仏教哲学総合スレ4
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『宗教哲学入門』 量義治、講談社学術文庫 (2008)
井筒がやっていた様なこと。
仏教、キリスト教、イスラム教から宗教批判まで、
統一された哲学用語で相対化して通観する一冊。 おれ悟ったんだけどwww、何か相談ある?
あと、ブログよろしく!
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/ おれ悟ったんだけどwww、何か相談ある?
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http://blog.livedoor.jp/kosokeme/ NHK 100分 de 名著 法華経 2018年 4月 [雑誌] (NHKテキスト) Kindle版
第三章 「譬喩品(ひゆぼん) 」 (第三 )
「三車火宅(さんしゃかたく)の譬え 」
…続けて釈尊は言います 。
「その時 、舎利弗よ 、その資産家は 、腕力が強いのに 、腕力を差し置いて 、巧みなる方便
によってそれらの子どもたちを 、その燃え上がった家から脱出させ 、脱出させて後に 、それ
らの子どもたちに立派な大いなる乗り物を与えた 。まさにそのように 、舎利弗よ 、正しく完全
に覚った尊敬されるべき如来もまた 、如来の智慧の力と 、四つの畏れなきことを具えている
のに 、如来の智慧の力と四つの畏れなきことを差し置いて 、巧みなる方便という智慧によっ
て 、屋根と覆いが燃え上がっている老朽化した邸宅のようなこの三界 ( * 3 8 )から衆生を
脱出させるために 、三つの乗り物 、すなわち声聞のための乗り物 (声聞乗 ) 、独覚果に
到る乗り物 (独覚乗 ) 、菩薩のための乗り物 (菩薩乗 )を示されるのである 」
資産家は自分で子どもたちを抱えて連れ出そうと思えばできた 。でもそれをやらなかった 。
ここに仏教の特質が出ていると思います 。相手が納得していないのに強引に外に連れて行
くのではなく 、子どもたちが自分で自覚し 、自分たちの意志でそこを抜け出してくることを尊重
しているのです 。つまりここで釈尊は 、超能力や神がかり的な救済を説いたのではなく 、
方便など言葉を駆使して 、子どもたちの自覚的行動を促したのです 。
* 3 8三界仏教の世界観で 、悟って成仏することのできないすべての衆生が 、生死流転
する三つの迷いの世界 。欲界 (欲望にとらわれた境涯 ) 、色界 (欲界は超克しても 、なお
物質的制約を受けている境涯 ) 、無色界 (欲望も物質的制約も超克した純粋精神の境涯 ) 。 キリスト教のGod brass youとか、イスラム教のアッサラーム・アライクムみたいに他人の幸せを日常的に祈る挨拶みたいなので、仏教には何故ないの? >>726
印度の挨拶は「ナマステー」。
それで足りないとしても、
祈りの表現を、そうした慣用句として使わず(→形だけのものにせず)、
都度都度明確に言葉にするから、定型表現が形成されなかった、
ってことじゃね? ありがとう!
でもやはり弱いですね〜。
定型化したくないというのもわかりますが、他方、南無阿弥陀仏的な定型文はいくらでもありますしね。
やっぱり無いのかな、定型文は。 佛とは嘘で在り、悪で在る。
仏教なる名目に於いて一般労働からの逃亡を謳歌せし僧侶達は常に自己と周囲を欺く。
何ぞ反動的冒険を行えど、其れすら仏道の証と決定し、粉飾に塗れた生涯の一頁に刻むのだ。
例を挙げん。特権階級は道義的な労働条件から全く逸脱した人権の蹂躙たる酷使や富の再分配を忘却した独占主義なる犯罪行為に手を労働者の血で染めては其れを「ノブレスオブリージュの代償」と呼ぶ。
労働争議で被虐者が起てば、工場は生産是れ唯一の場所に非ずと言い出す。
資本家は青春の二文字をさも金科玉条かの如くに思慕し、如何なる一般的解釈も社会通念も屈曲する。
支配層に係れば虚偽も欺瞞も、詐術も弾圧さえも青春の香辛料でしか無いのだ。
又、封建領主は其の悪行に、其の詭弁に特別性を見出す。自己の労働からの逃亡は遍く青春の一部分で在るが、労働者の逃亡は青春でなく只の叛逆にして重罪であると断じるのだ。
仮に逃亡する事が仏道の証で在るのなら、資本家化を拒絶した労働者も又青春の中軸でなければ破綻的矛盾を生む。
しかし、肥え太った僧侶共は其れを認め無いだろう。
何の事も在らぬ。全体汚らしい豚の都合主義の範疇を超え無い。畢竟、其れは欺瞞に他成らぬ。虚偽も欺瞞も詐術も弾圧も糾弾される可き物だ。
資本主義は悪の源泉だ。
演繹的にも帰納的にも前衛的に仏道(笑)を謳歌してい無い労働者の方が正当な真理的正義で在る。
結論を言おう。
共産主義こそ根本である。 以下、
「ハリウッド・ゼン」シナリオ、大島渚全集4、280頁より
雪洲「禅師のところに来て、“師よ、私は何も持っていません。どうしたらいいのでしょうか?”
とたずねた日本人の男の話がある。禅師は“全てを捨てよ”と答えたのだ」
参考:
厳陽尊者が、趙州に聞いた、「私は全てを捨てて、何も持っていません。
この先どんな修行をすればよいでしょうか?」。
趙州は云った、「捨ててしまえ!」。
厳陽は云った、「私は既に何も持っていないのに、一体何を捨てたらよいのでしょうか」。
趙州は云った、「それなら、担いで行け」。
世界古典文学全集 第36巻 A 禅家語録 筑摩書房 1972.12 趙州録所収 >>726
願わくは此の功徳を以[もっ]て、
普[あまね]く一切に及ぼし、
我等[われら]と衆生[しゅじょう]と、
皆共に仏道を成[じょう]ぜん(ことを)。
この功徳というのは主に経典読経の功徳をいう
決まった相手ではないが一切衆生に功徳を分け与える(回向という)時の定型文
あいさつには使えないけどね
【回向】
自分の修めた功徳(くどく)を他にも差し向け、自他ともに悟りを得るための助けとすること。 禅語
「本来無一物」
http://rinnou.net/cont_04/zengo/1610.html
(『六祖壇経』)
「この身体は菩提樹、心は明るい鏡のようなもの。常に拭き清めて塵の溜らぬようにせよ」と
トップクラスの神秀上座が言う。これを聞いた寺男の盧行者(後の六祖慧能)は「身体も心もその
ように立派なものではない。もともと実体など無い(本来無一物)のだ。どうして無いものの上に
塵の溜ることがあろう」と、自分の心境を吐露した偈の一句。 般若経の中でも奥義が語り尽くされてるのは理趣般若経 理趣経はセックスについて書かれた経典であり、空海はあまり世間に出すには好ましくないとしたものでもある。 >>2にもあった。
『仏教を読む 秘密の庫を開く <密教教典 理趣経>』 花山勝友 本来無一物、か。
本来=根本は無である。
人間は、その無からの距離として測定することができる、ということである。
だからして、無、を理解しないで、修行しても、それは無意味である、ということである。 そうじゃない
「無」でもない
ただ、縁起しているだけ
畢竟、
これを(吾が事として)見れるかどうか
でしかない。 744.
縁起、か。
それは、科学の問題である。宗教ではない。
その縁起を否定したものが、無、である。 >>743
ブッダは無についてどのように説いてる? お釈迦さん全否定かw >>745
『仏』教に関わる必要ないだろwww
ブードゥ教にでも改宗したらどうだ? 多数決で決めるバカが多い。
釈迦のバカ弟子が作ったバカお経を信じるバカが多い。 戯言を垂れ場がしてるだけのお前ごときに何が理解できるんだよ
人と反対のことを言ってれば注目を浴びると思ってる井沢元彦みたいなやつ 多数決?w
君の経験は、一体、他何人の同意のもとにあるんだい?w
君は、君自身の経験を、他百人が否定したら取り下げるのかい? >>748
菩提樹下のエピソードも、
(史実としてではなく、その意義として)
何も見えてないんだな・・・。 ・何故、元々供え物を食ってて肉を食わないとか選り好みをしている余裕がなく
肉食禁忌なんかなかった仏教から何故、食肉禁止が生まれたのか?
・何故、日本では最澄の円戒、親鸞の非禿非俗の肉食妻帯の仏教が生まれたのか?
このことは同じコインの裏表同じサイコロの表れる面の違いに過ぎない 心は何人にも束縛されないのだから戒律を守り格式ある態度でいることが正しいに決っている
こういうことは真心の問題と言いながら葬式にアロハなんか平気で着てくるやつはいないだろ ビッチを問題にしているのではないよ。
出鱈目は困るが。 哲学の命題や宗教の戒律は、地図やコンパスであって、
それによって示され、共有される哲学的・宗教的真理があるというだけの話。 だな、自己流の解釈で好き勝手なことをやりながらそれを仏教だと言い張るのは図々しい態度だ 哲学を見い出せるかどうかは、
哲学の語彙と文法を持つかどうかによる “「禅定 samādhi サマーディ」は瞑想によって得られる、統一された高いレベルの心の境地です。
恐怖感があると禅定はひとかけらもなくなります。[略]
執着を断って真理を観察する状態(禅定)が壊れてしまうのです。
悪魔はこのことを理解していて「怖がらせてやればいい」と考えたのですから、けっこう頭がよいのです。[略]
阿羅漢はそもそも煩悩をなくしているので、そんな手には乗りませんが、迷惑は迷惑です。
悟っていない人は怖くなって、修行から逃げてしまうこともあります。[略]
もし悪魔が瞑想道場にもぐり込んだら面倒です。”
― アルボムッレ・スマナサーラ 『般若心経は間違い?』 (2007) 説一切有部が説く三世に渡って実有の法とはイデアとどう違うのか?
イデアは観念論だけど説一切有部は原子論に近いとも聞く
色んなサイトを見てみたけど結局のところは分からなかった
誰かイデアと実有の法の違いを分かりやすく教えてください 説一切有部の説く三世実有は、現象や実体を構成する要素の要素『五蘊』などと言い表しているもの
さらにそれを成り立たせている最小のものが存在して常在で不変だと言うこと
イデアの真実在は物理的実体を想定したものではない、実体は存在するとしている説一切有部は
観念論とは真逆の立場をとってる 有部の五位七十五法で実体視された75の法
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D
例えば有為法の心所法には受想思欲触慧念などがあるけどこれらは心理学的なものだよね
まさか唯物論に沿って、受とか想は現状(これとて実体なのだが)を感受する想念を起こす時の脳内伝達物質の働きや海馬に蓄積されている記憶との関連性によって起こるものという説なわけではないと思うし
となると有部のいう実体とはイデアみたいな永遠不変の概念に近いのではないか?
受というのを物質的実体にすることは難しいと思うし俺にはどんなものなのか想像できない 一番最初の大乗仏典が般若経です。
その後、維摩経や法華経や浄土経などの経典がつくられます。
私たちの知っている法華経(クマラジーヴァ訳『妙法蓮華経』)の原典はおそらく西暦3世紀の中葉までに成立したと思われます。
つまり、法華経はブッダの死後およそ400−500年後に、大乗仏教運動の宗教改革者たちによってまったく新しく創作された経典(大乗経典)の一つなのです。
これは「偽経」とも呼ばれ、
それゆえ、「大乗非仏説」(大乗仏教はブッダの教えではない)と主張する人もいるのです。 大乗非仏説というのは、「すべての経はゴータマ・ブッダが直接説いたもの」という建前に拘泥した極めて小乗的なもの
大乗の説くべきは、歴史的ブッダが何を言ったかではなく、ブッダとはそもそも何であり、ブッダは何故にブッダなのかということ
般若経ではそれは阿耨多羅三藐三菩提であるとしたが、法華経は更に進んで久遠実成のブッダであるとした
ここにおいて仏教思想の頂点に至ったのであり、それゆえに法華経が最上の経典と言われる >法華経が最上
は、自称である。華厳経が上という人もあれば、密教が上という人もいる。
経典の高低論争ほど無駄なものはない。 中国佛教の影響を受けた我が国の佛教の考え方も概ね「教判佛教」なので、
天台宗出身の日蓮が「法華折伏破権門理」の天台の言葉を崇めて、
末法の世には『法華経』に帰依して「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるしか救われる道は無く、他の経典を尊重している宗派は全て邪宗である。
として、彼独自の宗旨を建立したのです。
要するに天台大師も日蓮も、
インドに於ける経典成立の過程を知らず、
サンスクリット語の原典を読んだ訳ではないのです。 ことに『法華経』は「諸経の王」と言う文句がクローズアップされて、
この経典を翻訳した羅什三蔵は「創作経典の創作的翻訳」と西洋の研究者から後世に揶揄されるくらいに、中国人好みの文学的翻訳を行いましたので、
彼の翻訳した『妙法蓮華経』の評判は当時の中国に於いては高かったのです。
また、権威付けの為に「四十余年未顕真実」の文句のある『無量義経』というメイドインチャイナの経典まで偽作されて、いよいよその権威は高まりました。 法華経方便品の「正直捨方便」の真実
坂本・岩本訳注「法華経・上」(岩波書店)のサンスクリット語に対応した和訳が分りやすいので引用します。
『そのとき、余はうれしくなり、自信をもち、ためらう心をすべて捨てて、仏の息子たちの真中で教えを説き、かれらに「さとり」を勧めたのであった』
となっていて、それ以前に何か説かれていたものを、捨てるべきであるというような意味は含まれてないことが分ります。 「ためらう心をすべて捨ててかれらに「さとり」を勧めた」という原意を、正直捨方便という漢訳語に引きずられて、
『方便を捨てよと説かれてはんべるは、四十余年の念仏等をすてよと説かれて候』(「南条兵衛七郎殿御書」日蓮)と誤解してしまったのも分らないでもないですが、
もし、そうであるとすれば、声聞、縁覚に対する教えや二乗作仏という法華に見える思想は、如何に解釈してよいのか?となります。 法華経くらい中身のない経典は無いと言われてるね
主な内容と言うと、SFチックな描写を用いた自画自賛の嵐
とにかく、この教えこそが最高であると繰り返されるのみ
そんなものを唱えてどうなる
日蓮は、法然のやりかたを丸パクリしながら批難の対象としている節操のない人間で
南妙法蓮華経は念仏のパクリだし、その排他主義においては念仏以外の雑行を
捨去れとする浄土宗の捨閉閣抛まんま
法華経を正統づけんがために書かれた、『立正安国論』に引用される多数の経典には
正法とは釈迦の教えのことを指しているとは書かれてるが、法華経だけが正法であるなどとする
記述などどこにもない、法華経を国教としなければ元寇で日本は滅び去るという予言も外れ
すべて嘘八百です。 >>778
『無量義経』には、「四十余年、未顕真実」(四十年の教えでいまだ真実を顕さず)と記述されている
これを拠点として、五時八教の教相判釈が天台によって説かれる訳だけど
無量義経が中国で書かれた偽経であることはもはや定説となってるうえに、法華経が順番的に
釈迦の説いた最後の教義であるとする主張にも根拠がないね
そもそも、法華三部経の開教が遥か後に書かれた無量義経とだとすることにはもともと無理があるし
無量義経においてすら法華経が正法であるとしている箇所など見当たらない
結論的に、法華経が讃えられている経典は法華経だけであって資料家の日蓮が
何を見て法華経正義を判断したのか、理解に苦しむ。 仏教系の学校で六年間宗教の授業をうけた。
般若心経の研究に生涯をかけても、まだ終わらないのがざらだと言ってた。
サンスクリット語で無という意味の研究だけで何十年もかけてるとか。
最後の授業で、その坊さんが言ってたけど、とどのつまり、屁理屈らしい。 『村上春樹と仏教』 平野純 (2016)
『村上春樹と仏教 II』 平野純 (2016) パンタカ「あばばばばば」
ゴータマ「この布でお掃除してください」
パンタカ「あばばばオソウジタノシーあばばばココロもオソウジするおお」
そしてチューラパンタカは悟りを得ました。めでたし。 「大乗仏教/上座部仏教(原始仏教)」を理解する本
(1)『〈仏教3.0〉を哲学する 』 藤田一照、永井均、山下良道 (2016)
(2)『別冊100分de名著 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』 佐々木閑 (2017)
1.日本の伝統的な〈仏教1.0〉と、上座系瞑想実践的な〈仏教2.0〉を、共に包み超えて、新たな〈仏教3.0〉を提唱。
2.原始仏教から大乗仏教へ、運用面での思想の変容を中心に解説する、数少ないリアルな仏教史。 上座部仏教(原始仏教、テーラワーダ仏教、ヴィパッサナー瞑想)の本
日本
・『悟らなくたって、いいじゃないか ―普通の人のための仏教・瞑想入門』 プラユキ・ナラテボー、魚川祐司 (2016)
・『仏教思想のゼロポイント ―「悟り」とは何か』 魚川祐司 (2015)
・『「気づきの瞑想」を生きる ―タイで出家した日本人僧の物語』 プラユキ・ナラテボー (2009)
スリランカ
・『自分を変える気づきの瞑想法 ―ブッダが教える実践ヴィパッサナー瞑想』 アルボムッレ・スマナサーラ (2015)
ベトナム
・『ブッダの<気づき>の瞑想』 ティク・ナット・ハン (2011) >>469の中でも紹介されてるけど、
ティク・ナット・ハンがいいね。
ヴィパッサナー瞑想について、この人ほど平易な言葉で深い洞察をする人はいない。
そういう話をしながらも、時折、井筒レベルの唯識、華厳から曹洞宗まで、
大乗仏教の理論が縦横無尽に展開される。
臨済宗の人で、世界レベルの叡智。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html
佐倉氏の有名な縁起論です。今はどう言う評価か知りませんが。
龍樹の縁起説が十二支縁起の言い換えである>縁起を因果関係では無く論理的関係として解釈出来なければ言い換え出来ない...
と言う風に議論が進行していく訳ですが。
一つ興味深い事に気がついたんですよね。
佐倉氏は「龍樹は初期の縁起説の対偶律を用いて〜」と仰っているんだが
「行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。(空七十論 11)」という書き方が佐倉氏の論理と矛盾しているんだな。 「ところが、もし、縁起を論理的関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定すると、そのような言い換えが可能であったことがわかります。たとえば、
B : もし食べ過ぎる(P)ならば、腹痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし腹痛が起きない(〜Q)ならば、食べ過ぎではない(〜P)。」
しかし龍樹の「行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。(空七十論 11)」
という「言い換え方」は佐倉氏の「言い換え」と異なっている。
佐倉氏曰く「行がなければ無明も生じないし」の部分が十二支縁起の言い換えに相当するらしいが
後半の「それ(無明)がなければ行も生じない。」をよく注視してみると
言い換える前の直前の文章は「無明があって行が生じる」というもので有ると分かる。
龍樹の空七十論 11をオリジナルに直すと「無明があって行が生じる。それ(無明)がなければ行も生じない。」というもの。
しかし龍樹は
「無明があって行が生じる。」の部分を「行がなければ無明も生じないし」と言い換えている。
これでは佐倉氏が
「まず、縁起を時間的生起関係・因果関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定してみますと、
このような言い換えは不可能であったことがわかります。たとえば、
A : 食べ過ぎ(X)によって、腹痛(Y)が起きる。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 腹痛(Y)がないことによって、食べ過ぎ(X)が起きない。」
として例に挙げているように、龍樹が縁起を因果関係として捉えて言い直している事になってしまうんだが...。
佐倉さんは生きとるんかね... 時間・因果的な十二支縁起の言い換え(2つの文章に関係が無い)
「XによってYが起こる」→「Yが無い事によってXが起らない」
(無明があって行が生じる)→(行がなければ無明も生じない)
論理関係的な十二支縁起の言い換え(対偶の関係・佐倉氏の主張)
「Xで有るならY」→「Yで無いならX」
龍樹が十二支縁起を本当の意味で言い換えているつもりなら後者の解釈しかないが
実際には龍樹は前者の方法で言い換えているんだよね。
じゃあ龍樹は十二支縁起とは全く別の縁起を説いてるのか、と言われるとそうなんだよね... つまりこのままだと龍樹は十二支縁起を対偶律を用いて言い換えているように見えて
実際には全く関係の無い文章を用いて説法している事になってしまう(笑)。
これを回避する(=対偶律を用いた言い換えと見なす)為には
「行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。」
という文章を
「行が『生じなければ』無明も生じないし、それ(無明)が『生じなければ』行も生じない」
という風に書き換える必要性が生じるのだが
誰か「空七十論」の原文を持っていませんかね泣。
「これが生ずることからかれが生ずる」の形式と一致するので無理ではないと思うけれど笑 ちなみに
「行が生じなければ、無明も生じない」と書き直した場合
「これ(行)が生ずることから、かれ(無明)が生ずる」との対偶の関係が成立する。
「AがVするから、BがVする」を丸ごと「XゆえにY」と書き直せるという事。
問題は原文に「AがVする」に相当する文章が有るかどうかだけれど... まあそもそも龍樹は対偶律を用いるつもりが無くて、ハナから逆方向の時間的縁起を展開するつもりだったと解釈すればそれでストップする話なんだけれどね。 以下、『阿含経』より
http://space.geocities.jp/buddha_res/2.html (リンク切れ)
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130505/p2
「…マールンクヤプッタよ、世界は常住なりとの見解の存する時にも、あるいは、世界は無常
なりとの見解の存するときにも、やっぱり、生はあり、老いはあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩
はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教える」
「…マールンクヤプッタよ、<人は死後もなお存するとの見解が存するとき、そのとき清浄の
行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存しないとの見解が存
するとき、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ。人は死後にも
なお存するとの見解があるときにも、あるいは、人は死後には存しないとの見解の存するとき
にも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、
いまこの現世においてそれを克服することを教えるのである。」
(増谷文雄訳『阿含経典』p52) 以下、末木剛博(すえきたけひろ)『東洋の合理思想』講談社現代新書33ー34頁より
「…カントはこれら三種(魂、宇宙、神)の問題に一定の解答を与えることは
不可能であることを論理的に証明している。したがってこれらの問題に関
する形而上学は論理的には成立しないといって、形而上学を排除したのである。
これを初期仏教の形而上学批判とくらべると、精粗の違いはあるが、主旨は
はなはだよく似ている。初期仏教では形而上学の立場を前述のように常見と
断見との二種に大別しているが、さらにカントのあげた諸問題とほとんど
同じ問題を論じている場合もある。たとえば『中阿含経』の一部の「箭喩経
(せんゆきょう)」では次の諸問題があげられている。
(A) 自我および世界は時間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(3)無限かつ有限である。
(B)世界は空間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(C)魂と肉体とは、
(1)同一である。
(2)別異である。
(D)如来(完全な悟りを得た者)は死後に、
(1)生存する。
(2)生存しない。 これらの問題は、カントのあげた問題とは多少のずれがあるが、それは時代と国土
にもとづく関心のちがいである。しかし、たとえば(A)と(B)とは、カントの
第一および第二の問題とほとんど同じであり、(D)の如来の問題とカントの第三の
神の問題とも類似している。
相違点を挙げれば、初期仏教は(A)の問題に対して四種の解答を用意しているのに対し、
カントは、(1)無限であると(2)有限であるとの二つだけを用意し、その二者択一を
せまるのである。
『箭喩経』では四種の解答を(A)の問題だけにそろえてあるが、他の文献では、あらゆる
問題に対してそろえている場合もあり、そのほうが論理的には完全なわけである。それで
後世には、この四種の解答、つまり一問題に対する(1)肯定、(2)否定、(3)肯定
かつ否定、(4)非肯定かつ非否定、の四つを四句分別と名づけている。
ともかく、カントの提出した問題と、形の上では多少の差はあるが、本質的にはほとんど同じ
問題をかかげて、しかもカントと同様にこれらの問題に対しては何らの解答も与えられない、
と言うのである。したがって形而上学批判に関しては初期仏教はカントの批判哲学と本質的に
一致するのであり、哲学上は一種の批判主義である。」 座禅の入門書
・『禅を楽しむ本 』 ひろさちや (2008)
・『禅 ―心と体が綺麗になる坐り方』 池田書店編集部 (2004)
巻末には、参禅できる全国のお寺の一覧もある。 座禅や瞑想は、ちゃんとしたところで教わるのがいい。 800。.坐禅、瞑想は、悟れないバカがすることである。 http://www.hikari-k.ed.jp/zenchoji/houwa/houwa2508.htm
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/LB-zen-14.html
「糞かきベラ」
ある僧が、雲門文偃(うんもんぶんえん)に尋ねた。
「仏というのは、どんなものですか?」
「糞をかき取るヘラだ!」
−無門関−[第21則]
http://www.rinnou.net/cont_04/myoshin/2012-11b.html
禅の修行の中で大切な禅問答の中に、「仏とは何ですか?」と問うものがあります。
それに対し「乾屎*」と答える所があります。この「乾屎*(かんしけつ)」とは、
「糞かきべら」または「糞(排泄物)」そのものを指しております。
…
皆様も今日からトイレに行く度に「仏様に出会う」という心を持ってみては如何でしょうか。 悟るという抽象的で一般化できない現象を他人に対して訴えるべきではないね
大乗仏教は誤りで仏教とは鉄塔鉄扉、自己内省的な取り組み 804.糞をかき取るヘラ、か。
糞をかき取る、と綺麗になる、という問題である。 糞123師をかき取る、とスレが綺麗になる、という問題である。 「老子」 第十六章(抜粋)
致虚極、守静篤。
万物並作、吾以観復。
虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。
万物並び作(おこ)れども、吾は以て復るを観る。
心を出来る限り空虚にし、深い静けさをしっかりと守る。
すると、万物はあまねく生じるが、わたしには、それらが元に返っていくのがみてとれる。 仏典の内容が『老子』と似ているのは、
老子が天竺に赴き釈迦を教化したからであるとか、
釈迦とは西に出た老子その人であるなどといった、「老子化胡説」というのもある。 シュレーディンガーやハイゼンベルク、ニールス・ボーアなどの原子物理学者は
ブッダや老荘を読んでいた。
「われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、
大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある
我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」 (ニールス・ボーア Wikiより) “本書を執筆するきっかけとなったのは、五年前のある美しい体験である。
夏も終わりに近いある午後、海辺に腰をおろし寄せくる波を見つめながら、わたしは自分の呼吸のリズムを感じていた。
と、その時、とりまくすべてが壮大なコズミック・ダンスを舞っていることに気がついた。
まわりの砂や岩、海や空気が振動する分子あるいは原子で構成されていること。
その分子や原子が粒子からなりたち、たがいに他の粒子を生成、消滅させつつ相互作用していること。[略]
また、地球の大気には「宇宙線」(コズミック・レイ)が絶えず降り注いでいて、
高エネルギ−粒子である宇宙線が大気に突入する時に、衝突を無数に繰り返している…”
― フリッチョフ・カプラ 『タオ自然学』 (1979) >>815
仏教…原始仏教と大乗仏教、禅、華厳
中国…老荘、易経、淮南子
印度…ヒンドゥー、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター
これぐらいの話が読み分けられている。 鍵概念は「万物の合一性 the unity of all things」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています