悟りに近づくために10
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>人は、大したことを言ってくれない。騙そうとする。上に立とうとする。
湖のボートに乗り水をこぎ前に進もうとするとき、水は常に上位者によって進む力の土台にされる、
世界はそういう吊り合いのバランスで成立している、牧場の牧草が牛にらべられようと、牛は牧草を食べて生きる
それは生きる土台にしか使えない、それが生きるということだ、牛が最後に人間に食べられる、それも然り、
自分も常に何かを犠牲にして進んでるだからこそ、上に立とうとする、
ただ、そこに感謝があるかどうかが重要だ、牧草を根絶やしにし次に生えてくるそれすら上位者が根絶すれば
牧草は生えてこない、上位に立つものとして感謝をして根絶やしにしてはいけない、進むのに必要なものだけを取る、
それが下位に存在するものへの感謝である。
人の上に立つものが暴れ周り暴言と憎しみを下にぶつければその上位に立つものの立場が崩れる、
周囲を廻らせ世界を循環させるように感謝して上に立て、上に進めるものは足場は崩れず、足場が崩れるものは上に進めず、
世界と共に在れ、それが感謝だ、世界に対して負の感情を持てば見えない部分で足場が崩れる自分の足元に気がつけない。
世界の70億人の人口のうち10億人以上が明日の食事すらあやしい飢餓人口であることを、
明日の食事が確実にある豊かさに感謝しよう。 >人に騙されない。本心とやり口を見抜く。思想がたわむ。
人の言葉を信じるな、言葉とは呪術からはじまる呪いの技術である、
信じるべきは人の才能、人の本質、なぜならそれらは抽象的で掴み得ない何かであっても
具体性はなく、決して裏切ることはない。
理解するのではなく、理解されろ、信じるのではなく信じられろ、理解するから反感が生じる、
表面だけの言葉など、それは不快な雑音の類である、いらだつ工事現場の騒音は
永久に続くものではない、関係が必要ないものは気が付かないときに自然に消えてゆく、
存在する価値を現世が認めないものは、自然に消えてゆく、哀れな存在である。
表面に現れる奇怪な具体性など、クスリで異常になっている薬中毒患者が大声で奇声を上げ
あばれているようなもの、それを想像すればいいだけ、それは彼の問題であり最後にたどり着く
結果は想像を超えた末路、戻れない落下地点、南無阿弥陀仏。 自分が輝いている瞬間を願え、想像して自分の道を作れ、
それで覚悟を決めればそれも呪い、
呪いは後ろ向きに作用するものとは正反対な前向きに作用するものがある、
後ろ向きは負の感情に類する何かだ、自分で考えろ
それは前向きか?小さい1歩でいい、続ける才能があれば微動でも加速する、
後ろ向きに加速する言葉は死に至る呪いだ、共に死ぬ負の連鎖、
恐るべき呪いを理解すれば僅かであっても引き込まれる、触るべからず、
自分の進むべき道でも課題ではなく、最後に地獄に落ちてゆく亡者の怨念でしかない。
負の道に誘導するそれは冷たいようでも、踏み台にした土台と考え、理解せず
踏み台となってくれる感謝だけをしよう、負を知らなければ正は歪み正しい道はつかめない、
貴方にとって正しい道を示す負の現象は踏み台でしかない、上位者は貴方であり自分である、
踏み台に感謝しても理解してはいけない、工事中の道路と何の違いもない。
だが工事中の道路は蟻地獄の罠のように危険をもち危険を覗き見する物を誘惑し
仲間として理解させようとする、悪を共にしては悪に落ちる。悪とは貴方が決めるもの。 >>85
盛者必衰のことわりを表す……心の中に掴んだものが、だんだんと失われたら、どんなものでしょうね。それでも強く
川の流れとしての身を確かに持つ……たとえあぶくと消えようとも、そのミクロなメカニズムには、たしかなドラマがあるでしょう。
余りにも大きなところから見下ろされる仏様は、歴史的でもあられるけども、各個人にも寄り添ってくれる。
全てのスケールを、当てはめることでしょうか。
>>86
崩れる足場を思う時、循環による安全は、貪らないことであり、人の上位を考えることなしには、人間が世界を続けることは
出来ませんね。
>>87
言葉によって救われた経験が、ある人ほど、美しい言葉に近いでしょう。愛の告白を、自らの口によってしたか?
決定的なインスピレーションを待つくらいしか、日々の中で行えることは無いでしょう。
>>87
悪と共に……そんなことも覚悟の内になければなりませんね。土台に使うべきものとは確かにあります。 過去は見通せる、未来は見通せる、全て、この眼による視界と同じように。人の圧力は、暴力である。暴力は見通せなく
させるもの。過去も見える、未来も見える、暴力も感じる。必要な力。失敗もする。軋轢がある。
見えることに安心をする。言葉を紡ぐ先、言葉を立てる方向、全ては見通せる範囲のこと。
自分の心が現実性を帯びてしまう、理想の精神状態と、すぐれた能力も、今ここでしかない。
永遠を見通す視力、眼力を、悲しい感情と共に思い出し、その視力を実践することで、歓喜が生まれる。
泣くな、友よ、我々は、隔てられてさえいない、別の感覚の中に生きている。あなたの見とおせるものは、
時間と言うものであり、あなたに見とおせないものは、靴のなめし皮のようなものだ。
片方は高貴であり、片方はよくあることだ。子供は後者を気に入るのだ。
心の必然を折り曲げてでも、守るために変えなければならないものがある。
見えるままに、全ての危険を予知しなければならない。奇跡を信じるなら、その条件をそろえなければならない。
あなたは知っているだろうか、自らが仏であることを。
そして、どこにだって、見えるものが考えたことでないことは、ないのだ。
理念が身勝手な物であれば道を失う。だが私は、自らを言い張らないと決めている。全ては、人を後にはするまい。
ただ自分でできることのために、時を使うだけである。 過去も未来も空間も全て見通せるものだというのは、最強の考えだからね。愛しい人が、いる場所さえ、見通しているのだから。
それがどこなのかはわからないにしたって。死んで巡り会おうなんていうことは、意味がない。もともと、どこかにいて、
何らかの同じ時間の中で生きているのだから。近くはなくても、過去を見通して知り、未来への可能性も見通し、
空間の無限の中で共に生きて、苦しい気持ちは、その存在に預けられる。死をはやまることに意味はない。
人生の転機の、インスピレーションを待ち続ける、そんな風にしてみたっていい。 何らかの印象をつなげていくことが、認知である。例えば、読書なら、行頭からイメージを残しておき、次へ進む。
この行為が、字面で文章を理解する方法だ。なれれば、速読も可能になる。じっくりと味わって考えながら
読むことのほうが、より良いことであることも、言うまでもない。
同様、脳の中の働きの印象を、覚えて置き、関連付けていくこともできる。そのとき、世界は印象の嵐の中にあるのであり、
あらゆる可能性が頭の中に存在している。そこから、何かを得るわけである。これも、一つの瞑想的な思考である。
印象をつなげることで、知がある種では可能になるとすれば、こだわっている特定の印象に、別の角度から、
アプローチすることも可能になる。我慢するんだ。悲しい別れを、耐えるんだ。自分だけにしかできない愛し方を
すればよい。たとえ、今生の別れとても、信念はある。死ぬのと同じことだ。自らにこだわることは、浄土を
念ずることで、耐える自分が、人のせいにしないことになる。
たとえ自分の悲願があるとしたって、大変な境遇の中で苦しんでいる人もいる。それらすべてを救う方向へと
向かわせるのが、念仏ではないだろうか。対岸の火事を消しに行ってはならぬ。それぞれが正しい心を
持つことこそ、世が良い方へ向かう方法である。
「罪のひとびと み名を呼べ
われも光の うちにあり
まどいの眼には 見えねども
ほとけはつねに 照らせる、と」(「正信念仏偈」より引用)
つまり、この自分は大した心を持っていないのに、仏は救うという。仏の悟りは、世界の理解でもある。世界自体が仏である
ということは、どのようにしたら得られるのだろうか。それが不可能ではないということこそ、教えの真理に近いだろう。
世界は思い通りにはならない。考えは色々と工夫できる。心の世界の無限を、有限なる人生において無限の内容によって、
超越すること。つまり、生死に囚われないことが、命の本質なのであろうか。なぜ生まれてきたかということを、答えておられる
のであると思う。生まれた意味が、浄土としてあるはずである。必要のない命がないということだ。 物事を正しく得るうえで、最も大切なのは、時間である。例えば三秒の時間で一回転とする。三秒あれば、何かの
考えを思い浮かべ、解決することが出来る。長い文章を前にして、気が遠くなることもあるだろう。そのときは、
短い考えの集積として長文が出来ているのだと思えばよい。人生はなかなか長くとも、物事の理解は、単純で
短いことがほとんどだ。全てを理解しなくても、部分部分で得られるものがあれば、それだけでも十分に
価値があることなのである。というわけで、時間の使い方、得方には、いつでもできるということがあるから、
ぜひとも短い時間の積み重ねという、フォーカスを短時間においた自然な日々の暮らし方の中で、
難しくなく得られるたくさんの知恵、経験を、考えるべきなのである。いつまでも先延ばしにして、
ストレスを感じながら頑張ることは、重い金時計を首から下げた羊(村上春樹『風の歌を聞け』)
に他ならない。 >>93
>物事を正しく得るうえで、
正しさは重要ではない、なぜなら人が考える正しさは常として過去や現在の正しさを
考えるからだ、正しくとするならばまだ盲目で掴み得ない自分自身が進み行く
未来への道筋を想像したまえ。
>考えを思い浮かべ、解決することが出来る。
解決するべきは未来であって過去ではない、過去に縛られるのは後ろ向き、人間世界では
過去に囚われるものは未来を愛せない、無理不浄に立ち向かい未来を活かすことだ、
思考は常に過去に縛られる原理がある、そこから旅立つには過去を土台にする必要があるが
過去の力は人を支配し、全ての過去を捨てる覚悟と決意ができたとしても99%は過去の力
からは抜け出せない、未来へ進むのは羽の無い人がそらを自由に飛ぶこと、決して重力から
抜け出すことは、どんな方法でも無数の犠牲と努力と決別の上にしかできない技である。 才能とは、実力や結果ではない、無意識下から引き込まれる人の道、
考える前に誘導される方向、それらが自然に奏功を繰り返したどり着く必然である。
凡人と才能のある人の違いは、心の根底にその道筋へ進む何かの有無の差である、
言葉や意味できないからこそ生まれ持った才能と割り切るが、
人がもつ根底に眠る本質が変えられるように才能も根底を育てることで生じるもの、
まず必要なのは1歩だ、自分に呪いをかけ過去に戻ることを悪とせよ、過去を捨てる
それは過去を具体的に割り切り切捨てることではなく、「過去をぼやかす、曖昧にすること」
明確な過去や過去の知識、過去の経験こそ過去が現在をすばる呪いだ、
新しく唱えよ、常に前に進む、振り返らない、忘れさるのではなく重力に逆らう土台にして
空に羽ばたく道具にしろ、心の翼は心が病んだもの後ろ向きなものには使えない、
だが誰にでもある翼である、飛ぶことを諦めた鳥にあるのは過去だけ未来などない。
重力を切り捨てるのではなく、重力と共に重力を原理として飛ぶのが鳥の飛行である、
どんなに原理が強大な力であっても、次元を超えた心は縛れない、次元の絶対超えられない
壁を心に作るのは過去の現実である、幼いころもっていた色鮮やかな未来への好奇心、
無力で無知が故に進みだす無能で脆弱な力、中途半端な力を得たからこそ、それを忘れている、
貴方の中に封印した宝石箱には、未来へと繋ぐ「無能で脆弱な力」があるはずだ、 才能が無いものが自分の才能を開花できないのだけの雛形である、
死ぬ以上に恐ろしい壁を無意識に作りその先に手を伸ばさない、
馬鹿や阿呆といった能力を否定し、未知の領域に自分を陥れる遠回りで非合理的な
選択を無意識で選択している、なぜならそれが簡単だから、安易だから、無難だから、
進む選択を最適化するほど、その未知への領域を拒む過去の知識と経験の合理性に
支配される、現在停滞してどうにもならない部分こそ、その「過去の知識と経験の合理性」
が作り出した居心地のよい巣穴、その中でどんなに努力しても外に出ているわけではない
井の中の蛙、弱い心ほど、非合理、無駄、無意味、不条理、間違い、それらを恐れている、
ただそれらが全て助かる唯一の道であると気が付くことができるなら、
「死ねば助かるのに」というセリフの意味を理解できるだろう。
勝とうという気持ちがない、ただ助かろうとしているだけ、貴方は怯えている。
貴方が大事にする自分以外の他の何かを活かす気持ちに辿り着ければ、勇気が得られる、
自分以外の「他の何か」としてもそれは貴方の一部だ、どうすればいいのかは自分の心に聞け! この人の語りは徳の高い坊主の説法くらい値打ちがあると思うね、皆はバカにしてるけど
書いていることを読んでみると只事ではないということが分かるだろう
読んでないけど >>94-96
親鸞聖人の時代には、科学技術が発展することも、また、進化の末に人間が出来たということも、分からなかったでしょう。
それであってさえ、陸路よりは海路で船で行くことの利便性を、悟りについて説いておられました。
ですが、心の問題を、現在において考えるならば、未来へ行きうる、未来へ行くことが良いことである、このようには、親鸞聖人はお考えに
なっていなかった模様です。現在の世界に対する否定は、大きくあった。それは、それほどに苦痛苦労が大きかったからでしょう。
人間は、自分の力で世界を動かすまでになった。
それでは、最後はどこへ。人間はどこへ。幸せはどこへ。ただ進むこと、「死ねば助かるのに」、こういった考えは、
確かに未来を拓くためのものです。過去をあいまいにして、嘘をつくことをしないこと。
人には、好かれる人も嫌われる人もいます。そういったことを一つの原理として回っています。一般世間では明らかには
されませんが……。損をしたとか言うのは、一面の真理でしょうが、誰にだって、自らの命はある。それをどう使うか。
その輝きだって、オリンピックアスリートと一般人では大きく違う。でも、草野球もある。
全ては、完全ではないのだから。自分以外の「他の何か」これが、倫理的なお言葉ですね。
綺麗事を乗り越えて、自分にとっての真理は、もう見つかっており、これが自分自身です。余分なことを申しましたが、
広い世界があるらしい。心の世界も、現実の世界も、物事を動かす世界も。あなたがご自分を偽らないまま、進んでいかれ
ますように……。 531 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2018/03/04(日) 17:54:37.80 0
底辺、好きな人と付き合いたい。
底辺、人の気持ちを考えるだけで、セックスとかめちゃくちゃ下手だお(о´∀`о)自信もないし、やりたくもない。正直、いまとなっては、乳首舐められながら手コキされたいくらいしか欲はないおな。気持ち悪くてすまんが。
底辺、誰かと付き合うのは本質的に無理だと思う。
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1519363752/531 頭の中は、発火して、働きを持つ。
自分にとって、近しいものはある。例えば身体の周りの空間であるとか。周りには何かがあると思えばさみしくはない。
SNSなどによって、関係が近しくなることもある。
自分の周りの世界について、あそことあそこは近しいな、ということを、考えていくだけでも、十分に意味がある。
頭の中で考えるとしたら、自分の近くにあるものに対してこそ、大きな考えが生まれるはずである。
時間についても、どうように近さを考えなければならない。 この世は地獄である。そこにいるだけで大きな苦しみを受ける。壊れない楽しみは、この世には存在しない。
金剛の楽は、大涅槃であるのに対して、この世のものは移ろっていき、全て変わっていってしまう。
もともと親子の情、友の情、愛情などは、永遠を誓うことで、喜びとなる。それが破れてしまうものであること、
これが虚無であろう。
現実は諸行無常、浄土は常住、この流れに乗るために、現実には真実を、また本当を、行なわない手はない。
必要のある虚々実々は、心の問題である。それを、せめて知っているか、体験したかということを、していないといけない。
小さな過ちも、大きな過ちも、自らの怠け癖によって、起きるなら、大きな過誤である。
地獄にいる。どんなこともある。どんなにも苦しい。そういう観点から世のこと、人の事を考えようとするならば、
他人に対する執着心は、消えるに違いない。結局は、快楽と感情の間で、揺れ動くのだろう。
もし、地獄の次を望むなら、それは清浄かつ楽しい地で、常住の永遠を共に生きたい、
信心とは、誰も立証できないことを、自らの内で信じざるを得ない所にある。 言葉(事物も表す)と、論理がある。脳は、論理に対して自己を調整し、合わせなければならない。
論理が脳のためにあるわけではないだろう。だが、脳には不思議なところがある。
その不思議さは、悔しい現実の負けを、挽回するために使えるのではないかと思われる。
うれしい不思議さと、くやしい不思議さがあるのは、人間と論理が一致した状態に在るものではないからだ。
想像力を失ってはならない。それが、自由だ。
考えを論理に合わせることで、感情をかなりコントロールすることが出来る。現実以上の思考。
間違いもある、正解もある、中間もある。
もし自分が疎外されているなら、少しずつでも論理に付き合っていかなければならない。
それが自信になり、褒美となり、達成となる。
脳の可塑性とはそういった物だろう。
歩き方は、覚えるしかないのだ。一生歩けないのだとしたら、非常な障碍となる。だから、世界の物理的成り立ちに、
自分の考えと身体操作をしていくこと、が大切である。事物に対する付き合い方とは、そうしたことしかない。 理論を作り、それに当てはめて雑事を理解することができる。その理論に合っているかどうかを確かめることで、
理論に従った性質によって処理できるかどうか、という作業である。
一方で、本などを読むとき、その言葉から、正しい理論を次々と作り上げていくこともできる。
仏教者の立てる理論は、真理についてのものであることは間違いがないだろう。
つまり、真理を知ること、真理を操れることが、仏教の目的の一つである。
苦を楽にすることが出来るのである。
人間の極限と、世界の極限が、同一につながっており、人間の栄光と神秘の美しさを結びつけるようにあがくことが、
仏教の一つの目的である。もし、世界が見捨てているとしたら、人間の前向きな感動はなぜ起こるのであろうか。 人間に平等はない。体得能力、運、前世からの業、など。不平等のスープの中で、永遠を続けるのか。
そこに、浄土という思想が生まれる。浄土は平らかで、永遠にもいることが出来る。そこでは、
幸運とか、不運とか、苦しみとか、一瞬とかいったことは無い。
この世界に生まれ、不条理に嘆き、それで終わる?そんなはずはない。
浄土がある、いかなる悪業をするものも、偶然の楽しみを謳歌するものも、
全ては、仮のものではないか。つまり、この世は仮であるということだ。
だが、単なる仮ではなく、必然性のある仮なのだ。
信心とは、自らについて納得することだ。浄土について納得するとは、不平等への憎しみが
原動力になるのではないか。だれだってオリンピック選手になりたい。
だが、自分だって、それなりの力は出せる。これらの現象面での不平等を、
争わない場が浄土なのではないだろうか。なぜなら、争いと言うものは、
奪い合うことが目的だから。心もものも、奪い合うのである。
死というものは、なんだろうか。それは、挨拶の様であり、
苦しんだ後に死があるのではなく、死の後に苦しみがあるのである。
つまり、苦の受け手の自分は、朦朧としてもう死んでいる。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
2W2KV 前頭葉、後頭葉などでイメージを作るとき、ピントがずれている状態を、積極的に作っていかなければならない。音のピントもずらすべきである。
一つの気分も、ピントをずらすべきである。色んな気分が釣り合って精神状態を作っていると思われる。意志とは、自然な力で、作り出そうとするべきものだ。
時間の"ずれ"によって、特殊な時間を作ることが出来る。認識においては、人間が統合的に存在しているということから、認識のしかたによっては、悟りと
その向うを、見られるんじゃないか、その向うへ行ってみたいと思うものだろう。場所によって時間の流れ方が違うというのもありそうなことだ。脳の中で、
流れ方の違う時間を、それぞれにおいて健全で多様な時間の流れをつかむ方法として読経がある。自分を知ったものなら悪人と責められるべきではない。
なぜなら、この世があるのは、正しいジャッジメントの下に公正な行いがあることではなく、この世を回していかなければならないからだ。
罪の表れ方によって、意固地な心を改心させるように、仏が見守る。仏は次の仏と共にあるべきである。
夜が見える。光の方に道がある。悲しい朝は新しく生きようと何度も心に繰り返しながら、失敗してきたのだ。
果たして成功とは何か。
自己にこだわって一つの生き方を示すのだが、それが、強く思ったり、瞬間へ集中させるエネルギーの結果であれば、嘘ではないだろう。
つまり、自分の実践がなければ宗教とは言えない。実践の一つは、勇気と共に、ニヒリズムに対することだ。 日ごろの行為に気をつけることである。スリッパは右足から履くとか、習慣にしてしまっていては楽しくない。
あらゆるルーティーンを、その時その時で違う行為、違う考えにかえて、暮らしていく。
すると、固まった筋肉に新しい号令が出されて、気分も変わるのである。 >果たして成功とは何か。
永遠に負けない心、それが成功である、勝つ必要などないのだよ。
たとえ山が動かずとも、山を動かす心があるかぎり、山を動かす力は消えない。
天に輝く星がつかめずとも、天に届かせる手は無限に星に手を伸ばす、その心は諦めないかぎり
消えることはない、常に成功者である。
心が負けを描いたとき、それが失敗、敗北、自滅である。
戦うべきは自分の心の中にある希望だ、希望を失ったそれに未来などない、どんなに小さくても前に進む為の
チャンスを掴み取れ、高望みすれば落下するのが山だ。
希望への道は続いている、道を進め背後には悪意しかない。 身体全体を使って笑うことが大切だ。身体に対しての操作法として、お決まりのパターンに陥っているなら、未知の筋肉がある。
身体全体で笑うとは、身体を解放することだ。 >>111
思いが現実と同じものである、と見る世界観ですね。それは、一つの見方として正しいですよ。落下への恐れとは、
諦めたうえでの自滅ということなのでしょうか。神秘が生きることと等しいという見方は、人間のあり方を向上させます。 >>112
特に大切なのは、肺で笑うことである。笑うという筋肉の使い方によって、大きな筋の動きが可能となる。
すると、深い呼吸に達するために、肺や胸で笑うことの重要さが推測される。 暇なときや、時間が自由な時に、自分に対して思うべきこと。
まず、未来は分からないものだ。あるものが分かるということは、分かっていることを思っているというごまかしだ。
頭の中のある部分から別の部分へ意識を移して、それは初めての認識。それについて驚くことはできる。
つまり、知りえないから面白い。全てわかり切った疲れることがずっと続いていくばかり、と思ってしまうと、
生きているのが耐え難い。だが、知らなかったことを知るという場合、気が晴れる。それに目を見開いていくべきなのである。 柔らかなタッチで、脳や気持ちに接するべきである。柔らかいとは、高度な感覚だ。柔らかく触れられた意味、箇所には、
柔らかい反応を返すことが出来るようになる。柔らかくなければ、破壊の力となる。それに、包むというやり方で、
抗することになる。誰かが作ったもの。生命においては、柔らかさが進化の頂点である。知らなければ覚えればいい。
そっと触らなければ壊れてしまうものは、たくさんたくさんある。柔らかい暴力は、心の中にはない。
柔らかい心は、何よりも素晴らしい。 精神状態は、くるくると変えなければそのうちに収束する。変えずにいられないなら、他の方法を開発するしかない。
苦しい気持ちを、突き詰めなければ、その苦しい気持ちは、自己のあらゆる部分を襲うだろう。そうはいっても、
息苦しかったり、不安だったり、耐えられなかったりすることはあるのである。そのとき、何も頼れるものは、ない。
自分と、存在していても自分には与えられない世界があるだけである。そこで、自己が存在することは、良きにしろ悪しきにしろ
否定できない。それを使うしかない。十分に、苦しみを味わった後で、そこをクリアーしていくことはできるだろう。
観察の上で、何らかの自分なりの工夫を試していくことしかないのである。 思考を一つ保ち続けるのは難しいが、感情は持続させることが出来る。それにしがみつけ。
例えば怒りだ。怒りの気持ちは、自然なものだ。
例えば悲しみだ。悲しみは、心臓を掴むほどにパワーがある。
例えば楽しさだ。楽しいという気持ちをいつでも持てればよい。
例えば空虚感だ。空に至った感情の持続は、目的に向かわないようにするには難しいが、得られれば常にともにあれる。
というわけで、感情というものが、思考とまた別に持っている力について信頼するべきであると述べてみた。 >思考を一つ保ち続けるのは難しいが、感情は持続させることが出来る。それにしがみつけ。
何ゆえに思考するのか、すべては感情が成させる道、
自分に嘘をつくな、つくのは他人と自分以外の世界だけでいい、
考える根源になるそれを正しく認知すれば、根源が導く感情もその行動も、
すべて根源に従う、具体的にではなく抽象的に捉えろ、
具体的な思考を続ける意味などいくらでも解釈しなおせるし自分を騙し、捉え方で
なんどでも歪められる、根源の本質とは抽象的なものだ、何かを起源とはしていても
それを育てた環境も今までに経験した何かもが全て含まれる総体的な本質だ、
根源は認知しても言葉に表せる必要はない、イメージできればいい、自分が自分で
あることを認めることが今を生きる原動力だ、今が過去に流されないようにするには
未来への確実な希望を持て、希望は届く必要はない、ただそれに進む道を繰り返すだけ
道を描き進むのは現在の決意と覚悟、自分の未来は自分のものだ、目指せるのは
目指そうとする以外を忘れること、目指す希望以外は立ちはだかる壁でしかない。 全ての時間は、実体を縮約してとらえることが出来る。半年たった、ということを、一秒で置き換えることが出来るのである。
時間の実体性は、脳の機能のみが保つものだが、人間のはからいの中では、「意味」などとともに、仏にまかせないことの一つとして、
丁寧に向き合わなければならない。 この世の美しさと醜さを説明するのに、弥陀の本願が、いかなるものだったかということを、原理として、照会するべきである。
人間の一番の美点として、醜いものは自然に忘れ、美しいものが心を慰め、世界を改善しようとする心を持つということがある。
その美点ゆえに、弥陀が自分の仕事をはからってくださるのである。
釈迦は、そのことを、人生自体に秘められた力、時の惑わしに損なわれてしまっている本来の人間の力を、悟り、我がもの
としたのであろう。全ての縮約と、全ての自由、心の経済性、自ら捨てなければ力の使い方を知ることが出来るということ。
幻を思うのではなく、思考をまとめること。それらが、現実化したときに、願いが花咲き、無用な抵抗を考え出す必要は
ないということ。
誠に、現実には関わってもらい、またこちらから関わろうとできる。
勘所は、概念操作のしかたということだ。 なんらかの成功を、繰り返し味わうために生きているのではない。
生の本質を得ることである。欲望の本質を、ではない。オナニーは駄目だ。
どんな小さな種であれ、欲望を満たすことが、自己にも他者にも毒になる。それは、決まりきったコースを味わう
という堕落なのである。本当に、行動するとは、欲望を満たそうとしてしてはならない。他者の悪を制する
ということであっても、正義を満たす欲望に従っては、自らが傷つく。
では、どうするかというと、囚われないことである。自己の本質を、自己自体の為ということに従って見通せないだろうか。
ただ偶然に、さいわいを得る。汚れない心で行為する。自分の汚れを自分でぬぐう。
この世にあって、この世で好き勝手にやって、ということもある。それは、現実の中で変えねばならない。
魂に位階があるかどうかは良く分からないが、死後の世界にまで、恨み、正義でさばく、などということを、
持ち込んではならない。その悪人は、力があったからしたのである。それは、一つの珍しくない要素にすぎない。
現世とあの世を、分けて考え、それぞれをそれぞれなりに諦めることである。なぜなら、自分で考えて行為しなければならないからだ。
その行為の中には、当然、読経が含まれる。読経によって、自分で知ることが出来ないことを、行為することになる。
もし、自分が間違えてしまうとしたら、それを業として、引き受けなければならない。
自己の本質とは、欲望と、悟りと、生物体ということと、念を持つということ、そして業である。
それで結構ではないか。いったん楽しみながら、この生を送ることに、何の躊躇をするべきであろうか。
もし、自己が本質について不満に思うなら、考えを進めればいい。
自分の不幸を、世界や運命の所為にしてはいけないだろう。それは、精一杯生きるという約束を破る。
約束は誰としたのか?親である。また世間であり、他者である。そこまで踏み込んだ関わりを、当然に、
一般的に持っているはずである。 >この世の美しさと醜さを説明するのに、
美しさとはなんぞ、
自由と束縛、完全な論理秩序と、揺らぎのある非論理秩序、
カオス(混沌)と秩序を比較したとき、カオスが2つ以上の異なる秩序から生じる
原理と知れば、カオスも秩序なりか。
それは極所的で主体的な秩序と、広域の客体的な混沌が同じである原理で繋がっているから、
尺や計りの違いで秩序にも混沌にもなりえる、主体が限定されれば主体に対する秩序は混沌よりも大なり。
正義という秩序が主体にあり、その正義が相互に争う混沌が生まれるように。
我にとって美しいものが、他人にとって醜いものなのもある、相互の尺の共通点をとり共通の美しさを作れど
全ての組み合わせをみれば美しいそれは少なり。
秘められた力は、可能性だ、可能性を見出せない主体にとっては実になっていない理由により醜いと判断されるだろう、
その秘められた力を正しく捉え他から助ける力を加えて活かすことができたとき、美しいとなりえる、
秘められた力を示すのではない、秘められた力を自分以外が活す状況を勝ち取とれ、
我と神をもって合わせた力こそ愛と勇気と希望が導く祝福された一筋の矢だ。ビューティーセレインアロー >>123
尺の違いと言えば、自我と他人という、認識の違いから生まれる、どうしようもないもの。それを統合するのが、自然などの外部
に対する、働きかけ方ですね。祭りの情緒。可能性をどのように作るかということは、自我外の真理の一つでしょう。 意識と身体の二元論。身体のみに気が向く統合失調症には、自分に意識があるという感覚の発見は、新しいものだ。
意識には中心がある。それが、身体の不調を捉えられる。つまり、意識を治すこと、意識で考えること、これらは、
今までの身体、脳に閉じ込められていた思考を展開できる場所が生まれることだ。意識と身体の二元論には、
それを考えることで、それぞれを治すことが出来る。何もできずに苦しんできてばかりの、心と頭には、
自分と言うものが意識の中心にあるということを考えることで、少しは改善、改良が出来る。
私は生きているし、身体の不調を考えの不調と混同しない。意識には、見えないがつながることが出来るという
希望がある。 呼吸の中に意識は存在する。つまり、呼吸とはめんどくさかったり、息苦しい感じがしたりするものではなく、
その中にはっきりと意識を作り上げ感じることのできる、大変に落ち着く行為なのである。 >>127
意識とは、気が付いているということである。気とは、世界の中の人間存在を成すために必要なものである。
気がなければ、生きられない。意識がなければ能動的行動はできない。
では、意識はどのような働きに使えるか?それは、脳や心が不全になったとき、意識に向かって、自分の存在を、
自分の不調を、投げかけることが出来るということであろう。脳や心がだめでも、意識はある。
意識は、強制をしない。
アイデンティティを必要としない生命の基本。そんなものが意識ではないだろうか。 >気とは、世界の中の人間存在を成すために必要なものである。
>気がなければ、生きられない。
気とはなんぞや。観測(主体がない)できないものか?主体があってこそなのか? >>129
僕は呼吸法の本を一冊読んだだけなのですが、まあ、空気みたいなものですね。気体。頭の上から入ってきて、
身体の中を循環する。意識と、気の流れとの関係を考えました。
結局、観測は無理でしょうね。なぜかというと、人間の内部で感じるものであり、定義できるものではないからです。
主体にとっての、気です。でもそれは、クオリアなどと似た形で、研究対象にもなり、真実を得ることもでき、
極めることが出来、実際の効力もある。
そんな風に考えています。 >人間の内部で感じるものであり、定義できるものではないから
感じない、定義できないものは存在しないのか?
たとえば、知覚したことがない(発見されていない)深海に住む生命体とか、
命を感じなければ命はないのか?
主体が気を自覚できなければ、命のように命はないでいいのかな。 >>131
ええそうです、存在はします。観測が難しいのです。どういう存在のしかた方というと、普通に存在が確認できるもの
の組み合わせ、そして解釈のしかたということです。気の自覚は、程度問題でもあり、達人になるのは大変でしょう。 過去を考えることもできる。未来を考えることもできる。だが、一番生産性が高いのは、現在を考えることである。
現在には、明らかに、かなりの情報がある。それを考えることは、さらにそれに加え、大きな化学反応が起きる。
つまり、時間と言うものは、過去現在未来の区別をまずするべきであり、そのうえで、それぞれに対する思考を
行なうのが事実的な思考であると思うのだが、それはなぜそうなのかというと、現在と自分の思考が、
関わりあうことが出来ることこそ、本当に知るべきことであると考えるからだ。 対象について考えるのではなく、その前後の余韻を考えよ(悩め)。
真っ白、真っ黒な状態を考えるべきである。
余韻を考えることこそ、オリジナルで生産的な考えを浮かばせることになる。
何らかの決定的中傷、失敗などは、その悔しさ自体を考え詰めるのではなく、今はそうではない、
そういう対象もあったけれども、その対象(の特性、まつわるところ)を考える必要はなく、
ただ余韻を考えるだけでいい、それで消えていくものだ。
そして、創造的思考には、何の妨害もないのであり、自由で無垢な自分のこれからを、大切に楽しくやっていくことが出来る。
例えば、クラシックの音、その一つ一つは、いったい何なんだろう、何を表そうとしているのだろう、という疑問の様に、
「謎」「わからないこと」を考えることが、頭を使って生きていくことに他ならない。 〜したから〜をしてあげる。
〜だから好きになってあげる。
このような、善因善果の網を破らねばならない。なぜなら、このまま世界が廻り続けると、人は食料等を得るために、
地球上のすべてを使い果たしてしまう。さらに、因を工夫することによって何かを得ようとする場合、
感情を劇薬の副産物として生んでしまう。
〜しやがったな、仕返しだ(腹のなかがぐつぐつ)。
王権によって、法を敷く。指導者は、指導者以上の存在、それも無私なる存在を、いただく必要がある。
因果を逃れるには、何かを作らねばならない。そうして生まれたのが、サンガや読経だ。
多くの人間の集合として、因果を良い方へ向ける。そして、その中でも因果を感情と現実において超えたものが、
悟りを得た者となる。零か百ではない。自分こそが因果の表れである、私が正しく導こうとするとき、
その導き得るものとは、世界観、行為、意志なのだ。
世界を変えることが出来ないなら、この周りにあるものすべてが、自分であると考えるのだ。
そこに一として存在している私は、また全てに関わっている。一とはいえ、その一の生きざまは、
全ての人に対して読まれうる。
そのように、世界をよくするために、徐々に努力をしていけばいい。
零か百ではない。 表面の因果だけを捉えて真理であると判断せず、真の原因を、存在するものとして敬い、従う。
その因果は、孫悟空の手のひらの話のようなものであり、世の中の執着を軽くするのが、
様々な雰囲気である。いつまでも、居たい場所がある。いつまでも一緒にいたい人がいる。
縁を求めて、ただ謙虚にこの生を否定しないこと、そうしないと苦痛のみの空っぽの生だ。
立ち上がり、為したいことを成すのである。不遇は救われ、災難に助けを求められる。
今したいことが出来るなら、それをなすことは、永遠の因果という法に対して、
目を開くことである。何らかの不可能を求め続けるのは、軽い気持ちになってからでも
いいはずである。ただ自分を失うこと、それが駄々をこねた愚か者だ。
愚か者は、人を愛することをしないのだ。 どんな個人にも許されているのが、物語を作ることだ。現実と全く違う空想であったり、自分に起こった出来事を
まとめたり。物語的発展の想起が、人間の普通にすることだし、暇なとき、イライラした時、落ち込んでいるときなどにも、
物語を夢想することは大変な慰めである。物語の形に、色んな空想をすることが、知の精髄である。
物語を作り続けられるということは、大変喜ばしい能力である。 いいか?!
理解するのではない、考えるのではない、理と論が示す具体性こそ否定するべきこと、より抽象的に捉えること。
人の愚かさは知恵の実を食べたことから始まる、自分が優れていると思っていることこそ否定するべきこと、それは主体からみた人の知恵、
幻想ではなく妄想をする、それは非現実の実態を捉える方法ではあるが、具体的にするのが幻想であり、抽象的のまま捉えるのが妄想だ、
妄想は道具になりえない、故に意味を扱えない、ならばこそ自分が優れているのにふさわしくない愚かな考えによって抽象的は否定される。
主体が意味を問うものは、他の主体の意味に問われてしまう、主体として意味を問うのではなく、問う結果として意味を中てられるべきだということ、
自分が理解しようとすればするほど意味は逃げてゆく。
見えるものは真理でも本質でもない、だが無意識として意味を欲し理解を欲し幻を作ってしまう、捉えてしまえば理解してしまえば、
現実を得るのではなく、現実に奪われてしまう。
妄想や幻想を具体化しなければ知覚できない、だが知覚しなければ得られないというのは心が作りだした幻影でしかない。
何も得られていないと思っていても繰り返し行ったそれは裏切らない、見えない部分で貴方を支えてくれる、思考せずとも結果を与えてくれる、
貴方が見て行うのではない、それが貴方を動かし貴方が従い気が付けば、それが結果を出してくれる。
それが本当の力だ。 >>138
ルーン魔法においては、
調和の波を、なるべく短い時間で制御しなくてはいけません。そのために、魔法の瞬間に集中するとき、
その型は、あらかじめ演繹的に導かれた必ず正しい命題について、慣れていなければならないでしょう。
その向うに、さらなる新しいルーンを作るためには、辛抱強さと信念が必要でしょう。
始原の構成にさかのぼれば、神の意志を明かしていくこともできるでしょうが、そういう道は、
現実自体が真の意味を持つのでなく、その向うにあるものを、中心として生きる、そんな
態度でしょうか。
魔法をかける練習が必要です、演繹的に、パッと表せる程度の様々な真理をためておくことが、
練習です。答えは、出しても、後から修正できる。どんなことも、やり直せることがほとんどですから、
僕が様々な間違ったやり方をしていても、気が付くこと、世界へ従属している自分を知ることは、
大切だな、と思います。
生きるということの限界が、神仏を必要としています。生きることに限界があるのは、生命の不完全であり、
その完全化、あるいは進化を、達成することはできるのでしょうか。
答として、このままでいい、というのが、自然でしょう。悪いところにパッチを当てるようにするくらいにしておいて、
寿命に踏み込むのはやはり怖い気がします。
神には見捨てられそうですが、仏は黙って見ていてくれると思います。
失われた魔法が、なぜ失われたのか、それを読まねばなりません。
芸術、発見のために必要な忍耐を、僕も知らねばなりません。 まず、自分は弱いという認識から始めなければなりません。
他人から、お前はこうしろ、ここがだめだ、まだまだ……等々。
これらは、考えあわせると矛盾が起こり、先延ばしにして受け入れるくらいしか方法がありません。
ですが、勝手に答えを出せばいいのです。これはこうだ、ああだったんだ、こうしよう、なるほど……
これらの心掛けで、自分が進むべき道を見つけ、未来に溜めていくことがなくなります。
認識だけですが、魔法の様に心が軽くなります。 言葉というものは縛られている。舌が一つしかないからだ。また、一人でいるときにぶつぶつと呟くのも、ぱっとしないものだ。
言葉の本質は、独り言にある。コミュニケーションとしては力があるが、自分に対してどれだけ働きかけてくれて、
どれだけ一人だけでの言葉が自分を進ませうるかと考えると、こころもとないだろう。
人との間の会話、特に対立的になった場合、口だけでけんかをすることになる。
そこで、手振りを使うのである。口で言うことが出来た場合はいいが、口でうまく言い表せなかったことは、
自由な手を使うこと、そうしない手はない。
一人であっても二人であっても、口のみに頼らず、手を使って何かをすること、このことが、ストレスとみじめさを
解消するのだ。 ほとんどの懊悩の正体は、矛盾である。二つの曲を同時に聞けない、これがしたいが、命の危険のあることだ、
昔の嫌なことが頭に浮かんでどうにかしてやりたいが、現実には法と手間により、実現が不可能だ……。
頭にムカッと来るときは、たいてい矛盾に突き当たっている。
嫌な気分がしたり、つまっても、人やモノや運のせいにせず、自分で考えることが大切なのである。矛盾にムカッとしているだけで、
自分以外の何らかの要因さえよいならば問題は起きない、こう考えるのが良くない。矛盾を解決する方法はある。
時間が味方であることを重視しよう。
自分の習慣には、愚かなことがたくさんある。その愚かさは、自分のわがままであることがほとんどである。
落ち着いて、「ああであったらいいのに!」と思わず、「こういう風にすれば問題がなくなる」と考えねば
ならない。
〜したいのにできない、という矛盾になってしまうために、人は、別の道を取らなければならない。穴があれば
避ける手間を取るのだ。悪い人間だから、自分を不快なめに合わせるのだ、そう思ってはならない。
どんな人と一緒にいるとしても、自分が誤りを犯したというのは事実だ。それを嘲り笑われた、そうおもっていては、
本来の問題はなくならない。
つまり、人やモノや運のせいにせず、自分で考えるということが大切なのである。不思議、とか、怒り、とか、色々と
あるだろうが、自分の考える力を止めてしまってはならない。習慣的に、怒りの感情にしてしまうことで、何も考えたりしない、
そういう愚かさは、直そうとすれば出来る。矛盾には勝てないのだから、矛盾でなくする手順を考えるのである。 本を読んでそこに素晴らしいことが書いてあったとする。あるいは、絶対の答えを見つけたと心躍らせたりする。
それはそれでいいことだ。だが、そうしたことに従っているばかりでは、なんとなくすり減っていくような気はしないだろうか。
だから、本に書いてあることを超え、過去が押し付けてくる失敗感を超え、それらは、単なる言葉や気持ちにすぎないのであるから、
それ以上の、信仰を超えたところを探るのが、まさに自分というかけがえのないものにとって、重要なのである。
人からの教えを超えよ、信条、信念を超えよということ、もしそれが、自分が浮かれてしがみついたものであったり、
自己の構成において中核になることであった場合は。
得たことは素晴らしいことだ、でも、もっともっと、素晴らしいことが降ってこい、そんな気分でいると、本当には生きていない。
真の生き方、真の自分の働きへ──。自らへの信仰は難しいのである。それゆえ仏を信ずるということの不可思議さが、
上空のようなところに存在しているのである。
信念は、相対化されなければならない。 矛盾などと言うものは存在しない。どんなものでも貫ける、どんな攻撃も防ぐ、実践してみれば、どちらかが言われてきた通り
ではなかった、ということが明らかになるだけだ。
このスピードで車を走らせて、あの信号が赤に変わる前に通り抜けなければ死んでも良い、などと、願を賭ける場合もある。
だがどの矛盾は、じつは自分の命の方の肩を持っているのであり、信号などはどうでもいいのだ。そこで問題になっているのは、
自分の命の確かさを証明したい、ということである。だから結局、答は命の永続性の確認と、運の悪さを小さく見積もって納得することになるだろう。
そういう願をかけるとき、結局のところ失敗したとしても実際には命を失ったりはしないということを知っているうえで、そいう
願をかけるのである。それをあたかも神聖で犯されないような純粋な願いであるとは、まったく言えないのである。
ところが、そういう願は、本物のの願との類似性があることも確かだ。自分はそういうものとのかかわりがあり、自分は
そういうことになじんできた、だから……、と矜持を持つ。それは素晴らしい。だが、本当に命を懸けられるかどうかは、
証明されたわけではない。
命という存在は、矛盾の不可能にしたがうから、個体はそれを守るのである。もし矛盾が実際に存在するならば、世界はもっと
確定的なものとなるだろう。矛盾の不存在が、アウフヘーベンである。
命はなくなる。これこそが真理だ。不老長寿の薬があったばあい、命が永遠ではない、ということと矛盾する。
そう、さっきいったとおり、矛盾はない。不老長寿の薬はない。 正しく自然に視界を得ようと思ったら、視界外の黒い部分と、見える部分を、同時に見ることである。
存在と非存在、という縦に分かれたものも、両方を同時に考えることで、理解が出来る。
身体の偏りに、騙されてはいけない。存在と非存在の現実に、負けないようにして、最終的には
人間の勝利として、理解できなくてはならない。
区別と融合は、宇宙的物質存在の在り方のの原理であるようにも思われる。 私は、いつからか、自分と言うものの存在が分からなくなった。何となく世界すべてと等しいようでもあり、中心が自分の
なかにあるということを、否定できなくなってしまった。すると、自分と言うものの特別さを、全ての人が持っている
特別さ(個別性)と、同じものであるのだと気づくようになった。だが、それでは自分は特別ではないことになる。
自分の心は、その全部を完全な範囲まで広げなくともよい。自分の心は、世界の一部とこそ同じでなければならない。
目に見えるある一部分に、心を全てあずける。それが良いのではないか。私は一部だ。だからこそ違いがある。
人間構造が、世界とつながった、限定されていることの完全さである。広い範囲を求め続けることは無いと思う。 >私は、いつからか、自分と言うものの存在が分からなくなった。何となく世界すべてと等しいようでもあり、中心が自分の
>なかにあるということを、否定できなくなってしまった。すると
何の間違いでもない、世界が認めるから自分なのです
世界に認められない人、誰も貴方を見てないなら、それは存在(高尚な次元の概念)とはいえない。
物質として存在しても人としての存在とはいえない。
自分を活かすことは世界を活かすことと鏡あわせであり、両者が1つになって活きることが
世界を廻らせる、自然輪廻の力だ。 >正しく自然に視界を得ようと思ったら
正しい自然の視界とは、理解や知識や関係がなどではない、
自然が正しいと囁いている、自然が正しいと轟かせる、そういうことだ。
自らが正しく判断ではない、自然が正しいと判断するということ。 >ほとんどの懊悩の正体は、矛盾である。二つの曲を同時に聞けない、
敵の憎しみを受け入れられない戦争は、勝ちか負けの2択である、、
敵を力で洗脳服従させ物と化す意思がないのであるなら、
平和を望め、それは両者が相手と平等ではなく、相手より圧倒的に妥協する2つ同時に聞き理解するという
矛盾の選択だ。
世界は等価で公平であっても「平等」ではない、平等などありえない。
数字の1と2は量として平等であっても、それがふさわしいバランスなら公平で等価になりえる。 >数字の1と2は量として平等であっても、それがふさわしいバランスなら公平で等価になりえる。
訂正:数字の1と2は量として平等じゃなくても、
客観的1つの面からみた平等の価値観と、安定させるそれは違う
公平なら能力やら才能などに従い重み付けが変動し、比べられないものは
2つの矛盾を受け入れるには、共に1つになって働きを能力にしたがった補間をして
相互に活かし合う、相生と相剋が安定を作る原理だ
という考え「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」
主観的感じ方によって等価が変わってくる。 >言葉というものは縛られている。舌が一つしかないからだ。
言葉は始まりから呪術である、意味を生じる縛りそのものだ、
だが会話は音である、それは自ら生じる光そのものだ。
舌が奏でる音で感じさせうのか、意味として相手に論理に服従させるのか、
それは抽象的なものを結果とするか具体的なものを結果とする、
主体が発するものが果てしなく広がるか、果てしなく閉じるかの違いだ。 >>147
世界の一部と一体になる自分、その一部は全部の中の一部であった、という一休さんのようなことかもしれません。
認識にかかる部分として特別を認める必要はなく、世界に認められることを第一に考えれば、
人としての存在への足掛かりであったということかもしれません。
>>148
自然の一部としての自分を超えることはできませんね。
>>150
存在の正体とは、それぞれのものであって、平等ではないということでしょうか。
>>151
音も光になる、だから広がっていく、発信のもととなるということですね。 未来について、人間は、それが良いものになるということを望む。未来の方向とは、ちっぽけな人間の願いではあるが、
未来に良いものがあるのだと思わなければ、とても生きていられない。ただだらだらと、何の変化もなく同じことが続く
のでは、生きる気力は削がれていくだろう。だから、小説などは、先に向けて希望が書いてあるから読む。
この人間ネットワークの中には、きっと多くの人が、(まだ気づいておらず、鬱々としている人間、何のために
生きているのかわからない人間、それらは多いだろうが)前向きに生きようとするから、その合計が、
人間の存在意味を雰囲気として明らかにされねばならない。雰囲気は、コミュニケーションの中に
表れる。負の交流は、続くことは無い。小さな意見の相違、小さな傷、それらを保ち続けることが、
愚かなのである。未来の良いことに向かって、人は自分を生きることが出来る。
それは、どんな小さなことをするとしても、自分でもたらし、世界から持ってきた賢い希望なのだ。
前向きに生きることが出来るということ、それを楽しみとして、日々を送っていくのである。 力を入れ、力を抜く。
入れると抜くの、どちらが先か、どちらが根本か。あるいは、それは同じことを解釈しているのに過ぎないのか。
力を入れて、それを抜く。心の不安を膨らませてそれを抜く。一方の働きに囚われたとき、それはもはや力ではない。
力は両面を持たねばならない。自然な状態では、入れると抜くの両面を、おなじ、筋肉が受け持ち、脳がその二つの命令を出す。
あらゆる個所に置いて、抜いたり入れたりできる。これは、心の働きにおいても同様である。
どんな悲痛からも、その悲痛の感覚は抜くことが出来る。精神病においては、片方に偏ってしまっているのではないか。
力を入れる、と、抜く、生きることは、このコントロールをすることである。
観念には、突き詰めていくような自然な働きがある。自分で考えられる人は、どんな心も、自分なりに操れるはずだ。
そのために、観念や欲を極限まで広げ、ぱっとそれを萎ませる。
これは、人間の極限を、どう扱うかということである。
色々な考えを人間は持つものだが、その内容について、仮に作り上げ、未熟なものをおさめる。そういう風にして、
偉い人も偉くない人も、同じ考え方の論理を持っているだろう。
ただ言いたかったのは、緊張のみで出来てしまっている心は、簡単に緊張を解くことが出来る、ということであった。 過去や現在になんらかの恨みを持ち、やり返そうか、何とかしてやりたい、などと復讐の心は根深く心をしめる。
また、同様に、あることに失敗しそうで、心がぐらぐらして、脳みそが頭蓋骨に張り付く。
それらはみな、考えすぎなのである、もちろん考えすぎなのは普通なのだが、ぱっと萎めることが出来れば、
また別の考えが出来る。そうすれば何に囚われても、実際的に大丈夫だ。 人は皆考えたことがあるだろう。現在、過去、未来のすべてをなるべく大きく長く、記憶しておいて、自分の記憶力を
鍛え、優位に物事を進めたい、と。だが、それは無駄なことだ。
その、頑張ってとらえた時間について、ぱっとそれを萎め、なくすことが出来る。それこそまさに、「現在」を知った、
ということなのである。
全時間の把握、という方には、人間はプログラムされていない。自然、ということを重く見るなら、
「現在」を感覚する考え方こそ、本来的な人間の考え方だ。
時間感覚を無くし、一点に立ち返るようになること、それが本来のあり方であり、全ての真実なる考えである。
精神や人生の悩みはすべて、膨らんだものを萎ませることで解決する。 もちろん楽しいことはどんどん考えることが良い。苦味も、味わった方が良い。どうしようもない意味のない記憶に対してのみ、
萎めることをするのが良いと思う。自分にとって必要かどうかは、判断できるだろう。結局のところ、病性のものに対する
対処法として、考え始めたことだから、むやみやたらに痛みを避け続けることはいけないだろうが、一般的に
適用できることに対しても、この考え方はかなりの力を持つはずだ。 我々の多くは、見る物も聞くものも、ただ受け取るだけで、あまり考えようとしたりはしない。だから、目に見えるものを、(主に
前頭葉を働かせて)考えなければならない。ただ流すだけでは、あまり人間の本分を果たしているとは言えない。
文章に対するように、景色に対する。また、聞こえてくるものについても、良く考えなければならない。
過去のことで、思い出されることについても同様である。思い出された場合、きちんと考えるということをすれば、
それは思い出したということの本来の理由、つまり解決の力があることを、実行したということになる。
考えるということが疎外されてしまっているなら、逆のことをしよう。考えることで問題を解こうとすること、
それは、簡単なのだが、実践し始めるきっかけがあまりない。 で、そこまで断言できるなら既に悟っているのだろうな >>160
それはわかりません。精神の開放感を感じることなら、しばしばあります。それ以前が悪すぎたのです。
世界の全てを見ることなどできませんが、歴史が途切れないものであるということは言えますから、
小さな範囲で得たものを、少しずつ地道に話したりしていくことが出来ればいいと思っています。
その内容如何によって、僕がいかなる位階にあり、悟りを得たのかどうか、物事をどれだけ測ることが出来るのか、
それらがわかりません。もともとは、NEWなことを生み出すための才能と教養、基礎知識といったことを、
増やしていきたいなと考えていました。
丁度、自らの知る周りの世界と知識以外に、とても広い世界が広がっていると、思い知り始めました。
対立と不信は、蒙昧であることからくるものでしょう。
何らかの人生を、面白く楽しく、充実感を持って、真理を得て過ごしたいというのは、万人の願うところであると思います。
僕はなぜ生きているのか、生きたいのはなぜか、と考えてしまいますが、僕を生かさせているのは(身内の)真理である、
と言うことを思います。自分自身が生きているようでも、自分とは、身体のみなのでなく、他のものと(ややゆるく)つながっており、
それを意志させるのが、身中に存在する真理の存在であると感じ、信じます。 悟りを得た釈迦は決して神通力をもった超人ではないだろう
勤勉であるとか自堕落であるといったこととも関係がない
悟りとは自己という概念に囚われないものだ あらゆる可能性を果たしてから死んで行こう。脳の中には、使っていない(使いたくない)部分が沢山ある。
何事かの感情的異変を感じたなら、それを推し進め、使っていない脳の部分を開拓するのだ、と考えるのが良い。
身体についても、使っていない身体の筋肉はたくさんある。それが弱点だ。
意識においても、味わったことのない覚醒感、空間的、時間的意識は、沢山ある。
それらが、全て、自分を育てるためにあること、自分がよりよく存在するために使えることだ、と思いなおせば、
何の後悔もないだろう。重要なのは、姿勢だ。新しいものへのつながりであると思おう。他人のために生きるのではない。
なぜなら、自己は愛を得ることで、執着を解決できるからだ。
これはいったいなぜ執着なんだ、それは、甘えだったのだ。
これ以上行き場のないところまで行きつこう。そうすれば悟ったということであるし、使っていないところ、感じたことのないこと、
他人への気遣いが、何らかのコミュニケーションの末の奇跡へとたどり着くのだ。
我々衆生の誰一人として仏になれない者はいない。年齢も関係がない。生まれたなら生きよということだけだ。
自分を持てあましていないか。苦しみを逆転させよ。苦しみを解決するには、苦しみが自己の成長であるという
意識を持てばいい。広く深く自己を存在させるのが、生命として生まれさせられた人間達が自らの救いとして、
死と生の逆転を悟ることである。 生きるということはずいぶんと雑多なものだ。一本の線に従って、やってきたのだが、今は、昨日のことも明日の予定も、
人間関係のことも、思い出すことも、ミックスされている。
ここから何かを取り出すことが芸術で、全てを理解することが宗教だ。何故そうする必要があるのか?
そうする必要は、だんだんと失くなってきている。もっと実際的な事の方が、優先されるし、大切である。
そういう時代に、悟るということは、倫理観を完成させるために必要なのだろうが、昔なかった知識(新しい土地の風習、
科学など)が、新しい条件を与えている。
だが、心を病む人が多く、社会が向かうべき方向も、分からなくなってきている。
前は、悟らねばと一生懸命に5chをやっていたが、精神病が寛解して見れば、僕自身にその必要と才能が、特別に
あるとは、思わないようになった。
読んでいる人を騙すことの無いように、僕自身の悟りへの重点がどうかと書いておくと、「精神病が治るのが悟りである」
という言葉に、集約されてしまうような気がする。
いつも5chを頼ってきたが、「自分で考えなければならない」。以前よりずいぶんと力はあるが、考え直すべき時に来た。
いままでのずっとの集積は、いくらかの意味を持っていると思うが、これからも人間学として何か、考えられればいい。
新しいものを言葉遊びではなく考えていきたい。
長い年月が、新たな芽を育てることのできる肥料であったならいいのだが。
まだ、完全に苦しみが治ったわけではない。だが、必要なものは全て僕の前にそろった。
僕が(悟ろうと)誓うことが出来るのは、今まで、見てきた、聞いてきた、さまざまな種類の論理と、感情、正しかったことと間違っていること
に対してだけだ。僕に未来は分からない。だが、未来を含まない悟りは、帰納性を要請しているから、演繹と帰納の、二つの平行する
現実理解を、どこかで完全な形に表せるように目指したい。 何かを思いついたり、考えを変える時は、瞬きによる。瞬きの行為をするだけでいい。そうするだけだ、何も他人の
強要も、攻撃も、後ろめたさも、瞬きを制限はしない。だから考えは人との先後においても、自由なのだ。
人の瞬きは、自由と誇りと正しさと強さなのである。 生きるのではない、
生かされるのだ、それが生きるという本質
命の証明ではない魂の証明だ、
生きた証とはそういうものだ。 色即是空、色を否定している。世界についている色は、あたかも実在を主張する根拠の様に勘違いさせる。
人間存在とは、世界認知ではない。自己認知である。言葉によって考えない世界は、色のない、
白黒だ。考え続けることが良くない。考えたいという欲があるからだ。
全てが存在しないところの、ただ自分の存在というかすかな認知が、世界を人間のものでなくする。
人間は、半端ものだ。くだらないような思考に、賭けているのである。だが、世界の本質、性質は、
人間に左右できるものでないのも確かだ。人間は、人間の世界と言うものを、新しく作らねばならない。
そして、世界のうちに巣を作っているのだと、知らねばならない。
言葉ではない。言葉には力はない。言葉は、人に命じるという点で現実になる。
それでも、言葉にかけるような人間もいる。その姿勢も、良いものには違いないだろう。
だが言葉でない思考のことを知り、実践しなければならない。 自由な思考の一歩目として、自分自身の考えを、自分自身だけのために、上手くコントロールして、脳の力を把握すること。
例えば、頭の中に音楽が流れ続けている、そんな状態は普通であると思う。それを否定しよう。例えば、
「でも、僕」「でも、僕」「でも、僕」……これを永遠に唱え続けることで、自主的により深く自分の脳をコントロールできる。
お経とはそうしたものだ。
そうしたものを必要としない人はいる。それは大したものであると、僕の目には映る。 自分に対して、敵対的に侮辱を与える人がいたとする。その場でやり返せればいいのだが、人はしたたかで、思うとおりに
いかないことも多くある。そして、あとで、その人の事を考えると、怒りが募る。逆に、許すということも、自分の身、
感情に逆らうことになる。というわけで、お定まりの、二つの間で揺れ動き、どちらもとれない。
この場合、解決すると、それは中道である。その人が好きでもなく、嫌いでもなく、また出来事が許せないのでもなく、
赦すのでもなく、どちらの立場にも立たず、中道とする。
中道なんて言うのは、軟弱な処世だ、と思ってしまうかもしれないが、実際は、こういった苦難の末に、やっと導き出せる
重要なことなのである。
自分について、物事を忘れてしまうというのは、良くないことだ。なるべく、多くのことに対処できるようになれば、
人間が大きくなる。それゆえ、中道の経験を積めば、強く大きな人間になれる。 人の倍かかったっていいじゃないか。
あれを実現するためにはこれをすればいいと、
一瞬で脳裏を真実が駆け巡るだろう。
良い人間でない自分を発見したら、心のどこかを治せばいい、わかるだろう。
したいこと、思いついたら、即実行、あるいはプランの中にいれよう。
我を張ることに意味はない。
哲学からは、正しさがわかるはず。
書物に手をつけず、したいこと、するべきことをしなければ。それらの事態を抱えた人は、恐らく今の時代には多く居て、
一瞬でできることなのにためらっている人が多いだろう。
本当にするべきこと、気分を変えていつもと違うこと、簡単なんだ。
私はいま、部屋を整理しなければならない。そのためには、散らばっているものを区分けしなければならない。
区分けするためには、想像しなければならない。そして手をつけよう。
心は、自分の全てを知っている。 自分が生きるために、世界を動かす。自分がいる世界だから、関係を持っている。世界を理解しようとするのは、
その理解が、衆生の生きる方法を探すことと同じことだからだ。必要以上の理解は目的ではなく、
必要とされる理解は、大切なのである。
そして、生きることに、不思議さが現れてくる。他人とは何なのか、自分とは何なのか、世界とはどうできているのか、
良い死に方をしたい。ただ生まれ死ぬ、ということを、受け入れるかどうか。
大部分の人間は、それ以外には言いようがない。そう見ると、親鸞の様に、悪人についての味方を探るような
宗教を行うことは、確かに意味があることだ。
救われるということが、「人間であり続ける」、というような条件のみによるのだと、感じる。
分かることはわかるのだし、分からないことは分からないのである。自我意識は、知識によって構成される
のではないから、全ての自我が平等だ。
自らの場所で自らの責任を果たすこと。果たしたくなることが、仏性である。無理はしなくてもいいはずだ。
人間の力を知んじ、人間の良心を信じるからだ。
罪のようなものを重ねる人間、その罪はその人が背負う。
だからつまり、なるようにしかならないのだ。 >>174
誤字訂正
下から三行目
×人間の力を知んじ
○人間の力を信じ 鏡はその辺にある平らなものではなく恐ろしくいびつで歪んでいる、
心に映るものは幻想(具体的)な形が追加され映る場合と、妄想(抽象的)な形が追加され
映ることがある、自分が感じた世界を自分が認知する、つまり評価は常に世界と完全一致ではない、歪んでいる、
それは事実や現象の解釈を言葉と意味に認知する仕組みが、誇張と過小評価で変形するからだ、
理解とい方法と術が必ず自分の内心に潜む思いによって理解の仕方が1000人1000色と個別に違ってくる、
どんなに正しく本質を理解しようとしても、無駄だ、
理解するのではない、理解されることだ、貴方の能力で理解してはいけない、貴方の能力で理解される状況を作り出すという意味だ。
意味を成すのではなく、意味となるように成されることだ。
人は意味を発するときに心の鏡が必ず歪める、それが本質や、見えない本質を信じるとは、人が発する意味の「良心や力」ではない、
人がもつ天命、人がもつ宿命、考えずとも成りえる道と行方、意味として捉えられない「才」を信じるのだ、
生き物は必ず生きようとするのも本質的な才だ、知的な人が知識を理解して技術とするように流れるのも知能という本質的な才だ、
できるだけ安易に簡単にもっとも良い近道を楽するという心の流れも本質的な才だ、
これらの力は心の動きは裏切らない。
貴方が理解しようとする才は裏切らない、そこに自然に流れ着く、見えないものおはそういう類だ。
信じるべき本質の名を想像し、自然にたどり着くもっとも適切な才を後押しすれば、才は自然法則のように働く、 世の信じるべき、ことわりだ、
自然なままに流されたどり着く本質を読み取り感じ意味として理解できるとすれば、
それが全ての根源の力である。
「それ」を掴むのではない、「それ」が貴方に掴ませるのである。
理解するのではない、理解してくれる「それ」が入るのである、
それを理解してはいけない、それに理解されること、これが本当の世界の法則である。
それを求めればいつか、それは貴方にも理解として存在してくる、
しかしそれは、それ以外の何者でもなく、それ以外の名前などない。
未知の怪物、自然の法則、偶然を原理とする必然が、「それ」そのものだから。
技術でも科学でも知識でもない、いわいる背後霊のご先祖様のような類、
それとは物質主体の外側に存在する万物の魂のような存在である。
それを理解するには、信じること、心にそれが浮かび見えてくる。 >>177-178
才を発揮することが、生きていくことの、楽しみである。また、自分自身の確かさは、それを得ようとしても、
鏡が歪んでいる。つまり、心という鏡こそが、本当の鏡である。
さらに、理解されること。つまり、自分については、他者による理解の方が正しいことが多い。
世界の意志は、法則的ですが、法則的意思というものの存在を否定できません。
知情意でいえば、「意」を強くすることが、現在のところ僕が必要としているようです。 意(欲)を強くしようとするとき、頭を使ってもできない。腸などの内臓を使うのである。 >>179
才の力は意識や理解や認知など無関係に発揮する類である、
生きる才は、生物は等しくもっておりそれを意識する必要などない、
つまり特徴や性質という類である、生きる才は生きるに値しない状況や環境によって
変動しときに自殺とか狂気のような行動になって生を否定する行動にも化ける。
>現在のところ僕が必要としているようです。
人の次元で人の世界を認知し理解し関係を作るには主体となる人が必要となる、
人の次元がないならば人の主体など不要である、原子が化学変化する現象に人の観測が必須になるわけがない。
>意(欲)を強くしようとするとき、頭を使ってもできない。腸などの内臓を使うのである。
主に内蔵というが具体的主体は内分泌系といわれる分散した臓器である、あらゆる生態ホルモンを神経以外の
仕組みで伝達物質として作り出し、人という次元の根底に抽象的に現れる働きである。
精神が病む要因があると、それらが抗精神ホルモンすなわちコルチゾールを作り出す、大きなストレス下に浸り続けると
内分泌のホルモンは他のホルモンが作れず、コルチゾールを主体とする抗ストレスホルモンだけが作られ
その結果として全ての臓器はコルチゾールによって分解される、コルチゾールが高濃度で分泌されると痛みすら感じなくなる。 >>181
薬によってはバランスを崩しながら、対処箇所へ物質を送るような働きがあるのですね。それでも対処できない時に、
死を迎える。
夢や才は、その人だけのもの。それを持ちながら人と関わる。一人とみんな。孤独と連帯。
僕は、二十年ほどどうしようもなかったので、人と関わるときにブランクを感じてしまいます。
ニュアンスや、言葉を発するときの心の状態という機微。
でもまだこれからです。 >>182
バランスとは、単純感覚だと平均的で常識的なとどうしても思考が誘導される。
それは間違いだ、バランスとは対象性の秩序であり決して適当な平均値に誘導する
ことではない、高度な活動をする類は多面的な多次元的な秩序を保つことが維持であり、
それが簡略化され合理化され多様性を失うことで平均化され効率を求めて安易で
容易い流れに誘導されてゆくのが老いと死に至る劣化だ。
生まれ持った何かは、環境適応に準じてより抽象化し薄まってゆく、それが誘導される流れだ、
先天的に持つものと後天的に授かるものの違いだ、先天的に生き、後天的に死ぬ。
先天的な要素だけでは無限に分裂する癌細胞になってしまう。
高次に多様化した心と意思は、肉体を離れ「生きた証」を残そうとする本能により、魂という
形で人の外にオカルト的に作用する、形を捉えられず見えないだけで色はある、
そういう類であっても、個々の生きた証を残そうとするのが生き物の才でもある。 >>183
人の次元というのは重要なことだと思います。才について、様々な考え方があるでしょうが、才によって、何らかの
謎を解明しないなら、何の人生ぞ、と思います。 才能というのは、うまれつき持っているもの、意味をもって評価されたとき良い部分のみをみて才能という、
たとえ多くの人が言う幼児が天才と騒がれる能力を発揮したとしても、それを維持できない
そして投げ捨ててどうでもよくなるのなら、才能ではない。
多くのテレビなどで騒がれる天才幼児が大人になってその能力を維持できている人は
皆無に等しい。
最初はできなくても経過に苦痛を伴っても楽で快楽を伴っても関係ない、
最後に結果にたどり着ける、そういう人の底に眠る本質、つまり天命をもっているということ。
単に好き嫌いの類でもある、さらに好き嫌いの類は不変ではなく進化する。
大腸にいる微生物は善玉菌と悪玉菌というが、発酵をするのが善玉菌、腐敗をするのが悪玉菌、
そして発酵と腐敗の違いは人間にとって良いものを発酵、悪いものを腐敗と命名しただけである。 .>>185
その人の天稟を損なわないように育てるのが教育だと、岡潔は言っています。
いつからでも、才能に向き合えば、どうすべきかということは、わかるはずです。
でも、それさえも金銭的にできない人はいるわけで、難しい。
好き嫌いは確かに進化します。子どもは駄目ですね。
最近は天命を知ったような気分でいます。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています