を滅して、回復することができる。
病をいやすこと、悪い状態から逃れること。 トキの流れには逆らえない──順逆の区別を反対にしているかどうかに留意しつつ考え生きるべきであろう。
逆の流れを想像するのが面白いのは、まさに人間の内部のトキの流れをさかのぼる手ごたえがあり、しかもそれが
正しい見方に他ならないからではないかと考える。 苦しい。疲れた。こんなに嫌だ。二度と繰り返したくない。涅槃に入りたい。この世は一切皆苦。お釈迦様・・・! 右目で見た映像と左目で見た映像がほとんど同じに見えるってことは
全然ありのままを見てないってことじゃないの >>679
そうです、そのせいで精神病になりました >>679
ためになりました、ありがとうございます。 考えてみても、人に言うべきことなんて一つもない。用事を済ますためにシャベルだけ。
色即是空とは、すべてが苦であり、するべきことなど何一つないと知ることだ。
思いあがらないようにするべきである。
生老病死しかないのである。
人にさとしても、その人のためになるとは限らない。
したがい、これを私なりの悟りとする。
つまり、悪いことをしないこと、というのは、人類が普通に到達する真理である。 感情を乱されたら迷惑である。
涙や悲しいとは、仕方がないことである。
仏の涙に癒されること、本当に自分の心に従って、自然にあることが、良いと思うのだ。
私という存在の持つ意見はない。思想の全ては有用性により評価される。
あるいは、全ての人が何も言うことがなくなるとき、つまり、妄語を慎む気になるとき、
それが安息と安らぎの、悟りの上での生き方になる。
空であることこそ真なのだ。
年をとれば、寡黙になる。
子どもは親失くしても育つ。
寂しいという感情は、人とのかかわりに過度の期待をしないことでなくされる。
それらもすべてが仕方がない。
苦しみを、病を、生を、老いを、苦しみと無の形を。
伝えようとするな。
色即是空。空即是色。この言葉に、言い足りないことは、まだある。
つまり悟りを得るあとは、涅槃がある。
全て人への怒りは、おさまる。
だから、悪いことをすることは、作為なのである。 考えというものは、多様な刺激を取り込みながら、使用し尽くすまで、消えるしかないところまで追尾していくものである。
例えば、僕は自分というものはいったい何だと疑問に思い、わからなかった。だが、その疑問を考え続けることによって、
なんとなく疑問に満足な考えを、結果として得た。つまり、疑問がやや薄らいだ。これは、自己の確立である。
どこまでも、考え続けるならば、どんなまやかしにも惑わされない。追尾して、もっともっとと、考え続けること。
それは、何も一時間といった長さのことではない。五分くらいのことだ。次々と疑問、アイディア、考えを、
変えていっては、何の収穫もない。頭に浮かんだことは重要である。それを捨てずに考え詰める。
疑問とは、悩ましいものだ。その取扱い方により、進んだり止まったりするものである。
もちろん、個人レベルでは、進まなければならない。疑問の放置は、やがて後で後悔になるだろう。
分からないことを分かろうとすることが、人間にできる哲学である。全ての疑問が、自分にとって自明となり、
問題解決を、自分と世界についての全てにおいて達することが必要である。 悩みを持つことと疑問を持つことは、あらゆる場合に、同時に起こり、疑問に答えようとする態度を知らなければ、悩んでばかりいて、疑問から
生まれる解決を、持てないままである。この素朴な疑問を、人に話して解決してもらうことは、出来ないだろう。なぜなら、それは、自分という
膨大な存在に、大きくかかわっているからだ。問いや悩みが、消えていくのを感じて、自分というものが情けなくはないと思える。
長い間妄信を重ねてきて、自分が生きたと思えるように、いくばくかの悩みの恐ろしさ、逼迫しているとこと、を得て、
自分が自分であれる。人とのかかわりの上での悩みなどを、簡単に解決する。それは、些末なことに過ぎなかった。
ただ、疑問の前で方法が分からなかっただけだ。 >>685
5分と言うのは短すぎた。最低で1時間は必要だ。 悩みは苦しいが、疑問に取り組むことは苦しいことではない。そして、最後は疑問は果たされる。その繰り返しが、考えるということの、
主要な部分を占めていると思われる。つまり、優先順位は高いが、決して苦しいものではない。毒矢を抜くことができれば、
苦しみから逃れられる、というようなことだ。自らを蝕む悩みが、疑問を解決して消えること。この、瞬間の変化こそが、
悩みを解決する方法である。消えていくまで考え尽くすことが、脳の中では、回復に至ることになると思われる。 いんいんと消えていく思考を見送るのは、大変にいいことである。全ての思考が、そのように収束して、脳の全てが、考えの全てが、
寂滅することを、感じることである。 悟りを開いたのならば従容として死ねよう。従容として死ねるのならば従容として生きられよう。
従容として生きられぬのならば従容として死ねるまい。従容として死ねぬのならば悟りなど開いておらぬな。 パチンコを悟りの境地で打ってる
一発の玉がバネに弾かれて台に飲まれていくまでを人の一生になぞらえて
祈りのような気持ちで777を狙う 失敗したって良い、人生にストーリーを持つんだ。自らの考えがつながっていればいるほど、それが達成されたときに価値が高くなる。
失敗したとしても、もう一度、修正して立ち向かう。作戦を作れ、自らのストーリー自体の価値は、負けたとしても普遍的だ。
何も考えないで失敗ばかりしていてはいけない。ストーリーなしでは成功に意味が持てないし、目的のある失敗であれば、
意味がある。どの位置で戦っているかは関係がない。ただ、目的とストーリーを試すこと、人生の戦いでは、
広く視野を持つこと、こだわらないこと、そして、ストーリーを(悲しくも)事前に用意すること、今起こっているストーリー
を把握すること、人の妨害によって負けてもストーリーのせいにしないこと、負けても受け身ではないこと、
傍観者的ではないことが、これからの困難を切り開くためには必要であると思われる。
そうすれば、人生には生きる意味ができる。まだ戦い始めてすらいない。自らを使うことで、考えに一貫性ができる。
自分の中に持った矛盾の治癒が可能になる。変わりつつある現実に対して、ストーリーの勘所(目的)を、
常に対応させつつ、実現させよ。それは、必然的に、勝負となる。今はまだ、その段階であれ、勝負をすることが、
人間社会の現実なのだ。なぜ人は争うのか、それは、生きる意味と密接に結びついている。
無限の時間を生きられるわけではないから、そのストーリーでいいかどうかが分かるようになっている。
負けたなら、その作戦は見直さなければならないのだ。時の運にかき乱されても、ストーリー作成能力にまで、
負けは及ばない。ということは、負けるということさえ、ストーリーを形作る要素なのである。 音楽であれ、聞いていて、良い箇所というのがある。生きることも、それと同様で、意識に登ってくることがあるのだから、
全てを理解しようとして、気を張っている必要はない。そういう意識でいれば、生きることの精神的苦しさはない。 ≫692
日本人に最も親しみがあり信者数が最も多い親鸞の浄土真宗は
決定論的な世界観を描いてみせ大衆に受け入れられた
仏教を語るときに決定論だからなんて批判は軽はずみすぎるな "物理学者のニールス・ボーアは、専門家とは「非常に狭い範囲で、生じうる間違いのすべてを経験した人」だと定義した。"(WIRED.jpより引用)
間違えることさえ許されなかった悲しい事情は、間違えることを間違えたという専門家になりうるとなりうる。
全ての人は、何らかの経験を持っており、その経験は、無経験という経験さえも経験であるということである。
白紙と、間違えだらけの文章で埋め尽くされた紙とは、本質においては通ずるものがあるのである。
それはつまり、苦において、自覚せざる修行を積んでいる、ということであり、苛立ちが、希望への希求であるという、
人間的な自己を、正直に表しているに他ならない。
悲しみは、おごりは、正直さは、降り積もる雪が春になって溶けるように、川になる。
悟った時、喜びと悲しみが相互に行き交い、間違ってきた専門家として、人や世に善を作るのである。
ある人間を、排除することは、人間的ではない。
人によって人を判断する(優越者による審級)のではない。
世界の法にのっとって人を判断する。
何もないように見えるだろうが、人は変わるということが基本的なのであり、心的苦労が解脱には種となる。
専門家となるような、間違いの経験は、変わらないためには変わることを経験し、変わるためには変わらないことを経験する、
というような、ある種の転向の経験であるのだと思う。
つまり、現実とは世界であり、心の中の思いは、自己である。
間違いを恐れない自己が、世界から本質のみを借りてきて、一回の生を、喜ぶことができること、すなわち、人々が幸福になること、
そのための全ては努め励むことにかかっている。あるときに、人は、生きることの意味を知りたいと思うはずだ。
どんなことも、恐らく、いつかは終わる。その向こうに、何かを悟ったならば、それが尊いことである。 698.諸法無我。
無我であれば、諸法を認識できない、ということである。 負けたら終わり負けたら即死の勝負強さの方が、失敗を保険や担保に入れて成功するより尊い境涯にいませんか。 こうあらねばならない、人より劣っている、などを考える必要はない。
端的に、「存在」のみが揺るがせられない事実であり、「存在」を考えること、「存在」を口にすること(又は書くこと)によって、
「存在」とのかかわりを持てる。
孤独ということを考えるなら、何らかの対象を、存在化させること、すなわち、名前やお経を、この世にあらしめることが、
ただ生きるときにするべき唯一のことだ。
どうあらねばならないか、ということではなく、存在するということの唯一無二性を、知って、それ以上を仮構しないことだ。
それがすなわち、平等や、不作為ということを実現する方法である。 スポーツといったものが楽しいのも、「力」を感じるからだ。トイレなどの狭い部屋で、壁に寄りかかったり押したりして、
力を十分に受けることが、ストレスの発散になり、存在の重要なところを知ることになる。 目を閉じれば、闇を見ることができる。
身体の全ての触覚を意識することで、禅の奥義を窮められる。感じられたすべての意見に気を付けることで、悟りの境地に至る。
片目を閉じたときに見えなくなる闇の部分を意識するという状態を経験することが、人工的な意識の考えの意義となる。
自分が今まで経験してきたすべてのこと、知りえたすべての存在物、それらを、すべて、考えに入れたうえで判断すること。
それ以上はあるかもしれないが、それ以下はない。すなわち、作為的な錯覚を、消すためには、自らを知っていなければならない。
そして、自らにおいて知ることができることは、触覚と考えだけである。
そして、闇と光の両方の存在、それが、意識を覚醒させることであり、無明に迷わないことである。 たとえば自分の唇と思っているものの、範囲とは、正確でないかもしれない。大口を開けていたのが、小さい口こそ本来の口であったりする。
目などについてもそうである。小さい目(瞼)が、本来の正しい部位であるかもしれない。同様に、顔や頭皮などの筋肉は、小さい範囲で
捉えることが、正しい。一流の俳優なら、顔の筋肉の細かい部位に気を付けることによって、様々な表情を作り出せる。
そして、小さく分けるべきなのは、空間や時間などにおいても同様である。目の前の空間を有効活用するには、空間の
含む場所を、出来るだけ小さく捉えることである。
(文字の意味をとらえるのではなく、目の前の現実にある空間をとらえ、空間への意識を果たすことが肝要である)
時間についても、短い瞬間を意識して、その流れでとらえていくことが、非常に大切である。
頭にあるイメージボード空間や、脳自体に対しても、同様に、小さい部分でとらえることである。
身体の各部位は、ヒトという構造を持っているのだから、それぞれが機能するのであり、その本来の機能は、
捉えることにより回復する。 悟りを開けるのに開かない人は、悟りを開かないことで何らかのメリットを得ている。 それはきっと、アル中の人が酔いから覚めないためにアルコールを摂り続けることと同じだ。 周りのものの速さはコントロールできないが、自分の考える速度は変えられる。アンダンテといえば、歩く速度であり、
思考の速度も、そういったものを基準にできる。つまり、一歩一歩歩いていくことをイメージして、その速さで、
思考や読書などをする。そうすれば、堅実である。未来への向かい方は、ある程度手本があり、それに従った考え方が、
基準にとれる。些細な事を気にする必要はないのである。必要なのは、着実に一歩一歩歩いていくことであり、
考え(思考と記憶)を、ゆがめないことだ。執着は歩いていくことには、あまり影響を与えない。
執着を忘れてしまえばよい。そして残ったもので、生きるわけである。何もなくても、歩くことができる。
何もなくても、考えること、先へと、何の当てもなくても、何の報いもなくても、生きるということ自体を、
忘れ、失うことがなければいいのである。生きることが複雑で苦しいようなら、出来る限り執着を少なくできるような
生き方を目指すべきではないか。
人が何に執着するかは、欲によるのであり、欲を増大させることによる。金銭欲、愛欲、支配欲、など、迷いへの誘いは
沢山ある。愛でさえ、執着になる。忘れること、杖を持つこと、目的を忘れること。歪まないこと。
歩くイメージを、思い浮かべながら考えること。アンダンテ。
こう考えたことの端緒は、記憶と、時間についての、探索であったが。恐れたり失敗してばかりであった自分を、
何とかしたかったのであるが。 比較こそが自分を不幸にしている最大の原因なのに、かつて比較によって幸せになった成功体験が忘れられず、比較することに固執するのだ。 苦悩を抱えている現状の自分に固執していることに対する評価? 他人は美味いと言っているが、自分にとっては不味いものではなく、自分にとって美味いものを食う。 他人が皆こぞって行きたがっている場所ではなく、自分が行きたい場所に行く。 皆が見たがっている映画ではなく、自分が見たい映画を見る。 他人がやりたがっていることではなく、自分がやりたいことをやる。 自分が行きたい場所に行くのではない。
行き着いた場所にいるのが自分であるのを認めること。
そこからしか始まらない。 自らが被る苦悩が耐えられないのではなく、自らが苦悩を耐えたことが
無駄に終わったことを認めることが耐えられないから、現状の自分に
固執しようとするのだ。 苦悩している自分を手放してしまうと、苦悩が無駄に終わったことを認めざるを
得なくなり、そのことが耐えられないのである。 「〜にやみつき」であること≒"〜süchtig"であるが、
"eifersüchtig"とは、何にやみつきであることなのだろうか だから、悟らないんだよ。悟ろうと思えば悟れるのに、悟れるのに悟らないんだよ。悟れないんじゃなく、悟らないんだよ。 トップ・アスリートとか、苦しみに耐えて何かを獲得することを経験した
人は、その経験の繰り返しを離れると、何かの依存症に陥りやすいの
ではないかな。 進化論否定主義者が、進化論を絶対に認めないのはなぜか? 人並み外れた忍耐力で長年の自己鍛錬をつづけて偉業を達成した人が、
引退した後にいとも簡単に依存症に陥って抜けられなくなってしまう
ことを、周囲は金や名声に溺れたせいだと思いがちだが、実のところ、
そのような特別な能力と依存症に陥りやすい傾向は、表裏一体だろう。 レス
もしかしたらその努力そのものが依存症に近い面もあるのかもしれないね。 世の人は、我を何とも言わば言え。
我が為すことは、我のみぞ知る。 善いことをするよりも、悪いことをしない。そのためには、
得するよりも、損しない。そのためには、
正しい判断をするよりも、誤った判断をしない。 例え自分も悪くとも、自分だけは悪くない。だって、自分だから。これこそ、最悪の考え方だ。 無生物の世界に、生きものの世界あり。
生きものの世界に、人間の世界あり。
人間の世界に、自分の世界あり。 ただの自分。
ただの人。
ただの生きもの。
ただの無生物。 善を為しては恨みを抱き、悪を為しては罪悪感を持つ。そんな腐った輪廻転生の生き方は、もう御免。 「他の人が言ってるから2+2=80」が、「他の人が言ってるから2+2=4」になっても、また「他の人が言えば」2+2=80に戻るかもしれないし、2+2=4でなくなるでしょう。そういう人は、そもそも初めから理解できていないんですよ。
2+2=4だから、他の人がどう言うの問題ではないはずです。他の人がどう言っているかではなく、2+2=80だの2+2=4だの言うのがどういう意味なのか?これがわからないのに2+2=〜などと語るなら本当におかしな話です。 顔も名前も性格も知らない人の顔やら名前やら性格を語るのと同じことですから。 >>759-760
そうですよね、その考え方は正しい、と思います。世の中は規約で満ちていますし、記号が数と等しいわけではないです。ただ、数というものは、
あるということは疑えません。現実世界における数の性質を決めているのは、幾何学だ、と思うんですが、非ユークリッド幾何学
というものもありますね。そして、数の次に基本的なのは、=という記号の操作です。これなくしては、何も言えない。
というわけで、=というものは、何らかの説明をするということなのかな、と思います。私はこれこれこういう関係式を、
数について説明した、そしてそれは、誰が見ても正しいものである、ということが、説明の際に、暗黙の前提に含まれる、
と思います。哲学においては、デカルトの、「われ思うゆえにわれあり」、という絶対的な基準が、発見され、
主張されている、と思いますが、思うというのは、=を使わなくても成り立つことである、ということで、日常言語の本質を、
切り詰めて言った末に、発見されている、と思うのですが。「ある」と「思う」の間にある関係、とは、恐らくですが、時間ではないでしょうか。
素人考えですが、そういう風に考えた次第です。 誕生が過去で死亡が未来。→正常な時間感覚(健康)
誕生が未来で死亡が過去。→異常な時間感覚(病気) 生まれたのは過去で、死ぬのは未来だ。過去に死んだのでもないし、未来に生まれるのでもない。 過去に生まれたのであり、未来に死ぬのである。過去に死んだわけでもなければ、未来に生まれるわけでもない。 自分の世界から、人の世界へと入って行くこと。これが、第一の悟りである。
人の世界から、生きものの世界へと入って行くこと。これが、第二の悟りである。
生きものの世界から、無生物の世界へと入って行くこと。これが、第三の悟りである。 無生物の世界から、生きものの世界へと出て行くこと。これが、第一の失悟である。
生きものの世界から、人の世界へと出て行くこと。これが、第二の失悟である。
人の世界から、自分の世界へと出て行くこと。これが、第三の失悟である。 無生物の世界あり。
生きものの世界あり。
人の世界あり。
自分の世界あり。 あなたがやめなきゃならんと思っているのにやめられんこと、それは、あなたがやらねばならぬことである。
あなたがやらなあかんと思っているのにやれぬこと、それは、あなたがやっちゃならんことである。 侵略に対しては迎撃せねばならない。それで初めて平和を保てるのである。侵略に対し平和主義だから戦いませんでは、国は植民地になり、人民は奴隷になるだけだ。 真理はどんなに迷妄呼ばわりしても真理だし、迷妄はどんなに真理扱いしても迷妄だ。だから、真理を悟らなきゃならなくなどないし、迷妄を捨てなきゃならなくなどない。というのは、悟るまいが真理は真理であり、信じようが迷妄は迷妄だからである。 >>762-764
思うということと、あるということのみが、知りうることであり、その二つは、柔軟な時間感覚によって、つながっているのでは
ないでしょうか。
二つは緩いつながりを持ち得て、現在と過去と未来は、はっきりと決まるものではないのではないかと、これまた時間感覚
に不調をきたしている私が、思うところであるのです。
要するに、肝心だと思うのは、不調から新発見に至ることを考えられうるのであり、また、未来永劫呪われている、などということはなく、
病気は治りうるものである、ということが、私の私見です。 そして、他人というものの考えは、想像することしかできない。だが、それでも、相当にわかることはできる。そのようにしか
できないが、そのようにしかできないことによって、それなりの良い図式が生まれる。僕自身の心の変遷、および、
人生の変遷において、身体的、または器質的要因によって、損なってしまった認知能力の回復とはまた別問題として、
他者の存在へのこだわり、間違えなどが、起こっており、そういう状態から考えて、他者との接し方、他者との関わり方を、
図式化することができたのだった。そしてさらに、自分自身が思うということにさえ、完全に把握しておらずにいたのであり、
自分自身の考えを想像する、ということで、真我に至ることになる。それが即ち悟りであったと、僕自身にとって、
重要な把握、ようするに僕自身の哲学が、行きつかざるを得ず、また必然的に行きついたところが、こういうところであったのである。 ようするに、言葉を越えたところのものを、知りうるということが、精妙な知であって、言葉を越えた以上は、自分というものが、
言葉に汚染されている状態から、真なる意味、真なる価値、つまり他者と自分の考え、思考というものが、何であるかということを
知った状態に至った以上、これ以上の知恵について、もう、悩む必要がない。だから、悩みから解放された状態であり、恐れを抱くことの必然性を、
断ち、至ったところから、泉がわくように、人間なるものが、何になるべきかという、生きることの意味が、飽和して実るばかりであり、
全ての救いはこうした知において、心を安らげること、楽しむことへと、変わりえたのであると思ったのだ。
全ての迷いを、理解して、自分にできること、またすることの喜びに、打ち震えながら、また、この最上の喜びの状態を、
実にまさに、他者と共有できることが、至上の喜びである。 生物灯明
無生物灯明
生物と無生物とをいつも常に比較して観察しているべし。 「さとい」は、「敏(さと)い」と書かれることからも見て取れる
とおり、「察(さっ)することが鋭敏である」ことを意味している
ものと一般に理解されている。ということは、その歴史語源が
どうであったにせよ、「さとい」は、「さ・とし」と暗黙に
解釈されて、「とし」が「利(と)し」、つまり、「鋭い」こと
を表現しているという推測が働いていることになるだろう。
すると、「さ・とし」の「さ」の方は、英語を用いるなら、
この場合、"perception"に相当するような意味合いを担って
いると考えることができるのではないか。 むろん、「さとい」を「うとい」と対比するものと見なすなら、
「さ・と(利)し」という解釈は無効化されるが、その対比が成立
すると解釈する限りで、「敏い」という解釈自体が成立しなくなる。 言い換えるなら、言葉は、意図された掛詞において例外的に解釈の
多重性が生じて騙し絵になるのではなく、その常態において本来的
に騙し絵なのであり、必要に応じてさらに言葉を費やすことによって
解釈が限定されるが、その一般的な用法において多重に利用される
ことにより、常に複合的な意味解釈の可能性を帯びているのである。 論理的な明晰さを追求しようとすることは、その追求が前提として言葉の
騙し絵としての性格を排除してしまうなら、むしろ、見せかけの明晰さ
によって言葉が用いられている実態を覆い隠し、表現の理解を妨げる
ことになるだろう。 掛詞は、多重の解釈を生じることにおいて表現として例外的なのではない
(なぜなら、いずれの通常の表現も解釈の多重性の可能性を孕んでいる
のだから)。そうではなく、「解釈の多重性を生じさせようとする意図が
ミエミエであること」において例外的なのである。 傷つくことを恐れてはならない。身体にせよ、脳にせよ。脳などは、傷つくことによって、向上するのでは。保守的に大事なものは、
あるけれども、それが傷つくのを、避けるように態度をとるのは良くない。たとえ、心身に傷を負っても、それが勲章である。
物事に立ち向かうとはそういうことだ。思想の砦の中でぬくぬくとしていては、いけないものだ。体も心も、傷を負うことが、
大切であると思う。臆病は、思い込みだ。それなりの年齢であれば、傷は避けるべきではない。脳などは特に、傷をつけること
によって、発達するだろう。勇気というか、覚悟によって、なあなあになっている自分を、場に曝け出したうえで、傷を喜ぶこと、
もちろん、様々な事情があるだろうが、自らを守り続けることは、甘さになってしまうだろう。人が自分をどう考えようと、
嘘や騙しなどの外的環境において、大切なことは、傷を作ることなんだと、私には思われる。当然ながら、
暴力はいけないのだが、傷はむしろ、強くなることなのであると考える。悟りとは、ナイーブではない。救うとは、
捻じ曲げたり、大きなお世話になってはならないはずだ。必然的に生物としての、高い価値を人間が持つならば、
それは覚悟の問題であろう。自分可愛さに有利なことばかりを考えるのは良くない。身体と脳の、死へとむかう制限が
あるならば、強く繊細な、物事の把握において、ポジションを確保するようなことは、実に評価しがたい。名誉を求める
のは良いと思うし誰もが望むだろうが、責任をとることにおいて、漫然と傷つくのを恐れているならば、それを、
自分で身に受けることの、爽快で、真なる行為とは、そういうところにあると思われる。一度覚悟を決めれば、
そういった傷をむしろ喜ぶような、すべての身勝手でないことが、善という、ありがたいものを、捉えるためにも、
自分の自己満足感にとどまらないような、行為を、すること、その自己の在り方というものが、他者と関わるうえで、
安楽、安らぎといったものへの、到達手段、また同時に恐れのない状態へ引き上げることができると思うのだ。
気持ちが、どんなにおびえていても、その怯えの正体は、自己保身、あるいは恐れであって、それが良いとは、
全く思われない。自己中心的であれ、戦いあるものは、それだけで、物事の真理に、近づいている。
恐れから差別をしてはならない。 自分自身に対してすら心を開けぬ者が、いったいどうして他者に対して心を開けようか?開けるはずがない。 他者に対して心を開きたくば、まずは自分自身に対して心を開け。 どんな不快な事(過去)も、現実(事実)として認めなければならない。間違っていること、不条理なこと、我慢できないほどのこと、
などなどは、たとえ自分がもっとうまくできたはず、と思っているとしても、事実である。事実のない現実は、どこにもない。
だから、過去の不快なことを、事実と認めなければ、右往左往するだけである。
そうすれば、何事も、こだわることが、はっきりとできる。というのはそれは自分の生き方が影響されるだけであるのだ。
諦めの、良い面を得ること。そうすればつまり、現実が立ち現れる。
妄想でいっぱいになり、怨み恨んで、その為に生きる方向に行くことを、離れるために……事実と現実を取り戻す。
まずは、悪いことばかりであったと、思えばいい。それを事実として、自らはすでに構築されているのである。
自らの作為が、過去を示すなら、それは誤った生き方である。
逆に言うと、現実を得られれば、二度悩むことはない。むしろそれを、平然と見ることができる。
胸の中は爽快になり、密度の濃い時間が、得られるのである。 自由を手に入れた場合、何らかの気を付けるべきことはあるか。
それは、行動や思考、認知において、自らを疑うということである。
自分が現在のやり方で正しいのかどうか、特に、細かい動作において、気を付けなければならない。
逆に言えば、見過ごして、楽天的なばかりでは、うまく行くことはない。
自分のマナーややり方が、正しいかどうかを、常に問いかけていくことが、新しい状況に対応するうえでは、重要になる。
自らが、不安に思っている事象について、特にそれは気を付けるべきである。
例えば、店員とのやり取り、車の運転、など、正しいかどうかあやふやになりがちなことは、あるのである。
自らの思想を、正しいかどうか見直すことも、重要であろう。
自らの関わること全てにおいて、注意して、正しいかどうかを、チェックする意識を持たなければならない。
それが、自由と引き換えの責任というものである。 ピアノなどでも、難しい曲でもゆっくりなら弾けることがある。リズム。同様に、ゆっくり考えればわかること(言葉、思考)もある。 すべて人と関係を持とうとすると、絆を保つことが、重きを持つ。それを確認するための方法として、挨拶などもある(会うこと、別れること)。
心と存在に、自分の全てをかけなかった者が、あろうか。心の絆を自覚することが大切だ。 >>806
なるほど、受容することをできた場合、相手を本当に好きであるという事実が得られ、どんなものであろうと相手の意向に沿うことができて、
強制することも、望むことも、必要であることがなくなるというわけでしょうね。見返りのために思うのではなく、その存在を思うことができて、
そこから全ての存在への足がかりが生まれるように思います。人間にできることは、多様であり、その他の方へ、どんな方向へ、向かおうとも、
自分の心の必要を、みずからきちんと聞くべきでしょう。 頭の中で、閉じた冒険をせよ。体験とは、現実を離れても成り立つ。個人に取り、体験以上のものは普通には得られない。 人から言われたからではなく、自分のすべきことであるからする、という意識を持ちなさい。
つまり社会性でもあり、自己訓練でもあります。人のことを気にしすぎないことです。
公的規範に基づいた行動を、自己了解して心掛ける場合に問題として浮かんでくるのは、「何のために生きるのか」ということです。
思春期的な疑問が自然に浮かんできたのですが、虚しくはなく、孤独でもない、つまり、社会的、友愛的に、自己確認が持たれると思うのですが、
何のために生きるのかという問い自体が、虚しくはなく、心の底から自然に湧き上がってきた疑問であり、自己満足ではなく、
怯えからでもないので、心の中には、そういう無意識が、内蔵されていたのであると考えられます。 命令を受けたとか、思う場合は、たいてい、人への愛が足りないのです。どんな人も、どこかで悲しみや虚しさを、抱えているものであり、
他人を遠ざけるのは、不必要にしてはなりません。人を愛することができるようになることが、社会性というものの基礎としてあり、
社会的訓練を積むことが、虚しいと思うならば、それ以外のものを求めてよいのだろうと思います。
人が理解できないということも、自分の足りない部分から思われることも、同時に起こることであり、同根です。
馬が合わないのは、社会性についての内的自己規範の構築がされていないことと、同時にそういったことについての、未熟さをどうやって、
誰が(もちろん自分がですが)、変えていくのかという話と、愛情がわいてくるはずの箇所を通り過ぎてきた自分が、
怒りや憎しみの感情を、土台として、考えや行動を構築してきたのであって、この、二種の要因によって、齟齬が生じているのです。
二種の要因のどちらも、一日二日で、変えうる話、極端に言えば、今すぐにでも治せる話であり、生きることの困難さを、
変えるための悟りの一種です。 人間は、少しづつしかできない身体を抱えています。どういうことかというと、例えば瞳の動きに注目した場合、
カクッカクッとしか動かないことが発見できるでしょう。つまり、意識して行う行動というのは、どの場所であれ、カクッカクッとしか、
動かないのです。全ての筋肉がそうです。連続していると考えるのは、誤りです。目の開閉(瞬き)なども、一瞬で行うのではなく、
少しづつ、段階に分けて動かすのが良いのです。
思考もそうです。一気に考えを進めることはできません。少しづつ、考えていくしかないのです。
時間感についてもそうです。少しづつ、段階を踏みつつ追いかけていくのが良いと思うのです。
過去のことを思い出す場合も、一気に過去にさかのぼることは負荷が大きいと思います。
意識が、無意識に場を譲る(負ける)ということは、僕の観点からは、承認できません。 心頭滅却すれば火もまた涼し
って当たり前じゃねえか!・・・ まず端緒として妄想の話をします。妄想とは、必要以上に、考えにとらわれることです。それは、深い悩みです。それを抜け出すことが必要ですが、
その為には、表面以上に掘り下げないという、習慣を持たねばなりません。自分が実際にとらわれるべきであることとは、浮かんでくるものを、
加工しないということです。
その次に、他者と自分ということを述べます。他者は自己とはつながっていないことから、一つの絶対です。そして、自己は、他者にとっては、
絶対なのです。これが事実です。他者と自分は、繋がりあって、無限記号のように、常に交換し合うものです。そういう図式です。
そういう絶対の相互関係を、胸の奥に埋め込まなければなりません。つまり、神によって与えられたもの(宇宙)を、加工するのです。
その次に、生まれ変わりについて述べます。まず、自分以外を見ても、それが何から生まれ変わったか、という認識は起きません。
だから、生まれ変わりは、神話でしかないのです。神殺しをするには、生きているうちに再誕するということをもってするのです。
生きているうちに生まれ変われば、それは、神の図式を壊すことになります。再誕の方法とは、死への恐れを、克服することです。
悟ってから一日生きる方が、悟らずに何十年と生きることより良いのである、とよく言われています。死を克服すること、即ちそれが、
生まれ変わることです。生きている間にです。
以上の、三つの毒、または迷妄を抜けることに、悟りがあります。
そのように考えたとして、生きることの間には、第一の、妄想を抜けることさえできれば、後の悟りの克服(として私が呼ぶもの)は、
難しくないことです。つまり、妄想を抜けた後の体験が、まことの生、悟りののちです。
人間には、他者がいなくてはなりません。それは、どんな人間でも、一人で生きることはできない、と言われていることです。
自己と他者が生む共生の関係を、妄想抜きにもてたときに、自分も他者も、何も悩むことなく、安楽になれるのです。 やらなければならないことをやる。
やってはいけないことをしない。 一昨日、宮台真司の本を最近読んだが、僕自身が理論的に導き出した結論と、ほとんど同じ個所があり、(もちろん)さらに進んだことも
言っておられた。体験が似ているから、論理的に似たような考えになるのだと思った。映像はもっと前に一つ見ており、その先を、
僕の内部でも予定づけられていたのであろう。
そして、宮台真司の話から得られたことを、進めると、感情が大切、内発性が大切、ということの、一種として、矛盾の力をどう持つか
であると考えた。つまり、憎しみの気持ちを相手の行為から、引き起こされた場合、憎しみをもって返すのではなく、愛をもって、
返すべきであると思う。つまり、憎しみを相手や別の人に向かってぶつけることで解消するのではなく、矛盾した、
感情をもって解決すること、憎しみは何かから受けた、自分の自然な気持ちだが、それを、愛をもって人に返すことで、自分の内部で
解決がなされる。つまり、自分で引き受けるということである。人類の紛争は、愛によって解決される。どこかで誰かが、自分の矛盾
というところで、とどめることである。感情的憎しみが自己主義であり、感情的愛が、一つの他への結論である。それで何の問題もない。
人がやっていたことだから、こうしなければならないという、発達の未熟が、問題を産むのである。
なによりも、自分で問題が解けたなら、皮がむけたような気持になる。問題だらけであったものが、一つの方法で、
こんなにも平らになったということは、実に驚く発見であったということだ。大人になるというのは、矛盾で解決するという
態度を身につけることであるのではないだろうか。宮台真司が、憎んでいるわけではない、と、言ったことから、
矛盾と愛ということについて、考えた。 読んだ本の題名は、『君がモテれば、社会は変わる。』と、『ウンコのおじさん』である。 認めたくないという気持ちがあって、それの裏返しにある認めたいという気持ちを、自分の内部でぶつかり合わせた場合に生まれる、
感情の高まりである。それは、はっきりと、嬉しい気持ちである。つまり、認めることの問題が、矛盾として起きて、
矛盾を内部に持つ場合に、嬉しい気持ちが生まれる。それが、内発的な感情であると思う。つまり、何もないわけではなく、
感じるところの多い人間が、不幸にならないためにとる、方法である。
なにもかも、矛盾ばかりだ。なぜなら、自分の未熟が引き起こした、怨みばかりだからだ。ガンのつけ合いにおいて、
戦わせることに、どちらかが負けを認めるとして、負けを認めた方が、自分の未熟を、あるいは、過去の負債を、
認めることになり、勝った方がどうなるかは、わからないが、わからないことに、憎しみを覚えるかもしれない。
解決は、理不尽として起きたことであると、ごまかす、自分中心でしかない態度を抜け出ることである。
他者に回してはならない。認めたくないことを、認めることである。 罪を犯すことは行いの罪。
罪の自覚を持たないことは思いの罪。 自身の邪を以って他の邪を制する者は、自身の邪を以って他の邪に制せられる。 >>825
そもそも罪なんてもともとない
罪は人間が勝手に考え出したもの
ないもので悩んだりするなんて馬鹿馬鹿しい 世界には自分しかいないという妄想。
世界には自分以外の者しかいないという妄想。
世界には自分も自分以外の者もいるという現実。 生物が無生物から成ると考えることが、根拠のない偏見であり、
無生物が生命活動に含まれていると考える方が自然なのかもしれない。 誰でも、生物から無生物が現れることを見たことがあるが、
無生物から生物が現れる現象は誰も見たことがなく、
そのような現象が可能であること自体、実証されていない。 生物の身体は有機物を含むが、有機物から生命が生じることは実証されていない。 >無機物から有機物が誕生したのは
無機物は妊娠しないので、有機物が誕生したりしない それはそうだ
しかし、地球に生命が存在する以上、無生物から生物が生まれたのか、他からきたのかどちらかだろう
他から来たとするなら、その他のところの生命はどこから来たのか?と考えると、最後は無生物から、誕生したと考えるしかない
ビッグバン時には生命は存在できないから 想定全体が誤っている可能性がある、というより
その想定を支える根拠がない 今やビッグバンは古くなってインフレーション理論に置き換わっているけども 今、宇宙はめっちゃ速い速度で膨張してるじゃん
恒星スペクトルの赤方偏移とかでわかるけど
ということは過去に戻ったら、どんどん縮んでいくということ
どこまでも行けば点みたいに小さくなるよね
それから宇宙背景放射を調べたら宇宙が誕生した時の温度がほとんど均一ということがわかる
場所によって温度がバラバラにならないということは、宇宙が昔はめっちゃ小さかったということ
ということでビッグバンはあることになってる 別に科学的に否定しなければならないというルールはない 宇宙に始まりがある
始まりに生物はない
現在の地球に生物が存在する
だからどこかで無生物から生物は生まれた
これでいいだろ?
どこか変なところある? 筋肉が緊張する病の場合、身体のあらゆる部分について、「皮」を掴んで、押しつぶすようにすると、回復する。
耳たぶや、お尻、脚など、どんな場所でも効き目がある。 自力本願でもない、他力本願でもない、皆力本願だ!!! 現代物理学について調べた上のことなのか?
調べないで書いているなら、それこそ、無根拠な思い込みだ 問題に感じられても、答えがない場合もある。だからといって、考えの行為自体が無意味であるわけではない。
単体の問題だけではなく、繋がりあって何らかの意味が感じられるようになっていることが、かなりあるはずだ。
個人にできるのは、答えがないかあるかに関わらず、一生懸命に考え詰めることだ。
考えより行動だ、などの問題が浮かんできても、それは、人を屈するということになってはいけないし、
それに対して、お前は従えなどと、いう圧力が感じられることもある。
それに対するためには、考えて、その正当性を調べ、自分が感じる不満、憤り、不信に対して、
答えを導こうとする思惟について、それがまず絶対最初に、自分の自由でできる、そして、大事なことなのであると、
思わなければならない。答えを与えず、命令するといったたぐいの感覚について、馬鹿のように従う必要はない。
哲学をやるのなら、考えが仕事だと、思いたいはずだ。僕は個人の意見として、右に倣えでなければいいと思う。 哲学とはもっと柔軟に考えることなんじゃないか?
「常識的にありえない」で終わらせてる人が多いように思う >>858
短く言うと「その言い方が気に食わん」か 無から何かが始まるなら、何かが無に帰しても、それは終わりではなく、
始まりでしかないだろう。何も終わらない。何も終わらないのに、
始まりだけがあるのか。 >>860
うーん、内容の方が気に食わない気がするのだけれど、言い方っていうのも、実に問題となることではある。
>>861
サークルゲームっていうやつですかね。
https://www.youtube.com/watch?v=V9VoLCO-d6U 僕の頭の中では、全てが自立していて、全てが親密だよ。 2+2=80という社会的常識を信仰するよりも、2+2=4という科学的事実を悟る。それが、仏教徒の生き方だ。 みんなが言ってるから常識を信仰する?
みんながどう言おうと現実を悟る? 誰かが言っているから信仰するか?
誰がどう言おうと悟るか? 妄想でなければいいのですよね。そこに、仏教の正当さがあるはず。頼れるほどの考えである、哲学的にはいかに、人、
自己を救うかというテーマがある。大木のように伸びる、仏教宗教の、存在性。迷うことが生きること、
覚めることが悟ること、つまり、自分が一番よく知っていること、それはすなわち、考えの達成。
どこから、いつ、悟りに向けた生き方の、ことを、頭の隅においておけば、文化は豊かになり、
ばちが当たるということは、内的に理解されるものであるという、素晴らしい精神性を、言葉にして、
概念を伝えて、自己について、徹するほどに、自分のペースでいいのですから。 よくわからないことも愛する。
未来も過去もなかったとしても。
一次的な不調にやられるわけにはいかず、
何も覚えていなくても何かはあると信ずる。
そしてすべての差別を撤廃する。
死ぬからこそ生きる。
わからないことが、悪いことだと思わずに、
自分の心を預ける。
他者の悟りと我が悟りは、同じであるとわかるだろうと信じる。 信仰とは、怨念であろう。
宗教信者は迷妄を作り、そのことを信仰と呼ぶ。
耐え難い現実に、迷妄を作ってやり過ごす。
悟りとは、迷妄を除去して耐え難かった現実に適応して行くこと。その過程でたくさんの怨念が、封印を解かれて昇華していく。
だから、信仰=怨念で、悟り=成仏で、迷妄は信仰するもの、真理は悟るもの。 ある問題が解けなくても、ある程度のところで、「自分の意志を使って」諦めほかのことへ考えを移せ。そして、
色んな事を、考えたり、移ったりして、沢山の問題を抱えていて、それを考えていることになる。それが効率が良く、悟りでもある。
意志を持つこと、意志を使うことであり、他人をうらやむ気持ちは、全くなくなる。こだわらず、いくつかの問題を、同時に抱えながら
生きることになる。それが、普通な、良い方法なのである。誰にも、何にも、過剰にコントロールされないのである。
気持ちが楽になる、限界を責められない。
なんとすればそれは、課題の問題を、自分の問題として自分の能力で片づけることである。 >>871
怨念は、反省していることの証拠(問題化はしているから)。迷妄の除去は、一種のセオリーを導き出すことによる。
その段階によって、悟りの段階が違う。真理とは、自分ではどうしようもないもの。であるから、色即是空と、放り出すことに、
悟りの態度が見られる。 アブサロムが父のダビデに叛逆し、それでもダビデがアブサロムの死を望まなかったのには、なんらかの背景があると思うの。なんだろう、それは? >>875-876
フォークナーの小説からとったのですが、Wikipediaによると、
「人工の基準や環境のもとで一人の人間が他の人間よりも優越し威張るのは間違いだという信念です。彼は少年の時、ある大きな家を
訪ねたが、その家の召使いから、裏口へ回れ、と言われました。彼は自分に誓いました。おれもあんな大きな家に住む人間になろう。
そのためにはどんな手段もかまわない。かくして彼は人間の品性も名誉も憐憫の心も捨てさったのであり、そのために運命から復讐をうける。」
というのが小説の主題だそうです。
とても綺麗な表紙で、僕は、永遠を感じたのです。 >>877
そうですね、神話の意味というのは、深いものがあるでしょうが、父と息子というのに、矛盾した感情があるでしょう。
もちろん血がつながっているし、顔も似ているでしょう。許し、分かり合うはずだったけれども、別の部下が、
殺害することになってしまいます。そして、その死によって、神話が、神話としてあるテーマを絶対化する
という機能を果たすことになったのではないでしょうか。 ブッダ
↑
サイコパス
↑
普通の人
↑
自己愛人格 注:880のブッダは、ガウタマ・シッダールタ個人を指す固有名詞としてのブッダではなく、悟りを開いた人を意味する一般名詞としてのブッダの意。 身体的にも精神的にも、富める者が貧しき者を嗤うなど、話にならぬ。 「悟りなんてもともとない」と理解することが、即ち悟りなんだよ 超社会性人格=悟りを得た者
↑
非社会性人格=サイコパス
↑
社会性人格=普通の人
↑
自己愛性人格 日本語を捨てて英語を母国語にしろってくらい無茶な要求。
そんな要求は誰もしていないから、もしそう強要されているとしたら心の病気だな。 未来がある限り
言葉はある
今ここにいるつもりなら
言葉はいらない 一般社会人僧(不出家出家者)
在家出家者
出家して僧侶になることなく、一般社会で生きながら、同時に悟りを求めて修行する。聖俗両界を同時に生きる二足のわらじである。
その生活は、僧侶と一般人の両方を同時に行うのだから極めて厳しいだろうが、過酷なその修行で悟りを得て、一般社会にも適応し、得られるものは大きい。 今日は温度計が示す気温の割りに暑い感じ
湿度が高いのだろうか >>890
執着無くしては俗会で生きられない
一方で出家は執着をなくしていくこと
生き方のベクトルが全く違う
両方やると中途半端になりそう と言うより日本の仏教で悟るのはほとんど無理ゲー
素直に上座部圏で瞑想したほうがよろし 娑婆も修羅も祇園精舎もサンスクリット語から来ている
禅 も元はサンスクリット語で「瞑想」を表す
昨今 親が世間の為にニートを殺して
問題になっているが
この日本人の呪縛の世間もサンスクリット語から来ている 世間の原語であるサンスクリット語のローカ「loka」は、「砕く」という意味の動詞「luj」から派生して「滅すべきもの」の意味である。
要するに世間は滅ぼすものであり
今回の事件は官僚の親が 世間という漢字の裏側にあるインドのローカの神様の呪いから
解脱出来なかったと考える方が早いだろう >>894
なるほどー。世界観が変わりますね。世間や社会といったものの性質が、インドでは哲学的に、言葉からきている感じでしょうか。
言葉においてこそ、場所が普遍性に開かれてもいる。 引き寄せの法則
自己愛性人格は自己愛性人格を、
社会性人格=普通の人は社会性人格を、
反社会性人格=サイコパスは反社会性人格を、
超社会性人格=ブッダは超社会性人格を、
引き寄せる。 社会人は社会的にどうなのか
共同体としてどうなのか
家族として考えてどうなのか
と考える
瞑想は 自分の全人生を賭けて
どうなのか
悟りとは何か 全生涯を賭けて
何なのか と考える
存在とは何か と
これの違いかな
仮に出家制度をどのような基準で決めるか
となると こういうことだろう 家を出る
仏門を開く
山奥で修行する
とかはあまり関係ないだろう
共同体にいながらでも
労働をしながらでも
瞑想は出来る
存在とは何か
問うことは出来る
要は心持ち次第
従ってあらゆる宗教や個人や大衆や
俗世間が求めていることと変わらない
それは己の魂はどこにあるのか
ということ なまじっか知っても根拠がなくあやふやに己を高しとするだけだから
出世の頂点を極めてから職を引かれたらよろしいかと。 逆だ
根拠がないから久遠の安楽があるのだ
喜びが自分のモノに出来ないと同様に
悲惨さも実は自分のモノには出来ない
どうして悲惨さのみが
己の責任と言えるのだろうか
喜びや快楽は
私が起こしました とは言わないでしょう
それは出世感の悪魔である この世(此岸)=身体世界(身界)
あの世(彼岸)=精神世界(心界) 悟りとは
超簡単に言えばブラフマンに出会うことである
あるのかないのかわからない
言葉の記述の伝言ゲームで2000年も
この教えが持つだろうか 生きとし生けるもの皆を自分自身を愛するように愛する。 生きるのが苦手で、ひきこもりはどうしたらいいのでしょう 一時的に不安になってイライラするときは、手で体を触ったりして、体を動かすと、けっこう落ち着けると思います。
結局、他人が恨んでいるとか、悪意であるとか、いじめとかでなければ、なんとなくの不安は、解消できるものですね。 人間は、過去を現在に持ち込むことができる。それは、確かにイメージでしかないが、もともと人間は現実の全ての姿を得ることは
出来ないのであり、特に過去について、厳しく制限する見方をしないこともできる。
時の運航や、モノの世界に、影響を及ぼすことができなくても、個人にとって、例えば時間感覚がおかしくなった場合、
それから回復するには、思い出す過去を、現在において組み合わせることで、より新しい人間的感覚に、人間として正しく、
個人としてより快適、創造的に、生きることができるのである。人間が新しく創造することは、悟りの段階を上がることでもある。
もちろん、仏教においては、多数の真理問題を扱っており、その真理を、逃れられぬ限界として認めつつ、
自分が真理から引き出せる何かを持つならば、それが、例えば過去と現在を組み合わせることで見えて感じられること、
そこに安心を見出すものであるという道程を付けることは、大きな意味があると考える。
個人の精神、認知、観点といったものを、豊かにすることが、生きるためにまずは一つ大切な、価値なのである。 悪魔や妖精の世界に興味ない?意固地な僧侶は無能でしょ? >>910
いやあ、あります!「夢幻の心臓」シリーズが好きでした。容赦なく殺されるんですよね、プレイ方法分からない状態だと。
なんか、暗い感じの悪魔とか、からかう妖精とか、めちゃ面白い。僕は割と意固地な僧侶ではないですし、意固地でない
僧侶と、議論したこともあります。僧侶に意固地性が加わってくるのは、一体何でなんでしょうね。世代理解も
重要かも? 眼鏡のつるを調整すると、精神病が治ります。漫画家がヒットを続けられないのも、多分目の使い過ぎによって、目の筋肉が、
おかしくなって、身体に不調を起こすことが度々あるからだと思います。例えば仮説として、統合失調症の遺伝子が、
そういう不調へと、至るような要因を持っていることがあるかもしれないというふうに思います。
つまり、ある年齢において病状が現れるということは、目が悪くなって、だんだんといろんな段階を経て、環境(目の酷使)に起因する、
病原のトリガーが引かれてしまうという風に、自己解決を目指して達成した例は、一個はあるわけです。
それが、何らかの運命を予感することを、引き受ける、ある種の受難として、先々の未来を生きるために必須とされる、
生きている死を味わうという特別な経験が、重要さを変えるべきであると、予知的に、大きな影響を与えるキーの一つとして、
回復したなら、死からの生還と呼んでよいような経験であって、そこから何らかの社会が回る際に、気を付けて、
アドバイスを与えていくことに、優しく優れたお医者様であれば、そう言った可能性を研究されるということが、
重要な課題として、私の意見を、必ず見過ごしてはいけない重要さを含んでいることを、予知しておきます。 仏教徒が腹を立てないのは忍耐力を鍛えたから・・・ではなくて
腹を立てる事象がそもそも虚構だとわかっているから 怨念をなだめになだめて、やっと成仏して頂いたのである。 「冷静になる」ことは、非常に大切です。そういう態度を身につけて考えることが、論理的な考えをすることに、慣れ、
不安、不満、その他の不利益な問題を、解いていくという、かすかに人間ができること、そして個人にとっては命であること、
それらを解くことができて、感情によって避けてしまっている問題も解けるのではないかと、考えます。
不快感と、愚かさとには、強い相関関係があると思います。 無生物→エントロピー増大。
生命体→エントロピー減少。 自分のためにこそ笑う、瞬きをする。運転も、自分が危険であるからこそ、安全に運転する。車に衝突したら死亡であるから。
対人関係(店員との応対など)も、全て自分のためとして行為せよ。生きるのは、全て自分のためである。全ては、自分のた
めであり、自由は自分のために使うしかない。それはもちろん、他人のためでもあり、社会のためであり、他人も自分を幸せに
するしかない。そのうえで、人を幸せにすることができる。 他人が自分を越えたものと思っていることに対して、それを妬み嫉み、否定しようと思う権利はない。 漫画が面白いのは、人にはイメージを次々と作る能力があるからだ。時間が進む中で、概念の連なりによって、文章も、絵も、視界も
音楽も、理解できる。そして、その連なりこそが、人間の最も優れた能力、つまり想像力である。無意識のうちに獲得されたその能力も、
失ってしまえば、取り戻すまでは時間がかかる。だが、コツを掴めば、もう、個人は思考力について悩まずに済むだろう。
その思考力を働かせてこそ、生きる意味と、楽しさ、嬉しさが、ありがたく得られてくるだろう。 土地に建物が建っている。
極めていい建物ならば、そのまま住めばよい。
リフォームする必要があるのならば、リフォームすればよい。
建て替える必要があるのならば、建て替えればよい。 何も飾らずにストレートに描写すると、昨今の日本の文芸活動から
導き出された解答は、こいつらが精神の疾患及び勃起障害に悩む病者である
ということ、という元も子もない話になってしまう。
ここはやはり状況描写に文芸の力をお借りしたいところだ。 私の考えだが、ポジティブシンキングというのは、次々と積み重ね、未来を得ていくような考え。逆に、ネガティブシンキングとうのは、
過去を振り返って悩むという考え方。 本当に責任を全うしたのならば、責任転嫁などする必要がないはずだ!
俺は、死ぬときに言い訳などしたくない!!! 仏教の救いとは、生きる人間を救うということである。なぜ救うと思うのかは、人間の全ては、孤立して悟ることはできず、煩悩を
得た状態を自覚せざるを得ない、というほどに苦しむ人間を、自分の姿と同じととらえ、結局は、救うことを、心の底から
湧き上がる思いによって、救いたいと思うからだ。つまり、煩悩の裏返しが悟りを求めること、また同時に信仰であるのだ。
私の考えでは、煩悩で頭がいっぱいになるほどの思いを受けること、この状態は悪くない。そこを足掛かりにして、
考える。
それはすなわち、理論を立てることである。日常的な作法、人間関係、愚かさゆえの悩み、そういったものを、解決できる
方法は、常に常に、理論を立てることである。これはこういう理由でこうなっている、ということ、物事の進め方として、理解をもち
応用できるならば、それは良い理論である。物事は、だいたい、理論化することで、解決する。
頭がいっぱいになること、自分で立てた理論でいっぱいになること、こうした状態からこそ、解決することの意味深さ、
rewardはあるはずである。
一般人の悩みは、一切皆苦として、確かにある。生老病死は訪れる。そのとき、頼れるものこそ、自分の理論構築能力である。
能力の程度ではない。行為意図、つまり悟りだ。そういったことに自覚的であるということは、少ないのではないか。
物事の認識が、理論的であるということ、こういった常識を、私は、愚かさ故にであろうか、全くわからなかった。
だが、前述のように、今は知った。 社会において個人というものは、自分で方法、能力を身につけなければならない。具体的な例を言えば、
道に迷ってしまう。ここで、人に道を聞くことは良い。だが、例えば地図を持っていて、私は地図が読めないので、
「代わりに読んでください」と言えば、唖然としたことだ。ありえないだろう。
だが、そうでもない場面もある。それは、「育てる」ということだ。
親は子を育て、教師は生徒を育て、新入社員は仕事ができるよう育てられる。
また例えば、人間は、植物を育てたりする。植物が水が足りなくて、枯れそうなとき、「苦しいよー、苦しいよー」と思っている
かもしれない。それは、植物が何も言わなかったとしても、水をやらねばならない。
つまり、育てるということは、特別な関係なのだ。一種、自然なことなのだ。
釈尊は、イメージにおいても天才であったと思う。最後の言葉、「自灯明、法灯明」を聞くと、自らが灯りを灯し、
法が灯りを灯している、感動的な光景が、浮かぶのである。解釈にはいろいろあるだろうが、私が思うのは、
自分と法が、それぞれ別の原理であったとしても、法と自分が別のものでなくなるような世界の知り方もある、
ということだ。私が灯し、世を理解する。法が、世の人それぞれに火をともす。法には、差別がないのだ。
私自身にも、もちろん自分で自分を差別するなんてことは、ないだろう。
「この世は救われている」ということを気づかせることを、釈尊は見出されたのではないだろうか。 人間関係
身体的関係
肉体関係のことではなく、損得の結び付きのこと。
精神的関係
恋人や親友などの特別な関係のことではなく、善悪の結び付きのこと。
二つ合わせて人間関係 公案
いい人は、いいお坊さんと仲良くなる。
悪人は、悪僧とつるむ。
これも、何かの因縁なのであろうか? 悟りを得る目的は輪廻転生から逃れるためでしょ?
そうしたら現代の人はそんなもの元々ないと分かってるのだから、みんな悟ってるということなんじゃないのか? 悟りとは
手の上に棒を乗せてバランスを取る曲芸がいつでもできること。これが、悟りである。24時間365日この曲芸をしていることが悟りなのではない。 こ悪業を積んでるひとにこれ以上悪業を積まないように、善意でポアしてあげるのはありですか? 日本語の「神(かみ)」とは、甕(かめ)がその内部で働かせるような
反射作用のことだと思うのです。
悪業を積んでる人を善意でポアしてあげる必要はありません。
自らの悪業の結果が反射作用として自らに向かうようにしてあげればいいだけです。 人間には、二種類の世界がある。一つは、現実の空間、現実のイメージ。そして、それだけではなく、夢を見るということに
証拠を求められるような、空想の世界、空間、イメージ。空想の世界では、あらゆる種類の動画がイメージできる。
そして、寝るときにするように、飽きずにいつまででもその中で遊んでいられる。二つの世界は、お互いにあまり
干渉しあわなくて、むしろ、両界を行き来することになる。そして、普通に得られる現実の世界と、
なかなかの存在である空想の世界を、行き来できるという脳の力によって、何らかの創造を成し遂げることができるだろう。
生老病死は、自分の体に起こること。精神病は、現実も、空想も、どちらも働かなくさせる。したがって、
精神病に陥った人間は、まさに体までも感覚を損なっており、ない体で、無際限に生老病死を抱え込むことになる。
だから、精神病は、心身の両方をなくすことだと言える。だから精神病は、治さなければならない。
その方法は、体を治すことにあると、私は考える。特殊なので、余り参考にはならないかもしれないが。
あえて言っておけば、首を斜め上に、伸ばすことである。そのようにして、首の骨が、固まっていたものが、
一斉にほぐれるのである。
さて、生老病死をどうとらえるかだ。それは、空想世界の独立性を、使うことだ。空想世界ではあらゆることが可能だから、
生老病死を自由に取り扱うことができる。心頭滅却すれば、火もまた涼し、という言葉の通りである。
空想界による、悟りへのアプローチは以上である。現実に手ごたえを感じて、現実を自由に操る。
この二つの行為こそ、健全な人間としての、生誕である。
苦しさは、空想で取り扱えばいいのである。現実は、もともとの資源である。
一つではなく、二つあること、このことが、個人の尊厳を、強く支えるものである。
何も、筋力がなくても、生きる上で大した支障はない。二つの世界に、考えを託すことによって、強くあれる。
死の実態は不明であるが、空想がその苦しみを、包むように思う。死を受け入れるためには。この二つの世界が、
自分から離れていかない、最終的な力なのだと思う。
精一杯、自分の好きなことを、出来るはずだ。そして不安も、怒りも憎しみも、全て解消される。 偽悪家は、悪人。
善人は、偽善者。
偽善者は、悪人。 悪人は、悪人。
偽悪家も、悪人。
偽善者は、悪人。
善人も、偽善者なので悪人。 偽悪家が善人なら、善人は偽善者であり、偽善者は悪人なので、偽悪家は悪人。 偽悪家も悪人
善人も悪人
偽善者は悪人
悪人も悪人 偽悪家=善人
善人=偽善者
偽善者=悪人
偽悪家=善人=偽善者=悪人 精神性を無視した身体性 冷酷
身体性を無視した精神性 バカ >941
釈迦の言う輪廻転生は魂の生まれ変わりのことではないよ
苦の回転からの解脱 物語の世界からの解脱 有罪か?無罪か?
有罪→罰あり
無罪→罰なし
情状酌量の余地があるか?情状酌量の余地がないか?
情状酌量の余地あり→減刑あり
情状酌量の余地なし→減刑なし
あらゆる罪は、公明正大に裁かなければならない。そこに個人的感情を入れて有罪なのに罰しなかったり無罪なのに罰したり、情状酌量の余地があるのに減刑しなかったり情状酌量の余地がないのに減刑したりしてはいけない。 殺せども殺せど死なぬ我がエゴは
殺し殺して殺して死んだ 人間の感覚器には限界があるから、物事、例えば文章、視界、音楽、時間感覚などを、連続的にとらえる必要はない。
注目点のみを、考えるので良い。一種の感覚信奉のモノマニアから悟りの方へ至れ。 基本的態度として、出来る限りの全てを把握せよ。文章もそう、脳や身体の調子もそう、店の様子もそう。
ケンカになりそうなときに逃げるための逃げ道を、確保しておくためなどである。気を配ることのコストは、
ほとんどない。文章などの全てを、把握するためには、注意力を働かせることである。
注意と言うのは、意志と慣れの問題である。 意識の状態を全て把握するというのは、とても快感なことであり、飽きることなく続けられる。岡潔が重視しているような、
情緒のようなものであるように思われる。 呼吸が苦しいことは、辛いことであり、どう辛いのか、外に立って説明することができないことである。
その結果、怨み、怒り、憎しみなどになる。呼吸が自然にできるならば、負の感情は持続しない。
呼吸ができないならば、あらゆる作用に対して、否定の感情を持つようになる。 仏教には、所有幻想説がある。
北朝鮮と韓国の領土は、憲法上それぞれともに朝鮮半島なんだ。だが、事実上はそれらの領土はそれぞれ朝鮮半島北部、朝鮮半島南部だ。
これって、所有幻想説の根拠にならないか??? 覚者は他人に、自分と同じだけの時間で悟りを得ることを求めてはいけない。いやそもそも、悟ることを望んでいない者に悟ることを求めてよいものだろうか? 覚者は他者に、自分と同じだけの時間で悟りを得ることを求めてはいけない。いやそもそも、悟ることを望んでいない者に悟ることを求めてよいものだろうか? 覚者は悟ることを望んでいない者に悟ることを求めたりしないし、そもそも自分と他人が分割した存在であるとの認識が虚構だと知っている 生物としての自己=修行者
無生物としての自己=覚者 悟りを失っても、また得られるさ!その時まで生きていればね!!! 生きてりゃ悟りは得られる。何度だって得られる。絶対確実に得られる。生きてさえいればね! 意味を作っているのは自分の脳の中で、意味を滅尽した先に悟りがある 形だけの愛には、形だけの愛が返ってくるでしょう。
本当の愛には、本当の愛が返ってくるでしょう。 あなたが形だけの愛を欲すれば、あなたは形だけの愛を手に入れるでしょう。
あなたが本当の愛を欲すれば、あなたは本当の愛を手に入れるでしょう。 欲するものを手に入れるのです。要らないものを捨てるのです。それがあなたの一生です。 あなたは本当は欲しくないのに、欲しがっていると思われたくてそれを手に入れた。
あなたは本当は欲しいのに、欲しがっていないと思われたくてそれを手に入れなかった。 奴隷でない人を奴隷にするのが愛か?奴隷にしないのが愛だ。
奴隷を解放しないのが愛か?解放するのが愛だ。 渇愛を否定し、慈悲を主張したブッダの言いたかったことは、これだよ! 欲しいということに拘るなというのが仏教の教え
欲しいものに拘れば、欲しいものが手に入らないという苦しみが生まれる 悟っているとは、悟るべきときにいつでも悟れることを意味する。二十四時間三百六十五日意味もなく悟っていることが悟っていることを意味するのではない。
むしろそういう人は、そんなことしても無意味だと悟っていないのだから、悟っていないとすら言える。 飛んで火に入る夏の虫、火が悪いか?虫が悪いか?
その程度の判断もできず、よく今まで生きてこれたな。 悪いやつを悪くないとし、悪くないやつを悪いとする。これは、論理的にも倫理的にも間違っている。 花と団子、両方とも滅多に得られん。片方でも得られればかなりラッキー。両方とも得られればすさまじくラッキー。 花と団子、零兎が普通、一兎は稀、二兎はまずほとんどない。 花と団子、得るも保つも、零兎が普通、一兎は稀、二兎はまずほとんどない。 正誤を共にする
損得を共にする
善悪を共にする
苦楽を共にする 寂しいですね、気が付いてみるとですね、時だけが虚しく過ぎたのですよね。 でも、大丈夫。今の子供は、順調に社会を構成していく活力がありますからね。 読み書きや、様々な教科で、立派な学習も、多くの人が受けてきています。そうではない人も、PCとかで何でも調べられます。
今、困難があっても、きっと自分の過去には、自分が学習してきた体験があり、それを振り返れば、どんな問題とも、
格闘する力があるということがわかるでしょう。 このスレッドは1000を超えました。
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