仏教哲学総合スレ4
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内面に訊けとかそういったことは一見して妥当のように思えるが 誤誘導されやすく詐欺師の格好の餌食だからな カルトにはまってる人々は自分の魂が求めてると思ってやってるよ 俺が親なら客観的に整合するものだけを信じるように子供には言っておく そもそも哲学も客観的というわけでもないからな。 客観的な思考様式しか信じられないなら、その枠を出られないで 一生を終えるだけだし、哲学や宗教みたいな精神的営為には 向いてなかったということだろう。別に誰もが必要なもの じゃないから、人と違っていいわけだ。 客観的なものだけがこの世界を動かしているんだからしょうがない 内面的なことなどは人それぞれで他者とは共有できないのだから他人に言われるような 筋合いのものではない そんな考えの人がなぜこの板やこのスレを見に来てるかということだな。 他人に言われるような筋合いじゃない、というなら、 あなたも他人に自分の見解を押し付けることはないのではないか。 あなたの行動や発言自体が矛盾していると思いますよ。 >>310 こういう人って、自分の考えだけは客観的だと思っているから たちが悪いな。おそらく哲学や仏教の本もろくに読んだことが無い のだろう。郷に入らば郷に従えという節度が無いんだろうな。 それは詭弁だな、客観的に知り得ないことをあーだこーだと断定的に主張するのは 詐欺師的な行為としか言いようがないだろう まぁ、実際に宗教なんて詐欺ばっかだもんな 主観的な体験でしかないものを広めようとした時点で嘘になる 宗教とは独断論であって、批判的なことを受け入れられないのが常識的だろう ただ、哲学と宗教をごっちゃにしてるのは馬鹿としか言いようがない >>313 客観、客観というが、あなたにとってどこまでが客観なのかな。 人間の精神が科学で解明しきれていない現状では、 その線引きが曖昧だろう。 客観的に知りえないことを主張してはいけない、とか言い出したら、 人間は生きることさえできないと思うが。 断定しているのはあなたのほうだろう。 >>315 ちなみに、 西洋哲学は神学と哲学、というように宗教と哲学に断絶があるが、 東洋哲学は宗教と哲学が一体で分離していない。 そこから学んだほうがいいですよ。 存在するものと、しないものと言い換えたほうが良いだろうな 存在するものとは学術的な知見から始まり、社会的な評価を得ているものだ 神さまがいるなどと言う主張は概念でしかなく妥当性を得ない >>317 東洋哲学は結論有りきで類推をするから特に思想と呼ばれるんだよ 馬鹿は口を開かない方がいい >>308 > 客観的に整合するものだけを信じる 素朴で盲目的な信仰 >仏教には長い歴史があるわけだし、 科学が想像するよりもずっと深いものだ。 こういう根拠もない発言をサラリとするやつに学問は向かない 仏教だって、仏教系の大学には仏教学部があったり、 普通の大学でもインド哲学とか東洋哲学とかコースがあり、 ”学術的な知見から始まり、社会的な評価を得ている”んだよな。 単に扱う対象やジャンルが違うだけで、認められている 世界では認められている。 だから、自分の興味のあるものが学べる分野に行けば いいだけのことで、他のジャンルに違うジャンルを求める 錯誤が遠回りで不幸になるだけ。 上座部では、教義は実践とは関わりのないものとして軽蔑すべきとすらしているからね 宗教が哲学なんて言ってる人物にはこの辺が理解できてない 大学に文学部があったにせよ優れた文学に記述された内容が事実として 評価を受けている訳ではないだろうよ 著名な大学の講義でホメロスを扱ったからと言って、そこに記述された内容が 歴史的、科学的事実に基づいているなどと考える馬鹿はいない 仏教ってのは、文化史、社会史的な扱いだろうな 人々がなにを思い考えてきたのかを考察する学問分野で、仏教で言っていることの真実性を 学術的に裏付けようなどという目論見でやってる訳じゃない >>325 > 科学的事実に基づいている そもそもこんなこと言っているやついないと思うが? むしろ科学的事実とは関係ないと言っている。 ちなみに、仏教学部では瞑想の実習もある。 仏教では、知識を学ぶだけでなく、実践もする。 >>326 > 言っていることの真実性を > 学術的に裏付けようなどという目論見でやってる訳じゃない 例えば宗教学なら、「価値中立」という原則があるから、 その理解でもかまわないんだが、 神学の場合は、ちゃんと信仰に基づいて学問を展開している。 >>304 永平寺は観光寺院だろw 五十歩譲っても、 百人規模の道場で、ちゃんと修行しようと思ったら、 よっぽどの気概と自分への厳しさがないと何も得られんでしょ。 どこまでホントか知らんが、都市伝説的に言われるのは、 切符切りや観光案内で修行期間を終えるとかw びっくり、ビックリ うわー、めっちゃ進んでるー いつの間に......... それにしても難し過ぎてよくわからない展開だなぁ〜 どんなヒト達だって生かされてていいんだよー 佛教って突き詰めていくとひたすらそれだけなのでは お風呂が一番、極楽、極楽。 細野晴臣や東浩紀ではないが観光はプラスの意味で捉えるべき 漢字をよく見ればかっこいい 投機 というのも本来は師匠と弟子の邂逅を意味する禅用語らしい ↓宗教哲学とは関係ないけど、とりあえず ttps://mevius.5ch.net/test/read.cgi/win/1514968443/14- Central Processing Unit(中央処理装置) ↑設計上の欠陥が見つかった? _ _ _ _ _ _ >>299 >ワンネスというのは全くもって理解できない 量子力学(quantum mechanics) …事象が確率的にのみ記述される ニュートン力学などで成り立っていた 因果律が成り立たない 実在論としては記述できず非実在論的である 通常一般の? 古典力学とかは → 依他起性している(ように見える) 量子力学とかは → 依他起性ではない。確率的な出現である(ように見える)? ということで量子力学も理解できないけど、とりあえず ttp://www.itmedia.co.jp/news/articles/1712/21/news137.html 理化学研究所や東京大学などの研究グループは 2017年12月18日 量子コンピュータの情報単位「量子ビット」を実現する素子をより高精度化したと発表した 波1の世界と・波2の世界が、同時に存在している 仏陀の教えに、尾ひれ、足ひれが付いて、更に、尻びれ、顔びれ、脇びれ、ちんこびれが付いて、 今の仏教があるわけだ。得体の知れないものになったな。 それを宗教と言ってるみたいだが、 >>338 ど真ん中太郎師匠へ >仏陀の教えに… 大乗非仏説 文献学的には 大乗仏教の仏典のみならず パーリ経典の大部分も 釈迦の死後数百年にわたり編纂されたものであることが明らかとなっている 最古の経典も編纂(されている)とみなされているため 近代の文献学上は 原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない それでも、とりあえず 『スッタニパータ』の第4章と第5章 この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている ↑こんな感じで宜しいでしょうか?師匠 ヨロ m(_ _)m なんだかしらんけど、釈迦を調べるより、俺の動画を見た方がいいと思うけどな。 仮に、自筆があったとしても時代背景の違いもあるし、、、 現代版(俺の動画)が解らなきゃ、およそ理解できるものじゃないよ。釈迦のことは。 ど真ん中太郎 2017/08/18 法律の基礎 8 詭弁 差別 枠づくり ヘイトスピーチ ttps://www.youtube.com/watch?v=qQMpx3JljSw 『モザイク入れるなっ!』という主張でつね? ↑ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m h t t p s : / / c h a t u r b a t e . c o m トロイの木馬とか マルウェアとか ウイルスとかに お気をつけて下さいませ ヨロ m(_ _)m 仮設としての 依他起性している世界の中で 遍計所執性に依存して 『美魔女師匠のことが好きだ〜っ!』という想いが現れる。ということでつね? ↑ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m >>341 うん。モザイクはいかん。しかし、このスレは仏教スレ。 法律の基礎 7 責任とは? https://www.youtube.com/watch?v=4eqMnxFOb7c こっちの方がいいぞ。釈迦と同様だからな。 でも、その【法律の基礎 8 詭弁 差別 枠づくり ヘイトスピーチ 】は、 昔、墨子という馬鹿がいたみたいだが、その馬鹿の証明に使えるかもな。 つい最近知ったんだが、墨子を調べたらこんなことが書いてあった。 兼愛とは「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から 起こるという思想。全ての人に平等な愛をということである。wikiより。 馬鹿だねぇ、こいつ。 美魔女はレスしたことがないが、たぶんブスだと思う。 wiki【論理学】より …ディグナーガより1世紀ばかり後に,その孫弟子であるダルマキールティや非仏教的学派 に属するウッディヨータカラが現れ,ディグナーガの論理学をさらに完璧なものにし,ここで インド論理学は完成する。 [中国] 中国人の手になる最初の論理学書は《墨子》のうちの六つの章〈経上〉〈経下〉〈経説上〉 〈経説下〉〈大取〉〈小取〉である。《墨子》は前5世紀に,墨子およびその集団によって書かれ たものであり,全部で71章からなるが,そのうちの6章が論理学を扱った部分である。… 墨子の入門書は論理学の部分をカットすることが多いが、東洋文庫と以下は例外。 国立国会図書館デジタルコレクション - 和訳墨子・和訳列子 田岡嶺雲 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/753445 参考: 墨子の経説(經説?)について・・・・ - サッパリです(涙。... - Yahoo!知恵袋 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222450397 龍樹とインド論理学の誕生 http://manikana.la.coocan.jp/paper/origin.html 多くのインド論理学の概説1)を整理してみると、インドの論理学の源泉を探るために、いわ ゆる「論理思想」の萌芽を求めるという方法が採られている。 一つは、「論理」を意味する「ニヤーヤ(nyAya)」という言葉の用例から探っていくやり方で ある。この方法では『ヴェーダ』や『ブラーフマナ』の祭祀規定にかんする解釈学の伝統に至る のである。このような解釈学的な研究は「考究(ミーマーンサー)」と呼ばれたが、このミーマー ンサーと同義の言葉として、「ニヤーヤ」とか「タルカ(tarka)」の語も用いられた。ここにきわめ て漠然と論理思想の萌芽を推測するのである。 もう少しはっきりとした起源の探求としては、インド論理学が論証にかかわる部分を多くもち 論争の規則にも触れているという点から、論争の伝統に論理学の萌芽をみる方法がある。 『ウパニシャッド』の中には、公の場で多くの論争や討論が行われ勝ち負けを争ったということ が述べられている。また、『マハーバーラタ』の中の論理家にかんする記述なども根拠として あげられる。例えば、アシュヴァッターマンは論詰(vitaNDA)と呼ばれる論法を好んだと述べ られるなどである2)。このような討論の伝統の中から、討論規則などが整備されていき、 論理学がこれまた何となく醸成されてきて体系だったものになっていったというものである。 このような討論規則の手引き書として現存最古のものがインドの医学書『チャラカ・サンヒタ ー』の中の一節であるというのが、これまでのおおかたの見解である。 このような「論理思想」の濫觴を探る考察がなぜなされてきたかというと、それはインドの 論理学研究の中にある根強い伝統な見方のためであると考えられる。松尾義海博士は かつて『インド論理学の構造』3)を著したとき、その序において次のように述べた。 「印度に於ける論理学は学的要求によって一時に成立したのではなく、実際的な論争法の 必要から生まれ、長い発達の後に論理学として組織されたものである。」 … 心にしみる原始仏典 http://manikana.la.coocan.jp/canon/canonindex.html http://manikana.la.coocan.jp/canon/mahavagga.html 『アングッタラ・ニカーヤ』V.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8) 三の集まり 大なる章 67 1.比丘たちよ。つぎのような三つが、討論に関することがらである。三つとは何か。 比丘たちよ。過去の時については、「過去の時に、このようであった」と語らねばならな い。あるいは、比丘たちよ、未来の時については、「未来の時に、このようであろう」と 語らねばならない。あるいは、今現在に関しては、「今現在このようである」と語らねば ならない。 2.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知ら ねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定 的に解答せず、分けて答えるべき問いに、分けて解答せず、反問して答えるべき問いに、 反問して解答せず、捨て置くべき問いを捨て置かないならば、このような人は、比丘たち よ、ともに語るにふさわしくないのである。 またもし、比丘たちよ、もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に 解答し、分けて答えるべき問いに、分けて解答し、反問して答えるべき問いに、反問して 解答し、捨て置くべき問いを捨て置くならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語る にふさわしいのである。 >>342 >美魔女はレスしたことがないが、たぶんブスだと思う。 美魔女はオッサンだ! はい。わかりますた。今後だまされないように気を付けます。 ・・・・でも、ブスに近いだろ?オッサンは。世間の扱われかたなんか。 ど真ん中太郎 2017/03/11 法律の基礎 7 責任とは?(無責任) 『事件・事故が、あっても・なくても 金持ちが 世のため人のために金を使え〜っ!』という教えでつね? ご教示ありがとうございます m(_ _)m 仮設としての 依他起性している(ように見える)世界の中で 時の流れに依存して(いるように見える) 仏性からの大悲・大智によって → 衆生に応じる 衆生が ← 仏性からの大悲・大智を受け入れる 仏性からの真如縁起からの 般若の智慧からの観照によって…ということでつね? ご教示ありがとうございます m(_ _)m >>348 仮設としての 〜〜〜は、何言ってんだか解んねぇよ。 簡単な言葉ですら解らんものもあるんだから、難しい言葉は極力避けた方がいいぞ。 そもそも相手に伝わらなきゃ意味ねぇし。 ・・・・オッサンブスがいる。。。 >>350 ど真ん中太郎師匠へ 遍計所執性 我があるということを主体として 我所もあり・分別もあり _ _ _ 仮設としての 依他起性している 地水火風空識に依存して 色受想行識の仮和合 仮の現れ ttp://suttanipata.com/acyafcafaafafaafaea/ スッタニパータ 1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って 仮設としての すべて一切の諸法を 『 空性である 』 と観照せよ ↑このように観照する方法であるらしい ttp://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349 大念住経(大念処経) 地水火風に依存している → 色受想行識の仮和合。という観照法 ヨロ m(_ _)m 遍計所執性している人に 依他起性の説明をするのは難しい それゆえに >>350 >簡単な言葉ですら解らん という場合もあるらしい _ _ _ 空性(『空である』という性質) 仮設(仮設としての) 相互依存性(「〜に」依存している) 縁起 たとえば 仏性からの真如縁起であるからこそ (仮設としての)衆生が ↑ 仏性からの大悲・大智を受け入れることができる 「仮設としての」ではないのなら 仏性からの大悲・大智を受け入れることができない ということであるらしい ヨロ m(_ _)m >>352 >おじゃる?は、それ、わかるのか? たとえば仮に ど真ん中太郎師匠は 父母に依存することなく 今、現在、現れているのでしょうか? 周りの空気とかを 呼吸することなく 生きていくことが出来るでしょうか? とりあえず 過去も現在も (仮設としての)「〜に」依存している 「仮設としての」ではないのなら 「〜に」依存することができない ということであるらしい ヨロ m(_ _)m >>349 > は?<(`^´)> カワイイAA… 腹筋でもやってるところ? >>355 食べ過ぎてムチムチなのよ。🍱🍤🍰 <(`^´)> >>356 <(`^´)> = 間違い <( ` ^ ´ )> = ◎ 遠慮しなくていいよ、正直これくらいだろ 自分みたいな凡人だと、死ぬまでに悟れそうにないんですが、 そう考えると凡人にとっては仏教って必ずしも救いはないな・・・ 来世でどこに生まれるかもわからないから、 また仏教に出会える保証は無いし・・・ かといって、キリスト教を信じたら救われるかと言うと、 それも分からないし・・・ そう考えると現実というのはいかに厳しいかということだな 「たけしの新・世界七不思議大百科」2018/1/5 http://video.9tsu.com/videos/view?vid=117534 19:00~ http://o.x0.com/m/655516 今回は歴史を切り開いた英雄たちの死の謎に迫る! 聖徳太子は表向きは仏教を信じていましたけどもキリスト教(景教)を信じていた、 と思われるふしがあります。 なんと太子は聖徳太子は馬小屋で生まれたっていう意味ですから。 これはキリストが馬小屋で生まれたっていう伝説とも通じるわけですね。 太子にキリスト教を伝えたのは側近の秦河勝ではないかという 秦氏は大陸からの渡来人で京都の太秦に拠点を置いていた。 設立した神社にはキリスト教の影が見え隠れする かつてはこのように記されダビデと読むこともできる 古代イスラエルのダビデ王を意味するといわれるのだ 更に太秦という地名。 当時中国ではキリスト教を大秦景教… と呼んでいた。 太秦は大秦に由来するというのだ。 … ネストリウス派キリスト教 2 聖徳太子とキリスト教 | o m n i v e r s e http://sun.ap.teacup.com/voidphrenia/408.html … 秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰する一族であったとする説がある。 … 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) キリスト教なら 暦学でしらべてみて。天文学的な救済あるし。 仏教は悟りを押し付けないならいい師匠。語らない。指導しない。共有しない。 究極はそうあるべき。 >>360 >死ぬまでに悟れそうにないんですが たとえば おじゃるの場合は 唯識系も肯定派なので この現世においては 誰もが成仏するわけではない(五性各別) それでも来世には 無明を手放して 衆生が ← 仏性からの大悲・大智を受け入れて 仏性からの大悲・大智を 瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす 瀉瓶のように受け入れて 『仏性そのもの』に成るかも? >>364 貴方は来世ではイケメン👨ヤリチン♂男になるの?♪⭐😄 イケ面。ヤリ珍。ぐらいだろうな。そいつらの将来は。 >>365 こら✊💢 屋台の🌽とうもろこし食べたい >>367 こりもせず、まだ太るつもりなのか...... 100kgも夢じゃないな カーリー 血と殺戮を好む戦闘の神 生首を抱えたまま男を踏みつけてペロリと舌を出している ttp://reki.hatenablog.com/entry/2014/11/15/%E3%80%90%E3%81%B2%E3%82%8C%E4%BC%8F%E3%81%9B%E3%80%91%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99%E3%81%AE%E7%A5%9E%E6%A7%98%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%90%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%A9%E3%82%82 ぜんなん‐ぜんにょ【善男善女】 仏法に帰依した男女。信心深い人々。(デジタル大辞泉) 必要悪は本当に必要か? 嘘も方便は仏教界にアリなのか? 方便(ほうべん) たとえば その当時のインドの人々にとって 仏教を理解させるためには その当時のインドの人々にとっての 世間的なことを認めて、その理解のうえで 仏教を その当時のインドの人々に理解させる というやり方がとられねばならなかった ヒンドゥー 人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって 次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる 人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き 無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める (大乗も含めて)上座部系とかは とりあえず このヒンドゥー系とかの 輪廻からの解脱を前提として 苦集滅道 (大乗の場合は無苦集滅道)とかを その当時の人々の心の働きに合わせて導いていく (その当時のインドの人々は輪廻を前提としていました) >度が過ぎると善から悪に変わる たとえば 法華経系の 創価学会の信者とかに 今まで何回も 折伏(しゃくぶく)を、しつこく迫られたことがあります たぶん創価学会とかの法華経系の団体は ヒンドゥー系とか 上座部系とか チベット密教とかの勉強をしてないので 『(大乗経典の)法華経だけが正しい!』と洗脳されていると思います 法華経系の信者の人は 洗脳されていると思うので 無理だと思うけど (洗脳されてないのなら) 神智学(しんちがく)とかも含めて幅広く勉強しておいた方がよいかも? 腹八分目って言うし、食べ過ぎると栄養過多で太り過ぎたりして病気になるリスク高まるし 頑張り過ぎると倒れちゃうし、鬱病になるリスク高まるし だから善も、ほどほどが壊れる事なく丁度良いのでは それがホントの善なのでは 多少の悪があっても良いのではないかと思いもします、健康的で..... いかがでしょうか。 ウムの食い込みパンツョックン丼もなかなかいけますよ >>380 > 多少の悪があっても良いのではないかと思いもします、健康的で..... > いかがでしょうか。 ありがとう。 では、これからは遠慮なくやらせてもらうことにするよ。 fast&slow読むと因果思考が そもそも人間らしい妄念つう こういう時、哲学ってダメだよねえ 美魔女、、、マティーニとJAZZとバルタン星人が似合う女。 仏陀は、『諸行無常の論理』によって、バラモン教で唱えられた輪廻転生の論理を否定した。 人を導く方便はありで人を傷つけ騙す嘘は仏教で殺人より重い罪とされる 仏教で異教(外道)の教えを囁くことは殺人より罪が重い 哲学とは事象のすべてを究明し、論究する学問のことであり、 その意味から日本には聖徳太子から空海、最澄、親鸞、道元等々の 仏教・神道を中心とした事象の究明がなされていた。これは、東洋哲学であり、 事象を“成り出でてある(生成論理)”と捉える東洋哲学は、ハイデガ−哲学の 生成論理と通底している。 ハイデガ−はギリシャから始まる西洋哲学を“作られてある(被制作性=差異化)”の哲学と 述べている。この西洋哲学に対して日本・中国などの東洋哲学は“同一化の哲学”と呼ぶことが出来る。 東洋哲学の“同一化論理”と、西洋哲学の“差異化論理”は、いわば“車の両輪”であり、両論理の “濃淡”の割合がその時代の歴史を作り上げてきたのである。 中沢新一は「現代思想」2018年1月号(kindme版あり)で華厳経と量子力学をつなげている。 そこでは鈴木大拙「華厳の研究」(全集5所収)が参照されている。 これは井筒俊彦も参照した本だが、初心者向けではないので角川ソフィア文庫仏教の 思想6が先に読まれるべきだろう。こちらはkindleで読める。 鈴木大拙が解説した法蔵『探玄記』の華厳経解釈がよりわかりやすく書かれている。 中沢は法蔵『探玄記』に触れていない。数式に重点を置いたのだ。 《鈴木大拙は学的な努力を超越した 『華厳経 』の 「霊性 」を強調するのであるが 、 我々は彼の言うその 「霊性 」もまた 、レンマ的知性のうちの 「外的 」な要素として 、 常識や学から断ち切れたものでない点を強調しておきたい 。》中沢新一 この要約は誤解を生む。 鈴木はこう書く。 《『華厳経』の體系化の結果は『華厳経』の霊的価値を可解性といふスクリーン の背後に追ひやつてしまふことになり、従って今では一般讀者は『華厳経』本来の使命 を思索的分析の観念論そのものの中に見出す様になつてしまったのだ。》全集5:278頁 《若き求道の佛教徒善財の霊の目に展示せられた大毘盧舎那楼閣の有様に対して、 シナの最も優れた哲學的心性の一人である法蔵がどの様な知的分析を興へたとしても、 事實そのものはこの分析に何の関係もないのである。分析は知性を満足せしめるかもし れぬ、併し知性がわれわれの存在の全部ではない。われわれは法蔵や善財と共にどうして も一度は楼閣そのものの中に入つて、自らに輝き出で、また、相互に映發して無凝自在で ある一切の諸荘巖事を目撃しなくてはならぬ。およそ宗教の世界では、生活と経験が分析 より邊かに重要なものである。従つて、すべての荘厳(存在の多)に飾られたあの楼閣は、 どうしても各々の生活そのものの中からにじみ出たものでなくてはならぬ。》 285頁 そもそも鈴木大拙の言う霊性とは、 《簡単に、霊性は精神の奥に潜在して居るはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、 精神はその本体の上において感覚し思惟し意志し行為し能うものといっておくのがよいかも知れん。》 フロイトの無意識と超自我をあわせた概念と言える。 鈴木大拙は相即相入の教義をinterpenetration(相互浸透)と訳している。 そのエビデンスの反証が 「血液が瞬間的に蒸発するから」 って出ていた すぐ見つかると思う 物質を超えているかと思いきや質量の減少を魂の根拠とする滑稽さ 結局魂ってのは物理なのかよ だったらちゃんと科学的に説明しろと 量子力学(りょうしりきがく、quantum mechanics) 因果律が成り立たない 確率的な現象 非実在論的である _ _ _ クォンタム・リープ(量子的飛躍) 宗教(しゅうきょう、religion) 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念 宗教哲学(しゅうきょうてつがく、philosophy of religion) 宗教に対する懐疑の発生と結びついており 哲学は理性によって宗教の内部を解釈し捉え直す ttp://d.hatena.ne.jp/shi3z/20141222/1419203377 宇宙が時間軸を持った三次元空間であるというのは幻想である 映写幕(スクリーン)に映しだされた幻影のようなもの ttp://tocana.jp/i/2017/07/post_13673_entry.html 科学者が…「宇宙には原意識クラウドが存在し… オレも、もう少し若いころは科学と仏教を対比させるような、 無邪気なユートピア的発想を持ててたわ その後、自分の心の闇に直面して、 仏教をやるのなら、科学がどうとかじゃなくて、真剣に自分の 心に向き合わないとだめだなと思ったわ まあ、心に闇のないやつには、仏教なんてあえて考えなくても いいのかもしれない きっとピンとこないだろう 自分の煩悩に絶望したようなやつにこそ、切実だろうな それにしても瀬戸内寂聴って肉ばっかりよく食べるよな 延暦寺によく怒られるって言ってたな 美魔女師匠へ >因果律は思い込み 「因縁果報である!」という想いも手放して 「因縁果報ではない!」という想いも手放して 「想う!」という想いも手放して 「想わない!」という想いも手放して 非想非非想も超えて 余念を交えず、ただひたすら只管打坐(しかんたざ) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる