悟りに近づくために10
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>>976
そうですね。意味を意味で返すのでなく、感情で返してもいいという風に思います。もともと感情を威嚇しようと
思っている人との会話を続けるのは苦痛であり、おかしな関係ですね。
もともと僕は、繊細で、割と感じやすい性格なので、気を張り続けて今は疲れてしまいました。
さっき、感覚のまま、感情のままに物事を理解してみると、自分にとって自然な気持ちがあふれてきました。
自然体を忘れてしまえばまた気が張ってきますので、自然と分かるもの、への視線を忘れないようにしたいです。
>>977
作り笑いも、きちんと習得したいです。
韻ですね、素晴らしいです。頭子韻を除いてまとめた漢字は、古くは二百六、現在百六の分類があるのですね、
漢字に詳しくないのですが、ちょっと調べました。 前向きに生きるのです。過去を振り返ってはいけません。過去を思い出してばかりいても、それは思い出に浸って、
自分を忘れてしまっている状態なのです。
前に進もうとする状態に、自分が行けるのだと思いなおさなければ、自分の生の全ては、愚かしい、めそめその、
幽霊的な、現実否定の人間否定の自己否定の自己満足だけにしかなりません。
前に行く人間にしか、有能な仕事はできません。そして、なくしたものを、手に入れていたと思い込むことは、
気持ちの基準によって、物事を比較しているだけなのです。
そうです、理想と現実の比較には、積極的にとらえられる意味はないのです。過去の憤怒、悲しみ、
そうしたものしかないのならば、それは、本当は何の意味もないものを繰り返しているだけなのです。
生きることを止めるのは、自分の意思を感覚していない人間に訪れる取り返しのつかない行為でしょう。
自らは前に進むぞ、過去を振り返らないようにしよう、と心がければ、生きることの意味が、ありありと
前に見える、未来の時間が、自分を包むオーロラのベールの様に、ひらひらと可能性の踊りを繰り広げるでしょう。
そのとき、きっと物事を処理する能力に対して、自分が欠けていたのは何なのかと気づかないではいないでしょう。
苦難に対峙することは、とても簡単なことです。苦難は過去のしがらみや、思い込みが気持ちを引っ張っていることが
原因であるでしょう。安心でも神秘の謎でも、人との協力関係でも、創造性の発揮でも、全ては、未来に生きようと
することで、自分の力で取り掛かることのできない問題は、無いのであると思います。
なぜ生きるのかという問いに答えるなら、未来を自分が楽しむため、生きているということの摂理を、知っているのだから、
という答えを、僕は与えます。立ち上がるためには、苦の力の及ばないところ、即ち、時間と気持ちの両方を、
使うことをすればよいでしょう。 最終的には、一人に行きつくのかもしれない。生まれたときはお腹の中にいたのに、死に際しては一人、
さらに生きていくことも一人。それを、否定することもしてはならないことだ。孤独で心細い、というときにこそ、
人は真に生きているといえる。なにかの記憶をまといつかせて、その意識に目をくらませてしまう、それは
大変に申し訳のないことなのだろう。孤独になり切れない人間は、誰かに依存していると論理的に言えるであろう。
その依存状態においては、自分から考えたことはあるとしても、それを受け取ることが出来ない。
自然の中にある人間が、その自然を受け取ることさえ目くらましせずにはできない。言うまでもなく、
自然から離れることなどできない。すると、そうした集団性を必要とする人間は、集団的な進化の方へと
進むのかもしれない。だが、僕自身は孤独の方へと行くのが、一番自然で、意味のあることだと思う。
それは、自然が、傷ついて人間を拒否するようになり、人間の集団的行為が動物の種を滅ぼしたり、
環境を破壊したり、さらに人間同士が破壊しあったり。集団的行為には、そうした無責任な放埓
をこそ称揚していく傾向がみられると思う。これは、集団内の個人にとっては、自己の記憶の破壊を引き起こし、
まやかしをさえ素晴らしいとみるほどの、錯誤の状態にある判断を下すようになる。
だから、孤独の寂しさを、噛みしめ、その条件の中で、個別的な人間になるべきである。その上でなければ、
個人が共同体を作ることは、意味がなくなるだろう。上で述べたように、集団性は非自然性であるということが
言えると思うから。テクノロジーが未来の状態を左右するという、特殊な状況に至ったのだから、一層
個人的な知恵と判断力と胆力と想像力を備えた人間にならなければならない。
このことは、他人と関わり方が、自己のアイデンティティの中核の大きな部分を成すということであると考えて、
自己の成長において、新しい人間にならなければならず、自然観と言うものの変化と、人間観といったものの
変化が、二つながらにして、悟りの獲得から、言えることを規定する。時代の喪失は、孤独との対峙を促して
いるといえるだろう。強く優しい人間になる。孤独がなければ連帯はない。 初めの1歩さえ進めれば、あとは本能の赴くまま、
失敗や挫折、そして超えられない壁もあるだろう、
完全な壁で閉ざしても、そこに星が見えるかぎり、星を目指す、
1億光年先の星だとしても、物理法則など破ってしまえ、
その姿勢をとめるものは誰もいない、物理法則でも否定できないのは
変化すること、完全な静寂と完全な無なら今すら否定しなければいけない、
時間は進む、すこしづつ、そこに積み重ねされる僅かな希望は、
大小あれど未来へ進む、決して過去には戻らない、まして人が作った知識や人知法則
などがそれを変えれるわけがない。
根源にある変化をするという抽象的本質は、どんな解釈をしても裏切らない。
裏切るのは常に人の言葉、人の知識、人の所業といった具体的な事実や解釈認知する意味だ。 過去は自分だけが持っているものではなく、世界の内にあるという共通性がある点で、自分だけのものには
ならない。一方、未来は誰も知っていないものであるから、自分だけのものとして実現を行うことができる。
意志こそが個別性であり、全ての人間に備わった、生きるための能力である。過去に触れることはできず、
未来を掴む(即ち、自分の位置を左右する)ことは可能である。
エネルギーは現在と未来だけに関わりがある。過去の来歴は、保存されたイメージのみによって知りうるから、
エネルギーは現在と未来のみのものである。
エネルギーの流れる方向へと未来は現実化される。エネルギーのないものは、物質ではなく、情報である。
情報を受け取るものは、何らかのエネルギーの、多寡によって、区別される。
過去に向かってエネルギーを向けられるか?
情報の札のついた、エネルギーの流れ、その関わり次第においては、過去に再会することは可能であろう。
だが、情報の札は、時間自体により受け取ることが出来るのであり、情報の札を張りなおす事が、
一体どのようになされうるのかという点で、札の認知が現実に関係するような場面は、認知者以外には、
全く存在しなかったのである。札の登場は、認知者の発生によってはじめて可能になった。
老いゆく存在者は、その存在の変化をコントロールすることが出来ず、書き記すことによって、
自らの存在のその場その場の重要な情報を、残すことになる。残されたものは、拾い上げられうるが、
存在者の変化の全てを印すことはできないと思われる。
物理法則にしたがった現実の整合は、整うという点で、稀少な場合となる。すなわち、物理法則が物質の
普遍的な構造をもたらしており、再現性という点で、まったく昔も過去も変わらないものであり、
それが、一つの救いをもたらす。すなわち、重要度の違いが可能になること、特に、重要度の低いものは、
主張せず自然に任せ、重要度の高いものは、自らの手できちんと整えなおすことが出来る。
エネルギーの担い手としての人間には、「自己の考えているということに基づいた法則」が可能になっており、
その力は、使いうる力として、認知とエネルギーの流れを、操ることが出来る。奇跡的な認知が行なわれる可能性もある。
凡庸さのなかで、願うこと、それさえも、自らの意志に関わりがある。 小さいものと大きいものの感覚は、自分の中にあるだろう。脳の部分の大きさなども、
自分の感覚で思えるようになれ。ストレスの程度も、自分で思える、強さを把握せよ。
小さい、大きい、という大きさについての感覚は、自分に与えられているものだ。それに従って、物事を測り、認識する。
個人が想像するものの中では、個人の感覚を変えてしまうものもある。
生存で必要とされた、評価するという能力は、あらゆる認知において、基礎となる。
評価できる力があれば、特別な奇想を作ることが出来なくても、やっていけるはずだ。
小ささに繊細さを感じて、大きさに雄大を感じる。そこから心は出発しなければならないだろう。
自己は、左右されるばかりではない。自我の危機の時には、不快な言葉を操る文化人、そういったものに影響されずに、
自らの基本的能力を、確認する、そうした大小が分かること、それに立ち返ることが出来る。
囚われないことだ。自分のメジャーは自分が持つ。何かに対して、自分が遅れていて、人の方が立派に見えたりして
悔しい時も、一時の涙を呑み、評価の上で判断すればよい。 未来へ行こうとする意志は、どれだけでも強く、消えるまで未来を追求することが可能だ。過去についても
好きなだけ追求できる。未来も過去も持続的に存在し、未来へ行くこと、過去へ行くこと、その過程も、時間にさらされる。
人間にとっての時間と、物理的な環境の時間の二種類が存在するということが、素朴な実感であろうが、その二者のうち、
人間が体感する時間というものに、真理を見て、その真理はまさに物理的時間と同様の時間というものと一致する。
すなわち、追及の末に(時間についての)感覚と、実在が一致するのである。そのとき、感覚と実在が、
現実の中では同じになるはずである。そのようにして、真理は主客の両者を、一つの関わりの、点様の、ただ一において
統べ、統べられたものは、真理に、抱かれるだろう。そして、人間にとっての大きな謎の一つが、過去と未来はどう関わっているか
ということだ。記憶という物理的な機構に過去と未来を任せるとき、完全性は求められず、パラドックスに陥ると思うのである。
パラドックスが観念的であるのはそういう理由からだろうと思う。パラドックスの向こうに、人間的謎を解決する、或いは黙って諦める、
そういった態度でしか、謎には向き合えないが、私が重く見ている感覚というのは、未来と過去を得ることの方にある。
未来と過去とはいったいどんな関係にあるのだろう。それを考えると、自分自身の永遠の認識と感覚において、カジュアル平明な
天地の存在と、人間の認識の明らかさが、属している原理の世界に於いて、本来的な運命として受け入れなければ
ならない方向は、良く指示されているようだと思える。指示されているものとは、自己の限界性を作る、言葉(ファンクション)
と、無限の複雑さを生む論理の複雑さとの、絶望的なまでに閉塞的な、生きている人間である。
死によって解放されるとき、限界内にあった自己は、消えるということと引き換えに、限界から解き放たれる。
それは、色即是空という言葉のとおりであると思う。二者の間での取引とその結果である。あるのは、人間と自然であり、
関係というのは、本来的に妄想なのである。それは人間だけが解くことのできる関係であり、またそれゆえ、人間の価値が、
他者からは認められるのであり、その真理を言葉にして伝えうるということは、もっと大きく努められるべき事だ。 >その真理を言葉にして伝えうるということは
伝えるのではなく、生み出せ、
伝えという意志はあれど人の認知は万能ではない、万の言葉で真理に達したとしても
生まれる一言には及ばない。
伝える何かの扉を開くのは常に受け手だからだ。
理解させるのではなく、気が付きを、ひらめきを、ときめきを
お花畑の思考はお嫌いか?
美しさという煌めきは、個々の本質から生まれ真実に帰着する、誰もがもっている力だ。
そういう夢をみた。 >>11
あなたの持っている関係と言うものがどんなものなのかは知りません。関係を解き、それを誰かに伝えるという、一方通行
である行為を相互に、もたらしあう、そのようでなければ、真の親しみ、真の関わりではありません。人を必要とするならば、
そのときにこそ美しいものが生まれる素地があるのだと思うのです。他者の見方が一方通行で、自らの限界が消えゆく運命を示す、
それ故、伝えることにより他者と自らが、相補的に一となる。生み出すということが、自らの「最大限の行為」であるでしょう。
時の場は広がっている、だからそれを行うのが良い、自らの力を使うということは素晴らしいことです。
妄想というものが欠いているもの、誇っているものは、それは完全な力と、不完全であれども美しさの神秘という裏の力、
であると思います。生むことにより、妄想が現実のフェーズへと足場を見つける、新しい世界に自らを運ぶ、そのようにして、
神秘は神を手に入れる。人間と神は、融通され得るものである、不完全な妄想と、完全な真は、時間を通してつながっている。
自己と他者は、人間と神の関係と同じようなものであると考える。人間と神が、生むということを通じてわかり合えば、
自己と他者が一方向の時間の流れに乗り、たどり着く未来という一方通行は、それでよいということになる。
お花畑は──咲いた花に飾られており、花が咲いているということが、すなわち生むということを、現実への表れとしてよく示している。
一輪の花には、全ての叡知神髄が凝縮されており、生むために生まれた人間、咲くために生きた花、花同士が受粉のような関係に
とどめられているとはいえども、花を救いとるのが仏に違いない。
本は読まなければわかりません。言葉は内実を与えなければ記号です。考えることによって、ときめきが──。
生んで育てるような、命、命は無駄に使わないこと。
自然な感情の働きを知らず、間を、途切れた空虚としか見ず、追い求めること、それは現実を自らに引き寄せたいという
渇望から生まれるのでしょう。全ては、自分の見識であり、世界観であり、人間観です。空白を信じ、本当の自分は失われないと思うことです。
神秘的な世界こそ、孤独を耐えるためのよすがを見出す場になるでしょう。世界を広げずに、本当の意味を知らずに、おけましょうか? 自と他の区別はどのようにできるか。
例えば、人間が手や足を動かすには、筋肉に力を入れることなしにはできない。
だが、例えば整体は、他者の手を使うことで関節を動かし、それが特別な経験となる。
同様に、思考とは、自らの脳を働かすことによるのであるが、関節などとは違って、外界からの刺激に、
極度に弱い。自と他が半々くらいの割合で、思考をしているのではないか。思考における自の働きを止めて、
他からの働きかけを最大にしたとき、何が起こるのだろう。自の考える働きは、消えることが出来るだろうか。
もしそれが消えれば、整体で治療をしたのと同じ効果が脳に起きて、自の刻印から解放される。意識からの脱出だ。
一方、他からの全ての刺激をはねのけて、全てを自によって起こすとき、どんな思考であるのだろう。
それについては最後に言及する。
もしかしたら、思考は、自と他の両方の共存を基本とするように出来上がっているのかもしれない。
前者が意思のようなもので、後者は感覚刺激である。
どこまでいけば救われるか。それは、集団的な気付きであるのか、完全に自己によるものであるか。
整体によって筋肉が本来に至ることが出来るとすれば、他の刺激と自の思考の、両方の本来的
ありかに、思考を合わせることが良いのではないだろうか。
人生における自と他を、分けたり混ぜたりして、自分の最善をもたらすためには、苦についての深い洞察を、
体感したとき、同時に全てが知られるようなシナリオを作ってみる。
自己のコリから、解放されることが正しいだろう。物理的な力には勝てないが、勝てるなら、それは
何らかの極度の強さ、対処法を知っていないといけないだろう。持続が時の本質であるように、
存在の本質が、自他の縁起に他ならないだろう。どんな人もそういうことの中にある、それを自覚するならば、
一日、五分、十分の積み重ねで、真理についてのアプローチは、個人的な究極の存在へと至るはずだ。
それを得ることが出来るなら、他者の表情に怯えている自己は、もう悩まされないようになるだろう。
その上で、偉大としか言いようのない宇宙自然と、自己が、再会するのである。苦の果てに救いがある、
そうに違いない。
完結した自と、無限の他によって、全てが自のため、全てが他のためとなる。正なる生=悟りだ。 全を極める術が禅だ、全力には敵などない無敵である、全は無でなければ全ではない、
無敵の仕組みは何か、全とは敵すら全の一部、お釈迦様の手の上で遊んでいるだけ
感謝を極めたとき、すべての壁、すべての敵、すべての障害、すべての不可能は、
味方になる、それが全の本質、全の真理。
そして全がすべてではなく、全は進化する、多様性は更に全の根源を増やす、
その増えかたを創造するのが神の力(死神も含める)だ、GODではない、
関係性の知、すなわちエントロピーが増大する根源の法だ。
人の認知は心にある、心は単独ではなく世界と共にあることを感じるだけでいい。 >>14
なるほど、自と他に分けることもできるが、それらすべてを合わせて、全に含まれるのだ、ということですね。
全体主義というのは、非常に忌み嫌われていますが、心がはぐれてしまったところでは、世界を感じる
ことが、単独ではない、ということ、そうしたものを考えると、社会主義なども、一概には悪いと言えない。
だけれど、言葉のレベルで、全体主義という言葉には少しきな臭い印象がある。
主なる宗教神無き国には、全の働きが、禅などによって標せられているのかも……というのは、誤算誤用の
つぎはぎ国家という観点によるとき表されることです。世界を、感受性の粋まで広げたら、きっと、新しく、
美しく、真実が、特に、視覚的なイメージが溢れた世界が生まれる。新鮮で、知に力ある、印象、コピーを、
進化、させられるの?みんなそこで、引っかかるものですよ。頑張ってほしいです。 全は一、一は全なり、全体主義ではなく個の為に全体がある、全体の為に個がある、
片方だけでみれば全体主義に見えてしまう、個は個であるわけで全に従属するだけの
個など意味はない、個が全の為に全を変えて未来をつかめてこそ全の中の個であり、
個がすなわち全の支配者である、同時に存在しなければ全は一、一は全なり、とはなりえない
全が変貌するように個も変貌する、そして全が個を変えられるように個も全を変えてゆかなければならない
個は全の中の1つでっても個は常に孤独だ、
個と全が天秤で生死の秤にかけられどちらかを選ばされる時がきたとき、個は全の為に
自滅するのがその理屈だが、所詮は人間の浅い理屈でしかない、
個を犠牲にする全など全では非ず、それは「全は一、一は全」の条件を満たしていない、
個が犠牲になるときは全も犠牲になる、共にあることが禅である。
全と個が合わさったとき、僅かだが変化がおきる未来への希望という変化だ、
超えられない壁を越える覚悟を全力ですべてが分かち合うとき、超えてはいけないものを
超えられる、人が理屈で考えれば、全体の1人は犠牲になる思考しか働かない。
全が個であるならば、1人の犠牲すら受け入れられないはずだ。
個々がばらばらに全体を動かせば最小公倍数の力しかだせない、だが全体のすべてが1つの意志と
なりえるとき最大公倍数の力となる。
絶えられない限界を共に背負い共通の苦を超える最大公倍数の力は、共に他の全てを感じたときしか
なりえない、孤立意識の孤独行動から生じる全体行動は、全体意識の全体行動から指揮される個人行動の合力を上回る >>16
個と全なんですね。どちらか一方ではなく。自分らしく生きるっていうことが、無視しえないことですね。 個が重要だ、だが個は全によって機能する、vs 全も重要だ、だが全は個によって機能する
どちらか一方であって、かつ、同時に両方である、それが具体的ではなく抽象的に捉えることだ。
個を重視するには全を重視することが大前提であって、その結果として得られる個を
選ぶということ、全を重視するということは個を重視することが大前提であって、
その結果として得られる全が重要だということ、表裏一体の関係であることを忘れたたとき
片側一方だけが機能する「具体的」思考にたどり着く、それは合理性という極論理の思考だ、
両者がを同時に活かすこと、対称性を持たせること、見える部分と同じぐらい見えない部分を大事にすること、
自分を活かすのは当然であり、その方法、つまり技ではなく術として自分以外を活かすのである、
その結果として自身が活かされるように対称性を天秤で秤とることがバランスであり
これが循環する力を大いなる力といい、然として大きな抽象的な流れとして機能する
それぞれの術は抽象的には何も行えないのでその点で具体性が必須になるが、
それは抽象性を求めるための具体性であって、具体性だけの姿を追ったとき、
全体は自然ではなく歪んだ形、バランスが悪い、秩序がなっていない形を浮かび上げる。 人が意志で物事を達成するときに運任せにはしないだろう、意思をもって思考し結果に結ぶ
だが運任せでいい、自分を運び自分の流してしまう運は、自分の思考で流れを変えることが
できるのだから、運という流れを操作することを考えるのが自分ではなく他、個ではなく全を
活かすこと、すなわち「大いなる力」はめぐりめぐって自分自身に戻ってくる、これが運を操作する術である。
術を具体的に身に着ける方法が禅である。禅を極めることで操作する具体的な術が見えてくるということだ。
その結果は抽象性である偶然の原理、運の流れすら操れる釈迦の力である。
見えるものを操るのではなく、見えないものを掴み得ないものを操る、その方法は見えないだが禅によって
それが見えてくる、貴方の周りに突如禅の力が舞い降りてくる、それは理解するものではなく
感じ取ることだ。
万の理解と言葉の論理をもっても自然にやってきて、突如として見えてくる「それ」は、立ち向かう姿勢と
全ての物へ感謝をもった心より生じる術である。合唱、理解してはならない。 >>18-19
個と全で言うと、個と全の中間、考えで類例を上げれば、「もやっとしたもの」を考えるのが、精密に至る道で
あると思います。考えたうえで、もやっとしたままで取り扱おうとすることはできます。
ですから、もやっとしたものは、視界などでもそうだし、意見でもそうなのです。進んでいくのでもなく、
止まってしまうのでもない、そこに、何らかの意味を見出せそうだ、というか。 個と全には明白な境界線はなく、自分の体、自分の服装、自分の所有物
自分の家、自分の家族、自分の自治体、自分の国、自分の星と、
拡大認知される曖昧なもの。
故に全と個は連なって個別だったものが1つの纏まり、1つの意味として機能しえる、
分かれているが分かれているわけではなく、
人間の肉体だって1つの臓器、1つの細胞、1つの分子といった個と人間という
全体の関係をもつ。
個と全という風に具体さを割り切るからこそ、抽象的な境界の曖昧さが失われる。 努力すること、頑張ること、考えにおいては、今まで避けて、人任せにしてきた思考を、行うこと。礼儀とかの正否ではなく、
何を自分は考えたか、ということが、重要なのである。人のお世話にばかりなっていてはいけない。失敗などでなく、
頑張って多くのことを考えるべきである。
すぐに体系だった思考のためにならないようなことであれ、考えたということは記憶に残る。すると、そのことは、
自分の燃焼である。失敗や汚点といったことを避けていてはいけない。人が助けてくれるかもしれず、また、そうでなくても、
沢山のことをやったという経験になる。
良く考えること。そうしなければ、生きていても死に体である。だらだらとやることからは、精髄は生まれない。
自分らしくなくても、おかしいようでも、その考えに関わることが出来ているなら、寄り道をしてさまざまな考えを
自分で実行することに意味がある。最後は、成果に自らをゆだねて終わるわけではないだろう。
もっとも自分を誇れることは、自らの燃焼を行ったということに基づくだろう。利益の為ではない努力が、
自らにとって欠けていたと気づくべきである。まぐれあたりを狙っていては、自分などはないのである。
少しの違いが、やがて大きな違いとなるというのが、人間個人にとって、まさに真理としておかれるだろう。
つまり、生物的生存を終えるだけではなく、人生を過ごすということ自体が、大きな問題としておかれるような、
自然的ではない概念的な自己を誰もが持ちうるというところに、生きる意味があるのであろう。
麻酔を打たれた人間は、生きていると言えないだろう。自分の知らない自己と言うものを、誰しももっており、
それを発見し、実践することが、後悔しない生き方だ。 缶コーヒーのCMで、ライバルがいるから頑張れるというのがあるが、あれは一面の真実を表しており、
出来る限りの速度で、限界まで思考を回転させることに、神が宿るのである。いままでのんべんだらり
としていたものが、何らかのきっかけや、影響により、自分以上の自分へ至ろうとする、秘めた欲求、
願いのようなものを、現実に起こしたとき、生きるということが、後ろめたくなくなる。病気を抱えていようが、
何らかの負い目が有ろうが、それはいいのである。涙に値するような、心の喪失を、埋められるような、
そんな、結果とは関係がないような個人的な行動を、欠いているということに、気づかなければならない。 このスレちょっと読んでみたけど、仏教の要素が少しも無いね
それでなにが「悟りに近づくために」なのかよくわからん
これじゃ、普通の西洋哲学じゃないか >>24
現代における悟りへのアプローチとしては、西洋的視点も、合わせて考えて行こうというつもりです。
それは、私的には精神病からの立ち直りを考えるため、悟りへの近づきを、使ってなにがしか
意味があればいいなと。怖さや苦しみを、どのように考えるかということ、論理の破たんがあれば、
それをどうやって正しく得られていくのか、ということを、考えています。つまり、全ての人間に共通している、
見識を、一例として得られればいいと。つまり、哲学という言葉が西洋のものであるという性質を持ち、
悟りという言葉が釈尊の思考と仏教のおしえの性質を持つということは、確かなことですね。
そして現代において、重要となるのは、仏教的な事ばかりではない。という、時代をしっかりと認識する
視野の広さを持てば、重要なのはどこからくるかという、一つの重点が色々と考えるためには、
とても自然であり、何らかの気づきが悟りなのか、悟りの、例えば過程などは、いかなることなのか、
そういったことを考えつつ、広く強く人間の思考を救い上げ、その結果、自分が悟りに至りたい、
そうした関心の下に、このスレを作りました。
具体的な疑問を呈していただければ、考えを進めることに、問題を共有できると思いますので、
よろしくお願いいたします。 死に対する恐怖の内で、大きな一つは、呼吸が止まる苦しさだ。それを何とかしようと考えてみた。
呼吸は、鼻から吸い、首を通し、肺に入れる。このうちで、肺において呼吸を止めた場合が最も苦しくて、
我慢も短時間しかできない。次に、喉で止めても苦しい。鼻で息を止めるのが、一番楽である。
このような考察から、息が止まる苦しさは、徐々に、緩和されるものであり、その緩和は、脳との
連携次第であろうと、仮説を立てられる。そう考えた場合においては、死に至る原因があるなら、
それは脳に働きかけるから、息が止まる苦しさは、緩和されるだろうと思われる。
上に述べた鼻で息を止めるという行為は、おでこで苦しさを感じる、と言えるのかもしれないが、
それが正しいとしたら、より朗報として、脳の働かせ方次第で苦しみを緩和できるのだということが
いえるかもしれない。 他人の痛みを痛んであげることはできない。できるのは、思い遣ること、理解すること、眼差しを投げかけること、
声を出すこと、言葉を紡ぐこと。これらできることは、脳の機能を使うことにほかならない。脳の個別性、
個の断絶性は、どうしようもない。そう知ったうえで、自分ができることは、まず行為であり、それができるうちは、
完全な孤独ではない。そして、余分な間違いのもたらす余分な苦を低減できる。自分の行為は、意図に
相当基づいており、従って、声の出し方を精一杯うまくいくように考えて行為することなど、それらが、
少ないことであれ、できることである。他人とは想うべきものだ。自分とはへつらうべきものだ。
人の働きは、自分自身の力を持たねば何もできないのだが、人を苦しめないこと、自分で考えること、
そうした行為の中でこそ、自分にできることをやったと思えるのである。妄想は、視界内、視界外に存在するのでは
ない。脳の一部に存在する。他者の妄想を止めるには、声をかけ続けるしかない。孤立した脳の、つながりを
持ちたいという気持ちがあるだろう。そして、妄想者は、自分の脳で、全てを改善していかねばならない、
そして改善しうるという希望が見えたとき、改善の行為に喜びを持てるだろう。人を理解するということは、
最終的な真実である。そういう視点に基づいた、人生と言うもの、それをできる人なら、せずにおいては
いけないし、負い目のある自分でも、誇らしく立てるための、お互い様である。立場が同じもの同士が
協力することで、社会にも何らかの良い影響が生まれるはずである。
そうしかできないのだった。それでもせいいっぱいのことをした。次に進める。なにも気後れすることは無いだろう。 例えば優しくしたい人が隙をみせたとき、罵倒の言葉が頭に浮かぶことがある。これは脳で扱うべき問題だ。
経験にばかり依っていてはいけない。表裏であり、仕方がない。うまく乗りこなせれば、スリリングで面白い
人生にもなるだろう。 良い呼吸法。
吸うとき首と背を反らし、吐く時うつむく。 自分も仏教に興味持って来たんですが、
なんか延々ととりとめもない考えを書いてるだけになってません?
精神病からの立ち直りということですが、だったらなおさら
まともな仏教書の考えをもっと重視したほうがいいですよ
自己流でやるとあぶない世界だと思います
精神病が悪化する可能性もありますよ
なんらかの基準は必要だと思います まあ、自分も偉そうなこと言えた身分じゃないですけどね・・・ >>30-31
延々ととりとめもないことを考えているのは、他者の意見を、記憶にとどめることに困難があるためです。
おっしゃるように、まともな仏教書を学ばなければいけませんね。そして、私にはそれだけの実力が
ないのです。延々と七年くらい5chで「悟りに近づくために」スレをやってきていますが、
精神病の悪化は、まったくないため、安全であろうと考えています。まずは自然な論理を備えた
脳に至らなければ、肝心なところや、数理的処理というパワフルな方法、それらを使えないので、
宗教の神髄には、現在は取り組みあぐねていますが、あと少しで病気も晴れそうな気がして、
少しづつとは言え、自分を壊すこともできず、視界と心が晴れるとき、また新しい気持ちを
感じることもできるでしょう。もちろん、提議はできる限り受け付けますし、気さくにまじめに
利用してくだされば幸いです。様々な情報が、空気中に浮かぶシャボン玉のように、存在感を
持っていればいいのだがなぁ、と思っております。 >精神病が悪化する可能性もありますよ
可能性というのはその正反対もある、
これは害悪メディアがレッテルを貼る言論誘導のやりかた
>まともな仏教書の考えをもっと重視したほうがいいですよ
まともというのは正義と同じで、イスラム世界の「まとも」とアメリカ支配の「まとも」
は同じではないのです。
どれだけ仏教書が多様化し、それがカルトのような説明をしているかすら理解していないようですね >>33
そこまで極端な例を出して、
大げさに反発するのは、あなたの心の問題じゃないですか
悟りを語るなら仏教書を読んだほうがいいんじゃないか、
これは当然の感想であり、最低限の道理ですけどね
天才でもないかぎり、
自分の思考だけでなんでも導き出せるわけじゃないし、
ブッダの言葉くらいは知っておくべきと思いますけどね
仏教書も読まないで悟れるのなら、
西洋哲学の中でもとっくに悟ってる人が出て来ているはずです
哲学だって大学で哲学のトレーニングをしないと、
かなり効率の悪いことになるわけだし > どれだけ仏教書が多様化し、それがカルトのような説明を
> しているかすら理解していないようですね
そう思うのなら、「悟り」というキーワード自体に興味をもつ
ことをあきらめたほうがいいのでは?
「悟り」というキーワードを掲げておきながら、自分の考えだけで
近づこうとする、そのどっちつかずの中途半端なコンセプトの
ほうが袋小路で無理があると思いますよ
そんなに言っていることがおかしいですかね >ことをあきらめたほうがいいのでは?
よく悟りで勘違いは、諦めが悟りであると確信してしまうこと
たしかに仏教の悟りは四諦をもって悟りとしているが、
それは諦めることではない、気が付くことだ、
>自分の考えだけで近づこうとする
仏教の悟りは自分の考えだけで得るもの、まさかお釈迦様が誰かとの議論討論で
悟ったと思っているのかな、必要になったとき自然に舞い降りてくるもの、
いつまでも具体的なものばかり追い続けているとそういう風に誰かの考えを
具体化した書物の複製を暗記するだけに流される、流されるだけの人生でお疲れ様。 自分が生きているのかどうか不安であるということへの対策。
見えていることは、生きていることを証明するのだ、ということが感じられると思う。
生きていないなら見えるはずはない。
「生きていることが証明されないなら、見えていない」という対偶命題も併せて考えよう。
また、思考は生きているということを証明しない。死んだ者も思考する。残滓の形で思考が成り立っている。
それは、思考が他者的であるということである。
つまり思考結果及びその過程は偽の自己同一性なのである。
思考はありのままではないのだ。
では、思考していないとはどういうことであるか。
それは語りえないことであり、沈黙しなければならない。
なぜなら、思考は論理であるからだ。
思考は気を逸らしてしまうから、生きているということそのものではない。
見えているということは責任を引き起こす。
見えていない者に責任はない。
見えるということは、責任にさらされるということだ。
その、責任が生じる代わりに、主体は生きているということを受け取るのだ。それは自由の一端だ。
人の表情や意図を知ろうとするのは、一面では責任を分担して背負わせたいということだ。
そのようにして人は社会化されていく。
社会的な責任の中で、一番心しておかなければならないのは、今において見るということで、自分の生を証し、安心することである。
見えているという感覚があること、これが生を証明するのだから、その上には、存在することがしっかりと置かれるのである。
存在が力を向けるためには、自己の基礎がどのように生まれるのかということを、考えるべきであるのだ。
旅が徒労となってしまわないよう、生への目覚めをもち、間違った不安と物事の認識を、突き抜けることが必要なのである。
気がそらされることで、思考資源を、浪費しているのだ。
慢性の病に徐々に失われていくことのないように。
目覚めるということが、安心ということである。見ることのもつ意味にも、気づくことが出来るのだ。
生きているということを知ることで、死を見ることが出来る。
生は生であり、死は死であるということをそのまま見るのは、大変な作業である。 安心のためには、主体的に思考を働かせてはならない。受け身でいることを覚えなければならない。
なぜなら、必要なことは、必ず行うことができるだろうから。逆に、受け身に感じることの方が、
精神の安定を生み、他者を煩わせない。仕事に励むということと、受け身な世界観、自己観を持つこととは、
決して相反しない。不安のために行動することは、個人の欠陥の表れである。そうなったとき、
決して健全でない。だれも口を出せない。 >安心のためには、主体的に思考を働かせてはならない。受け身でいることを覚えなければならない。
それでいい、人間は意志をもっているようで意思は状況に流される原理がある、原理に逆らうのは
苦痛をもたらす。
しかし、原理、状況に流されるという前提を元に、それを操作することで自分で設定した原理状況へ
流されるのは受身でいながら主体であるを成立させられる。
だが確率的に主体であって具体的で完全な目的意思に流されるわけではない、
流されるという道へ進むのも主体の意思の表れである、偶然に運ばれる運命は、操作できないわけではなく
進む世界を創造してゆくことが受身を正しく機能させられる。
主体的意思のままに周りを操ろうとすれば必ず反感を受ける、ことが理解できない人には、
その「主体的に思考を働かせてはならない」の本質は受け入れられないはずだ。 脳内のイメージや音声は、それがなんであるかと考えることができる。というか、自ら作った思考、像の再解釈が必要とされている。
それは、とても楽しく、落ち着いて、行うことが出来る。イメージの意味を認識するのは、自己の再開発である。
ある種のサイクルの実現。同様に、自分の「理解した意味」を、もう一度、それがなんであるのか確かめなおせる。
そのような、無限の遊びの中にいることで、人は、一種の無限に豊かで自由な完結性を実現する。
自己とは、そのような、イメージ想起法という真似と、解釈という理解作用の両方をもち、科学的な言葉で言うならば自己は場である。
能動的生成というような、感覚を作り上げる第一次的な内部的な作用と、それに対する解釈とでは、明らかに順序を成すような、
違った思考が成り立っており、その両方が大切であり、後者が、ないがしろに見過ごされてしまいがちである。
つまり、自分の理解に対する再解釈を行うことによって、無限にずれていくこともできる内部の余裕のある、自己内の遊びが出来るのである。
無意識のうちに明確であるという思い込みに従って考えている自己は、反省によって、さらに自己内の作用のみによって、自己を知りうる。
自分と言うものの理解は、どの程度であり、この思考の限界はどのくらいであるかという、吟味を行うこともできる。
よりよいものを作ろうとして探すのならば、外部と内部の両方を考えられるが、外部に対する内部の理解という公式をとるならば、
自分の理解の程度を知りつつも、さらに、理解を何度も繰り返すことで、無限のずれが生じることにより、どこかへ近づいて行くことになる。
それが、行為というものであり、特に自然な反省行為であると言える。そういったところでは、自己は自己に依っているのであり、
他に対して原因を求めるようなことではないから、謙虚と言えば謙虚であり、有能と言えば有能である。
自己を対象とした関わり方による思考は、当然自己を問題化するため、自己の間違いがわかり、自己の甘えが、解消される。 >自ら作った思考、像の再解釈が必要とされている。
イメージは再解釈ではなく、想像だ、創造、具体的な夢と希望、
必要なのは自分のイメージを強く重く念じ、結果に繋げてゆく未来があることを
根拠無しに信じること、信じるという勇気をもつこと、奇蹟は起こるものではなく
意思をもって起こすこと、世界の本質を信じ、自分の本質を信じ、結果へと繋げる
信じなければ明日は来ない、明日を信じないやつは終わる、
どんな小さくてもいい、明日に繋げる意思を示せ、100%不可能でもそこを超える勇気を
示せ、人は一人ではない、周りに人間がいなくても世界は本質を活かすものに
僅かな助力を与えてくれる、どんなに小さくても積み重なることが未来へと続く。
現代文明が失っているのは世界(森羅万象)と共に活きているという愛を感じることだ。
あえて超えられない壁に挑むことが心を軽くしてくれる、想像力に不可能などないのだよ。
俺正義でいい、1歩踏み出す意思を世界へ見せ付ければ、あとは営みの管理、細かい
主体の意思を次に続ける秩序づくりだ、貴方に壁などない、壁を作るのは常に自分の心(闇)だ。 >>42
>奇蹟は起こるものではなく
>意思をもって起こすこと、世界の本質を信じ、自分の本質を信じ、結果へと繋げる
全本質に、近づけると僕が思うのは、現在の世界観の中で、自己自身を放出するという行為が、もつ可能性です。
現在の発散の、イメージ想像を持ったところの行為によって、自己は救われてしまう、救われうる。
このことは、つまり、発散によって、過去のしがらみを、解き放つことが可能であるということです。
もし、もやもやの気持ちを、押し付けられてきた過去があるというならば、それをふいに(無効に)してしまう発散ですね。
つまり、自己の病的なこだわりは、何の難しいことでもあらず、この限定された空間の中で、完全に燃焼させてしまえるということ。
過去への係累は、自己のかたまり、縮こまりです。勇気とは蛮勇としてのその本質的発散の一つがあり、それが、放出なのです。
イメージは自己をも救い上げ持ち上げ、天のゼロに、全ての負の意味を消してもらえることが出来るのです。
それはその勇気が、主体的行動への働きかけを成し、その場で自己の活躍の基礎としての自分の安心と解放の気持ちを、
作り上げ、身につけることが出来るのだということに気づくこと。どのようにして気づけるのかというと、場へ身を投げ出し、
自己に自由な、範囲の空間の中で、燃やし尽くす咆哮をイメージし、同時に思考として体験することです。
主体性は、対人関係連鎖の中で別の形に実現を奪われてしまっている。病んだパースペクティブが、自己自身にとっての解放を
目指したとき、自分の周りにある範囲での最大限を用いれば、100%不可能は、自己の内部の話であったと、知りうるはずです。
咆哮の持続が、声満たされる自己の燃焼、自己の燃焼が、イメージの本質に接続された、超越のつながり。
そういう行為を、持てるものは、何も不満を言ったり、鬱々としたりする必要はないのです。考えるということではなく、
自らの行為であるのです。動くための、身の力。 1歩1歩、線と点をつないでゆけば、それが本質を結んでいるなら、
かならず全ての点と線は結ばれ円を描く実線にたどり着く、
これは法則だ、自分がそこに行くのではなく自分という本質がそれを歩む存在に
なるなら、自分ではなく世界がそれを望む、自分の力ではなく世界の力が
それを望み世界が結果をだす、故に法則である。
奇蹟を起こすのは自分の意志だ、だが自分の力では足りない、
自分が世界の本質となり世界が奇蹟を起こす、自分の力だけでなどと侮るな。
世界に感謝するとき、世界は祈る者を祝福をする、それは愛だ「繋げろ点と線」を、
それは勇気だ"やるか、やらぬか"だ、答えは常に自分の目の前にある世界のどこにでもある、
希望をもて願え勝ち取れイメージしたそれはホーリアップだ、自分がではなく世界がホーリアップ。
1歩を踏み込め、最初の1歩は微弱でも徐々に大きくしてゆけばいい。
よく捉えろ、まちがえてはいけない、未来の1歩は自分で進めても、未来は自分が確定させるのではない
未来が自分を確定させてくれる、未来を操れ!未来をイメージしろ、未来の本質を掴め、
"自分の意志"で未来を決めるのではない、未来に祝福される存在になれ、そのとき未来の主となれ。
たとえ作り笑いであろうが、自分が笑っていれば、未来は笑い返してくれる、それが法則だ。 その本質とは何か、存在や世界が望むもの、それが最後の最後にたどり着くところ、
それは"決して裏切らない"その力だ、見えるのはその表層の具体さ、そんなものは
裏切る、見ろ掴み取れ内在する活かすべき未来へつながる何か、裏切らない何かを信じろ、
世界には無数に、"何処にでも"、"目の前"に常に隠れている本質、裏切りはしない、
ただその本質の1歩が小さいだけ、余った微力を貸してあげろ、
貸した力は必ず何らかの形になって戻ってくる、それが法則だ、
ただ本質は目に見えない、"具体性"がない、だから耳を澄ませ感じ取れ、
小さなる存在がそれを待っている、与えるのは貴方だ、世界に微力を与えろ、
世界を笑顔にさせろ、かならず自分の心が満ちてくる、
全ての本質を掴んだとき本質は具現化し、そのとき貴方が世界の主である、世界の見えざる真理。
昨日より1歩進めていれば、歩みを止めないかぎり、きっとたどり着く、
だが今すぐに目の前を望めば、たどり着いていない場所が現実になる。
時間がないなら、ぎりぎり限界まで1歩を踏み込め、
限界と等しくなったとき、1歩は無限の力になる、踏み込みが甘ければ落ちる、
なぜなら限界の向こう側の超えてはいけない扉にのみ答えがあるからだ。 限界の1歩とは、自分の意志で選ぶのではない、
世界の意志だ、世界とは自分との因果関係の全てであり
自分以外の因果関係ではない、因果するもののさらに因果はゼロではない
関係が薄いだけだ、すべての関係を感じ取れ、それは可能だ、
自分と世界の関係だから常に自分が感じる中心にいる、その事実は崩れない、
世界を背負い、世界と共に、世界へ1歩踏み出した自分は世界の力で活かされている、
世界が関わる自分への力は、裏切らない、いままで世界へ力を尽くした自分の裏返りだ、
限界の1歩は、世界が示す1歩だ、世界に選んでもらう、故に世界を操作する主にしか
その限界にはたどり着けない、自身が示す世界への態度が揺らいでいるなら、世界から
自身へ向ける態度も揺らぐ、それだけの話だ。
世界(因果関係)を確定させる点と線の付き合いをすればいいだけ、そして1歩を踏み出す、
世界(森羅万象)はその関係を裏切ることを許さない、それが法則だ、法則が発動するとき
からなず神が背後に現れる、不思議な力で死に行くものには死を、生きるものには生を与える。
だが揺らぐ関係しか紡がないものには、揺らいだ結果を返す、神は裏切らない。
何も関係を築かずに限界の1歩を踏めば、たりない部分を対価として奪われる、
当然のことだ、等価交換である、その価値とは自身が願う価値ではなく、世界の意志が決める願いだ。
積み重ねなく偶然で結果を得ようとするものは、宝くじで1等が当たる原理に従う、答えは貴方が知っている。
貴方が点と線を結び関係を紡げば、かならず貴方を見ている観測者がいる、それは人とは限らない世界全体である。 「葬式ごっこ」があった富士見中学事件。
「[自殺した]鹿川君の「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」という言葉は、問題を「だれがどんなふうに」ということだけで
取り扱おうという精神です。「何を」ということを敢て除外する。」(別役実『ベケットと「いじめ」』)
同じことを考えていない人間同士が、コミュニケーションにおいて喧嘩するというのは、「だれが、どんなふうに」ではなく、「何を」を
神様に据えて意見を戦わせる、つまり、「どんなふうに」ということが一目瞭然ではないということ、すなわち「いじめ合い」であろう。
壁に向かっているようでもあり、汚れを嫌っているようでもある。
「だれが」なのかは、行きずりであり、「どんなふうに」、というのは、対立的である。どちらも議論の余地がない。議論も成り立たない。
しかし、そこには何かはある。何かがある、というところから、発展はあるのか。
「だれが、どんなふうに」というコミュニケーションを、葬式ごっこの被害者は求めたのだろう。「何を」という、局部に自分がなってしまう、
孤立を、避けたいと思った。そして、クラスの中は、それ(鹿川君の気持ち)を「認めていた」に違いない。
恋というものが部分であり、それを普遍化したものが愛である。象徴や、普遍といったところから、部分がもたらされる。
弱小者が、価値あるコミュニケーションを得ることができるような、回路が現在では、社会的、未来的に求められているだろう。
「孤」の存在というようなものは、ほとんど生きていることを許さないということではないか。「孤」は、物理的にも生きられない。
概念的「孤」というものも、突き詰めれば生きていないということになる。それを避けようとして、声が上がり、助け合う。
そんな未来を、個人的には思い描く。何らかの救いが、孤独に対して、存在するような。それは、例えば本などであり、
意志や思想という対話の形式などでもある。自分を否定しないでいられるような、何か。それを見つけることが、正しいし、
理想を言えば、人間的な輪の中で、自己に対して与えられる。 何事であれ、耐えきれない怒りを湧き立てる物事であっても、後から考えて、何かがあるという感触があるなら、そこには何かがある。
何かを理解しようと試みるのは、何もしないよりはいいのではないか。
耐えきれない痛みがなければそれでいいのだと思うこと。それだけでは何もない。
過去にあったはずのことが、消えうせてしまっているように感じられること。無という穴に、全て落ち込んでいってしまうように思えること。
だが、次へ行かねばならない。自分が死んでしまうと思っていては、何もできない。 衝動を抑制せよ。全ての感覚を空にせよ。息も、一度、あると確かめた上で、その操作においては、
特別に呼吸法を考えたり感じたりしないようにせよ。つまり、意味付けと衝動感を逃れよ。触覚も、特には考えるな。
過去にも未来にも、囚われないようにせよ。それは妄想である。激しい思い込みを、脱け出よ。
全ては自然に行っていけるのだから、何かの不安や欲、一時的な学習本位に、従ったり囚われてはいけない。
副交感神経が優位になるようになる。神経の潜在的な機能を使うことで、力の源が、自由な意味のある思考が、生まれ、
自分が今までにはなかった境地に至る。
そのとき、利己と利他は境を失い、自他が、考えの上では区別を失う。悩みは、自分自身の境遇や能力、人間関係、
そしてひいては、生き方の迷い、健康を無くしたことなどから生じる。それに対応するに、生自身を突き止めるという感覚から、
その悩みも開けるはずだ。なぜなら、気持ちが落ち込まないからだ。
副交感神経が優位な、穏やかな自分であればいいだろう。どんな衝動も、抑制することで、逆に自分のためになるのである。
妄想がなくなるにつれて、存在の真理に至る。なくす、消すことで、完成に至るということもあるのだ。失う不安は迷いなのであり、
失うことは怖いことではない。得失を考えても、その思い込みでは得られないものがある。 前向きに生きるということが、全てにおいて、必要であり、前に進むしか、人間個人の原則はない。
考えるときの方向性がそうだし、失敗から立ち直るためには、自らを後ろへ引っ張るようなことに対して、
いつまでも鬱々と悩み、怒り、つまずいて、とどまってしまっていると感じられるなら、その前へと進もうとする
気概と意志が、全ての決断と生き方を、応援すると知るべきだ。
自分が今までやってきた理論では対処できない物事を受けてきたのなら、そこから考え、行動して前へ進むような、
自らの力の制御を、試さねばならない。
失恋とか、健康を損なうといったことに、いつまででも考えすぎ、囚われているのだとしたら、そこには自分自身への責任や、
誠実さを行うことが、しなければならないこととして、存在する可能性がある。
停滞や自己否定は、仮のものだ。自己否定が感じられるのだとしたら、それは、他人の中にではなく自分の中に答えが
あるのである。やり方が見つからず、どこへ行っても自分が否定される。それは、自分が自己否定のサイクルにはまってしまって
いるからだ。何事も、まずは気持ち、工夫、計画、挑戦、何も大きいことをしなければならないのではない。
ただ、現在において、自分ができるはずのたくさんのことに、温かな気持ちを持って、自分の力でやっていこうとすること。
そうでなければ、生きるということはできない、ということだ。 別に前向きじゃなく後ろ向きに生きてもいいんだよ、
ただその結果が想像できて受け入れられるなら、 >>52
傷をいやし、生きることが出来るならそれでもいいでしょう。
消極的が積極的と裏腹にあるというなら、それを扱うすべには、二種類あるでしょう。私もそう認めます。
その結果、想像が働けばそれは意味あることです。受け入れられるかどうか、ということは、もはや前向きを前提として
いませんか。結果に重大な意味を感じるのは、責任を感じるからかもしれない。人に対する優しさと言うものでしょう、
いろんな形があるにせよ。
全ての人には考えがあるのですから、それを否定することは良いことではない。だが、大器晩成ということを、積極的に
考えるなら、そのためにも、心の切なさのような感情に対して、敏感であるべきです。
それらを、集めることで、だんだんと物事が見えてくる。自分自身のことなら、制限せずいろんなことを受け入れていくことが
必要です。 自分の一番弱く神に改善してもらえたら良いなとすべき特徴こそ
自分がもつ最大の武器だ、否定するのではなく受け入れて道具にする方法を考えよ 実際に思考するということは、関係を結ぶことを離れられない。つまり、ある物事の把握は、背景抜きにはできない。
プライドと言うものは、実績からこうできるであろう、こうできるに違いないと信じるという背景の中で、自らの現実を受け止めることである。
だが、プライドの良い面とは、そういう自負心がもたらす、改善の能力を意味あるものと認めるくらいのもので、
人間関係において大きく障害を作るようなものであるに違いないだろう。勘違いをしてはいけないのである。
おおまかに、流動的な思考というもののほうが良いに違いなく、こうあるべきであるということが、かなりの割合を占めているにしても、
当然に侮ることは、誰のためにもならない。
文章を読んだり、現実を生きたりすることも、それは、物事の連関を考え直している、と捉えるのが一番よさそうである。
どういう世界の中にあって、その物が存在しているか、などといった背景、世界観の中において、魔法の気持ちが生まれる。
世界の力を借りることで、単なる計算機とは違った情緒が生まれる。
例えば、子供のころ、PCゲームの黎明期があって、『うる星やつら』のアドベンチャーゲームの攻略本を読んでいたが、それは、
大人世界の大きな夢が、その背後にあったからこそ、その中で夢中になって世界を摂取していた。想像とは個物と背景の二つを
必要とするだろう。どちらもどちらを駆動させる。
このように、人に対して優位感を持つ、とか、社会の上層部であることに、満足して支配するなどといったことは、避けるべきことで
あるように思う。結局、自分でやること、そして、世界は自由に想像できること、この二つくらいのことで、全ては成り立ちうる。
そういう夢幻的世界こそ、最も謙虚で最も力強く、最も幸せを左右するものであるに違いない。
見えてくる世界が、大きく結実してほしい。夢が現実であってほしい。物事の仕組みに関わりたい。
そう考えることが、良く生きることであると思う。 精神病者は背理法に陥りがちである。
背理法とは「P を仮定すると、矛盾が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付ける」ことだ。
もしこうでないとした場合、ああなるはずだが、現実はああはならない。したがって、こうであるのである、と。
数学的背理法を現実で適応する動機は様々であろうが、まず人間は、何かを証明しようとして生きている側面はある。
精神病者は、現実に信用がおけず、現実が間違っていると仮定しがちであり、証明しようとしているという目的を忘れ、
論理的なふうに、「現実がこうでないとしたら……」という仮定を、探っていき、思い込んでしまいがちである。
僕は数学的な知識が十分でないため、背理法が、トライアルとして行われるのか、十分な嗅覚をもって、そうするのが
うまく証明に役立つだろうと思えるのかが、定かではないが、理性に従った十分な記憶力を働かせ、正面からぶつかることが、
より近道であるとは、現実に対しては正しい自己の規範である、と認めるくらいの、失敗した背理に頭をつっこんできた経験はある。
救助策。条理と背理の両方を、考えること。その間で揺れ動いていたら、直観的にどちらを取るべきかがわかるだろうから、
どちらも選べるのである。筋肉は、緊張と弛緩の両方を機能として備えていなければならないように。
二元の間を揺れ動くことが、「自由」に至るための方法である。 ちまちまと思考を変えるのもいいが、ダイナミックに思考、理解を動かそうと試みてみよ。
視界や、眼球の動き、未来過去の記憶なども、ダイナミックに動かすのである。
ダイナミックに動かす過程において、小さな問題を引っかけて、解決してしまうことがあるだろう。
もしダイナミックに動かすという習慣を無くしてきているなら、その影響は心身に及んでいるはずだ。
もともと人間は、大きな動作および思考を行うものだという、機能が備わっているのだから、
その機能が失われているならば、それは次第にそうなったに違いない。
ということは、その習慣的な鈍りが、時間の感覚の欠陥として現れている可能性がある。
心身(脳と身体)が働きにおいて不可分なことは、意外であろうが、決して無視すべきではない。
小さなストレスのために、動きが鈍ってくると、その蓄積が大きな病状として現れる。 1%の効率を20倍の20%に向上させるより
90%の効率を誤差でしかない91%に上げるほうが恐ろしく困難である、
だが、100%を超える効率は不可能なのか?
答え可能である、自分自身だけが行えば自分の限界が上限の100%であるが
自分以外を効率に変え1%しかない自分の効率に100%を超えた部分(他者)から得られる
効率を加算すればいいだけのこと、
自分を活かすことだけを考える主観的な思考では、他者を活かす客体的な思考が
困難である、もういちど自分だけで目指す結果ではなく他者と共に目指すそれを創造
する選択があるか考えるのも方法論である。 >>58
女性ならば処女性、また人なら命と最低限のプライド、を大切にするものである。
身の程を知って、自分を低いものだと位置づけること。
身の程を知るとは、他者が自分を規定する内容に対して、自分が服従することである。たくさんの他人の中にいれば、
その中での他者の判断基準とは、ある一定の客観性を帯びているものだ。それを一つの意見として知っていれば、
それが自分にとってもある基準を形成するのに役立つ。
100%を超えた部分というのは、自分自身のアイデンティティを形成された状態、即ち、一から自分で積み上げた価値観ではなく、
一般的に動いているインフラ(産業や社会生活の基盤となる施設)を利用するような感じで、無意識のうちに自分に与えられている
身分的な助けを、自然に使えるという状態であると考える。
背が低いのに高身長の自分、と言い張ってみても何の益もないのである。
では、その身の程を知っている、相当に穏やかな雰囲気の中で、何を行うか。これこそが、自分のしたいこと、やるべきことである。
全ての知的性質は、外面からはうかがわれないものだ。同様に、女性が処女性を大切にしているなどということは、
分からないものである。人が命と最低限の存在可能な尊重を望んでいる、とは、なかなか外部からはわからない。
身の程の穏やかさの中で、散る火花を見つめ、最も高まったものに憧れること。
もともと憧れとは、ある一定の穏やかなやり取りの極限的な非自己的な外部に対して、心が動かされ、陶酔する、そんなものではなかった
だろうか。自分の望みとは、自分が外部に優越することではなく、もともと優越していた外部に合わせ、それを自分にとっての現実として、
一員になること、ではなかったか。 全力とは、自分の能力の全ではない、自分以外の全てを使う力だ、
人は論理性や合理性のもとに、自分本位の思考、自分主体の思考をしてしまう、
具体さや意味をあることにする思いがそれを加速する、
自分だけの主体性では周りは動かない、動いているのだろうか?
世界が自分を中心に回っているような錯覚をする人もいる、
世界は自分の思うとおりにならずそこで無力を感じ日々の積み重ねや
自分の思いを強めれば適うと信じたくなる、
だが、答えは自分が主体ではなく、客体にこそ本当の意味がある、
全力とは自分が何もしなくても、結果が勝手に目的を達成してしまうこと。
実に不可思議である、全力とは禅力だ、それは正しく感謝して世界と一体になる
心を取り戻したとき、世界が祝福してくれるのである。
そこに何か不可思議な力が働く、その何かが禅力である。
主体だけの全力を選べ、さすれば貴方の手が届く範囲のものには届き
手に届かないものは絶対に届かない、不可思議な力はやってこない。
それは気が付くときまで理解することはできない。
天空に瞬く空の星をこの手で握れようか?にぎれない。
それが主体だけの自分だけの意志がもたらす全力、自分の限界である。
限界を目指す意志がないものに限界は壁となり嘆き苦しもうがそれは
不可能という現実を与えてくれるだけ。 限界の先には無限がまっている、超えられない壁などない。
見えるものが限界であり、限界を超えた先は見えないもの。
見えないものに興味がないなら、限界の先など考えてはいけない。
己の殻に閉じこもり自分の行動できる範囲に執着し、自分の縄張りを死守すればいい、
見えないものは、その眼で見るものではないからだ。
絶え無き好奇心と1歩1歩進む何かは超えられない壁の何かに手を伸ばす、
限界の向こう側に論理も合理性も知識も思考こない、ただ暗黒が続いているだけ
限界を超えるものは自ら光り、限界の先を照らす、輝かやくのは自分自身だ、
誰かが希望の光りを差し伸べてくれるのではなく、そんなものは詐欺かペテン師の
騙しにすぎない。
進むのは常に我、自分自身だ、自分の力を理解すれば限界は見えて、多くの大人は
限界を超えようとしない、自分で自分の井戸に閉じこもる大海をしらない蛙となれ。
超えるには覚悟が必要だ、そして感謝しろ、世界を照らすものは、世界が鏡となって
自分へ戻ってくる。
小さな希望を捨てたものには未来は闇であり超えられない壁でしかない。
心の老いはやがてやってきて、全ての可能性を吸い尽くしてしまう、壁を作るのは自分自身だ。
壁を選べ、自らを閉じ込め二度とでてこないのを選べ、そして消えるのみ、選んだのはそういう結果だ。 才能とは年月に耐えられる熱意の冷めないこと。
最低10年は続く現象である、 『神との対話』シリーズの神。
どこか特定の宗教だけの神ではなく、
世の多くの宗教にインスピレーションを与えてきた普遍的な唯一の神。
思索的な哲学書として読んでも面白い書物だと思います。
イエスの事も「イエスは最高のマスター(師)の例だが、イエスだけが聖者・マスターではない」と。
今回は宗教や格式を超えて、愛を持って気さくな形で人類に語りかけてきてくれた。
この愛の神を本当に信じ、心に受け入れれば、本当に世界の観方と経験が変わると思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome
答があるはずなのに、その周りをぐるぐる回っている。カフカの『城』のような。
ぶれている二つの画像を、重ね合わせて焦点を結ぶようにしたい。
視界の中には、いくつかひっかかる部分があるかもしれない。
思考の中にも、いくつかひっかかる部分があるかもしれない。
目的を立て、そこへまっすぐにたどり着けるようになりたいと思う。
頭の回りくどさは、何かへの気遣いのようである。
心が思考の方向を決めるのか、思考から心が生まれるのか。
そんなことがわからない。
徐々に近づいて行く悟りの方へ、考えてきたことはその実際を心から希求する。 見える答えは掴める答えだ、見えない答えは、掴めない答えだ
その見えない答えは掴むのではなく、答えに掴んでもらうのだ、
答えを掴みえる存在となれば、答えが自ら掴んでもらいに寄ってくる
見るのではなく、見てもらうのだ、目的を立てるのではなく、目的が自身を存在させるのだ、、
心は思考を生み思考は心を生み、状況はそれらを生み、心と思考は状況を生み出す、
表裏一体とは、全てが繋がり全てが廻り回る循環だ、
自ら悟るのではなく、悟りが自然とやってくる、悟りが自分を形作る、
それが理解できたとき自然人になれる、自然は自然人を常に祝福する。 >>65
見えない答えは掴めない、だから来てもらう、魚釣りにも似ていますね。「フィッシュ・オン!」。思考を釣り上げる。
星を掴めずとも、星は夜空にある。その距離があっても、星は星。十分に、親しい仲にあるわけです。
その際に重要なのは、光を掴み、星という存在のもたらす、意味を熟慮することでしょう。
分からないから一生懸命考えるという、プロセスを与えるだけであっても、見えないものは、
意地悪ではないわけです。
ぐるぐる廻る「自分」というものが、何らかのきっかけがあったために、分かるときが来るかもしれない。
そのためには、意固地になって背を向けてしまわないことが大切であると思います。
まあ、意固地になってもかわいらしく思える人もいるわけですが……。
物事が見えるということは、それを操る資格と能力ができる、ということです。
自然へと至ることが出来れば、それは人間が帰る場所として、正しいのだろうと思います。
想いを逃した悔しさは、沢山の機会がその人に対して巡ってくるだろうから、自分ができなかったことを、
悔やむ必要もないのかもしれない。
だから、自分が欲しかったものは、客観的に見た場合、それほど重視する必要がないのかもしれない。
自分が重視するものが、客観的な意味とは一致しないというところに、人間の未熟さがあるのかもしれない。
自分にとっての人からは、信じるということと問題についての多様な本来性を、抽出して得るべきなのかもしれない。(信念が
常に事実と一致して、豊かなものが、正しく与えられることになる場合ばかりではないということです)
「今、ここに対する違和感」は、想いを信じ込みすぎているからなのかもしれない。
そういう意味では、「自然」というのは、一番普遍的であるものですね。
人を助けたいという気持ちと、人が助けを求めたくても袖にされる恐れは、自然な人間となれば、上手にできるようになる気がします。
そのような状況においても、また新たな状況を作り出そうとすること、これが、信念によって作る幸福と意味の深さが、
無礼と無駄が、実質と空虚が、自分と他人との性質が、細やかな思考によって、だんだんと解かれ、恐れが深淵に変わる、
そういう時読みの深さを、得られるような方向を見させます。
見える、見てもらう、見させられる。 気が付けば縁が結ばれ、気結びとなる、感謝の気持ちで気を結べば縁ができる、
運という状況も気が付かなければ偶然は掴めない、運を呼び込むのは気づくこと
感謝の気持ちなしでは縁は結べず、そこに働きは生じない。
自分本位で成すことは、強すぎれば祝福されない、不自然だからである、
祝福される自然さとは感謝の気持ちをもって縁を結ぶこと、気がつくことである、
すべて存在がもつ才能、必禅の元へ誘われる。
その才能とは感謝を続けられるかの存在の本質。
世界が無条件に祝福する心をもてば、無敵である、感謝の念を篭めて。 >>67
そのときそのとき、自然のあり様を知る、それに働きかける、それに情念を結ぶ。
紐の結び方はいろいろありますが、それがほどけないようにということを、考えるのでしょう。
思念の紐は、自分の中で結ぶこともできますが、人との、物事との縁が、途切れないよう、
想いを込めた方がいいのでしょう。
「言葉が人を作る」ということもありますが、言葉で運命を唄い上げ、あわよくば運命を変えようとする。
連なった言葉は、連ねられるほど強く意味を作り上げ、それは、独自に多様な意味を可能とさせる。
その多様な意味を、真理を解くのに使うことが出来る。心の中で、ある意味が似たような意味を
縮約させ、いくつかの意味がまとめ上げられる。それ故に、代表的な表現は、全ての代理を果たし、
通ずる道は、いくつかあっても、言葉は行きつく場所を開拓して、自分なりに、道路も荒れ道も、
通っていくことになる。その中で、頭に何かが浮かんで、それをよい考えとして、自分の手柄にする。
独自性と、公共性は、共にありうるものですが、同時にそれは、妬みや諍いや命令に、幻惑されて
頭を沸騰させる。それだからこそ面白い、そんな気分でも、行きたいものです。
雑念や雑音のない世界の中で、高められた戦いの、行方を、戦わなければならない。
それは、当然に、心的なもののことを言っております、自らの時間と身体を、勝ち取るための、
勇敢な思考であります。人が生きたかった未来を、自分が生きている、ということを思えば、
僕は謝らねばならない。そして、感謝をしなければならない。そんな気持ちになって、
でも、僕は、今までやらねばならないと思ったことを、やらなかったことはありません。
今からはきっと、色んなものへ、感謝をささげましょう。心の表現が、上手くなれればといいと思うのですが。
感謝を、表させていただきます。全てが統一されたような気持ちと、豊かな想像の、祝福の中で。
相互への試みが、どんな形であれ、無駄ではない、と思うのですから。
パワーを出して、どんなことも、できることはやっていこうと。
結局のところ、先輩も同級生も下級生も医師も、会った人の顔は、良いものとしてだけ思い出されます。
それが僕の一番身近な感謝です。 感謝とは心の書で、当然として正しい感謝と間違った感謝があります。
何が間違いで何が正しいというのは、感謝をしようとする本人にしか捉えられない類であります。
正しいか間違いか?感謝してみればわかります、自らの心に感謝の書を描き(文字、漢字ではない)
想念や観念の類である感謝を導き世界と自己を結ぶとき、正しい感謝か呼び込まれるのです。
そして感謝は自分が行う所業を意味している訳ではありません、自分の所業の想念により
そこに感謝が正しく生まれ出るということです、正しく感謝が成されれば祝福(秩序)されるのです、
より自然になるのです、私が具体的に感謝の手法を示すものでもなく、言葉で感謝を説明
できるものでもないのです、感謝を生み出す術が感謝という想念を生み出し、それに感謝に至る初動として
感謝へと繋がります、感謝をする達人が居たとして他人が達人を見たとしても普通の人にしかみえません、
何が違うか、感謝が正しく働けば不思議な何か、言葉では説明できない何かが現れるのです、
それが自ら捉えられるようになったとき、答えや目標とする正しい感謝ができたことになります。
そこに辿り着くには正しい礼儀(自身の考え)をもって作法を考え、正しい感謝と思えるまでバランスを問い
続けることだけです、誰が具体例を教えるわけではないのです、自らが感謝が何かを理解できなければ
それは感謝ではないのです、言葉で説明できるものではないのです。
的を射た感謝は、弓道における弓が的に当たることと同じです、成した心が、言をもって射する
類かもしれない。
心の中で繰り返し感謝と思われる想念を浮かべ、それが何かと気が付けばいいのです、
「気が付いた」それが正しい感謝の始まりです、不思議な力(祝福)が現れるとき、
それが真の感謝に辿り着いた証となります。 自分自身にとって、生きる目的は何か。それは、僕の場合は、自分自身と最も親しくなること(自分自身を知り、不安を消す)、
または、自己の中の神を見出すこと。自分自身が同一化して、さらに、神とも同一化する。他人との接触は、自分が他人を
体験することはできないのだから、神を通じてわかり合うしかない。交換である。自分が生きているうえで、目的とするのは、
神との同一の時間、神とのかかわりの時間、そしてもちろんそれは究極の体験として、生き続けることの逃れられない
本性であるから、自分自身が神との同一の時間を持つことで、自分自身が最も高く置くべきでありまた最も近くに寄っていく
その対象を、二極の相互存在として、完成すること、である。
このように考えた時、岡真史の言った、
「ぼくだけは/ぜったいにしなない/なぜならば/ぼくは/じぶんじしんだから」(岡真史『ぼくは12歳』)という言葉が、決意の言葉
として受け取れるのである。
神様がいなくならないのに、自分がいなくなるということは無い。そして、神様はいなくならない。だから、自分はいなくならない。
という風に言うことが出来るだろう。そして、それを実感として支えるのは、自己の意識の極限としての、先の、自分自身の
直接観取、神との同一、そしてその先にある、神の存在の実感ということである。それに基づき、無限の数の仏が、
曼荼羅の中に描かれたように存在する、というのが時間性の永遠における世界の把握、つまり全ての人の数だけ存在する仏が、
全て実在し続けるという見取りである。
つまり、生きる目的は仏になることであり、生きる目的を得た(悟った)ときから、よく生きることが出来るようになるのである。 現在と言うものは倫理的な要請によって重要であると位置づけられるのである。それは自分と言うものと他者と言うものが、
完全な相互理解に至らないため現在において理解しあうために必要であるから、現在が特に重要視される。
同様に想像の世界というものが、現実の世界よりも低く位置づけられる。現実は実際に影響しあうから、一番重要であると
みなされるのである。
だが想像の世界を作るということは、人間の行為の中でもとても重要なことである。想像が出来ないものは理想を作れない、
そして別の可能性を取ることが出来ないのである。
現在において法的に世界の中で決めつけられた序列をしっかりと学び、現実に適応してしまうことは、自分の頭を縛ることに他ならない。
違法行為をこっそりやることで、因果的に決まった横並びから逸脱したぞ、うまくやったぞ、というようなことを誇るような人に、
劣等感や焦りを感じるのは、よほど不幸な人である。
実際には、現実の獲得も他者の心の獲得も、それらが想像世界に於いて達成されたとしたって何の見劣りもしない。
つまり、自然ということを追い求めると、現在がそれほど重要であると考えることは、必要がないのである。
現実の粗暴さ、現実の自己欺瞞。
自然に、過去や未来の世界、また想像の世界に浸り、考えることも、それはそれで思考現実という現実である。
つまり、価値というようなものは、理解という意味ある行為を必ずしも助けるものではなく、そこには経験と想像を使って、
内面の序列、構造が、作り上げられるべきであるということが、大きなこととして光を当てられなければならない。
何事も現実が上手くいくばかりではなく、自己の能力が調子が悪くなってしまっている場合、現実と言うものの中に、
自分の居場所を見つけようとしても足の骨折をおして歩くことになってしまうから、現実を置いておき、想像の中において、
自分の頭を使うようにするのである。
自分にとっての自然を、確保することがまず重要なのである。
その上で、自分にとって良いものを徐々に選んでいけばいい。そうすることで、青春の真っただ中にいる自分になれる、
壊れてしまったものが元に戻る、価値をどのようにしてか達成していたよき思い出をもう一度取り戻せる、それらのことに、
遅すぎることは無い。 70.
生きる目的は仏になること、か。
生きるということは生活の問題である。
宗教は生活の問題ではない。 >>72
生活なくては生はない。死があっては生がない。そこで、するべきとは、生を維持することである。
生を維持していて、感じるのは、目的を見つけたいということである。生活が欠いているのは、
思念の世界である。目的を探すことは、思念の一種である。
では、ここで一つの仮説を提起したい。小さい頃の自分の考えが、一番自然で、迷う過ちがなかった、ということを。
つまり、不幸とは、自然な喜びを失ってしまっているということだ。別に速読が出来れば優秀であるということではない。
限られた人生で、一つ一つの思考が、楽しいという状態に戻れば、何も面倒なことは無い。それには、速さなどは関係がない。
一つ一つの行動が、着実に行うことが出来て、一つ一つの考えが、安心の下、損なうことなくできればいい。
こういう、不自然な負の状態に至るというのは、人の事を考えすぎたからではないだろうか。
つまり青春の時、生から脱落していく人は少なかった。そもそも、強い生命であった。
生活感とは、生の痕跡である。したがって、生活は生を離れてはいない。だから、生活が宗教と無関係ではない。
生活感の中に、悟りを見るということも可能である。極端な観点で物事を見るのは、遠回りである。
信仰心が、宗教の本質であるという点はあるにしろ、宗教は人生でもあり、生活と切り離して考えられるものでもないだろう。
もちろん、夢を見たりするとき、興奮するのは、何らかの特殊な達成に対して、自分自身が別の次元に達した、という爽快な
感覚に没入することだ。この特別感が、宗教の、特別な目的としてとらえられるものではある。
塔の中を、二人で舞って上昇していく、そんな夢が特別だ。そんな夢が現実となれば、最上である。だがそれは夢だ。
現実の複雑さは、夢の複雑さと同等なものであり、現実に帰ったとき、やりたいことだけをできる、遠回りではなく
今こそが全ての自分の生きる生き方に他ならない、というふうに気づいたとき、それは自己の現実においての覚醒である。
一方で、何らかの特別を生き表現することに、理想を託す、また別の一方で、現在の奇跡的な自己の能力(認知、身体の能力)に、
再び驚くこと、どちらも、生きるに値することだ。
自らの想像に論理性をもたらすことさえできれば、優劣によってはかられる必要はない。 73.
宗教がなくても生活ができる。
仏にならなくても生活できる。
生きていくのに必要ないものである。 >>76
人がいなければ生きていけない。秩序を保つための道徳心が作られねばならない。善悪を決める観念を育てるため、
倫理学が必要であり、そのために宗教が必要である。仏のない世界は、鬼の世界となる。
倫理を、様々な形態に、自由に考えても良いだろうが、弱者への目線を育てることが大切である。
もちろんそれで独善的になってはいけないが、純粋でありつつ、しかも強さを持つためには、宗教の教えを作り上げていくことが、
罪の世界に必要である。
多くの人間が救われる必要があり、対立を解消する手段のために、心と裏腹な罪を犯してしまうものである。
それを、悲しむ観念が、人の頭に浮かんでくるのだから、生きる上では、それらの、罪への癒しを担うものが、なくてはいけない。
そういう点で、必要不可欠、必ず存在する、というものが宗教である。必要であるかどうかという観点で物事の本質に
迫ろうとする思考自体は良いが、それを生に当てはめるのは、よほど条件を見据えないと、正しい命題の形で
提議することはできないだろう。多くの物事を説明するための許容度が問題となるだろうし、個人の哲学的
必要条件は、全体へのかかわりの法則を、含んで再構築されねばならない。 目のいい人は、中心視野をよく使えるらしい。黄斑を使うのが、中心視野である。
www.me-kaiteki.com/recovery-method/visual-training/extraocular-muscle/usage.html
頭の使い方は、頭の狭い範囲に集中してみてはどうだろうか。広く活性化させようとするとうまくいかない。
思考のエッセンス、感情のエッセンスは、凝縮された狭い点の中にこそあるはずだ。
目を使うように、頭を使う。現在は、より狭めてこそ現在である。
目を閉じて、暗闇の中に集中する。その中で一点を得られれば良い。 時間を使わないと本質的な論点がはっきりしない自分の中のもやもやがある。
その場ですべてに対応しようとせずに後回しにすることが議論の場での正しい行為であることが自分にとってあることがある。
つまり自分にはわからないことがありでも気になることがある。
それは一つの新しい基礎だ、少なくともその当人にとっては。
初めのうちは分からなくてもあきらめてはいけないし、分からないことに絶望する必要もない。
本当にわからないことは端的に時間をかけてもわからないということであり、レベルが全然違う。
分からないということが逆に安心を与えることもあるが。
従って気になることはすべて解決可能なことであるのであって、時間をかければわかることである。
その時間を持てるということが先々への努力が可能かどうかということをはかる一番のバロメーターである。 >目のいい人は、中心視野をよく使えるらしい。黄斑を使うのが、中心視野である。
感のいい人は、ものの具体性やものの表面を見ない、感触や、色、音や味という
目でみる形とは違う多種多角的な物差しで目的の中心以外を捉えて全体からの
雰囲気を心に写し取る。
>頭の使い方は、頭の狭い範囲に集中してみてはどうだろうか。
頭の良い人は、他人より秀ている故に狭い集中による、つまり秀才の才能である、
頭の弱い人は、他人に思考をさせ、全体としての流れを読み取り流される、
ただ他人の思考の本質(抽象的特徴)を掴み、それを活かし、他人と他人を繋いでゆく
そして相互が全体として活かせる形を創造することが頭の弱い天才の才能である。
暗闇に本当に何もないなら、暗黙をいくら積み重ねようが暗黙である、
暗黙に人工の偽星という明かりをつくり、それを手がかりに暗黙ではない状況作りは
暗黙だと確信していた世界に希望を作り出す。 >時間を使わないと本質的な論点がはっきりしない自分の中のもやもやがある。
もやもやは、もやもやでいい、もやもやとは経験的に知識的に、それと比べる具体的な何かが
見つからないからだ、あえて論点Aとか論点Bという風にありそうな要素として名前付けしてみる
そして、それをはっきりさせる方向を計りとるには"定義する"のではない、定義されるように仕向けるのだ。
論点Aではないものを除外することはそれほど難しくないはずだ、つまり論点A以外を無数に
探し出してゆくことで論点A以外を具体化できる、もし論点Aを強引に具体化してはっきりさせれば
論点Aを強引に定義した結果として答えは歪み、その安易な思考は真理とはずれた別の本質を掴み取る、
合理性の呪縛に呪われるだろう。
答えは試行錯誤で縛るのではなく、それ以外の何かからうっすらと導きだしてもらうべきだ。
才能とは実力ではない、長期の時間をその才能が示す結果に進むように続けられる事、その長さである。
実力で得た具体的結果がどんなに優秀で素晴らしいものであっても、それは実力であって才能ではない。
偶然与えられた情況と運によるもの、自らが進むべき持続力ではない、積み上げられた才能から生み出した
結果とは違い、最初からできた実力は恐ろしく脆い力でしかない。 答を出すことを恐れる必要はない。それは修正できるものだし、次へ次へと条件をそろえることで、先延ばしにしていては、
何らかの欠陥を避けることについてまわるリスクを、取らない駄弁の脳になる。
特に、時間感覚などについて、上手く時間を捉えられないのだとしたら、ああ、いま5分たった、などと答えを決断することで、
十分に条件を無意識的に考慮した時間の実際が、経験として頭の中に出来上がることを知るべきだ。
優柔不断は、恐れである場合もあり、硬くなってしまっているということもある。
「ただ考えるだけのこと」について、避け続けるのは、悪い習慣である。
自分の知識が足りないのか、騙されているのか、おかしいのか、信じているものが悪いのか、善知識の出番だ。
そして、懺悔するためには、覚悟という行為(決断から答えを表してみること)を身につけて進めるのが良いだろう。
直観は否定できず、自分を騙すことはできない。従って、本当に人を騙すことも、できないことである。
責任を担えるようになるためには、問題の答えを、仮にでもいいから、出していかないといけない。
かりそめの人格は、人を損なう厳しさを、避けられるものである。
信念思想には、自分で実際に関わっていくという面白いことがあり、新しいものを生み出していく、あるいは新しさを実感する、
そのためには、入門のまっさらを、再び顧みなければならない。
蜘蛛の巣が破れたら、また張りなおさねばならない。どういうことかというと、真理を捉えるために構築された理論は、
柔軟性があり、何度も張りなおすことが出来なければならない、即ち、自分の信念を、感覚を、たくさんのものに
合わせて、それを得られるために、考え直す、そんなことは、しなければ腐っていくばかり。
自分が無能なのではない。考え方が無能なのだ。あらゆる脳は、十分な可能性を持つ。
そういうことから、努力の普遍性が成り立つ。
扉を開けない自分を持たないことだ。縮こまって閉じこもったような経験は、渇望の強度を記憶の中に感じている。
様々なアプローチにおいて、近しいものも遠いものもあるが、一致の方向へとそれが向くならば、それは直観と経験によっており、
それは自分が現れるという、ハイライトである。 物事はうまくいく方へ向けられる。文章を読んで、持論と違うことがたくさん書いてある。僕はもう、悲観して諦められなければ
ならないのか。いや、物事は、正しさに飛びついてはならない。自分で考えることが、正しさ以上に重要である。
いつも正しくあらねばならぬ、それは、実際の責任を負う時だけだ。まだ余力がある、社会体系への不満もある、
変なことを言ってる偉そうな思想があちこちにある。
それらは皆、自分の思いたい方へ思えばいい。例えば、将棋では、目的を持った指し方をしなければならない。それには勝ち負けと
同じほどの重要さがある。つまり、雑多なものをあちこち動かしているような意味の見られないことではなく、自分の思念が
一つの方向へ向けた、そういう経験が、破れたとしても生きたということになる。自らの力は、正誤を気にした貧弱な
意志として、生きてしまってはならない。そもそも、生きるということはどういうことであるか。考えることが、そのキーポイントであろう。
自分で決まった方向を向けない、生のマスターではない。あまりに縮こまっている。人ばかりが立派に見える。
店などで知らぬ人に目をそらされる。それらは、妄想であり、顧みる価値はない。
過去を忘れがちになる。長い範囲はとても思い出せないだろう。だが、一瞬、脳裏に浮かぶものがある。それが過去だ。
現在から振り返った時の過去だ。それ以上に思い出せなくとも、それはそれで、必要はもうなくなっているはずだ。
必要な物だけを考え、決断の方法(1、思考に目的がある。2、過去を知っている)を存分に使っていくなら、それはずいぶんと
楽しい生き方に他ならないだろう。
人は、大したことを言ってくれない。騙そうとする。上に立とうとする。僕自身もバカにしたりすることもある。それらはみな、皮肉でしかなく、
哲学思想として目を向けたり、囚われたりしても仕方がない。もっと大切なことは、自分をつぶさず、何らかの意味を、自分なりに
なしとげることである。自分が生きなければ。励ましたいという心を、美しく楽しい交歓を。恐ろしくなったら、自分自身の意思を。
強さがそこにある。人に騙されない。本心とやり口を見抜く。思想がたわむ。でもそこから自分で歩いていく。迷いなく、楽しく、心強く。 >それらは皆、自分の思いたい方へ思えばいい。
それでいい、だが、それは逆風に立ち向かう覚悟でもあることを覚えよ、
答えは安易ではない、なぜなら貴方が自覚しているはずだ。
正しさとは、結果を出した者に与えられる称号だ、結果を出せない努力や思いは過程でしかない
途中で勝とうとするな、最後まで諦めず与えられる勝利を目指せ。
貴方が勝つのではない、貴方の才能を認めたとき貴方が諦めなかったとき世界が勝ちを授けてくれる。
偶然に頼るな、常に必然の流れをイメージすれば、貴方が進める道は明白に現れる。 >人は、大したことを言ってくれない。騙そうとする。上に立とうとする。
湖のボートに乗り水をこぎ前に進もうとするとき、水は常に上位者によって進む力の土台にされる、
世界はそういう吊り合いのバランスで成立している、牧場の牧草が牛にらべられようと、牛は牧草を食べて生きる
それは生きる土台にしか使えない、それが生きるということだ、牛が最後に人間に食べられる、それも然り、
自分も常に何かを犠牲にして進んでるだからこそ、上に立とうとする、
ただ、そこに感謝があるかどうかが重要だ、牧草を根絶やしにし次に生えてくるそれすら上位者が根絶すれば
牧草は生えてこない、上位に立つものとして感謝をして根絶やしにしてはいけない、進むのに必要なものだけを取る、
それが下位に存在するものへの感謝である。
人の上に立つものが暴れ周り暴言と憎しみを下にぶつければその上位に立つものの立場が崩れる、
周囲を廻らせ世界を循環させるように感謝して上に立て、上に進めるものは足場は崩れず、足場が崩れるものは上に進めず、
世界と共に在れ、それが感謝だ、世界に対して負の感情を持てば見えない部分で足場が崩れる自分の足元に気がつけない。
世界の70億人の人口のうち10億人以上が明日の食事すらあやしい飢餓人口であることを、
明日の食事が確実にある豊かさに感謝しよう。 >人に騙されない。本心とやり口を見抜く。思想がたわむ。
人の言葉を信じるな、言葉とは呪術からはじまる呪いの技術である、
信じるべきは人の才能、人の本質、なぜならそれらは抽象的で掴み得ない何かであっても
具体性はなく、決して裏切ることはない。
理解するのではなく、理解されろ、信じるのではなく信じられろ、理解するから反感が生じる、
表面だけの言葉など、それは不快な雑音の類である、いらだつ工事現場の騒音は
永久に続くものではない、関係が必要ないものは気が付かないときに自然に消えてゆく、
存在する価値を現世が認めないものは、自然に消えてゆく、哀れな存在である。
表面に現れる奇怪な具体性など、クスリで異常になっている薬中毒患者が大声で奇声を上げ
あばれているようなもの、それを想像すればいいだけ、それは彼の問題であり最後にたどり着く
結果は想像を超えた末路、戻れない落下地点、南無阿弥陀仏。 自分が輝いている瞬間を願え、想像して自分の道を作れ、
それで覚悟を決めればそれも呪い、
呪いは後ろ向きに作用するものとは正反対な前向きに作用するものがある、
後ろ向きは負の感情に類する何かだ、自分で考えろ
それは前向きか?小さい1歩でいい、続ける才能があれば微動でも加速する、
後ろ向きに加速する言葉は死に至る呪いだ、共に死ぬ負の連鎖、
恐るべき呪いを理解すれば僅かであっても引き込まれる、触るべからず、
自分の進むべき道でも課題ではなく、最後に地獄に落ちてゆく亡者の怨念でしかない。
負の道に誘導するそれは冷たいようでも、踏み台にした土台と考え、理解せず
踏み台となってくれる感謝だけをしよう、負を知らなければ正は歪み正しい道はつかめない、
貴方にとって正しい道を示す負の現象は踏み台でしかない、上位者は貴方であり自分である、
踏み台に感謝しても理解してはいけない、工事中の道路と何の違いもない。
だが工事中の道路は蟻地獄の罠のように危険をもち危険を覗き見する物を誘惑し
仲間として理解させようとする、悪を共にしては悪に落ちる。悪とは貴方が決めるもの。 >>85
盛者必衰のことわりを表す……心の中に掴んだものが、だんだんと失われたら、どんなものでしょうね。それでも強く
川の流れとしての身を確かに持つ……たとえあぶくと消えようとも、そのミクロなメカニズムには、たしかなドラマがあるでしょう。
余りにも大きなところから見下ろされる仏様は、歴史的でもあられるけども、各個人にも寄り添ってくれる。
全てのスケールを、当てはめることでしょうか。
>>86
崩れる足場を思う時、循環による安全は、貪らないことであり、人の上位を考えることなしには、人間が世界を続けることは
出来ませんね。
>>87
言葉によって救われた経験が、ある人ほど、美しい言葉に近いでしょう。愛の告白を、自らの口によってしたか?
決定的なインスピレーションを待つくらいしか、日々の中で行えることは無いでしょう。
>>87
悪と共に……そんなことも覚悟の内になければなりませんね。土台に使うべきものとは確かにあります。 過去は見通せる、未来は見通せる、全て、この眼による視界と同じように。人の圧力は、暴力である。暴力は見通せなく
させるもの。過去も見える、未来も見える、暴力も感じる。必要な力。失敗もする。軋轢がある。
見えることに安心をする。言葉を紡ぐ先、言葉を立てる方向、全ては見通せる範囲のこと。
自分の心が現実性を帯びてしまう、理想の精神状態と、すぐれた能力も、今ここでしかない。
永遠を見通す視力、眼力を、悲しい感情と共に思い出し、その視力を実践することで、歓喜が生まれる。
泣くな、友よ、我々は、隔てられてさえいない、別の感覚の中に生きている。あなたの見とおせるものは、
時間と言うものであり、あなたに見とおせないものは、靴のなめし皮のようなものだ。
片方は高貴であり、片方はよくあることだ。子供は後者を気に入るのだ。
心の必然を折り曲げてでも、守るために変えなければならないものがある。
見えるままに、全ての危険を予知しなければならない。奇跡を信じるなら、その条件をそろえなければならない。
あなたは知っているだろうか、自らが仏であることを。
そして、どこにだって、見えるものが考えたことでないことは、ないのだ。
理念が身勝手な物であれば道を失う。だが私は、自らを言い張らないと決めている。全ては、人を後にはするまい。
ただ自分でできることのために、時を使うだけである。 過去も未来も空間も全て見通せるものだというのは、最強の考えだからね。愛しい人が、いる場所さえ、見通しているのだから。
それがどこなのかはわからないにしたって。死んで巡り会おうなんていうことは、意味がない。もともと、どこかにいて、
何らかの同じ時間の中で生きているのだから。近くはなくても、過去を見通して知り、未来への可能性も見通し、
空間の無限の中で共に生きて、苦しい気持ちは、その存在に預けられる。死をはやまることに意味はない。
人生の転機の、インスピレーションを待ち続ける、そんな風にしてみたっていい。 何らかの印象をつなげていくことが、認知である。例えば、読書なら、行頭からイメージを残しておき、次へ進む。
この行為が、字面で文章を理解する方法だ。なれれば、速読も可能になる。じっくりと味わって考えながら
読むことのほうが、より良いことであることも、言うまでもない。
同様、脳の中の働きの印象を、覚えて置き、関連付けていくこともできる。そのとき、世界は印象の嵐の中にあるのであり、
あらゆる可能性が頭の中に存在している。そこから、何かを得るわけである。これも、一つの瞑想的な思考である。
印象をつなげることで、知がある種では可能になるとすれば、こだわっている特定の印象に、別の角度から、
アプローチすることも可能になる。我慢するんだ。悲しい別れを、耐えるんだ。自分だけにしかできない愛し方を
すればよい。たとえ、今生の別れとても、信念はある。死ぬのと同じことだ。自らにこだわることは、浄土を
念ずることで、耐える自分が、人のせいにしないことになる。
たとえ自分の悲願があるとしたって、大変な境遇の中で苦しんでいる人もいる。それらすべてを救う方向へと
向かわせるのが、念仏ではないだろうか。対岸の火事を消しに行ってはならぬ。それぞれが正しい心を
持つことこそ、世が良い方へ向かう方法である。
「罪のひとびと み名を呼べ
われも光の うちにあり
まどいの眼には 見えねども
ほとけはつねに 照らせる、と」(「正信念仏偈」より引用)
つまり、この自分は大した心を持っていないのに、仏は救うという。仏の悟りは、世界の理解でもある。世界自体が仏である
ということは、どのようにしたら得られるのだろうか。それが不可能ではないということこそ、教えの真理に近いだろう。
世界は思い通りにはならない。考えは色々と工夫できる。心の世界の無限を、有限なる人生において無限の内容によって、
超越すること。つまり、生死に囚われないことが、命の本質なのであろうか。なぜ生まれてきたかということを、答えておられる
のであると思う。生まれた意味が、浄土としてあるはずである。必要のない命がないということだ。 物事を正しく得るうえで、最も大切なのは、時間である。例えば三秒の時間で一回転とする。三秒あれば、何かの
考えを思い浮かべ、解決することが出来る。長い文章を前にして、気が遠くなることもあるだろう。そのときは、
短い考えの集積として長文が出来ているのだと思えばよい。人生はなかなか長くとも、物事の理解は、単純で
短いことがほとんどだ。全てを理解しなくても、部分部分で得られるものがあれば、それだけでも十分に
価値があることなのである。というわけで、時間の使い方、得方には、いつでもできるということがあるから、
ぜひとも短い時間の積み重ねという、フォーカスを短時間においた自然な日々の暮らし方の中で、
難しくなく得られるたくさんの知恵、経験を、考えるべきなのである。いつまでも先延ばしにして、
ストレスを感じながら頑張ることは、重い金時計を首から下げた羊(村上春樹『風の歌を聞け』)
に他ならない。 >>93
>物事を正しく得るうえで、
正しさは重要ではない、なぜなら人が考える正しさは常として過去や現在の正しさを
考えるからだ、正しくとするならばまだ盲目で掴み得ない自分自身が進み行く
未来への道筋を想像したまえ。
>考えを思い浮かべ、解決することが出来る。
解決するべきは未来であって過去ではない、過去に縛られるのは後ろ向き、人間世界では
過去に囚われるものは未来を愛せない、無理不浄に立ち向かい未来を活かすことだ、
思考は常に過去に縛られる原理がある、そこから旅立つには過去を土台にする必要があるが
過去の力は人を支配し、全ての過去を捨てる覚悟と決意ができたとしても99%は過去の力
からは抜け出せない、未来へ進むのは羽の無い人がそらを自由に飛ぶこと、決して重力から
抜け出すことは、どんな方法でも無数の犠牲と努力と決別の上にしかできない技である。 才能とは、実力や結果ではない、無意識下から引き込まれる人の道、
考える前に誘導される方向、それらが自然に奏功を繰り返したどり着く必然である。
凡人と才能のある人の違いは、心の根底にその道筋へ進む何かの有無の差である、
言葉や意味できないからこそ生まれ持った才能と割り切るが、
人がもつ根底に眠る本質が変えられるように才能も根底を育てることで生じるもの、
まず必要なのは1歩だ、自分に呪いをかけ過去に戻ることを悪とせよ、過去を捨てる
それは過去を具体的に割り切り切捨てることではなく、「過去をぼやかす、曖昧にすること」
明確な過去や過去の知識、過去の経験こそ過去が現在をすばる呪いだ、
新しく唱えよ、常に前に進む、振り返らない、忘れさるのではなく重力に逆らう土台にして
空に羽ばたく道具にしろ、心の翼は心が病んだもの後ろ向きなものには使えない、
だが誰にでもある翼である、飛ぶことを諦めた鳥にあるのは過去だけ未来などない。
重力を切り捨てるのではなく、重力と共に重力を原理として飛ぶのが鳥の飛行である、
どんなに原理が強大な力であっても、次元を超えた心は縛れない、次元の絶対超えられない
壁を心に作るのは過去の現実である、幼いころもっていた色鮮やかな未来への好奇心、
無力で無知が故に進みだす無能で脆弱な力、中途半端な力を得たからこそ、それを忘れている、
貴方の中に封印した宝石箱には、未来へと繋ぐ「無能で脆弱な力」があるはずだ、 才能が無いものが自分の才能を開花できないのだけの雛形である、
死ぬ以上に恐ろしい壁を無意識に作りその先に手を伸ばさない、
馬鹿や阿呆といった能力を否定し、未知の領域に自分を陥れる遠回りで非合理的な
選択を無意識で選択している、なぜならそれが簡単だから、安易だから、無難だから、
進む選択を最適化するほど、その未知への領域を拒む過去の知識と経験の合理性に
支配される、現在停滞してどうにもならない部分こそ、その「過去の知識と経験の合理性」
が作り出した居心地のよい巣穴、その中でどんなに努力しても外に出ているわけではない
井の中の蛙、弱い心ほど、非合理、無駄、無意味、不条理、間違い、それらを恐れている、
ただそれらが全て助かる唯一の道であると気が付くことができるなら、
「死ねば助かるのに」というセリフの意味を理解できるだろう。
勝とうという気持ちがない、ただ助かろうとしているだけ、貴方は怯えている。
貴方が大事にする自分以外の他の何かを活かす気持ちに辿り着ければ、勇気が得られる、
自分以外の「他の何か」としてもそれは貴方の一部だ、どうすればいいのかは自分の心に聞け! この人の語りは徳の高い坊主の説法くらい値打ちがあると思うね、皆はバカにしてるけど
書いていることを読んでみると只事ではないということが分かるだろう
読んでないけど >>94-96
親鸞聖人の時代には、科学技術が発展することも、また、進化の末に人間が出来たということも、分からなかったでしょう。
それであってさえ、陸路よりは海路で船で行くことの利便性を、悟りについて説いておられました。
ですが、心の問題を、現在において考えるならば、未来へ行きうる、未来へ行くことが良いことである、このようには、親鸞聖人はお考えに
なっていなかった模様です。現在の世界に対する否定は、大きくあった。それは、それほどに苦痛苦労が大きかったからでしょう。
人間は、自分の力で世界を動かすまでになった。
それでは、最後はどこへ。人間はどこへ。幸せはどこへ。ただ進むこと、「死ねば助かるのに」、こういった考えは、
確かに未来を拓くためのものです。過去をあいまいにして、嘘をつくことをしないこと。
人には、好かれる人も嫌われる人もいます。そういったことを一つの原理として回っています。一般世間では明らかには
されませんが……。損をしたとか言うのは、一面の真理でしょうが、誰にだって、自らの命はある。それをどう使うか。
その輝きだって、オリンピックアスリートと一般人では大きく違う。でも、草野球もある。
全ては、完全ではないのだから。自分以外の「他の何か」これが、倫理的なお言葉ですね。
綺麗事を乗り越えて、自分にとっての真理は、もう見つかっており、これが自分自身です。余分なことを申しましたが、
広い世界があるらしい。心の世界も、現実の世界も、物事を動かす世界も。あなたがご自分を偽らないまま、進んでいかれ
ますように……。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています